01、リソース




中学三年の春に転校した。
あと一年待てば元の学校で卒業出来たし、曲がりなりにも受験生なのにどうしてこの時期なのかというと、特別な事情があったわけじゃない。
単に、親の転勤。
よくある理由だ、面白くもなんともない。

東京と大阪、どちらも大都市だからそんなに大きな変化はないだろう、能天気でのんびりな私を待っていたのは結構な異文化だった。
どっかの歌詞やTVで耳にする、狭い日本、なんて一言で片付けられるような違いじゃない。少なくとも私はそう思う。
言葉や食べ物、服装や流行等々の細かい部分を見ていけばきりがなく、本当に慣れるのかどうかちょっと不安になったくらいだ。
大阪の街並みは目新しく、電車の駅名は自宅の最寄り駅しか覚えられていない。
一度乗り過ごした経験もある。
道行く車のナンバーを見るといまだに、あ、他県ナンバーだ、なんて思ってしまう。
しかし、どれもこれも、転入先の四天宝寺中の濃さにはかなわなかった。
よくわからない校則とお笑いに命をかけているように見える先生方は、平々凡々に生きてきた私の価値観にでっかいヒビを入れてくれたが、おかげで同級生の子たちに覚える衝撃が和らいだ。
全力で悪ノリしたり、流れにふざけて乗っかったりするけれど、基本みんな明るくて、それからずいぶんと親切にしてくれたのだった。
ごめんな、妙な学校で。引いたやろ。
笑いながらもどこか誇らしげなクラスの子に、私は笑顔を返す。
正直、学校や地域にそこまでの愛着を持った事がなかったから、少しだけ羨ましかった。
最初の内は、ほんまに標準語やとかなんか喋ってみてとか東京はどうなんとか、忙しなく聞かれたりもしたけれど、一月も経てば皆慣れてしまうのか私の周りはとても平和になった。
考えていたより早く友達が出来、想像以上に寂しくなる時も訪れずに済んで良かった、そうしてほっと息をついていた矢先の事である。
4月の終わり、天気の良い日のお昼休み、食べ過ぎたわけでも夜更かししたわけでもないのに、胃がきりきりと痛み始めたのだ。
心配して付き添うと言ってくれた友達はバレー部の俊英でこれからミーティングがある、一人で大丈夫だと騒がしい教室を抜け出して、よろける足が辿り着いた保健室。
その人と初めて会った。



「遠慮せんでええよ、入ってきぃや。確かに先生はおらんけど、入ったらあかんなんて誰も言ってないで」

扉にかかる、会議中で不在、と書かれた小さなホワイトボードに絶望しつつ、ベッドだけでも貸して貰えないか恐る恐る覗いた先に、ものすごく綺麗な顔をした男子が座っていた。
正午を過ぎて勢いを増す日差しをクリーム色のカーテンがやわらげ、微かに舞う埃がきらきらと穏やかに輝く。
たくさんの人の声が夢みたいに遠くから反響し、それ以外は凡そ物音のしない静寂の中、優しい光に縁取られたすっきりと通る鼻筋がまず目に入り、順に瞳、眉、前髪、顎、と視野が広がっていく。
美しい横顔だった。
呆けたのは一瞬、すぐさま痛みを思い出したところに、声をかけられたのだ。

「…失礼します」

我に返った私にそのやたらと美形な男子生徒が、どうぞ、言わんばかりに丸椅子を引く。
余裕があれば辞退も考えたが、すこぶる具合が悪かったので素直に気遣いを受け取った。
屈めた背中に何かを察したのか、保健室の入室表を手にした彼が声を落とす。

「自分顔色悪いな、どっか痛むんか?」

血色まで気にしている暇はなかった、そんなに酷いのかと頬に手をやってみるが、添えてみてわかるはずもなかった。
大分混乱しているらしい。

「うん……お腹」
「腹痛、と。しんどいとこ申し訳ないんやけど、組と名前教えてくれるか」

鉛筆すら持てない有様と判断されてしまったようだ。
白い包帯の巻かれた左手が、さらさらと字を綴っていく。
顔の縁から離した両手を、腿の上へと追いやった。

「3年3組、です。あの、先生いなくてもベッドで寝る事ってできますか?」

是非とも聞いておきたい、最重要事項である。
これで無理と言われたら、彼の言う通りしんどい体を引きずって保健室まで来た意味がない。
真面目な質問を投げ掛けた途端、長い指先がぴたりと止まった。
手元の紙から視線は離れ、やや下を向いていた顔があがり、まともに目が合った。

