本能に忠実




年が明けてからの精市くんは忙しい。
元日はあけましておめでとうのラッシュに飲み込まれながらも人波を泳ぐよう上手に捌いて、正月気分なんて無縁だとばかりに休みもそこそこテニスに励む。
もちろん、学業だっておろそかにせず、ガーデニングの方も抜かりなく手間暇かける。
そうして1月を終えたと思えばすぐにバレンタイン、1ヵ月もしない内に卒業式、精市くんの誕生日にホワイトデー。
息つく間もないとはこういう事を言うのだろう。

校内がおろしたての制服に身を包んだ新入生で華やぐ、桜の季節はもうすぐだ。
薄桃色の花びらで木々が鮮やかに染まるその頃には、私達は進級している。
目まぐるしい日々の中にあって、いまだ神の子の名を背負い泰然と振る舞う人と迎えた、いつも通りの春。
高校三年生を目前にしても、迷いの見受けられぬ瞳はずっと変わらない。
想いが籠もった数多くの贈り物を、自分のロッカー前で整理する背中を見つめながら、ついこの間も似たような情景を目にしたなと思い返していた。







今更あえて感想を述べる所でもないけど、2月14日はお祭り騒ぎという名の戦争だ。
精市くん自身は高校一年生くらいの頃から面と向かって渡されたり記名のあるチョコなどを丁重に断っているので最盛期に比べれば放課後に抱える量は減っているが、それでも強豪テニス部の実力者、本来なら面白くないと拗ねてもいい立場の私ですら引くほど貰いまくっていた。
いつもの事ながらどうやって処理しているのか。
尋ねたい気持ちをくすぶらせつつも、なんとなく怖くて聞けず仕舞いだ。

「俺よりもっと貰ってる奴がいるよ」

言って首を傾げる人の喉仏が楽しげに上下した。
多分、丸井くんだとか仁王くんだとかを指しているんだろうけど、立海テニス部の面々は揃いも揃って桁外れだからあまりアテにならない。同じ面子と何年も顔を突き合わせていれば、感覚も麻痺するはずだ。
精市くん、それはごくごく普通の生徒からすれば嫌味に聞こえてしまう確率高いんですよ。私馬鹿だから柳くんみたいに何%って計算出来ないけどさ。
言ってやりたいのをぐっと堪え、紙袋の紐を握り締めた。緊張と劣等感でまぜこぜになったこちらの心境を知ってか知らずか、机の上で教科書やノートを整えたのち鞄へ詰め込む精市くんが、それでのは、平然と口にするから嫌になる。
持ち上がった口角はどう見ても上機嫌のしるし、でなければ特別な日のプレゼントを前にした小さな子供である。
凝りに凝った包装や煌びやかな包み紙を散々見せられた後で、お世辞にも完璧とは言えぬ出来のものを差し出さなければならない私は恥ずかしがる余裕すらなかった。


発端は去年のバレンタインだった。
初めて渡した時じゃないにしろそれなりに悩んで選んだチョコを礼と共に受け取った精市くんが、不意に呟き落としたのである。
ところではいつになったら俺に手作りをくれるの。
唐突過ぎて素早い対応が叶わず、ただただ目を丸くして見返せば、あからさまな不満顔とかち合う。
貰っておいてこの態度、正直どうかと思う。
後々改めて彼の神経がいかに太いか確認したものだが、当時はそこまで考えが至らなかった。

「俺の記憶が確かなら、君が手作りのものをくれた事って一度もないよね」
「え!? え、あ、そ…そうかも……?」

勢いで頷いたもののしっかりした根拠があるわけじゃなく、過ぎた日々を必死に思い出しながらの相槌だったので語尾がかなりあやふやになる。
うろ覚えの内の発言だと悟ったのか、真田くん以上かもしれない強さが灯った瞳でじっと見据えられ背筋が張り詰めた。
人気の失せた昇降口に長く黒い影が伸びている。
冷え冷えとした空気は凍りつく寸前、口元からこぼれる呼吸がいやに白い。

