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「あれ、浴衣じゃないんだ?」

出会い頭、あの笑顔で言われた私を誰か慰めてほしい。
むっとする暇もなかった。

「だって一人じゃ着つけできないし、着替える時間もなかったもん。浴衣じゃないのって普通に言うけど、あれって着るの結構大変なんだよ」
「知ってる。俺も何度か着せられた事あるけど、涼しげに見えて意外と暑いんだよね」

朗らかな声と表情には少しだけ小さい頃の面影があって、やっぱりこの人は私の知る幸村精市なんだと思う。
記憶しているものと比べて高くなった背が隣に並ぶと、妙な緊張感が走った。
暮れかかる、というよりほとんど暮れ尽くしている空は暗く、駅の灯りが私と精市君ばかりじゃなく行き交う人たちを白く照らしている。西にわずか残る太陽の名残はうすぼんやりとしていて、掠れる茜色が綺麗だった。
行こう。
何気ない声が落ちて、私はうん、とだけ返す。
歩幅が違う所為でずれる足音が耳に届き始め、サンダルの爪先は迷うよう揺れている。
浮かれ心地なのか、それとも戸惑っているからなのかが私にはわからなくて、でもなぜか答えを出さないでいたい気もする。
外灯を浴び黒々と光るアスファルトからは真昼の暑さが消えていて、風がそう吹かなくても涼しかった。あの、人を痛めつける熱が籠もる空気は感じられない。
夏が終わっていく。
いつもと違って賑やかな神社に向かう人帰っていく人、ちらほら視界をよぎる影にまぎれながら、胸の奥で鳴る少しの切なさを振りきろうと、隣を歩く精市君にバレない程度に首を振る。







「お祭りに行かない? それで、境内まで上って花火を見よう」

こまめに連絡を取っていたわけでも、もうすぐお祭りだねと話をしていたわけでもないのに、電話越しの幼なじみは開口一番言ってのけた。
私はお昼ご飯を食べ終わって、眠気に負けそうになる目蓋をなんとか持ち上げている所だった。
びっくりする前に、そういえば精市君って昔からいろんな事が突然だった、と思い返してしまう。何も当日じゃなくてもっと早く言えばいいのにと突っ込みつつ、ちょっとしみじみもした。

「うん。でも混んでないかな?」
「花火の会場はもっと海の方だからね。あそこの神社まで観光客は来ないよ」
「近くに住んでる人がいくかも」
「大丈夫、穴場を知っているんだ」

ノイズの混じった声の後ろで、車が走る音と人のざわめきがこだましている。外にいるんだろう。携帯電話を片手に話している姿を想像して、絵になるなあ、なんて実際目にしていないのに息をついた。
駅で待ち合わせる約束をし、電話を切る。
どこそこのお祭りとお互いいちいち言わなくてもわかるのは、かつて過ごした時間のおかげだ。
音沙汰なかった時期を挟んでいても、なんとなく共有しているものがあるのは不思議な気持ちだった。
相手が同い年で、女の子だったりしたらまた違ったのかもしれないけど、一つ年上のお兄さんである精市君だからこそ、という感じもする。

今でこそごく普通に話しているものの、私たちはずっと隣にいた幼なじみとは言えない。
互いの母親同士の仲が良く、幸村家にほど近いマンションに住んでいたが為の交流であって、私が小学校中学年に上がりお父さんが念願のマイホームとやらを手に入れ引っ越してからは、元々縁がなかったみたいに会わなくなった。
振り返ってみれば、当時特に寂しく思わなかった覚えがある。
私は新しい環境に慣れるのに精一杯、精市君のほうはいつだってテニスに打ち込んでいたし、何より異性の幼なじみだ。趣味に考え方遊び方と、全部が違ってくるものだろう。
幼いながらに納得してどんどん忘れていって、中学校も当然のよう別々だった。
それでも、幸い、と言っていいのかはわからないけど、越えられない男女差を目の当たりにする前に離れたので決定的な瞬間はなく、なかったからこそ距離の測り方が覚束ないのかもしれない。
携帯電話を握る掌がやけに熱かった。
なんとはなしに窓へ視線を投げると、家の中にいてもわかるくらいぎらついた陽射しが夏の庭を焼いている。


