100回話しても足りない。




絶対からかわれるからね。



「おはよう」

昇降口で上履きに履き替えていたら品の良い声が聞こえ、踵を直す途中にも関わらず振り向いてしまった。
ラケットバッグを背負った柳くんが、朝の光を背に立っている。仏様のようだ。拝むとなんだかいい事がありそう。
とん、つま先を床にぶつけて下駄箱を閉める。
おはよう。
返せば、並の人とはコンパスの違う足が段差を踏み越え廊下に上がっていき、何気なく、といった調子で名前を呼ばれた。


「ん?」
「お前はいつもこの時間だな。バスを一本でも逃せば遅刻するぞ」
「そうだよねぇ」

のんびりとした返答にも眉間の皺は現れず、薄い唇がゆるんだ。

「暢気なものだ」
「柳くんもだいたい私とおんなじ時間だね。テニス部の朝練ってギリギリまでやるの?」
「いや、団体練習はもっと早くに終わる。俺の場合は居残りだ」
「柳くんに居残りって、すっごく似合わない響き」
「そうか」

SHR開始の鐘が鳴るまであと5分あるかどうかの瀬戸際、会話を重ねていく私たちは傍から見れば能天気極まりないだろう。
しかし柳くんとこうして話す朝は不思議と遅れた事がなく、すっかり私は安心しきっているのだった。

「でもいいお天気でよかったね。雨なんか降ったら、コート練習できないもんね」
「今週いっぱいは問題ないぞ」

やけに断言しているけれど、天気予報だけが根拠ではなさそうだ。
何しろ全国大会で二連覇している運動部の参謀と称される人物、独自のアンテナでも持っていたっておかしくはない。単なるイメージの問題だが。

「晴れないとうんざりするんだって」
「誰がだ?」
「お母さん。洗濯物が乾かなくて梅雨なんかずっと天気予報に文句言ってる」

なるほど。
低い呟きは素に近く、なおかつ深い納得も含んでいた。

「それで、か。が天気の話題をよく出してくるのは」

微妙に違うよ。
否定するには時間が足りず、口を開く前に教室のドアに辿り着いてしまい、私と柳くんのなんてことない会話もそこで幕を閉じる。
そろそろ担任教諭が点呼を取りに来るからか、室内はざわついていながらも着席している生徒が目立つ。
窓側の席に固まって話している友達に挨拶をし自分の席に鞄を置くと、少し離れた所で椅子を引くぴんと伸びた長い背中が見えた。彼はとにかく背が高い。
苗字は柳。
名前は蓮二。
6月4日生まれのA型、テニスが強くて成績優秀で生徒会書記を務めている。正面から話すには、だいぶ首を上向きにしなければならない高身長。やたらと物知り。
それが私の知り得るすべてだ。
クラスが同じになったのも二年生からで、一年の頃どうしていたかなんてほとんどわからない。
データの収集に余念がなく、内面を悟らせぬ静謐な佇まい、悪い奴ではないけどなんとなく近寄り難い、と周りに評される事もしばしばなのだが、明け透けな問い掛けにもとるに足らない疑問にも、嫌な顔ひとつせず答えてくれる柳くんは結構いい人だと私は考えていた。
しかめっ面をしている場面の想像もつかない、後光の差す仏様。
けれど廊下や昇降口、どこだろうとも会えば必ず言葉を交える私だって、最初から聞きたがりだったわけではない。

二年に進級して半年は経った夏の終わりか秋のはじめ、何かの縁で席が隣同士になった柳くんと一緒に社会科準備室で、大きな物差しやら地球儀やら黒板に貼る地図やらを探して教室へ持っていく役目を負わされたのだ。
地理の先生は私学の立海にあるまじきものぐさであり、机の上を書類や資料でいっぱいにしているような人物なので、その辺を歩いている生徒をとっ捕まえて用事を申し付けるなんていうのは日常茶飯事だった。
確か、この時も同じ流れで頼まれたと記憶している。
柳と、あー…隣の。ちょっといいか。
ぼやっとした一言で休み時間を潰されて泣きたかった。
理不尽である。
いくらマンモス校とはいえクラスメイトの顔と名前くらいは覚えていた私は、事務連絡程度の会話しか覚えのない柳くんと二人で作業しなければならない現実に尻込みしていた。
気になるけど、なんか怖い。
話してみたいけど、なんとなく声がかけにくい。
他の皆が抱くのとほぼ変わらない、遠巻きなイメージ。沈黙が気詰まりだった。

