セプテンバーにはまだ早い




わけわかんねえ。
それが二人への第一印象であり、赤也の中で相応しいとされている評価だった。

幸村とその恋人の関係性は、若輩者である少年にとってなかなか理解し難い。
そもそも何かと規格外に思えるので、己の基準ではかる事が出来ないのだ。
目指すべき高み、そして超えたい壁として君臨し続ける神の子のお相手はと言い、赤也より一年先輩の、どこか抜けている人である。
音に聞く才女ではないし、輝かんばかりの才能の持ち主というわけでもなく、衆目を集めるほど麗しい容姿かと問われればまあちげえよな、と言わざるを得ない、いわゆるごく普通の女子生徒だった。
これで一芸に秀でているのならばまだしも、赤也の目にはそういった類いの取っ掛かりは映り込んでこない。
とはいうものの部外者も部外者、単なる第三者でしかない立場からの見解なので、実際当人同士にしかわからぬ部分があるだろう、あまり踏み入って断言するのも考えものだ、何せ対象が化け物じみた強さを誇る猛者共の頂点に座する幸村精市なのである、触らぬ神に祟りなし。憚らず口にして大火傷を負いたくはない。
ただでさえ一度、幸村と学年を同じくする柳から、あまり物欲しそうな顔をしていると後が怖いぞ、からかい半分に釘を刺された経験がある。注意を払うに越した事はない。
俺のどの辺が物欲しそうな顔してんすか、どっちかっつーと珍しいモン見てる時の気持ちッスよ今、正直に返した所で参謀と称される先輩はそよ風ほどの影響もないと言わんばかりに、そうか、と薄く笑う。全く以って底が知れないのであった。
自身には何の恨みも悪感情も存在していないが、ひどく心外だ。
別に、羨望の眼差しや好意を持って眺めていたわけでも何でもない。
言うなれば好奇心、珍しい物見たさ、その辺りが適切だろう。
一学年上の少女本人に対するものというよりは、認めたくないが見上げる位置に君臨し続ける強者の想い人だからこそ、といった面の方が大きいように思えた。
大体俺はもっとこう、ハデに出てる子じゃねえと。主に胸とか。
言葉にはせず独りごちたのち、誰に叱責されるでもないというに慌てふためきフォローをする。
あーまー話しやすそうな人っぽいんじゃね、うん。
元を正せば幸村がその昔、赤也から乱雑さと赤目とテニスと集中力と品のない言葉遣いと暴力的な所をなくしたみたいな子、等とのたまった日が赤也の好奇心に火をつけたに等しいのだが、中学の頃ならいざ知らず、幾らか年を重ねた現在では無駄に刃向かうほど短慮ではない、ひっそりと心だけで毒づくばかりだ。
そっちが先に俺引き合いに出したんじゃないすか、そんで今更興味持つなとかどんだけ勝手、つーか俺と先輩似てねえし例えに出される意味がわかんねえ。
堪える事を覚えた少年は、その分胸の内で饒舌になる。
折り重なる不平、疑問、興味、諸々を押し退けて、にまつわる、最も古い記憶がふと眼前まで掬い上げられた。


あれは確か中学二年の終わり、元テニス部の面々で焼肉へ行く予定だった放課後だ。
先輩方全員の進路が決まった祝いだなんだと面目は立てていたが、要するに集まって騒いでついでに腹も満たされるのなら尚良し、半ば遊びの気配が混じっていたと今にして思う。
諸事情で他の面子がどこにいるかがわからなかった赤也は一番最後に合流し、まとまっている三年生らの輪へと駆け、見慣れぬ女子が混ざっているのに気が付いた。
地を蹴っていた両足が緩む。
怖いくらいの笑顔を絶やさぬ幸村は、当の女生徒の手をしっかり握って引いている。
対する彼女の方はといえば、がたがたと震え出してもおかしくはない様相の唇を不格好に歪ませ、気温の所為で白く映える頬を透明な青に染め上げて、固辞せんと必死に試みているようだった。
……どーいう流れなんすか、これ。
何一つ状況が掴めない赤也は幸村まではいかないにしろ機嫌が良さそうな、もとい面白い観察対象が身近にいたものだと喜んでいるような柳に投げかける。
問われた側はうっすらと瞼を持ち上げ、鋭さの内にどこかあたたかなものを宿した眼差しで応じた。
言っただろう。今日だけは精市に逆らうなと。
赤也が目や耳にしている時はほとんど、正確な言葉しか紡がない唇が上向きに捻られている。それで、とりあえず慶事なのだと判断した。

しかし、の形相はあまりにも無惨なものだった。
配慮や気遣い等から辞退しているだけで幸村への好意がないわけではないだろう、初めはそう受け取っていたのだが、柔和な仕草で腕を引く神の子と真っ向対決するが如く、両の足で踏ん張って後退の許しを得ようとするその顔色はとてつもなく悪い。
年頃の、というか赤也の知っている女子ならば、注目の的である幸村から誘いを受けて一刀両断に断ったりはしない。断ったとしてもポーズ的なものだ。
えーやだーそんなの悪いよー等と口に出しつつ、そこで本当に止めでもすれば、空気読めだの女心がわからないだの甲斐性無しだの散々悪口雑言を影で叩かれるあの面倒な感じ、と赤也は思い浮かべた。浮かべるだけでげんなりする。
だから挨拶も自己紹介の間もなくどういった人物か知らずにいた初対面時、も同じような種類の女子であろうと見立て、よう頑張るのう、まるきり他人事じみた呟きを落とす仁王に同意も否定もせずにいた。
視界に割り込んでくる程の質量とは考えなかったのである。
その直後、世の女性はこういうものだと個を蔑ろにした予想が崩れた。
ずるずると引き摺られた少女が校門へ続く道まで辿り着き、いよいよ本格的に校外へ向かうかというその時、決死の覚悟を決めた表情で突き進む一方の男をなんとか立ち止まらせようとしたのだ。
土が靴の幅だけ抉られ、長く伸びた跡は騒がしい。
力んだ所為で弾む息の白さに彼女の周囲は染まっており、駄々をこね、その場から動きたくないと抗う子供そのものだった。
真田の眉間に深い皺が寄る。丸井がガムを綺麗に膨らませた。
柳生は困り顔のまま眼鏡のブリッジを押し上げ、ジャッカルがおろおろと幸村を止めようか止めまいか惑い、仁王と柳は薄ら笑いで傍観している。
赤也はといえば、ぽかんと大口を開けて、二人の攻防にもなっていない攻防を見つめるしかなかった。
目一杯引き結ばれていた少女の唇が、戦慄いて撓む。

