Over? 精市くんは、コートの中と外じゃ違う人みたい。 告げると彼は少しだけ目を丸くした後、ふうん、興味深そうに呟いた。それから穏やかな微笑みを滲ませ、優しく尋ねるのだ。 そういう俺は、嫌いかい。 ※ 多忙な精市くんにしては珍しく、日没前の帰宅が叶った。 テニス部の全体ミーティングが予想以上に早く終わり、中等部との兼ね合いで高等部側は個人練習という流れになったらしい。 各々が散らばっていく中、変わらず神の子と呼ばれ続けるその人はメールで連絡すればいいものを、わざわざ昇降口で靴を履き替えている私を呼び止める。、帰るなら途中まで一緒に行こう。背後ろからの声に素早い反応が出来ずローファーを摘んだまま振り返ると、目によく馴染んだ柔らかい笑顔が向けられた。 下駄箱の横を歩く男子生徒が好奇の眼差しで通り過ぎていく。 ほんのり滲む羞恥心を堪えよくよく話を聞いてみれば、これから付き添いもなく一人病院で定期検査だというのだから、たるみつつあった心の筋を正す他ない。 「…じゃあ私も一緒に行く」 途中までじゃなく。 付け加えると、彼は何気なしに目元を和らげる。 「ありがとう。でも血液検査とか、他にも色々あって時間がかかるんだ」 だから付き合う事はないと言いたいのだ。 ぐっと息を詰め、べつに私にだってそれくらいの時間はあるよ、唇の端からこぼれ飛び出しそうになるのも堪えて妥協点を模索した。 「それなら病院の前まで行く」 「にかかると、俺も小さな子供と一緒だね」 打てば響く反応が戻り、微笑みと共に封じられる。 可か不可かが精市くんはわかりにくい。 わかりやすい時もあるのだがそれは彼がわからせようとしているからであって、私の側が聡いだとか見破る能力に長けているだとかいうわけでは決してないのであった。掌の上とはこういう事を言うのだろうか。 深読みして唸る頭が段々と痛んでくる。 こちらをやんわり嗜める時の彼に逆らっても無駄だととうの昔に知っていた私は、大人しく従う事にしたのだった。 昇降口の相変わらず大仰なガラス扉を押すと、日一日と深まる秋の気配が頬を差す。 ゆるく吹く風や陽射しから夏の名残が消えたばかりか、どことなく冬の訪れすら感じさせるものが含まれていて、冷え症の自分にとって鬼門である季節が来るなと若干憂鬱になってしまう。 いつ見ても何故か重たげで迫力のあるラケットバッグを背負う精市くんが、あからさまにからかう口調で言った。 「そろそろホッカイロの出番?」 「……まだ早いよ」 「出し惜しみして、風邪引いたりしないように」 「あのね、ホッカイロだって無限に出てくるわけじゃないんだからね。時と場合を考えて使わないと冬乗り越えられないでしょ」 潤沢とは言えぬ懐事情と談合し、天気予報や予想気温をチェックした上で使用個数と使用日を吟味するのだ。私にとって死活問題である使い所を冗談で決められちゃたまったものではない。 反抗の意も込めて返せば、へえなるほど、初夏の風に揺れる柔らかな葉の如し微笑みでかわされてやや脱力する。 自分から聞いてきたくせに笑っておしまいにするの止めて欲しい。 と思いはしたが、実際に訴えたとしても叶う確率が低そうなので唇に糊を張り付け、ただ敷地内を通り抜ける事のみに没頭しようと決めた。 これはただの下校にあらず、病院の検査が待っているのだと思えばこそ焦る足で急ごうとしたその時、背後から彼の名前が叫ばれ、二人揃って振り返る。 学年主任の先生が、悪いな幸村ちょっといいか、と片手を挙げて呼んでいるのだった。 私が何事かと問うより先に隣の人が肩から荷を下ろし、近くのベンチへ立て掛ける。 「待ってて、」 一連の颯爽とした仕草はほぼ社会人のそれだ。今更つっこむ気力も起きない。 突然の呼び出しだったにもかかわらず、ちっとも不思議そうな表情を浮かべないで慣れた風に言い置く横顔の瞳だけが私を見つめ、やがて去っていく。 