「おそらく地図は丸めた状態でどこかの棚の上にあるだろう」

先生に鍵を手渡されて埃という埃を集めたかという準備室に入るや否や、すっきり通る声で告げられる。
急な事で驚くあまり相槌を打つのも忘れる私を置いて、扉を閉めた柳くんはさっさと奥にと進んでいった。
隅にあった物差しを手に、その上背を利用して棚を見遣る人の後ろで、私いる意味あんまりないな、とぼんやりする。
手際の良さは同い年の男子と思えぬほどだ。
手が届かない位置にある地図を見つけたところで助力を請わなければならない、ならばまだ発見されていない地球儀の方を探してみるか、くるりと背を反し柳くんがいる方向とは逆の棚や机へ向かう。
物置と呼んでも相違ない有様に眉が寄り、がたごとと重なるものを避ける度に襲いくる埃が喉と鼻を刺激する。一刻も早く終わらせたい。
一体どんな授業に使われるのか、私の背くらいあろうかという芯に巻かれた暗幕をどけた影に、博物館でないとお目にかかれない立派な地球儀が鎮座していた。
よし、勝った。
根拠なき満足感に浸り、

「柳くん、地球儀こっちあったよ」

勝鬨をあげる。
机をずらし、用途不明な器具を避け、目的の物へ続く道を作っていく。
色褪せてさえ見える球体を掴もうとした時、想像以上の近さで聞こえた声に肩がびくついた。



ひいっと口走らなかっただけ自分は偉い。
すぐ後ろ、頭二つ分は高い位置から音は降ってきていた。
体躯に準じて長い柳くんの腕が、腰の側面あたりを通り過ぎてにゅっと生え、広い掌が地球儀の足を一掴みに持ち上げた。

「いい、手が汚れるぞ。俺が持とう」

お前はこちらを頼む。
特注の物差しを眼前に出されては、握り締めるしかない。
それなりに重たいはずの地球儀が頭上を越えて視界から消えていく。と、同時に背中にあったひとのかすかな体温と気配も後を引きつつ失せる。
なんだかもう、たったそれだけなのにダメだった。
私の弱っちい部分が、ダメになってしまった。


欲求を放っておけない質だから、数分にも満たない瞬間を味わって以降、積極的に声をかけて所以を知ろうとした。
柳くんは怒らない。
呆れもしないし、厭う素振りも見せない。
いつも涼しい顔で淡々と応えてくれる。
これで内心鬱陶しいと思っているのなら、相当の演技上手だろう。将来の職業に俳優をお薦めしてもいいくらい。

おはよう、柳くん。ああ、おはよう。雨だとバスが遅れるからいやだよね。そういう時は一本早いバスに乗るよう心掛けろ。今日は晴れたね。そうだな。テニスって楽しいの。つまらなければとっくにやめているが。小テストってやる意味がわかんない、期末と中間だけで充分だよ。ほう、現実逃避をしている暇があるのか。うちの日替わり定食おいしいけど、ご飯の量多いと思う。学生向けの食事としてはごく一般的な量だろう。掃除してるとあれもこれもってなっちゃってその日の内に終わらないんだ。お前は妙な所で凝り性だな。暑いね。夏だからな。やきいもが食べたい。お前、先週は焼き栗が食べたいと言っていなかったか。今日寒い。寒くなければ冬とは言えないぞ。今年の桜はいつ咲くのかな。ちょうど週明けあたりが見ごろだろう。