「…っ無理! 無理だから! マジでイヤ! ほんと無理!」

悲鳴に近い叫びである。
頬は強張っていた。力の入れようからすると上気しても良いはずだというに、顔面蒼白なる表現が最適だ。加えてほぼ半泣き、全体的に引き攣っている。
そこにはポーズ的な遠慮も、笑顔の底に沈めた男からすればそりゃねえよと泣きたくなる本音も、好意を寄せる相手の前でどうにか取り繕おうという意気込みも存在していなかった。
誰がどう見ても本気で嫌がっている。さながら権力者に浚われかけた十人並の町娘が、どうかご寛恕下さいと懇願しているようだった。
んな感じの時代劇、田舎のじいちゃん見てたわそういや。
在りし日が脳裏をよぎり、頭に超が付く程の拒絶振りを間近にして赤也は若干引いた。
動作のどこを取っても無理強いだとか乱暴だとかいう表現の似合わぬ神の子が、まさに神の如しあたたかな笑みを佩いて、かくなる上は爪を立ててでもと荒ぶる子羊へ優しく言い落す。

「大丈夫。無理じゃないから」

根拠がない。
おまけに彼女の訴えを、一欠片も意に介していない。

「私の話聞いてないよねその答え!?」

同等の感想を抱いたらしい悲嘆に満ちた声が、絵具の水色を溶かしたような空へと高く舞い上がっていった。


スタート地点がとんだ珍事だった為、恋人同士という単語などしっくり来るはずもない。
というより二人の関係性を赤也に明かされたのは出会いの日から数週間後だったので、そう易々しっくり来るはずがなかった。
なんだ知らなかったのばりに話題にされた時など、驚くあまり声でけーしと丸井に強めに小突かれる程度の大声を上げてしまった。

初対面時、店に着くまではそれなりの興味を持っていた赤也であるが、網目に肉が並び始めるともう食の他には関心が向かない。よって、観念したが項垂れて歩いていた道中は元より、珍妙な初対面以外の記憶があやふやなのだ。
あの二人が付き合ってるてどういう事だ、去来した衝撃を乗り越え、そういやどんな雰囲気で話してたっけ、おぼろげな過去の糸を手繰れば、肉、肉、肉、とにかく肉、食欲をそそる音を立てて焼かれるそれらの合間、煙の向こう、テーブルの隅で所在なさげに座る小さな肩が浮かんでくる。
脳を絞らんばかりに思い出そうとしたら、時折おこぼれ程度に寄越されるカルビ、ロース、ネギ塩タン、豚トロ、見かけからして美味ですと中枢に訴えかける肉を数枚、ちまちまと啄んでいるシーンが徐々に明確となってきた。
如何に短時間で肉を胃へ収められるか競いでもしているのかという勢いで食す赤也を初めとした数名から外れた柳が、落ち着き払った所作でトングを掴みながら縮こまった少女へ二、三声を掛け、烏龍茶に口をつけた柳生は仁王が各々のタレに妙な悪戯を仕掛けやしないかさり気なく目を配っている。
赤也にとってはとんでもない鈍さだとしか言い様がない速度で箸を口に運んだを眺める幸村は、向かいの席を陣取ってい、滅多に表へ出さぬ上等の微笑みをたずさえつつ、机に肘を付いて何事かを言い落とした様子だった。
唇の端は親しげな弧を描く。
微かに傾いた首に釣られて、髪が揺れる。
煙る白の狭間、恐ろしい時はそれこそ鬼のように恐ろしい人物の眦が淡く溶けかかった所で、斜め後ろから出現した横暴な腕に己の領域と定めた肉が掠め取られ、皿がひっくり返る大騒ぎとなったのであった。
当然立海テニス部の風紀を守る番人たる真田に怒りの鉄槌を下され、その後も某赤毛の食欲大魔神と肉を巡っての合戦を繰り返したので、覚えていないのが道理というものだろう。
それでか、納得したのち、なんとも形容し難い心地に陥る。
他人の、それも先輩の事情に口を挟むつもりなど更々ないが、赤也の脳裏に刻まれたと幸村のやり取りは、世間一般の想い合う男女という枠組みから少しずれていた為、なんか違う、思ってしまったとて致し方なかろう。
どうも、あの幸村ならば才色兼備な相手を選ぶのではないかと無意識の内に決めてかかっていたらしい、悟った瞬時に大急ぎで振り払う。
これではいつか倒し超える壁ではなく、叶わぬ高みに居る人だと感じ入っているからこそ関係ないはずの付き合う女子にまで同じものを求めているようでないか、有り得ない、ナンバー1を目指す限り、神の子を仰ぐ心境でいてはならないのだ。
三連覇を成し遂げられなかった今夏に比べ幾らか忍耐力の備わって来た少年は、己に都合の悪い事実を忘れる技術にもまた磨きをかけているのであった。
ものの見事な手腕で余計な思考を払い除け、やがて訪れた中学最高学年の日々に埋没し、一度も話した覚えのない、もしかすると他人よりも遠い先輩の彼女という存在を綺麗さっぱり忘れていった。

思い出したのは、あっという間の一年が経過した春の事だ。

諸先輩方と等しく立海大附属の高等部へ足を踏み入れ、入学式特有の浮かれた空気に酔い痴れていた。
快晴の名に相応の空は高く澄んでおり、散り綻んだ桜の花が煉瓦の道を埋め尽くす。
薄桃色の絨毯は、始まったばかりのこれからに祝福を捧げながら延々と続いているようだった。緩い風が頬に当たって吹き抜けてゆく。テニスコートが見たいと、考えるまでもなく素直に思った。
あれそういや幸村はどこ行ってんだ、ジャッカルがふと零し、部員全員の行動範囲を把握しているんじゃないか疑惑の拭えぬ柳が端的に答えた。の所ではないか。確か、図書室まで迎えに行くと言っていたはずだが。
会話のさ中で何の気なしに飛び出た名前を耳が捉え、生じた驚愕は口を割って転がり出る。

「あの二人まだ付き合ってんすか!?」

爆笑、苦笑、眉を顰める者、幸村に知れたらと万が一を案ずる者、興味深そうに光った物騒な目、様々な反応が打ち返される早春の日差しを縫って、涼しげな声音が赤也を嗜めた。

