明日、鐘を鳴らして ふと気づけば暗かった。 いつ目蓋をあげたのかすらわからないほど、まどろみは深い。 眼前が壁なのかそうでないのか、慣れぬ瞳では探れず、しばらくぼんやりしたまま瞬きを繰り返す。すると、ごくゆるやかに家具やどこからか漏れるわずかな光が暗闇の内から抜け出し、まとまらないでいた頭も鈍くではあるが動き始めた。 サイドテーブルに置いてあるはずの目覚まし時計へ視線を遣ろうとし、首どころか体ごと捻らなければ見えないのだと悟って、あまり派手な動作にならぬよう仰向けだった姿勢を転がし変える。 丸みのあるラインだけを頼りに伸ばした腕が寒い。ぬくい布団の中とは別世界のようだ。 しまった、早く辿り着かないと指先が冷える。 恐れをなした私は手首から先のみを慌ただしく振り、これまた冷たいテーブルの上をぺたぺたと這わせた。 ところが時間の経過とは裏腹に、目的の時計が掠りもしないので少々苛立つ。すぐそこにあるはずなのだが、闇に馴染んだ眼孔では距離がうまく掴めなかったのかもしれない。 いよいよ本格的に身を起こして確かめようかという時、天井を向いた耳に触れるなにかのおかげで、はっと肩が震えた。 凍えてはいない、少し硬い感触。 熱を帯びるそれは辺りに掛かった髪にやんわり触れ、耳殻をなぞっていく。 ひとつひとつが優しかった。 指の甲だと気づいたのは、声が鼓膜に染み入った瞬間だ。 「……起きた?」 近いようで遠く、いつも聞いている音色ではないから、喉がひくついてしまう。 少しだけ眠そうで、どことなく甘い。 前触れなく温もりが遠ざかり、耳たぶから孔へと寒々しい空気がぐんと入り込んでくる心地になった。 「ごめん、起こした?」 「大丈夫。が起きるちょっと前に、俺も起きてたから」 言いながら体勢を戻し、私と同じような恰好で横たわっている精市くんと向き合う。 ベッドのスプリングがわずかに軋んで、衣擦れの音と混ざり、うす暗い壁と天井へと消えていく。 やはりいまだに通常の機能を取り戻していない瞳では目の前の人の顔さえ曖昧だ、輪郭がかろうじて捉えられる程度で、なんとも心許ない。 「いきなり腕をばたばたさせるから、寝惚けているのかと思ったよ」 唇の端を曲げている気配がしたので、多分笑んでいるのだろう。 今までわからなかったが、自分は夜目がきく方ではないらしい。 「…寝惚けてないし。何時かと思って時計探してただけ」 だけど精市くんは探る物音も立てず触れてきたから、私よりずっとはっきり見えているに違いなく、それが微妙に恥ずかしかった。同じだけ暗闇につぶされぬ視界を持っているならまだしも、一方的に見られている状況は居心地が悪い。 おかげで返答に棘が舞い込んだけれど、どこ吹く風といった調子の声は、日付が変わるちょっと前くらいじゃない、難なく告げてくる。 こちらの変化に気づいていないわけがないのに、時と場合によって流すところは何年経っても相変わらずだ。しかし、その度にくたらしいと思いながら追求はしない私も私のままなので、ちょうどいいのかもしれなかった。 「なんか曖昧なんですけど」 「時計を見たわけじゃないからね」 「せめてケータイとか見てから言おうよ……」 再び体を捻って、一旦諦めた現在時刻の確認を試みようとし、しなくてもわかるさ、合っているもの、とやけに落ち着いた物言いに阻止されてしまう。 「俺、得意なんだ」 何が。 聞くより早く答えが返る。 「夜中に目が覚めた時の、時間を当てるのが」 なんだか自慢できそうでできない特技だ。はたして日常生活で使い所があるのか素で疑問に思い、別段工夫もせず投げかけた。 「……役に立つの、それ?」 穏やかな沈黙が落ち、呼吸が淡く響いて聞こえる。 途端、秒針の刻まれる音が部屋を渡っていき、暗闇の中で主張し始めた。 ここにきてようやく、輪郭だけでなく表情も見いだせるようになってきたけれど、まだまだうっすら程度でしかない。 何を考えているのかわからない瞬間がたくさんある人だ、たとえはっきり映せていたとしても100%の理解は叶わないだろう、それでも顔が見えなければどうしたって不安だ。 