02、アウトカム不一致 白石君の事をようやく友達に尋ねたら、どんだけ今更なん、と突っ込まれた。 自分でも反論するすべがないと思い素直に同意すれば、もうええわ、とまたしても突っ込まれた。 1聞けば10教えてくれる頼もしい友達のおかげで、ちょっとだけ白石君、ひいては四天宝寺中テニス部についての詳しい知識が蓄積される。 全国区のテニスプレイヤーと知った時は、驚愕を通り越して落ち着き払い逆に暢気になってしまった。 知らなかった彼が増えていく。 あの顔立ちで、背も高く、勉強も出来て、テニスも強い。 話し方も荒くないから、やっぱりモテるらしい。 けれど彼女はおらず、決死の告白を断られて涙した女子の数は膨大、四天宝寺の聖書なる通り名が築いた壁が高すぎて若干引いている子もいる、との事だった。 そこに毒手、年がら年中包帯、絶頂、思いきり笑いを取りに行く、その他諸々の要素も加わって色物系に括られるシーンもしばしば、なんて評価には絶句した。ジャッジが厳しいと思う。 のハードルが低すぎなんよ、まだよく知らんってのもあるんやろうけど。 唇を尖らせて白石君のモテ具合に不服そうな彼女は、同じテニス部なら3年1組の千歳君という人がお気に入りだそうだ。 曰く、うちの周りにはおらんかったタイプで新鮮。 まさしく、隣の芝生はなんとやら。 どういうわけか情報通の友達に物凄く丁寧なレギュラー説明を受けたのちの放課後、ちらほら点在する女の子達の声援スポットに混ざってテニスコートを覗くと、もう別世界だった。完全に私の知らない世界だった。 テニスの練習をしているはずなのに時折混入するお笑いの香りを、当人どころか観衆までもが受け入れている。 それでもひとたびコート上で選手の皆が腰を据えれば、全国区は伊達じゃないボール捌きが繰り広げられ、多種多様な波に誰しもが順応していた。 見ているだけで精一杯の私はまだ輪に入れずにいるけれど、強さの秘訣はこういう所にあるのかな、呆気にとられた思考がぼんやり答えを模索する。 何にでもどんな時でも頑なにならず対応し、たくさんのものを巻き込んでしまう。 すべてを率いる立場の部長である白石君は、その渦の中心だ。 波風立てずに凪いでいたとて吸引力を持ち得ている。 ちなみに私が訪れた日は、やけにくっついているダブルスの人達に腕組み姿勢で突っ込んでいた。 残念ながら彼がラケットを握る前に、私のほうに帰宅時間というタイムリミットが来たので、基本に忠実で完璧なテニス、とやらを見る事は叶わなかった。 仲の良い友達、などとは口が裂けても言えない男の子についてじっくり考えるのもおかしな話、そんな自覚を抱えて、しかしことごとく捨て去る勇気も持てず、校内新聞に載っている運動部の大会日程が気になり始めた私の元へ、不可視の聖書を携えた人が音もなく現れた。 「さん、こないだコートに来てたやろ」 今度は廊下ではなく、グラウンドの片隅だった。 ジャージに着替えた私は次の授業が体育で、教科書類を小脇に抱えた白石君は校舎外で地学の実習らしい。 まだ夏には遠い日差しの下で、かなり控え目に離れた所から観戦していたつもりだった、自分なりの配慮が失敗したという事実を突きつけられて地味に落ち込んだ。 「うん、ちょっとだけだけど。よくわかったね?」 「よう見える目ぇで、かなわんわ。自分、周りとノリが違うからな。結構目立ってんで」 「……こっそり見てたつもりだったのに」 「いやいやなんでやねん。一番前で堂々胸張って見ときや」 「ノリの違う子が前に出てたら、もっと目立っちゃうじゃない」 「目立ちたくないんか?」 「正しくは、目立ちたいとは思わない、かな」 「そら困った、さんは難しい子やなあ」 笑い声へ子供に言い聞かす類いの色が混ざる。