メモリーズ・オブ・パラダイス




屋上庭園の一角を借り受けて、彼は四季折々の花を育てている。
園芸部所属でもなければそういった委員会に所属しているわけでもないのに許可が下りた理由は、緑を慈しむその人が他ならぬ幸村精市だからだ。輝かしい成績と苦境に立たされた過去に異を唱える者はまずいない。
もっとも彼自身としては正当に園芸部に掛け合い、顧問の教諭へきっちり話を通した上で得た権利であるから、栄光の名の下に許されたものだ、などと言われるのは些か納得しかねる事態だったのだが、こうなるまでそれなりの時間を要した少女が、正面から正攻法でいってまんまと勝ち取っちゃうあたりも含めて幸村精市、と評するのでつまらぬ執心は捨て置く事とした。
幸村の花壇に華美な花は植えられていない。
主役はあくまでも管理が徹底された庭園のそれか、部員の数を駆使し上手に目配せする園芸部の花壇なのである。
そう難しくない種類を育てているし、空いた時間にとなるとどうしても人影の少ない放課後、或いは限られた生徒しか登校しない休日になり、テニス部である幸村が一見関係なさそうな土仕事に精を出している事を知るのはごく近しい人物のみだ。
植物はもとより、土と戯れるのが嫌いではないのだろう、己の性根を語れば、お前のそれは戯れの範囲を超えている、一言に返された事もあった。
その時隣にいた彼女ですら、真面目な顔でしきりに頷く。柳くんの言う通りです。考えは聞かずともわかった。
風の通り道が乏しい室内ではない屋上でも体感温度には大差がつかず、弱々しい風のひとつ吹いたって良いはずなのに恐ろしいくらいに凪いでいる。
蝉のわななきが耳をつんざいて、ありったけの熱を籠めたような空気は喉を焼く。
渇きが込み上げた。
一秒一秒進めば進むだけ、何の防御もしていない肌が飢えていく心地だ。
満遍なく夏を吸った土は熱い、今時分に水を遣っても根が煮えるだけだろう、日の傾いた頃にもう一度様子を見に来ようか。
そこまで考え、額から流れ落ちる汗のつぶを拭う。
ちらと目配せすると、真夏の下で輝くひときわ背の高い花が群れている。
刺すような光の根源を足並み揃えて追う姿は、この季節に必ずと言っていいほど彼女との話題にのぼる向日葵だった。
学校内で自由に出来る花壇を前にして植える様々を模索した時、幸村の頭の中から真っ先に外された花である。
理由は極めて単純、甚だ簡素、つまらないからだ。
誰かの手で咲き誇る様を、ああでもないこうでもないと茶々を入れる事の可能な距離が、多分ちょうどいい。何でもかんでも雑にひっくるめ、綺麗、などと口にしてしまう人が相手では。

幸村は内心笑いながら、中学二年の事を、それからの日々を、去年の今を思い描いた。
自覚のあるなしに関わらず季節は巡り、夏は毎年訪れ、待って欲しいと願った所で叶わない事を知っている。
だからこそ自らの感覚に頼るばかりでなく、余所で大事につくられた夏を遠巻きに、彼女と二人で眺めるひとときが好きだった。
手ずから育て上げたものを贈るよりずっと、何もかもを間近に感じられる。
思い出と記憶は情感を含んで蘇り、花の匂いに呼び戻されて、己と比べいくらか高い声が時の流れを告げている。精市くん、今年の向日葵はどんな感じなの。やはり違いを把握していなさそうな問い掛けがすぐ傍にあった。それはおそらく、幸福と称しても良いことなのだ。
ここは病室じゃない。

(いや)