もしかして、今のは失言だったのかも。 怒っていたらどうしよう、などと胸が騒ぎ出したところで、柔らかい吐息が鼓膜を撫でた。 「フフ、そうだね…役には立たないな。でもは助かっただろ」 がっしりと張っている肩の線がゆるやかになり、今度は気配というあやふやなものではなく、明確に笑っているのがわかってほっとする。 だとすれば、先程の静寂は怒りが所以にあらず、思いも寄らぬ返しを受けて目を丸くしていた、というのが正解に近いらしい。余計安心した。 「……助かったけど」 「けど?」 「精市くん自身が助かんないと、あんまり意味ないんじゃないの」 「俺?」 「うん」 「俺はいいよ。の役に立てたなら、それで充分。まったく幸せなことだよね、神様に感謝したいくらい。まあ俺は基本的に神様とか信じてないんだけどね」 これは相当ふざけている。 熱が保たれたシーツの上に置かれていた腕を枕にし、もう片方の手で以って私の肩あたり、分厚い掛布団の下で縒れていたブランケットを直す様子から察するに、すぐ寝る気もないとみた。 諸々の事情で優しさを素直に喜べないのが嫌だが、素直に喜ばせようとしないのは精市くんのほうなので、どういう表情でいればいいのかまるでわからず押し黙るほかない。 遠いはずでも何故かあたたかいと感じる息がやんわり曲がった。 ほのかな光を伴う揃いの瞳は、とろりとした明暗の狭間で細められる。 どうしたの。 その灯りが淑やかにたわんでいた。 「しかめっ面して」 「…よく私の顔が見えるなと思って」 まばたきでもしたのだろうか、ほんの一秒に満たぬ間、影ろい、外からのか細い光源に照らされる輪郭以外が黒く塗りたくられる。 暗い室内がより深まるようで、ぞっとする一瞬だった。 「は見えないのかい」 「うーん……微妙にわかる…くらい」 そう、寝起きだからかな。 多分。でも真っ暗だとあんまよく見えないみたい。 誰に聞かれるでもない、わざわざ声を落とすほどのこともないのに、自然とひそやかな音色へと落ちて、不思議な気持ちになる。 一緒に眠ったことはあっても、精市くんのこういう声は初めてだ。 起きているのは確かだがなんとなく眠そうで、甘そうに喉へ絡みながらもしっかり響き、籠もらせるまでもないくせして内緒話のようなトーン。少し心臓が騒ぐ。 ひょっとしたら、表情が窺えなくて逆に良かったのかもしれない。 これでいつも通りに明るかったら、色々と困る。 「おかげで、自分がどっち向いて寝てるのか一瞬わかんなかった」 ありもしない想像に一人で気まずくなって、つい口を開いた。 精市くんはごくゆっくり眦をゆるませ、ただ静かに息づいている。 ひたすら見つめていた成果か、慣れ始めた目が影の中で光彩を探し当て、輪郭や線ばかりでないものがじわと暗いところから滲み始めた。 右目は枕代わりの腕の袖に半分埋もれていて、ゆるいカーブを描く髪が重力に負けて散らばり、漆黒よりは薄い色をしたそれらの合間から所々顕になっている耳が寒そうだと思う。現に自分のほうは髪の毛で隠れている為我慢が可能なだけで、彼と同じ有り様になっていたら間違いなく布団に潜りこんでいるだろう。 ブランケットを直したきり外に出っ放しの左手も、やはり寒々しく見えて仕方がない。 素肌でないにせよ一枚しか着ていないのだ、だというのにどうして平然としていられるのか、冬は鬼門の冷え症持ちにとって最早恐怖の対象である。意味わかんない。心の内で呟いた。 暗中にあってもなかなか馴染まぬ白いシャツが、精市くんの形を教えてくれている。 面差しとは似ても似つかない筋肉でできた腕を包み、出会った頃より広くなった肩を覆って、やがては布団へ埋もれていく横腹のラインに沿ってしなやかに弛む。 丸く抉られた襟のすぐ上で、堅そうな鎖骨が後ろの暗がりより尚濃い影を帯び、皮膚伝いに繋がる喉仏も同様だ、張り出しているから淡光の分だけ黒が増す。 となれば鼻だって変わりない、どうなっているのかなと埒もない思考が目線を操ろうとした時、静止していたはずの顎がおもむろに揺れた。 「仰向けになって、ぐーぐー眠っていたよ。