命令されたわけではないが、有無を言わさず次の行動を決められた感はある。 明確に気遣われたわけでもないが、座っていろと声なき声が聞こえた気もした。 サーイエッサー。 神の子の思し召しをないがしろにする選択肢は存在しない、言われるがまま、いや、実際には言われてないんだけども、立て掛けられたバッグの傍に腰を下ろす。 右肩に引っ掛けていた自分の鞄を腿横に落ち着かせ、少し古びた木製の背もたれに体を預けた。 頭上で秋色の葉がささめく。 涼しいというよりは冷たいと言うべきかもしれない風が吹く都度、乾いた音を立てては何枚かが地に落ち、陽を浴びた木陰は揺らめきながら細い光の縞を作っていた。 早めに終わったテニス部以外の部活はまだ活動中のようで、よく伸びる掛け声が高い空へと溶けていき、釣られて見上げればひつじ雲が群れをなして浮かんでいる。 あれが厚くなると、明日は雨。 ことわざみたいな豆知識を教えてくれたのは、楽しそうに土いじりをする精市くんだ。 趣味趣向はどちらかと言えば洋風なのに、時々和の様子が入るのはチームメイトの影響なのだろうか。 彼らのよう汗だくになってコートを駆け回るわけじゃない、冬場の気温ならともかく天候を気にして空と睨めっこする機会なんかほとんどなかった。 だからこれも、精市くんと一緒にいなければ知らなかった事のひとつだ。 雲の名前なんて理科の授業で習ったきり、テストが終わればすぐさま忘れる代物で、身近なものになるとは夢にも思わなかった。 牧羊犬がいない天の青い草原をゆったりを進む真っ白な群れを眺め、鞄の紐を軽く摘んでいた両手をベンチに置く。 と同時、立て掛けられていたラケットバッグが大きく体勢を崩してずり落ちた。 あ、とか、わ、だとか声を上げる暇もない。 視界の端で捉えて即、反射的に腕が伸びる。 すわ地面に激突かという寸前、間一髪のタイミングで掴むのに成功してひと息ついたら、バッグほどじゃない重さのものがこぼれる音がした。 背中を丸めて覗き込むと弾みで外ポケットから飛び出てしまったのか、見慣れたリストバンドがひとつ、ベンチの足近くに転がっている。 さっきは制服の裾から似た色が鎮座していたので、スペアか何かに違いない。 今程度の衝撃で落ちるという事は多分、仕舞うというか大雑把に突っ込んだだけだったのだろう。 ラケットバッグの立て掛け方といい、所作が丁寧な優等生に見えて精市くんは時々とても男の子らしい。つまりは雑。 どうしたA型男子、とふざけながら落ち物を拾った途端、驚きが勝手に喉を駆け抜けていった。 「えっ、重!」 思いきり独り言だとわかっていても、抑えが間に合わない。 ただのリストバンドでないと知ってはいたが、手にした重量が想像以上だった為に素で慄いてしまったのだ。 少しついた砂を払い掌の真ん中に乗っけてみると、遠慮なしに圧し掛かってくる。 記憶が正しければ、精市くん並びにレギュラー陣の面々がこれを外している場面などお目にかかった事はほとんどないように思う。部活中に限定されず、結束の証めいた象徴物として四六時中手首に張り付いていた。 この重さを、おそらくは一日中である。 しかも片方だけでなく両手首、それから足にも巻いていたはずだ。 なんていうかもう怖い。本当に同い年かと疑う。 まあまあ長いお付き合いになっても一体どのくらいの重りが入っているのかとか知らないな、と持ち主がいないのをいい事に、好奇心の赴くまま威圧感のある黒い輪に手を通すと、精市くんなら手首辺りで止まるはずのそれはするする進み、中間というか肘寄りの部位まで来てやっと嵌った。 うわあ。 自分でも思った以上にドン引きした声が出る。 手で持つより一層重く、腕を持ち上げるにもいつもと同じにはいかず、確かに体を鍛える用具のひとつなのだと実感する他ない。 