不帰ズ21グラム 始めから結末の知れた物語を眺めている。 「柳くん柳くん! うまくいったよ!」 「そうか。それは何より、重畳」 放課後の誰もいない教室に転がり込んで来たクラスメイトへ返せば、喜色満面であった瞳がきょとんとして幾度か瞬いた。 寄越された言葉の意味がわからないのだろう、予測しておきながらあえて平易な物言いをしなかった己の心こそが読めない。否、解読をし過ぎたあまり余計なものが付加されるのだ。 悟られぬよう隠しふと息をつく。 「俺も助言した甲斐があるというものだ。……良かったな」 途端、喜びを灯した両の目が生き生きと輝いた。 「うん、ありがとう! 柳くんのおかげ」 彼女の中では裏付けの類い一切が存在していないであろう信頼が肌に刺さる。 「大した事はしていないが」 「そんな事ないよ、してるしてる、いつも助けてもらってるー」 生徒らの好きに束ねられたり垂れ下がっていたカーテンは、教諭か日直の手によって定位置にて収まっており、傾き出した陽射しが直接室内へと注ぎ込んでいた。 閉め切られたガラス窓を叩く風の音は響かず、いわばテニス日和と言える晴天の午後だ。 誰かが遠くで廊下を走って駆ける、微かな物音が木霊している。 机横に立て掛けておいたラケットバッグを背負い、部室へ向かおうとする俺の後ろを小さな影がついてくる気配がしたので、どのような返答がやって来るか把握しつつも念の為に忠告した。 「時に、。俺と並び歩いていて良いのか?」 「え? なんで? 柳くんは私と歩いちゃダメなの?」 「……俺の話ではないぞ。お前の話をしている」 「じゃあ問題ないよ。全然平気」 やはりな、と密かに頷く。 ことに関しては100%の確率で正解を導き出してしまうのだ、自らのデータが正確無比である事を喜ぶべきなのか、皮肉なものだと自嘲する場面なのか、もしくはそのどちらもなのか。 埒もない繰り言によって脳内が緩やかに浸食されていった。 溜め息を零す暇などありはしない、浮かれた足取りで隣を行く彼女を見下ろす。 健康的な色味の頬は日の光を浴びて丸っぽく、歩調に合わせ靡く絹糸めいた髪が艶めき、端の上がった唇が幼子のよう俺への報告を無邪気に紡いだ。 心からの感謝を述べるすぐ傍の彼女は、当然だが出会った当初から級友だ。 今現在においても、級友のままだった。 そしておそらく、築いたこの関係が覆る日は永久に訪れない。 同じ部に所属する気まぐれな白髪の男が欠伸の一つや二つしかねない、実に麗らかな空気に包まれながら俺は胸の内へ重く力ある呟きを落とし沈めた。 平気なものか。 見られて困る相手がいるだろう。――お前には。 ※ 初めてまともに顔を合わせ、しかと声を聞いたのは、クラス替えから二週間程経過した春の頃である。 借りていた本を返却しに一旦図書室へ向かい、邪魔だからと教室に置いたままのラケットバッグや通学鞄、先日纏め上げたデータ類が入った荷を取りに戻った俺の視界に奇妙な情景が飛び込んで来た。 級友の他には人っ子一人いない室内で、まるでしがみ付くよう机に突っ伏している。 なだれ落ちた髪が硬い材質で出来た机上へ広がり、垣間見えた表情は苦悶に近く、しかし同時に忘我の境地に浸っている様子で、ひと息に扉を開いた俺は言葉に詰まってしまう。 ほんの数秒、沈黙が走った。 開け放たれた窓から穏やかな風が吹き渡り、部屋中に長閑な空気が伝染する。 喉を震わせる寸前、先日隣席と相成ったばかりの少女が人影に驚き逃げ去る野良猫もかくやという速度で立ち、使い込まれた机を大いに揺らすついでに椅子を引っくり返した。 「あ…っ、ちが、あの…違う!」 けたたましい物音にやや気圧されたが、音の根源たる女子生徒の慌てふためく様のお陰ではたと気付く。 いわゆる真っ青になった状態である彼女――が縋っていた席は、俺の席の隣ではない。数えて二つ前の、記憶が確かであれば新聞部に在籍する男子生徒のものだったはずだ。 弁解めいた事を口走るは、こちらが応じるのを待たずして続ける。 「違うの! 私ストーカーじゃない!」 呆気にとられたとはこういう事を言うのだろう。 