子供みたいに」 緩慢な動作とまるで食い違う、人のどこかをつついてくる言葉は確かに形のよい唇から生まれてい、だったらもっと美しい言い方をしてください、願わずにはいられない。 「……ごめんなさいね、寝てる時も能天気で」 「嫌だなあ、俺は君が能天気だなんて一度も言ってないじゃないか」 「言ってます。口にしてなくても言ってるのと同じです」 「まあまあ。健康的でいいじゃない。悪い夢だって見ないだろう、は」 フォローになっていないし、する気もなさそうだし、結局能天気だと否定されていないような気がするしで散々だが、はてしなく正しい理解だった。 その通り過ぎて返す言葉が見つからず、眉間に皺を寄せるしかない自分が悲しくなる。 「というより、夢自体あまり見ないよね。一度眠ったら朝まで起きないタイプだ」 新たな皺が一本、刻まれていった。 「……起きたよ今日は、途中で」 「フフ、そうだね。珍しいなって思ったもの」 べつにそこまで珍妙に扱われるほどの体質ではない、大体私だって1年365日快眠を満喫しているわけじゃなし、子供の頃は夜中に目が覚めて寂しくなり、親を起こして叱られた経験だってあるのだ、からかいの種としては適していないだろう。 と、考え至ったところで、率直な疑問に唇が反応する。 「じゃあ精市くんは、よく夜中に起きるの?」 人の眠りを指して珍しいと言えるのは見ているからだ。 等しく目を閉じていればわからず仕舞、また、何度か目撃していないと確証を持って断言できないし、しないはず。少なくとも精市くんはそういう人だった。 答えを待つ私の前で、二つのまなこが淡く滲み、微笑む形へと変わっていく。 深夜の部屋と街は、すべてが死んだみたいに生活音がない。 時計の針と、ひそやかに繰り返される息、降り積もる冬の温度に張りつめた空気。 いつもと違う響きで満ちている。 激しいわけでもないのに聞こえる鼓動は、体の内か、はたまたシーツを介してか、優しくもしっかり存在を訴えた。静寂一辺倒のようでいて、かすかなざわめきに揺らぐ室内へ、あの染み入る声がふっと溢れて転がった。 のは体質だろうけれど、俺は癖みたいなものだから。 気の所為か、発音が昼間と比べてなめらかなのが、本当に不思議だ。 癖って、夜中に目が覚めちゃうのが癖? 問えば、向かい合わせの顔が笑み歪んで、首筋にうっすら乗っかっていた髪の幾筋かが背中のほうへと滑っていく。 ここでも、見てるこっちが寒い、口に出かかったが当の本人は震える素振りもなく、鳥肌だって立っていない。私より皮膚が一枚多いんじゃないかとちょっと本気で疑い始める。 そう、癖なんだ。ふうん、なんか地味に困りそうな癖だね。はは、地味に、か。だって地味じゃん。うん、地味だ。でも何回も目が覚めたら困るよね、次の日が試合とかだったら大変なんじゃないの。流石にそういう時は起きないよ。……コントロールできるんなら、癖じゃなくない? ところが無意識なんだ。それは……困るような、羨ましいような、便利…じゃないね、便利っぽいけど。ああ、地味にね。うん、地味に。 次々こぼれる声と声が重なって、尽きる気配がない、だけれど響きは大きくならずにしっとりとわだかまっていた。 中身の感じられぬ会話を進めていく間に眠くなってきたのかもわからない、精市くんの目蓋が重たげに映ったが、ひょっとすると私の目蓋のほうが重い所為という可能性も捨てきれず、もう寝ようのひと声が喉元から上がってこない。 いつもなら肩上まで、下手すれば耳の横あたりまで布団をかぶって眠っているからだろう、少しゆとりを持たせた位置にある厚い布の隙から、緩くなったパジャマの襟めがけて侵入してくる凍えた空気に我知らず身震いしてしまい、厳重に折りかさなったブランケットやら何やらを掻き集めるよう手繰る。 と、精市くんがわずかに身じろぎした。 「寒い?」 なんてことはない、ごく当たり前の気遣いに違いなかったが、暗いところで耳にするととても優しく聞こえたので、 「………ちょっとだけ」 ほだされた私は素直に応じ、布団を掴む手に力を籠めた。 