少し違うかな。
言葉選びを自ら訂正した幸村は考え直し、病室でも教室でも違いはなかった、と心の内で言い換えた。
かつて彼女自身がこぼしていたように驚くくらい気を遣われなかったから、段々と肉の削げていった体に潜んでいる悪夢などは忘れてしまうほどだった。
どこにいても変わらない。
時折、また席近かったから、さも仕方なく来ましたと言わんばかりの第一声を浴びせられた日さえあった。交わす話題の端々に渡るまで、他愛なく、馬鹿馬鹿しさに溢れている。
無神経の考えなし。頭良くない。気遣いができない。
つらつらと自分で並べておきながら肯定されれば受けたショックを隠せず、日頃忘れっぽいくせして一度こだわり始めるといつまでも引き摺り、今更かというタイミングで芯から自己嫌悪に陥り挙動が不審になる。
誉められた事ではないし、正しいか正しくないか、世の中の定規で測れば正しくないほうに分類されてしまうだろう。しかし、最も重要なのはそれが好ましいか否かなので、幸村にとっては問題にすらならない。
まったく、愉快な人だと思う。

「休憩中?」

蝉の鳴き声の合間を縫って、静かな響きが届いた。耳を頼りに聞こえてきた方を振り仰ぐと、その好ましい人が背を屈めて立っている。こちらへ向かって一つ、歩を進めた時、後ろ手に抱えているビニール袋ががさがさと鳴った。
純粋な疑問をぶつけられ初めて、両手ともにすっかり動きを止めているのに気が付き思わず苦笑した。とはいえ、真夏の昼日中に可能な作業などないに等しいので休憩には違いない。

「まあ、そんなところ」

ふうん、とわかっているようないないような相槌と共に距離を詰めてくる。

は……ああ、夏期講習かい」
「うん」

以前は下から数えた方が早かった順位を押し上げるべく、地道に頑張っている様子である。
感心だと口にしたのは柳だ。とりあえず同じ高校に進学出来ればそれでいい、と頭の善し悪しにそう頓着しない幸村は厳しく言及した覚えがない。
鬼の風紀委員長と今尚恐れられる真田は面識があるのか、確かに遅刻の回数は減ったようだな、ぼそりと呟いていた。
付き合い始めて二年を越せばいい加減慣れてくるのだろう、最近では幸村自身が発端にならず周囲の方からの話題を振ってくるのも少なくない。
ついに傍らまでやって来た彼女がわずかに笑う。
太陽を背にしている所為で輪郭に光が走り、幸村の上には影が降った。
裾の短く濃い暗に夏の日差しが些かやわらいだと思っていたら、手の袋を誇らしげに掲げて、抗い難い誘惑をしてくる。

「アイス食べない?」
「いただこうかな」

有り難く乗るしかない。
渇いた喉が鳴る。飲食厳禁、の四文字はこの際忘れる事にしよう。
折っていた膝を伸ばして立ち上がり、がつくった一瞬の暗闇を抜け出すとこの季節独特の熱が再び全身を包んだ。
高等部で迎える二度目の八月も、例外なく暑いようである。
雲の浮かばぬ快晴、波のよう絶え間ない日差しが乱反射する白い床を通り抜け、わずかに生まれた影だまりへと足を運ぶ。その場で食すものだと考えていたらしい彼女は一拍遅れてから幸村の後をついていった。
正午をやや過ぎたくらいの太陽は実に厳しく、遮るものがない屋上では余計に辛辣だ、引っ張って伸ばしてやりたくなるほど控えめな日影が壁際でひっそりと鎮座している。
腰を落ち着けたところで足元、というより腹のあたりから暴力的な光に晒されてしまう有様だったが、上半身だけでも降り注ぐ熱から隠れるとだいぶ楽になった。
しかし、数時間ものあいだ日に当たっていた床はやはり涼しいと言えず、接している部分がじんわりと熱い。
忙しなかった蝉の合唱が一休みをしている。
さかんに聞こえるはずの運動部の掛け声も、今は途切れていた。昼食時だからだろう。
必要になるかもしれない、と屋上に向かう途中で寄り道をして持って来、たった今までつけていた軍手を外す。花壇は弄る箇所が見つからなかった為、ほとんど綺麗なままだ。
分厚い布地から解放され外気に触れた指が、そんなはずはないのに涼を感じる。
手先に汗を掻く前で良かったと思った。
座り込んだ幸村に合わせて両足を折りたたむの髪が、肩先を滑ってこぼれ落ちる。
がさがさと袋の中身を取り出そうとする動作を遮り、おもむろに頭の天辺に掌を置けば予想通りにゆだっていて、幸村は窘める意味もこめて二度ほどそこを撫でつけた。
無言の抗議を受けたので声に出してやる。