再び言葉を失った俺を見、急速に萎む風船の如く肩を落とした少女は実にしおらしくずれた机を直し、無惨に転がったままだった椅子を元の位置まで直す。 そのあまりにもしょぼくれた姿に、ひとまず落ち着け、語り掛けれてみたらば覚悟を決めたとばかりの真剣な表情と共に釈明が始まったのだった。 第一声は、ごめんなさい。 続いて、お願いですから誰にも言わないで下さい。 曰く、本来の席の持ち主に懸想している。 ひもとかれた謎は至極単純でおそらくいつの世も不変であろう、データ化するまでもない有り触れた理由だった。 「ホントごめんなさい…出来心で、あの、自分でもキモイと思うんだけど、とにかくごめんなさい……」 教師から叱責を受けてもここまで反省の意を表さないのでないかという程の悲壮感を纏い、最早半泣きであるが言を連ねる。 「2年の頃からずっと好きだったんだけど、話すキッカケとか全然なくて」 しかも席が近くなった事も一度もなくて、こないだの席替えで初めて同じ列になって、おまけに二席くらいしか違わないし。 「だから…つい、その……なんかいいなぁって羨ましくなっちゃってあんな事を」 完全に万引きを咎められた未成年である。 補導した警察官の立場に仕立て上げられた俺は、可能な限り声から棘を取り除き尋ねた。 「……一つ聞いても良いか」 「はい、何でも話します」 こちらとしてはそのようなつもりは一切ないのだが、殊勝が過ぎる態度によって漂う雰囲気も尋問じみてくる。 「お前の言う、羨ましい、といった感情に鑑みても、普通ならば思う相手の隣席に座るものだろう」 何故本人の席なのか。 純粋な疑問と、には申し訳ないが少々の好奇心で投げ掛けた所、更に首を床へと傾けたクラスメイトが素直に白状した。 「……その……あの人がいつも使ってる机とかイスとかのが羨ましくて、私。こういう言い方変かもしれないけど、学校にいる間はほとんどずっと一緒だから、机もイスも……」 恥辱か恐れか、震えた旋毛が見える。 俯いた耳は上から下まで見事な赤を纏っていた。体の前側で組まれた手指があたかもお縄にかかった咎人のようだ。 予想外の解答を得、またしても返すべき言葉を失った俺はややあって頷く。 成る程、興味深い。 口の端に笑みすら浮かぶ己の性を正そうとは思わないが申し訳なくもあったので、そう怯えるな、お前の行動を誰かに話すつもりなど元よりない、と伝えてやる。 思えば最初から、難解難問を出題してくる訳ではないが心の底まで読めぬ不可思議なクラスメイトに惹かれていたのかもしれなかった。 ※ 意図せずしての秘密を知る唯一の男子となった俺は、以降何かと声を掛けられる回数が増えた。 機密保持を約束してからこちら、どうやら他人を疑わぬ質らしい彼女は露骨に安堵した素振りで無警戒な表情を向けてくる。 人気が少ない故に空気の張り詰める朝、昇降口で出会えば手を振りながら言う。 柳くんおはよう。早いんだね。 やっと自由を得られると教室内が騒ぎ始める昼休み、廊下の窓辺で呼び止められた。 私今日お弁当なんだけど、柳くんは? 食堂に行くんだったら日替わり定食が何だったか教えて。今ね、友達と毎日チェックしてそこから予想しててね、メニュー当てゲームしてるんだ。 夕暮れの迫る頃、例の奇妙な行為に耽っているのかそれとも部活動に励んでいるのか、流石に問うのは躊躇われた為に真実は不明であるが、下校の刻限を過ぎようともどこ吹く風といった様子でテニスコート脇をのんびり歩いている。偶然視線が絡まれば、心から発しているものだと確信が叶う満面の笑みが寄越された。 人懐こいのは決して悪い傾向ではないだろうが、しかし些か浅慮だ。 思いを寄せる相手がいるのならば、他の男と親しげに話すべきではない。 余計な世話だと理解していながら諌めた日、肝心のは平生の笑顔でなく、片隅に濁った心情を滲ませ無理に作ったような笑みを佩く。 「大丈夫、見られてないから。ていうか私の事なんか見てないよ」 耳にした覚えのない寂しげな音色だった。 かと思えば、時として大いにはしゃぐ。 