しかしながら、その指先が外に出ていては結局寒いままだ、一度引っ込めて別の場所を引っ張ろう、握っていた掌を開こうとし、かの不可思議な声音に押し留められてしまう。 「それじゃあ、俺が抱き締めてあっためようかな」 なんか言い出した。 数秒前の自らの発言を深く悔い、緩めた腕を再度強張らせ、油断なく取って返す。 「いいです」 「が思わず素直になっちゃうくらい寒いのに?」 「嘘、さっきの嘘。寒くない。大丈夫」 「ほらおいで」 「い…いいってば…、あっバカやめてやめて下さい!」 必死の抵抗も断固たる辞退も虚しく、音もなく伸びてきた腕に左右の手首を奪われ、柔らかな物腰と程遠いだいぶ強引なやり方で引き寄せられて、あっという間に体温が近くなる。 暴れて抜け出そうにも時間帯が時間帯だ、声のトーンと似たり寄ったりの大人しく密かなものと相成り、あまり意味をなさない。 シーツが縒れて喧しい。 ベッドは撓んで囃し立てる。 子供じみた賑やかさと、時と場所を考える抑止も同等に合わせ持つ夜の中、精市くんの思う通りに絡められていくそこかしこが触れた途端に騒ぎ出す。 迷いのない挙動は正確無比、涼やかですらあって、一人慌てふためいている自分がとんでもなく愚かに思えた。 いやここで負けたらダメだ、潰えそうになる気力を奮い立たせ、突っ張った両腕を最後の砦として拠り所にしていたらば、抗うはずみで地団駄を踏むみたいになった片足がまっすぐ伸びてしまう。 体を縮こまらせて横向きになっていたから、布の海を蹴飛ばした先は体温であたためられておらず、極寒の様相で足の指を刺激してきた。 あまりの冷たさに絞られた喉が引き攣る。悲鳴もあげそうになったくらいだ。 そういう具合に余所へと散った気を見逃す精市くんではない、たるんだ抵抗などものともせず、鮮やかな一挙で以って私を抱き籠める。 先程まで枕になっていたはずの右腕が耳の下を行き過ぎて首後ろで熱を放ち、起きてからほとんど表に投げ出されていたくせしてあたたかい左手は手首から離れ、肩を滑り、ひと息に背中へと回された。 抗議の声など入る隙がない。 膝と腿の間あたりで挟まれた反動によって折れ曲がる足が、精市くんのくるぶしだろうか、踵だろうか、ともかくそこいらを掠めた瞬間、衝撃を受けた。 それはもう、現状をまるごと忘れるくらいのものだった。 「えっ、あったか! なんで!?」 鼻先の胸元が小刻みに揺れ動く。 私に頬を寄せ、うなじ周りで息をつく精市くんが笑っている証だ。 「の足が冷たすぎるんだよ。俺の体温が持っていかれそうだ」 さながら熱い湯船に浸かった時のように、冷えて感覚の鈍った足裏がじんわりと温かくなっていき、冗談抜きで心底驚いた。若干感動すら覚えている。 湯たんぽがあるわけでも、電気毛布を使っているわけでもない、体温以外に熱源の存在しない布団にくるまっているだけなのだが、この違いはどういう事か。 基礎代謝とか基礎体温とかその他諸々、差がありすぎる故なのか。 ぬくもりの心地よさと何故か勢いづいたテンションが、普段の自分にはない行動力を与えているらしい、片方ばかりか両足をくっつけ軽く擦り、眠気を誘う熱に近づく。 冷たいよ、と精市くんが喉を鳴らして笑った。 ぴたりと触れている素足のインパクトに意識を奪われていたが、落ち着いて神経を巡らせれば彼のどこにも冷え切った部分はないのである。 逃がすまいと私の腿を挟む、スウェットに包まれた膝も、平行して並ぶお腹も、肺が膨らむ都度ちいさな波みたく打つ胸も、背中に絡んでいる両腕も、指先、頬、何もかもが確かな熱を含み生きている。 他人に分け与えても尚、失われない。 精市くんという人を端的に表した現象だ、得心したのち感銘を受けた。 と同時、ようやっと自分の状況へ思考が向く。 よく考えてみなくても、抱き枕にされている。 急にものすごく馬鹿になった気がしてきて恥ずかしい。 あんなに寒かった布団の外やつま先、髪の毛までもが羞恥に染まって熱くなる錯覚が全身を襲い、隙間なく触れていた足もそろそろと外し俯く。 