already 草木も眠る丑三つ時、まではいかないが 、夜と言って何ら問題ない時刻である。 嫌な湿気を引き連れた雨は三日と続き、週間天気予報も今週いっぱい冴えないマークを並べている六月、僅かな晴れ間を縫うようなタイミングで電話をかけてくる精市くんは私にとって気象予報士以上の存在だ。一体何を見て今日の空模様を把握しているのか是非知りたい所だが、今すべき問いではないので自重した。 あたりを照らしてくれる灯りの類いは存在しない。 雲が月を隠し、この時期独特の生温さを孕んだ風に揺られた木々は不気味にざわめく。 ひょっとしたら見てはいけないものでも出てきそうな雰囲気満点の暗闇に沈む神社で、私は祈る人をただただ眺めていた。 率直に言って、怖い。 ※ 『お礼参りに行きたいんだけど、付き合ってくれるかい』 夕食を終えそろそろお風呂にでも入ろうかなとのんびり考え始めた頃にやって来た、かの人からの電話はいつになく突拍子のないものであった。真意が理解出来ずに脊髄反射で聞き返すより早く、脳内で疑問が浮かぶ。 それは……討ち入り的な意味で? 『ほら、正月初詣に行った。の家の近くの神社』 混乱極まる私を一人置き去りにし、電子音の混ざる声は通った響きのまま鼓膜を揺する。 地区大会が始まって忙しくないわけがない彼からの連絡に浸る暇も与えられず、矢のような言葉は次々飛んできた。 『というか、実は今、初詣の時に待ち合わせたバス停にいるんだよね。、夕御飯は食べた? だったら迎えに来てよ。待ってるからさ』 何の気なしに飲み込みかけた唾が変な所へ引っ込んで、私は噎せそうになった。 元からこちらの都合などお構いなしなら、どうして第一声を疑問系にするのだろう。相変わらずわけがわからない。 妙に詰まった喉に気を取られ、うんともすんとも言えないでいると、ともすれば暢気にさえ聞こえる声色で精市くんが更に続ける。 『今なら雨も降っていないし、チャンスだと思うけど』 なんの。 『梅雨の晴れ間は短いっていうからね、早く来ないとずぶ濡れになるかもしれない』 軽く脅されている。 『もうだいぶ暗いだろ? 道がよくわからなくて、ちょっと不安なんだ』 絶対に嘘だ。 『それに、一人だと暇でさ』 私は暇つぶしなのか。 『頼んだよ、』 「ちょ」 っと待って、ようやく唇が紡いだ声は相手に届かず虚空へ消えた。 耳にはツーツー、とお馴染みの無機質な音だけが響いてくる。ここで切るとか普通じゃない。 一方的過ぎるあまりの急展開にしばし呆然とし、それから何かのスイッチが入ったみたいにパッと壁時計を視界に映して立ち上がる。 膝が真っ直ぐ伸びた所で、どんくさく今更の文句が転がり落ちた。 「もうなんなの!」 憤っても時既に遅し、後の祭りである。 悪態をつく口元と打って変わって、手足は実に従順に行動を開始した。足りない頭を精一杯回転させ、クローゼットの中から手ごろなトートバッグを引きずり出し、タオルと折り畳み傘を放り込む。万が一途中で雨が降ってきたとしても、我が立海が誇るテニスプレーヤーたる幸村精市を濡れ鼠にするわけにはいかない。 思いっきり部屋着だったから本当は着替えたかったのだけれど、彼の言い分を信じるとそんな時間はない、誤魔化しにパーカーを羽織る。 最低限の荷物を抱え階段を駆け下りて玄関を開けると同時に、奥のリビングにいた母親が階段は静かに下りなさい、とまるで教師のような注意を投げて寄越してきたが、申し訳ない事にきちんと聞く余裕はなかった。ごめんなさい。心の中だけで呟き、突っかけたスニーカーの踵を直しながら夜空を見上げれば、途切れた雲の隙間から薄く光る星が覗いている。 数分前に聞いた言葉通りの、紛れもない梅雨の晴れ間だった。 傘立てにあった500円のビニール傘を掴んで走り始める。 湿り気を帯びたアスファルトは外灯を鈍く反射し艶めいていた。 頭上の光の周りを、小さな蛾や小虫が飛び交う。吸う空気は夏草の香りだ、雨の季節を抜ければ熱い夏が来るだろう。 時たますれ違う車のヘッドライトに目が眩んで、思わず顔を顰めた。来ては遠ざかるエンジン音に何かを掻き消されそうなのが煩わしい。 情けなくも息が荒くなる頃に、バス停が視界の先に映り込んで来たがしかし、かの姿は存在しない。代わりに、少し手前の神社へ続く坂道の入り口あたりに、ぼんやりとした人影が見て取れた。 道がわからないとかやっぱり嘘だった。 両足の速度を上げて近寄り、綺麗な半円を描く唇がくっきりわかるようになったあたりで、ラケットバッグを引っ掛けた肩がおもむろに動く。 面差しの割にがたいの良い影へ辿り着く前に、私は口を開いた。 「来るなら、もっと、早く、言って!」 呼吸が切れ切れなお陰で、理不尽な行為に対する憤りはあまりスムーズに伝わらない。 