真夏の定番




やめておけば良かった、と後悔した所でもう遅い。
右を見ても左を見ても紛う事なき闇である。
普段は何を感じるでもない蛍光灯がどうにも薄気味悪く、てらてらと廊下を舐めるようなぼけた光で目が濡れた。
ドアから顔だけを覗かせ確認した限りでは、この階にいるのは自分一人だけのようだ。
外が暗過ぎる為に半分鏡状態と化した窓の向こうでそびえる別棟には誰か残っているらしく、遠い教室の所々から明かりが漏れている。
しんと静まり返った校舎は見慣れているはずでも、時刻と先程耳にした話のお陰で非日常の空間に映ってしまう。意を決し、教室と廊下とを繋ぐ板を金属のレールに滑らせた。
ガラ、という有り触れた開閉音はなるべく静かに動かしたつもりでも恐ろしく反響し、叱責など受けやしないと理解しているにもかかわらず私を縮み上がらせる。


夏期講習で、久しぶりにクラスメイトと会った日だった。
夏休みに入ってからしばらく経つ所為か、どこそこへ出掛けた、マジ暑い、宿題終わった終わらない、尽きぬ話題に花を咲かせていた所、言い出したのは誰だったろうか。
昨夜の心霊番組に感化されたのかもしれない、一人が心霊スポットとやらに行った体験談を話し始め、また別の一人がそういやこの辺にも出るって噂の公園あるよなと乗っかり、果てには立海に語り継がれる怪談にまで話が発展したのだ。
中には本気で怖がっている女子もいたけど、基本的にこの手の話は大体の人が好む。
季節柄ぴったりというのもあったし、春が来れば三年生に進級し大学受験が待っていて、すなわち次の夏は遊べない。
目に見えぬストレスが小規模爆発したのだろう、場は大いに盛り上がった。
私はといえば、もの皆全て射殺す勢いで降り注ぐ陽射しをくぐり抜けて登校するだけで体力を消耗するのに、ほぼ一日中外でテニス三昧であろうかの人の度を越した強さに恐怖しつつ窓の外を眺めるだけに留めていたのだが、先生来るまでちょっと時間あるから百物語しよう、などという誘いに巻き込まれ参加する破目となったのだ。
いやあの勉強は。
ツッコミは浮かれた空気によって掻き消される。
どこかで聞いたようなオチや骨の髄まで冷える体験談、よくある都市伝説、昔懐かしさの漂う話、皆一体どこで仕入れたのか尋ねたくなるほど多種多様な怪談が披露され、中にはネット上にアップされた心霊写真を携帯端末で見せてくるつわものもいて、長期休暇中真っ最中であるはずの教室は実に騒がしかった。
そこまではいい。
馬鹿みたいに明るいというより最早眩しくて目を開けていられないレベルの太陽が昇っていて、友達やクラスメイトで賑わい、怖いだの怖くないだのと共有し話し合える相手がいる内は、心にゆとりがあった。

問題はその後である。

まず各々の選択科目によって途中から教室が違ったので、人数が減る。
以前の夏期講習に遅刻した所為で人より余分にプリントやら課題やらを与えられた私は、必然的に終了時刻が遅れた。
いつもは付き合ってくれる友達も今日中に終わるように頑張れと足取り軽く言い残し、一人また一人、教室から姿を消していく。恨み言をぶつけてやろうかと思ったけれど、元々今日は精市くんを待って一緒に帰る約束をしていたから責められるはずもない。

日が傾き、暗闇が徐々に忍び寄ってくる夕時から、不得意科目への憎しみよりも恐怖心が勝るようになっていった。

電気をつけていても消えない影にびくつく。
教室の隅にぽつんと生じた黒色や微かな風に膨らんだカーテンを別の何かと見間違う度に心臓が飛び跳ねた。
ドア前をよぎる人の姿にかなり敏感になり、誰も通っていないのに気配が歩いている気がして何度も視線を這わせてしまう。
刻一刻と校舎からは生活音が消えていき、昼間あれほど騒々しかった教室は静寂のみに支配されて、少しの身じろぎをするだけでやたらと音が目立った。
色んな意味で泣きたくなりながら課題を終えた頃にはすっかり太陽は沈んでおり、光の当たっていない部分は闇で塗り潰され境目がわからず、見ているだけで体中に潜む不安感を煽ってくる。
精市くんからの連絡をどこか他の場所で待とうかと迷ったのだけど、休み中だからか解放されている教室は少なく、結局夏期講習を受けた一室で過ごす事にした。
監督役の先生は私に鍵を預け、じゃ終わったら鍵かけて返却しに来てね、信頼ゆえか単なる放任主義か判断が難しい一言を置き土産に退室したきりである。
カンニングのしようもない状況とはいえ自由が過ぎるのでは、心配になる一方で、でも名門私立の我が立海では表立って騒ぎを起こす問題児の噂も聞かないから先生達もあまり神経を尖らせないのかもしれない。
気を紛らわせる為休み明けの試験対策にと持参した単語帳と睨み合って長く恐ろしげな時間をやり過ごし、机上に筆記用具と共に並べておいたケータイへ連絡が入った時、校舎は息が詰まるほど色濃い漆黒で覆われていた。