これが両手足について日常生活か。いやテニスすらやってのけていやしなかったか。そんなのただの超人だ。ぞっとするどころか最早畏敬の念レベルに達しつつある。 背筋がまっすぐ伸びる感覚を抱きながらダンベルを持つように腕を上下させ、私はこれだけでも筋トレになりそう、などとどっかの誰かさんが聞けばたるんどると一喝してきそうな事を考えた。 感嘆の溜め息が自然と込み上げ、唇から流れていく。 「…随分可愛い事をしているね」 突如降って沸いた声に面白い程肩が跳ね上がった。 ギャアとみっともない悲鳴を上げずに済んだのは不幸中の幸いだ。 普段感じる機会のない、ある意味では身近な重さに夢中になっている内に用事を終えてきたのだろう。声のした方向へ目線を合わせれば、精市くんがのんびり腕組みしながら立っている。 「あ、ご、ごめん!」 落ちていた所を拾ったのだから不可抗力だ、とはいえ人の物を触っていた事には変わりなく、悪事を目撃された小さな子供の気分になった。ついでに好きな人の持ち物に黙って触れていた気恥ずかしさにも襲われる。 一瞬で色んな感情に振り回されながら慌てて謝罪を口にし、拾ったらすごく重かったからちょっと試したくなって、ほんとにちょっとだけです、と弁解になっていない弁解を連ね、これまた慌てふためき外そうとしたら、 「いいよ、外さないで」 綺麗に口角を持ち上げたその人に押し留められてしまう。 秋の日に当たっている側からベンチのある木陰へと歩み、迷いなく私の隣に腰を下ろす。 返す言葉に詰まった私は精市くんをただ眺め、リストバンドを嵌めた左腕を取られるまで間抜けにもぱくぱくと口を開閉させるのみであった。 優しく引かれた所で、あの、何を、しどろもどろに尋ねたが、微笑みを崩さない彼は手短にうん、と呟くだけで明確な答えをくれない。 仕方なしに掴まれた己の腕へ視線を落としていると、私には過ぎた筋トレ用具でしかないリストバンドがずらされる。 そうして抜けていくのかと思いきやちょうど手首で止まるので、ぴったり嵌るよう調節してくれているのだと悟った。 日頃はそう意識していないけれど、こうして見ると精市くんと私の手とでは結構な差がある。持ち物ひとつで体のつくりの違いがわかりやすく浮彫になるのは少しだけ不思議で、少しだけ鼓動が速く駆けていく。 なんとなく黙っていれば、ふと横を向いた精市くんがバッグに指を掛け、いくつか中身を引き出した。実に迅速な手つきである。 見惚れている間、右手首にも黒色が巻きつけられていく。 これはとことん試しても良いという事か、元より彼に咎めるつもりがなかったのは知っていたが、それでもまさか逆をいくとは思わなかった。 片方だけでも恐れ慄くくらいだったのに、今や両手である。振り解きようのない重石に引っ張られているみたいだ。万が一この装備で海やらプールやらに入ったら確実に命の危機、もしもの未来にうすら寒いものを感じて眉間に皺を刻んでいると、何なら足も俺がつけてあげようか、隣の絶えぬ笑顔がとんでもない事を言ってのけるので力一杯辞退する。 全力で断られた割に気にする素振りを見せない人から足首用のパワーアンクルを借り受け、靴下の上から取りつけてみた。 立ち上がって、まず重い。 一歩ずつ進む毎に増していく。 慣れない重力に晒されたみたく、手足ばかりか体の全部が地面に落ちていきそうだ。 ものすごく歩きにくいし、手の振り方がよくわからなくなってきて、いつもどうやって動いていたかも危うくなった。 とにかく重すぎる。米俵とか重石だとかを抱えているわけじゃないのに、どうしてか全身が思い通りにならなかった。 と、目に見えてぎくしゃく歩みになった自覚はあっても、背後で遠慮なしに笑われては面白くない。 