だけれど運動不足な自分が悪いので、どこにも怒りを持っていけなかった。 必要以上に揺れる両の肩をどうにか落ち着かせようと深呼吸をし、伸びた影の前で足を止める。 一切合財を気にしていないらしい精市くんが、穏やかに笑う。 「ごめん、走らせちゃったね。お疲れ様」 瞬間、頬に冷たくて硬いものがぶつかった。 突然の温度に目を閉じてしまい、それから恐る恐るあげた瞼の向こうで、水気をたっぷり含んだ重い闇に浮かぶ笑顔がある。ちらと視線をずらせば、よく見かける青い缶が精市くんの掌の内で濡れて光っていて、いまいち状況が掴めぬまま両手でそれを受け取ると、見るからに重量のありそうなリストバンドをした手首がゆっくり離れた。 電話を切ってからそこまでの時間があったわけじゃないのに、一体どうやってポカリを買う暇なんか見繕ったのか、甚だ疑問だ。記憶が正確ならこの辺に自動販売機はなかった。 「ありがとう」 腑に落ちないからといって礼を欠いてはいけない、冬の後悔を繰り返すまいと感謝をすれば、眼前の笑みが益々深まった。 どうせお金を払うと言っても聞き入れてくれないのだろう、つくづく出来杉くんだと思う。 こうして気紛れみたいに施される甘やかしと人を振り回す我が侭、どちらか一方に比重が偏る事はないのがまたすごい所である。 神の子の天秤はひどく平らだ。彼の中では、すべての釣り合いがとれているのではないか。 有り難く頂いた缶を熱心に注視しながらそんなことを考えている内に、面白いものを見い出した猫のような瞳が揺らめく。 「飲まないの?」 ちょっと吹き出し気味の語尾が憎たらしい。 飲むよ。 簡潔に告げてプルタブを開け喉を潤した事で、初めて自らの渇きを知った。 走っている最中より、立ち止まっている今の方が蒸して暑く、パーカーの内側に熱が籠もっている。額の隅にじんわり浮く汗が気になって、精市くん用のタオルだけでなく自分の分も持ってくればよかった、軽く後悔する。いつまでもどこか抜けっぱなしの脳みそが残念でならない。 アルミの飲み口から唇を離し、気が付いた。 「あ、雨が降る前に行くんだよね? 普通に立ち止まって飲んじゃった、ごめん」 更にもう一つ、己の足りない部分を浮き彫りにする事実もおまけについてくる。 精市くんの右手には、しっかり傘がぶら下がっていたのだ。 梅雨時、優等生、よく当たる天気予報、三つ揃えた彼が傘を忘れるはずがない。 途端、トートバッグに入れた折り畳みが恥ずかしくなった。 空回りとはこの事だ、とも思った。 縮こまる背に、いつもの声音がかけられる。 「多分しばらくは降らないよ。気にしないで。けど、あんまり遅くまでを連れ回せないからね、そろそろ行こうか」 なんでわかるの。 遙か彼方の天空へ目を向けても、家を出た時と変わらない空があるだけだった。 同じものを見ているはずなのに、私と彼の瞳にどういった違いがあるのかわからぬまま、先行く人を追いかける。 蒸す夜は暗く、空気が湿り濁った。 肌に纏わりつく風の質量は春のそれとまるで違う様相で、少しばかり走っただけの私でこうも不快に感じるのなら、朝から晩まで部活に励むこの人はどれだけ、と想像してみたものの、暑さに屈して眉を歪める表情を脳裏で上手く再生する事が出来ない。 ついでにすごく似合わない状況だ。 いつだって、涼しい顔で切り抜けるのが彼の常のような気がした。 ※ 神の子のお告げは、問題ない、との事だったが、もし雨に降られたらポカリと傘で手が塞がってしまう。 それを避ける為に歩く途で飲み干した空き缶を公園のゴミ箱に捨て、一月と同じく小屋の外で通りすがりの私達に熱い視線を送ってくる犬の前を通過する。人の気配に敏感なのだろうか。 バス通りから少々横道に入っただけなのに、明かりは乏しく静寂が耳に痛い。 ぽつぽつと不連続に灯る家々を過ぎ、緑の増えてくる坂の終着まで来れば目的地はすぐそこだ。案内を頼んだわりに、精市くんの足取りはそんなもの必要としていないくらい確かだった。電話がかかって来た時からわかっていたし、いい加減慣れるべきだというもう一人の自分が打ち出す意見も理解出来るのだが、やはり納得がいかない。 傘の先がコンクリートを叩く。 滑る水気を踏む足裏は妙な感覚を覚えた。 今まで練習だったのかとか、地区大会はどうだとか、今年の梅雨は花壇にどんな影響を与えるだとかそういった話題で間を繋ぎ、鳥居をくぐって神社の境内の大きさにしては長い石段を上りきる。 踏み入れた一、二歩分、玉砂利が鳴ったところで、精市くんがいきなり歩みを止めた。 お参りには、あと数十歩足りていない。 疑問を払拭する為に私が唇を開いたのと、真っ直ぐこちらへ投げられる声が響いたのは、ほとんど一緒のタイミングだった。 「、高校生活はどう?」 