舞台裏での秘め事は




立海の文化祭はとにかく規模が大きい。
流石の歴史ある名門私立、資金も潤沢で与えられた準備期間は長く、秋の一大イベントと言っても過言ではないだろう。
文化祭以降の月にも色々と行事がある所為で、夏休みが明けると年末までほぼずっと忙しいのである。
単なる一生徒でしかない私ですら切羽詰ってくる時期は生きる屍と化するのだから、生徒会や実行委員会の人達はどれほど大変なのか考えるだけで恐ろしい。
しかしもっと恐ろしいのはそのどちらにも属していないのに、何かと声を掛けられては注目を浴び、いつもと変わらぬ微笑みで大体の事をやってのける幸村精市その人だ。
中学の時の海原祭など、一人で企画、演出、脚本を務め総合監督賞なるものを受賞していた。一人二役、三役と耳にはしても、こんな近くに実在するなんて夢にも思わない。本当に同い年か。
幸村くんがいれば全部上手くいきそうだよね。
感動を通り越し逆に冷静になり、思わず口にしてしまった日の事は今でも覚えている。
輝かしい賛辞のさ中にいた彼はといえば、そうでもないよと鷹揚に笑っていた。
華やかな開催日も、至るまでの疲労困憊の日々も、すべてが思い出深い。
高等部からクラスの違う私達はお互いやるに事があり、当然一緒に過ごす時間は減ったが、会えば話すしメールだってする。
学年が上がっても精市くんのすごさに圧倒されるのは変わらず、聞けば聞くほどとんでもない学生だと心から思う。
日頃から忙しい人だとわかってはいるけど、文化祭の時期は特にだ。
聞いているだけで身が竦む過酷な練習をこなしながら、日々の学校生活や準備まで行い、あまつさえ部門は何であれトップにまで上り詰める。
どんな事でも王者になるのがテニス部のモットーなのかもしれない、納得はしても共感はあまり出来ない。というより追いつけない。次元が違い過ぎて、すごいね、以外の言葉が浮かばないのだった。
だから、同じクラスだった中学の時ならまだしも、高等部へ進んで以降の学校行事はどことなく遠かった。
勿論、何をやるのか、作業はどこまで進んだか、そういった話はするけれど、手伝ったり手伝われたり、本番までの日程や作業工程の細部まで把握しているわけじゃない。

「良かった、いた。、ちょっといいかい」

よってこれは想定外過ぎた。
秋晴れと称するに相応しいのどかな午後、振られた仕事をあらかた終えた私の元へ姿を現した彼の、前触れのなさに一瞬呼吸が止まる。休憩のお供にと飲んでいた紙パックの100%オレンジジュースを吹き出す寸前だった。
作業用にと与えられた場所には私以外にも準備に励む生徒が何人もいて、目立つ所の話ではなく、現に滅茶苦茶注目されている。
自販機まで飲み物を買いに行き、ストローを咥えつつ皆の所へ戻っていた私の視界には、見事に和装を着こなした精市くんとその背後ろで軽く目を見張る男子や色めき立つ女子がまとめて入り込んできた。
クラスの出し物が和風喫茶になったと聞いていたものの、こうも本格的な装いをする事までは知らなかったので、しらずしらず背筋が伸びる威力を持つ和服姿に声を失ってしまう。
深いねずみ色の着物は品良く映り、藍と紺の混ざった羽織は例のジャージよろしく肩にかかっている、腰元の帯も綺麗に締められていて隙がない。
何よりどれもこれもそれなりに値が張りそうで、精市くんのクラスの資金源やお金をかけるべき部分を決定した人について思いを馳せずにいられなかった。
次いで、たとえば柳くんの着物姿だったらここまで呆気に取られなかっただろうな、頭の隅で考える。ほんの少しではあるが、冷静さが残っていたらしい。
日本古来のいわば民族衣装であるはずなのに、どうしてこんなにも目立ち、しかもハロウィン的仮装より余程派手に思えてしまうのかまったくの謎だ。