「……お前は相変わらずだな。口は災いの元、という諺を知らないのか」

たわけ、入学早々そんな浮ついた事を気にしている場合か、腕組みをした真田が檄を飛ばし、高等部でも参謀と呼ばれる先輩は顔色一つ変えずして続ける。

「信じられぬのならば精市本人に聞いてみるといい」

不可能だと知っておきながらけしかけるのだから、この先輩は神の子と違った意味で恐ろしい。
赤也は何卒ご勘弁を、と懸命に首を振った。
あの人達には黙っといて下さいよ、付け加えるのも忘れずに。


学年は違えども学び舎が同じであれば、それなりに掴めてくる事もある。
赤也はまず、己の腹から飛び出した率直な一言が、あながち間違っていないではないかと少々憤慨する破目となった。
幸村精市という男は目立つ。
突飛な行動を取ったり、奇抜な容姿をしているわけでないが、来歴が本人の意思とは関係なく耳目を集めてしまうのだ。
内面に秘めているものと正反対に物腰だけは無駄に柔らかく、しかしプレイスタイルは対戦相手どころか観客までをも圧巻し、それこそ五感を震え上がらせる威力さえ持ち得ている。ひょっとすると一見ちぐはぐだが絶妙なバランスの上に真っ直ぐ立つ姿に、人は心惹かれるのかもしれない。
だが、注目を浴びればその分厄介事が増えるのが世の常というものである。
過去をやたらと悲劇に仕立てて囃す者も中にはいた。
一過性の熱を患い騒ぐだけ騒ぎ、恋人がいると聞くや否や潮は引くよう消えていった女子もいた。
やっぱ病み上がりが主将じゃ三連覇なんて土台無理な話だったんだよ、好き放題に揶揄嘲笑する品性の卑しい人間だっていた。
聞いているだけの赤也がつい赤目になりかける輩も心の底から応援してくれる人々も合わせて群がる渦中にあって、当の本人は悠然と構え決して動じない。優雅でさえあった。
浮ついた匂いの凡そ感じられぬ、実年齢からかけ離れた地に足のついた雰囲気が、一層数多の視線を引き連れる所以となっていくからこそ、赤也ばかりでない、大体の人間が彼の恋人はどのような人物かと好奇に目を輝かせるのだ。
そうして大概が、いるにはいるが何故か決定的と言える仲睦まじい瞬間を目撃した者が見当たらない、と首を傾げる事と相成る。
実際その通りだった。
彼らの触れ合いといえば、昼食を共に取るか、廊下の片隅で立ち話をしているか、並んで帰宅の途についてはいるものの手も繋がずじゃれ合いもせず黙々と歩いているか、と単なる友人同士に取られてしまいかねない程度なのである。これでは赤也の驚きようも不思議ではない。
それくらい、時たま校内で見かける二人の間には、色気のいの字も存在していなかった。少なくとも、赤也の目にはそう映った。
けどどっかイイとこねえと一年も付き合わねーだろうし、まさか付き合ってもいないのに嘘とかつく人じゃねーし、やっぱわけわかんねえ。
心中で行き詰まり、頭の後ろを掻いていた手を放り投げると同時熟考する努力をも投げ出し、元々余計な事を考え悩む質でもない、入学式からそう間を置かずして彼の思考はその他大勢のものと些か異なる軸で回り始める。
必要以上の好奇の眼差しをへ向けるのは止めた。
幸村や他の先輩達の話の中で名が浮かび上がる時、なんとなく心に留めておく。
偶然、渡り廊下や職員室前、部室棟の近くでかち合えば、運動部の後輩らしく挨拶をする。
初めの内は何故自分を知っているのか、声をかけるのかと声もなく訴えるぎょっとした表情、やや慣れてくるとつっかえた返答、もう一歩進んだ頃に遠くから会釈のみをしたらば小さく手を振って来、季節が初夏に差し掛かるとささやかな笑顔と共に名前を呼ばれるようになった。
一つ年嵩の女性に言う事ではないかもわからないが、目に見えて警戒心が解けていく様は面白い。
彼女は世間一般の人間より大分、わかりやすい人なのだと赤也は悟った。

割合遅刻魔だと、高等部でも風紀委員を務める真田の小言で知る。
ついでに忘れ物も多い。これは昇降口や職員室前で、あれを忘れたこれを忘れたと友人らしき女子生徒と話しているのを見かけたからだ。

赤也と同様、英語が苦手。
言葉と思うからいけないんだよ、もうね、これはただの暗号。パズルのピースを埋めていく作業。化学式と一緒。考えるだけ無駄。ていうか私日本から出ないし英語とか必要ない。
遠い目をした彼女の手には丸より罰印の多い答案が握られており、うつろな響きを奏でる唇が、典型的話せない実際には使えない日本人にありがちな英語の克服法を説く。
幸村に呼び出されたのか、暗闇迫る部室前で立ち尽くす姿に、意外な所で同志を見つけたと赤也は諸手を挙げて賛同した。ほんとッスよ、なんでナチュラルに英語が世界の中心の言葉みてえになってんのか意味わかんねーす。丸め込まれラケットバッグの底に隠蔽された、赤点の答案用紙を踏みつける意気だった。
すぐさま声が返る。
だよね、私なんて英語の勉強が一番ダメだもん。察するに成績上位者でないのだろう。
妙な親近感が沸いたその時、テニス部部室の扉が開かれ親父のそれより三倍激しい雷が落ちた。
揃いも揃って、たるんどる!
筒抜けになる程壁が薄かったのか、自分達の話し声が大きかったのか、どちらにせよ過ぎた時間は取り戻せない。
赤鬼面で英語の点数が悪いのは如何に恥ずべき事かと言い連ねる真田に、片手でネクタイを締めながら、赤也、丸めて仕舞い込んでいる答案用紙を出せ、と全てを見透かしてくる柳、最奥の椅子に腰かけ暢気に笑んでいる幸村と、豪華な三強に囲まれ叱責を食らったのはなかなか稀有な経験だ。
の方は幸村と二人で答え合わせし苦手問題を潰していく予定らしかったので、ある意味とばっちりだったのだろうが、生憎可哀相だ何だと気を配る余裕はなかった。親よりも苛烈な真田の説教が耳を打って痛い。
お叱りの度合いが赤也と少々異なるのは、彼女が劣等生ながらも一生懸命にペンを握るからだ。傍らの幸村がノートに指を差しつつ、解へ通じる道しるべを与えている。
やっぱ別に似てねえじゃん、俺と先輩。
余所事に気を取られたのをあっさり見破られ、脳天に特大の拳骨を食らった。