「大丈夫だし、気にしないよ?」

気持ち代わりのチョコレートを抱えた人が、私の反論を先取りしまくった一言を紡ぐ。
変なの食べさせて何かあったらどうするの、手作りとか自信ない、既製品みたいにちゃんとしたの作れないよ。
方々で上がるはずだった心の声に精市くんのおかげで気がついて、この人は本当にどこまで見通せるのかと軽く戦慄を覚える。

「……私は気にする」
「貰う俺が気にしないって言ってるのに」
「絶っ対、買ってきたやつのが美味しいのに!」
「そんな事はないだろう」
「ある」
「極論を言えば、美味しいか不味いかはどうでもいいんだけどな」
「………それはそれでなんかムカつく」
「だから極論って言ったじゃないか」

肩を揺すって笑う人の顔が薄い煙めいた吐息に混ざり、窓から差し込む僅かな光を含みながら輝いて映った。やんわり細められていた瞳に冬の陽が反射し、静かに色づいた途端、冗談でしょと茶化せない声音が降る。

「来年、楽しみにしてる」
「ちょ、ちょっと! はいとかいいえとか、まだなんにも答えてないんだけど!?」

一方的な約束を取り消そうと懸命に試みる私なんかお構いなしで、言い出したらきかない彼は楽しげに微笑むばかりだ。



1年の間に忘れてくれればよかったのに、大雑把なところもあるくせして時々細かい。
数週間先に2月14日を控えた放課後、覚えてるかい、今年は手作りだよ、前触れも脈略もなく告げられる。
このにこやかな豪傑は体裁を保つだとか取り繕う事だとか関係ないフリして探ってみるだとか、ある種の奥ゆかしさとびっくりするほど縁遠いらしい。
カレンダーが2月に向かって突き進むさ中、どうしようか1年前のちょっとした会話だから覚えてない可能性もあるんじゃ、なんて楽な方に思考を持っていこうとしていたので思いきりたたっ斬られた気分だった。むごい。
忘れてましたと嘘をつければまだましだったのかもしれないけど、しっかり記憶してしまっていた私は潔く諦め腹を括ったのである。

「…ほんとに、今まであげたチョコより断然味落ちてるからね」

そこんとこよく踏まえて下さい。
前日から何重にも釘を刺したけれど、不安は消えてくれない。はいはい、と聞いているんだかいないんだかよくわからない返事しか寄越さなかった精市くんが今度は、

「うん」

特上の笑顔を添えてシンプルに頷く。
クラスの違う彼に呼ばれた教室は基本的な設備が同じでもどこか違和感がある、なんとなく居場所が見つからずそわそわしていたのに、想像していなかった反応を食らって余計落ち着かなくなってしまう。
何の変哲もないお菓子だ。
当然デパートやショップなんかに並んでいるものより劣るし、他の料理上手な子と比べてみても出来は格段に下だろう。
だというのにこうも大歓迎されると居た堪れないやら照れ臭いやら嬉しいやらで、どうしたらいいのかわからない。元より緊張と劣等感で固められた土台があって、そこへ更なる感情が加わった状態なのだ、混乱で声が掻き消えそうだった
小さな息を吐く。
荷物をまとめて立ち上がった人が、空いた片手で椅子を整えた。
鉄製の足と床とが擦れる音を、鼓膜が受け取る。
ひょっとしたら中3のバレンタインより酷いかもわからないぎこちなさで、皺が出来ぬよう朝から気を張ってきた贈り物を差し出した。