「まったく何度注意しても対策しないね、は。熱中症になるだろ」

時には炎天下の練習ですら平気で見学してしまう彼女は、忘れっぽさと細かな配慮を見過ごす癖とをない交ぜにしてミスを犯す。
私は不服です、顔に堂々書きながら乱れた髪の毛を直し、夏場の体育教師のような物言いをする人物をねめつけた。

「ちょっとしか外に出てないから別に大丈夫」
「油断大敵だ。たるんどる」
「真田くんのセリフじゃんそれ」
「その内真田本人に言われるかもしれないけど、いいの?」
「……やだけど、そんなとこまで注意されるもの?」
「するさ。もう知らない仲じゃないだろう。俺よりずっと厳しいよ」

確かに真田くんはちょっと怖いけど、精市くんのが厳しいと思う。
三秒近い沈黙を保ったのちに転がった呟きをまんじりと受け入れる。否定はしなかった。
すると、反論を取り止めたがアイスを寄越し、手渡された幸村は代わりに、作業には邪魔だと壁に立てておいたラケットバッグから未使用のタオルを引っ張って、先程自分が触れていたところへ掛けてやる。
甲子園の応援スタンドにでもいるのかという出で立ちにされてしまったは、いいよ、ほんとに平気だよ、等々続け往生際の悪さを発揮していたが、そ知らぬ顔でアイスの袋を開ける恋人に黙殺され諦めたようだ。ぱり。糊付けされた袋の端を同じく開き、

「…ありがとう」

小さな声でそう言った。幸村が笑う。どういたしまして。
もう何度、こうして彼女にタオルを貸してやっただろうか。
雨の日の薄暗い教室。湿気た空気が漂う病室。陽炎に揺らぐテニスコートの傍。
重ねた日々を手繰りつつ、冷えた甘さを口に含んだ。
さっぱりとしたソーダの味わいの中に丸っこいラムネが隠れていて、舌先でころころと幾度か転がしてから奥歯で噛み砕く。食感も親しみのある味もどこか懐かしい。

「バラ売りしてて、安かったんだ。しかも二本買うとお財布の中にあった小銭とぴったり」

なるほど、言われてみればこのまま売り出すにはあまりにも質素なパッケージである、元々は箱詰めされていたものを彼女の言う通り、ばらばらで売り出したに違いない。
購買かコンビニかは知れぬが、はどうしてかそういうものを見つけるのが上手い。
冬場などホッカイロを驚くべき安値で仕入れ、唯一の熱源として重宝している。

「最初チョコモナカと迷ったんだけど、ラムネバーのがさっぱりしてていいかなと思って」

食べやすいし。付け加えた後で、しゃくしゃくとした小気味良い音と共に持ち手の棒が短くなった。
真白いタオルは横顔のラインをかすかに覗かせるばかりで、顔色の委細はつかめない。
薄水色をした涼しい彩りのアイスが、唇と唇に食まれて溶けてゆく。鼻筋の向こうに見える睫毛がすこやかに伸び上がっていた。
狭苦しくとも日影は日影、きらきらしさが遮られるお陰で、反射する光に目を細める事もなく色の区別もつけやすいのは助かった。眇めなくともよく見える。
はもう、大丈夫だったの、とは尋ねない。
予定を知らせると、わかった、一言で済ませる。
強豪テニス部の練習は朝も早い内から始まるので、昼を越して制服姿のままである幸村はつまり途中参加だった。
最早見慣れた病院で定期検査を受け、その足で登校した。
においが嫌だ。主治医の説明が代わり映えしないのは有り難いけれど、声を耳にすればどうしても憂鬱になる。清潔極まりない色合いが好きではない。
見るのは飽いた。
ただ見ているだけでは、倦んでしまった。
部屋の蛍光灯が消えるのを。毎日が流れていくのを。
静かな壁と天井、レールにぶら下がるカーテン、鮮明に外を透かす窓硝子、目蓋を閉じていたって浮かんできそうな情景を。
人はよく耐えたと言うが、幸村は必ずしもその称賛があらゆる場面で適用されるものだと思っていない。今の自分を形作る過去のすべてが、美しいものとは限らない。
今になって弱音を吐くわけではないが気分が良くなる事でもなく、要するに病院が嫌いなのだとひとくちに白状し、目一杯呆れ顔をしたに、子供じゃないんだから、珍しくも宥められた瞬間のやすらぎを覚えている。
俺はれっきとした未成年だよ。普段全然未成年っぽくない人が言っても説得力ゼロ。ひどいなあ。ひどくない。
許された軽口は快く、かろやかだった。
言葉の裏に何かあるのではないかと気遣う素振りもない。
物事の好悪を述べたとて深慮されず、単なる嗜好の問題と片付けられた。好きか嫌いかのみ、額面通りそのままに伝わる。
そういう彼女は、愚かなのかもしれない。
浅慮と叱られることもあるのだろう。
かといって熟考した所で明後日の方向、一生懸命なのは良いがしばしば空回り、だけれど妙に冷静な一面を持ち、雰囲気に流されたりはしてくれないのが困りものだ。
しかしながら先刻の通り、好ましいか否かが重要なので、幸村は一笑に付した。