「……ほんとに重たいんだからしょうがないじゃん」 「俺まだ何も言ってないけど」 「言ってなくても笑ってたら一緒でしょ!」 体の向きを変えるのが少々骨なので首から上のみで振り返ると、堪えきれないといった表情の精市くんが頬杖をついて私を眺めている。 この重量に慣れ親しんだ人からすれば、そりゃさぞかし珍妙愉快な光景だろうけど、いわば鍛錬初心者の自分に華麗なる歩みを期待されても困るというものだ。 もう一歩踏み込んで、方向転換をする。 細心の注意を払わないと、手先の重りに振り回されて転びかねない。 ベンチに座る人は優雅に見物を決め込んでいた。 走るなんてとても無理だ、試しに軽く二回ほどジャンプしてみたら、着地の都度足の裏が痺れる衝撃に襲われわずかに呻いてしまう。 すぐそこでやんわり笑んでいる彼が、こんな負荷のかかった状態でコートを縦横無尽に走り回っているなどと初対面の人は考えもしないのではないだろうか。だってあまりにも見た目から抱く印象とちぐはぐ過ぎる。 ひょっとしたら誰よりもテニスに熱を注いでいるのだから当たり前なのかもしれないが、それを当然のものとして私が受け取るのは何か違う気がした。 一体どれだけ練習に練習を重ねたらこの枷をものともしない動きが出来るようになるのか、と途方もない想像に身を委ねかけ、陽光よりもあたたかな声に呼び戻される。 「そんなに重いかな」 問い掛けてはいるが、そこまで不思議じゃなさそうなのが不思議だ。 精市くんは葉の影に笑む唇を紛れさせていた。 「重い」 「フフ、即答なんだ」 「ていうか軽いわけがないし……これ、いつもつけて生活してるの?」 ほとんど毎日会ってるんだからわかるだろう、肩を揺らして楽しげに曲がる眦が秋の空気に溶けて優しい。 そりゃそうだけど、と口ごもる私は手足に巻きついた黒を見下ろす。 付随する重量感を今の時点でずしりと感じてしまっていては、とてもじゃないがテニスといった激しい運動は勿論の事、日常生活さえまともに送れないだろう。 たとえばこのまま外さずにいた場合、後になればなるほど辛くなる可能性が高く、じわじわとボディブローのように効き、完璧なまでの筋肉痛に襲われて屍と化する図しか思い浮かばないのだ。 この負荷に365日休まず怠けず耐え、あげくのはてはテニスで全国一を奪い取りもする。 北風に吹かれたわけでもないのに背筋が寒くなった。 何度でも繰り返すが怖い。 立海テニス部レギュラー陣は、私の常識から大きくはみ出したトンデモ集団である。 「俺だって、いきなり今の重さにしたわけじゃないよ。最初はもう少し軽いやつから始めるんだ。その内気にならなくなるし、そう難しい事じゃないんじゃない。慣れればも平気になるさ」 真剣にパワーリストを睨む私を見かねてか、精市くんがフォローのようでいてその実無茶が過ぎる仮定を放った。 一体何を言い出すんだこの人はと訴える表情を隠さないでいたら、ちなみに真田は寝る時も外さないらしいよ、と新たな情報を植えつけられる。 最早筋トレとか訓練とかいうレベルではなく修行僧だ。 真田くんは元から煩悩の類いなど自力で散らせそうなのに、これ以上どこを鍛え何を得ようというのか。 驚愕の事実に打ちのめされ、心の中にてかぶりを振る。 ダメだ、この人達と同じ目線で物事を語られても一切共感出来ない。 「精市くん達みたいな体力おばけと帰宅部の私を一緒にしないで絶っ対無理!」 「あはは! 体力おばけか。酷い言い草だなあ」 「酷くない。こんな重いのつけて生活してみろとか女子に向かって言う方がもっと酷い」 「はい、曲解しない。ただ、が思う程すごくはないよっていうだけの話なんだから」 言葉の始めから終わりまで実に普段通り、何の引っ掛かりも覚えさせない。 事実を口にしているだけだと言わんばかりのシンプルな宣言である。 