どうしたって相手が気になる事を恋の始まりだと言うのなら、とうに踏み込んでいる。
それどころか、先行きがまるで見えない中深みにはまっていくばかりだ。
戻る道だって失くした。
知りたいと願う気持ちを上手く消化する為には、あと100回話したって追いつかないだろう。
なんでもいいから話がしたかった。
そうはいっても、接点がないと第一声に困った。
天気の話を頻繁に持ち出すのは、柳くんと口をきく方法を模索していた頃の名残だ。
彼が会得しているデータをより正しいものとして確立するのであれば、正直に告げるべきなのだが出来るはずもない。
おはようとさよならを数えきれぬほど繰り返す間に、ただ一人の男の子がどんどん気になっていく。


「蟻か」

明くる週、生物の実習時間。身近な生き物を観察してみよう、なんて小学生が夏休みの自由研究に行うような課題を出され、ノートを片手に中庭の端で座り込んでいたら静かな声が落ちてきた。
確かめなくてもわかる。柳くんだった。

「うん」
「巣の全貌が見えなければ、あえて選ぶ意義がないと思うがな」
「あ、テレビで見たことある。水槽みたいなのに土を入れて蟻の巣が観察できるようにするやつだよね」

隣に腰を下ろされると、髪も声も制服も肌も、全部が近くなる。
私と彼の少し前を、小さく点々とした黒い行列が行き交う。発着も終着も同様に小粒サイズの穴だ。
まずは巣のあたりを観察してから、働き者の虫たちがどこまで食料調達に向かっているのか調べようと考えていた所だった。
片膝をつき座っていても姿勢の良い柳くんが無言のままに頷く。

「蟻の列を追うには些か時間が足りないだろう。授業中に済ませる事が可能な観察にしておけ」
「もう思いついちゃったし。終わんなかったら後で見て次の時までにノート提出できるようにする」

ふと呼吸が漏れた。
そうか。
いつもの相槌に笑みが紛れたような雰囲気を感じて片目を這わせたが、変わらぬ表情が在るだけだ。
柳くんの顔色は掴みにくい。
私がどれだけ馬鹿っぽい言動をしようとも、眉ひとつ動かさないのだから対策のしようもないのである。
自分なりに手を変え品を変え挑めどその名の通り、柳に風、受け流されているとしか思えずわりと途方に暮れる。

「柳くんは」
「何を観察するの、とお前は言う」
「……手間省けちゃった」
「ふむ。省けた方が楽だろうか」
「うーん、べつに。どっちでも。伝わればいいや」
「そうか」

口癖というわけでないのだろうけれど、私といる時の彼は結構な確率で同じ返答を寄越してくる。
他に相応しい言葉が見当たらぬほどつまらない会話をしているつもりはない。ないが、不安は不安だ。
それにどことなく、何かを確かめているような節が感じられる。
思い切って聞いてみようか、一旦閉じた唇を震わせかけ、

「ではな、。今日中に終わらない確率78%だが、来週の生物の授業までには間に合う確率96%だぞ。健闘を祈る」

有り難いんだが有り難くないんだかいまいち判断のつかない励ましに出鼻を挫かれた。
私の返事を聞く前に悟っている様子の彼は、音もなく立ち上がり去り際に手をあげてさっさと行ってしまう。
結局、何を観察するのか教えて貰えなかった。
予言めいた言葉の通り、時間内に課題をクリアする事が出来なかった私が放課後にでもまた見に行こうかな、などと暢気に予定を立てていたお昼休み、机を合わせた先でお弁当の包みを開く友達が好奇心を隠さずに言い落とした。

、最近柳と仲よくない?」

まあ、そうくるよなぁ。
相変わらずのんびり考える。

「普通じゃない」
「えー、だってよく話してるじゃん! 朝とか、さっきの授業でもそうだよ!」

どうやら目撃されていたらしい。さてこれは少々困った流れだ。
面倒くさい、なんて友達甲斐のない台詞を吐くつもりはないが、変に断定されて妙な噂がたって柳くんとお話できなくなる展開は是非とも遠慮したい。

