思い出は散らず




情けなく途切れ途切れになった息を整え、傘代わりにと掲げていたコンビニのビニール袋を下ろす。
途端、溜まっていた雨雫がぼたぼたと振り落ちてねずみ色のコンクリートを濃く染めていった。天気予報では日暮れまで曇りのまま持つとの事だったが、降り出しは容赦なく早まったらしい。
まあ大丈夫だろうと甘く見て傘を携帯しなかった私の落ち度だ。本当にこう、楽天的に物事を捉えて失敗する事が多すぎる。
反省した所で雨が止むでもなし、肩や胸元に跳ねた水滴や濡れたスカートをハンカチで叩くように拭きながら、はあと深い息を吐く。湿った髪の毛が重たかった。
個人商店の横に設けられた自販機コーナーに駆け込んだはいいものの、避難場所として過ごすにはやや狭く、入れたとしてもあと一人かな、程度のスペースしかない。
缶を冷やす動作音が間近に聞こえ、低い唸り声に似たその音に分厚いビニール製の屋根を激しく打つ雨が混ざって喧しい。
ぼつぼつと間隔をあけず鳴り響く様から想像するに、これ以上外を走るのはなかなか難しいだろう。
今の比じゃなく濡れる事間違いなし、と打つ手なしの現状に肩を落とした。
水気を拭えるだけ拭い、出来る限りやったと開き直った私は忙しなく動かしていた手を止め、日の光も漏れない空を見上げた。
どす黒い雲から鋭く落ちてくる雨はさながら太い針、ちょっとぞっとする。
そういえば寒くもなってきた。春先の雨は思った以上に冷たいのだ。
乾いた地面をあっという間に濡れ色へと変化させ、坂の上から流れる小さな川を作り、透明な波紋を描きながら這う水の粒の成れの果てが、一つの心配事を生む。
桜、散っちゃうかな。
胸中で呟いて、花を愛するその人を思い浮かべた。
何せ彼は忙しいので、毎年お花見がしたいだの開花はいつだのと話しておきながら、きちんと出掛けた回数はそう多くない。
今年も遠目から見るだけでおしまいかもしれない、と独りでに落ち窪む心を戒めもせず放っておけば、いつかの光景が目蓋の裏に滲み溶けていく。




高校生になる少し前だったような気がする。
いわゆるお付き合いというものを始めて2ヶ月も経っていない、私がまだ彼を幸村くんと呼んでいた、二人仲良く花冷えの雨に追いやられた午後だった。
駆けたお陰で息の切れる私に、平然としている強豪運動部の元主将が屈託なく笑う。

「降られちゃったね」
「……天気予報、雨?」
「いや、曇りの予報だったよ。多分通り雨だ」

不運とも言える憂き目に合っても何のその、一切眉を顰めない人の髪はうっすら濡れている。走り込んだ昇降口、ガラス扉の向こうを見遣る横顔が、不意にこちらを向いた。
俺に付き合わせた所為でまで濡れたな、ごめん。
まっすぐな謝罪にびっくりして、首を横に振る。確かに天候まで操れそうな神の子だけど、流石にそこまでの責任を負わせる気はさらさらないし思ってもいない。
第一、謝るべき人がいるのだとしたらそれは彼ではなく、私達に花壇周囲の清掃を申し付けてきた先生の方だ。
高等部にいけば遠のいてしまう中等部近くの花壇を見ると言う彼のお供をしていた所、通りがかりに昔ながらの竹箒を押し付けられどんだけ職権乱用だと軽く憤る私をよそに、神の子はその異名からは想像出来ないくらいあっさり受け入れた。
元美化委員だから気にならないのだろうか、と自分なりの回答を探しつつどこからか飛んできた花びらや木の枝を掃いていたら、拳に冷たい一粒が当たる。
雨だと口にするよりも箒を貸してとの声が耳に飛び込むのが格段に早かった。
言われるがままに差し出し、可能な限り手を尽くしたが、掃除用具という足かせがあった為に手ぶらでいる時よりも避難が遅れたのは確かである。
けどそれは決して、彼の所為じゃない。
伝えようとしたがしかし、上がった息に邪魔をされて声が出なかった。
ついでにこめかみ辺りに留まる雨粒の名残が鬱陶しくて、指先で擦る。
すると、再びの一笑。
柔らかな眼差しを湛えた人が私の雑な仕草を咎めるでもなく、静かに塗り潰すみたいに同じ箇所を撫でる。初めは指、それから掌が触れて、こめかみばかりか湿気を含んだ髪も梳いていく。
熱を持つ指先が水のように流れ、離れていったかと思えば、部を引退した後も不変のトレードマークたるリストバンドで浸水の酷い額や前髪の生え際を軽く拭われた。
ブレザーの裾から覗く、上向きに捻られた掌の影が大きい。
無性にこそばゆくて肩を縮こまらせると、吐息じみた笑い声が雨音と一緒になってこぼれてくる。

