柳くんは自主的に見た




蓄積された情報は、時として対象者本人の言葉よりも雄弁に真実を語る。
データ収集に苦も楽もないが、己の中の履歴と現在を照らし合わせ、身近な人間が変化する兆しを察するのは非常に興味深い事だった。
殊更中学生活のほとんどを共にしたテニス部の連中が、となるとより気を引かれる。
強い友情を感じてだとか心配してだとか、凡そ似合わぬ感傷が所以ではない、良く知る者の知らない一面、という状況が好奇心を刺激するのだ。


何かにつけ精市といる場面を目撃し、彼が気安い口調で話しかける稀な人物と本格的に接触したのは十月に突入して間もない頃である。
放課後、ノートやプリントを抱えうんざりした面持ちで職員室に入って来たり、廊下で教師と何事か話している姿を見かけていたので元より知らぬ顔ではなかった。
生徒会で使う資料をコピーする為訪れた印刷室。
業務用のコピー機の前に屈んだ先客の背から、困っています、という類いのアナウンスでも流れかねない空気が漂っている。
会話らしい会話をした覚えはないというに、何の抵抗もなく声をかけたのは他ならぬ精市の所為だ。

「用紙切れか?」

問えば、振り仰ぐ目とかち合う。
実に素早い反応だった。

「多分そうだと思うんだけど。あ、ごめんなさい、もしかしてコピー機使う?」

慌てた様子で立ち上がった彼女は、大して知らない人間に話しかけられた事を気にも留めず、プリントをひったくるようにして掴みかけ、いや待て、と俺の制止に馬鹿正直に腕の動きを止める。

「俺の方は、別に急ぎではない。それより、紙が切れているのならば補充をしよう」

用紙のサイズを尋ねれば、なんかA4っぽい、と曖昧な答えを寄越して来た。
入り口付近から足を進め、コピー機の操作画面で確かめると間違ってはいない。
そのままの足取りで壁際の棚まで行き、真新しい匂いのする用紙を引っ張り出す。
こちらの挙動を見守るような姿勢である彼女の横で、空のトレイに紙の束を詰めていく。閉めると同時に物々しい機械音を立て、ほんの数十秒後には電子の画面に、印刷が可能です、の文字が浮かび上がった。

「ありがとう、柳くん」

小さな一仕事を終え息をつく前に少々驚かされる。
同じクラスではないし、顔を記憶しているとは言え挨拶さえ交わした事もないのだ、まさか名前を知られているとは予想していなかった。

「え、あれ、柳くんで合ってるよね?」

黙り込んだ俺の胸中を量り間違えたらしい彼女が、礼を口にした時の笑顔を消し、焦りを垣間見せる。
僅かな呼気が唇から漏れた。

「いや、すまない。合っている。名前を知られている事に驚いただけだ」

ああ、なるほど。
声に出ていないが、顔にはっきり出ている。
それから彼女は納得した、とばかりに軽く頷いた。

「えーと私、幸村くんとクラスが一緒で、といいます。たまにテニス部の話とか聞くからそれで名前知ってて」

やや危うい説明だが情報量としては充分である、今度は俺の方が納得する番だった。

「そうか。精市とよく話している所を見るに、クラスメイトだろうとは思っていたが…」
「よく? 普通じゃない?」
「何かと会話中に割り込む機会が多いからな、そういった印象なんだ。毎回、邪魔をしてすまない」
「いやぜんっぜん大丈夫。大抵どうでもいい話しかしてないから」
「……どうでもいい、か」
「うん。立ち話っていうか世間話っていうか、そんな感じ」

話を継続しつつ、は手早く原稿をセットしコピーを開始させた。受け取り口に積み重なっていく出来立てのプリントと、比例するように俺の興味も膨れ上がる。

「いつでも出来る話だもん。テニス部の連絡事項の方が大事だろうし、気にしないで」

良くも悪くも目立つ精市の近くにいて、こうも執着せずあけすけな女子も珍しい。
単なるクラスメイトであればもっと緊張するであろうし、幾許か関係の進んだ友人だとしたら他人事のようにどうでもいい話、等と言わないだろう。
の慣れ親しんだ口調からは、ある種の距離の近さが感じられた。