「うわ、精市くん日焼け跡すごいね。なんかすごいくっきり残ってるし」

暑さにかまけ、だらしなく上履きを擦って動かしたがよくわからない歓声をあげる。
タオルの裾が揺れ、元よりそう遠くなかった距離が一気に縮んで、幸村の膝に乗っている手首を覗き込むようにした少女の髪筋がシャツの上を滑った。
土に触れて汚しては洗濯が面倒だ、と肘付近までリストバンドをずりあげていたから、切り取ったが如く四角い形に残る本来の肌色が露出していたのだ。
布に阻まれている所為かいつものシャンプーの香りはそこまでしなかったが、それでもどこか甘いにおいがする。
一体何が楽しいのか定かでない、他人の日焼けを夢中になって観察している彼女は、あやうい近さに気づかない。
幸村はあえて口を出さず、好きなようにさせた。

「そうかな」
「うん。精市くんって、どっちかっていうとあんまり焼けない方だと思ってたからわかんなかったけど、なんだかんだきちんと日焼けしてるんだね」
「日焼けにきちんと、ってちょっと変じゃないか」
「だっていつも見てると、焼けてないように見えるんだもん。あんだけ外いるくせに腹立つ」

率直が過ぎる物言いに、堪えきれず笑いながら返す。

「酷い言いがかりだ」
「いや、まあ、実際は焼けてたからたしかに言いがかりなんだけど…うん。ごめん」

会話と交互してアイスを口に含んでいく二人だが、複数の動作を一度に行うのが得手でないの方が、食す早さは一段劣った。
幸村はあと二口三口ほどで完食しそうで、片や彼女はといえば溶け落ちて惨劇が起きかねないペースだ。喋りながら、に加えて視線もよそを気にしているから尚更だった。
やにわに蝉が鳴き始める。
犬の遠吠えのよう、此方で一声あげると彼方でまた一声あげ出すのは何故だろうか。
幾重にも響き渡る合唱は、夏の暑さを増長させた。
照り返しの熱が頭の上までをすっぽり覆っている。熾烈をきわめる日光が直撃していない分まだ良いが、下手を打つと息苦しくすらなる空気はいまだ健在だ。
幸村の懐深くに飛び込む形となっているは姿勢を崩さない。
ふと、時たま、思い出したように手元が動いた。しゃくり。零れるかどうかの瀬戸際、絶妙なタイミングでラムネバーを平らげていく。
覗きこまれているのと、影の落ちるタオルの所為で、表情が窺えない。
肩先から流れた髪の毛が、シャツの胸ポケットに触れるか触れないかの、かすかな隙に垂れている。
たとえば今が冬だったら、体温だって感じ取る事が出来ただろうけれど、こう暑くてはどこからがのものなのか易々と判断がつけられない。
白光の下に晒された足はしどけなく、スカートの裾あたりとそこから先では微妙に肌の色が違っており、彼女が日焼けしない他人を憎む所以がわかった気がする。
腹の上でぱっくりと明暗に別たれた光彩が、見慣れた制服に異質を混ぜ込む。