「……どうぞ」
「ありがとう」

何かがものすごく不自然だ。付き合い初めてすぐのカップルか。
気恥ずかしさのあまり顔を上げられず目の前の人の表情は窺えなかったが、額あたりに降る声色がやわらかに弾んでいるので、つまりそういう事だろう。
どれがとか何がとか特定出来ない。まず雰囲気が恥ずかしい。頬に集まる血液の熱さを感じて、それがまた羞恥を煽っていく。
役目を終えた両手の仕舞い場所に迷いちらと視線だけを向けてみれば、先程落ちた声の通り嬉しそうに目元を緩める人が、ラケットバッグを背負い直すところだった。
胸の奥で重たい熱の固まりが暴れ始める。押さえ込もうとすればするだけ反発してきて、でもちっとも不快じゃない。耳の近くに心臓がもう一つ出来たみたいだ。
何でも持っていそうな神の子は物事の大小にとらわれず、自分が嬉しかったり楽しかったりすれば隠さず表現する。
庭の花が咲き始めただとか、天気のいい日が続くと気持ちいいだとか、日替わり定食のおかずが好物だったとか。
テニスコートに立てば下手すると真田くんよりずっと厳しい指揮官の顔になるけれど、普段は穏やかに笑っている事の方が多い。まあ例外は多少あるにしろ、基本的に優しくて鷹揚なのだった。
そうして私に見せてくれる笑顔にはいくつも種類があって、単語で表すと笑顔の一言で終わってしまうとしても、実際はたくさんの感情を含んでいる。
呼吸の合間にこぼすもの、耐えられないとばかりに吹き出す時、隠す気ないなと指摘してやりたくなるほどからかいの色に満ちている、お腹を抱えての大笑い。
有無を言わせない微笑み殺。たまに女の人より綺麗な笑顔を浮かべる。
クラスメイトやテニス部部員とふざけ合っていると、男の子っぽい。コート上で垣間見せるよう、不敵に笑った。
かと思えば小さな子供と同じに見えたり、ちょっと困り気味だったり、苦笑していたり。
小首を傾げて綻ばせる。
あたたかい光の揺れる瞳で空気をとろかす。
唇が綺麗な半月型になっているのは、上機嫌の証だ。本当に嬉しそうに微笑んで、笑い声を転がす、裏のない無邪気さ。
生真面目に書面へ目を落としていて、ふと逸れた瞬間に居合わせる。
見上げた先の私に気づくや否やたちまちほぐれる頬と眼差しの全部が、優しく笑いかけてくれていた。
滲む目尻が好きだ。
引き結ばれた唇は近寄り難い印象を与えるが、ひと度笑み崩れるとあっと声をあげる間もなく惹かれてしまう。
あまりしみじみと情緒に溢れた感慨を抱くタイプではない私でも、いい加減気づく。幸村君のどこが好きなのよ。もううんざりするくらい何度もぶつけられた質問がよぎった。
どれか一つに絞れと迫られたらなかなか答えは出せないけど、とりあえず、笑っている精市くんは好きだと思う。
大爆笑でも穏やかな微笑みでも楽しそうな笑顔でも何でもいい。
彼が嬉しそうにしているのなら、見ているだけの私も釣られて頬が緩みかけ、でも隠そうとするから変な顔になる。そういう事だと妙に目ざとい精市くんが逃さず揶揄してきて、また笑う。怒りたくても怒れない、結局弱味を握られているも同然だから。

だからこんなのは、完成まで苦労はしたもののたかがチョコと言われても仕方のない贈り物を一番の笑顔で受け取って貰えるなんていうのは、嬉しくないわけがなかった。


「…精市くん、毎年いっぱい貰ってるでしょ。飽きないの?」

だけどこのタイミングで心の内のすべてを曝け出せるほど強くないし図太くもない。
動揺と込み上げる喜びに気圧されて、またしても誤魔化そうとした為に、我ながら可愛げゼロの一言が飛び出していった。後悔するとわかっていても、ぐにゃぐにゃとひん曲がった声帯が勝手に震えてしまうのだ。

「まさか。飽きないよ」

響き戻る明朗極まりない声に、お腹の奥底でとぐろを巻いていた自己嫌悪が心臓あたりまで駆け上ってくる。聞かなきゃよかった。何度同じ過ちを繰り返すのか。卑屈、感じ悪い、可愛くない。罵ったところで気は晴れず、むしろより落ち込む。
ずるずると引き下がりかけた気持ちと目線は、穏やかでも力ある声に留められた。

「甘いものは嫌いじゃないんだ」

そっちか、と内心突っ込みつつ相槌を打つ。

「でも、他のお菓子ならまだバリエーションもあるけど、チョコってチョコの味しかしないじゃん」
は嫌いなのかい」
「……嫌いじゃないけど」
「というか好きだよね。よく食べてるじゃないか。しょっちゅう俺にも分けてくれるもの」

別にそこまでじゃないし、反論しかけて、いやでも確かに鞄の中には何かしら入っているかもしれない、考え直す。
すると、君のおかげで食の幅が広がった気がするな、褒めているのか咎めているのかいまいち判別し辛い物言いをされて返す為口を開きかけ、しかしさっさと遮られてしまう。

