付加価値マネージメント




そもそも恋愛なんて不公平で不毛なものと決まっているのだ。


4月14日の放課後、白石蔵ノ介は教室で忍足謙也を待っていた。
部活前に揃って顧問の元へ行く用事があったのだが、忍足の方が数学のノートを提出し忘れたとか何とかで、止める間もなく数分前に扉から飛び出していったのだ。
スピードスターの名に相応しく決断をすれば誰よりも早く動く。
やけに早回しで過ぎた今日という日に息を吐きながら、白石は頬杖をついた。
朝降った雨を掠めてしまったおかげで、学ランの裾や袖がまだ湿っている気がする。
家を出る時は家族にある意味で手厚く祝福され、部室に入れば部員達から思い思いのお祝いを受け取り、授業が始まってからは級友や見知らぬ生徒の言祝ぎが降り注ぎ、どんよりとした生憎の空模様と違って騒がしくあたたかな誕生日であった。
積極的な子は苦手言うてたんは誰や、睨みをきかせたのは忍足だ。
忌々しいと言わんばかりの形相に、アラやーんこわい顔! と金色が返し、小春が怖がっとるやんけその顔やめろやドアホとすかさず続ける一氏に、当の白石は突っ込みもせず笑って流す。
いつも通りの光景だった。
元々人様からの厚意を煩わしいと思う性質ではなく、むしろ有り難いと感謝しているくらいなのだ。
コートの外で受ける声援は、そのまま試合での歓声に繋がる。
となると自分一人の問題に納まらず、部全体の士気にも関わってくる事だろう。
すげなく断る理由がなかった。
しかしそういった所が変に冷静、たまに腹立つ、壁がある、等々の評価を下される根源と言えるのかもしれない。
白石はけして愚鈍でなく聡い男であったから、周囲の声をある程度耳へ入れつつも、大仰には捉えずにいた。
徹底した成果主義を貫くのであれば柔軟性も必要だ、現状に不満はない。
たとえ理解が得られないとしても、仕方のない時だってあるだろう。
そのように、思い込みにあらず、確信した上で保っていた日々を覆されたのは、奇しくも己の生まれたこの日だった、と後々になって頷く事となるのだが今の彼が知るはずもなかった。


なんとはなしにぼんやりと窓の外を眺めていた瞳の下方部に、人影が映り込む。
深く考えずに目を遣ると、どの教室にも一つ備え付けられているゴミ箱を持った女子生徒が、丁度校庭の端を横切っていく場面に遭遇した。
違和感を抱いた白石は首を傾げる。
焼却炉やゴミ収集場がある方向とは全く異なる角度を向いて歩き、心なしか辺りをきょろきょろと見回しているような素振りである。
一瞬、入学したての一年生かと考え、今日は校外オリエンテーションでいない事を思い出してすぐさま打ち消した。
生徒会役員でもない白石が他学年の行事を知り得ていたのは、早々にとんでもないパワーを見せた遠山金太郎の、ワイ今日は部活いけへんのや、つまらん、という不満を宥めていたからだった。
では、あの女子生徒は誰か。
思考に一段落の整理がついて再び注視しようとすれば、彼女の姿は忽然と消えていた。
正しい道に自分で気付いて引き返したのか、思った途端に今度は先程彼女が目指していた方向からまた現れる。
迷っている。
誰がどう見ても、一挙一動が迷子のそれだった。
よっぽど声をかけようとしたのだけれど、一つの閃きが初動を遅らせた。
白石自身も何度か耳にした事がある、転校生の噂。
熊本からやたら背の高い男子が来て、東京からは女の子が来た、四天宝寺中三年生の間で流れに流れる話題。
確証はないのだが、白石の視界を通り過ぎる風景が正解だと囁いている。
サッシに手をやり、窓を開け、やや身を乗り出して唇を開こうとしたその時、迷うがゆえに足元の不注意になった少女は奇妙に姿勢を崩した。
噴水付近の段差に片足が引っ掛かったのだ。
小さいながらも綺麗な弧を描いたゴミ箱は空を舞い、中身が気持ちの良い程飛び散って辺りに散乱する。
白石はとっさに前のめりになった。
椅子の足がぎいと微かに不快な音を立てる。
手をついて思いきり転んだ彼女は、横倒しになったゴミ箱をそっちのけでくるぶしを押さえて蹲っており、ひどい怪我をしたのだろうかと心配になった。
しかし数秒と経たぬ内にさっと立ち上がり、散らばったゴミを掻き集め始めたので他人事ながらほっと息を吐いた。
人一倍怪我や健康に気を遣う彼は、周囲へ配らせる目もまた細やかだ。事が女子となれば尚更である。
ゴミ箱を立たせ、こぼれた紙くず類を拾い上げる。
しゃがみながら拾い忘れがないか確認し、付いていた手をコンクリートから離して背を真っ直ぐに戻す。
スカートや掌、膝小僧を手早く払い、再びの確認。最後にゴミ箱を持ち上げて、底の下も確かめる。
手順もさることながら、一つ一つの動作も実に丁寧な仕事ぶりだった。
そのきめ細やかさを自らの足元にまで向ければ惨事は起きなかったろうに、と白石は唇の端に苦笑を浮かべた。
断じて馬鹿にしているわけではなく、どこか微笑ましい思いの混ざるものである。
ともあれ大事に至らなくて良かった、と腰を落ち着ける白石の眼下で、ゴミ箱を片手に再出発する背中が遠ざかる。
よしよし、今度は合うてんで。
ようやく正解の方角へと歩く彼女へ柔らかい一笑が込み上げ、それだけで朝から感じていた忙しない時間の流れも、制服にまとわりつく湿り気を帯びた不快感も、綺麗さっぱり忘れてしまった。