まつわるそれらを、幸村は黙って見つめていた。
最後の一噛みでソーダ色をした心地よい涼を味わい、舌の上に乗った氷を溶かせば小さく丸まったラムネが残る。役目を終えた棒を引いて、懐かしい味を砕き飲み下すと、喉が一気に潤った。口の中が爽やかに甘い。
顎と肩の間でが何事か思案しているのを、不自然に閉ざされた唇がありありと教えてくれた。
隣の恋人は明け透けにすべてを言葉にしがちだが、気持ちの100%を表しているかというと、そうではないように思う。
どちらかというと耐えている回数が勝る。
幸村の所業についてであったり己の失態にであったり、訳は様変わりしても辛抱強いのは確かだ。
だが一方で、笑う場面じゃないのに、どうにも堪え切れなかったのか吹き出す。
ケンカをしても滅多に泣かないくせに、すでに薄れつつある手術跡を目にした時、静かに涙をこぼした。
根は素直だが嬉しいことを嬉しいとありのまま声にせず、こんな風に無防備な距離の詰め方をすれども、奇妙な警戒心をひとたび持ってしまえばなかなか近寄って来ない。
不意に呼気が漏れた。
唇の端からまろび出た吐息は、微笑みを呈している。

「本当は好きなくせにね?」

怪訝な眉のは、はあ? と言いかけた口の形のままで顔を上げ、予想だにしない近さに目を丸くした。
ぎょっとするとはこういう事を言うんだな、暢気な幸村が内心で呟く。
気まずくなったかそれとも恥じ入ったのか、そろそろと俯きながら腰を浮かせ、脱力しきりだった両足を閉じ、拳二つ分後ろに下がる少女のタオルが所作に応じて揺れている。

「あれ、離れちゃうんだ」

無言。おそらく、耐えている真っ最中なのだろう。
手持ち無沙汰なのか遅れを取り戻そうと試みているのか、黙々とアイスを消化していく。

「もういいのかな」
「…………何が」
「ん? 日焼け跡」
「………………いいです」

傾きかけていた背筋をぴんと張り、物言いたげな瞳で幸村を刺す。
真意をはかりかねているのだが馬鹿正直に問うてはよからぬ事態に陥る可能性が高い、といった経緯で思考を進めていったに違いない、険しい空気を纏い沈黙を保つ様は、こう言うとなんだが面白かった。
幸村の唇は変わらずに上向いている。

「そう怖い顔をするものじゃないよ。まるで俺が君を困らせてるみたいじゃないか」

言下に、がタオルの奥でぐっと息が詰まった顔をした。
よく言う。
これもまた、わざわざ聞かずとも理解した心の声だった。

「けれど、さっきの一言は混乱させてしまったかな。ごめんね、他意はないんだ。ただ、の可愛いところを思い出していただけだからさ」

募った呼吸の束が眉間にまで達したようで、その有様ときたら女子相手には非常に形容し難い表情である。一般的に、可愛い、という表現の持つ意味から遠ざかった顔貌は、やはり面白い。むくれたような、拗ねたような、もしくは警戒しているような、三者三様が混ぜこぜになった声での囀りが鼓膜を押してきた。

「……精市くんの方こそ、熱中症になったんじゃないの。言ってる意味がわかんない」

そう言う彼女も頬を薄く染めているが、問い質した所で、暑いからだよ、としか返って来ないのでやめておく。
万事に反応速度が人より劣るので、羞恥すらひとつ間を置いて走らせるのが彼女の常だ。

「大丈夫、俺は至って健康だよ」
「…そうだろうね……」

諦めに徹した溜め息が響き、語尾は蝉の声のうねりによって掻き消されてしまった。
見事に青々と晴れ渡った空を見上げがてらリストバンドを元の位置へ戻していれば、隣で肩を強張らせていたがだらりと力を抜くのがわかる。
幸村の日焼け跡はすっぽりと黒一色に覆われ、少女の正していた膝が崩れた。
取り正すほどではないにしろ焼けた足がきつい光の中に伸び、シャツが織り込まれたスカートの腹あたりで先の曲がったネクタイが垂れている。
肌まで透けそうな頼りない白色は日向と影に映し出された。
先程、わずかながら距離を変えた時に後頭部へ下がったタオルを掴み引く幸村が、指を離していく途で前髪を遊ばせて、それからしんと名を呼んだ。