唐突にも程がある質問に、開いた口が固まる。 「…………はい?」 やっと出てきた一声は非常に滑稽なものだったが、精市くんは構わずに笑っている。 そう、笑っているのだが、まともな回答以外許さないよ、という圧力をそれとなく感じた。 夜の内にある所為で、通常の三倍迫力がある。 「……ごめん、意味わかんない。もうちょっとあの、くだいて言って貰えると」 高校生らしからぬ威圧の前で、無力な私に出来る事といえば、なあなあに流さず素直な言葉を紡ぐのみだ。 頭の悪い返事にお叱りを受けても仕方なしとやや覚悟していたのだが、とりあえず正解だったのだろう、精市くんは柔らかい声色で続けた。 「そうだな、うまくいってる? 辛い事とか困ってる事とかないかい」 お悩み相談が始まった。 どういうつもりなのか、本当に、まったく、全然わからない。 私の理性はずっこけそうになり、脳内会議が混迷の色を濃くしてきた。 彼の問い掛けはしばらく会っていない親戚がしたのであればまだ頷けるが、仮にも付き合っている人に問われる類いのものではないはずだ。 突然立たされた境地に、先程までの不快指数も気にする余裕はなく、暑いだの涼しいだの訴える感覚が麻痺している。 戸惑いは失せなかったけれど黙っていたって埒が明かない、とにかく何か答えなければ、ぱくぱくと金魚のように開いては閉じる唇を必死に動かす。 「え…ええと……な、ない、と思う。うまくいってるかどうかはわかんないけど、急いで解決したい困り事とかはないよ。……たぶん?」 「そう」 それは何よりだ、言った彼はどことなく満足げだ。 親か。いや教師か。もうよくわからない。 バス通り、家の間を縫う道、静か過ぎる坂道、辿ってきた場所に比べうんと暗くなった敷地内だと顔の輪郭さえ危うく、黒々とした緑に溶けそうなものだが、何故か精市くんの表情だけは感じ取る事が可能だった。 間違いなく、笑みを浮かべている。 「じゃあ、俺とは」 そうして、一層混乱を深める言葉を手加減なしで打ち込んできた。 おそらく私は最高に怪訝な顔をしたのだろう、はは、と聞こえは実に爽やかな笑声を立てて付け加える。 「うまくいってる?」 ぽかんと大口を開けたくなる気持ちが数秒で訪れ呼吸をする間に去り、後はひたすら頭を抱えたくなった。 本気で意味がわからない。 からかわれているのか、はたまた真意を隠した謎かけなのか、どちらなのかどちらでもないのか、判断がつかなかった。 「……私、なんか試されてるの? これ抜き打ちテスト? たるんだ精神に活を入れる為の試験とか?」 「あれ、、たるんでるのかい」 「そりゃあ、精市くんとか真田くんとかテニス部の人たちに比べたらたるんでると思う……」 「フフ、比較対象そこなんだ。ずいぶん自分に厳しいね。大丈夫、はたるんでないよ。俺が保証してあげる」 「……どうもありがとう」 「どういたしまして。で、うまくいってる?」 「ごめんほんと意味わかんない」 即答し困惑を訴えても、眼前の人は構えをとかない。 さあお答え下さい、と一人壇上に立たされたあげく過剰なスポットライトを浴びた気分だ。 しかも制限時間なし。審査員席には笑顔の精市くん。 逃げられるわけがなかった。 頭の中で降伏するべき派が大勝したので、私はここ最近を必死に振り返り始める。 散会に慌しい脳内事情をなんとか隅へ追いやり、高校生になってからの日々をめぐり辿った。ケンカらしいケンカはしていないし、何しろ付き合っている人が並以上に忙しいものだから世間一般と比べれば会う時間は少ないけれど、文明の利器のおかげで会話が途絶える事もない。 お昼もよく一緒に過ごす。好きなものや嫌いなものも覚えてきた。ただガーデニングの面白さはまだよく理解出来ない。時折呆れるほどまめな精市くんに申し訳なくなる。 あなたの隣に立つ子は、私でいいの。 「……いってるって、言いたいな?」 「うん」 思考が路線を外れる一歩手前で断ちきろうと奮闘した所為で、はっきりとした問いに対してあやふやに答えてしまう。 しかし頼りないはずの言葉を、彼は笑って受け取った。たった二文字の応答に喜色さえ浮かべており、面食らった私は思わずごくりと息を呑んだ。 はたしてお気に召す回答だったのか、それきり問い質すのを止めた精市くんはさっと身を翻し、暗闇の境内へ向けて足を進めていく。 静まる辺りに玉砂利が擦れた響きがこだました。 遅れて慌てる私をよそに、注連縄の前で正しく伸びた背筋の奥からお賽銭箱にお金を入れた音がやって来る。次いで鈴が揺れ、律儀にも二礼二拍手一礼を守る人がそっと手を合わせていた。 何と声を出せばいいのかわからず、のろのろと後を追い辿り着けば、男のくせに凛とした横顔が梅雨のうざったい空気をものともしないで佇んでいる。 