「それに言っただろ。こういうのは気持ちが大事だって」

だから飽きない。チョコも、チョコを貰うのも。

のが一番欲しいな、俺は。貰えたら嬉しいし、好きだよ。年に一度くらいはちゃんと俺のものだと確かめたい」

放課後の教室といえども無音というわけではない。誰かの話し声がうっすら届き、どこかでドアを開閉する気配があって、休み時間ほどでないにしろ騒がしさは残っている。
遠いざわめきをBGMにして、その一言は明らかに際立って響き落ちた。
潜む色が違う。室内の温度や空気の流れまでさっと様変わりしたみたいだ。精市くんの声自体に特別異変はない、何気なくさえあるのに、どうしてか聞き逃せる軽さが感じられなかった。思わず見遣る。
滴るように伏せっていた睫毛が持ち上がって、目と目が合った。
間を置かず、眩しいばかりの笑顔。

「チョコの話だよ?」

、それを謀られたと言うんだ。
何故かもいつ聞いたのかもわからないがかつて賜った柳くんの有り難い言葉が唐突に蘇ってしまい、なるほど、内心深く頷く。
続いて、テニス部の人達はこういう精市くんとほぼ四六時中顔を突き合わせているのかとついつい感心した。
びっくりするほどわかりやすく含みのある言い方をしておきながらしゃあしゃあと掌を返すのだ。返された方はたまったものじゃないし、第一、面白そうに念押しされても説得力がない。
嘘つき。
頭の中で推し並べて気を紛らわせる。

「…………それじゃ他の子からのも全部精市くんのものって意味になるんだけど」

せめてもの意趣返しだ、もういいやどうにでもなれ、と胸に巣食っていた靄と一緒に吐き出すようぶつけてやると、細くしなっていた揃いの目を開き、興味深げな光を堂々宿した人が再び微笑んだ。

「あれ、嫌なんだ」

考える間もなく頬と言わず顔全体に血が上る。

「怒るよ!」
「はは! ごめんごめん、冗談。俺はそう一度にたくさん抱えられる人間じゃないさ」

にこやかに謙遜した精市くんが、取るに足らない私の贈り物を空の右手へ持ち替えた。左手には、チョコレートの包みが大量にぶら下がっている。
この状態でなんでそんな事が言えるんだろう。
間違いなく不誠実だというのに、罵る気力が沸いてこない。代わりにもう一度心で呟いた。
嘘つき。
神の子なんて大層な通り名を持つ彼とお付き合いしていく上では避けられぬ事態だと散々思い知らされていても、やっぱり慣れない。
だからといって私以外の子から貰うな貰ったとしても捨てろなどと過激な発言は出来ないしするつもりもないので、何がどう転がったら納得するんだと自問自答がぐるぐる巡る。
おそらく精市くんの振る舞いがどうこうというより、こちらの気の持ち方の問題なのだ。

「おいで、。食堂に寄る時間はあるかい」

と、半ば立ち尽くす私にひたすら優しい声が降った。
知らない間に下がっていた鼻先を向ければ、数週間悩み抜いて選んだ包装の紐を引っ掛けた大きな右の掌が差し出されている。
なんで。
音もなく問いかけたはずだが、かの人は正しく理解したらしい。

「飲み物を買って、一緒に食べよう」

天気がいいからお茶でもしませんか、と後ろについてもおかしくない和やかなお誘いだった。単なるおやつのお裾分けであればいいよと一も二もなくついていく所だけど、今回は少しばかり、いや大分意味合いが異なる。
真意の読めぬ発言に眉間が強張って、どうするべきか迷い、思いきり渋い顔つきになっていたのだろう。相も変わらずにこやかな顔つきの精市くんが、ほら、と催促をしてきた。