件の新聞部部員は幾度かテニス部へ取材を申し込みに来た事があり、その際に性質が生真面目だと知り得ていた俺は簡単な助言を施し、与えられた情報通りに行動したらしいが、話し掛けやすい時間とか場所狙ってみた、と声やら頬やらを弾ませていた放課後。 緻密な計算式が浮かび上がらせた確率を伝えたのち俺が保証しようと背を押せば、もしダメだったらドンマイってちゃんと言ってね、真剣そのものといった面持ちで一直線だ。走っていく後ろ姿がなんとも勇ましい。 「えーとね、なんか…においが好きだなって一番最初に思ったんだ。あ、別にフェチってわけじゃないよ?」 何の気なしに相手の何処を好ましく思ったのか尋ねた休み時間、これまた予想外の理由が戻り虚を衝かれる。 校内清掃の日にね、同じとこ掃除した時があったんだけど、ちょっとだけ近くなってさ。 こちらの驚き具合に気付かぬ様子のが朗々と語った。 「コピー機って中開けると紙のにおいする時ない? 一枚二枚じゃなくて、たくさん重なってるせいだと思うんだけど。そういうのとその人自身のにおいが混ざって、綺麗な花とか爽やかな高原に対してのいいにおいとは違った……ううん、なんていうか、とにかく好きなにおいだった!」 本能のまま生きるにしても程がある。 真実、匂いを心から気に入ったとて普通は率直に公言しはしない。外見や能力や性格でない部分を挙げる辺り、最早動物のようなものだ。 「…やっぱ変かな。ガッカリポイント? でもほんとに好きなんだよ」 流石に自覚はあるらしいが僅かに肩を落としたので、いやと首を横に振る。 「お前のそれが人として正しい姿なのかもしれないぞ。祖先まで遡れば、相手を選ぶ基準は匂い……いわゆるフェロモンというやつだったろうしな。何なら今でも香りの良し悪しで好悪が決まる事もある」 「それって統計学とかなの?」 「以前、そういった学説に目を通した覚えがあるだけだ」 「へえ! あ、でも確かに電車の中ですっごくやなにおいのおじさんとそんな事ないおじさんどっちもいるよね」 あっけらかんと世のサラリーマンが耳にすれば多かれ少なかれ心に傷を負う発言をした後、 「私、柳くんのにおいも結構好きだよ。てか超イイ線いってる!」 無邪気な子供そのものといった風の笑声を響かせた少女が溌剌と告げて来たが為に、俺は何度目かの‘言葉を失う’稀有な体験をする破目となる。 つい先刻、相手を選ぶ基準と言ったはずだが。 果たして真に意味を理解した上での言動なのか、問う気が何故か起きなかった。 明るくふざけていても、笑み零れる声音で場を弾ませていたとて、夕暮れに引き伸ばされた影を友に寂しげに立ち尽くしていたって、の心が向かう先は常にただ一人だ。 じっと見詰める眼差しのひたむきさを傍で知った俺は、如何なる時も彼女の横顔を目視するに留まった。 胸の内で波打った感情の名は憐憫だ。 事実、哀れだと思った事は間違いない。誰にも告げず、告げられずに長い間想い続け、だが望みを抱き強烈に求める欲の感じられぬ透明な輪郭が寂寥を呼ぶ。 懸命に想い人の一瞬一瞬を網膜に焼き付けるが如く瞬くばかりの瞳は尊くもあった。 そう思い詰める事もないだろう。 気を落とすなとつい口を出してしまう級友の静かな情熱に心が動いたのかもしれない。 そういったあからさまな慰めに対し、は決まって笑顔を寄越した。時にはありがとうと礼を添えて、或いは柳くんは全部お見通しなんだねと褒め称え、片恋に疲れた様子も見せない。 どうにも彼女の中には苦しみと喜びが並び立っており、秘密の共有を始めた日を思い返せば信じられない事に存外上手くやっているようだ。 本人に自覚があるかは甚だ疑問だが、己が感情をコントロールする面では非常に特出している。 俺はいつもその不思議に内心で首を傾げた。 やがて興味がこんこんと、独りでに湧いていく。 一度でも下手を打つとに釣られて笑いが込み上げ、柳くんて楽しい時目尻がやわらかくなるんだ、易々見抜かれてしまう。 季節を二つ跨ぎ、緩やかな関係性に慣れてゆき、薄皮のやんわり剥がれた芯が囁く。 彼女のまなこを通した世界の色彩を知りたい。 細部まで掬い上げ、顕れた彩りを区分けし、一色ごと名付けたい。 