再び俯きつつあった彼女はごく当たり前に面を持ち上げる。

「なに? あ、ゴミちょうだい」
「ありがとう。どこか行きたい所はない? 久しぶりにデートしよう」

受け取ったものを空のビニール袋に入れるの唇から、身軽になったアイスの棒が引き出された。丁度食べ終わるところだったらしい。
二人とも壁に背中を預け、視線だけが交わっている。
ふと目を逸らした彼女が、手の中にある冷たさの名残をくるくると回しながら沈黙を走らせた。今キスをしたら、大層甘い味がしそうだ。

「……お祭りに行きたいな」

幸村の声にならない独り言など知る由もない、ささやかな返答に凪いでいた場が揺り動く。
日ごろ大雑把な面を多数見せておきながら、こういう時ばかり付け足しを忘れない、夏が終わってからでいいよ、とごく控え目に希望を述べた。苦笑するほかない。
いじらしく、けれど聞き分けが良いあまりつつきたくなる気遣いを受け、幸村は口角を綺麗に持ち上げた。

「それから?」

困っているわけでも、考えあぐねている風でもない彼女の背中を一押し。
数秒の無言。
夏の虫がざわめく。

「花火やりたい」
「見るほうじゃなくて?」
「混むじゃん…人いっぱいだと余計暑いし。お徳用で売ってるの、うちの近くのスーパーで見たよ」
「フフ、それで懐かしくなって、やりたくなったのか」
「ごめんなさいね単純で」
のは素直って言うんだよ」

何度繰り返しても飽きない応酬に、タオルの奥の眉間へよっては戻る皺が、何を言い出すんだ、と答えていた。

「……でも、やる場所あんまりないんだよね。うち庭狭いし、花火できる公園とか探しとく」

短く息を切って、流す事にしたらしい。
やや外れつつあった話を元に戻し、ゴミ袋と化したビニールの口を軽く結ぶ指先がやたら手馴れている事からして、こういった学校内での間食は初犯でないのだろう。

「だったら、俺の家においでよ」

薄い桃色の爪がぴたりと動きを止めた。

「え?」
「幸い、花火をしてもご近所迷惑にならない程度の庭はあるしね」
「嫌味にしか聞こえない……じゃなくって、あの、でも精市くん育ててる花とかあるんじゃないの?」
「流石に庭中を花でいっぱいにする時間はないかな」
「あ、そ、そっか…そうだよね」

返答は予測済みだったが、歯切れが悪いのであえて尋ねる。

「嫌?」
「い、いやじゃないけど、精市くんの家って緊張するんだよ。お母さんなんか、絵に描いたみたいなお母さんじゃない」
「なんだい、それ」

想像通りの答えと、想定の範囲外だった感想が戻って来、幸村は笑声を転がした。
なんとも彼女らしい表現だ。

「なんていうか、大体の人が想像する、理想のお母さん像? 優しくって上品でいいにおいがしそうで料理上手。で、朝日の中洗濯物を笑顔で干してる。おやつは手作り。CMに出てもおかしくないみたいな」
「大体の人というより、の理想像じゃない、それ」
「うーん、じゃあそれでもいいけど、とにかく緊張する」
「何回来ても借りてきた猫、だものね」
「……わかってるなら助けて欲しいんですけど」
「いつになったら慣れるのかなと思って見てたよ」
「……面白がらないで欲しいんですけど」
「そういえば、君の家へお邪魔した時も、そんな感じだったな。自分の家なのに、一番肩身狭そうにしてたね、はは」
「言っとくけど、いつもとあんまり変わんない精市くんがおかしいんであって、絶対私のが普通だから」
「俺だって、人並みに緊張くらいするけど」
「…顔とか態度に出ないあたりずるいと思う」
「それで損をする場合があっても、ずるいと思うかい」
「えっ、そうなの?」

若干、質問からはずれた回答にまたしても苦笑を浮かべた幸村が、まあそれは仮定の話だから置いといて、と断ち、中途半端に話題を提供された側は些か不服そうに眉を歪める。そっちから振ったのに。きっちりと顔に浮かび上がっていた。