ぬるい風が吹き、水滴の残る葉がくぐもった音を立て、雨の残滓がばたばたぴちゃりと地に降った。 住宅街の真ん中だというに、やたら静かだ。 別に心の底から霊的なものを信じているわけではない私だが、それでもやはりこの雰囲気は怖い。 黙って手を合わせる彼も加わり、二つの意味で怖い。 落ち着かない足元に力を込めて空を仰ぐと、先程までは見え隠れしていた小さく微かな星たちが、ぶ厚い雲に遮られいなくなっていた。 膨張する闇の影響を受けて垂れ込めるそれは、確実に雨の気配を含んでいる。 いつまでお祈りしているんだろう、仰いでいた顎を戻すと目が合った。 私が空と睨めっこしている間、とっくにお礼参りとやらを済ませていたらしい精市くんが不敵な笑みを零す。 「大丈夫。降ってくるのはもう少し後だから」 どういう理屈で言ってるんだ。そもそも人の心を読まないで欲しい。 妙な汗で滑りそうになる傘の柄を、しっかり掴んで握り締めた。 石畳の上まで張り出す神社の屋根の下で、私は足を揃えつつ神の子を見据える。 「お礼参りって、なんのお礼参り?」 疑問を投げられた方は、変わらない笑顔である。 「忘れたの、。俺と二人で初詣に来たじゃないか」 「それは忘れてないけど」 「じゃあ何を忘れたんだい」 「…忘れたって言い出したのは私じゃなくて精市くんなんだけど」 「ふうん、覚えてないんだ」 「……また意味わかんないんだけど」 「あんなに俺の願い事を聞きたがってたのにね?」 はたと目を開いた瞬間、寒さに凍えた海辺が頭をよぎっていった。 不安に駆られた私がいつになく粘って尋ね、当時はいちクラスメイトに過ぎなかった私の変調を腹が立つくらい丁寧にかわす彼。 叶ったら願い事は言っても大丈夫。叶ったところで教えない。いつになったら大丈夫。いつかね。いつか? そう、いつか。 見遣れば、重たい空気など蹴散らすばかりの爽やかな微笑み。 彼は自分の教えたい事を教える時、子供みたいに目を輝かせる。 来るはずがないと思っていたいつかが、今訪れたというのだろうか。 「…いつかって、ただはぐらかされただけかと思ってた」 「ひどいなぁ。俺、そんなに薄情に見えるかい」 「薄情っていうか、私には話してくれるつもりないんだなって」 「なかったよ」 「……………」 「フフ、むくれないでくれ、仕方ないだろう? あの時はが俺の事をどう思っているのか、わからなかったんだからさ」 「何考えてるのか全然わかんないこの人って思ってた」 「それは俺も」 「……どれ?」 「が何を考えているのかわからなかった」 「…………」 「本当だって」 「今、そうやってしっかり人の心読んでおいて信じられると思う?」 「今だからわかるってだけだとは思わない?」 「思わない。精市くんは昔から、私が言おうとしてた事の二手、三手先を読んで喋ってた」 「すごいな、エスパーだ」 「いやいやあなたの事言ってるんですけど!」 段々わけのわからない問答になってきた。 つい乗っけられてしまう私であるが、微々たる成長はしてきたつもりだ、こんな風に混ぜっ返す精市くんは、からかって楽しんでいるか何かはぐらかしたい事があるかのどちらかなのだと心得ている。 境内から離れるのを全身で拒否しながら、ひたすら続きを待った。 そうして身構える私を見下ろす人が、いっそ明るい調子で言葉を落とす。 「まあそれはいいんだけどさ」 だったら初めから話題にするな。 思い切り突っ込みたい気持ちを堪える。 「願い事が叶ったら、お礼をしないといけないだろ?」 「え、叶ったの?」 「叶ったよ。たまには神頼みも悪くないね」 その微笑みは宣言通り、悪くない、といった柔らかさだ。つまり彼はなかなか上機嫌なのであった。 「そういうわけだから、お礼も兼ねて結果報告をしたかったんだ」 「……神様に?」 「神様に」 ここの神社、に教えてもらって良かったよ。 精市くんがゆっくり頷く。 神の子の口からこぼれる神様の一言は、常人のそれより何故か特別に聞こえた。 「お礼参りの理由はわかったんだけど、それとさっきの質問の意味が繋がんないよ」 馬鹿正直に問い掛けた私は言い切った後になって、よく吟味して口を開くべきだったと薄くではあるが後悔をしたけれど、相対する人は想定の範囲内だと訳知り顔で首を傾げた。 仕草にはやれやれ、みたいなニュアンスが含まれている気がする。 「言っただろう、結果報告だって」 「……精市くんの願い事結果報告と、私の高校生活にどんな関係が」 「むしろないと困るな」 私の眉と眉の間が怪訝に歪もうが、彼は相も変わらず笑顔でいる。 坂を上り尽くした先の神社だからか、階段の下、果ては下りきった道の始まりから生ぬるい風が吹き仰いで来、髪や服の裾をしっとりと掴んで揺らした。湿気の所為でちっとも涼しくない。