「君に頼みたい事があってさ。休憩中の所悪いんだけど、手を貸してくれないか」

呆けて立ち竦む私ばかりか周囲の視線も空気も何のその、一切気にする素振りを見せぬ人が平然と続ける。
日なたの髪はいつもより柔らかく光り、こちらに向けられる表情を優しく彩っていて、彼が下駄を履いている所為で視線はいつもより上向く。素人もいい所の私ですら上等のものだと見て取れる生地が、秋の陽射しを受けて眩しかった。
耳にざわめく人の声が届く。
それでも開いた口は塞がらず、突然の事態にうんともすんとも言えなくなっていた私を見、聞いてるの、とおかしそうに首を傾げる仕草でようやく我に返った。

「き…っ、いてる、聞いてるけどあの、ちょっと待って。精市くん場所を変えよう」

精市くんに目がいくあまり半ば意識の外へ放っていた周りのただならぬ雰囲気を、思い切り引き戻したあげく一気に感知してしまったようだ。
目の前の人へと痛い程集まる視線の束に、関係ない私がそわそわする。まるで落ち着かない。なんで平気な顔のまま話し掛けてくるのか、ちょっと正気を疑う。立海の芸能人か何かかこの人は。
無駄に焦る私に対し、微笑むばかりの渦中の人がごく素直に頷いた。







苦心して人の目を避け、どこか静かな場所はないものかと探し、辿り着いたのは営業を終えからっぽになった食堂だった。
文化祭の時期だからどこかの団体が借り受けているかもしれないと心配したのだが、どうやら杞憂だったらしい。
ほっと息を吐く。
お腹を空かせた生徒がいたとしても、時間も時間だ、皆購買やカフェテリアの方へ行くのだろう。

「どうしてそんな、小さくなって歩くんだい」

目立ちまくる人の横に立たされたこちらの胸中などお構いなしに違いない、朗らかな笑い声を転がす精市くんが私を追い越し、居並ぶテーブルやイスの群れの中へと進んでいく。

「…精市くん、自分が目立つとか目立たないとか考えた事ないでしょ」
「そうだね、あまりないかな。はあるの」
「い、いや…言われてみたら私もない」
「なら、いいじゃないか」
「よくないよ! なんか、こう…居た堪れないの!」
「俺が?」
「精市くんなわけないじゃん。私がだよ」

軽口を叩く途中、見慣れぬ和装の彼が手近なイスの背に手をかけた。
何を着ていても精市くんは精市くんで変わりはないはずなのに、袖口から覗く手首やそこから伸びる手の甲が、やたらと目について仕方ない。
変な感じに胸が騒いで、底の方から心臓を静かに、だけど確実に押し上げる。
居心地が悪いのとは違うが、立ち尽くしていないで距離を縮めるべきかどうかわからず、足先はわかりやすく迷った。
本当におかしい。
着ているものが異なるだけで、どうしてここまで戸惑うのだろうか。
ついに視線の行方まで定まらなくなった所で、そう馴染み深い格好じゃないはずなのにものすごく堂に入ったオーラを纏わせた彼がまた笑う。

の場合は、気後れしてるって言うんじゃない?」

安心していいよ。俺は無理難題を吹っ掛けたりなんてしないさ。
どの口が言う、と喉まで出かかったのをなんとか堪えた。藪蛇だ。言ったら最後、倍以上に返される。
正解に近い部分を突かれて益々高鳴る鼓動を悟られぬよう注意し、小さく息を吸った。

「……言わない。ていうか気後れしてない」
「そう。じゃあ、びっくりしたのかな。和風喫茶をやるとは話したけれど、着物を着る事は言っていなかったものね」
「それは…うん、急だったから驚いたけど」

問われるがままに答えていれば、なるほど、と笑みに滲んだ返事が寄越される。
和服の精市くんを目にした瞬間に比べればいくらか落ち着いた自分の声にかすかに安堵したのもつかの間、