かの転校生がどのクラスなのか白石はあえて誰かに尋ねようとせず、ふとした瞬間にあの頼りない足取りを探すに留まった。
視界に入ればどうしても目立つ、そう時を置かずして相見えるだろうとのんびり構えていた所為だろうか、彼女はあれきり現れてくれない。
1週間が過ぎ、2週間を越え、なんやほんまに会わへんのも妙な話やなぁ、と奇縁を訝しんだ頃、昼の保健室で初めてきちんと顔を知った。
そろそろと何かを恐れるような気配でまずおかしいと気付き、知らない生徒のはずなのだが雰囲気に覚えがあって、もしやと感付きながら事務的に名前を聞けば予想通りの答えが得られる。
しかし生憎、真正面から見る彼女の顔色は大変悪くあの日の話を振る暇はない、白石の案内にと名乗った少女がふらふらと付いて来、先日の事も相まって心配になった。おまけに警戒心も薄い。
会議から戻った保健医に状況を説明すると、そんな世話ばっか焼いてたらハゲるで、笑い飛ばされたあげく手加減なしで背を叩かれる。
そうは言っても、続けざまに心配せざるを得ない所を見てしまっては世話の一つも焼きたくなるだろう。
ベッドで寝込む少女を囲むカーテンを僅かに見返して、白石は保健室のドアを閉めた。