「せっかく差し出したのにここままじゃ淋しいから、早く握ってくれ」

右にも左にも荷をぶら下げておいてよく言う。おまけに表情はちっとも淋しそうじゃない。
首を可愛らしく傾げたあげくに冬の刺す冷たさとは裏腹にやわらかく緩んだ頬だとか、自分の状態を把握しての発言なのだろうか。
……いや、多分わかってるなこれは。
生じた疑問に自ら答え、短く息を切った。
手を伸ばす。
見ようによっては恭しく掲げられた掌へ指を落とせば、ゆっくり、優しく握り締められた。
ついさっきまで私の手にあった包みの紐が肌にしみて、なんだかくすぐったい。
一年中ラケットを持つ精市くんの手は硬くてあたたかくて、それから実に頼もしく、これならどんなものでも軽々抱えてしまえるんだろうな、根拠もなしに信じられる説得力があった。
重なった掌と掌の間で、2月14日限定の贈り物がかすかに揺れる。
手袋をはめていない私の指は精市くんが持つ温度より格段に低いはずで、普段なら茶化されるか心配されるかのどちらかという所なのに、彼は口にしなかった。
ただ、本当に嬉しそうに目を細めて、私だけにしか聞こえない声で囁き落とす。

「いつもこうしていられたらいいのになぁ」

無茶苦茶だし恥ずかしいしで思わず手を離したくなる。
出来ない分睨みつけてみても、耳まで真っ赤になってるに違いない状態では毛先ほどの攻撃力もないんだろう、小さな笑い声を立てた精市くんは、怖い顔しないでよ余計可愛く見えるだけだ、などと言ってのけ、私の反抗心を真っ向から打ち砕くのだった。







なんていうか捧げ物みたい。
ほとんどぼやきに近い独り言が胸にすとんと落ち、記憶にも新しいバレンタインの回想を終えた私はいっそ敬虔な気持ちになっていた。
チョコより誕生日プレゼントを渡す方がハードルが高いのかもしれない、およそ1ヶ月前の騒々しさに比べれべいくらか大人しいが、それでも分別されていく品々は大変な数である。一気に持っていくのか聞いてみたら、流石に一度には厳しいので食べ物類と鞄や袋に入る大きさのものから先に持ち帰るらしい。
ケタが違う。レベルも違う。芸能人でもないのにここまで祝われる一般生徒って実在したんだ、ひっそり溜め息をつく。
同時に、朝一番に渡しておいて良かった、と安堵した。
多様な趣向で神の子を祝う贈り物の後に、笑顔で自分のものを差し出す勇気や自信はない。一人で勝手に比較し悲しくなる可能性の方が高かった。
2月14日の件もあり、こうなる事を見越して行動したのは結果として正解だったのだろう。
気も楽だ。普通ケーキ食べたりする時に渡すでしょ、と友達からツッコミを頂戴したけど肝心の精市くんが、

が一番乗りだ」

またしても喜びを露わに笑っていたから聞かなかった事にしよう。
どうしてこう色々と隠さないかな。
嬉しかったくせに照れくささのあまり上手く返せなかった私は、そうなんだ、とだけ言い落とし、冬の頃よりずっと和らいだ陽を纏う睫毛を盗み見る。シンプルな色味の包みへ向けられたそれは、男の子のものなのにとても綺麗だ。黒目が朝の光を吸ってしっとりと輝いていた。
徐々に春めく空気は少し重く、だけど風が流れれば軽やかで、心地よいまどろみを呼ぶ。
綻ぶ前から花のにおいがするような気がして、冷たさにも暖かさにも独特のゆるさがあった。先に待つのは凍える冬じゃなく、確かな芽吹きの気配だ。
とりどりの花びらで彩られる精市くんが生まれた季節。
思うだけで、全部が特別になってしまう。