かくれんぼでもしているんですかと野次られて当然の足さばきで教室を抜け出す。
訳もなく焦る手でいつもの倍時間を費やして施錠し、出来るだけ外を見ないよう夜に沈む廊下を進んだ。
漂う空気の全部が私を押し出しにかかってきているようだ。
自分でも理由が掴めぬ圧力を感じてしまい、呼吸一つするにも気を遣う。少しの物音も立ててはいけないと頭の中で誰かが囁いた。
歩き馴染んだ床を上履きで踏むと、やけにしんなりした感触が返ってくる。
日が照っている時間帯に比べたら多少は暑さが和らぐ夜、居座る熱と湿気で淀む風が肌を舐めてゆき、薄く濡れるような不快感を抱く。耳の後ろから響いてくる自分の足音が怖い。聞きたくもないのに、鼓膜にべったり纏わりついてきていた。
ついさっき届いたメールには忘れ物を取りに教室へ戻る旨が記されていたので、いつも待ち合わせる正面玄関へ直行せず覗いて行こうと決めた。
少しでも一人でいたくない校舎内、精市くんがいてくれたら無条件ですごく安心する。
早く早くと急く気持ちが指をいつもは押さない通話画面へと導く。
段々と妙な速度に上がる鼓動を押し殺しながら早歩きし、防火扉の横を通って階段を転がりかねない慌ただしさで駆けた。精市くんのクラスは私がいた教室と別棟にあるので、移動にそこそこの時間を要する。
コール音が一回、二回。
九回を超えた辺りでまた恐怖心が増し、勢い余って強打で切った。
もし万が一、電話に集中している隙に何か起きたら素早い対応が出来ない。
何かって何なのか自分でもわからないけどとにかく怖い。でもって電話に出た相手が精市くんじゃなかった場合もっと恐ろしい。
抵抗する意識を押し退け、昼間耳にした怪談話が無理矢理蘇る。
やめてよりにもよって今思い出したくないと脳みそをフル稼働させて叫んでも、こういう時何故か無駄に逞しくなる想像力が逃げる私を高速で追いかけて来た。
真っ暗な教室の中、机に両肘をついている女子生徒。こんな時間にどうしたのと訳を尋ねれば一瞬の空白の後、下半身のないその子が腕だけを使い猛スピードで距離を詰めてくる。
背後ろが怖くて振り返り振り返りぼやけた緑の非常灯だけが頼りの暗闇を進むさ中、何度目かに首を捻ったその時、隙間なく暗黒に塗り潰された廊下の奥で青白い顔がぽっかりと宙に浮かんでいて木のうろのような目とも呼べぬ目を見たという。
忘れ物を取りに戻った学校、向かいの棟の屋上から髪の長い女の人が飛び降りた、だけど慌てて地面を窺ったら誰も何もない。見間違いか、いやそんなはずはない、混乱と寒気でうろたえて再度確認しようと校舎上部へ顔を向ければ、ついさっきと寸分違わぬ光景が視界を割る。延々と繰り返しているのだ。屋上の柵を越え、真っ暗闇の底へ身を投げ出し、吸い込まれるよう消えていく。気付きに背筋を凍らせた傍からまた暗夜に影が躍る。

はいやめ! ダメ! なし! そういうの今なし!

発狂したかというくらいしつこく唱えて唇の端から漏れそうになる息を必死で堪える。
嫌過ぎる想像を目を瞑って追い払いたかったのだが、視界の失せる僅かな間に異変が起きたらショック死すると我慢した。
ようやく棟と棟を繋ぐ渡り廊下に出る。
今までいた校舎よりもっと人気がなく電気も消されている情景が、残したくもないのに脳裏にこびり付いた恐怖体験談のあれやこれやに当てはまってしまう。
足が竦んだ。震えもお腹の底の方から忍び寄ってくる。
しかし、躊躇する時間など今の私に与えられていない。
後ずさりし直帰する方にと傾いていた心に鞭打ち、体育のテストだってここまで真剣に走らないという程の速さで差し込む月明かりで伸びる窓枠の影を何本も超えていった。
音がどうとか気にする余裕はとっくにどこかで落として来ている。
電気のスイッチを押す勇気だって持ち合わせていない。押したのに明かりがつかなかったら怖すぎるし、つけて見えていなかった部分が露わになるのも嫌だ。
普段の倍は長く感じる通路を渡り切り、突き当たった壁を前にして右折する。
曲がってすぐの所が、精市くんのクラスだった。
ブレーキ機能を取っ払った両足はスピードを落とさぬままで辿り着いてしまい、教室後ろ側の扉を少しばかり通り過ぎた。そうして一歩半戻り愕然とする。
――暗い。
ドアは何人たりとも通さぬとばかりにぴったり閉められていて、戻るついでざっとではあるが確認した室内にはそれらしき人影も気配もなかった。
メールが届いてからそう時間が経っていないのに何故、と投げ掛けたとて戻る返答などなく、そもそもあったら怖い、一秒で思い直す。
勢いを殺さずにくるっと翻した踵で窓の外も見てみる、先程の怪談にまつわる想像をふまえて鼻先は上に向かわせずまっすぐ階下だ、当然誰もいない。
マンモス校らしさ溢れる長い廊下と居並ぶ教室群が、永遠に続いていく錯覚を抱く。
物音一つせず、人工の眩い光もなく、ガラス窓を射抜いて降る月光だけが不気味に浮かび上がっていた。しかしそれもすぐさま夜空と同等に暗い雲に押し込まれて見えなくなる。
なんでこんなに静かなの意味わかんない。
何に対しての八つ当たりか私自身もわからない。憤慨しなければ恐怖で体中が萎えると本能が悟ったからかもしれない。