よしよしと撫でられても怒れない雰囲気に、ちょっと後ずさりしたくなった。 聖書の壁は高かろうが低かろうが、ただ存在するだけで近寄り難くなるものなのだ、彼を三年間見てきた四天宝寺の女子の気持ちが片足のつま先分くらいはわかったような気がする。 だけれど白石君自身に非があるわけではない、彼を囲う整然とした垣根を確かに理解しておきながら続けた。 「でもほんとにちょっとしかいなかったから、白石君がテニスするとこは見てないんだ。折角誘ってくれたのに、ごめんね」 「ほなら、また来ればええよ。追い払ったりせえへんし、遠慮せんといてな」 「うん、ありがとう。あのね、友達に色々教えて貰ったんだけど、白石君って有名人だったんだね」 「なんやそれ、ある事ない事言われてそうで怖いわ」 「あっ、そっか、ごめん。自分がいない所であれこれ言われるの嫌だよね」 「俺がその場におっても嫌や。どうせろくな事言われてへんのやろ」 「そんな事ないよ?」 「お、言うたな、真に受けんで?」 朗らかに笑う白石君に感化され、真面目な応答を茶化されたにも関わらず私も頬と唇の端を弛ませた。 それから悟られない程度に背筋を真っ直ぐ伸ばす。バレてしまっては気遣われる可能性が、なきにしも非ずだからだ。 「強いテニス部だって知らなくてごめんね。友達にも突っ込まれちゃった。全国レベルなんやからそんくらい知っときーって」 「そら厳しい友達や。俺は気にしてへんっちゅうに」 「うん、厳しいの。でも、白石君が気にしてないなら良かった」 白石君がテニス部所属な事は周知の事実であるはずなのに、あの日わざわざ教えてくれたのは私の無知を踏まえてだろう。ガンガン突っ込む、言ったわりに手加減をしてくれている。 なかなか目まぐるしい生活の中で、彼の気遣いはとても有り難かった。 「そない心の狭い男やないで、俺。転校してきたばっかで大変やろ、こっちにはもう慣れた……って、流石にまだか」 「うーん、すっかりとは言えなくても、だいぶ慣れてきたよ」 「前、体調崩してたんは、慣れない生活の所為ちゃうん」 「えー? そんな事ないと思う」 「ストレスには必ず自覚症状がついてくると思ったら大間違いってな。知らん間に溜まっとる事もある」 「そうかな。あれっきり、どこもなんともないけど」 「ならええけど、気をつけなあかんで。あん時のさん、結構死にそうな顔しとったから心配なんや」 少々シリアスな声音を含ませるや否や、白石君は大勢を引っ張る部長の顔つきをする。 きりっと伸びる眉の下で光を吸う黒目の瞬きに、静かな強さを感じ取った。 知り合ったばかりの私の具合にまで気を遣るなら、部員の体調はもっと案じているのかもしれない、頭が下がるばかりだ。 「ありがとう、気をつけるね。でも学校には慣れてきたし、ほんとに平気なんだよ」 私の返答を耳にした彼が肩を竦め首を傾げた拍子に、制服の襟がしっかりとしたラインの顎を掠める。 そうして上がった口角からは聞き捨てならない言葉が繰り出された。 「言うたからには、校内で迷子にならんといてな」 これには素早く反論する他ない。 「なりません」 「また敬語や」 「ならないよ」 「はい、よく出来ました」 はたから見てもかなりふざけた返しをされているはずなのだが、馬鹿にされてると卑屈にならないのは、耳触りの良い柔らかな物言いゆえかバイブル等という通称が通ってしまう人徳ゆえか。 「もののついでに言うとくと、さっき昇降口でよくさんとおる子見かけたで。どこ行ったんやろあの子はー今日はグラウンド出る前に体育倉庫集合やねんけどー」 白石君が真似る女子の声色はかなりきわどく、関西出身の子がいたら間違いなく突っ込んでいる場面だった。 