「終わった?」

すっかり大荷物を抱える事となった本日の主役がロッカーの扉を閉めたので、振り向く前に問いかける。
目だけでこちらを見る人は、なんとかね、苦笑を浮かべつつ、待たせちゃってごめん、と気遣いも忘れない。
お返しに、持つの手伝おうか、口を開きかけてすんでの所で取りやめる。嫌味か何かと取られたら困るし、第一、精市くんをお祝いする為だけのプレゼントだ、私が手を出すべき場面ではない。
お付き合いしている相手としては言いたい事がなくもないが、大事な人の誕生日くらい人と比べて虚しくなったり小さなヤキモチを焼いたりと、そういうもやもやとは無縁でいたかった。どうせなら、まっさらな気持ちでおめでとうとお祝いしたい。
晴れ晴れとした春の陽射しが教室に降り注いでいた。
優しい光は窓を通すと少しぼやける。床にまで伸びた窓枠の影はうっすら淡く、ロッカーの扉が閉まった反動で浮き上がった細かな塵がきらきらと瞬き、かの人の強靭な背中や肩の周りでゆったり泳いでいる。
呼び出されたんじゃなく自主的に赴いた精市くんのクラスは、やっぱり落ち着かない。
別に悪い事をしてるわけでもあるまいし、そもそも自分で来たんだし、などと胸中で呟いていれば、約一ヶ月前の状況と似ているようで微妙に違う様子の荷物を抱え直す彼が、こちらに向かって軽く肩を竦めてみせる。
なるほど、流石の神の子といえども大した間を置かずして贈り物に埋もれるのは骨が折れるらしい。贅沢者めと声を大にして叱ってやろうか、ちょっと本気で考えた。

「…立海で一番全っ力で祝われるのって精市くんだよね」
「俺はそう一度にたくさん抱えられる人間じゃないって言っただろう?」

まさしく春風のごとし爽やかな微笑みと共に告げられ、二の句が継げなくなる。
否定しておきながら実際は抱えている。しかも全然重くないくせに。たくさん受け取るだけの、度量だってなんだってあるくせに。
口には出さず反撃した。

「感謝はしているよ。けれど全部にお返しは出来ないし、それに俺自身、一人から貰えれば他はいいかなってタイプだから」

祝い甲斐のない奴だと思わないか。
明瞭な響きに喉奥は詰まりに詰まって呼吸が渋滞する。顔が一気に熱くなった気もした。
今口を開いたらまた可愛くない事を言ってしまう、と必死に我慢を重ねる私に、上機嫌の笑みであるその人は容赦ない。

「今日は随分大人しいね、。どうしたの」
「…別に普通です」
「我慢は体に良くないな」
「……してないです」
「そう。てっきり俺は、誕生日に可愛くない事を言いたくないだとか素直に祝いたいからなるべく心静かに黙っていようだとか、俺が望んでない方に向かって頑張っているのかと思っていたよ。違うなら良かった」

人の努力を無に帰す真似がそんなに楽しいか。
くっ…と漫画でしか見ないような呻きが肺から上がってきて、だけど全て言い当てられているからもう何も言えない。苦し紛れの反論すら浮かばずに視線をさ迷わせていると、誰がどう見てもにっこりという表現が似合う笑みとぶつかる。
なけなしの気遣いや誕生日くらいはいつもみたいな憎まれ口を叩かずにいたいという想いの両方をさっさと振り払われたというのに、何故か怒りも悔しさも生まれてこなかった。
私の中にあるごちゃっとした気持ちは、精市くんの一声やちょっとした仕草で昇華されてしまう。単純にもほどがある。
自分の転がしやすさを省みつつ、でもこうしてほだされるのは私だけじゃない、心の底から確信する。
幸村ならばと許されたり頼りにされたり、あるいは畏れられたり、時に張り詰めていた糸が切れるよう脱力したり、何かと影響力を発揮する。
多分そこが、生まれてきた事をこんなにも祝われている理由だ。

「静かには……したいよ。今日の主役は、精市くんでしょ」
「主役の俺はが静かだとつまらないんだけどな」

続けながら今さっき整理したばかりの荷を手近な机に置き始めるので、溜め息と共に覚悟を決めた。
だって、年に一度の誕生日だ。
とんでもない願いじゃなければ出来る限り応えますと、ややヤケクソになりつつ、求められているであろう問いを捧げる。

「じゃあどうしたらつまんなくなくなるの」

煮るなり焼くなり好きにしてくれ的決意が伝わったのか、声を立てて笑った精市くんが楽しくて仕方がないといった表情で手招きしてきた。

「ちょっとこっちにおいで」

言われるがまま、一歩。

「もう少し」

また一歩と進んで、元からそう遠くなかった距離が縮まる。
放課後といえども校内にいる全員が帰宅したわけではない、どうか誰も来ませんようにと祈る私に、やんわり曲げられた眼差しが降って落ちてきた。
が大人しい内にお願いしておこうかな。