普通のようでいてその実そうでもないと気がついたのは、最近の事である。
部活終わりに、じゃあまた明日、言い置いて校舎の方角へ向かう幸村の背をぼんやり見送っていたら、柳が前置きもせず確かな音で呟いた。
大抵の者――ああ、自身もだな、普通だ特徴がないだと評するが、あの精市と長く付き合っている時点で並の神経ではないと俺は思うぞ。
いつぞやの己の心の内を覗かれた心地がしてぞっとしない。
声や態度に出したつもりなど一度たりともないのだが、どうしてか立海が誇るデータマンには容易く悟られてしまう。しかし異論は出なかった。収束しつつあった考えをまとめて来なかっただけで、赤也自身思う所でもあった。
は普通以上にわかりやすい。
そして赤也には見えず、上にか下へか知れないが、何かしら抜き出ていて、どこかが特別なのだろう。
付き合いの薄い赤也ですらそこはかとなく感じるのだから、幸村にとっては、一等に違いない。
変わらず、わけわかんねえ、ぼやく事もある。
だけれど表立って恋人らしい振る舞いを見せない二人に流れる、誰にも明かさぬ秘密めいた熱の一端を理解し始めている。







「あ、チーッス」
「こんにちは」

日に日に濃さを増す日差しをたっぷり含んだ廊下で、今となってはお決まりになりつつある手短な挨拶を交わした。は後ろ手に下げた鞄をぶらつかせながら簡潔に微笑む。
よそからの情報を聞く限りほとんど年上らしい部分のない先輩ではあるが、こういう何気ない所作は同学年の女子に比べどことなく大人びている。
しっかしまぁ一年、あちげーやもう一年越した、とにかく長いよな、高校生活の約半分同じヤツととかなんかあんま想像できねえ。
互いに立ち止まり、今日練習見に来るんスか、間に合えば行くかも、世間話に近いやり取りを重ねる片隅で声という形にせず呟いた。思えば先輩の彼女などと特殊な位置にいる女性と、ここまで会話する仲になった事などない。
皆差はあれど付き合ったり告白されたりしているし、赤也も他の先輩達の恋人と面識がないわけではなかったが、のようつかず離れず、定められた距離に居続けた人物はなかなか思い当らなかった。
日課なのかと問いたくなるくらいテニスコートのフェンスに張り付くでもなし、一切の興味がありませんと通り過ぎるというものでもなく、隠れてこそこそと眺めている雰囲気かというと違う、彼女らしくはないかもしれないけれど友人よりは近しい、不思議な温度が感じられるのだ。
とはいっても一癖も二癖もある選手が揃っている部だ、赤也に悟らせないだけで、おそらく幸村以外の先輩方にも大切にしている相手がいるのだろう。
包み隠さず、かといって過分にひけらかしはしない神の子が例外なだけ、という可能性が無きにしも非ず。
段々と思索に耽るだけ無駄だと思い知らされる心地になって、手持無沙汰であった両手を乱雑にポケットへと突っ込んだ。

「間に合う?」
「……いやぁ……うん、補習があって」

侘しくも悲しき事情であるが、同時に尊敬に値する行為でもあったので、赤也は他意なく続きを紡ぐ。

「まじすか。先輩そんなんマトモに出るとか超真面目ッスね」
「真面目…にしてるつもりなんだけど、ほんとに真面目に授業受けてたら補習なんかいらないはずだって先生に怒られたからね。それ素直に受け取っていいかどうか微妙」

乾いた笑いが鼓膜で砕けて失せる。余韻はなかった。
英語の答案用紙やら教科書やらと睨み合う、部室での横顔が不意にフラッシュバックした。対する幸村の表情。決して怒り等は見せず、穏やかな微笑を纏っている。
ああそうか、この人ら目に見えてイチャイチャしねえけど、なんか空気が惚気てんだ。
腑には落ちたが、事故同然にあてられた気分に襲われ釈然としない。
抜けた声を供とし、よくわかんねーけど大変ッスね、言い終えた丁度のタイミングで可愛らしさから程遠い音量で腹が鳴った。
目を丸くしているではない。
出所は部活前の腹ごしらえが不足気味であった赤也だ。
やべ。
部の先輩を前にしているわけでないのに、自然と背筋が張ってしまう。

「食べる?」

が、そのわずかな間には鞄の内ポケットから手に収まる包みを差し出した。
第三者がいれば餌付けだと揶揄される状況だが、断る理由もない。

「あざっす」

礼もほどほどに受け取ったカントリーマアムの袋を破り、つくづく思う。
ばあちゃんみてえ。
本人に伝えればまず間違いなく憤慨される一言なので心にだけしかと押し留めた。
実はこうして施しを受けるのは、初めてではない。
今日に限らず、飴、クッキー、アイス、煎餅、多岐に渡る種類の菓子を恵んでくれるは、どうやらばら売りだとか安売りだとかで、通常よりも安価で買い物をするのが得意らしい。
幸村をはじめとする先輩方のやり取りでそれとなく知った情報だから、実際の所はどうなのかわからないが、おそらくそう大幅に間違ってはいないだろう。
大量に買い込むでもなく、自分一人で処理が叶う量でもない、少し余るくらいを購入し、非常食代わりかという頻度で鞄にそれらを潜ませている。
ゆえに新発売のものやコンビニに陳列されている類いのものではなく、昔懐かしい雰囲気漂うパッケージしか目にした事がない。
聞いた話では冬場などホッカイロもその手腕で蓄えるらしく、筋金入りだと感じ入った。これで夏には麦茶を作っていたら完璧だ。何がってそりゃ、ばあちゃん度が。
お姉さんお母さんを飛び越え評される彼女の恩恵を受けるのは、何も赤也ばかりに限定されてはいない。
食に並々ならぬ情熱を傾ける丸井など、差し出される前に自ら奪取しに行く。
一言目は、よお、粗雑な挨拶、二言目になんか持ってたらくれ、ゆすりたかりか何かかといった調子で尋ね、しかし問われた側は気にする素振りも見せずに応じるのだ。
いいよ。
人が好い。
というより、多分何も考えていない。
自分が買ったのに、勿体ない、金払え、等々のネガティブな面は元より、人様に良く思われたい、恩を売っておこう、といった打算のどちらも存在していないのである。更に言えば親切心ですらない。全てにおいて拘りがないと言い換えても良いかもしれなかった。
それを理解しているからなのか、時たま場に居合わせる事もある幸村は、大概自分の彼女をのんびり眺めている。
程々にしないと太るよ、軽い暴言を両人に向けながら微笑み、自分好みの菓子だった場合はかつての己の発言も何のその、俺にも一つちょうだい、屈託なく座に加わった。
また、この日はついでに穏やかな声音を落としたのであった。
今度はどこで仕入れて来たの。
聞かれたから、といった調子でがなんなく答える。
こないだバスいっこ乗り過ごした時、通りすがりにあったスーパーで。
遅刻をした上急ぐ気配がなかったのを匂わせている物言いに、本人だけが気づいていない。背後で青筋を立てつつある真田をよそに幸村は、なるほど、と愉快そうに破顔した。ちなみにが自らの失言を悟ったのは、数秒遅れての事だった。
実に能天気で、ひょっとすれば考えなし、角張った所の見当たらぬ人物である。