「で、着物姿の俺によろめいちゃったんだ?」

やっとの事で避けたと思っていた刃をいとも簡単にくるりと翻され、懐深く優しく刺された心地である。途端に爆発した息が飛び出していく。

「…っバカ! もうそういうのいいから、ほんといいから早く用件を言って!」
「あはは! うんわかった、ごめん

謝罪を口にしておきながら心底楽しげな人が、怒らないで、と語尾にくっつけたのち笑み崩れていた呼吸を整え始めた。
顔に熱が集まるのを自覚しつつ、手加減なしで眉間に皺を寄せ睨みつけてみたが、いつだって悠然と構える精市くんは目尻を柔らかく滲ませるだけだ。
もういい。
私がどれだけ頑張ったって、敵う相手じゃない。
何度目になるかわからない諦めを胸に沈み込ませ、頼みたい事とやらに耳を傾けるのだった。




と、心に決めて大人しくしていられたのは、ほんの僅かな間だけ。
聞けば、文化祭当日を間近に控えた今日、お茶の立て方や接客などを本番に見立てて練習するとの事で、作法は当然、衣装にも手抜かりは許されないらしい。
どこぞのテニス部を彷彿とさせる強硬姿勢である。
やっぱりこの企画を立ち上げた人は目のつけ所がすごいのでは、尊敬と感心に脳内が支配されかけ、紡がれた一言によって打ち消される。

「髪型もきちんとしなくちゃいけないらしくてさ。俺じゃ無理だから、にやって貰おうと思って」
「え!?」

思いも寄らぬ白羽の矢だ。
この流れで自分に振られるなんて誰が予測出来るだろうか。見通せるのは、参謀と名高い柳くんくらいじゃなかろうか。

「ちょ、ちょっと待って、なんで私なの、出来ないよヘアメイクなんて!」
「俺だって出来ない」
「着付け教えてくれる人はいたんでしょ? 髪だってやってくれる人、いるんじゃないの」
「いるにはいるけど、少数精鋭だからなあ。女子の髪を手掛けるので手一杯のようだよ」

とは言うものの、精市くんが一声上げたら絶対に誰かが担当についたに違いない。
だって神の子、時に死ぬほど目立って注目されるような時の人。
つまりモテるから。
私なんかよりよっぽど器用で知識ある人に任せた方がいいに決まっているのに、多分、この人は誰にも何も言わず教室を抜けて来たんだろう。地味という単語の正反対に属する彼ではあるが、人目を躱すのがここぞという場面で異常に上手いのだ。
ここに至るまでの情景を想像してしまい、返すべき言葉に困った。
自分には無理だ。
確かに、男の子の精市くんに比べたら可能性はちょっとあるかもしれないけど、部外者の私が見ても気合の入った企画の事を考えると、次元が低すぎる。
辞退するのが正しい。半端に手を貸していい話ではないとも思う。
でも、と唇を引き結ぶ。
精市くんだってやる事はきっちりやる人だから、別に手抜きをしようと私の所に来たわけじゃないだろう。考えて、ただ選んだだけだ。
活気づく校舎や準備に騒ぐ人の間を縫い、謎のスキルを駆使し大きな騒ぎを起こさず、ここまで来てくれた。
わざわざ、私を思い浮かべて、俺には出来ないからがやってと言う為だけに。

「本格的に練習するとは言ったけどね。流石に本番じゃないもの、多少は大目に見てくれるんじゃないかな」

だから君に頼んでもいいかと乞われ、跳ね除ける理由も意気地もほとんど残っていなかった。

「大丈夫。、大道具と小道具を掛け持ちしたんだろう? 俺の髪なんてそれよりずっと簡単だよ」
「あのね…ジャンルが全然違うし。あと基本は大道具で、人手が足りない時に小道具ちょっと手伝っただけ」
「お願いされるって事は君が器用な証拠だ。衣装の仮縫いも手伝ったって言ってただろ」