けれど私は逆立ちしても関東出身だし、ツッコミよりボケらしいので、オーディエンスを沸かすようなリアクションは取れない。 「うそ、ほんと!?」 実に面白みのない返しだ。 「ほんまや」 けれども、彼は半分困り顔で苦笑するだけだった。 慌てて校舎の白い壁にかかる時計へ目を向ければ、授業開始まであと3分もない。周りをよくよく見渡せば、グラウントにいるのは隣のクラスの子達である。 血の気が引くというよりは、妙な汗が出て来た。 「ありがとう、白石君」 つま先の行方を変えて駆ける態勢の私に、諭す声が掛けられる。 どうにも面倒見の良い人だ。 「走って転ばんよう、気ぃつけなさい」 「わかった!」 再びのツッコミ所も取りこぼして走り始める、と同時に背後ろから低い笑声が聞こえ、両足の速度に比例して遠ざかっていった。 口にすべきは了承ではなく、お前は教師かとかなんとか、そういったユーモアだったと思われる。 そう反省したのは、ギリギリ間に合った体育倉庫前で荒い息を整える最中の事だった。 遅い。 ようやっとツッコミの概念を理解したような気がした。 知らなかった彼は減ってもまたすぐに増えていく。 面倒見が良い。 二年の頃から部長を務めている。 左手の毒手は暴れん坊の一年生を抑える為。 色濃いテニス部の面々と比べれば、びっくりするくらい大人しいテニスをする事。 高い顔面偏差値を鼻にかけもせず笑いが取れるならと結構何でもやってしまうが、目鼻立ちの整った顔のおかげでシュールな空気は生まれてもウケの方はあまりよくない。 友達はそこが残念やと言い、細々した部分に気を揉む素振りを見せないのが白石君だ。 猫を飼っている。 お姉さんと妹さんがいる。 やたらと植物の種類を知っている。 時たま健康オタクと揶揄される。 無駄を嫌う。B型。字が綺麗。けれど書道が好きじゃないのは、左利きだから。 女の子は怖いとか平気で言う。モテるくせに。いやモテるからかも。 直接本人の口から聞いた事もあれば、有名人につきものである噂や周囲の情報網が拾った話もあった。 転校してふた月も経っていない私ですら、彼が告白されるシーンに鉢合わせしそうになった事があって、どれだけの好意をその身に受ける人なのかと戦慄した。 そんな彼の色男ぶりを強く実感したのは、柄にもなく途方に暮れた時の事だ。 準備をしなければいけないのに化学室の鍵が見当たらなかったのだが、颯爽と現れた白石君が食堂にいた先生を見つけてくれて、ありがとう、言えば、それいいなぁ、と返された。なに? ありがとう。うん? 響きがちゃう。なにと? 俺がよう聞くのと。最初はほんまに標準語や、ドラマみたいやなあ思て違和感あったけど慣れてきたわ。…ありがとう? そう。慣れてきたら、段々わかってきた。何がわかったの? 「俺それ好き。さんの、訛ってへんありがとう聞くと、安心するんや」 もし私が白石君を好きな女子だったら卒倒ものだ。 普段書いていない日記だって書くレベルだ。大はしゃぎで友達に報告するだろう。 正直ちょっと呆れて大口開けた私に、なんて顔してんねん、笑いの籠もったツッコミが入った。 それでもこの人は大体が気さくで、人の良い笑みを絶やさず、器用にぽんと言葉のボールを投げてくるので、気後れせず返す事が出来る。 そんな所は文句なしに完璧だと思う、千歳君贔屓の友達に告げれば、あんたその内騙されないか心配やわ、なあもしかして白石みたいなんがタイプなん、あれやこれや突っ込んだ話へ持っていかれた。 そういう事じゃない。 嫌いか好きかで言えば好きの方に分類されるだろうけど、付き合いたいとか彼女になりたいだとかいう段階までいくと急に景色がぼやけてしまうのだ。 誰かと恋愛中の白石君、はひどく現実離れしている。 まったく想像がつかないと言っても過言ではない。 