離してと言えないのは、実際あたためられていたし、遠慮知らずの礼儀知らずといった具合に密着させたのはこちらのほうだからだった。 変な汗をかきそうになっていたら、絶妙極まりないタイミングで精市くんが声をこぼす。 温まったかい。 反射的に、太腿から下の部分がぴくりと震えてしまう。 「…………うん、もう充分」 「眠れそう?」 そもそも不眠を訴えた覚えはないし、からかい色をした問答を吹っかけてきたのは彼なので、その質問はおかしいだろうと思う。 思うが、上手い返事が浮かばない。 「……あんまり」 心中を表す、実にぱっとしない音が生まれた。 耳の背で揺れる吐息は、微笑み散っている。 「心臓の音がすごいからそうだろうと思った。…怖いかい?」 言われて初めて思い至り、無駄だとか有効だとか考える前に胸と胸の間へ手を差し込んで庇おうとし、しかし精市くんが腕をゆるめないので肋骨の前から進まなくなった。 ほぼ隣り合う心臓を離すには、筋力と隙間が足りていない。 爪ばかりか甘皮までも、余すところなくあたためられていく。 鋭敏になった指の腹は、シャツの下で息をする皮膚や、骨の形、かたく張った筋肉までをも感じ取り、絶え間なく伝えようとし、脈を抑えようにもすべが見つからず、焦って余計に鼓動が跳ねた。 加えて具合の悪いことに、言葉の応酬まで躱さなくてはならないのだ。 この人は絶対に肯定なんかされないとわかっていながら聞いている。 短くはない過ごした時間と経験が警鐘を鳴らし、今すぐ口を閉じろと訴えるけれど、ここで黙ったら無視することになってしまう。寝たふりをすればいい、と思考回路は最終手段に辿り着き、ものの数秒で方向転換した。不自然過ぎる上、通用しそうにない。 結果として、彼の望むほうへと向かう返答しか形にできない。 「………べつに怖くないよ」 頬にかかる髪がくすぐったかった。 精市くんの肩越しに、シーツの波がたゆたって、明暗が霞んでいる。 夜は深く、問いかける声音は傍近くで体の内側にこだましていく。 「じゃあ緊張してる」 「…してない」 「びっくりした?」 「……違う」 「ならどうしてドキドキしてるの」 よし絶対に言わない。 心に強く刻みつけてからなけなしの意地を張って口元を結び、握りこぶしでお腹をぐいと押してやった。 「そういうこと言ってれば私が折れると思ってるんでしょ。言わないからね!」 本来ならもっと大きな声で堂々と突っぱねているところなのに、どうしても小声になってしまう小心な自分が情けない。 おかげで迫力も勢いも付随しなかったのだが、どの道早鐘を打つ心臓を知られていては説得力など皆無だ。 どうせ茶番ですよ。 半分やけくそ、半分開き直って目蓋を閉じると、額近くの喉仏が静かに動いた。 「残念」 言っておいて、楽しげなのだから打ち返す言葉だって失せる。 「…精市くんてさ、時々わざと私を怒らせようとしてない? 昼間ならまだいいけど、夜はやめてよ。もう眠気どっかいった」 「それは大変だ。君が眠れるように、子守唄を歌ってあげようか」 「やめて……余計寝れなくなるから……」 体中の力という力が抜け、すっかり萎えていく。 こちらがどんなに可愛げなく楯突こうと、なめらかに受け入れられたあげく、優しく滲むものを寄越されてしまうのだからいかなる抵抗だって敵わないに決まっている。 これでいい加減に流しているのならもっと怒ることができるのに、からかっておきながら誠実さを忘れないのが嫌だ。 鼓膜をくすぐる声色はやすらかに甘く、熱い掌は柔らかく背筋を撫で、離す気などないと暗に示す腕はしたたかだけれど痛みを伴わない。 頑丈な意志や物言いと異なって、私に触れる精市くんの全部はいつだって甘やかそうとする。 ダメになりたくなくてあらん限りの反抗をすると、すごく面白いものを見つけたとでもいうかのように一層強く手を引き、子供みたいに笑う。 ならば逆に従えば良いのではないかと試してみた日は多々あれど、どうしたの、今日は素直だね、嬉しげな語尾に懐柔されておしまいだ。好きだと告げられた時のよう、押しても引いてもどうにもならない。 