余計な修飾などどこにもなく、かっこつけたり、自分を大きく見せたり、あるいは謙遜したりなどという嘘の匂いは感じられなかった。 その気負いのなさが、のん気に座って微笑む人のテニスへ向ける情熱をありありと物語っている。 どんなに辛く重い荷でも抱え、日常に鍛錬を組み込んで、けれどそれは大した事ではない、やって当然と平気な顔でこなしてみせる。私にしてみたら苦行にしか思えぬ全部が全部、テニスの為なのだ。 たおかやという表現が似合う彼のラケットを振るう姿、握った手の感触や触れるとかたく引き締まった腕に肩にと、風貌とすぐには結び付かない諸々を頭の中で順に辿っていく。 コートに立っている時だけ、見た事もない厳しい視線を投げる。 私なんかはラケットの面に当てるだけで精一杯の小さなボールを巧みに打ち分けて、相手側へ強烈に叩き込む。 息つく間もない試合のさ中、軽々としたラケット捌きで素人目には返すのがとても難しそうなボールを弾くよう打ち、鮮やかにポイントを勝ち取った。 なびくジャージが王者は己だと物言わずして語る。 厳格の擬人化かといった具合の真田くん以上に重厚な雰囲気を纏い、掃き清められ整備されたテニスコートで、線が細い割にどうしてか鋼じみた背中を伸ばし立つ。 見据える先に勝利を求めているからだろうか、一点から動かない両の目には何者も寄せ付けない火花が散っていた。 かと思えば、土いじりに精を出し、咲き誇る花と一緒に微笑む。 あたたかい陽射しの積もった校庭や屋上で柔らかな髪を風に遊ばせながら、花壇を見ていたり、本を読んでいたり、プリントに目を落としていたりする。 偶然、私を見つけた時の瞳は凪いで穏やかだ。 こっちにおいでと手招きをする、指先がゆるい。 笑って小首を傾げると精市くんはいつもより少し幼くなって、声も部活中やテニスと向き合っている最中とは異なる音を奏でた。 秋の雲は天高く、空は夏より薄い水色に染まり、渇いた地面に陽の粒子がくまなく降り注ぐ。 一歩と二歩、三歩、踏み込んだ。 まるきり小さな子供みたいな危なっかしい足取りで進み、見よう見まねとしか言い様のない動きで、想像上のラケットでありもしないボールを打ってみる。 手足首どころか体中が重くなっている為、経験者から叱られる事間違いなしの恐ろしくのろい素振りになった。 「フォームがなってないな」 早速飛んできた指摘は、どことなく面白がっている空気を含む。 「そんなの当たり前じゃん…私ほとんどテニス経験ないんだよ」 「じゃあ、どうしたの。急に素振りなんかして」 一秒よりもっと短い僅かな時間、胸の中に空白が生まれた。 だけど次にまばたきした時には答えが浮かんで来て、考える間もなくするりと唇から抜け出していく。 さっき数歩歩いた際に向けていた背を翻し、悠然と構える彼と向き合う。 「精市くんは、コートの中と外じゃ違う人みたい」 後々思い返してみれば、会話が繋がっているようでいないし精市くんの質問に対する回答にもなっていない。相変わらず思ったままを言葉にしただけの、感想にさえ成り損ねた一言だった。 いくら何でも唐突過ぎて驚いたのか予想外だったのか、精市くんは少しだけ目を丸くしたのちに呟く。 ふうん。 言い終えた時にはもう元の彼らしく、興味深そうな光を宿している。ともすれば不躾な表情は隠さず、穏やかな微笑みを滲ませて、優しく問うてきた。 「そういう俺は、嫌いかい」 会話不全状態に呆れられなかったのはいいが、質問の意図がわからない。 ただの一言も好きだの嫌いだのと口にした覚えはないというのに、どうしてそっち方面からの突っ込みを寄越すのだろうか。 思いがけない攻撃にたじろいだ私は口ごもり、しばらく無言を貫いた。が、頬に当たる視線は待てど暮らせど剥がれない。 気まずいというか、じんわり気恥ずかしくなって俯いてしまう。 