「どうする?」

静かな苦情の申し立てを見送って切り込めば、硬直した頬の筋肉を緩めたが呟き落とす。

「……迷惑じゃなければ、そうしてもいい?」
「もちろん」

弛む曲線へ微笑みが加わり、唇の両端はやんわりと滲んだ。
つられた幸村も、声なく笑う。
日陰の夏に揃いの表情が溶け込んでいく。

「そっか」
「大体、俺が言い出した事だよ、迷惑なわけないだろう」
「うん」
「ちなみに君の理想らしい母さんだけど、ちゃんは遊びに来ないの、ってたまに聞かれる」
「え!」
「俺が入院してた頃、病室で顔を合わせた事があっただろ? 覚えてたみたいでさ、初めて家に来た日に、よくお見舞い来てくれてた子ねって」
「な、なんで今それ言うの!? なんかすっごい行きにくくなったじゃん!」
「残念、折角歓迎してるのに」
「精市くんは私見て面白がってるだけでしょ!」

先程の笑顔をどこぞへ放り投げ、気色ばみつつある少女の方から、微かにだが鈍い振動音がした。
抗議に腰を浮かせた膝立ちのまま、少し膨らんでいるスカートのポケットを探り、取り出された端末を眺めて時間だと呟くので、幸村は小首を傾げる。

「メール?」
「ううん、さっき屋上来たあたりで、10分後にアラームかけてたんだ。前の授業が早めに終わってお昼も食べたし、休み時間多く取れたから来てみたんだけど……精市くんと話しこんでる内に忘れちゃったら次に間に合わないと思って」

初めから忘れないように努める、ではなく、忘れた場合の保険をかけた訳である。
用意周到のようでいて、効率が悪い。
努力の方向性がやや斜めへと進んでいるので、真田あたりにたるんどると一喝されてしまうのだが、相対する幸村がそのように真っ当な叱責をするはずもなかった。

「へえ、なるほど。俺と一緒にいると時間も忘れちゃうんだ、は」
「……何が言いたいわけ」
「なんだと思う?」
「いや先に聞いたの私…」
「今度から一緒に怒られようか、俺の所為でさんは遅刻しましたって」
「お願いします、やめて下さい。それフォローじゃなくてイヤガラセです」

益々もって深まる一見人が良さそうな、しかし内実はそうでもない眼前の笑顔に、分が悪いと悟ったのか、それともキリがないと判断したのか、言い終わるや否や立ち上がり軽くスカートを払った少女が一歩、苛烈な日差しの中へと踏み出す。

「遅刻しちゃうし、もう私行くよ。…精市くんは、部活でしょ?」

細い首が捻られ、顔の半分が振り返る。照らされた色彩が目蓋の底を焼いた。
真白いシャツの背中が眩しい。
伸びきった膝裏は焼ける前の元の肌色をしており、足を折り曲げ座っていた跡がうっすらと刻まれていた。皮膚の表面だけが赤い。
妙に律儀な所のあるはタオルを被ったままだが、おそらく洗濯をして返すつもりなのだろう、いまだ小さな影に留まる幸村はささやかな気遣いを跳ね除けず、黙って享受する事と決める。

「ああ」
「まだ行かなくていいの?」
「もう少し、時間を潰してからにするよ」
「わかった。じゃあ、またね」

瞬間、降り積もる記憶が蘇った。
膨大な流れから洗われ、掬い出され、並んだそれらが一遍に重なり、確かな質量を含んで幸村の耳朶に当たって砕けた。
無数の欠片が鼓膜から入り込み、頭の中に響いていたものと混ざって、優しくリフレインする。
あれだけ喧しかった蝉の合唱も、校舎の壁を伝ってきていた遠くのざわめきも、もう聞こえない。
幾度となく交わし、繰り返されてきたの声。
病院の玄関口、或いは病室で、暗くなりかけた昇降口に、人気の残る中学の教室。
コート横の観客席。金網の向こう。
部室近くにある水道、日の降る廊下。職員室の前。
彼女が紡ぐ、またね、が好きだ。
さよならと言われるよりも次を約束する方が多い、無意識の癖がもたらす甘やかな徴は、体の芯に染みつく孤独を癒した。
嘘をつけない彼女は言葉の通りに二度、三度、四度、病室に訪れ、また明日と言えばいとも簡単に叶えてしまう。
必然でなくとも構わない。
偶然だっていい。
他意があろうとなかろうと、そんな事は二の次で、決して重視すべき点なんかじゃない。