だからだ。
先輩の、それも幸村の彼女だというのに、どこか気が楽なのは。

つるりと喉越しの良い感慨を飲むついで、口を滑らした過日が蘇った。



「私も怖いよ」

その時の赤也は体力をほぼゼロまで使い果たす部活後で疲労していた。深く考える余力がなかった。だから弾みのように聞いてしまったのだ。
恐ろしくはないかと、もっと砕けた言い草で直裁に。
学校内での幸村精市という人物の立ち位置、浴びる視線の数々、過去の事だと言い切れぬ病。どれもこれも自らの努力で好転するものではない、様々な事実を鑑みれば、荷が重いのではと感じた。
俺が女だったらぶっちゃけちょっと遠慮したいッス。
続けた言葉に、彼女はうんと呟いたのち、静かに答えた。私も怖いよ。口には出さぬ真意を読み取ったかのような声色が耳を揺らす。
蛍光灯を反射した髪の筋がなめらかに流れていた。女子の夏服の襟元は頼りない。
がゆっくりと睫毛を震わせ、その傘の下にあるまなこの表層は暗く翳り、しかし確かな光が奥底で瞬いている。
恐れを形にしておきながら、常ならば付随するであろう絶望は宿っておらず、したたかな色だけが彼女の周囲を包む。
声もなく音もなく佇む様を目にし、釣られた赤也は押し黙った。

それから数日も経たぬ放課後、奇しくも部室で幸村と二人だけとなった時間が訪れたのも覚えている。
まず挨拶を終え、いくつか今日の練習について聞かされて、薄い沈黙が横たわる。ラケットバッグをベンチに下ろした。ロッカーを開ける音が室内に響く。
胸中で渦めいた、不可思議な空白が生まれ、堪り兼ねて唇をこじ開ける。
どこがいーんスか。
シャツのボタンに指を掛けた幸村が首を捻り、続きを促す素振りで赤也を眺めるので、赤也は自分で振ったくせに渋々と付け加えた。
先輩の、どこがよくて付き合ってんのかなって。
一拍の間も置かず吐息の混じった笑声が空気を伝う。
どうしたんだい、急に。
面白いものを見た、言わんばかりの口調と頬の緩みに、あーやっぱやめときゃよかった、等と勝手に不貞腐れる背中へと言葉が投げ寄越される。想像だにせぬ早さだった。

「雨が降っているとするだろ」

だが、まるで関係性が見えない。
赤也は思わず振り返り、なんの話っすか、率直な疑問を口に上らせぶつけた。
既にウェアに着替えている幸村の行動は素早い事この上なく、話を聞いているのかいないのか、真っ当に答えるつもりがあるのかないのか、はっきりと掴めないからもどかしい。
さっさと顔の向きを戻した神の子は、赤也の方をちらとも見ずしてつらつらと言を並べていく。

「雨宿りをするか。傘を差すか。屋根のある場所まで急ぐか」

はね、多分どれでもないんだ。
聞き慣れぬ少女の呼び方に少しばかり動揺する。遠く幽かだった二人の内に、ぐんと引き寄せられた心地だ。

「どんなに濡れようが時間がかかろうが、一度走り出したら最後まで走る。初めはとりあえず行ける所まで行って、無理そうだったら止めようとか考えているんだろうね。けど途中から濡れると段々どうでもよくなってきて、まあいっか、それでお終い。結局止めない」

素っ気無さすら感じさせる調子で連ね、ふと息を切った。

「だから俺はいつも、が走り抜けようとするのを先回りして、傘を差してやりたくなるんだ。そういう所」

言下にロッカーを閉め、すっかり着替え終えた幸村が肩にジャージを羽織る。ひらめいた端は上に下に揺れ、独特の影模様が舞った。
つまり、どういう所。
無粋な問い掛けの間も与えずして、鋼鉄じみた背の人は最後に爽快な笑顔を置き土産に部室から去って行く。
半端な格好で半端に口を開き、はたまた半端に立ち尽くしていた赤也は、入れ代わりに入室して来た柳生に訝しげな眼差しを向けられたのであった。



「……いらなかった?」

不思議そうな声が見上げて来、我に返る。
さながら走馬灯のよう巡っていた情景は消え去り、赤也を見詰めるのは眼鏡の奥に在る双眸ではなく、当然の疑問を抱く少女のそれだ。
いつの間に取り出したのか、自分の分のカントリーマアムを手にしたのかんばせには光も影も浮かんでおらず、この上なく健やかだった。
やたら慌てて返事をする。
いやいるッス、食うッス。
舌に触れた甘味は完全にとはいかずともいくらか飢えた腹を癒してくれた。
同じものを頬張る現状に妙だと感じつつ、嫌なものではないひずみを覚え、食んでいる唇と舌がもつれそうになる。
口にすべき言葉を抱いている。しかしその方法が見当たらなかった。
多少の苛つきに心中で顔を顰める赤也は、もどかしさ故のものだと突き止める事が出来ない。