白石はない。 ええーあるよ、かっこいいやん。 様々な感想につられて、なら自分はと思い浮かべようとしてみても、保健室で親切にしてくれた日の、廊下ですれ違い昨日見たテレビの話をする時の、英語が苦手だと白状しからかわれた放課後の、なんでもない笑顔しか出てこなかった。 経歴や学校内での立ち位置を加味すれば絶対に普通じゃないはずなのに、私の中の白石君は何故か顔面以外、普通の男の子なのだ。 だったらなんでもしも付き合ったら、という女子の間ではごく有り触れた想像が出来ないのか、自分でもわからない。わからないが、とにかく今は他の答えを持っていない。 昼に友達と交わした会話の気軽さとは大違いで、そういったずるずる尾を引く感情を抱えていた所為だ。 運んでいたプリントを案の定ぶち撒けた。 幸いにも時間帯は夕方、誰もいない放課後の廊下だったので人様に迷惑をかけずに済んだけれど、散らばる音はやけに大きく鼓膜に響き、虚しさを倍増させる。 なんとか死守した残りの束を床に置き、重量のなさ故か放り投げたわけでもないのに広範囲に散った一枚一枚を拾い集める途中で、長い指先とかち合った。 第二間接までを包む白い包帯には、見覚えがあった。 「白石君」 「派手にいったな」 「見てたの?」 「見てたで。余所見して歩いたらあかんて、いつも言うとるやろ」 教師然とした注意の割に、声色は柔らかい。 なんとなく扱いが下級生へのそれのような気もしたが、しゃがんで手伝ってくれているので黙っておいた。 いつもは簡単に、つっかかりもせず出る一言が、喉で詰まってなかなか形にならなかった。 ちらと目を向ければウェアを着てはいるけれど、どうして校内にいるんだろう、部活じゃないのかな。 思考は誤魔化せても、沈黙が痛い。 もたもた掻くばかりの私と違い手際よく集める白石君が、ついた埃をはたいて重なったプリントを差し出してくる。 受け取った厚みの角を膝上で整え、意を決して息を吸った。 「ごめんね、ありがとう」 緊張していたのかもしれない。語尾が微かに震えた。 「どういたしまして」 気付かなかったのか、知らない振りをしたのか、どちらかで色々と評価が変わってくる所だが、彼は至極当たり前と言わんばかりに微笑み、手短にそう答える。 肩透かしを食らった気分になって、すぐさま自惚れだと恥じた。 あんなのは何でもない世間話だ。 好きといっても標準語が珍しい、みたいな話で、特に意味があったんじゃない。 嫌だな、気にしてないって思ってたはずなのに、本当は違ったのかな。 己の姿勢も忘れて考え込む私の頭上へ影が降る。白石君が立ち上がったのだ。 西日を遮る薄黒は長く伸びきっており、慌てて畳んでいた両足を真っ直ぐに戻した。 「俺は教室行くけど、さんは?」 「国語準備室に」 「ほな、途中まで一緒にいこか」 断る理由も方法もない、無言で頷く。 白石君はジャージのポケットに手を入れてから笑った。たまに行儀悪い。 並んでいるだけでは手持ち無沙汰なので口を開く。 「部活中…だよね、どうして校舎にいるの?」 「教室のロッカーに包帯の替え忘れてん」 「ええと、それは……テニス中断してまで行くような一大事?」 「金ちゃんを甘く見たらいかんで、さん。暴れ出したらそれこそテニスどころじゃなくなってしまうわ。俺が最後の砦やねん」 「責任重大だ」 「せや、重大なんや」 私が一方的に気まずくなっていたのだけれど、二言三言交わせばあっさり笑いが飛び出した。唇は頭の中よりずっと素直だ。 ほぐれた肩でゆるく息をして、地区大会のあんばいを聞き、テニス部顧問の先生がいかに適当かという所に話題が移ったちょうどその時、3年2組の表記が視界に入った。 扉の前までやってきて、いいこと教えたる、と束ねたプリントに皺を作らずばらけさせない為のコツを、白石君が唐突に説明し始める。