下げていた睫毛を浮かせ、うす暗がりに沈んだ室内を見遣る。 精市くんとくっついている所為で、先刻に比べて視界に入る情景が限られていた。 再び閉じる。 握っていたはずの掌はとうに開かれており、無意識の内柔らかいところのない二の腕へと触れている。 目蓋の闇が視覚以外の感覚を際立たせ、ゆるやかな時の流れにとろとろと溶け落ち、安堵に満ちた息を生んだ。 体以外はシャツとパジャマしか間にない為直接響く、規則正しい鼓動はゆったりと落ち着いてい、ちょっとだけ釈然としなかった。 自分ばかりが鳴らしているのは不公平だ、ぼやく。 籠もって湿る呼吸が精市くんに吸い込まれ、際限なく馴染む。 秒針と全身を行く脈が不連続に混ざり、時折どちらかがどちらかを追い越し、しばらくすると反対に追い抜かれたりした。 この場限りなら冷え症を返上したとて許されるであろう、正常な体温を保つ手足の先は私のものだけれど、温もりを分けられなければ冷たいままだったから半分は彼のものだと言っていいかもしれない。 しじまが淀み、音を殺す。 ちいさな頃の心細さ。自分以外の誰もが目を瞑り眠っていると、無性に不安になった。 なんでこんな時間に起きたんだと世界を呪うや否や泣きたくなり、布団をかぶって必死に耐える。どうしても我慢できなくなった夜は、叱られるのを覚悟して母親を起こした。 でも本当に今はさっきの言葉通り、怖くない。 私はもう幼い子供ではないし、見えなくても精市くんがわかるから。 すぐ傍で呼気がこぼれている。 ひどく緩慢な瞬きの動作すら、感じ取ってしまうほど近く、距離が存在していない。 ふいに背の腕がそっと、けれどきつく絡む。深く抱き寄せられ、自然、鼻先が綺麗に伸びる鎖骨の上へとぶつかり、おそらく柔軟剤なのだろうが、肌に乗るとまた違った香りへと変わって、目が覚めた。 静まりつつあった心臓がやにわに騒ぎ始める。 「俺はと違って、どこを向いているかはわかるんだけど」 ……なんの話。 やや出鼻を挫かれ声をあげかけるも、ついさっき己が打った言葉を思い出したので留めた。暗いとあまりよく見えないから、どっちを向いて寝ているのか一瞬見失う。過去を反芻し、大人しく続きを待つ。 「場所が、たまにわからなくなるんだ」 「……場所?」 それはベッドか床かという意味なのか、自室なのかリビングなのか、そもそも自分の家なのにそうと認識できず焦るとか、そういう類の話だろうか。 ああ、ソファでとことん昼寝して起きた時、あれなんで私の部屋じゃないの、一瞬寝惚ける感じ、などと尋ねようとし、紡げなくなった。 「病室と間違えるんだよ。そんなはず、ないのにね」 壁や天井がかすかに白い。窓から侵入する灯りで照らされた、無機質な四角い部屋。 アルミのレール。そこから垂れ下がるカーテン。消えた蛍光灯。備え付けのテーブルとテレビ。 真夜中だ。 暗く静かで、誰もいない。 またたく間に現れた重苦しい石で喉は塞がり、息が途絶える。 「怖い、とまで言わないけれど、やっぱり嫌な気持ちにはなるからさ」 あくまでも穏やかな笑声には、なんの痛みも窺えない。ただ嘘偽りなく事実を語る、まっすぐでのびやかな音だけが根底に揺らめいていた。 外の空気のよう凍っていた私は返せるものもなく、すっかり開ききった両目で白くはない壁を見、半端な位置で止まっていた腕を広い背中へ目いっぱい回す。 慌てていたから、だいぶ乱暴な上雑に感じられたかもしれない、けれど咎める言葉はついぞ聞こえてこない。 めくれた袖口から冷気が混入してきたが気にする場合じゃないし、余裕だってなかった。 精市くん自身はちっとも辛そうじゃないのに、私の胸は鋭い鞭で思い切り縛られたみたいに苦しくなる。 呼吸が呼吸に引っ掛かって息継ぎが危うく、眼球の表面は渇いて痛い、ひと声さえ掠れもしない唇など最早邪魔だ、喉から直接伝えられるのなら取り去ってしまったって一向に構わなかった。 言葉にはできない。 でもいつだって呼んでいる。 求められれば、病のまぼろしを振り払う為ならば、どんな時でも絶対に手伝う。強く願う気持ちを、伝えられるのなら。 