ともかくいないものは仕方ない、いつもの待ち合わせ場所に急ごうとして、一歩。
歩めば窓が置き去りにされる。微かな明かりも遮る壁の前に踏み入ったのと同時。
爪先が影に沈む。
床を足裏で押しているのに踏み抜けず纏わりつく一方で、濃紺とぬるい空気ごとが足を掴み、しかしもっと大きな闇が波打った。
教室側の皮膚が一斉に粟立つ。
視界の端で何かが動いたのだ。
振り向くなと脳が命じるより先に首は反応し極限まで開いた瞳孔が確かに見止めた。
音もなく扉が開く。
その向こうの暗がり。
闇以外の何も感じ取れぬ深さから現れ出た指先が、教室と廊下の区切りをゆるゆる押し開き――





正確に聞き取る前に私は絶叫した。
キャーとかわあとか、そんな可愛らしいものじゃない。単語を無作為に並べた感じだ。文章化はまず不可能と思われる。
どこから出したのか自分でも謎であるすごい声の反動でつんのめって手近な柱に縋りつく。夏といえども日が落ちて大分経ったお陰で少々冷えていた。
腰から下の感覚はほぼない、立っているのか座り込んでいるのかもわからず、力が抜けた手がみっともなく震えている。
ほんの数秒間だったがついさっきまでうるさいくらい存在を訴えていた鼓動が聞こえなかったので、あっ私死んだ、と本気で覚悟した。
いまだかつて経験した事のない恐怖の瞬間である、首の傾きや視線の行く先を変えれば良かったのに、こういう時に限ってどこもかしこも固まって動かなかった。
膝が何かがぺたとくっついて張り付く。床である。あまりの事態に絶えていた感覚がやっと戻ったらしい。とすると私は今座り込んでいるのか。
遅れに遅れて理解しながらも固定されたままの視線は、口をぽかんと開けて立つ人へと向けられている。
彼がここまで虚をつかれた表情をするのはとても珍しい事で、少なくとも私は今まで見た覚えがない。

「せ、精、市、くん……」

息も絶え絶えといった風に転がった呼び掛けは、注意深く耳を澄まさなければ聞き取れぬ程ひどい。我が事ながらちょっと何て言ってるかわからなかった。
これまた珍しく、びっくり半分一体何が起きたのか把握していないのが半分だと私程度でも読み取れるわかりやすさを顔に出した精市くんが近付いてくる。

「……どうかした?」

心底不思議がっている声音に、腰から下といわず全身がしなびて項垂れてしまう。
伸びていられなくなった背が曲がり、上半身は柱にのめり込みかけた。一滴の気力も残っていない腕をどうにか奮い立たせて、滑り倒れそうだった所を阻止する。

「で…っ」
「ん?」
「でん、電気…なんで、電気、つけてなかったの…!」

半ばというか九割方悲鳴だった。

「電気? ああ、教室のか。スイッチない方から入っちゃったんだ。まあ確かに暗くて見え難かったんだけど、面倒でさ」

だというに寄越された返事は底抜けにいつも通り、加えて恐ろしく横着、その上細かい事を気にしないにも限度があるでしょと訴えたくなるもので全身の気力が吸い取られていく。

「わ、わた、私、ドアの窓んとこから見たのに、いなかったじゃん!」
「俺のロッカー下段の方で、屈まないと物が探せないんだよ。からは見えなかったんじゃないかな」
「……でんわ、した……のに、なん…っ出なかったの!?」
「え、いつ頃だい」
「…ついさっき……」
「本当? 気付かなかった」

ラケットバッグの中に入れっ放しだった事、その上近くの机に立て掛けておいたから余計わからなかった事、私の恐怖心をあっさり切り捨てるが如く次々告げてくる。
それでも、両膝に手をつきこちらを窺うような格好をしている精市くんは、地べたに縫われて動けず混乱に混乱をぶつけて破裂させたみたいな子の話でもちゃんと聞こうとしてくれる出来た人なのだ。なのに、どうしてその優秀さを先刻発揮してくれなかったのか。

「そんなに怖かった?」

私が何に腰を抜かしたのか理解が及んだ様子の彼が暗闇もなんのその、至極和やかに微笑む。
視界の隅の方がちょっと滲潤み始めているのも繕わずに睨み返し、後先など知った事かと思いきり言い放った。

「笑い事じゃない! 本っ気で怖かった! 電気つけてよ!?」
「ごめんごめん。いつも昇降口で会うだろう、が俺のクラスの方に来るとは思わなかったんだ」

精市くんが謝る必要は全くないし謝らせる自分もどうかと思ったのだが、吐き出さなければ収まりがつかない。
半泣きの目を擦り、短く浅い息をつく。夜が連れて来る暗さとはまた違った影を降らすその人がほのかな声を立てて笑った。
あんな声で叫ばれたの初めてだよ、俺変質者みたい。
楽しげに言う場面か。問い質したかったが声帯はイメージ通りに震えてくれない。

「…ちがう、精市くん、変態じゃない……」
「はは! そう、良かった」
「……私、お化け、出たかと、」
「酷いな、幽霊扱いかい」

私を責めているのは言葉だけで、弾んだ声はいまだ健在だ。
鼓膜を震わす優しい音に釣られて見上げれば柔らかに曲がった眦があって、とうとう芯から気が抜けた。張り詰めていた肩も落ち、深い呼吸が全身を巡っていく。

「ほんとに、しん、心臓止まった……死ぬかと思った……」
「それは困る。死なないで、
「………死なないよ……死なないけど、ないけど! あれで死んじゃってたら絶対精市くんとこに化けて出てやったからね!」
「フフ…うん。いいよ、いつでも来るといい」