間に合って良かった。
の声に、言葉に、気付いたのが俺で良かった。

百歩譲って一番先に気付いていたのが顔も知らない男だとしても、誰より早く傍にいる理由を手に入れる事が出来たのだ。
不確定要素に頼るのはあまり好きではないが、もし一つ幸運に感謝しなさいと言われれば、この一点に限るのだと信じている。

独りごちる幸村の手前、ふと足音が止む。
反応もなく、平生ならばひとつふたつ追い言葉がくる所、無言であるのを不思議に思ったのか、訝しげなが体の向きを変えた。
幸村は幸村で非常に珍しい事だが返す声を失念していて、やけに熱の籠もった瞳で視線を受け取った。
肩の上で揺れるタオルが自分のものではないように見える。
またしても胸の内でのみ訴えていれば、ついに少女が先に喉を震わせて、どうかしたの、率直に問うてきた。
一も二もなく伝えてやる。

「うん。好きだよ」

そこでようやく、元の忙しない音すべてが戻った。
蝉は暑苦しく、ざわめきは遠かれど鬱陶しい。
空高くまで上り詰めた日が寄越す光さえ、数多の反響の一つな気がする。
思い切り不意打ちを食らった表情で遅れる事数秒、低い位置を泳いだ言葉の意味を反芻したがたじろいだ。赤みの強い頬は、夏の所為だと誤魔化しきれぬ程だった。

「…………な、なに、いきなり」

おまけにしどろもどろでは、彼女とて言い訳のしようがないだろう。
半月型に唇を象る幸村は平然と続けた。

「いきなりって?」
「だ、だから、その……急にどうしたのって」
「別にいきなりでも急にでもないし、にはわかっていてほしい、俺がいつも思っている事。俺は君が好」
「わー! もういい! ほんといいよ! 聞こえた全部!」
「どうかな、俺としては忘れられないようにしっかり言い聞かせておきたい所だけど。何度でもね」
「……そんなの、忘れようがないじゃん…」

心から絞られた声色に笑みが増す。

「それじゃあ、お言葉に甘えて安心していようかな」
「…私ほんとにほんっとーに行くから。 このままじゃマジで遅刻するし!」
「ああ、行っておいで」

しっかり授業を受けてくるんだよ、とでも言いたげな雰囲気を察したのか、一体誰のおかげで調子を崩しそうになっていると思っているんだ、と返したくて仕方なさそうながぐっと何かを堪え、それから見事な切り替えしを見せてスカートを翻した。
ずんずん性急に進んでいく後ろ姿が、何故か頼もしくて再び笑ってしまう。
明るい日差しが浮き立たせていた彼女の色は目覚しく、真夏の午後をも押しのけて目の裏に映り、克明なようで想像の余地を残す陰影は、まるで絵画のようだ。
重たげな扉が開かれ、力任せに閉じられた気配がするそばで、その軌跡の通り道をなぞるようにさっと風が吹き抜けていった。

花綻ぶ春に、緑が生きる夏、錦のような秋と、清澄に満ちる冬。
連綿と繋がる記憶のすべてが、この場所と、学校に詰まっている。
隣には勿論、いつも通りの女の子。
ショートムービーにするとしたら、出来すぎたシナリオだ。まず企画段階でボツにされてもおかしくないがしかし、彼はその陳腐な思考さえも気に入るどころか、微笑みと共に受け入れ、一等大事に抱いているのだった。

前髪を煽られるまま抗わない幸村の視界の片隅で、楽園の花が揺れる。
黄色い額縁が一斉に向いている青空を見遣り目を閉じると、一段と濃くなる季節の音色が、いつかの夏をも近づけてくれた。

――今日もまだまだこれから、暑くなりそうだ。