「柳くんってわかんないこと聞くとぱぱっと答えてくれるし、つい聞きにいっちゃうんだよね」
「え、マジ?」

無難な返しを選んだら友達が目をまん丸にするので、よっぽどこっちが驚いた。

「ん? マジ」
「たしかに頭良さそうだけど、あえて柳とかチャレンジャーにしか思えないんだけど」
「うーん、第一印象近寄り難いもんねぇ」
はもう近寄り難いって感じじゃないんだ?」
「うん」
「超意外。あんた冒険しなさそうなのに」
「べつに冒険してないよ」
「冒険だよ! 柳だよ? あの何話してたって表情変わらん柳さんですよ?」

酷い言い草だ。でも絶対的に間違ってはいない、ついつい笑ってしまう。

「何考えてんだか読めなくて怖くない? ムカつかれてたりしてもわかんないしさ」
「それは……あるかも」
「ほらー」
「でも柳くんって仏様みたいだから大丈夫かなって」
「仏の顔も三度までって知ってる?」
「ほんとの仏様じゃないからきっと大丈夫」

無計画、ていうか考えなし。
友達のツッコミは正しいように思われたので、矢継ぎ早に飛びかかってくる質問の数々を打ち落とさずなるべく丁寧に答えた。
どんな事を話しているのか、気にするようになった切っ掛け、私の知っている柳くんの情報。
聞きたい事項の全てを終えたらしい彼女は真面目くさった顔で評価を下す。

「ありえない」

なにが。

「それただの世間話だから! 二年の時からどんだけ時間経ってると思ってんの。もっとつっこんだ話しないとダメだよ」

砥ぎに砥いだナイフでばっさり切られた、すぐに反応が出来ない。
軽く2秒は間を置いて、私は疑問をぶつけるのだった。

「……世間話じゃダメなの?」

でっかい溜め息が響く。

「あのね、テニス部にはもっとすっごいのがいるから、そっちと比べると目立たないかもだけど。柳だってモテてんだよ? バレンタインのチョコいくつ貰ったのか知ってる? てかチョコあげたりした?」

駄目出しが始まった。
ちなみにチョコは色々考えた結果渡さない事にしたのだが、正直に告白したら雷が落ちそうな気がしたのでスルーを決め込んだ。

「いえ、あの、モテてないって思ったりはしてない」
「じゃあなんでもっと攻めないの! 天気の話で満足してるようじゃ、いつまでたっても単なるクラスメイトのまんまだよ」

語尾に、バカ、がつかんばかりの勢いで捲くし立てられ、反論の機会を失う。
柳くんについて話すのは初めてで、第三者の意見を耳にするのも同じく初体験だった。
一生懸命に考えて、意味はなくてもとにかく話がしたくて、突っ走ってきた時間をたった一言で片付けられてしまったのはちょっとした衝撃として胸を痛めつける。
世間話。
言われてみれば、それ以外の何者でもない。
私は柳くんの趣味も知らなければ、好きな本やどんな映画を観るのかも知らないのだ。部活動のない休日の過ごし方だって、聞いた事がなかった。
明らかに能天気に構えるのを見かねて助言をくれた友達には感謝すべきなのだろうが、素直に受け入れられない頑なな部分があるのもまた真実だった。