今となってはおどろおどろしい葉擦れも、眼前の人が放つ存在感のおかげで掻き消えてしまっている。やはり神の子。 何が楽しいのか繋がらない欠片ばかりを悠然とばら撒く彼の真意を探るべく、私は足りない頭で一生懸命に今年の初めを思い出そうと試みた。 学業成就でもなく、合格祈願でもない。 けれど、高校に受かりますようにと祈った私の願いは叶うと言う。 彼の口ぶりからしてどうにも自分自身へ幸福があまねく降り注ぐ為の祈願というよりは、私が関係している可能性の方が高いらしい。 「精市くん、私の事をお願いしたの?」 再び後悔した。 考えなしに口を開くのはいけないと何度も己を戒めているはずだというに、どうしてこうも反省したそばから繰り返してしまうのだろう。 立海のスターをとっ捕まえて、私に関係する願い事だったんですか、率直に聞く等とはとんだ自意識過剰人間だ。たるんどる、と真田くんに一発殴られても仕方ない。あの人は女子に手をあげたりはしないだろうけれど、私の基準で考えれば重い拳一つ分くらいの罪はある気がした。 ごめんやっぱなんでもない。 打ち消すより先に、精市くんが揃いの瞳をやわらげて小首を傾ける。 「は本当に、思った事を平気でそのまま声に出しちゃうよね。俺、時々びっくりするよ」 嫌味か、と唇の真ん中が上を向き両端が下がったのでむくれた声色になってしまう。 「……ごめんなさいね、物事深く考えない直情人間で。どうせ頭足りてないよ」 「ついでに、俺の言った事もそのまま受け取る。ちっとも疑わないで、信じてばかりだ」 すぐ拗ねない、そこまで言ってないだろう、等々の嗜めを予想していたのに、話が明後日の方向へ飛んで些か混乱した。眉間の皺が薄れ、次々溢れる疑問に目を瞬かせる。 「ようするに私が馬鹿だって話?」 「いいや、君はいい子だなって話」 どこがどうなってそういった結論に至るのか、本気でわけがわからない。 一回りして褒め殺しによって馬鹿にされているのかもしれないと疑いもしたが、これ以上ないくらい穏やかな微笑みがすぐ傍にあるので、懸念に曇り始めた手前であっという間に晴れ渡った。 「自慢じゃないけど、別に私いい子じゃないよ。大体、友達にもそんなの言われないのに」 「じゃあ、俺だけのいい子だね」 「…お母さんにだって言われないし」 「代わりに俺が毎日言ってあげようか」 「遠慮します」 すげなく断られてもなんのその、精市くんは肩を揺らしながら楽しそうに笑う。 背景の黒色との境界線が曖昧になった頬は、平時より幾分柔らかに弧を描いている。 いつもはしっかり引き締まっているラインの緩みを目にして、ああ久しぶりだな、ひっそりと感慨に浸った。 「だからかな。たまに馬鹿馬鹿しくなるんだ」 私の胸中などお構いなしにひとしきり笑った彼が、なかなか放っておけない発言を転げ落としてくる。 やんわり染み込んでいくはずだった久しぶりの時間が足早に溶け消えた。 私以上に言いたい事だけを口ずさみ生きているよう見えるこの恋人は、甘い感傷に酔う事すら許してくれない。 固まった私の表情を察してか、続ける音色はひどく優しげに鼓膜を打った。 「一人であれこれ煩っていても仕方ないんじゃないかってさ。どうせ君の言葉ひとつで変わってしまうのに、真面目に考えてる俺はなんなんだろうね」 こっちの台詞だ、人を散々振り回したあげく夜の神社まで連れてきた張本人がよく言う。 本当はそう罵ってやりたかった。やわい音のくせして放るように投げやりな言い草へ向かって、文句の一つくらいぶつけてしまいたかった。 だが動かない。 焼けつき詰まった喉は、息を通すのがやっとだ。訳知れぬものが絡まって、舌の根を縛っている。 棒立ちの私を咎めず、殊更に微笑を深くする彼の前髪が微かに揺れた。 満面の笑みではない。 子供みたいな笑顔でもない。 瞳の真っ黒な円に淡い光が差し込んで、まどろむような滲み方だった。 「けど俺は、そういう君が好きだよ。と一緒にいると、すごく楽になれる」 一音一音をなぞり、辿って、確かめている口調に一瞬で体温が煮詰まった。 初めに首から上へ熱が集中し、やがて頬、それから耳や首の後ろにまで広がっていく。 当然向き合ってなどいられなかった目線がおずおずと下がる途で、裾からはみ出た自分の膝小僧が視界の端を掠め、顔より程遠い足の関節までもが赤く染まっている錯覚に陥る。 同時に、いくら急いでいたとはいえ酷い格好過ぎやしないか、と場違いな感想を抱いた。 履き古したスニーカー、ハーフパンツにTシャツ、誤魔化しにもなっていないパーカー。 今時小学生だって、もっときちんとした服装だろう。 場所といい、私の抜けた格好といい、一切のロマンチックを排除したシチュエーションだというのに、精市くんの声だけがいやに甘いから心臓が壊れそう。 