それほどの恐怖を味わい驚かされたと文句をぶつけたつもりだったのだが、春風に吹かれる花の如し微笑みにいなされ、何もかもが徒労に終わった事を知る。だめだ、怒ったり怖がったりするだけ無駄だ。私の体力と気力が減っていくだけだ。
精神的な眩暈を覚えて返す言葉も失っていたら、いつの間にやらしっかと柱を掴んでいた手が外され、私のものより大分頼もしい掌が重ねられた。
くずおれた私が立ち上がるのを助けるつもりらしい。
本来ならば大丈夫だよと辞退する所、その気概も最早残っておらず、ただされるがまま身を委ねる。
学び舎を覆う暗闇の中、窓からのささやかな灯火を浴びた精市くんはやっぱり笑みを崩していなくて、日頃と変わらずというかむしろ面白がっている雰囲気すら漂わせていた。
仮にも彼女が死ぬほど怖かったと訴えているのにどういう事か。
口を開くだけの元気はさっき飛んで行ったのでほんの僅かな苛立ちも感じない。ただただ疲労感が押し寄せてくる。

「あれ、お前達まだ残ってたのか。もう遅いぞ、施錠するからな」

軽く腕を引かれたのでまず右足を動かそうとしていたら、今更、本当に今更見回りの先生が渡り廊下の角から姿を現した。来るなら私が怖くて仕方がなかった時にして下さい。
詰め寄る事など出来るはずもなく、はい、すみません、と優等生然とした精市くんの声を聞く。
萎えた足で踏ん張って立つ。
座り込んでいた私と繋がれた手を目撃した先生は、おいおい何してたんだ、あからさまに茶化す空気を混ぜて笑った。私がしっかり立ち上がるまで手を引いてくれた人も、同じように笑って返す。

「俺をお化けと間違えたみたいです」
「はあ? 幸村をかあ? ……、お前ある意味大物だな」
「だって電気もついてない教室からいきなり出てくるんですよ!? 怖くないわけがないじゃないですか!」
「だからって普通見間違えないだろが。知らん相手ならまだしも幸村だぞ? なあ、ショックだよな幸村も」
「ほら、先生は俺の味方みたいだけど」
「なんで私が悪いみたいになってるの……」

おかしくない? ショックっていうか俺は悲しかったよ。いや人の話聞いて!
静まり返る夜の廊下で繰り広げていたら、それまで会話に参加していた第三者が大振りに後頭部を掻いた。

「あーわかったわかった、お前らの仲の良さは充分伝わった。ハイそういうのはヨソでやんなさい。先生鍵かけないと帰れないんだから」

こっちに話題を振ってきたのは先生のくせして付き合い切れませんと言わんばかりに、ほらさっさと行った、野良猫でも追うように手を払い、近くの教室から施錠し始め振り返りもしない。
置いていかれた形となった私は、精市くんといい先生といいなんで真っ暗なままで自分の用事を済まそうとするの、人気ゼロの通路を進み徐々に小さくなる背中を眺めながらその不可解さにやや引いて、精市くんといえばじんわり嬉しそうに呟くのみだ。

「仲が良いだってさ、聞いた?」
「……注目するのそこなんだ」

思わずツッコんでしまったが、朗らかな人は気にする素振りを見せない。
暗い夜に溶け込む一方の場所に似合わぬ、陽光めいてあたたかな笑い声を少々落としながら歩を進める。
同時に私を支えてくれていた掌がするりと抜けて離れていき、途端の心細さといったらない。
明確な温もりと感触が失せ、そんなはずないのに一段と闇の濃さが増した気さえする。
頼りなげに下がった自分の指先と更に一歩先を行く人の背を交互に見て、またしても望んでいない恐ろしい動画が頭を巡った。
肝試しにと廃墟へ向かい、今の今まで二人でいたのに、ふと目を離した瞬間同行者の姿が掻き消えている。手にしていた懐中電灯の明かりが不自然極まりないタイミングでつかなくなり、一人取り残された投稿者は恐怖にまみれた声を上げていた。
ひゅ、と息が引っ込む。
心臓が冷たい手に握られたみたいだ。
名を呼ぶ間もなく足が我先にと追いかけた。

「…って! て、」
「え?」

さっきまで行く宛のなかった指は、独りでに精市くんのシャツの裾を引っ張ってしまっている。伸びる程強く掴んだつもりはないが、可愛らしく軽く摘みましたレベルには収まらない。
にもかかわらず、振り向いた背中は少しもよろめいたりせずいつも通りだ。
比べて私は平常心の一切を失くしていた。

「手、貸して……」

普段なら口が裂けても言えないしやらない事を土下座して頼み込むつもりで口にすると、わけがわからないといった表情を浮かべながらも、精市くんは右手を差し出してくれた。
背後の暗と同化しかねない色合いのリストバンドが手首にはめられている。
上向く掌は広く、暗がりの中でも鍛えられたものだと見て取れた。ほとんど毎日ラケットを握るから爪は短い。
僅か数秒の間に常と変わらぬ、しかしこの場では頼もしすぎるくらい頼もしい手を確かめて、躊躇わず自分のそれを重ねて握り締める。
肌を通う体温は、親しんだ精市くんのものだった。今さっき失ったのと変わりない。
脳裏に焼き付いた恐怖動画が薄れ、霧のようおぼろげになっていって、凍り付いていた鼓動や肺がようやく息を吹き返した。
安堵が滲んで体をほぐす。
引っ込んだきり浅い所を行き来するばかりだった呼吸が深くまで差し込み、役割を思い出した耳は傍で転がった笑声を拾い上げた。
私の心中を理解したらしい、にっこり笑顔の人が言う。