が気にせずとも、精市は気にするかもしれないぞ」

本人がこの場に居合わせていないのを良い事に、常に比べると些か不用意な賭けに出る。コピー機は無尽蔵に次から次へと紙を吐き続け、静かな室内に動作音を響かせていた。

「幸村くんが? なんで?」

ふむ、と心の中で相槌を打つ。
あまりにも飾らない、本当に素の言葉だ。
どうやら彼女は、適当に濁すだとか話を逸らすだとかいった話術を用いない人物のようである。

「そんな事気にする人じゃなくない? 私と話してるとこ遮られても、いつも普通だよ」

加えて、人の機微を看破する能力もそこそこ持っているらしい。
成る程、またもや心中で独りごちる。
ノートに書き連ねるのと同様、数々の情報を噛み砕き丁寧に並べていった。

「…確かに、そうだな。怒りといったような負の感情を、あまり表に出すタイプではないからな」

ただしテニスコートの内では別だ、とは言わなかった。余計な事を付け加え、の感情に変化が表れては意味がないし、神の子のお叱りも出来れば受けたくない。
自分としてはぎりぎりの部分まで迫った一声だったのだが、

「うん。幸村くん、いい人だよね」

予想を遥かに上回るものが投げ寄越され、不覚にも言葉を詰まらせてしまった。
誤解を生まない為に述べておくが、精市自身が賛美を受けるに値していない人物、という意味で一瞬の自失に陥ったわけではなく、すごい、怖い、かっこいい、強い、等々の賞賛を浴びる事はあっても、それら全てを差し置き、先んじていい人であると口にする者はそうそういないからだ。
静寂に包まれた空気の中、が不思議そうに小首を傾げて言った。

「もしかして、部活中は怖い人?」

これは手強い質問である。
率直過ぎて、返答に困った。

「厳しくはある、とだけ言っておこう」
「ああ…うん……。なんとなく、わかった」

あえて聞きません、といった調子でがコピーされ尽くした用紙を束ね整え始める。

「でも何考えてるか予測するの難しいよね、幸村くんって。怒ってるけど怒ってない時とかあるし」

ふむ、と感嘆の声が堪えきれずに音になってしまう。
相手がテニス部の勘の鋭い連中ならば突っ込まれている所だが、生憎目の前の女子生徒は気づいていない。
彼の者は手ずから育て、愛情を注ぐ庭の花々にさえ、時と場合によっては厳しく接する。
果たして彼女はそのレベルに達しているのか、いないのか。
掻き集めたデータにより成り立っている、己の脳裏にある彼の印象と、が話す人物像はちぐはぐで、何処か噛みあっていない、その差異に解が隠されている気がした。
どちらにせよ稀有な事態だと思う。
彼女の言葉の裏に精市の真意が見え隠れしている所為で、二人の人物と会話をしている気分だ。
トン、と机に紙の束がぶつかる音が鼓膜を揺らし、衝撃で思考の淵から引き戻される。

「待たせちゃってごめんね。私の分は終わったから、柳くん使って下さい。用紙補給してくれて、ありがとう」

機械とか全然ダメで。助かったよ。
何のてらいもなく感謝を述べるが笑うのを見、俺はどういうわけか、上機嫌な精市が口の端へ浮かべるそれを思い出していた。
最近では、ある一定の決まった人物と話している時、結構な頻度で見かける穏やかな表情だ。
染み付いた習慣だろうか、頭の中で勝手に数式が紡ぎあげられていく途で、とうとう存在しないはずの声まで聞こえてくる。