「ああ、君、転校生や。噂の。隣のクラスやったんやな」
「噂の……?」

怪訝に首を傾げるも、

「いやいやそういうんは後やった。具合悪いのに、ごめんな。ベッドやけど、使えるで。先生帰ってきたら俺が言っといたる」

一瞬後に打ち切られ、骨と皮膚の上を滑り横に流れるような瞳が視界から消えた。
彼は腰を落ち着けていた椅子を遠ざけ、こっちや、と鼓膜に染みる声で手を引いてくれている。
思考能力の鈍っていた私は導きのままについていき、親切な上に紳士な彼はといえば、多くを聞かずに仕切りの外で、お大事に、静かに呟いてベッドのカーテンを閉めた。
お礼を言うのも忘れて怠惰に布団をかぶってから、唐突に事実認識が始まる。
そういえば左利きだった。
包帯をしていたから、怪我人なのかもしれない。
場違い且つずれた独り言は、忍び寄る眠りと共に消えていった。



たっぷり寝込んで目覚めた時にはもう彼の姿はなく、戻ってきていた先生が丁寧に状況を説明してくれた。
十人中九人はかっこいいと称賛するであろう、あの男の子はどうやら保健委員らしい。
一つ謎が解け、ついでに左手の包帯について聞いてみると何故か苦笑を頂いた。
疑問の全ては明らかにならず、体の不調にかまけて厚かましい態度をとってしまった事にもやもやしたり悔やんだりしながら、日常に落ちた非日常のひとしずくを胸の内で漂わせ、それからしばらくおそらく一発で見分けられる端整な顔立ちを探したりしたが、なかなか機会はやって来ない。
友達に聞けば教えてくれたかもしれないけれど、口にしかけてはどうしてか躊躇ってしまう。
段々もしかして夢だったんじゃないか、などとくだらない妄想をし出した頃、思いがけず二度目の邂逅が訪れた。
GWが明けて初めての月曜日だった。

「あ」
「お、転校生のさん」

これが漫画だったらばったり、なんて効果音がついてるに違いない。
廊下の端で、音楽の教科書を抱えた私とポケットに手を突っ込んだ彼が、ほぼ同じタイミングで顔を合わせて立ち止まっていた。

「どや、あれから体のほうは、調子悪ないか?」
「うん、大丈夫です。あの時はほんとにありがとう」
「ええよ。困った時はお互い様って言うやろ」

な、と両目を細めて作られる笑みによって、大人びた輪郭が年相応のものになる。
これだけかっこよかったら天狗になってもおかしくはないのに、感じの良い人だ。
そっと気付かれない程度に、感嘆の溜め息を漏らした。

「先生にも説明してくれたんですよね」
「まあ、一応保健委員やからな。先生から聞いてへん?」
「ううん、聞いたよ。中三と思えんほどしっかりしてる男子、って言ってた」
「その後、ソツがなくてつまらん、言うてたやろ」
「……えっと…」
「ああ、気ぃ遣わんでええよ。俺、保健の先生と付き合い長いねん。ちゅうても三年くらいなんやけど、中学生の三年言うたら長いしな、大目に見てや。なわけで、それくらい軽い扱いなん、俺。真面目に働いてんのに酷い話と思わへんか」

真昼の保健室でしんと座っていた時は、物静かそうな男の子だったのに、予想に反して口調は軽快である。
けれど決して騒がしくなく、勿論喧しくもなく、落ち着いた声が紡ぐ音色はどこか心地良かった。
頬が自然と緩んでいく。

「そうだよね、仕事に真面目だから私助かったんだもんね。なのにきちんとお礼が言えなくて、ごめんなさい」
さんはあれやな、ツッコミとボケやったら、ボケるほうや」
「え? あっ、ごめんなさい、今の突っ込む所だったの?」
「益々ボケ寄りになったで」
「えーと…な、なんでやねん?」
「疑問系かい。……ほら、ボケや」
「保健委員さんはツッコミですか?」
「俺はどっちもパーフェクトにこなすで。って言うとる場合ちゃう、まず敬語やめようや。同級生やろ俺とさんは」
「そっか、ごめん。つい癖で」
「癖?」
「初めて会った人には、タメ口じゃいけないような気がして」
「俺とは初めてちゃうやん。なんや、傷つくなあ」
「えっ、ごめん、そういうつもりじゃなくて! あんまり知らない子に友達みたいな喋り方されたら嫌かなって思って、あと失礼かなとも思って、あの」
「うんわかっとる、今の冗談やから。さんは真面目やな。俺よりよっぽど真面目や」