「今のはこっちの方がいいんじゃない」

言葉が終わらぬ内に繋いだ手を組み替え、指の一つ一つを丁寧に絡み合わせていく。その手際の鮮やかな事。
昼間の光差す学び舎だったら羞恥心に飲まれ、どこか釈然としない心地に陥ったに違いないが、今はただただ有り難い。そしてかなり頼もしい。優しさに感謝の念を抱くばかりである。
隙間なく触れる手を無言のまま繋ぎ返し、同意を求めてくる微笑みに向けて深く頷いてみせた。
自分でもしおらしいと思うから精市くんにはもっとおかしく見えている可能性が高い、返事の代わりに笑われても仕方のない事なのだ。
言い聞かせ、一層綻ばせた人の後をついていく。
すぐの角を曲がると、明かりの完全に落ちた廊下が眼前に広がった。窓から差し込む光の量は先程と同じにか細くて、遮る背や肩のお陰でより暗く映る一瞬もあるのに、何故だかそこまで怖くない。
一人じゃないって素晴らしい。精市くんってとんでもなく心強い。
心の中で讃えていたら手を繋がなければ歩けない程怖かったのか問われたので、全力で脳内から蹴り出したくともこびり付いて離れない、百物語の際に強制的に視聴させられた動画のあらましを思い出しつつ語った。
私が見てない間に精市くんがいなくなって、へんなとこに迷い込んだり学校から出られなくなったりしたら今度こそ死ぬ。
それはもう真剣に説いた。

「その手の映画や動画の見過ぎだよ」

当たらずとも遠からずというかほぼ言い当てられてぐうの音も出ない。
そんな事起きるわけがないだろう。
心底おかしそうに笑われ、精市くんの言葉の方が圧倒的に正しいのだと思い知らされる。
いや、私だって本当に信じ切っていたわけじゃない、ないけど、それでも怖いものは怖いのが人の性というやつだ。
来る時は決死の思いで駆けた廊下があっという間に終わり、相も変わらず人気のない暗過ぎる階段に到着する。
階下はより黒の密度が濃く、一人だったら奈落へ転げ落ちる妄想に憑りつかれ躊躇していた所だが、私を導く掌の持ち主が傍にいるから迷わずに足を踏み入れる事が出来た。
二人分の上履きの足音が、恐ろしいくらいの静寂を裂いては夜に吸い込まれていく。
朝昼などは何気なく駆け上がり、または下っている段なのだが、ただ暗いというだけで見知らぬ場所へ通じているように見え、引いてくれる腕がなければ持ち上げた足裏を下ろす位置すら覚束ないだろう。
しっかりと合わさって温度が直に伝わる手は本当にあたたかい。
春秋冬と冷え症に苦しむ私を幾度となく助け、温めてくれた大きな掌だ。
さっきも今もこの体温と感触にほっとしている。
真夏の夜は湿気て濁り、空気の流れが途絶えてそこかしこで停滞していて、歩いても風を切れないから独特の熱が籠もった。昼を思えば大分ましになっているけれど、涼しいとは言い難い。でも触れる温度に不快感は抱かなかった。
階段を下る音がばらけて不可思議に広がっていくさ中、朝でも夜でも、いつどこにいても私には通って聞こえる声がこうも無闇に恐れ怯える訳を尋ねてくる。
百物語をするに至った流れ、理由、聞かされ見せられた恐怖体験談、諸々を隠さず手短に伝えた所、へえ、夏期講習にわざわざ来ておいて怪談か、皆随分余裕のようだね、強豪テニス部において神の子と呼ばれる人の厳しさが冴え渡ってしまう。
気圧されてつい謝罪が口から転がる。

「……すみません」
「それで、勉強はちゃんと出来たのかな」
「うん。明るい内は怖くなかったから平気だった」

でも暗くなるともうダメで。もうありとあらゆる影が怖い。
異常に芯のある声で応じれば、精市くんの肩が笑みに揺れた。

「気にし過ぎだよ。休みの日以外は毎日来ている学校だろ?」
「わかってても怖いものは怖い」
「なら怪談なんて聞かなければいいさ」
「聞きたくて聞いてたわけじゃないです……」
「まあ、そうだろうね。いちいち付き合う事ないのに、は意外と周りに合わせる所があるからなあ。見てて時々不思議だよ」

じゃあなんで言った。
というか褒められたのか短所を指摘されているのかどっちだ。
思いつつもツッコミは胸に仕舞い込み、今日会った時から沸き上がっていた疑問を口にする。

「精市くんって暗いの怖くないの?」
「うーん、見え辛くて不便だとは思うけれどね」
「ええー……それだけ? もしかして肝試しとか平気なタイプ?」
「心霊スポットで肝試しとなると幽霊より不審者の方に気を付けるべきだと思うタイプ、かな」
「……精市くん一人いれば肝試しで危ないとこ行っても大丈夫そう」
「フフ、お褒めに預かり光栄だ。けど俺が一緒ならまず危ない所に行かせないよ」

益々もって頼もしい。この説得力は何だろうか。

「じゃあ幽霊とか信じてない?」
「幽霊の類に限らず、目に見えないものはあまり信じていないな」

清々しいまでの明確な答弁に返す言葉がなかった。精市くんらしい事この上なく、深く考えず問い掛けた自分が馬鹿みたいだ。
そういえば神様には頼まないって前言ってたな、いつかを思い返しながら最後の段から足を離す。会話をしている所為もあってか、想像以上に早く一階に着いた。
精市くんに鍵を返却するからと告げると、嫌な顔一つしないで昇降口に向きかけていた爪先を翻してくれる。何度も言うけど出来た人だ。