「くすぐったかった?」
「……ちょっとだけ」
「ごめんごめん、タオルがあれば良かったんだけど見ての通り何も持っていないんだ。これで我慢してくれないか」

くるりと手首を返し、今度は手の甲側の布地で私の額を撫でるその人はどうしてかとても楽しそうだ。
いつもなら理由を聞く所だけど、アスファルトを打つ雫の響きとまるで子供が大人にあやされている状況に唇が固まった。
特別に触れ合っているわけでも、別段とんでもない発言をされたわけでもないのに、なんとなく恥ずかしい。
どこを見ていればいいのかもわからなくなってきて、視線をさ迷わせ始めたちょうどその時、頭上にあった掌型の影が遠のいていく。
ほっと一安心し、同時に慌てた。

「あ! ありがとう…」

まず真っ先に口にしなければならない台詞だというのに、余裕で数秒は遅れてしまったのだが、彼は気を悪くした素振りもなくただ微笑んで頷く。
一連の仕草を彩るよう、静々と雨音が流れた。
そうして離れていくものだと思っていた視線は目の前で据えられたまま動かない。
言葉もなく見つめられる程のつくりでもなければ、平気で受け止められる程強い心臓を持っているわけでもなく、今頃ようやく髪が乱れていないか気になり始めた私だ、話題提供なんて上手い事出来るはずがなかった。

「桜、散るね」
「え?」

しかも声が若干裏返った。最悪。
真っ先に思いついたのが花壇掃除の際、所々に吹き溜まっていた薄い桃色の花びらだったので深く考えず言葉にしたのだが、実に突拍子のない発言だ、彼も軽く目を見開いて首を傾げる。

「雨が降らなかったら、もう少し満開でいられたかもしれないのになって」

けれど滑り出した舌は急には止まれない。
言葉と言葉を懸命に繋げれば、ああ、の一言で得たりと伝えてくる人が唇の端を綺麗に持ち上げた。

「桜が?」
「さ…桜が」
「フフ、そうだね。全部雨が悪い」
「………私なんか変な事言った?」
「いや。どうして」

面白そうにしてるから。
感じたままを口にすると、ついに声を上げて笑い出す。
生憎の天気に似つかわしくない、それはそれは朗らかなものだった。

「あ、待った、を笑ったんじゃないから」

そう思わざるを得ないタイミングだったくせして何を言うかと思った事は思ったが、不平を訴えるより先に釘を刺されてしまってはどうしようもないので大人しく押し黙る。

「普通は満開を見られたかもしれないって言うだろう。それを満開でいられたかもしれないってさ、まるで桜になったみたいな言い方をするんだもの」
「……で、それが面白かったと」
「微笑ましいと思っただけだよ」
「…………幸村くん、私の事馬鹿だと思ってるでしょ」
「全然。を一番馬鹿だと思ってるのは自身なんじゃない?」

最後の仕上げだと言わんばかりに私の前髪を梳き、優しく散らし整える人は満面の笑みである。
そうだねその通りだね、等と素直に頷ける根拠も自信もないし、指摘されるまで気づかなかった言葉の選択ミスが恥ずかしい。

「別に桜の気持ちになったとかじゃなくって、さっきのはその…い、言い間違えただけだから」
「そう」
「雨降った所為で!」
「はは! うん、なるほど」
「聞き流すのやめてよちょっと!」
「聞き流してなんかいないよ。俺の所為じゃなくて、雨の所為だ。が濡れたのも、桜が散るのも、二人きりで雨宿り出来るのも」