なんでだろう、と理由を必死で探していたら、翌日の土曜日もその次の日曜日も無為に過ごしてしまう。
月曜日、柳くんはテニス部の遠征で公欠だった。会った所で何を話せばいいのかわからなくなっていたから、これはこれで良かったのかもしれない。
火曜日は雨が降った。試しに一本早いバスに乗ってみると予想以上にスムーズに進み、いつもの時間には登校しなかった。
嘘のように晴れ渡った水曜日、バスの時刻を元に戻したら何故か遅刻した。模範的優等生の彼が席に着いているのを直視出来ず、目を逸らしながら先生のお説教を黙って聞いた。
木曜日の今日は、朝のリズムを完全に崩したおかげでまだテニス部の朝練がやっているような時間に教室へ辿り着いてしまい、人影もまばらな空間をかなり持て余した。
体育や移動教室の時、少しでももたついたり迂回してみたりルートを外してみたりして、お昼休みは購買や学食は利用せずお弁当にすると、彼との接点は恐ろしいほどあっけなく絶たれる。
簡単過ぎていっそ清々しい、クラスが同じじゃなかったらどうやって柳くんを見つけただろう、なんて柄にもなく無力さに苛まれた。
同時に、今まで私って結構頑張ってたんじゃん、などと自画自賛もする。わずかながらも努力をしなければ会話すらままならないとは、じっくり向き合ってみると恐ろしい現実である。
柳くんとの接触を避けたかったんじゃない。
ただ試してみたかったのだ。
彼を探すのを止めて、友達曰く世間話を打ち切り、遠くから顔を眺めるだけの日々がどんな感じなのか、知っておきたかった。
情けない事に指摘を受けて初めて、訪れる可能性の高い未来だと気づいたから。
結果として、あの時ほどじゃないけれど、ダメになっただけだった。
他愛ない、なんていう事のない、ひょっとするとどうでもいいと思われかねない、小さな世間を言葉で行き交う時間が、私にとって重い意味を持つものだと眼前に突きつけられただけだった。
そしてやはり、世間話がいけないとは思えない。


自分ではわりとへこたれないタイプだと思っていたが、流石に色々試行錯誤した所為で疲労が蓄積されていたのだろう。
胸の内は荒れ放題という所まで進んでいないものの、ささくれて棘を含んでいる。
頭の中が濁って倦怠感を伴う。
花壇周辺を含めた校庭の掃除当番をなんとか終え、じゃんけんで負けた私は班全員の分のほうきとちりとりを抱えて、コンクリートの壁で出来た用具置き場へ向かっていた。
明日に控えた生物の授業が連鎖して、柳くんを思い出す。
そういえば最後の会話が虫中心。
それってどうなんだ。
友達が愛ある非難をしたくなっても仕方ないかもしれない、と悲しいくらい色気の足りない関係性を自覚しつつ目的地に到着し、スコップや手押し車が所狭しと並んでいる最中を突っ切って落とさないよう握り締めていた用具の数々を立てかけていく。
埃というより砂や土のにおいが強い。
それでも社会科準備室を連想してしまうあたり、重症だ。



今回もひいっと口走りはしなかったのは重ね重ね偉い。
しかし代わりに、残り一本になっていたほうきを取り落とした。
間近に迫っているにも関わらず、何故この人は足音も気配も気取らせないのだろうか。

「すまない、驚かせてしまったな」

ざり、と砂利がコンクリートと靴底の間で擦れる音が響き、背の高い影が無惨に横たわる掃除用具を拾ってくれる。わざわざ振り返らなくても声でわかった。
制服姿が記憶のほとんどを占めているものだから、目立つ色のユニフォームは新鮮だ。

「あ、ありがとう。ごめん」
「掃除当番か?」

見たままの事をあえて尋ねてくる柳くんは珍しいが、突っ込む余裕のなかった私は黙って頷く。

「柳くん…は、部活じゃないの?」
「今は休憩中だ」
「そっか。こんなとこまで来て、なんかあった?」
「少々、私用があってな」

耳に入りやすい声音を味わっていたら、無性に懐かしい気持ちがする。
ゴールデンウィークや夏休みを挟めば顔さえ合わせなかった事など多々あったのに、久しぶりだね、と言いたい気持ちが胸の中で膨張していった。
だが、まさか本当に伝えるわけにもいかない、口にした所で柳くんにとっては久しぶりでも何でもないだろうし、下手に感づかれて聞かれたくない部分に言及されては困ってしまう。
ぐっと息を飲んで堪える事にしたのだが、それにより妙な沈黙が落ちる。
プラスチックの波打つ板で出来た屋根を通して差す日は、二歩三歩進んだ先にある外に比べて些か暗い。