人によっては顔を顰めるであろう労力を要する作業だ、しかしながら俺はその嫌気の差す手間を手間と思えなかった。むしろ逆らえぬ引力を有し、物事をどこまでも簡素化しては眼前へと突き付けて来る。 人並に備わった道徳や施して至極当然の親切、それから俺にとっては類い稀なる個性を持つ対象者への尽きぬ探究心、付随するごく単純な好奇心。 数えられる程度しかなかった思考のあぶくがいつの間にか弾け、やにわにざわめき出した情動の奔流に揉まれ飲み込まれていった。 を理解すればするだけ正しき解は近付き、蓄積されたデータが周囲にも分散する。 従ってこの帰結は必然だった。 露わになっていく。 貴重なデータ源である両人の間で共通する感情、行動に隠された真意、確証と化した数字が脳内の真白いノートへ記される。 げに美しき数式。 それら一つ一つから奏でられる妙なる調べが目先を縛り、拍手喝采、祝福以外の選択肢を奪う。 春先の俺ならば難なく告げていたほぼ事実に近い可能性が、どうしても口に出来なかった。 の想いは彼女が考えている程一方通行に非ず、神の悪戯とでも称すべき不一致が重なり続けただけで、互いが互いに交わらぬ視線を向けている。 参謀の名に相応しくない。 完全な不覚だ。 気付いた時には何もかもが遅かった。 心惹かれた彼女の全てが繋がる先は悉く俺ではない。 端から承知していたはずの揺らがぬ真実を認めたくないと抗った時にはもう、手遅れという表現では足りない位遅かった。 ※ 「動きが悪すぎるよ」 日誌を提出し終え、丁度職員室から退出した所だった。 にこやかな表情と全く合致しない言を放り投げるのは、通りすがったらしい精市だ。 次いで、小さく肩を竦めたこちらを見、意趣返しとばかりに似たような仕草で歩を進めて来る。 「さて、神の子に御咎めを受ける不埒を働いた覚えなどないが」 「嫌だな、俺は別に叱ってやろうと声を掛けた訳じゃないよ。ただお前の背中があんまりしょげていたからさ。吐いた溜め息が全部肩に乗っかってるみたいだ」 辛気臭いなぁと歯に衣着せぬ物言いの元部長は、すっかり冬の気配が漂う廊下へと穏やかな空気を呼び込んだ。 「気の所為だろう。俺の方には別段変わった事もない」 そう、不変だ。 初めから動かない天秤なのだ。変わらぬまま在り続け、この先も変わらぬまま居続けるであろう距離が、何よりの証左だった。 顔色や面構えを乱したつもりはない俺に、女子には優しげだと称される容姿を持ちながらその実、とんでもなく底の知れぬ男の視線が真っ向から当てられる。赤也あたりならば無罪にもかかわらずすいませんしたと身を固くする所だろう。 ほどなくして、ふうん、とさり気ないあまり聞き逃しかねない一声が場を解いた。 「柳がそう言うのなら、それで構わないけれどね。後悔だけはするなよ。……取り返しのつかない事を惜しんだって、過ぎてからじゃどうしようもないだろ? 遅きに失するなんて事態に陥らないようにしてくれ、参謀」 諌めたのか発破を掛けたのか俺でさえ判断に迷う言葉を置き土産にし、知る限り最も芯の強い男が静かな微笑みと共にすれ違いざまぱんと肩の辺りを軽く叩いていく。手を乗せたと言うには少々衝撃が大きい。 思わずといった調子で振り返れば、首だけを捻った状態の剛の者はやはり唇に笑みを携えていた。 片目が放つ眼差しの力強さはあらゆる弱さを射抜くようだ。 「精市」 「突っ撥ねるんだったらそれなりの態勢を整えるように。達人の名が泣いてるじゃないか。まったく、たるんでるな」 「……それで、張り手か?」 「いいや。今のお前の肩、見るからに重そうなんだもの。思わず払っちゃんだよ、フフ」 怪しい霊媒師か何かか。 思いはしたが、これ以上余計な事を口走る訳にはいかない。 堂々とした歩みで去る背を黙って見送った。 冷たい風の温度と拮抗する薄い陽射しが音もなく降る。 残念ながらお前の言う取り返しのつかない事とやらは起きてしまった後だ。 心中で呟き、一瞬だけ微かな痛みを見せた精市の胸の内にも思考の手を伸ばす。過ぎてからでは手遅れでしかないのに、死ぬ思いで悔いた日があるのだろう。