「じゃあ精市くん、入院してた時怖くなかったんだね」

私なら無理、夜の病院のトイレとか絶対一人じゃ行けない。
他意なく全てを口にしてからあっと思う。己の迂闊さに血の気が引いた。
彼にとっての病院は幽霊やら何やらと結び付けるものではなく、戦い続けた場所だ。
様々な事情を抱えた人を間近で見、言葉を交わし、接してきたに違いない。生と死が交わる、私にはわからない、完全には理解する事の叶わぬ年月。
精市くんだけじゃない、入院していた人達にも失礼だ。
ごめんなさい、咄嗟に言おうとして、職員室へと続く廊下にころっと落ちた笑い声で挫かれてしまう。

、俺と同じ階に入院してた子と同じ事言ってる」

さて問題です、君とその子の年の差は一体いくつでしょう。
言わんばかりの声音に、ものの一瞬で固まった体と脳が解凍される。

「……ごめんねちっちゃい子と同レベルで」
「うん、どういたしまして?」

微妙にずらされ、面白がってからかう返事である。あからさま過ぎて怒る気も失せた。
けど何一つ気にしていない反応でもあるから、思い切りほっとして胸を撫で下ろす。
どうしてこう、いわゆる失言が減らないのだろうか。もっと気を配らなければ、心に書きとめ指先へほんの少し力を籠めれば、感じ取れるか否かの強さで握り返された。

「学校も病院もただ暗いだけで、まるで知らない場所へ放り込まれたわけでもないだろう」

何もかもが急に様変わりするでもなし、あるのは明暗の違いのみ。普段と何も変わらない。要は見え方の問題だ。
淡々と紡がれる朗らかな声が、心臓に沁みていく。
力ある言葉のお陰で、怯え切っていた先程の自分が馬鹿以外の呼び名が見つからないくらい愚か者に思えてきた。
その通りです。
無理くりの反論も出来ず、うん、と相槌を打ちながら、それはこの人が傍にいるからこそ通ずる正論であって一人じゃ上手く組み立てられないな、やけにはっきり確信する。
廊下に落ちた影と光を踏む音が静かだった。
全くの黒色と黄色みがかった薄い白が、目の奥に焼き付く。
延々続くようなコントラストは決して毒々しくはなく、危うくぼやけているのに離れない。
耳に痛い程の静寂は深く、だけど時折柔らかな物言いによって打ち消され、不意に途切れる都度また返る。波のようだ。
恐れと安堵で揺り動かされるさ中、胸の縁で小さな感慨が湧いた。
精市くんにとっては同じなのかもしれない。
今言った通り、暗いか明るいかの違いだけで、学校も病院も。
大事な、と判断出来るのはこの世で彼一人だから私にはわからないけど、きっと良し悪しどちらの意味にしたって心に残る場所なのだ。幽霊や怪談の入り込む隙など、元からありはしないのだろう。
考えれば考える程、本当に自分が頭の悪い可哀相な子みたいだし、それでも怒ったり呆れたりしない鷹揚な精市くんに感心せざるを得ない。







なんて私にしては冷静に構えていられたのは、灯りが煌々と漏れる職員室へ辿り着き居残る先生に言伝して鍵を返した辺りまでで、一体誰が電気を消したのか暗がりに浮かび上がる昇降口のロッカー群が視界に滲み始めると、再びの恐怖に身が竦んでしまう。
繋ぎ直すのも妙に思えて、職員室を出たのち手は離れている。
昇降口にまつわる怪談を本日何度目か最早わからないが脳が勝手に再生し、鳥肌の立つ震えが背を滑っていった。
知らない手に肌を撫でられたような気持ちの悪さが、首の後ろでわだかまっている。
鞄の紐をきつく握ったはずなのに、いつの間にか染み出た嫌な汗で思うように掴めない。
教室が別棟なのだから、下駄箱だって等しく離れている。
そびえ立つ鉄製の影がやたらと濃く重く、どう頑張っても不気味に見えて仕方がなかった。整然と並んでいる所為で余計怖い。息が詰まる。
当然何の気負いもなく自らのロッカーへ向かおうとする人の、半袖口が目の端をよぎった瞬間呼び止めた。振り返った顔が、なんだい、と気安く問うている。