そういうわけで先に音を上げたのは、例によって例の如くまたしても私の方であった。 「……いやあの…き、嫌いとかじゃなくて」 「なくて?」 「た…っただの感想だから! 突っ込まれてもなんにもないし、ていうかなんで今好きとか嫌いとかの話に」 「なるほど、大体わかったよ」 「何が!?」 思いっきり途中で遮られたあげく、私自身さえ理解しきれていない事をわかったなどと言い切られても困る。 そういえばこんなやり取り前にもしたなぁ、などと浸る時間も与えられないらしい。 精市くんは間髪入れずに取って返してきた。 「は時々すごく真面目だ」 膝上に肘をつき、手先をだらりと下げていようともそこは神の子、たるんだ雰囲気など一切醸し出さない。時々って事は基本は不真面目って言われてるのかなこれって、思い悩みつつ精市くんの真意を読みあぐねていれば、 「もう少し馬鹿になって、俺に夢中になってくれればいいのに」 色んな意味ですごい発言を投下され顔面が硬直した。 困ればいいのか、恥じればいいのか、褒められているのか、貶されているのか、何もわからない。 立ち尽くす私を見、首を傾けた精市くんがちょっと困った風に笑う。 「でも、ありがとう」 何が。 なんで。 直情的な問いを口にする寸前、先回りされる。 「君が真面目に俺の事を見てるから。まあ、それがもどかしいっていうのも勿論あるんだけど、だからって嬉しくないわけがないだろう?」 行こう、。病院まで一緒に来てくれるんだよね。やっぱりお言葉に甘える事にするよ。今日は俺に付き合って。 言うだけ言って腰を持ち上げた人は、触れたらほぐれそうな微笑みを湛え、ひと息にすらすらと言葉を並べてみせた。 呆ける私は追いつけない。ついでに突っ込みも追いつかない。追いついたのは間抜けなうろたえだけだ。 「え、でも…い、いいの、私?」 「うん。気が変わっちゃった。苦労かける」 かつて何度か聞いたり言われたりした彼なりの謝罪の言葉を、大袈裟に言う事で可愛らしくふざけているのだとわかったが、突然の展開に首を横に振るしかなかった。 苦労だなんてとんでもない。 言葉にならない返事が伝わったのかどうかはわからない、精市くんは静かな息を漏らして微笑を滲ませる。 「重くて歩けないのなら、俺がそこまで行って外そうか」 「い……っいい! 歩ける! すぐ行く!」 茶化されて初めて、距離を置いたまま会話に耽っていたあげく、手足首の重りがつけっ放しだと気付くのだから嫌になる。 慌てふためいた私は全力で辞退し渾身の力を籠めて走り出したのだが、力を入れた分だけ体が軽くなるわけもなく、とてつもなくぎこちない姿勢になってしまう。 とうとう声をあげて笑い始めた精市くんを睨みつけ、はっと立ち止まり、それから己の馬鹿さ加減に背を打たれた。 「……待って、これべつにつけたまま走る必要なくない!? 外していいよね!?」 「気付くのが遅いよ、」 大笑いを隠しもしない人の顔色はこの上なく健やかで、これから向かう先が病院だとは信じられないくらいだ。 ※ そういうやり取りを重ねながら、共に過ごしたからだろう。 着信音に叩き起こされた翌朝、画面に浮かぶ登録名を見ずとも予感めいたものがあった。 最近の朝夜は秋らしく冷えており、ぬくい布団の中から抜け出すのはなかなか骨が折れる。うう、と呻き声をあげながら毛布の波間を手で探り、ひんやりした外気へ向けて指を伸ばして、震える端末を掴んで即ブランケットの内に引き込んだ。 通話の画面を押す寸前、微かな明かりに彩られ浮かぶ現在時刻が視界の端に入り、ものすごい勢いで気力が萎えてしまう。 早すぎる。 6時の全然前ってどういう事。 まだ薄暗いんですけど。 ぶつけるべき対象のないぼやきを声にする元気もなく、止まない呼び出し音に急かされ、霞みがかった頭を覚醒させず電話に出る。 「……もしもし………」 『おはよう。