折角咲いた桜と残念そうなは悪いけど、俺は雨が降って良かったな。
さらさらと流れる水のよう、とんでもない発言を落とされて雨も桜も羞恥心も一気に飛んでいった。




懐かしいと言うには蘇る感情が生々しい。あれはほんとに色んな意味で恥ずかしかった。うっすら水気を帯びる髪を後ろへと流す。
いらぬ事まで反芻してしまったが、それはそれとして春は雨が多いのではないだろうか。おまけに桜の時期は短く、だから毎年思うように堪能出来ないのだ。
でも、天気に文句言ってもしょうがないし。
適当な所で長引く思考にけりをつけ、臨時避難場所の自販機コーナーから少し顔を出して様子を窺ってみたら、雨脚は先程に比べてわずかに弱まったようである。
やわい屋根を打つ音は収まりつつあり、太い針に似た雨は細い糸レベルにまで落ち着いていた。こうなるとわかっていれば無理して走らなかったのに。またしても己の迂闊さに歯噛みしかけたが、した所で意味がないとすぐさま後悔を手放す。
それよりも今考えるべきは、どのタイミングでバス停を目指すかだ。
濡れぬ程度突き出していた首を引っ込め、奥に置いていた鞄から端末を取り出し時間を確認する。
乗りたかったバスの到着時刻は歩いた場合ならちょうどよく、全速力で駆ければ少々待つ羽目となるくらいで、判断の難しい所だった。
ぎりぎりまで雨宿りをしてまた降りが強くなってもいけないし、小雨といえども傘も持たずに立っていたくはない、さてどうしようか、やっぱ走ろうかなもう、熟考しないままで今一度顔を出して左右確認をすると、薄白く煙る街並の中、傘を差す影が瞳に映り込む。
突然の雨で蜘蛛の子を散らすが如く人の気配は消えていたのだが、状況が落ち着いてきた事によって元通りになってきているのかもしれない。
確かに降り出し初めは勢いがすごかった、等と一人頷く内、大きな傘の所為で顔の見えないその人影が立海の制服を着ているのだと気がついた。
しっかりとした足取りの相手はこちらへ向かって歩いてきているから、ただぼけっと突っ立っているだけでも距離は縮む。
男子制服。足元はローファーではなく、スニーカー。右手で自分の傘の柄を持ち、左手にコンビニでよく見かける透明なビニール傘を手にしている。
肩に引っ掛かった鞄は学校指定のものじゃなかった。
この雨では水を被っているだろう、ラケットバッグだ。

「……えっ、あれ!?」

そこまで認知出来る近さともなれば嫌でも悟ってしまう。
思いきり独り言だったけれど、予想外にも程がある展開に声を上げずにはいられない。
柄を持ち直し、顔を露わにした意外な人物が、私ににっこりと笑いかける。
同じ一歩でも自分のそれとは大違いの距離を進む足と雨に滲む靴音、小さな水滴を弾く傘が、段々と煙り濡れた空気からはっきりと浮き出して、確かな色彩へと変化した。

「な…なんで、どうして、何してるの?」

驚きすぎて不躾な問いとなったものの、声の届く距離になるや否や早急に傘を閉じ、私一人きりだった避難場所へと体を滑らせた人が気にする素振りはまるでない。

「雨に降られて困ってるを迎えにね」

太陽が隠れているおかげでほのかに暗い昼日中、いつもとちょっと違う影の映える頬が優しく緩んでいる。

「え、いや、でも……私連絡、」
「してないよ」
「え!? う、うん、してないです…じゃなくって! だって部活は?」
「この雨だろう。コート練習は中止だ。筋トレかミーティングをしても良かったんだけどね、先週の遠征の疲れが抜けていない奴もいるから休養日にしたらどうかって柳がさ」

ついさっき思い出の中で向き合っていた人物が、本当にどんなタイミングだと突っ込みたくなる時に現れたので、どうしても理解が追いつかなかった。
そんな私を置き去りに、てきぱきとラケットバッグやら傘やらを一箇所にまとめる精市くんは至極穏やかに声を落とす。

「傘を持っていないからって、また走った?」

咎める調子ではなかったけれど、自らの考えなしっぷりを的確に指摘されているみたいで喉がぐっと詰まった。
すみません、と生活態度を注意された生徒の如く謝罪を述べれば、先生のようで先生ではない精市くんが肩を揺らして笑い、どうして謝るの、いっそ簡素に続ける。

「むしろ俺は感謝してるくらいなんだけどな。が俺の思うだからこそ、こうして見つけられたわけだしね」
「あ、それ!」
「どれだい」
「なんで私がここにいるってわかったの? テニス部が休みになったのと私が雨に降られたのが同じくらいの時だったってのはわかったけど、どうして場所まっ、うぷ」