とはいっても、日々の端で芽生えている何とも言い難い感情ばかりを気にしている訳にもいかないのが、部活動に懸ける少年の幸いだろう。
夏へ向かう季節に置いて行かれまいと必死に食らいつき、汗みずくになってボールを追い、精根尽き果てるまで没頭する。
見る見る内に太陽は天高く昇り、長くなった昼が茹で上がる暑さで以って者皆全てを包み込んだ。どれだけもっとラケットを握っていたいと願ったとて、過ぎる一方の時間を止める事など何者にも叶えられやしない。
あっという間に地区大会がやって来て、その後はまるであらかじめ定められていたよう結果が手に入っていった。
待ち望んでいた真夏は訪れまでが夢に似て遠く、訪れたと思ったら終わってしまう。
気温と湿度ばかりが高く、カレンダーに綴られた数字は何もかもを置き去りに、秋の傍へと近づいていく。

夏とその次の季節の狭間で、赤也はまだまだ強い日差しの降り注ぐ校舎横をひた走っていた。

服から足から滴る水の残滓が駆ける背を追う形で乾いた地面に跳ね、小さな雫は丸い体を保てずすぐさま土に吸い込まれ、染みのよう点在し来た道を如実に浮かび上がらせる。足跡よりもわかりやすい。
気まぐれな方向へ飛ぶ水の粒は時折、丈の低い草木に引っ掛かり、葉の上を伝って穂先から零れた。
瑞々しい色の緑が陽に輝き、水に触れた箇所はなめらか且つ透明に濡れ光っている。
まともな部分を探す方が難儀な有り様となった原因など、大した時間が経過していないにも関わらず曖昧だ。
誰かの悪ふざけが発端だったのだが、その人物が特定出来ない。
赤也はタオルを頭から垂らし、コート近くを歩いている所だった。
視界が極めて狭まる中、背後から強烈な勢いで噴き出したであろうと推測される水に打たれ、ものの数秒で濡れ鼠と化した。
驚きと抗議の声と共に振り返れば、既に濡れそぼった姿の丸井がホースからだくだくと水流を噴き零している。
後はもう、語るべくもない。
先輩も後輩も関係なしといった体感的には涼しい乱闘が始まり、体ばかりか辺り一面をもびっしょり湿らせる始末である。
惨状の割に苦言を呈す者はおらず、親父のそれよりも恐ろしい雷が落ちるより早く、詐欺師のペテンが披露されるより先に、皆等しく水を被った。
事もあろうに高等部でも三強と呼ばれる怪物共が揃いも揃って子供じみた遊びに興じたので、ブレーキを失ったも同然だ。
雲一欠片もなく、天より降るきつい陽光が追いつかぬペースでしぶいた水で地面は濃く影っている。蒸発する暇も与えられなかったらしい。
逃げ回りやり返す内に荒くなった呼吸を飲み、腹から空気を吐き出す赤也の濡れ髪は、雨に降られでもしたかのよう重たげに撓っていた。
あらかた騒ぎ尽くすと一人二人、輪から抜け出す部員が現れ、どこか清々しくも呆然とした気持ちに浸ってしまう。
空が青い。
真田がむっつりとした仏頂面で、蛇口を目一杯捻って止めた。あれでは次に開ける者が苦労するだろう。
垂直に下りた前髪を掻き上げる柳は、さて後始末だが、と現実味に溢れた提案で浮き立っていた空気へ重石を乗っける。
赤也はと言うと、更衣室のシャワールーム使うから許可と鍵取って来い、まるきり下っ端の仕事を押し付けられて不平を吐いた。
なんで俺なんすか、しゅぼうしゃが行くべきっしょ。
きちんと意味を知った上で言ったのか、今の言葉は。いいから早く行け。面倒だから教師に見つかっちゃならんぜよ。裏から走ってった方が早いんじゃねえか。
寄越される、彼の意見など初めから受け入れる気がないとわかる声の数々。
ぜってー行かねえ冗談じゃねえ俺悪くねえ。
意地を見せる赤也だったが、濡れては一大事と避難させていた愛用の帽子を手に取って帰って来た真田が生真面目な顔つきで、ならば俺が共に行こう、首謀者ではないが部を預かる立場の者として云々かんぬん、口にし始めたので最後まで聞かずに脱兎の如く駆け出した。
あの調子で隣にいられては堪ったものではない。
承服しかねる扱いに対する怒りはあれど、趣味説教としか思えぬ厳めしい先輩と道中共にするより一人で走った方が余程ましである。
はたして苦行から逃れた赤也は、言われるまでもなく通常のルートでなく近道を選択した。
部室棟と職員室は些か離れているし、水漬く肢体を堂々晒しては注目を浴びて面倒かもしれない。我ながら咄嗟の判断にしては上出来だと自画自賛する。

茶色い壁と生い茂った草木の間を縫い、しばし似た景色を繰り返していた所、僅かな木陰が少しばかり晴れる場所へ突き当たった。
左手に花壇近くの水場が見える。
一つ目の校舎の壁を抜けたのだったが、鍵のある職員室へ行くにはまだ次の壁に沿って進まなければならない。
土を踏む足に力を籠めたと同時、コンクリート造りの水道から顔を上げた人物が視界に映り込んできた。
屈んで手や顔に付いた汚れを落としていた様子の、幸村だ。
加速しつつあった両足が緩む。
いつどうやってあの場から抜け出したのか全く謎である、油断も隙もとはこの事か、というか面倒事から上手く逃げている、感嘆と不満とがない交ぜになった腹から名を紡ごうとし、あえなく断たれてしまう。
日々屋外で駆けずり回っている自分達と比べれば格段に白く細い腕が、幸村へ向かって伸びていた。
木々の幹や葉に隠されていたのだろう、突然現れたよう感じた赤也は驚きに歩を完全停止させる。すわ幽鬼の類いかと錯乱し、額にその指先が触れても尚穏やかな表情を保つ幸村の様を見、すぐに正気付いた。