爽やかに笑い飛ばされて、若干張り詰めつつあった肩からゆるゆると力が抜けた。
うーん、この人、なかなか食えない。
非常に俗な言葉選びで恐縮だが、モテそう、がぴったり当てはまる。

「あとな、出来れば保健委員さんやのうて、名前で呼んで欲しいんやけど」
「そっか、そうだよね。ええと……」
「3年2組、白石蔵ノ介」

綺麗な顔立ちには、些か渋い名前だ。でも何故かしっくり来る。

「白石君」
「せや。これからよろしゅうに」
「うん、よろしくね」
「ほな次はさんの番」
「私?」
「俺、自己紹介したやん」

当然の流れだ、特に疑問も抱かず頷いた。

「3年3組、です。まだわからない事とかあるので、何か馬鹿…じゃないアホな事やってたら突っ込んで下さい」
「わかった、まかしとき。今のはノーカンにして、次からガンガン突っ込むわ」
「……ボケたつもりなかったんだけど」
「いやいや完全にボケてたで、自分」
「実はそれ、友達にも言われるの」
「せやろ。俺もその友達に賛成や」

いまいち自覚が足りていないのでよくわからないが、こう何人にも同じ事を言われると周囲の言葉が全面的に正しい気がしてくる。
そっかあ、と少し唸りながらも納得しきれないでいると、白石君が私の後方へ向けて目を眇めた。

「なんや、そないなとこで突っ立って」

つられて振り返る。

「取り込み中かと思ったっちゅー話や」

陽に透けるほど明るい髪色をした、白石君と同じくらい背が高い男の子が、興味深そうな瞳を湛えて壁に寄りかかっていた。

「だからってなんで黙って見てんねん。盗み聞きは良くないで、謙也」
「誰が盗み聞いてんのや! お前が廊下なんかで話してるからやんけ。聞かれたないんやったら、もっと別の場所で話さんかい」
「開き直りよった、図星か。デリカシーは大事にしぃや」
「よう言うわ」

小気味好くぽんぽんと弾む会話に、私の首は右往左往する。
女の子同士のそれには慣れていても、こんなに間近で男子のやり取りを目にした経験はなかった、新鮮だ。やっぱり大阪は異国に近い。

さんすまんな、話の途中で喧しいのが入り込んで」
「おいコラどういう意味やねん」
「それが喧しい言うとるんや。休み時間ももう終いやし、さん次移動教室なんやろ、早よ行ったほうがええで」
「あ、うん」
「ほな、また」

軽やかに言い残して、白い包帯の垣間見える左手をひらり、空中で揺らし音も立てずに去っていく。
なんだかとても上品だ。
白石君が謙也と呼んだ男の子と連れ立ってどこか行くようだったが、同じクラスなのだろうか。
方向転換した背中に二人の気配を感じつつ何気なく考えた時、

「白石、お前何校内でナンパしてんねん」
「アホ、そんなんちゃうわ」

ふざけ合う声が聞こえてちょっと恥ずかしかった。



それから二週間と経たない放課後、下駄箱の前で靴を履き替えようとしていたら、知らない男の子がついこの間知り合いになった男の子の名前を思いっきり叫んでいた。

「嫌や、毒手だけは堪忍してえなぁ! 白石ぃ!」
「金ちゃんが逃げんのやったら、俺かてこんな事せんで済むんやけどな」

上履きをロッカーに仕舞い、ローファーをコンクリートの床に下ろす。
確かに白石君の声だ。

「それも嫌や! 逃げんかったら、ワイ怒られる!」
「怒られるような事したんは誰や? ええ加減大人しゅうしとき」

聞き慣れない毒手なる単語に内心首を捻りながら、履き替えた靴の踵をしっかり直し、整然と並ぶ下駄箱から顔を覗かせたその刹那、鋭く飛ぶ白石君の声と素早く動く何かが、それぞれ耳と目とに入っていく。

「あかん、金太郎前見ぃ!」

え、と口にする暇もなかった。
次に瞬きをした時には、進行方向を誤ったとしか思えない角度で頭からロッカーに突っ込む小柄な男の子が、昇降口中に響く轟音を立てていた。
あまりの事態に、驚いて目を見開く。

「だ、大丈夫!? すごい音したよ。頭、ぶつけたよね?」
「ふ…んぎい! 平気や! せやけど白石のアホー!」

ある意味気持ちの良い捨て台詞を盛大に吐いたその子は、ガラス張りの扉を蹴破らんばかりの勢いでくぐり抜け、あっという間に姿を消した。とてつもなく足が速い。
ぽかんと大口を開けていた私の元へ、整ったかんばせに焦りを浮かべた白石君が走って来る。