紛う事なきマメ知識である。 白石君情報に、植物以外の分野でも結構物知り、が書き加えられていく。 興味深く聞き入って、今度は一つの後ろめたさも落ち着かない空気も感じずに、すんなり言う事が出来た。 「ありがとう」 嬉しそうに唇を上へ曲げる白石君は、少しだけ子供みたいだ。 それから数日と経った夜の事。 遅くまで学校に残っていたのは友達のいるバレー部を見ていたからだし、コンビニに一人でいたのもその子への差し入れを買う為で、別に夜遊びしていたわけじゃない。責められる謂れはないと思う。そのはずだ。 両手から下がるビニール袋を後ろに回して校舎への道を戻るさなか、 「何してんのかな、こんな時間に」 ぞっとする程低い声が耳の横からやって来て、物凄く驚いた。 本能的に振り向き音の発生源を目視するまで誰だかわからなかったのは仕方がない、実際意識して声色を変えていたのだろう、極限に目を丸くする私を見た白石君がいたずらっ子の瞳で笑う。 「白石君。びっくりした。普通に声かけて下さい」 「普通にかけましたよ」 「普通じゃないよ。……敬語になってるよ?」 「さんも敬語なってたで」 何度か発令された敬語禁止令をことごとく私が破るので、どうやら別の角度から注意するようにしたらしい。なかなかやり手だ。 袋を右手に持ち替える、がさがさと騒がしい音が鳴った。 陽がとうに落ちた暗闇ばかりの道では、普段なら聞き逃す程度のものも激しい主張をする。足音も克明に響き、ローファーの私とスニーカーの彼の違いもはっきりわかった。 「こんな時間まで部活なんだ」 コートでよく目にするウェアでないからすぐには判断がつかなかったが、制服ではなくTシャツにジャージと来れば間違いなくテニス部が関係しているのだろう。 私の歩く速度に合わせてくれる汗だくの白石君は、額から滑る幾筋もの流れを煩わしそうに拭う。 ここまで前髪が崩れているのは初めてだ。 「ただ走っとっただけやから、部活ゆうのは違うかもしれんけどな」 濡れた襟足を掴む左手に違和感。あっと声を出しかける。 包帯がない。 素手を見るのも初めてだ。 「遠山君はお休み?」 「え、金ちゃん? 金ちゃんが休む事なんて、滅多にあらへん」 なんで。 投げ掛けられた質問に、私は無言で自分の左手をぐーとぱーの形にしてみせた。 「毒手が表に出てるから」 指摘を受けた白石君が襟に伸びた自らの腕へ視線を落とし、ああ、と納得するよう呟く。 「もう暗いし、外走るんなら誰にも会わんと思て、外してもうたわ」 「会っちゃったね」 「会うたな」 やや気の抜けた返事をあっさり寄越すのがおかしい。 肩を並べて進む先に、乏しいながらも目印にはなる学校の明かりがうっすら見えてくる。 「危なくないの、毒手」 「危なくない。制御すんのは得意なんや」 「聖書だから?」 「いやそれ聖書関係あらへん」 「じゃあ部長だから」 「毒手持ちの部長なんて、他に聞いた事ないわ」 「そしたら白石君だからだね」 「……先に言うたらあかんて。ここは最後までボケたさんに、俺が自分で、白石君だから言うたってんか、ちゅうて突っ込むとこやろ」 漫才をしているつもりはなかったのだが、彼としてはそういう流れになる予定だったようだ。 「俺の事はどっかその辺に置いといて、問題はさんの方や。こんだけ真っ暗なってんのになんで一人でフラフラしてんねん。はよ帰らな」 夜道のが毒手よりよっぽど危ないわ。 それまでの優しげなツッコミは奥に引っ込んで、厳しい口調が見え隠れする。 友達の部活を見ていたのだと釈明しても、校門の外に出る必要はない、叱咤の色を濃くしてぴしゃりと言い切られてしまった。生活指導の先生みたいだった。 