そんな風に、はじまりは些細な一粒だった。

廊下の端で名前を知り、話す度に鼓膜を揺らす標準語は不思議な心地をもたらして、けれど同じよう会話を重ねていけばすぐに馴染み、遠ざかるわけでもなく一気に詰めるでもない距離が丁度良く、有名人と言っても過言でない白石を彼女は知らないから、周知の事実をいちいち尋ねてくるのがなんだかおかしい。
中学最後の年、積み上げてきたものが多数を占める白石にとって、一から始める感覚は楽しかった。
早く学校に慣れる為の手助けになればと、練習を見に来てはどうか誘うと素直に姿を現す。鞄を後ろに持ち真っ直ぐ立っていたのですぐにわかった。
生真面目な様子を横目で確認し、声かけるだけで来てくれるんやったらあの2週間はなんだったんや、と一人笑う。
時々大ボケをかます。からかうと真剣に謝ってきたりむっとしたりで忙しい。
英語が不得手で、他の教科についても前いた中学と授業の進み方も違うから苦労しているようだ。
人見知りはせず、話しかければいつだって率直な反応が返って来る。
笑顔よりは、不思議そうに首を傾げている事の方が多いように思う。
誰が読むんやあんなん、と部員には不評な校内新聞を熟読し、四天宝寺の色濃い部活動に目を白黒させている。
ひょいとボールを放り込めば、必ず投げ返してくれる。
という少女は、当然のように真面目で、ごく自然にいい子であった。
だから気になるのだ。
白石はそう考えていた。
これで恐ろしく性根が悪かったり、ドン引きして距離を置いてくるのだったら話は別だが、彼女はどちらにも当てはまらず、不慣れな土地で日々を送らねばならない境遇にいるのであろうから、つい目がいって世話を焼いてしまう。
ごめんね。謝られると、気にせんでええよと否定してやりたくなった。
ありがとう。言われれば少しだけ誇らしい。
ほんと? とよく問われたから確かな事だけを口にするようになった。
素朴と喩える事が出来る気持ちの様々に疑問を抱かずにいたのは、転校生という大きな前提の所為だ。
別段特記すべきでもない親切心、あったとしても友誼、と彼の中で定着していた。
影になって隠れた部分に潜んだ、もう一つの感情には気付かない。
己一人の力で及ばなかった真実を、決してと近しいわけでない人物に思い知らされたのは、皮肉と言えるだろう。

唐突に、築いてきた律は乱された。

いつも通り部室へ足を運びウェアに着替え、レギュラーも部員もぽつぽつと集まり、声をかけてウォーミングアップを始めるか否やという時、フェンスの向こうに知った顔を見つけた。
さんや、と白石は言葉を成さずに名を呼んだ。
ちりとりと箒を手に歩いているが、進む先は掃除用具を仕舞う倉庫と真逆だ。
迷子にならないと宣言したくせに、時折ミスを犯す彼女が微笑ましい。
しゃあないなぁ、近いとこまで来たら声かけるか、それとも後で時間ある時に教えたるか。
唇の端をやんわり上げ、腕を組みながら彼女の足取りを眺めていた白石の耳に、突如として波紋が広がった。

「おーい! 掃除用具の倉庫はそっちちゃうで、逆や逆!」

水面の輪は穏やかとは程遠く、激しい飛沫を伴った。
勢いに押された白石は言葉を失う。
その間にはぴたっと体の動きを止めて、テニスコートを見遣ったがしかし、こちらに向けられた瞳の二つともが白石を通り越し、常とは異なる先を捉えているのだ。
愕然とした。
辺りを見渡し己の間違いを悟った彼女が、慌てた様子で大袈裟に頭を下げる。
余裕がないのだろうか、さっと顔を上げ小走りに駆けていく背は白石を振り返る事なく、校舎の角を曲がって消えた。
電波の悪い電話のように、声がやたらゆっくりと遅れて聞こえて来る。
後方からだ。

「知り合いですか」

無愛想な財前の声だった。
白石は一瞬、自分への問いかと錯覚したが、

「いや知らん。知らんけど、多分転校生ちゃうん」

忍足の返答で泡と消える。

「転校生ゆうたら千歳とちゃうんかい」
「アラ、ユウくん知らんの? も一人来たやん、東京から女の子が!」
「ああ……そういうことッスか。ほんま謙也さんは優しい男やなあ」
「何が、そういうことッスか、やねん! 一人で納得した顔すんなボケ。お前そら勘違いっちゅー話や。あと棒読みすな!」
「けど、ケンヤくん優しいわねえ。よう知らん女の子やのに、わざわざ教えてあげるなんて…ス・テ・キ!」
「浮気か死なすど」