さん、平気か? どっかぶつけてへん?」
「平気、どこもぶつけてない。あの、私よりあの子のほうが…」
「金ちゃんはえらい石頭から大丈夫や」
「でも痛そうだったよ?」
「ついでに鳥頭やから、痛い思っててもすぐ忘れる」

扱いがぞんざいだ。何気にひどい。
ほんの僅かな付き合いなれど、そこそこ築いていた白石君のイメージを修正する必要があるかもしれない。

「ほんま、すまんかったな。けど怪我なくて良かったわ。金ちゃんがさん目掛けてダッシュした時は、流石の俺も冷や汗かいた」

どうやらそういう状況だったらしい。
一切認識していなかった為、衝突事故一歩手前級に危険だったという実感は湧かなかった。
ゆるんだ包帯を巻き直す白石君は先程の焦燥をすっかり打ち消し、涼しげでさえある。

「さっきの子、ええと…金ちゃん? は同じ部活の子?」
「遠山金太郎な。手に負えんゴンタクレやから、近づく時は気をつけてな」

乱暴な言い草の割に、どことなく優しい目をしている。
微笑ましい気持ちになって、少し笑った。

「元気がいいんだね、遠山君」
「あれは良すぎや。有り余っとるから、しょっちゅう暴走すんねん。止めるほうの身にもなって欲しいわ」

口を上手く回しながら、くるくる器用に動かしていた手指を止め、白石君は包帯の端を丁寧に巻き終えた。
保健の先生に貰えなかった回答が頭の中を渦巻く。
行き場をなくした勢いが、口を開かせる。

「あのね、一つ聞いてもいいかな?」

彼は物珍しそうに目を丸くした後、ふと表情を和らげて答えた。

「ん、なに?」

最早飾る言葉すらいらない、ストレートにただただかっこよかった。
モテないわけがないと思った。
この期に及んでやっぱ夢かもしれないとも考えた。
嫌味一つ感じられない仕草に気圧され、数秒の間を置いてから続ける。

「前に保健室で会った時も、包帯してたよね。手、怪我してるの?」

本来なら、自己紹介をした日に聞きたかった事だ。
もしも予想が正しいとなると、怪我人に助けて貰ったあげく面倒を見させたとんでもない厚顔無恥な子、という評価を下されてもおかしくない。
自分なりに背を冷やしたままの問い掛けだったのだが、白石君の一笑によって杞憂となった。

「ちゃうちゃう、どこも怪我なんてしてへん。自慢やないけど、俺は健康優良児やからな」

安堵の息を吐く。
詳しくは知らないが運動部なのに怪我しては大変だ、私の勘違いで良かった。

「そっか。怪我してる人にお世話になってたらどうしようと思って。安心したよ」
「大袈裟やなあ。ほんまに俺が怪我人で、手ぇ怪我したまんま具合の悪いさんの面倒見たとしても、俺は気にせえへん。別にええやんか」
「私は気にするな。ねえ、怪我じゃなかったら、どうして包帯してるの?」
「うーん、せやなあ……端的に言うと、あのゴンタクレ抑える為、かな」

さっきの遠山君の事だろうか。
無傷である左手の包帯と、彼にどんな関係が。
解決の糸口が掴めず黙ってしまった私の旋毛に、柔らかい声が降った。

「百聞は一見にしかず、ゆうてな。俺に聞くより実際見に来たほうが早いと思うで」

背負い込んだ鞄の紐を握り締め、思考に沈みがちだった鼻先を上げて視線を合わせる。
笑みを深めた白石君は、やんわりとした物腰で尚も言い連ねたのだった。

「俺、テニス部やねん。大抵コートにおるから、良かったら練習、見に来てや」

この状況で、遠慮します、なんて断れる子が存在するとは到底思えない。
いつも、誰にでも、こんな調子ならば白石君はとんでもなく罪作りな男の子だ。
手練れにもほどがあるだろう、本当に同い年なのか信じきれなくなってくる。
考え込んで微かに混乱し出す胸中とは裏腹に、私の唇がいとも簡単にYESの形で呼応し、連鎖するように彼も破顔した。

「ほな、また」

先日の廊下での一幕が蘇る。
テニス部だと言うならラケットを毎日握っているはずなのに、白石君の指はとても綺麗だ。
振られた掌がスローモーションで視界を横切っていった。
ジャージの裾から覗いた手首は、きっちりと白一色に包まれており、残照がやけに後を引いた。