よく覚えてるなと驚く。
うちのクラスの出し物は演劇で、オペラ座の怪人をやる事になっていた。
くじで大道具を引き当てた私だったが、演者じゃないからといって話を理解しないで参加していいものでもないだろう。
大筋をうすぼんやり覚えているくらいで詳しくは知らない、何の気なしに零し、参考になりそうな映画や小説を教えてくれたのは精市くんだった。
的確な助言のお陰でおぼろげだったストーリーを頭に刻んだ私は、普通怪人とくっつくものじゃないのこれ、クリスティーヌの選択と物悲しい物語に唸り声を上げたのである。
情緒も何もない感想に、そうだね、まあ俺が怪人だったら諦めないけど、と五月の風の如く笑った彼の爽やかさは記憶にも新しい。
宣言通り諦めなさそうだし、精市くんなら怪人よりもっと上手に立ち回る気もして、ハッピーエンドのオペラ座の怪人ってそれはもう別の話なのでは……、と思いはしたがいまいち突っ込めなかった。

「それに俺、前からは手先が器用だと思っていたんだけどな」
「え、そうなの?」
「ああ。昔、家庭科の授業で編み物をしていた事があっただろう」
「あー…あった…ような、気もする……」
「すいすい指を動かしててさ。あの時、すごいなって見てたんだ」
「そ、そうなんだ」
「フフ、うん。必殺仕事人みたいだった」
「……褒め言葉になってないんですけど」

中学の頃の話を持ち出され、まあ最後の一言は若干ずれているにしても、褒められてしまってはお手上げだ。精市くんにその気はなかったのかもしれないけど、嫌だなんて嘘でも言えそうにない。
多方面から攻められ、断る理由も逃げ道も消えた。
観念した私が失敗しても文句なしだよと告げれば、破顔一笑。苦労かける、精市くんはわざと厳めしく言ってみせる。
和服にその言葉遣いだと、いよいよ本物みたいだ。
何の本物かって、言ってる自分でもよくわからないけど。
妙な感慨に耽る私をよそに、精市くんは引っ張り出したイスに腰掛け、会った時からぶら下げていた小さなトートバッグをテーブルへ乗せた。
中から櫛や目立たぬ色のヘアピン、幾つかの整髪料が取り出される。フル装備とまではいかないが、まあまあの揃いっぷりである。
やっぱり精市くん、これ持たされて誰か手のあいてるヘアメイク係の子の所に行けって言われたんじゃないのか。
再度疑念が沸いたが、腹を括った後だったので尋ねるのをあえて止めておいた。
練習が始まる時間までに仕上げなくてはならないし、私だって後片付けという仕事が残っている。着物に似合う男の子の髪型なんてさっぱりわからないから、脳みその機能は未経験のヘアメイクへ回すのが第一なのだ。
そうして人の髪に触れるのだからと手を洗いに一度食堂を離れ、しっかりと洗浄を終えた私を出迎えた精市くんは、着物だというのに平気で足を組んでいた。
羽織をイスの背に掛け、腕も組んで窓の外を眺めている様は、さながらテニスコートに設置されたベンチでの光景だ。
この上なく男子である。
女の子だったら絶対に足なんか組まないし、というか裾から膝上あたりまで肌蹴て足袋と素足の部分がもろに見えてしまっているし、精市くんにこの着物を選んだ人は泣いているのではないだろうか。
かといって私が注意しても話が変な方向に転がりそうで躊躇われた。
ごめんなさい着物見立てた誰か、と心の中で謝罪してみる。