わかったかい? 柳。

想像上の精市に、ああ、よくわかった、とすぐさま答えてみせれば、まぼろしの微笑が深まる。
表情を変えずにを見送るのは、なかなか骨が折れた。



大きな変異点が前触れもなく顕れたのは、今年も残す所あと5日と終わりが差し迫った師走の事である。
窓の外はとうに暗くなり、人工的な明かりが降り注ぐ部室内、帰宅部あたりの者が目の当たりにすれば、物好き、と評する事だろう、飽きもせず部活に顔を出す面々の前で誰しもが捨て置けない話題が投下されたのだ。

「幸村君さぁ、彼女できたってマジ?」

丸井の唐突且つ直球が過ぎる問いに、隣で着替えていたジャッカルはぎょっとした表情のまま動きを止める。同時に、シャツのボタンを留めていた俺の指も固まった。
有り体に言えば、我が部のレギュラー陣は女子生徒に人気がある。
この際あえて本人達の中身や人となり等々は別にして、全国大会に三年連続で出場している運動部となれば注目を浴びるのは至極当然だ。
身に受ける賛美や好意に興味を持つ者もいれば、まるで関心を示さない者もいる。
反応は実に多種多様で、個人の思想はまとまる事を知らないのだが、ただ一人厳格を背負って生きているような男以外の皆に共通しているのは、自己の問題はさておきチームメイトの色恋沙汰に敏感だという点であった。
無論、全員がわかりやすく顔に出し、内心を隠さず話題に食いつくわけではなく、必要以上に踏み込まぬよう心がけたり、知らぬ存じぬといった風体でさらっと重要な情報だけを摘んでいったり、触らぬ神に崇りなしと避けたり、表面上は一致していない。
だが一切の興味を抱かない者が存在する確率は限りなく零に近いだろう。
そのように様々な土台の上へ急に降って湧いた話のタネが、事もあろうに神の子なる異名を持つ幸村精市その人に由来するもので、非科学的にも自分の耳を疑った。
二ヶ月前、十月、印刷室、、幸村くんはいい人。
断片的なデータがデータを呼び、連鎖を起こして穴を埋めていくよう繋がり合っていく。
他人の事情に首を突っ込み過ぎるのは良くない事だとわかってはいても自制は難しい。
俺の微かな葛藤などお構いなしに、丸井が平然と続ける。
最近クラスの奴に聞かれんだけど。よく一緒にいる女子いんじゃん。あの子?
矢継ぎ早に質すのは、最終下校時刻を越した訳を説明しに職員室へ向かったっきり不在である、たるんどる、が口癖の人物が姿を現す前に終わらせたい話題だからである。
弦一郎がいれば彼女のかの字を口にした時点で打ち切られる可能性が高い。
丸井ほど級友に尋ねられる回数は多くないが、俺にも些か聞き覚えのある噂で、彼が指す『よく一緒にいる女子』には心当たりがあった。
コピー機の前に座り込んで途方に暮れていた、会話している最中に俺やテニス部の誰かが止む無く割って入れば慌てて席を外そうとし、しかし結局はなんだかんだで精市に引き止められて困惑している、あの女子生徒だ。
思わず聞き返しそうになる位の驚愕は、渦中の人物と浮いた話が結び付かないからではなく、他人を注視するきらいのある自分のみならまだしも、丸井や他クラスの者にまで悟られている事態が出所だった。
柔和な笑顔をたずさえつつ、腹の底を見せない男が、無策に自らの手の内を明かすだろうか。
けして短くない付き合いの中で得たデータの数々と、精市が周囲に気取られるような挙動をとった事が、上手く重なり合わない。秋口に感じた違和が再び去来する。
俺もまだまだだな。
自戒しながら、妙な空気が立ち込める室内の動向に気を張り巡らせた。
皆が答えを待っていた。
引退したとはいえ切れた糸のようテニスと離れるわけではない、依然として戻らない弦一郎以外の三年生元レギュラーと、現レギュラーたる赤也の全員が奇しくも揃う中で、精市がいつもの笑みを供に柔らかく諭す声音で言う。