再会は病院だった。
私には縁遠い病室内、痛々しく白いベッドの上に腰掛けて何かのノートを開いている姿に、人生で一番怖気づく。
久々に顔を合わせる緊張に加え、相手は長い入院生活を送っているのだ。お見舞いいくよと私を連れ出したお母さんが隣にいたって、そりゃ一人よりはましだろうけど、かける言葉なんて見つからない。
尻込みする私を置き去りにしたお母さんが、精市君お久しぶりねえ、ちょっと見ない内におっきくなったわ、のん気に喋りながらさっさと病室に踏み込んでいく。遠慮のなさに心中悲鳴を上げて急ぎ追いかけた視界の先で、お母さんの言葉を借りるのも何だけど本当に大きくなった幼なじみが顔を傾けた。
子供特有の丸みの失せた顔のラインや顎が別人のようで、ちょっと驚いてる目はあの頃とそう変わらない。

「……もしかして、おばさん? ご無沙汰してます」
「ああいいのよ、立たないで立たないで」

腰を浮かせかけた人と制止する人、どっちにも目を向けられず、後ろ手を組んだまま突っ立って、広くて生活感のない病室を見渡す。
不意に、昔住んでいたマンションの情景が蘇ってきた。
上の兄姉と共用のものではなく自分一人の部屋がほしいと訴え、当然あえなく却下された時の事だ。
何生意気言ってんのと小突かれ、大体部屋もらえたって一番下のお前よか年長者の俺が先だバカと鼻をつままれ、ふて寝した夜の天井が病室のそれと重なり、やがてブレていく。
似ても似つかなかった。
うちのマンションはもっと古くて、余計なものが排除され綺麗すぎる病室とは違う所だらけなのだ。
なのにどうして思い出したんだろう。
内心首を傾げて、悲しくて寂しい気持ちで見上げた天井と精市君が寝起きするここの天井がなんでかわからないけどだぶって見えたのかな、ぼやけた答えを編んでいく。
と、感慨に耽っている間に、手短な挨拶と世間話を交わしたお母さんがお見舞いの品を備えつけの冷蔵庫に入れて、慌ただしく退室しようとする。
精市君のお母さんを探しにいくらしい。
忙しい人だなあと他人事みたいに眺め、やや廊下に響く開閉音を聞き終えてやっと気づく。完全に出ていくタイミングを見失った。
ドアを二度見するも、閉まっている。
誰がどう見ても閉ざされている。
すなわち長年連絡の途絶えていた幼なじみと病室に二人きりである。
気まずいとかいうレベルの話じゃない。
錆びついた首を回すと、にこやかに微笑む人がこちらを見ていた。

「やあ、久しぶり。元気だったかい?」

言う張本人は入院しているのだからあんまり元気じゃないという事だろう。
頷いていいのか悪いのか、正直答えに困った。
迷い悩んだあげく、とりあえず首を縦に振る。
そう、と満足げに相槌を打った精市君が、元から柔らかく曲げていた瞳をもっと優しく滲ませ掛布団を軽く叩く。

「そんな隅にいなくてもいいだろう。こっちにおいで」
「……うん」

促されるままに足を動かし、幼なじみの座るベッドに腰を下ろす。
思いきり体重をかけたら軋みそうなのが嫌で、細心の注意を払った。
払った所で私と精市君が足を伸ばす反対側に、お見舞いの人用らしきイスが置かれているのを発見して背筋が強張る。

「って、あ! ご、ごめんなさい、イス出してそこに座るから…」
「いや、ここでいいよ。いちいち椅子を出す方が面倒だ」

何の疑問も持たず人の眠るベッドに上がり込んだも同然の自分が恥ずかしくて出た言葉だったけど、あっけらかんとした口調に遮られて終着点を失ってしまう。
それから少なからず驚いた。
面倒だ、なんて小さい頃の精市君は絶対に言わなかった単語である。いやもしかしたら家族や近しい人の前では口にしていたのかもしれないけれど、私にはこぼしたりしなかった。
そのはずだ。
はずだよね?
頭の中でぐるぐる過去をほじくり返していると、掌中にあったノートをベッドサイドのテーブルに置き、心持後ろに手をついて背を反らす精市君が唇と目だけで笑う。傾いて右肩にくっつきそうな頬は、近くで見ると痩せていた。

は俺の一学年下だから……あ、中学校入学した?」
「うん、そうだよ」
「そうか。もうすっかりお姉さんだね」

言葉の裏には、あんなに小さかったのに、の一言が紛れている。

「精市君、親戚のおじさんと同じ事言ってる…」

そしてちょっと面白くない。褒められている気がしないのだ。
おじさん呼ばわりされてもまったく怒る気配のない幼なじみが、両の肩を揺らし笑っている。喉仏が上下していて、こぼれる笑い声は低い。