「お願い先に行かないで。私すぐ靴履き替えてくるから」

早口で捲し立てると、見慣れた微笑みが零された。
精市くんの唇から落ちた呼吸は何かを噛み殺している。

「わかった」
「絶対そこにいてね」
「うん」
「絶対に絶対だよ!」

言い逃げて即、全速力で駆け出す。
廊下は走るな、掲げられたポスターの標語など知った事ではない。
何かの拍子に転ぶんじゃないかというくらいの勢いで走って自分のロッカーに縋りつく。
他の事は考えない、見ない、気にしない、強力な呪文の如く重ねて唱えがたがた物音を立て上履きを仕舞い込んだ。人っ子一人いない玄関口、さぞ大きく響いて聞こえているだろうが関係ないしどうでもいい。
視界の隅で影が蠢いている。
幻、見間違い。
言い聞かせては、昼間の心霊体験談とやらの所為で想像してしまう、壁に向かってぼうっと立つ髪の長い女の人の後ろ姿を振り払おうと努めた。
込み上げる生唾を死にもの狂いで飲み込み、こういう時に限ってすんなり爪先まで入っていかないローファーに泣きたくなって、焦り滑る指で踵の部分を力任せに引っ張る。
しゃがんでいた分時間を無駄にした。半端に曲げていた膝を伸ばす。
夏なのにうっすら冷たい鉄の扉を乱暴に閉め、静けさを助長する物入れの群れから抜け出したら、いくつか先のロッカーに右肩を預けて腕を組む精市くんの姿が見えた。
夜陰を帯びていても目立つ。
一目散に駆け寄れば傾く頬を遠慮なしに緩ませているのがわかったものの、文句やら何やらをつける権利や余裕など今の私は持ち合わせていない。
ちょっとの距離でも切れる息を隠せないこちらの様子を間近にしても精市くんは特に言及せず、ただ微笑んだままで大仰な扉を片手で押し開く。
どうぞ、とらしからぬ丁寧さで先を示され、これ幸いと従った。だって一刻も早く学校から出たい。
殺せなかった荒い息が肩を揺らし、焦りに焦った為乱れた髪の一筋が真夏のゆるい風に振られる。頬を打つ生温かさは校舎内に漂っていたものと似ているようで質が違い、やっと抜け出した事を知った。
歩む速度の落ちた私を、いつどでも堂々たる振る舞いの人が追い越していく。
一歩、二歩。
ふと立ち止まり、穏やかに笑う。

「もういいのかい」

手は。
言外に尋ねてくるから、釣られて差し出された掌を見た。

「よくない」

一も二もなく答え腕を伸ばし掴もうとした所で、思いも寄らぬ速さと力強さで握り込まれる。
お陰で脳内に蘇りかけていた夜のグラウンドの怪とやらがいっそ小気味よく散り散りになって消えた。
恐怖とは異なる理由でびっくりしてしまって咄嗟の一声も出なかった。
ぐっと引き寄せられて一気に近くなる。
足はよろけ、距離が縮み、片頬が体温の薫るシャツとくっつく。
すぐ傍で肌伝いに聞こえる音が、今日は素直だね、と優しげに紡がれ、忍び笑う息はこそばゆい。
ふと、鼻をくすぐる空気に縫い止められた。
色んな意味で強張っていた体から、みるみる力が抜けていく。精市くんのにおいだ。
テニスをした時の、ぎらつく太陽が見えなくなるまで練習に励んだ日の、汗をかいたんだなという事はわかるけど汗くさいのとは全然違う、肌に浮いたまるまる大きい粒みたいなそれを拭い洗った後の香りがする。
口にした事は一度もない。
でも私はこのにおいが好きだった。
肺が思い出したように震えて呼吸を押し出し、体の真ん中まで行き渡る。血液を通って巡る温い感覚が、今日一番の安堵をもたらした。
ようやく一息ついた、という表現が似合いの呼吸が漏れ出、触れた指と掌を繋ぎ返す余裕も生まれて来る。
味わうみたくあえてゆっくり瞬きし、眼前のシャツとネクタイの色を見詰めたら、夏の夜の所為でいつもと少し違う色だ。不思議な感じがする。
暗闇が引き起こす異変を恐ろしく思う一方だったのに、精市くんが関わった途端に真逆の感想を抱くのは何故だろう。
ころころと変わる感情に振り回されているはずでも疲れが重く圧し掛かってくる事がないので、これもまたやっぱり不思議だった。
もう一度息を吸い、目を閉じようとしたとちょうどその時、夜に紛れ白とは言い切れぬシャツが離れていく。布越しの体温も同様である。においも失せた。
何を言うでもなくぼんやりそれらを眺めていたらゆるゆる手を引かれ、為すすべもなく足を動かす。
気管を擦って溢れた呼吸はもう震えておらず、ただ穏やかに静まっていた。
我ながら動物みたい、それで精市くんは保護活動とかしてる職員の人。いや、自分がそんな希少価値のあるものだなんて思ってないけど。
下らない例え話に考え耽っていると、隣を行く人が前触れなく笑い声を響かせる。

「……なに?」

幾分間を置いての事だったので、つい声に訝しさが乗った。
空いた手で口元を押さえる精市くんは、こう言っちゃなんだけどとても楽しそうだ。

「いや、俺力説されても女の子とお化け屋敷に入りたがる奴の気持ちがわからなかったんだけど、なんとなくわかったよ」

どんな流れでお化け屋敷に入る入らないの流れになるのか。
というか一体皆でどういう話をしているのか。
テニス部の人かクラスメイトか、はたまたU-17日本代表の面々か、判断は出来ないけれども大事なのはそこじゃないから首を突っ込まない。

「…それ言われた私はどうしたらいいわけ。怒ればいいの、呆れればいいの、照れればいの?」
「何も。ただ怖いから手を繋いでって俺にお願いしてくれればいいさ」

間髪入れず放り込まれた剛速球が羞恥を呼び込む。ぐ、と詰まった言葉と酸素で喉が痛い。
もういいですと手を離せばいいだけの話かもしれないが、その意気地も勇気もなかった。
代わりに目一杯握り締めて仕返ししてやろうかとも企み、いくら私が限界値まで力を籠めても多分彼にとっては痛くも痒くもないなと思い直して諦める。
これ以上ないくらい見事な負けっぷりである。
そもそも勝てる気も勝つ気もなかったけど、と色々放り投げた時だ、心ばかりか体も気が抜けていたのだろう、トドメと言わんばかりに間延びし切った音が暗く沈む煉瓦道の上に響いた。
非常にわかりやすい。喉元過ぎれば何とやら、空腹の証拠。人気がまるでないお陰でいい感じに鳴り渡ったお腹の音だった。
そういえば怖さに気がいくあまり、勉強の後や待ち時間にいつも口にするお菓子を食べていなかった、悟りの境地で思い返す。
恥じる気持ちをも投げ捨てた私の横で、外灯が差しても尚暗い周囲を弾き飛ばすような笑い声を上げた人が、盛大に肩を震わせつつも手を離そうとしない。
やっとの事でという調子で息を整える精市くんが、それでも笑みの見え隠れする言葉を繋げて寄越してきた。