全部言い終える前に、肌触りが良く洗い立ての香りがするタオルをばさっと豪快に被せられて変な声がこぼれた。

「今日は図書館に寄るって、教えてくれただろ」

ラケットを振るう大きな両の掌が優しく且つどことなく大雑把に私の頭をもみくちゃにする。
普通に返事をしようとしたがしかし、濡れた髪を拭かれているお陰で、うむん、と噛んでるんだか何なんだかよくわからない言葉しか紡げなかった。伝わる体温はタオル越しでもぬくい。

「そこに予報と違った雨とくれば、どうせじっとしてないでバス停まで走るんじゃないかって思ってさ」

携帯に連絡しなくても当たったね。
真っ白な布に覆われているから実際に見えはしない、しないが、微笑みを深くする気配がありありと感じられ項垂れるしかなく、相手が神の子とはいえ変わらず看破され続ける自分もどうなんだと心底情けなくなってしまう。

「……わかりやすくってごめんなさい」
「うん、そうだね。そうやって面白いくらいに外さないから、柳にも見破られるんだよ」

声色に混じった笑みはいつかのよう、生憎の雨と裏腹に透き通って歪みがない。
ちょっと待って、柳くんは誰の事だって見破るでしょ。
参謀と呼称される人を前にして欺けなんて無茶苦茶だ、というか荷が重すぎる、抗議しかけ、

「時々俺より先に君の行動を読むよ、柳は。ちょっと本気で面白くないくらいだ。だから今日は、先回り」

あえなく機会を失った。
頭のてっぺんあたりを撫でられる感覚があって、少しばかりタオルの幕が取り除かれる。
しっとりと重たげな私の髪を拭う指先はひたすらにたおやかだ。
垣間見える一等の笑顔と得意げに上向いた語尾が、胸の奥を大いに揺さぶってやまない。
絶えず鳴り続ける雨音は鼓膜に染み込む。
水っぽい、独特のにおい。
天からの落し物に濡らされてかすかに冷えた頬をゆく、柔らかな生地伝いに感じる掌が厚くて硬い。
365日テニスに打ち込む人の、精市くんの、掌だ。
持ち主である私に断りもなく速度を上げる心臓が軋み、頬に熱という熱が集まるんじゃないかと危ぶんで、耐えられず目を逸らそうとした寸前、やんわり笑み細められていた揃いの瞳が静かに瞬いた。
射止められる。
目が合うなんてものじゃない。
厳しくはなくとも強い眼差しが雨の日特有の薄暗さを押し退けて、私の目の底を焼いた。
さっきまで子供みたく嬉しそうに笑って、拘りなく弾んだ声を奏でていたはずなのに、今の精市くんが纏う空気はそういう表現がちっとも似合わない。
しばし押し黙っていた自販機があの低い唸り声を上げ始め、二人入れば満員状態である雨避けの臨時避難所内を満たしていく。
陽射しとは異なり透明に近い光を湛えた彼の瞳が揺れる。
滲むまなじりはただただ柔らかく、水を被ってはいないにしろ湿気で心持撓った前髪の向こうで、しっかりと形にはならない、かすかな微笑みに濡れていた。
多分、ほんの数秒の事だった。

「……リストバンドだけじゃなくて良かったな。に我慢させないで済む」

一瞬の衝動と呼ぶに相応しい何かが体の真ん中を貫く。
だってそれは、彼の言葉は、数分前隅々まで思い返していた、突然の雨に追いやられたかつてを指しているのだ。間違いなく断言出来る。
証拠なんてない。
根拠もないから、いつもなら断言もしなかっただろう、けれど何故か今だけはあたたかな確信で胸がいっぱいになる。
私も精市くんも、二人して同じ日に心を傾けていた。

「………でもやっぱり、ちょっとだけくすぐったい」

聞いた覚えも言った覚えもある言葉を混ぜて口にすれば、驚く様子もなく精市くんが晴れやかに笑う。

「あはは! そうか、ごめんごめん。代わりに傘をあげるから、少し我慢してくれ。それと……寄り道していこう。桜が全部散っちゃう前に」

ぽんぽんと痛みを伴わない程度の軽さで髪をはたかれ、気が抜けていった。
断りようもない嬉しいお誘いに、頷く以外の返答が見つからない。
ありがとうの一言が入る余地もなかった。
と、声を上げずに大人しく首を縦に振った様子が面白かったのだろうか、精市くんは一層目や頬を柔らかくほぐし、事も無げに言い連ねる。