「ああ、? 違うよ、あの子は彼女じゃない。友達」

今度は驚愕まではいかなかったものの、それなりに感嘆する。
大した必要性もないだろうにわざわざ名前を出し、加えてクラスメイトと言わずに友達、と来てはネクタイを締める指にも力が入るというものだ。
らしくない物言いに何か感じる所があったのか、丸井と赤也の二人が投げる騒がしい質問は攻勢を極めた。
どんな子。なんの話してんスか。いつから友達。練習見に来たことある人なんですか。つーか幸村君が一人の女子だけと話してんの珍しくね?
留まる事を知らない言の葉の激流に、おいおいとジャッカルが呆れ、その辺にしておきたまえと嗜めるのは柳生だ。
残る仁王はそ知らぬ顔で雑誌に目を向けているが、詐欺師と呼ばれる男を簡単に信用してはならない。ここまで面白い――ではなかった、興味をひく話題もそうないだろう。
部員達の悲喜こもごもを見透かしたように、皆の視線を集めた精市は一瞬で沸いた部室内の雰囲気を叩き落した。

「そうだね。どんな子かっていうと赤也から乱雑さと赤目とテニスと集中力と品のない言葉遣いと暴力的な所をなくしたみたいな子かな」

息継ぎもせず言い切り、鮮やかな牽制を終える。
たった一声である者を萎えさせ、また別の者の興味を失わせ、浮わついた空気をも落胆させてみせた。見事である。俺は内心、拍手を送った。
どういう意味っスか! とひどく憤慨する赤也とこの場にいない彼女の名誉の為に説明すると、実際の人間性など些末事、さして問題でないのだ。
つまり真意が必ずしも言葉に添うものとは限らない。
重要なのはどういう意図で発したのか、一点に尽きる。
チームメイトの彼女かもしれない相手を後輩の男子に例えられ、より興味を持って食いつくような男は相当の物好きであろう。
身近な同性がもし女だったら、等と強制的にえげつない想像をさせられては、もういいやなんか聞きたくない、と言わざるを得ない。
現に丸井は肩を落とし見るからに脱力していた。ここで前のめりになるのは、余程の怖いもの知らずか探求心を抑えられぬかのどちらかだ。まあ、俺と仁王の事なんだが。
意中の女性と言う段階であるか否かは謎だが、それにしたって友達と評する程度には特別な、異性の友人。
様々を加味すれば、精市の言い草は辛辣に過ぎると思った。
一般的観点から考えるとなると、己の特別な人を周囲に悪く取られたくないのが当たり前だろうに、彼は全く逆をゆく。
成る程、自分一人が良さを理解しているのなら周りは関係ない、というタイプか。
確立されていく方向性を見定めつつロッカーの扉を静かに閉めた所で、耳から頬に当てられている視線に気が付いた。 応答すると、腹に秘めるものからは到底考えつかない、たおやかな微笑がこちらを向いている。なかなか鋭いね、その通りだよ。言葉に非ず、無言の肯定を受けた気がした。
何しろ形にならない応酬なので、錯覚だと言われればそれまでだがしかし、重ねて来たデータは嘘を吐かない。