次から次へと増していく騒がしさも、どこか遠くで反響しているようだ。
まともに現状把握が出来ないのでは冷静と言い難い、白石は自分で自分が信じられなかった。

「白石は知っとっと?」
「おお、せや、白石や。お前のが詳しいやろ、なんや前に廊下で話してたやん」

背中へ方々からの視線が当てられ、反射的に振り向く。

「ああ、転校生の子やな。まだこっちに慣れてへんのやろ」

果たして上手く笑えていたのかどうかわからない。
些細な一粒が与えた衝撃は、質量のわりに大きすぎた。
驚いたと表現するより、ショックだった、と言った方がおそらく正しい。
何を根拠に、を気にかける男は自分だけだと信じていたのだろう。
のんびり待って、ちょうど良いタイミングで声をかけて、ありがとうと感謝され、たまに世間話をする。
彼女と日常を送る権利は、白石一人に許された特別なものではない。そんなはずもない。
白石の預かり知らぬ所で、は他の男子と話す時もあれば、助けられる事もあるのだ。
当たり前の事で何もおかしな所はない。
おかしいのは、ざわついて仕方ない胸中の方だ。
忍足の親切にの目線がいくのは至極当然、慌てているのだとしたら傍らの白石に気付かずとも詰る理由にはならない。
彼女はクラスメイトではない、友人と呼べるのかすら怪しく、客観的に見れば同学年に籍を置くただの顔見知り。ケータイの番号も、メールアドレスも知らない。
住んでいる場所も知らない。
転校した訳も知らない。
記憶をなぞり数えていくとそんな事ばかりが浮かび上がって、白石は茫然自失に陥った。
しかしながら、落ち着いて間を置けば冷静な判断力が戻ってくる。時間の経過は偉大だ。
そうしてしぶいて荒れた表層が凪ぐと、今度は焦燥に身を焼かれる破目になった。

権限など一つとして持たないくせに、が言葉を投げる見知らぬ男の面に頬の筋肉がぴくりと反応し、あまつさえそいつが彼女に頭でも下げられていたら、授業まるまる一時間ちっとも身に入らなかった。
ひと度気になってしまうと、紐で繋がったようにずるずると引き摺り出される。
自分以外の誰かに頼るを見たくない。ありがとうと言われた男が、どう思うのかなど考えたくもない。
実際に会うたのは3組の生徒が先や、けどさんがどういう子か気づいたんは俺が一番早い。
後々思い返せばしょうもないと一蹴するような、子供じみた思考にとりつかれた日もあった。
白石がどこまでもにぶく、愚かであったのなら自覚に至らなかっただろう、だが並の人間よりは幾らか自己判断に優れていたのですぐに悟ってしまう。
これは独占欲だ。
どういった感情から零れるものかなんて、論じるまでもない。
不慣れな転校生という見方を取っ払い、下心のない親切心と体よく名付けられた蓋を開けると、現実はいとも簡単に引っくり返る。
体育の授業で走る背中を目で追いかけた。
テニスコートの片隅に彼女がぽつんと立つ日は横目で丁寧に確かめ、美術室の後ろに居並ぶ作品の数々からたったひとつの名前を探した。
階段の踊り場で出くわし、互いに立ち止まる。
ニ、三言葉を交わす間にも笑ってくれたらほっとした。
テスト期間前に出題されそうな部分を予め教えてやり、その通りの問題が出た時は、これは解けたやろ、思った。
リビングで姉が雑誌を開きながらケーキバイキングに行くだの何だのと母親と話していれば、甘い物は好きかどうか考える。大阪を案内するのなら、まず一番最初にどこへ行くのが良いか思案する。
あれこれ世話を焼きたくなる理由は、いつも一つしかなかった。

好きだからだ。
なんの事はない至極シンプルな答えを、真綿で包みややこしくしたのは他ならぬ自分自身であった事に気付いた時、軋んだのはプライドだったのか築き上げてきたそれまでの時間だったのか、判断さえつかぬ程の深みに足を取られている。

自覚の上で成り立つ恋に、白石は大層手こずった。
一目惚れだとか、徐々に好きになっていっただとか、そういう過程であればまだ良かった。
何しろ入りが、単なる親切心、である。距離の詰め方がわからない。
今更どのツラ下げて好意を表せばいい。
いつの間にやら板に付いた、いい人、の顔が剥がれてくれなかった。
戸惑う白石の心境などお構いなしに、はどんどん彼の中に居場所を作っていく。
もしかすると、最初の内から結構な大きさであったが例の建前の影になっていた為発見されず、彼が気付いた時には消せないほど染み込んでいただけの話かもしれない。
ともかく、自覚した白石と何も知らないではバランスが悪かった。
二人の間にある天秤は不公平にも傾き、深く沈んでいく一方で救いの糸すら降りてこない。
好きになってくのは俺だけや、と仄暗い病も胸に飼った。
ごめんね。謝られると、そんなん気にせんで頼ってやと危うく口にしかける。
ありがとう。言われれば喜びに緩む顔がもっと見たくなった。
ほんと? とよく問われたからたとえば嘘も本当にしてやりたくなった。
好きだと彼女の声で告げられたら、どんなにか満たされるだろう。
夢はやわらかに甘かったがしかし、所詮夢は夢でしか有り得ない。
求めるばかりで、増えない目盛りが虚しく寂しい。
混雑甚だしい昼休みの食堂で最近入荷されたジュースを手にしているのを見つけ、会話の初手に味の感想を尋ねれば、