「今朝のもう一回言って」

余計な一言と言えなくもない前置きののちに、ごくシンプルな要求をされフリーズする。
唐突過ぎて飲み込めない。予想外の展開に唇が動かぬ間にも脳は時を遡り、ものの1秒もかからず解と思しきシーンに行き着いた。
たくさんの人からこれでもかと盛大に祝われている彼の、欲しい言葉。
気づいた途端、胸の奥が震える。じわじわ染みていてもたってもいられない。
周りの景色がぼやけて滲み、声の出し方も忘れてしまいそうになる。
(どうして)
なんでこの人はいつもいつも、心のままに、思うままに、決して包み隠さず嬉しい事を嬉しいと言えるのだろうか。
なんでもない、取るに足らないひとつまみの出来事を、上手く大事に出来るんだろう。
そしてそれを自分以外の誰かに伝えるのだって上手だ。私なんか、誕生日だバレンタインだと理由をつけて変わろうと努力するのがやっとなのに。
これ以上ないくらい慎重に息を吸う。
声が最後まで揺れないよう細心の注意を払って、一音ごと春の空気に乗せていく。

「……精市くん、誕生日おめでとう」

きちんと聞き届けた様子の彼が破顔する。
うん、と喜びをそこかしこに含ませた相槌は鼓膜を揺すり、じれったくなるくらいの速度で体へ落ちてきた。心臓が騒ぎ出し、段々と息が出来なくなっていく。
付き合って初めての、というわけじゃない。新鮮味に溢れているかと聞かれれば否定するしかないだろう。サプライズなど用意していないし、籠めた想いは別としてものすごく特別な計画を立ててはいなかった。
――大切に想われている。
たったの一言や有り触れた贈り物にここまでの反応をされては、誰であろうと味わわされてしまう。自惚れだと恥じる私より、言葉以外で伝えてくる彼の方があからさまに強い。
3月5日の今日、こんな風に喜ばされるべきなのは私じゃなくて精市くんだ。
再び心を決めて一度深呼吸をしてから後ろ手に提げていた鞄の紐を握り締め、あのね、とどうしても弱まる第一声を発する。
足元は急に覚束なくなって、込み上げるもので胸がいっぱいになった。

「たくさん祝われるのっていい事だよ。精市くんがいっぺんに全部抱えられなくても、それでも目一杯お祝いされていいと思う。まあ…なんでって言われると誕生日だからって答えるしかないんだけど、誕生日ってそういうものじゃん」

話しながら言葉を探す間、目の前の人がわずかに居住まいを正して黙ったので、視線が頼りなく下へ下へと引っ張られていく。羞恥心が完全に芽を出す前に言い切らねばならない。緊張と唇の渇きを抑える為、顔ではなくブレザーの裾辺りへと目線を落ち着けると、視界の端にあっても目立つリストバンドがいつも通りだったから少しだけ安心した。

「生まれてきてくれてありがとうってみんなに思われてる証拠だし、あの……わ、私も思ってるから」

が、すぐさま声の軸がブレて鼓動が跳ね上がる。
ダメ、うだうだしてたら余計に恥ずかしい。勢いで言い終えた方が何倍もましだ。

「だからほんとに、誕生日おめでとう」

息継ぎなしで完遂し、寄越されるであろう言葉が良いにしろ悪いにしろ恐ろしかったのでさっと後ずさる。
今我に返れば死ぬほどの羞恥にまみれるしかないだろう。そうなれば何を口走るかわかったものじゃない、さあ撤退だやり遂げた行こう行こう、踵を翻しかけたちょうどその時、



日頃と比べ微妙に低い声色で呼ばれ、反射的に立ち止まってしまった。
はっと呼吸が途切れる。捻りかけていた上半身は精市くんの側へと戻されて向き合う。
背後ろにぶら下げたままの鞄を持つ腕は動かない。
脳が筋肉へ指令を下すより早く、頬を包む大きな手の感触を過敏に感じ取ったからだ。
いつの間にかほとんどゼロになっていた距離に肩が竦み、わかりやすく強張った。驚きに見開いた目の中へ、美しく滲んだ眦が映り込む。もう一回びっくりした。
間を空けずして合わさった額は熱く、薄皮を撫でる前髪がこそばゆい。
息が触れるほど近くで伏せられた睫毛の長さに肺を掴まれ、思わずきつく目を閉じると瞼の裏にちかちかと水滴型をした光が散る。
キスされるのかと思った。
でも触れるぬくもりは額と頬だけに限られている。乾いた指先が目尻を優しく辿って、肌が震え出すくらい静かな音が紡がれた。