「……どうした?」

常に一定のトーンを保つ言葉にやわらかな響きが混ざっていた。
こちらを伺うよう、柳くんが身じろぎする。
消したかった声をすっかり飲み下した私は、なんとか冷静になるべく沸き立つ体の芯を落ち着かせた。
いくら繕っても、データとほとんど狂わぬ計算式を持っている人の前では無意味なのかもしれない。
嘘をついて見抜かれでもしたら弁解のしようもないし、それで嫌われでもしたら元も子もないと思う。
だったら言ってみようか。
どうせバレてしまうのならば、正直に白状した方がまだましだ。
彼ほどではないにしろ、私にだってどんな応えが返ってくるのか見当はつく。
勝敗の見えた賭けにのるなんて捨て鉢になっている証拠だけれど、上っ面しか冷静になれない自分には相応しい馬鹿馬鹿しさである。
ささくれが痛む。
棘が鋭利な刃物みたいに尖っている。
ヤケクソの自覚は強けれど、埋もれた中には真っ直ぐな想いも潜んでいた。
私は柳くんが好きだ。
声が聞けるのなら世間話だろうがなんだろうが構わないと思える相手は彼しかいない。

「世間話なんだって」

形振り省みず突っ走ってこられたのは、おおよその結末が見えているからだった。
柳くんは正しい。
冴え渡る頭脳からはじき出される確率も、ほぼ外れる事がない。
正しい人の正しい反応、返ってくる可能性が高い言葉は想像に易い。

「お前はつくづく、相手の応答ありきの話し方をする。今はまだ良いが、これから先それでは困る事になるかもしれないぞ」

主語やその他諸々が抜けている、と指摘したいのだろう。この予想も間違っていないはずだ。
だから少しだけ怖くなった。
突っ走って、好きな人を追いかけて、ちょっとした会話で満足して、その先に何があるのだろう。
日常と化したやり取りを失くした時、私はどうやって生活していくのか、まったく見えてこない。

「柳くんと私の会話。友達にね、言われたんだ。それただの世間話じゃんってさ」

だけど、それでも。
後に続けて尚も重ねるのを諦めない自分がいる。

「でも、べつに私、世間話って嫌いじゃないよ」

返答は無言という形で寄越された。続きを待ってくれているのかもわからなかった。
己を奮い立たせる為に、ほうきとちりとりの立てかけられた壁を必死に見つめているので、柳くんの顔色を確かめるすべがない。
余裕もない。
ついでに言うと、勇気だって持ち得ていなかった。

「自分の世間と相手の世間が近くなるには、一番いいもん。難しくないしさ。天気の話なんて、簡単だよね。空見て言えばいいだけ」

どんなに小さくても、わかち合う事は素晴らしいと信じたい。
ご近所さん同士で野菜や作りすぎたおかずのやり取りをするみたく、お布団を干している時にベランダとベランダでいい天気だねと晴天に感謝し合うように、気安いポジションだって幸せなんじゃないだろうか。
色恋からは程遠くたって、たとえば引っ越しでもすれば途切れてしまう縁だって、あの時仲良くしなきゃよかった、世間話なんてしなきゃよかった、とは思わないはずだ。
何度続けても、100回繰り返しても足りないというならば尚のこと、他に進む道がない。

「だから……えっと、大したことない世間話できるくらいには、お隣さんになりたいし。悪いことじゃないよねって」

一旦言葉を切って、息を吐いた。
思った以上に落ち着けている理由など既に悟っている。

「そうか」

淡々と返ってくるに違いない、あらかじめわかった上での言の葉たちだったからだ。
溜め息も出ない。
ほーらね、やっぱりね、思った通りだね、等々虚勢を張る元気も残っていた私はきびすを半端に反し、用具置き場だろうがテニスコートだろうが教室だろうが、きっちり背筋を伸ばして立つ柳くんを見遣った。
影になっているからか今日は後光が差していない、残念ながら仏様には見えなかった。

「柳くん、用事があるんでしょ? 休憩時間終わっちゃう前に片付けてきたら」

いつまでもこんな所にいないで、まではくっつけない。
刺々しく聞こえたら嫌だし、全部ぶちまけていたらもっと惨めになりそうで怖かった。
せめて今くらいは潔く退きたいのだ。どうせ明日からはまた凝りもせず世間話をする為、時間配分や辿る道順に思考を割く日々が戻ってくる。
あれ、これって微妙に失恋したのか。
脈がないのがよくわかる見本です、という発言を頂戴し、理解していたのに少なからず衝撃を受けていたのがなんとも情けない。