「俺はと一つしか違わないんだけどな」
「そうだけど。でも多分、心の年はもっと離れてるよ」
「うわ酷いなぁ。精神年齢が老けてるって言われちゃった」
「ち、ちがくて! 精市君が老けてるっていう意味じゃなくて、その」

要するに自分が幼稚だから周りの人から似たような評価を受けるのだ。
同い年の中でも幼く見られるほうなのに、成長し大人びた幼なじみにはどれほど子供っぽく映っているだろうか。
なんとなく自分にがっかりする。劣等感というやつかもしれない。ちっぽけなプライドが押し出した、ひねくれた反応だった。

「わかってる。俺がどうこうっていうより、の心の問題だ。
大丈夫、お前はちゃんとお姉さんになってるから。ね?」

宥めすかす笑顔ではあったけど冗談や嘘のにおいはしなくて、精市君だ、と思う。知らないお兄さんにはなっていなかった。
それもそうか、だって会わない間も精市君は精市君のままで、ある日突然別人になるわけじゃない。
腑に落ちた私は軽く息を吸って、たった十数秒の会話で落ち着いてしまった胸を撫で下ろす。
そうしてお母さんたちが病室に来るまでの間、お互いの近況報告に花を咲かせたのだった。


本当はいつまでも幼なじみ気分でいるんじゃなくて敬語を使わなきゃだめかなとか、精市君という呼び方も改めるべきなのかなとか、あれこれ考えていたはずなのだ。
けれど話している内に、別段気にしなくちゃいけない部分でもないかとふやけてしまう。
力が籠もっていなくとも全部を吹き飛ばす威力のある言葉は、幼なじみが所有する武器の一つのような気がした。
想像していたよりずっと普通に話せた初回のおかげもあって、その後度々私を病院まで引っ張ろうとするお母さんにもあまり抵抗はしなかった。
一度だけどうして私ばっか連れてくのと尋ねたら、あんた暴れたりしないし基本静かでしょ、簡潔な答えをもらう。小さい頃、精市君の家に行く時は兄姉抜きで私だけだった理由と同じだ。
ふうんと呟いた所に、それにお姉ちゃんとお兄ちゃんは年が離れてるしね、つけ加えられた。
たしかにそうだけど、精市君はどんな年の人とでも仲良く話せそうなのにな。
思ったけれど言わない。どうせからかわれるだけなのだ。はほんとちっちゃな時から精市君っ子ね、と。
実の兄弟よりよっぽど優しくて大人びている年上の幼なじみがお兄ちゃんだったらよかったのに、本気で羨み何度願ったかは知れない。
精市君は今みたいに大きくなるずっと前から気性が穏やかで、声を荒げるなんて一回もしなかった。
遊びについていきたがる幼い私を決して振り払わず、本を読んでいてわからない漢字があれば丁寧に教えてくれ、おやつはきちんと公平に分けてくれる。場合によっては自分の分を削ってくれさえした。
練習用だというラケットを握らせてくれた事もある。
テニスの話をする時の幼なじみの目はきらきらしていた。
多分、私の記憶する限り一番に輝いていた。
そんな大事なものに触れられないのは、すごく悲しい。
ようやく得た自分専用の部屋が嬉しくて、進学に合わせ実家から兄姉が出ていき、静まり返った天井を仰いだ日が思い出され、でも精市君が味わっているものとは比べ物にならないんだと考えれば考えるだけ寂しくなった。
家族全員が眠りについていて、今世界で起きているのは私だけなんじゃないかと錯覚した、屋根を打つ雨音ばかりが響く夜のようだ。心がきゅうと締めつけられて、ほどき方もわからないから尚切ない。
私はいつだって弱音を吐ける環境にいるけど精市君は違うのかもしれないと思う都度、わけもなく無性に泣きたかった。


お見舞いと称しほとんど遊びにいっているのと同じになって、病室での顔合わせに緊張を覚えなくなった頃、私は中学二年、精市君は三年生に進級する。
いよいよ見慣れてしまった真昼間のパジャマ姿は目に痛い。けど幼なじみは何を着ていてもどこにいても、私の知る幼なじみのままだったので、思い悩むのはやめた。
昔幾度となく遊んだあの立派なお庭に精市君専用の敷地があって、花を育てているのだと聞いてびっくりする。
再会の日、視線を落としていたのは部誌だと話してくれた。
全国制覇という偉業に貢献したレギュラーの面々で撮った写真も見せてもらい、