「……ありがとう。あの時も今日も、がいてくれて良かった。明日からも俺の傍にいてほしい」

目が合う。
精市くんは溶けてしまうんじゃないかと心配になるほどやわらかく微笑んでいて、ひたむきに私を見てくれている。
止まっていた呼吸がかすかに開いた唇の端からこぼれ、つんとした独特の感覚でいっぱいになる鼻の奥は熱っぽくて、眼球の表面がじわりと潤む。心臓を丸ごと握られたみたいだった。
なんて事を言うのだ。

「感動した?」

ふざけ半分の声色で人をからかっておきながら、小首を傾げはにかんでいる。精市くんが照れている時の癖だった。心なしか顔も赤い気がする。気づけばいっそう涙が目の下から盛り上がってきて手のつけようがない。
喉と言わず口元と言わず、体の全部が突き動かされそうだ。
引き結ぼうとした唇がひん曲がる。
堪えようと懸命になるあまり眉間に皺が寄る。
目の奥の奥がぴりぴりして、瞳近くの皮膚の薄い所はしっとり濡れ始めていた。
鞄を掴む掌にしらずしらず力が入ってしまう。
自分で想像したくない程度には不細工になっていると思われる顔を間近にしても尚、彼は嬉しげな笑顔をまったく崩さず、私の喉が独りでにひくつく。

「せ…っ、せっかく、人が我慢、」
「我慢なんかしないでいいよ。年に一度の俺の誕生日だって思ってくれているのなら、尚更だ」

ああもうダメだ。
心で呟いた途端、瞼の淵でこんもり盛り上がっていた水の粒があっけなく流れ落ちた。

「……バカ。逆…普通、私じゃない。なんで私が泣かされてるの絶対おかしい。か、感動しなきゃいけないのは、精市くんなのに」
「え、俺? 嫌だな俺だってすごく感動してるのに、まるで何も感じていないみたいに言わないでくれないか」
「………うそくさい」
「フフ、ひどいなぁ」
「笑いながら感動してる人なんか見た事ない」
「今見てるだろう」

ね、と子供に言い聞かせる音色が憎らしい。
待てども待てども離れる気配を見せない掌と額に、必死に忘れていた羞恥心が呼び起されて、頭の中で何かがぷっつり切れた。

「…っもう、いいよ! ていうか離して! なんでずっとこのままで会話続けるの!? ……近い!」
「うん? が泣き出す所を近くで見たいなって思ってさ」

平然と答える。最早言動がいじめっ子のそれだ。どういう精神をしているのかまったくもって理解不能である。
年に一度の誕生日だけど、お祝いしたい気持ちはあるけど、それにしたってひどい言い草ではなかろうか。

「悪趣味。私は近くで見られたくない。今すぐ離して」
「まあまあ、いいじゃない。俺、今日は主役のようだしね。それに目一杯お祝いしてあげるって言ったのはなんだけど」
「か…頑な! ついでに曲解してるそれ! お祝いしてあげるとかひとことも言ってないし!」
「あはは! いいね、いつものだ。大人しくても可愛いけどやっぱり君は元気なのが一番だもの」

ついに鞄を床へ放り投げた私は渾身の力でもって輪郭に添うあたたかな手をひっぺがそうと試みたけど、びくともしやしない。
しかも抗おうとすればする分だけ益々精市くんの笑みが深まるから腹立たしい。
ふざけて楽しんでいる、誰がどう見ても。

「ありがとうに祝って貰えて本当に嬉しい」
「…このタイミングで言われても、素直に喜べない!」

後から後からこぼれて止まない私の涙に触れる指はどこまでも優しい。
誕生日であろうとなかろうと主役然としている神の子が、晴れやかな笑顔と共に心を明かしてくる所為で、元から強固でもない涙腺は緩む一方だ。