「怖くてもお腹は減るんだ?」

軽く涙まで滲ませているのだから結構な事だ。そんなに面白かったですか。棘を飲んで我慢する。

「……怖くなくなったらお腹減ってたの思い出しただけ」
「っく…フッ、あはは! なるほど、そうか」

一方の精市くんは堪えようと試みながらも失敗していた。
大体このパターン何度目だ。私はいつまで間抜けなままなのか。精市くんだっていっそ思う存分笑い飛ばせばいいのに、耐える様を目にすると余計に惨めだし恥ずかしい。
半ばやけくそになりながら抗議の意を込めて手を握れば、倍の力で返される。
完全にこちらの不意を突く反応だ、驚きに目を見張ってしまい、遅れてやって来た照れ臭さを隠そうと苦し紛れに唸った。

「も…う、いい。いいから、どうもありがとうございました離して」
「嫌だよ」
「なんで!?」
「そんなの俺が嫌だからに決まってるじゃないか」
「……答えになってなくない?」
「あれ、じゃあは他にどんな答えが欲しかったんだい」

これは面白おかしく茶化してくるコースだ。
足掻いてみせても事態は悪化するのみで、単純な私は気を付けていても誘導尋問に引っ掛かるに違いない。
眉間の辺りに力を入れて、ついでにお腹も鳴らぬよう気を張って、湿る唇を開く。

「いらないです」
「俺は聞きたいけどな」
「私は言いたくないけどね!」
「そう、残念。ちなみに俺はお腹を空かしたを笑ったんじゃなくて、健康的で何よりだと思っていただけだからそこは知っておいてくれ」

馬鹿にしてる。
脳天をかち割るが如し言葉の数々に胸の中が溢れて破裂しそうになったが、すんでの所でどうにか堪えた。
だから頬が熱いのは憤怒であって羞恥ではない、必死に言い聞かせる。
今の私の気持ちを形にしたってきっと精市くんはまた一層微笑みを深くするのだ。馬鹿になんてしていないさ、褒めているだけだ、何て事ない風に平気で口にしてくるに決まっている。
黙り込む私の俯いた鼻先に気付いたのだろうか、傍らの怖いもの知らずが夜の空気を柔らかく揺らした。鼓膜を打つ、淡い笑い声が近い。
痛みを感じない強さで引かれた腕が突っ張って、精市くんの側に偏る。

「寄り道していこう。何かお腹に入れてから帰った方がいい」

ただし晩御飯前だからね、食べ過ぎないように、親か何かかといった具合の注意をつけて誘ってくる声に視線を上向かせれば、真上の灯りを浴びた微笑みが背後の暗闇に馴染んでいる。だけど完全に消えはしない。しっかりと光を受け、微かに輝き、余韻で瞼がちかちかと明滅した。
降る眼差しは優しいのに様々を綺麗に蹴っ飛ばす。
観念した私は首を縦に振り、生温い夏の夜風が崩した髪を耳に引っ掛けながら、繋いだ手の人差し指で精市くんのかたい手の甲を意趣返しにと強めになぞってやった。

「……お腹を空かした私の為にわざわざありがとう。そばとかうどんとかパスタとか、何でもいいから麺類が食べたい」
「随分ちゃんとしたリクエストだ。食べ過ぎないようにって今さっき言ったばかりだと思ったんだけどな。、俺の言う事聞く気ないだろ」

いかなる返球を受けようとも一切合財意に介さぬ構えを見せる彼が、心からの笑みに顔の全部を綻ばせる。どんな暗闇の中でもわかってしまうから、嫌じゃないけど嫌になる。
と、溜め息をつく寸前、言葉の応酬とは別の意趣返し返しなのか爪と甘皮の間をやんわり撫でられ血が上った。
心音の速度も跳ね上がって、体の奥がざわつく。
痺れる甘さは指先から掌、掌を伝わって手首、それから腕へと広がっていき、淡くなった。滲むと一層忘れられない。
血の流れが首から上に集中している。
バレない程度に俯いて熱くなった頬を隠そうとしたものの、努力も虚しくあっさり見破られたようで、見事爽やかに笑われてしまう。

「最初につっついて来たのはなのに、なんで照れてるの」
「い…いちいち言わなくていい! いいから!」

迂闊な己を呪い暴れる私を宥める精市くんの声が、ついさっきまで恐ろしくてどうしようもなかった闇夜を打ち払って回る。
頭上の薄曇りが徐々に晴れ、やがて細い月が露わになった。
湿って熱の名残を孕む空気が肩や頭の天辺に圧し掛かるが、夏特有の重苦しさを感じる暇がなく、触れ合う掌に籠もる熱は高くなっても一向に煩わしくない。
いつかの場面を繰り返し再生するように押して引いてと騒がしい私達を、暗かろうが明るかろうが愛すべき学び舎が見下ろしている。