寝てたね?』 携帯のスピーカー越しに響く思った通りの人の声は、すっきりとしていて爽やかだ。 しかしいかに透き通っていようとも、今の私の脳内を晴れ渡らせるだけの威力はない。むしろ逆に曇っていく。 「…………おはようございます……寝てました……」 くぐもってぱっとしない返事である。 いつもはある程度離れた所から聞こえる吐息の混ざった笑い声が、耳近くでひそやかに鳴った。 『布団をかぶって話してるだろう』 「……だって寒い…」 『まだ秋だよ。今からその調子で、冬になったらどうするつもりだい』 「………じゃあ眠い……」 『そうだね、はこの時間に起きた事がなさそうだもの』 ぐずる子供と嗜める大人の構図そのものだ。 自覚はあっても、今さっきまで眠気に支配されていた頭と体のスイッチをいきなり入れる事は難しかった。接触不良、もしくは錆びついて動かない。 脳裏にくだらない例えを描き、しぱしぱする目を擦る。 話す内、微笑みを深めるばかりの声色が鼓膜を撫でていく。 『本当に眠そうだ』 何がそんなに楽しいのだろうか、語尾まで柔らかく揺れていた。 「眠そうじゃなくて眠いんだってば…精市くん、今何時かわかってる?」 『ああ。けど俺は、の眠そうな声が好きだから』 舌足らずで可愛い。 大層甘やかな言いざまに、鼓動が高鳴るよりも先に混乱が波打つ。 日頃からしてこういう突拍子のない発言の対応に苦慮するというのに、今現在の状態できちんと返す事はほぼ不可能に思えた。結び付かない脳内回路があちこちで詰まって機能不全に陥る。 ……褒め殺し? ゆえにぼけてずれた回答しか編めないのである。 全く以って情けない事だったが、そんなどうしようもない私に、優しい気持ちを含んだ返答が電子音にまみれて寄越された。 嫌だな、俺がそんな事する人間じゃないってもう知ってるだろ。朝から物騒な言葉を使うものじゃないよ。 精市くんは笑いながら電話を持ち替えたようだ。それらしき物音がする。だけど彼が家の中にいるのか、外にいるのかはわからない。 『、もう少し大きな声で話してくれ。ちゃんと聞こえない』 「…だから今何時だと……早朝だよ……」 『朝も夜も関係なく、聞きたい時があるんだよ』 答えになっていない。もう考えるだけ無駄な気がしてきた。 横向きになっていた体をうつ伏せにし、かぶった毛布はそのままに窓の方を見遣る。 カーテン越しに届く光はびっくりする程か細く、朝焼けも訪れていない空模様を連想した。 目蓋は重く、頭も冴えず、隙間から差し込む空気が朝方らしく冷えている。 滑りの良くない舌がかろうじて回り始めたが、労力に見合わぬ問いしか出て来ない。 「……精市くん。なんかもう全部よくわかんないんだけど、ちょっといい」 『どうぞ?』 「…声聞いてどうするの」 『どうもしないさ。俺が安心するだけ』 彼にしては珍しい言い方に、一瞬脳が目を覚ます。 昨日の病院。 よぎった単語は生々しく、私の心を掻き乱す。 尋ねた所ではぐらかされるか線引きされるかだととっくの昔に味わい尽くしているから、今更しつこく問い詰めたりはしなかった。検査を終えた精市くんはいつもと変わらない様子だったので、私の方も問題はなかったのだろうと判断しほっと息を吐いていたのだ。 もしかして、何かあったのか。 嫌な想像に胸が騒ぎ、喉元が不吉に蠢く。携帯電話を握る手がしらずしらず力んでしまう。 『それですっきりして、心から思うんだ。君が今日一日、元気でいられますようにって』 そうして緊張に身を竦めていたら、やんわり微笑んでいるのが電話越しに聞くだけでわかる、平和な事この上ないのんびり具合である。 あっという間に強張りが抜けて萎んだ。 また妙な方向に深読みした、なんでこう空回り、いやそっちがまぎらわしいのがいけないんだ、朝から心臓に悪い。 