「ああ、そうだな、そうしよう」

柳くんが私の勧めを拒否せずに涼しい顔であっさり呟くので、百戦錬磨の貫禄すら感じてしまった。
うん、そうしなよ。
途中で留まっていた体を捻り、その場を後にしようとした時。

「今週末、縁日があってな。毎年、屋台が多く出るんだが」

なんのことだ、と思わず眉間に皺を寄せる言葉を投げ掛けられて足が止まる。
一拍置いて、ああ、世間話ってやつなの、さっきの話の流れからいって、無理矢理にでも結論づけて出来るだけ自然な形に応答した。

「ふうん、いいなぁ。私クレープ食べたい」

この日初めて柳くんが表情を崩す。静かに微笑んだようだった。

「それは、縁日でなくとも食べられるだろう」
「お店のと屋台のとは違うんだよ。気分とか雰囲気とか。クレープだけじゃなくって縁日らしい食べ物だって食べるし」
「なるほどな。では、一緒に行かないか?」
「へぁいっ?」

前後の繋がりが全く見えぬお誘いに、空気が漏れて腑抜けたタイヤのような声が出てしまう。何がなるほどで何がでは、なのか見当がつかない。
それはどっちなんだ、と柳くんが笑声をこぼすものだから、更に困惑した。
ぱくぱく魚みたいに音もなく口を開閉させる私を視認し、長身の人はゆるりと曖昧に片手をあげて制止する。

「構わない。の返答は先の一言で心得た。しかし断るのならば、今しかないぞ」

きちんとした意味もわからず、ただ断るという単語に敏感に反応して思い切り首を揺り動かした。
そうか。
幾度となく聞いた覚えがあるはずなのに、どうしてか柔らかく鼓膜を打つ。

「さて、俺の用向きは以上だ。よってここからは、そうだな……お前の言うところの世間話、になるか。先程の話は大変興味深かった」

着々と駒の進む将棋盤を目の前にしている心地になり、とっさの返しさえ出てこない。
呼吸が喉で詰まっている。

「お前と俺の世間とやらを、近づけるんだろう?」

黙ったままの私を置き去りにせず、しかしながら手を引いてくれるわけでもない柳くんが今度ははっきり笑っている。
遅れに遅れた羞恥がどっと溢れてやってきた。
言った、確かに言ったが、その相手に繰り返されるとなると恥ずかしい所の話ではない。
ちょっと待って申し開きをさせて下さい、請おうにも舌の根が乾いて空回るばかりだ。

「顔が赤いが」
「い! 今、それ、世間話と関係ない!」
「いや、お前が示した世間話とは関係があるな」

このしれっとした感じは、並大抵の根性じゃ醸し出せない。
今更ながら、立海テニス部の参謀、達人の異名が持つ恐ろしさを思い知った。

「どうせなら、同居人になるのはどうだ」

お隣さんではなく。
放られた声は足元に転がり、膝の健全性を危うくする。表情や立ち姿のわりに、言葉の含む衝撃が大きすぎて震えた。
う、と呻いて後退ろうにも上手く動かない。
柳くんの靴がコンクリートの床を離れ浮き、慄いた私は固まる声帯に鞭打ってどうにかこうにか声をあげる。

「あ、ま、や、柳くん、あのなん、なんで?」

影が差す。
砂を踏み締めるざわめき。
体裁さえ取り繕えない醜態だが、彼は決して怒らない。
音のない歩みが常たる人らしくなく、気配が濃くなった。

、俺が」

また一歩、距離が近くなる。

「……お前に話しかけられる度に何を思うか、考慮した事はなかったのか」

地には落ちていかない囁きのおかげで、私は死んでしまいそうになった。



ちなみに、100回話しても届かなかったところは、屋台のクレープの味と柳くんの掌の感触だけで事足りてしまい、それまでの身の振り方すべてを洗いざらい引っくり返して確かめたい衝動に駆られたのだが、柳くんが笑っている時には言わないでおこうと思う。