「一口目は不思議な味がするんだけど、おいしいよ。まだ口つけてないから、飲んでみる?」

とストローの刺さった紙パックを惜しげもなく差し出され内心焦った。
日も暮れた夜道を一人行く後ろ姿が目に映り、その危うさに心を砕く。
毒手が出てる、珍しくからかわれた。
ランニングを続行する自分を裏門の柵から見送ってくれて、大分離れた辺りでふと振り向いた時素早く隠れた動作がいじらしい、けれど他の男にも同じ事をしているのかと思えば腹の底から不愉快になった。
応援の言葉を紡いだ彼女に失礼な仮定だと頭で理解していても、面白くないものは面白くなかった。
雨が滴る帰り道、傘の下で俯いた丸い頬に差す赤色が無性に可愛い。
水の粒を弾く肌の瑞々しさは目に毒だ。
恥じらった拒絶に胸を優しく抉られ、白石は密やかに溜め息を吐く。
拗ねたような口調で、だが強い否定は含んでいない、初めて聞く彼女の声だった。
傘に落ちる邪魔な音が煩わしく、下校時刻が重なる切っ掛けとなった雨に感謝するのも忘れてもうちょい静かに降れやと軽く睨んだ。
長々と尾を引き、一等白石の心を振るわせる余韻は、小さな掌でも笑顔でもなく、馴染んだはずなのに何故か耳に残る声音であった。という人を瞼の裏に浮かべる時、真っ先に思い出すのもまたそれだった。
鼓膜の奥でしんなりと渦巻くわななきは白石の思考をクリアにし、形のない感情の縁を浮き立たせていく。
あの声が欲しい。
呼ばれたい、できれば名前で。
好き、たった二文字の響きは想像するだけで耐え難い。微笑んで揺れる音が聞きたかった。悲哀にひきつれたとしても聞き逃したくない。
どれだけ短く区切られた一音だろうが捕まえておきたい。
怒気を孕めばどこまで荒れるのか、一度覚えておくのも良いだろう。
驚愕に、快楽に、嫉妬に、喜びに、跳ねる声を知りたい。
イントネーション以外に特徴はなくても、彼女の喉を通り舌の上で転がって、唇から溢れこぼれる全ての音が白石にとって特別だった。
たった一度きりでも強く願ってしまえば留まる事を忘れたように溢れ出る。
声だけじゃなく、爪、指先から始まり親指の付け根がふっくらとした掌、細い血管が透けて見える腕、短い袖から伸びる肌の白さと丸い肩、なめらかな首筋、小さい顎と繋がって曲線を描く頬、こちらを見上げる瞳の色、風に揺れる髪。
もう何でもいい。
胸、尻、足、どこがどうでああだとかこうだとか区別をつけるまでもない。
はっきり言って全部が、どうしても欲しかった。

白石はらしくもなく急いており、同等に行き詰まっていた。
が、白石君はモテるから、と彼にとって至極どうでも良い理由で境界線に近づくどころか一歩退いた時など、いつもは気にならない喧しく飛び交う噂の数々に心の底から落胆し、余計な入れ知恵をしてくれたどこかの誰かを恨んだ。
乱調は不和を生む。不和は彼を蝕んで、侵食が理性を腐らせた。

「お目当てかぁ、ちょっと意味はちがくなるけど、応援してるのは白石君だよ」

そうして行き詰まった白石が踏み出すには、充分すぎる一言であった。