ああも容易く触れるのを許し、許されるのは一人しかいない。

どうしてだか喉元で燻っていた呼気が一気に引っ込んだ。
しらずしらず息を殺す。わななく蝉が喧しい。こめかみを伝った水の粒が冷え冷えと赤也の頬を濡らした。
後ろ姿しか視認が叶わぬけれど名前だけは確かな女生徒は、ひどく丁寧な手つきで張り付く前髪を除けてやっている。くすぐったそうに片目を瞑った幸村が次いで吹き出し笑ったので、何事か声を掛けられたのかもしれなかった。
不意に彼女の腕が下り、滲んでいた幸村の目元もはっきりと開く。
そうして間を置いたかと思えば、見せびらかしでもするかのようウェアの裾を掴んで絞り、しこたま蓄えていた水を流してまた笑う。覗いた腹までしっかりと水気を帯びてい、先程の乱闘が如何に激しかったかよく知れるというものだ。
慌てた様子で飛び退いた少女は肩を呆れと怒りに染め脱力したのち、手元の鞄を胸前に抱え直し中からミニタオルを取り出すと迷いなく濡れ滴る髪へ差し向けた。
上向いているお陰で端のめくれたシャツから垣間見える二の腕が、目に柔い。
拭いやすいように屈む幸村は眦に微笑を含み、静かに睫毛を伏せた。
踵を持ち上げ背伸びするが苦心している。
低い背は小刻みに上下したが手先だけは軸を据えており、無様に揺れ動いたりはせずゆっくり肌を這う。
前髪の除けられた額、眉の上。
生え際からこめかみ、耳殻の近く、後ろへ掻き遣られた髪の筋。
瞼を上げた幸村が優しい所作で彼女を見下ろし、瞬きした。顔ばかりか体の先までが透けた陽の光に揺れ、口の端は綻んでいる。
薄く開いた唇がごくたおやかに言の葉をかたどった。
聞こえるはずもない。
この距離では、形さえ窺い知れない。でも理解出来た。

許し許される一人の名を呼んだのだ、おそらく、否、ほとんど確信に近かった。
それまで大人しくしていた幸村の左手が宙を行き、懸命に水滴を拭う小さな掌へ触れる寸前、あらん限りの力で以って赤也は駆け出す。その瞬発力といったら、陸上部も追い越す程のものだった。
前を見ず後ろも振り返らない。
足の裏を突く羞恥のような、見てはいけないものを見てしまった時の後退りのような、罪悪感のような、ともかく一言で表現しきれない感情に焚きつけられてどうしようもない。
頬が異様に熱いからきっと血の気が集まっているのだろうが、意味も訳もわからなかった。
なんで俺が逃げるみてーな真似しなきゃなんねんだ、考えながらも両の足は止まらず走り続ける。
再び壁と草木をくぐり抜けていくさ中、同じくらいの速度で思考が脳裏を駆け巡った。

自分以外の誰かを大事にするとは、心を預けるというのは、ああいう事なのだろうか。

時に鬼よりも鬼らしい幸村が周囲への注意を払わず、気を緩ませ、ともすれば無邪気などという単語が似合いの笑みまでたずさえる様が、全面の信を寄せているよう映る。
走れば走る分後悔が追って来、つい先刻までは誉めそやしていた判断がいまや憎らしい。
この道を選ばなければ良かった、見なければ良かった。
だったらまだ逆に、熱烈に抱き合っているだとかわかりやすくキスをしているだとかしていてくれた方が、百倍笑えたし話の種にも出来たし遠慮なくドン引きする事も出来たろうに。
思いきりあてられた気分になってしまっているのが不愉快だ。
なるほど越えねばならぬ存在はこういった面でも上を行くらしく、もっと不愉快だった。
自ら取った行動ではないというのに気恥ずかしい。
――己にないものを持っている二人が、羨ましい。
生まれていたひずみの解、探せずにいた言葉が突如として溢れ、けれど一瞬でも絶対に認めたくなかった。
振り払わんと幾度となく繰り返す。
ナンバー1は俺、ナンバー1は俺、いつか絶対超えてやる。テニスでも何でも負けねえからな。

忙しなく先へ進む赤也の足元に、いまだ乾かぬ水の粒がぱらぱらと音を立てて降り止まない。



様々な熱の籠もっていた頭は職員室に辿り着く頃にはすっかり冷えていた。
馬鹿正直に事情を説明したので対応した教諭は当然お冠であったが、いつになく赤也がしおらしい所為か説教もそこそこに、あまり羽目を外し過ぎるなよ、割合あっさり許可と鍵を寄越してくれる。
漠然とした虚脱感を抱いたまま駆けた道を、今度は人目を避けないルートでとんぼ返りし、濡れ鼠姿で談笑する先輩方の元へと戻った。
言葉少なに鍵を渡す。
赤也が職員室へ向かっている間に合流したのか、ちゃっかり輪に加わっている幸村がご苦労様と笑っていたが、顔を合わせられなかった。昨日の今日よりも短い、さっきの今ではどういった表情をすればいいのか全くわからない。
常とは異なる態度を、使いっぱしりにされふてくされているものと受け取られたのだろう、誰も赤也に突っ掛かっては来ず、まあさくっと鍵借りられて良かったな、ジャッカルが宥めるように背を叩くのみであった。
ところがシャワーを浴び身綺麗になってもいつもの調子を取り戻さないでいれば、基本放任主義である者もまあまあ目を向け始める。
沈んでいるのではなく、単に冷静になっていただけなのだが、普段の赤也を知っていればいるほどそうは思わなかったらしい。
なんだよんな怒られたのかよ、丸井がガムを噛みながら口火を切って、仁王がさも楽しげに細めた目で呟いた。お前さん叱られて落ち込むような殊勝な奴じゃったか。
嗜めるのは柳生だ。仁王君、そんな言い方は感心しませんね。切原君にも反省する心があるのかもしれないのですから、決めつけるべきではないでしょう。さりげなく一番手厳しいのであった。
ひとまとまりになって昇降口へ向かう途中で柳が図書室に寄ると抜け、真田と幸村は全員がシャワーを終えるのを待たずして職員室へ言い訳、もとい赤也の三枚は上手のフォローをしに行っていたので、立海男子テニス部の芯たる三強が失せる形と相成り、密かにではあるが場の空気が抜ける。
外は茜色に染まりきっていて、傾く日差しが痛いくらい眩しい。
ぼんやりと最後尾を歩く赤也にジャッカルが、そういや来月誕生日だろ、とあくまでも何気なく声を掛けた。後輩思いもいい所のお人好しである。にわかに視線が集まったのを肌で悟る。
居並ぶ年上の部員達に揃って何か欲しいものはあるかと暗に尋ねられた年少者は、ややあって素直に求めた。