「なんか指定とかあった? こういう感じの髪型にしろ、とか……」

戻った私に気付いた人の、笑顔と一緒のおかえりを受け取りながら背中側へと回った。

「いや。特になかったな」
「人と被ってもいいの?」
「本当に、は時々真面目だ。あくまでも練習なんだから適当で構わないよ」

規定に沿うよりなんとなく適当で、の方がよっぽど難しいのだが、その辺わかっているのだろうかこの人は。
てきとう、テキトー、適当か、と内心苦悩しながら手にとった櫛で眼下の髪を梳く。
私よりずっと背の高い精市くんをこの位置から見下ろす事は珍しかったが、浸る余裕がない。独りでに寄った眉間の皺の方が顕著に感じられた。
引っ張り過ぎて痛くなったりしないよう細心の注意を払いながら、片方の手でうなじ辺りから髪の毛をまとめてみる。
最早薄れる所か霧か霞状態である記憶からテレビで時たま目にする男性芸能人の和服姿を必死で掘り起し、精市くんに似合うのはどれだろう、真剣かつ慎重に選考した。
オールバック風にしてちょっとだけ前髪出すか、それとも前髪を軽く横に流すのがいいのか、耳にかけてすっきり見せるのもありか、こんなにも人の髪型について頭を悩ませた事など一度もないというくらいうんうん唸る。迷いに迷った思考が手先にも伝わったのだろう、髪をとかしてはひとまとめにし、また少し持ち上げてみては下ろす、指を額の側にまで伸ばしゆっくり梳いて、と繰り返していたら上質な生地に包まれた肩が不意に揺れた。

「くすぐったい」

笑む声が柔い。
ガラス越しに降る光の乗った髪と肩がやや身じろぎし、振り向くのではなく、どちらかというと振り仰ぐ姿勢となった人の目が差し向けられ、そのあまりにも無邪気な仕草に思わず狼狽えてしまう。
精市くんは顎を九十度に逸らしたままで続ける。

「そういえば俺、君からこんな風に触って貰った事ないよね」
「……じっとしてくれないと出来ないんだけど」
「握ってないのに指の形がよくわかって面白いや」
「………私の話聞いてる?」
「いいな、これ。なんか気持ち良いし癖になりそうだ」
「わかったもう知らないちょんまげにするからね!!」

耐え切れず叫んだ後で降参とばかりに姿勢を戻されても色々収まらない。
精市くんは楽しげに声を立てて笑っているし、一人で恥ずかしくなった自分がバカみたいだ。

「次に変な事言ったら私やめる」
「酷いな、変な事なんて言ってないのに」
「じゃあお喋り禁止」
「厳し過ぎやしないか」
「そんな事ない。テニス部よりずっと優しいし」
「フフ…うちと比べたら、どの部も誰でも優しい部類に入るんじゃない?」

説得力のあり過ぎる回答だ。
反論が思いつかなかったので、私の処断を厳しいと言いながらテニス部が最も過酷であるという、微妙な矛盾を突く事も出来なかった。
だけど更なる追撃に備えたこちら対し精市くんはそれから黙って身を、もとい、髪を私に預けたのであった。
校内のざわつく雰囲気が空気中を通り、私達以外誰もいない食堂にまで伝染する。人の気配や話し声は微かにしても、明確に鼓膜を打ちはしない。
頬に集中した熱が指や爪に移動してしまわないか気になって仕方がなかった。
精市くんが変に意識させるような事を言うから、手の血管が溢れて膨れて真っ赤になりそうで怖い。もうなってる気さえするし、櫛を持つ指が僅かに震えた。
思った事をそのまま告げられても困るけど、黙っていられるのだって同じかそれ以上に困る。
うう、と気を抜いたら最後漏れかねない声をなんとかして飲み込む。
降参したいのはこっちの方だ。
一体何の修行だと気が遠くなる。真田くんとかが急に来て、たるんどる、といつもの活を入れてくれないだろうか、などと現実逃避にも程がある思考に縋った。
手の内を滑る感触は、男の子のものなのに柔らかい。
梳く為に指先を差し込めば、皮膚伝いに熱が行き交う。
秋めいた陽射しを受けた髪は艶を持ち、いっそ無防備なまでに私の意の通り流れを変えた。
なるつもりもないけど、自分は美容師にはなれないと心の中で断言する。
こうして触れるのは精市くんのだけでいいと思う。思い知らされてしまって、覆すだけの力もない。いくら塗り潰そうとしても嘘のつけない心臓が暴れて、一番素直な感情を体中に染み渡らせていく。
呼吸さえ熱く重かった。
ざわめきの渦を遠くに感じる広々とした室内に、ごく静かな物音が零れて落ちる。