「ああ、あともう一つ。

頭上のタオルを髪ごと包む指が穏やかに優しい。
そういえば髪の毛からは随分水気が消えてくれた、いつまでもされるがままではいけない、お礼を言わなくては、等々あれこれ考えながら、なに、と相槌を打つ。
次にどんな言葉が投げられるのか全く予想もせず純粋に疑問をぶつける為だけの一声だったから、さぞ目一杯顔に出ていたに違いない、精市くんはなにか微笑ましいものでも見つめるかのよう顔を綻ばせて、それからとんでもない爆弾を投下した。

「抱き締めてもいいかい」

そのあまりの威力に時が止まる。
のち、動き始めるまでコンマ一秒。

「ダ、ダメ!」
「優しくするよ?」
「そ…っそういう事じゃない!」

通り雨よりよっぽど唐突で破壊力を持つ発言である、まともな対応なんて叶うはずもない。
ひっくり返りかけた喉が大層な動揺を見せ、口をつく声は我ながら愉快なくらい振りきれて、垂れ込める雲を突き抜ける勢いで飛んでいきそうだった。
ただ一人精市くんのみが悠々と構え、明るい笑顔を浮かべている。あらかじめ断られるのをわかっているのに、あえて聞いてきたみたいだ。

「フフ、ダメなんだ」
「むしろダメじゃない理由がわかんないよ!」
「じゃあ仕方ない」

ほっと胸を撫で下ろすより、あっさり退いた風の彼を怪訝に思うより、どうして急にそんな事を言い出すのかと問い詰めるより、遙か上をいく速さで距離がなくなった。
間近で放たれる私のものではない熱に慄く。
後ろにずれ気味だったタオルがさっと手前へと引っ張られ、視界は白一色で塞がった。う、と潰れてみっともない声が転がり出す。
首が下に傾く。
かと思えば額のやや上に触れる右手によって、半ば無理矢理上を向かされる。
顔の横に垂れていた布地を掴み、ちょっともうなんなの、と不満を訴えようと試みたけど、顰めた目の内側へ隆起した喉仏が映るので何もかもが覆った。思わぬ近さだ。肩が震える。
息つく間もなく額に熱が灯った。
ちょうど真ん中、前髪の生え際あたり。
タオル越しでもぬくもりの形は易々と感じ取れてしまう。
直接ではない。だけど確かに、軽く唇を落とされたのだと気づいた瞬間、吸い込んだ空気が膨張して肺で暴れた。
咄嗟に引いた踵は途中でぴたと止まる。
右の掌の位置は変えずに、ほとんどタオル生地に包まれた私の額に自分のそれを合わせた精市くんが、忍び笑いに似た声を漏らしたからだった。
眉下まで垂れ下がっている白い布の所為で、いつもより目の前が捉えにくい。
限られた視界の中、見るからに喜びを隠していない彼が微笑んでいる。
直に触れる時と感触が違い、妙なこそばゆさが背中を走って、日頃意識なんぞしやしない額に全神経が集中していく境地に陥ってしまう。熱い。
もしかして知らず知らず余計な境だと認識でもしているのか、水気を取り除いてくれ、功労者と称してもおかしくはない、有り難かったはずのタオルが邪魔くさくて、包まれている部分がなんとなく腫れぼったい。
気まぐれな天候に振り回され、冷えていた手や足の先はすっかり温まっている。
和らいだ目尻を薄い朱に染め、雨の風景を背に、小さな光の粒で瞳を濡らしながら、精市くんは豊かな感情に滲む声音で呟いた。

「テニスもガーデニングも思うように出来ない。人の行き来も少なくなる。は傘がなければ走って濡れるし、俺だって練習メニューを変えたり荷物が増えたりで手間だ」

だからあまり好きじゃなかった。
花や緑にとっては恵みの雨だとしても、俺に天からの恵みが降った事なんてなかった。

「でも今は結構、雨が好きだよ」

鼻先が触れる程の近さで、甘い色をした目が丸い光を帯びて輝いている。

「君が隣にいれば…だけどね」

そういうわけで頼んだよ、
なんでって、嫌いなものは少ない方がいいだろう?
言って目元を緩ませる、精市くんがふと息を止めた。
私はきっと、頭で考えるのではなく肌で理解した。
ひたむきな眼差しが物語る。過去も未来も、今も。一緒になって作り上げた日々は、夜毎生まれ変わる今日へといつだって繋がっているのだ。
どちらからともなく笑い出し、一体何が楽しくて、嬉しくて顔がふやけるのかわからなくなった私の耳に、掠れたレコードみたいな雨の滴る音が染み渡っていく。