「弦一郎の様子を見て来よう。まだ時間がかかるようならば、鍵を預かってくる」
「ああ、頼んだよ」

精市が常と変わらぬ微笑みの内に何処か苦さが薫る感情を混ぜて来、いよいよもって変異を肌で感じる破目と相成った。



三度目の冬の部室で投下された話題の余波が押し寄せたのは、年が明けて初めてラケットを握った日の宵である。
前もって連絡をしたわけでも打ち合わせをしたわけでもないのだが、皆して揃ってしまい、下級生を率いていく立場となった赤也の泣き言を潰してやっていたら、いつの間にか日が暮れていた。
某元レギュラーが、腹減った、と呟いたのを発端に、どういうわけだか雁首揃えて腹ごしらえに行く流れとなり、部室の鍵を閉めている赤也のすぐ後ろで弦一郎が低く唸る。
丁度良い機会だ、お前のそのたるんだ根性と生活態度を叩き直してやる。
勘弁して下さいよ、等という情けない悲鳴が上がった瞬間、部室棟横の茂みから小さな影が飛び出した。
いくら照明があるとはいえ冬の夜は暗く、すぐには反応が出来ない。
心許ないライトがしなやかな肢体を照らして、宵闇に浮かび上がらせている。
猫だ。
不可思議な間が辺りを支配し、闇より黒いそれは弦一郎を凝視したかと思えば、持ち前の反射神経で元来た方角へ駆けて消えた。
天敵と見定められた人物がラケットバッグを背負い直し、

「……少し見て来る。先に行っていろ」

とだけ言い置き猫の後を追って行って、引き止める暇もない迅速な行動に赤也は棒立ちで取り残されている。
野良猫については生徒会の管轄だったはずだが、という俺の言葉は、風紀委員にも届出がありましたから、柳生によって返された。
見に行った所で捕まえられる可能性は高まりなどしないのだが、止める者は一人としていない。無駄だとよく理解しているからだ。
誰が先陣を切るでもなく、皆の足がそろそろとその場から徐々に離れ始めて、水分を含まない空気が頬を掠める。
横一列にはならない並びの中で、吐く息と同じだけ白い髪の持ち主が声を落とした。

「神経質やのう」

彼のやや斜め後ろを歩く柳生は呟きを聞き漏らさず、眼鏡のブリッジを押し上げながら嗜める。

「実際、園芸部の方が被害に合われていますので、過敏という事はないでしょう。幸村君も嘆いていた花壇の話…お忘れですか、仁王君」
「プリ」

コートのポケットに手を突っ込み走り寄ってきた赤也が、自分の名が出たにも関わらず特に口を挟まない精市に向かって口を開いた。

「花壇にいる時とか、猫見ました?」
「いや、見かけていないよ」
「あの猫は人目を掻い潜るのが上手いようだからな。精市が見た事すらないのなら、弦一郎に捕まえられるはずもあるまい」
「フフ…真田には悪いけど、褒め言葉として受け取っておこうかな」

半月型の微笑みに、師走に浮かんでいた躊躇いの色は見えない。
データ整理に思考を取られた俺の耳に、人気のない敷地内で喧しく響くやり取りが飛び込んでくる。

「校内でよく見るってことは、餌付けしてるヤツでもいるんスかね? 俺犬より猫のが頭いいイメージだったけど、馬鹿の一つ覚えみたいにその辺うろうろしてんじゃ猫も大した事ないッスね!」
「真田の姿見てソッコー逃げんだから、オメーよりは頭いいだろぃ」
「ちょ、猫と比べないでくださいよ! 大体食いモンくれるヤツは全員いいヤツとか言ってる丸井先輩に、頭いいとか悪いとか言われたくないッス!」
「んだとテメエ赤く染めてやんぞコラ」
「おいよせよ……道の真ん中で……」

子供のするそれのように喧嘩半分のじゃれ合いを始める二人には、ジャッカルの落ち着いた仲裁など効きはしない。赤也の尻に軽い蹴りが入り、丸井の膨らませたガムは弾けて萎む。弦一郎がいれば一喝するであろう騒がしさを上手くかわした仁王は、表情を変えず双眸のみを静かに光らせて神の子へ問いかけ始めた。

「しっかし、意外じゃの。幸村なら猫の一匹くらいどうにか出来るもんやと思っちょった」
「どうにかって、例えば?」
「手なずけて、どうにでも。お前さんなら簡単じゃろ」
「あはは、それは無理かな。好かれないしね、俺」
「ほー」
「どういうわけか、優しくすればするほど逃げられるんだ」
「難儀な話じゃ」
「難儀な話なんだよ」
「懐かれたかったら、悟られんよう気をつけんしゃい」
「……へえ?」
「好かれようっちゅー魂胆が見え見えだと近寄ってこん」
「それは君の体験談かい」
「お前さん、詐欺師の言い分信じるんか?」
「うーん、どうだろうね」
「ま、それが無理ならいっそはっきり言うた方がええ」
「フフ、怖くないから近くにおいでって?」
「そうやの」
「そう簡単にはいかないな。嫌われたら困るし」