通常の二倍精神力を使ってやり遂げたのは、クラスの作業場所へ戻る予定時間の少し前だった。
体感時間としては恐ろしい程長かったのに、実際は十数分の事だったらしい。
柱にかかった時計を見て愕然とする。
ありとあらゆる気持ちを振り払い、懸命に思い悩んだ結果、前髪をいつもと違う分け方にして軽く流し、余った部分を耳にかけてみたのだが、我ながら良く出来たと正面に回ってから頷いた。残念なのは、必死になるあまりこの髪型に至るまでの過程を丸ごと落とした、私の間抜けっぷりである。
それはもう見事、綺麗さっぱり覚えていない。
頭が真っ白とはこの事だ、とお手本にしてもいいくらい。そんなお手本必要ないだろうけど。
ともあれ大仕事を終えた安堵に深い息を吐くと、大人しく座っていた人がすっと立ち上がる。羽織を肩に掛け直し、ありがとう、鮮やか極まりない微笑みを添えて私をまっすぐに見た。
自分でやっておいて何だが、その髪型と着物姿で近くに来ないで欲しい。
ついつい踵を数ミリ退かせた事を悟っているのかいないのか、精市くんは一層笑みを深めつつ、荷物をまとめた傍から颯爽と歩き出す。ぎょっとしたのは私だけだった。

「えっ、精市くん、鏡で確認…」

しなくていいの、と続けるはずだった言葉が遮られる。

「いいよ。必要ない」

あまりの迷いのなさに私の方がたじろいだ。

「ええー……あの、私頑張ってやったつもりだけど、でも…それで大丈夫? ていうか気にならないの?」
「ならない。器用だと思っていたって言っただろう? 俺は君以上に君の事を信じているからね。が頑張ってやったって言うなら、何の問題もないじゃないか」

全く予想だにせぬ方向から何度も胸の奥を突かれ、息がぐっと詰まって行き場を失う。
なんでこんな、他人から見たら取るに足らない小さな出来事も、精市くんは特別にしてしまえるんだろう。
まだ子供に分類される年頃とはいえ、正面切って褒められ信頼される事なんて高校生になればそうそうない。嬉しいけど、死ぬほど恥ずかしい。
持ち堪えられず俯く私の耳を聞き慣れぬ下駄の音がなぞる。
今さっき二歩分進んだ距離を戻った精市くんが、何かを確かめるような温度で囁いた。

「……当日も、にお願いしようかな」

ゆっくり、静かに指の一つ一つを撫でられ、肌で知る。
整髪料でべたついているからと制止したくとも、優しい触れ方なのに有無を言わさぬ底力があって跳ね除けられず、されるがまま求められるがまま託す他なかった。
手の甲がぶ厚い掌に包まれ、かたい指は関節を滑り、やがて爪の先へと辿り着く。
やんわり握り込まれれば、心臓を喉元ごと掴まれた気分に陥った。
そんな風に丁寧に確認する事じゃない。
強く思っても舌は回らず、声が出なかった。顔が火を吹きそうなくらい熱い。益々下向く目は上品な色合いの帯を映していた。
いっそ乱暴に振り払って逃げ出すくらいの度胸と思いきりの良さがあれば良かったのに。
ないものねだりをした所で意味はなく、ただどうあっても精市くんのお願いを断れない事だけが確かだったので、私は文化祭までにヘアカタログを熟読しておこうと決意した。