それでも尚、強烈な強さを見せる様に畏敬の念を抱きそうになってしまう。 こういった喩えを嫌うかもわからないが、彼はいわば主役である。 対する俺はといえば脇役だ。賞賛されたとしても、名脇役止まり。 主人公もいいけどあのポジションの人もいいよね、などと第三者が評するような。 が生きる世界での柳蓮二は主役でなく、ましてや相手役でもない。 物語に花を添える良き相談相手、付かず離れずにて座す味方といった程度。 堂々巡りの考えが脳内の回路を蝕む都度、身の内から消えてゆく何かの質量が心臓に染みる。 不自然に軽くなったのだとらしからぬ浅慮で断じた。 21グラム。 いつぞやのの声が反響して止まない。 「もうダメ、立ち直れない」 自らの机に突っ伏し嘆く首の後ろが細かった。教科書やノートを鞄に詰めていた俺は、おやと目を向ける。 この日のは珍しく落ち込んでいるようで、快活な笑みも鳴りを潜めていた。 「何があった、」 「……ショックだよ…」 「何だ、例の男が余所のクラスの女子と連れ立って歩く場面を目撃でもしたか」 「なんでわかるの!?」 「さあ、どうしてだろうな。データの成せる業、とだけ言っておこう」 「…柳くんみたいなデータがあったら、私ももうちょっといろんな事上手にできるのかな」 あったらあったで困り事も多いぞ。常に得をするとも限らない。 「仲睦まじく寄り添っていたわけではないのだろう。嘆く程の事もあるまい」 とは言わない。 「付き合ってるのかただの友達なのかとか、私じゃその辺の違いがわかんないんだよー…読めないもん心の中なんて。はーもうへこむ。挫けそう。私21グラム軽くなってるよ、今」 本音を押し込めた俺の鼓膜に一見して無関係な単位が飛び込んでくる。 慰めに向いていた意識が和らいで、口の端や頬に微笑を招いた。 彼女の悲嘆を最も如実に表しているであろう21グラムとは、ついさっき終わったばかりの授業の中で脱線しがちな教師が余談だがと語ってみせた一説が所以である。 1900年代初頭、アメリカの医師がとある実験を行った。患者が死ぬ際に量りにかけ、ベッド上に横たわっていた時間に死亡時刻や伴う体重変化の全て、綿密に記録し続けた所、人は生前よりも死を得た後に21グラム軽くなるという結果に至ったのだ。よって肉体の器から解脱した魂の重さは21グラムである、科学の発達した今となってはにわかには信じがたい記事が紙面を飾ったとの事だった。 「魂が抜けるような衝撃映像だったのか」 「私の脳内テレビのワイプ画面でみんな悲鳴あげてたよ…目撃者はあなただ状態だったよ……」 「そのテレビとやらで大袈裟に脚色されていただけだろう」 「そんな事ない!」 「。お前はあいつに恋人がいて欲しいのかいて欲しくないのか、どっちだ?」 「…………いて欲しくないです」 「ならば意固地になるな。悪い方へ思い込んでどうする。どうせ違いがわからないと言うのなら、お前にとって都合の良い事だけ考えておけ」 一拍の間を置いたは無機質な机に預けていた額を持ち上げ、両腕が作った薄暗がりの中にあって光を反射する瞳が俺を射る。 「……うん」 その割に冴えない返答だ、どうしてか場違いに込み上げる笑みを漏らしつつ唇を開いた。 「21グラムは戻って来たか?」 「…来てない。どっかで迷子になってるかもしんない」 「それは由々しき事態だ。こんな所で油を売っていないで、今すぐ探しに行ってやる事だな」 「ひ、他人事みたいに……!」 「ああ、他人事だぞ。他人事が嫌だと言うなら他人事にしなければ良い。そうすれば俺がお前の21グラムを取り返してやる」 通じないと確信した上で放つ言の葉の虚しさ、人心を動かす力なき雄弁が見るも無残に散っていく。 冬の木立から茶こけた葉が落ち道端へと広がって、いつかはまとめて掃き清められ、そうでなくば人の靴裏で踏まれ粉々になるように、しみじみと哀れなものだ。 しかしにはおそらく、道すがらを彩る木っ端を手に取って綺麗だねと囁く感性が備わっている。 それが幸いをもたらすのか不幸を呼ぶのか俺にはもうわからない。 判ずる器官はとうに壊れてあらゆる能力を喪失しているからだった。 