ほう。
俺と仁王が漏らした感嘆符は、間違いなく心からのものである。
この場面で同じ声音と発した俺達に、精市は言葉もなく、ただ笑っている。つくづく侮れない男だ。
羽交い絞め状態だった赤也が丸井の傍若無人な腕の拘束から抜け出し、ニ、三咳き込みながら目を瞬かせる。

「アレ、二人とも猫好きなんすか?」

意外にもこちらの話を聞いていたらしい。
だが読み取るものの浅さに、まだ教えるべき事が多いな、と若干微笑ましく思った。

「俺は特に好き嫌いせんタイプやき」
「どっちかっていうと犬派なんだ」

本意をなかなか悟らせない両者が相手では、かなり分が悪い。
奇妙な間が空き、沈黙が走る。
赤也は怪訝そうに眉間に皺を寄せて、後方へ首を傾けて言う。

「………猫の話じゃなかったんスか、ジャッカル先輩」
「俺かよ! 知らねぇって、そんなの」
「……仁王君、やけに実感のこもったお話でしたが、もしかして君が餌付けしているのではないでしょうね」
「ピヨ」
「あー! もー!! マジ腹減ったーしぬー真田おっせーなんかおごれー」

方々であがった訴えの数々により、その場から猫の影は消え去ったが、俺の胸中には微かなしこりが残った。
取り除くべく皆の騒ぎに耳を傾けつつ、今となっては膨大な量のデータを引き出し、重なり合わせ、繋げていく。情報は一つ一つ紡いでこそ確立されるものなのだ。
そうして導き出される数式と答えは、凡そ彼の人物と結び付かないものだった。
精市は攻めあぐねている。
加えて、恐れてもいる。
信じ難い結論であった。しかしそれ以外今冬の異変に相応しく当てはまる理由は存在していない、言葉にしてみると俺自身も多大なる違和感を抱くのだが、致し方ない事である。おまけに分かりにくいとはいえ周囲に現状を漏らすのだから相当だ。
猫は暗喩でしかない。
神の子とまで称される男が、たった一人の女子に窮していた。
俺は苦味を含み困りながらも笑う精市の顔を脳裏に浮かべ、チームメイトの幸福の為に尽くすべき手を探し出そうとし、すぐに取り止める。そこまで立ち入られるのを精市は嫌うだろう。
暢気そうに見えたも、友人ではない、単に同学年に籍を置く生徒でしかない俺がある日突然接触を図ってきたら不審に思うかもしれない。データ採取を心掛ける身としても友人としても、それは避けたかった。
やがて弦一郎が手ぶらで合流して、しびれを切らした丸井に文句を言われ、成果はなしかいと精市にも突っ込まれた後予定通り間食と言うには重い食事をし、腹は膨れたが思考回路の飢えは満たされぬままに終わる。

かつえる脳が視野を広げよとしきりに訴えるので、三学期が始まってから時折、しっかりと確信を持ちを観察させて貰ったが、秋口とは些か様子が違うように思えた。
印刷室で幾度か会う度、コピーが仕上がるまでの時間参考書や単語帳を熱心に読みふけっており、名前を知った頃の明朗さを何処かに隠してしまっていた。
何気ない会話の最中、精市の名があがれば僅かに狼狽する。
いい人、とはもう口にしない。
周囲との関わりを避けている傾向すら見せる。
その様子を一言で表すのであれば、困っている、といった所だろうか。
――彼女の面影にどこかの誰かの微笑みが重なった。
そうか、と息をつく。
二人は似ているようで対照的だ。
元々共通点が多かったのか、接触が増えるにつれ行く先を共にしていったのか、実に興味を引かれる部分であるが、好奇心を抑えられなかったが為に馬に蹴られたくはない。
廊下の端や昇降口で目にした、それでも尚悠然と構える精市と、俯きかけても会話を諦めないの両名に、俺は心の隅で進展と祝福を祈った。