「帰りは人と一緒だから、平気だよ」 「今は一人に見えるけど」 「だからそれは、コンビニにちょっと行ったからで」 「一人なんやな」 話を聞いて下さい、と思ったが、歯向かった所で許しが得られる空気ではなかったので、 「今度から気をつけます」 素直に従う事にした。 張り付いた髪を乱雑に掻き分けながら、ええ子や、と微笑む白石君は少しばかりいかがわしい。 イケメンはイケメンなだけでどうせ無罪なんやどうなってんねんこの世界、と自分の好きな子が白石君に告白したのを知り軽く憤慨していたクラスの男子を思い出した。 初夏と呼ばれる季節とはいえまだ夏本番には遠く、夜ともなれば風だって涼しいはずだが、隣の彼の様相は真夏のようで、白石君の方が余程一人でどこか別の次元から抜け出してきたみたいだ。 どれだけ走り込んだら、過ごしやすい今の気候にこんな大汗をかくのだろう。 俄に気が遠くなった。 下校時刻を過ぎた所為で施錠された正門を横切って、私達は裏門へと足を向ける。 通りがかった、植木を囲うようにして設置された金網の前で、ここよく金ちゃんが抜け道に使うんや、不自然に乱れる枝葉を指した白石君がやれやれといった面差しで教えてくれた。 「猫みたい」 「そんな可愛らしいもんとちゃうで、あのゴンタクレは」 身軽な左手が破れかけのフェンスを辿り、指先と包帯の下の皮膚の色が違う事を知る。 通年毒手を隠しているおかげで、日焼けにむらがあるのだ。 完璧と聖書を自負する人らしからぬ隙に、私はなんだか微笑ましくなった。 立派な表に比べこじんまりとした裏門に人気はなく、そびえる壁の向こうで体育館の窓が煌々と明かりを放っている、バレー部はまだ解散していない、よかった、息をつけば横にあった熱と気配が薄らぐ。 「ほな、気ぃつけて帰ってな」 リアルタイムで去っていく声を追いかけて首を捻り、ろくに外灯のない道へ消えゆかんとしている背に一瞬言葉を失った。 まさか、まだ走るのか。 てっきり外周が終わったから私と歩いているものと思っていたのに、ランニングの途中でふらついてる同級生を見るに見かねて送ってくれただけだったのか。 唇が無意味にあ、だか、う、だかの形になっている間にも、白石君はぐんぐん速度を上げて遠ざかる。 引き止めようとしてこれ以上邪魔をしたくないと怖気づき、何か言わなければと舌を湿らせて、掛ける言葉が見つからない現実に打ちのめされた。 ビニールがけたたましい音で騒ぐ。 夏前に吹く爽やかな風に頬を打たれる。 必死に目を凝らして、闇へ馴染む影を見い出す。 力一杯、息を吸い込んだ。 「白石君!」 歯軋りするほど長い足が止まって、いくら汗をかこうと端整なままの顔がこちらを見遣る。 「送ってくれてありがとう! 頑張って!」 届くかどうか不安だったので声は大きくなったが、問題はなかったようだ。白石君は空の左腕を上げ、苦笑を浮かべた。 「おーきに」 叫ばなくても聞こえる距離だった、恥ずかしい。 肩を縮める私に、早く門の中へ入れ、というジェスチャーが送られたので、黙って従う。 すぐには体育館へ向かわず、背伸びをして柵の上から顔を覗かせれば、暗い影と同化しつつある背中が揺れていた。 しばらく見送り、大分小さくなったそれが角を曲がる寸前、こちらを振り返ったようだった。 ようだった、と表現が曖昧なのは、怒られると判じた私の反射神経が体を仰け反らせたからだ。十数秒経過したのち、身を隠していた塀に顎を乗せる。 人っ子一人いない。 影も形もない。 静寂は脳裏での再生を許し、記憶の絵筆が鮮明に描く事を助長する。 頼りない外灯の下で立ち止まった彼を彩るラインは夕闇をものともせず、くっきりと主張を繰り返していた。 音と同じだ。 暗ければ暗いだけ、やけに目立つ。 |