「…なんかよくわかんないけど、ありがとう柳くん。柳くんの励ましって時々私には難しいけど、でもなんでだろ、すごく頼りになるよ」 元気出てきた、姿勢をぴんと伸ばす彼女のかんばせに陰りは見受けられず、復帰が早いようで何よりだ、返せばふやけた笑顔が花開く。 が思いを寄せる相手も知らないはずの、柔らかな目元、撓む頬の皮膚、喜びを謳う唇を見るに、失われし21グラムは戻ったらしい。 随分近い場所で彷徨っていたものだ。 否、そこまで得る為に時が要らぬのであれば、最早迷子と呼べるのかも怪しいだろう。 思い至ったが、しかし、と思案を翻す。 そうか、は感情のコントロールが上手いのだったな。 魂の重さの分だけ身を空にし、行方すら掴めていない俺より余程安定している。 「うし、じゃあちょっと行ってくるね! ホントありがとう柳くん!」 言うが早いか机横にぶら下がっていた通学鞄を引っ掴み、振り返りもせず颯爽と教室から駆け出ていく。 何処へだと尋ねるまでもなかった。 何しろのひたむきな想いを、真っ直ぐに走る視線の先を、他の誰でも引き出せぬ頬の薄紅の訳を、最も理解しているのは俺だからだ。 余韻も残さず消えた人の面影をそれでも追っている内に、がで助かった、貧相な防護膜しか存在していない心の奥底が揺らぐ。 彼女が一途であればあるだけ途切れない。 決して余所には向かず、ただ一点をのみ追い続けるから、お陰で俺はあの美しい横顔をずっと見詰めていられる。 かなしみの内側を巡る幸福が遣らずの雨のよう辺り一面を濡らした。 そう引き止めずともとっくの昔に深淵まで辿り着いてしまったのだ、今更何処にも行きはしないと己が胸に誓い宥める。 客観性を保ちながら傍に居る事を選び、時として喜びを得ている俺は、いよいよもって救い難い。 ※ 先日まで腑抜け人形の如く項垂れていた少女は変わらず上機嫌である。 ともすれば鼻歌が聞こえ始めかねない軽い足取りだ。 先程受けた、うまくいったよ、との報告通りに成果が良きものであった事は容易に窺い知れた。 「私の魂、完全復帰したからね!」 ご心配おかけしました、口火を切ったがあの日の会話に倣った言葉選びをするので、こちらとしても意に添うほかない。 「21グラム重くなったか」 「うん!」 「この先、軽くなる事が起きなければ良いな。俺も協力を惜しまないつもりだ」 「えへへ嬉しいーでも女子に重いとか言っちゃダメだよ、柳くんてば」 痛みを抱き骨の軋む音を聞くと同時、この上なくあたたかな微笑みが開いた傷を舐めていく。塞がる所か染みる所為で一層辛かったが、やはり至福も付随した。 「それはすまない。祝辞のつもりだったんだが」 「そこは素直におめでとうって言ってくれればいいのにー」 傍らで味わう彼女の喜び、迷いや悲哀、何もかもが捨て切れない。 「考えておこう」 ゆったりとした声を奏でておきながら、おそらく無理だと本心を語らずして語った。 矛盾に矛盾を重ね、とうとう行き先も帰る道も掻き消えた僻地へ達してしまっている。 回り巡る、表裏一体のそれが体から魂を追い出したのだ、辛苦と歓喜は根深く、取り除くすべも最早思い当たらない。 「けどホント助けてもらってばっかだよね、今度なんかお礼するね!」 「いや、気にしなくて良い」 「えっ、なにそのお前からの礼なんざいらねえよみたいな素っ気無さ!」 「では念を押しておくか、結構だ」 「もっとばっさり切られた!」 非難声明を出したの隣で、遮二無二希う。 礼はいい。 必要ない。 その代わり俺を21グラム重くしてくれ。 今や何処に居るのかも知れぬ魂を見つけてくれやしないか。 繰り手を見失い虚ろな肉体となっても尚、様々な感情が湧き出でるばかりで一向に凍えない、この魂の器に注いで欲しい。 あるべきものを、俺が乞うて焦がれて仕方がないものを、どうかお前の手で。 始めから結末の知れている物語を眺めている。 知れているのに何一つ測りたくないと拒絶する。 一方、明確なデータを得た上でそれでも構わないと音も立てずにひた走った。 あの日から続く想いを終わらせる事が出来ないのだ。 どうしても。何度計算し直しても。 |