息が苦しい。 安っぽいつくりのビニール傘を握る手につい力が籠もった。 「高校も一緒でよかった。敬虔な気持ちで手っ取り早く感謝をするなら、ここが一番いいと思ってね」 目に映らぬものを敬う旨を述べておきながら、即座の言葉で蹴落とすに似た真似をする。 まるで神様にお願いした事自体が不本意だと考えているみたいだ。 いつもはいき過ぎるくらいはっきり物事を断ずる彼の、あえて核心をつかない告白に胸を抉られた。 しかし傷口は丸く、血も出ない。 精市くんに想いを告げられる度、ついていく跡は優しかった。引っかくみたいな物言いをされたって、決してささくれ立ったりしない。優しければ優しいだけ強く心臓と肺を掴まれ、元々苦しかった息が余計に詰まって頭に酸素が回らなくなった。 不意に衣擦れの音がし、細めていた両目を広げると、 「私も。……とは言ってくれないの?」 屈んで曲げた膝の上に手を置いた精市くんが、泣いた子供を宥めるように穏やかな表情でこちらを見上げてきている。意味もなくとっさに鼻から口元にかけてを片手で覆う私は、やっとの思いで喉奥を震わせた。 「ど……どうやって、言えば……」 間抜けとはこの事だ。 酷い格好をした女子に酷い返答をされた彼は既にすべてを見通していたのか、驚く事なく目一杯吹き出した。 当然の反応だと思ったので腹は立たなかった。ただ、顔が熱くて困った。 おもむろに姿勢を正した精市くんが視線を外し、今さっきくぐってきた鳥居の方を向いて呟く。 雨だ。 つられて様子を窺えば事実、少し乾き始めていた玉砂利や石畳に辺り一面を包んでいた陰より暗い染みがぽつりぽつりと出来ていた。 心なしか風には水の匂いが混じり、纏わり付く湿気もぐんと膨れ上がっている。先刻、降ってくるのはもう少し後、神の子が口にした言葉は正しかったのだ。 天気予報士にでもなればいいんじゃないか、とわりと本気で考えたその時、頬に硬い指があたり死ぬほど驚いて肩を縮こまらせた。 余所見していた所為で、こちらに伸びる腕にまったく気付かずにいたらしい。 かの人の熱に畏怖した手首は口元から下り、鎖骨の前で固まる。 軽く見開いた瞳は精市くんの微笑みを反射し、柔らかに佇む人差し指は頬の曲線を離れ何かを横に払い、同時に私の唇からするりと抜けていく細い感触。 折からの風で吹かれた髪の毛を食べていた事にようやっと意識がいった。 「あ、ごめ…ん、ありがとう……」 比喩でなく、まるきり子供と一緒である。いつもなら恥じるべき場面なのだろうが、腑抜けた私の頭からは羞恥心が溶け落ちていた。精市くんは咎めず、からかいもせず、強い響きで言い切った。 「傘は?」 当たり前の質問に違和感を抱いたのは、声に籠もる色合いの為だった。 言葉の真下、薄皮一枚を隔てたところに流れる感情に私の神経が過敏に反応し、気を取られたおかげで返答がやや遅れてしまう。 「えっ? あ、うん、あるよ、持ってる」 掲げるビニール傘を横目に、会った時からぶら下げていたのになんで聞くんだろう、などと内心首を傾げていたら、長い指の付け根にマメが出来ては潰れたのを繰り返した跡のある掌が差し出され、今度は実際に視界を斜めにせざるを得なくなった。 一体なんの要求だ。 あの、と不審に満ちた声を投げつける前に、一層開かれた手が更に突き出される。 見返すと、変わらずたおやかな表情だ。 今夜はわけのわからない事続きだが、わからないなりに仮定をし、宙に浮いたままだった私の傘を手渡してみれば、しかと受け取って頂けた。 あ、合ってたんだ、息を吐くと同時に、もう一つあるだろう、出来の悪い教え子を問い質す調子で追われる。 「……もう一つ?」 「俺の傘が」 私の安っちい傘の柄と一緒に握っているものは、あなたの傘じゃないんですか。 声にはしなかったが、顔には出た。 察した様子の精市くんがゆっくり付け足してくれる。 「確かにこれは俺の傘だね。でも今言ったのは、が持ってきてくれた俺の傘があるだろう、って意味なんだけど」 すぐには思い当たらなかった。何を言ってるんだこの人は、と一瞬顔を顰めて、大袈裟に表現すると血の気が引いた。なくなっていた羞恥が出戻って来、再度頬に朱が差す。青くなったり赤くなったり、さぞかし面白い顔色だったのだろう、彼は唇をゆるく滲ませながら微笑んだ。 気圧されて、今更隠せるわけもないのにトートバッグごと背後ろへ回す。底の方にしまっていたはずなのに、どうしてバレたのかまったくもって謎である。 「いや、あの、これはその…精市くんが持ってるならいらないものだし」 「いるよ」 「い、いらないじゃんどう考えても」 「いるよ」 「いらないってば。いいよもう、私が早とちりして持ってきただけで、つまりは間違えちゃっただけなんだから気にしないで! 