バレンタインのチョコ獲得数で驚異的な平均値を叩き出していた元主将が、直接手渡しされるものを丁重に断り数多の女子を泣かせ、抱える紙袋の数が去年よりぐんと減った割にやたらと上機嫌だった日の翌日である。
目出度く全員の進路が決定したのを祝して焼肉に行く事となり、皆と顔を突き合わせた放課後、数々の異変に終止符が打たれる時が来たのを知った。
立ち尽くすとベンチに腰を下ろす精市は、こういった時でも変わらず対照だと思う。
笑顔を衣に色々と隠す彼にしては珍しく決意の理由があまりにも単純明快に読めたので、便乗して捻りもなく、力さえ持たぬ言葉を贈ってやると、強かな微笑みと軽い一驚の対比が返される。俺は笑いそうになるのをどうにか堪えた。
空気の読めない弦一郎を回収し何事かと待ち構えているチームメイト達に掻い摘んで説明すれば、え!? だの、ほう、だの、そういう事でしたか、だのデータ通りに纏まり知らずな反応が次々耳に入る。
声などまるで届かない遠目からでも、が無謀にも、いや果敢に挑む姿勢を見せているのがわかった。
引いては押し、押しては引く攻防戦の果てに、二人の距離が縮まる。
先程から精市は微動だにしていない。
上擦っていたの肩がゆるゆると落ちた。
気の毒にも頬を真っ赤に染めた彼女は観念したかのようにそっと頷き、精市の横顔が至上の笑みをかたどる。
瞬間、元テニス部部員は思い思いに祝福を捧げ、弦一郎ただ一人がたるんどる、と帽子の鍔を直しながら小さく憤慨していた。
それまで静観するに徹していた仁王が呟く。

「………幸村は鬼じゃ」

俺もそう思う。
しかし我を失いかける程の想いを成就させたチームメイトを、祝わないわけにはいかない。
手始めにすべき事は、と携帯電話を取り出せば着信履歴に見慣れた名が連なっていた。
時間も差し迫っているので素早くかけ直せば、2コール鳴り終わらぬ内に呼び出し音が切れる。

『あーっ、やっとつかまった! もー誰に電話しても出ないんスもん! 先輩たち今どこにいるんですか!?』

通話音量を小さめに設定しているにも関わらず、赤也の声はよく響く。

「ああ、すまない。少し所用があってな」
『なんすか、しょようって』
「気にするな、今済んだ」
『…ま、いーすけど。で、俺部室のあたりで待ってりゃいんですよね?』
「そうだな。ところで赤也、今更すべき助言でもないが、今日だけは精市に逆らわないでおいた方が良いぞ。心しておけ」

即座に騒がしさが沈黙し、電話の向こうで風の吹く音がする。

『……………はァ?』

顔つきまで手に取るようわかる間の抜けた音に、遂に堪え切れず声を出して笑った。
ちょ、何笑ってんスか、赤也が叫ぶ。

「おーいゆっきむらくーん! 空気の読めねえ真田が早く来いってさー!」
「何!? 待て、俺はそのような事言っておらん!」
「顔に出とったら、もう言ってるようなもんじゃろ」
「……つーかずっと見てた時点で、俺ら全員空気読めてないんじゃねぇか…?」
「……後で彼女に謝らなくてはいけませんね」

精市はこの上なく良い笑顔だ。今冬一番と言っても過言ではない。
立ち上がり、しきりに恥らうの手を引っ張って歩き始め、迎える野次馬共がふざけて囃し立てた。
春と呼ぶにはまだ早い、薄青い空へ俺達の喧騒は溶けてゆく。