「……彼女が欲しいッス」

途端、方々から上がる雑極まりない非難。
盛ってんじゃねえ合コンでもしてろ黙ってテニスに励め真田がいなくて良かったな。
深い溜め息を吐かれても何のその、赤也は胸の内で反抗する。
わかってねえ。
ただの彼女じゃなくて、俺が大事にしようと思えて、俺を大事にしてくれる彼女が欲しいんだよ。
ないものねだりとは言わせない。一切存在しないならまだしも、身近にいるのだから、不可能等という事はないはずである。幸村に出来て己が出来ぬ道理はない、ないと信じて今までやって来たし、これからもそうして進むのだから。
瞼の裏で揺れる憧憬が、挑み誘うように手招く。
笑う影。指先の白。
木々の緑を反射した光は眩く輝いた。
見知らぬ表情を湛えた幸村が周囲の何処にも眼差しを配らず、ただ一人の少女だけを視界に映している。
夢か幻というわけでは決してなかった、あれは現実だった。
だからただ羨ましく眺めている場合ではないし、欲しがるばかりでいてはならぬのだ。
ちくしょう。見てろよ。
込み上げる炎めいた感情をひたと隠し、リベンジを誓う意気でぐっと拳を握り込む赤也なのであった。







余談も余談であるが、気持ち新たに日々へ臨む少年は、数日と経たぬ内に幸村精市という計り知れぬ剛の者によって出鼻を挫かれた。
それはそれは鮮やかな手刀だった、とのちの赤也は回想する。
快晴と残暑続きの放課後、鼻歌混じりにラケットバッグを背負いコートへ向かっていた時、昇降口のドア前で例の二人に出くわしたのだ。
どちらか片方のみならまだしも、揃っていたのがまた良くない。意図せず反射的に身を竦ませ、ぎょっとした表情を浮かべてしまう。
幸村は常と変わらず笑んでいる。
が軽く会釈をした。
一人勝手に気まずくなった赤也は、ちわ、と真田がいれば大目玉のふてぶてしい挨拶で以って二つの視線を跳ね返す。

「今日はお腹減ってない?」

何も知らない少女が、全く邪気の見当たらぬ問い掛けを寄越してくる。

「へーきッスよ。つーか別に俺だって毎日腹すかしてるわけじゃねーですって」

少々毒気を抜かれた気持ちで隣に佇む幸村を盗み見たが、鷹揚に構え微笑を唇の端に滲ませているだけで、腹に抱えでいるであろう一物だか二物だかは欠片ほども感じられなかった。
不変の空気に、そもそもどうしてビクついている、自分が無駄に気遣う必要などどこにもないはず、馬鹿馬鹿しくなりかけた時、

「そういえば聞いたよ。誕生日に欲しいもの」

思いきり背骨を叩き割られる。
あくまでも例えだが、同等の衝撃はあった。
ぎくりと首が固まって、両の肩は縮こまり、顔面が凍りつく。幸村は怒気も呆れもなく、ただただ愉快そうに瞳を揺らし、心からの笑みを抱いている。

「え、切原くん誕生日なの」

またしても何も知らない少女が目をしばたたかせていたけれど、生憎赤也に答える余裕はない。神の子と対峙するので精一杯だった。
奥歯を食いしばる勢いで息を詰めていれば、更に破顔する。
フフ、酷い顔だ。
酷いのはあんただ、と赤也は率直に思ったが死んでも口にすまいと堪える。

「そんな今にも噛みつきそうな顔をするものじゃないよ。俺は真田じゃないからね、たるんどる、なんて言わないし止めもしない。いいじゃないか、欲しいものは欲しいって素直に言えば。頑張って手に入れて、皆を驚かせてくれ」

あからさまに面白がっている口調、顔つきでを背中を押された所でちっとも嬉しくない。
他意はなさそうだが、それはそれでどうなのだろうか。決して越えられやしないと確信しきっている余裕のようでもあるし、相手にされていないようで腹が立つ。
返すべき言葉を彼にしては珍しくじっくり考え、張り付いた眉で眉間に皺を刻んでいると、微笑みに細めていたまなこを開いた幸村が事も無げに言い切った。

「けど、俺のはあげないよ」

声音はしんと響く。
剣呑な空気も射抜かれる厳しさもなかった。
嘘と本音を交互に重ね、全て承知した上で所有を主張し、見事にからかっている。完敗だ。
返すべき言葉を用意する時間など最初から与えられていなかった事を悟った赤也はしかし、言われたままで終わらなかった。

「………いらねっすよ。俺ぁ自分で見つけますんで。つーかそうしねえと意味ないじゃないすか」

明後日の方向へ放られていた目線を正面に据え、確かにはっきり宣言する。
が幸村と赤也とを順繰りに眺めては戸惑う。
幸村はといえば、今日一番の一笑で赤也の前途を祝福した。

「そう」

短い中にも真田とはまた違った威厳が溢れているので自然と背筋が伸びる思いだ。
言うだけ言って満足したのか、三年生が引退したのち当然のよう主将を引き継いだ人物が、後ろも見ずに歩み始める。存在しないはずのジャージが翻って見えた。恐ろしい。

「…………あの、全然わけがわかんないんだけど」

最も事情を把握していないが困惑しつつも言い差して、一歩、赤也の側に寄って来た。

「でもって私が余計な事言うまでもないと思うんだけど、幸村くんの持ち物欲しがるとか切原くん……無謀にも程があるってば」

なんとも平和な先輩である。
些か脱力した赤也はそれでも一応の礼は通し、欲しがってねッス、と明確に否定してやった。信頼と羨望をこめて、堂々と。
数歩先を行く幸村が彼女の名を紡ぐ。呼ばう声に応じた少女が駆けようとし、赤也を軽く振り返る。
誕生日いつか教えてね、ちょっとならカンパ出来るから、多分。
親切ではあるのだろうけれど語尾が心許ない。やはり平和だ。ウッスと頭を下げた赤也を見届けてから、が高い背の後を追う。

並び立った二人の間には距離があった。
声と声を交わす仕草は親しげだが、とても気安く目に映り込んでくる。
不思議と揃った歩幅に合わせ振動する背中がそんなはずはないというのに、柔らかく見えた。
手は繋がない。腕も組まない。抱き合うなんてとんでもない。
単なる友人同士だと取られかねない、かつての赤也が抱いていた感想とて今や紙の如き薄さで説得力を失っていた。
誰にどう思われようと、恋人には見えないと評されようと、もっと確かなものがある彼らには関係がないのだ。赤也にすらそう悟らせる程、ひけらかすまでもない当たり前のものが。

独りでに溜め息が零れる。
何やらどうでもよくなってきた。
晴れ渡った空がまた腹立たしい。
色気のない相変わらずの位置を保ち歩く揃いの背中へ鼻先を向けた赤也が、むず痒さをどうにか抑えて言祝いだ。


ごちそーさんです、末永くお幸せに。