元の霞のさ中に戻っていく脳が安堵にだらける。耐え難い眠気は去ったものの、残り香に似た余韻はいまだ健在だ。 「……あのね、保護者じゃないんだから」 『深い愛を感じるだろ?』 「……自分で言う……」 『自負しているからね』 いまいち冴えない私の語り口を跳ね返すのは、穏やかな音の内に彼特有の強さが感じられる、今ではもう親しみきった声だった。 そう、信じられない事に、神の子と称され立海ではスター扱いの男の子は、嘘みたいに馴染み深い。 毎日を過ごし、季節を越え、精市くんとの時間はどんどん自分の一部になっていく。 切り離す事が難しくて、日に日に埋まる学生生活の思い出はことごとく染まり、今更他の色など混ぜられない。 遠いかもしれない、とそこで初めて不満を覚えた。 電話越しの声はいつも聞くものとはやや異なるから不思議で、ほとんど耳で直に聞く所為で近くもあるけれど、それが余計に焦れる。胸の奥を不意に撫でられたような、落ち着かない気分になった。 うつ伏せから仰向けに体勢を変える。 まだうっすら暗い天井をなんとはなしに見上げた時、静かな呟きが落っこちてきた。 『だから、俺が淋しい時は飛んできて』 何がどうして、だから、なのかわからないし、第一会話の前後が繋がっていない。 そもそもその台詞、男女逆じゃないのか。 普通は女の子が言うものだよね。普通をこの人に当てはめていいのかどうかわかんないけど。ていうか言ってる意味がまずわかんない。 無数の突っ込みが脳内を駆け、どれも捕まえる事の叶わぬまま消えてしまい、結局最後はいつも通り、考えなしの一言であった。 「………それなら私、どこまで飛んでったらいいの?」 瞬時、耳のすぐ傍で破裂音がする。 乾いた空気が跳ね、方々に散らばっていくようだった。 早朝という時間も電話もお構いなしに、彼が盛大に吹き出したのだ。遠慮という文字が辞書にない様子で、込み上げる笑いを抑えもせず続ける。 『あはは! いいな、は本当頼もしい。…っふ、はは!』 揺れ動く声音がおかしくて仕方ないと訴えており、微妙に馬鹿にされているのではと疑う程だったけれど、私の頭には楽しげに頬を緩ませる一番の笑顔しか浮かばない。 私は色々と諦めた。 充分馬鹿になってると思う、と昨日告げられた言葉に向け黙って応じる。面と向かってだったら今の三倍恥ずかしかっただろう、電話はこういう時有り難い。 しばらく自由に笑い、ややあって乱れた呼吸を整えた精市くんが、携帯端末の向こうで私を呼んだ。 『じゃあ、いつもの駅までお願いしようかな。学校へ向かう前に少し寄り道しよう。ああ、海まで行くのもいいね。の目も覚めそうだし』 お望み通りに飛んでいく事をしかと決めてしまった私は、とりあえず上半身を起こす。 急ぐから朝ご飯をコンビニで買ってもいいかと許可を求めると、不健康だと軽めの叱責を受けたものの結局は許してくれた。たまにはいいんじゃない。声はやっぱり笑っている。 陰りのないその響きに力強く引かれ、薄手の毛布を蹴飛ばす勢いでベッドから下り、素足には辛いフローリングの床も何のその踏み越えた。 やや冷たく張り詰めた空気に晒された体は、ついさっきまでまどろんでいたとは思えないくらい目覚めている。 多分精市くんのおかげだと思うけど、今は黙っておく。 告げたが最後、絶対逆手に取って、ここぞとばかりにからかってくるに違いない。 『気を付けておいで。慌てなくていいよ。ゆっくり待つのは、嫌いじゃない』 囁く言葉に頷きながら、だけどなるべく早く行こう、密かな反抗を企てる。 だってゆっくり行ったら飛んでくって事にならないし。 通話を切って、無闇に沸き上がる気力を持て余さないで済むよう祈りながら、私はドアノブに手を掛けた。僅かに居座っていた寝起きの気だるさも、精市くんがもたらした朝に溶かされ消えていく。 |