普通に自分で持って帰るから!」 「俺の為の傘なのに、必要か必要じゃないかをどうしてが決めるんだ。いるよ」 自分以外の誰かからの厚意や気遣いを、こうも我がままに取り扱う人が他に存在するだろうか。 持って来たのも傘の所有者も等しく私なのだから決めるのは私じゃないのか、抗う気持ちが腹でぐつぐつ煮えたが、梃子でも動きませんといった様相の精市くん相手では些か、いやかなり分が悪かった。 己の考えの足りなさや稚拙さを浮き彫りにされたようで、恥ずかしさの象徴でしかなかったバッグが戸惑いに揺れ、勢い余った私は奥歯を噛んだ。 行き場のない焦燥ゆえに足元へガンを飛ばしていたら、 「そこは俺を睨むところじゃない?」 暢気極まりない響きが降って、脱力する。 ダメだ。 最初から勝ち目なんかあるわけなかった。 項垂れる耳奥に、小さな雨音が飛び込んできている。 観念して捧げた物の紐を掴んだ精市くんは、勝手知ったる手付きで軽やかに私の間抜けさの証たる折り畳み傘を取りあげて、迷う事なくぽんと開いた。 渇いた傘の表面へ雨粒が張り付いては落ち、長く伸びる水の一筋を描いてゆく。 一連の鮮やかな流れを見守っていた手ぶらの私を見、一言。 「ありがとう、」 自分勝手に振る舞うなら最後まで貫けばいいのに、彼は絶対に優しさを忘れたりしない。 精市くんのそういう所が好きだけど嫌いだ。 ちくしょう。 上品でない罵りが胸を塞ぎ、唇の内側に圧をかけてくる。両足で踏ん張って立つ私を呼ぶ声がし、呼ばれるがままに顔を上げた。 「どうしたの。こっちにおいで」 笑顔の人。 背中にはラケットバッグ、左手には閉じた傘が二本、右手には私の折り畳み傘。 ちょっと待って欲しい。 「……私の傘は?」 「これ一本で充分だろ」 「…………私の傘は!?」 「さあ、早くしないとおいていくよ。がずっとここにいたいって言うなら話は変わってくるけれど、別にそういうわけじゃないんだろう? お互い、外で一晩越せるような格好でもないしね」 「わ、た、し、の、か、さ、は!」 あえて一つ一つ強調し、喧しく且つしつこく問い詰めてやっても、精市くんは爽やかな初夏の陽気の如し微笑みで私の反撃を打ち砕いた。。 「家まで送るよ。濡れないように俺が気をつけるから、心配しないで」 境内でこんなバカップルじみた行為を犯す人に、神の子などという大層な通り名を許していいのか。罰でも何でも当てちゃえばいいのに。いとも簡単に跳ね返しそうだけどこの人。 最早むくれる気力すらない私は押し黙り、雨避けの天幕のもとへ足を踏み入れた。 頭上を打つ音はかすかで、どこか優しく、本降りにはまだ程遠い事を知らしめている。 男物ではないし折り畳みなので、二人で差すには当然ながら小さく、居場所を決めるのが割合難しい。 テニスプレイヤーの大事な肩を冷やすわけにはいかない、どうしたら精市くんが濡れずに済むかばかりを念頭に狭苦しい傘の中を右往左往すれば、柄を右から左に持ち替えた人に腰を抱かれ引き寄せられた。 危うくリアルな悲鳴をあげる所だった。 シャツ越しに薫る体温がぐっと近づき、去年の冬に初めて鼻をくすぐったあの知らないにおいに満たされる。鼓動が異常を訴え、ようやく引いていたはずの熱が顔中を巡り赤みが姿を現す。 とりあえず私はものすごく困った。 動きはほぼ制限されているのに、どういうわけか身の置き場がない。 静かに混乱している内、真横でなく精市くんから見て少し斜め前で私の立ち位置は決まったようだ。 何年ラケットを握っているのか定かではない厚い掌が離れた事で、まともに息を吸い込んだ。湿気満載のはずであるそれは、やけに冷たかった。 再度傘の柄を利き手で掴む人が一歩、足を動かすので、神の子が白と言えば黒も白、歯向かう事なく倣う。 石畳が途切れる。 じゃりじゃりと足裏で蠢く無数の丸い石達に見送られながら、やがて階段の上に辿り着いた時、震える事を思い出した声帯が頼りない産声をあげた。 「………絶対誰にも見られたくない」 一切の荷物を持たない私と、片手に傘二本をたずさえもう一方で天幕を支える彼の相合傘など、指を差され嘲笑されたとて憤怒する資格はないだろう。少なくとも私にはないと思う。流れとはいえトートバッグまで持って貰っている状況で、偉そうな口はきけない。 サトリかというくらい人の一つ先を読み進める精市くんは、単純な私の内心など見切っていそうなものだが、さも存じませんと言わんばかりに笑い飛ばした。 「雨が降っているしもう暗いから、傘の下にいれば気づかれないよ」 いい加減諦めてじっとしていなさい、と最終通告を受けた心地に陥った。 小雨を言い訳に蹴っ飛ばして走り去ってやろうか、心中で無駄に足掻き悪態をつく。 