わずかに視界が下がり、窮屈になる。 肩に指が食い込んでやんわり沈んでいくけど、やっぱり痛くない。 半ば身を屈める体勢となった精市くんは、深い感慨を全面に出したりせず、なんてことない日常の一部とでも言わんばかりに囁きこぼした。 「が隣にいてくれて良かった」 だから私は、かえって泣きたくなるのだ。 しみじみと感じ入るように告げられるより、内に秘めた情熱と共に預けられるよりも、ずっと切なくてかなしい。 嘘を吐かないこの人にとって、お礼を言ったり、誰かが必要だったり、たとえば一人でいたくない寂しさを口に出すことはごく当たり前のことで、特別でも何でもない。 延長線上に私がいて、ともすればそれらすべてを傾けてくれる、こんなにも喜びに溢れた瞬間があっていいのだろうか。 特別じゃない、日常の一部分。 精市くんの生活に組み込まれて、一歩引いて考えてみれば決して当然ではないのに当然だと扱われる。 何気ない会話やほんの数秒の空気へ散りばめられている、宝物みたいな想いが大好きだ。そうして手渡してくれる人は、もっと。 自覚し、確かめる都度、同じだけもどかしい。 心底ふざけている時、または普段通りの振る舞いが可能なら、彼はこう続けるに違いない。だからずっといてよ。笑いながら含みなんて持たせずに、私の反応を面白がって眺めようとする。 でも言わない。今は、絶対に言わないだろう。 本当にして欲しいこと、そうでないことがわかりにくいようで明快な精市くんは、偽りを口にしない。 大事なものほど奥にと仕舞い込む。しかし仕舞う事自体は隠さないので時折恨めしく、いつまで経っても悔しいし、苦しい。 儚い闇が、かすかに揺れる。 「……」 「…うん」 喉奥が歪んで鳴く。私を呼ぶ声はすぐ傍にあたたかく落ちていた。 「起きてる…?」 「うん」 「ならちょっと……あと少しだけで…いいから……そうして…」 俺を抱いていてくれ。 彼らしからぬ途切れ途切れの声が、耳元で夜の静寂と混ざり溶けていく。 甘い響きは眠りに捕らわれ、起きたての頃には存在していた明朗さが欠けており、ぼやける語尾などまるで子供の音程だった。 私は黙ってただ乞われるまま、力の萎えた背をかき抱いたのち、先程寄越された言葉をなぞって問いかける。 「……精市くん、眠れそう?」 返事がないのが、何よりも確かな返事だ。 安らかな呼吸音が鼓膜に優しく、だんだんとほどけていく背中から肩にかけてを包む手はぬくもりに溢れている。 脱力した体がこちらへ沈み込んで、顔や首の片側に圧し掛かられるとさすがに重かったけれど、跳ね除けようとは思わなかった。 だってちっとも嫌じゃない。 思い切りよく抱きしめた所為で剥がれていた掛布団を手先で探って、はみ出ている精市くんの腕にかける。 まあなくてもあったかいままなんだろうけど、独りごちて瞳の幕を下ろせばしずしずと音が冴えた。 時計の針。 しんなり立ち込める冬の空気。 二つ分の鼓動が折り重なって、一つの拍に合っていく。 体全部で聞き、こみ上げたあんまりな心地よさのおかげで、深いまどろみが目の奥、頭の中を柔らかに流れ、ゆったりといざなってくれる。 もう寝よう、精市くんにも、私にだって明日はある。 朝が来たら顔を洗って、ご飯も食べて、出かける準備をしなくてはならない。 大丈夫。 ここは病室じゃないし、壁も天井も白くない。 真夜中だけど、私がいるよ。 指先に籠め、糸が切れてゆるむ背筋をちいさく撫ぜた。静まった寝息を耳へ入れ、胸底で噛みしめて、忘れないよう繰り返す。 そうこうしている内に意識が曖昧になり、どこか遠くのほうへ消えていこうとするけれど、眠る人の感触だけは近い。 目蓋に在る暗さえも、にわかに霞む。 どうにか残っていた思考の芯がいよいよ崩れる寸前、本能に刃向かい一心に抱きとどめると、ぬくい体温が薫って混ざり染みこむので、根性なしの私は抵抗を諦める。 心安らかな眠りへ落ちていく途中で精市くんの心臓の音が震え、それをじっと辿り確かめながら呟いた。 おやすみなさい、また明日ね。 応じる声の代わりに、ひっそりとした夜が瞬いている。 |