明かりの乏しい石階段は流石に恐ろしく、じっくり確かめながら下りていると、背後ろの精市くんが傘をずらさずに体だけを私の眼前に滑り込ませた。 実に素早い身のこなしである、白いシャツの肩先は濡れもしていない。 一段下に立っている所為で頭の高さが常と違い、柔らかくはねた髪の毛が丁度触りやすい位置になった。いやいや、触ったりはしないけど。 先程とは前後が逆になった私達の間に、心許ない折り畳み傘、開かれた小振りな屋根の根元に何かのしるしのようなリストバンドがあって、肘をわずかに傾けられたかと思えば振り仰がれる。 掴まって。 数秒迷い、言われた通りに腕へと指を乗せてみる。 なんとなくリストバンドには触らないでおくのも忘れない。 私ごときが死ぬほど力を入れたところで、びくともしないであろうしぶとい感触だった。恐る恐る握れば、下方で口角が綺麗に持ち上がる。 一見大荷物を抱えているような精市くんは、ほうぼうの邪魔物をものの数に入れぬ仕草でまた一つ階段を下った。 「」 「なに?」 後に続く私を待ちながら、半円の美しい唇を崩して口火を切る。 「俺の頭、濡れていないかい」 聞かれては注視するほかなく、出来るだけ丁寧に見定めた結果、毛先の先が霧吹きにかかった程度の、本当に些細な雨の残り香を見い出した。 「えっと…、少しだけ濡れてる」 「そう。あとで君のタオルを借りてもいいかな」 「え、あ、うん、いいよ。っていうか濡れちゃった時の為に持って来たんだし、普通に使ってよ」 「ありがとう」 「ううん」 「明日、朝一番に返しに行くよ」 「え!? 別にいいよ、いつでも。急いで返してもらうようなものじゃ」 「ああ、この傘も一緒に返さないとな」 「あの、だからね、別に急がなくても」 「けど明日は朝練があるからなぁ。、早く起きてくれる?」 「……精市くん、人の話聞いてくれる?」 「聞いているよ。俺はの声を聞き逃したりしない」 思いがけず真面目な声色で断ち切られ、憤っていたはずなのにたじろいでしまう。 反射的に掴まっていた腕から手を引きかけたが、離すなと言外に告げられ押し留まった。 雄弁な瞳は暗闇にあっても意志を放ち、すぐに逃げ出そうとする私を抑えつける。 それまで静々とコンクリートを濡らしていたに過ぎない雨足がにわかに強まって、一際大きな粒の音が天を鳴らし、風になぶられた水滴が剥きだしの膝や脛を掠めていく。 私が濡れればどうしたって精市くんも濡れる、一秒と経たない間に焼けた腕の表が細やかな雫を纏った。下から吹き上げてくれればまだ良かったものの、運悪く横風だったのだ。 動かない私を目にとめて気が済んだのだろうか、強い眼差しを微笑みで隠した人が言葉での会話を再開する。 「冬の間は俺より早く教室に来てたんだから、早起き自体は出来るよね。一緒に学校行こう」 にっこり。 有無を言わせない微笑み殺もまた、久しぶりだった。 人様より頭の回転率が悪く、ついでに効率も悪い私だって否でも応でも察する。 「……あさっては?」 心得ているよとばかりに、朗らかに頷かれた。 「明後日も一緒に行こう」 「あさっての次は?」 「あはは、明々後日も」 空気を読んだが如く、強まったはずの雨は小康状態に戻り、神の子と神様の威光を信じずにはいられない。 知らぬ間に階段の最中に立ち止まってしまった私と彼は、傍から見れば境内で遊んでいる子供に過ぎないのだろう。 「精市くん」 「うん?」 「…………まわりくどい」 「どれのこと」 「今までのひっくるめて全部だよ! っていうか自覚あるんじゃん!」 「フフ、ごめんごめん。でもそのあたりはにも振り返って欲しいな。何せ肝心の君自身が、正直に言うよりも遠回りにお願いしたほうが、うんと頷いてくれるんだもの。馬鹿馬鹿しく思うのにやめられなくて俺も大変なんだ」 白々しい上、確実に嘘だ。 しかし今は苦味より瞼のゆるむような疼きが勝って、それが更に腹立たしかった。 精市くんはひとつ思い違いをしている。 真正面からだろうが斜め上からだろうが、結局私はYESと頷くしかないのだ、連戦連敗の負けっ放しで、一度たりとも勝ったためしがない。 あらかじめ勝敗の見えた戦いでも挑むのを止めようという気にさえならないのだから、もうどうしようもない。 肌を滑る雨水は冷たいのに、体は全部が蒸発していきそうなほど熱かった。 指の腹で触れているかたい皮膚の中、しなやかな筋肉がいざなうように動いて揺れる。 「早起きの為に規則正しい生活を送って、ついでに冷え性も治そうか」 さあどうする、俺のカードはもう出した。 神の子が、名に相応しい不敵な笑みでこちらを見上げてきた。 私とえらい差で頭の良い精市くんは、聞かずともわかっているだろうに言わせたがりだ。 なんとも癪に障る事だが逆らえない。 答えなんて決まってる。既に。 |