「……軽音部じゃなくて?」

と多方面に失礼であり偏見に満ちた感想を発して思いきり笑われてしまう。
髪型や色がどうしても私の想像する強豪運動部のそれと食い違っていたのだから仕方ない。
ひとしきり笑い息を整えた精市君が、深く帽子を被って険しい顔つきをしている写真の中の一人を指差した。

「感想をどうぞ」
「えっ? えっと、背が高い」
「フフ、なるほど。それでおしまい?」
「う、ううんと……せっかく写真撮ってるのになんで怖い顔してるのかな」
「それ、真田」
「えええ!?」

ひときわ大きな声を出し、慌てて手元の映し絵を凝視する。
真田くんは精市君と長い付き合いで、必然的に幼なじみである私も面識があった。
話した事だって少なくないし、二人がテニスをしている所を見学した時もある、精市君の家の柔らくて大きなソファに並んで座りジュースを飲んだ事だって、と次々蘇る記憶と写真の人がうまく重ならない。
そんなばかな。
だって昔の真田くんは精市君とは違った種類のかっこいいお兄さんという感じで、やっぱり同じ年頃の子よりしっかりしていて運動もできるからクラスにいれば女の子が放っておかないだろうなと思わせる説得力があったのに、この近寄り難さはどういう事だ。
何が起きれば数年で生活指導の先生ですかといった様相に進化してしまうのか。年下の私が真田くんなどと呼んだらなんだその態度はと雷のごときお叱りが落ちそうである。

の事を話したらちゃっかり覚えていたよ、あいつ」
「は、話したの」
「ああ。俺の幼なじみが中学生のお姉さんになってましたってね」
「……それはもういい……」

こうして時々、もっと子供の時には一切なかったからかいを仕掛けてくる幼なじみは、日々の大半を病室で過ごしているにもかかわらず頭がよかった。

「この子ったらねえ、頭は悪くないはずなのにどうもぼっとしてるでしょ、二年生にもなって苦手な教科が苦手なままで赤点ぎりぎり取ってきたりするのよ、精市君悪いんだけど教えてあげてくれる?」

遠慮知らずのお母さんがとんでもなく厚かましいお願いをした所為で、お見舞いはやがて勉強会と化していく。いいですよと快く引き受けた精市君はなあなあにせず、私に教科書とノートを持ってくるよう指示し、自分は家の人に頼んだのか使っていた参考書を手に待ってくれていた。
なんだか地味に幸村家を騒がしてしまっているみたいで居たたまれない。
ごめんなさいと言う代わりにせめて勉学に励もうとかつて精市君が面倒だと言い放ったイスを引っ張り出して、書き物に適していないテーブルに教科書類を広げ、ベッドに腰掛ける今度は家庭教師のお兄さんになった人に教えを乞う。
だって筆者の考えてる事なんて私わかんないもん。
良いとは言えないテストの点数を知られてしまい、ふてくされてる。
それは俺にだってわからないさ。書いた本人じゃないもの。
厳しく叱らないでただ問題点のみを的確に指摘する幼なじみの、テスト用紙を掴む指が男の人だった。
方程式、代入、英単語暗記、化学式。
成績のそう悪くはない教科にまで指導は及び、得意教科で最高得点を叩き出した時など予定もないのに精市君の元へ足を運び、意気揚々と見せびらかした。
私の優しい幼なじみは、こなした努力に対しただ無意味に甘やかすのではなく相応しい評価をくれる。
嘘をつかないのだ。
親しいからといって手ぬるくならないし、反対に赤の他人だからと穿って見て跳ね除ける事もない。
そういう人がくれる、よくできました、はとても嬉しかった。だから多分私は、単純に精市君に褒めてほしかったんだと思う。我ながら動物じみている。
突然の来訪に少しびっくり顔をした精市君へ笑いかけ、あのね、報告しようとする手前、背後からわっと幼さを含んだ声が沸いた。
ドアがやや雑に閉まって、精市兄ちゃん聞いて聞いて、と病院に似合わぬ元気の良さがかたまりになって布団の中にいた幼なじみに向かって走る。小児科に入院している子たちらしかった。
どうしたの。
白いシーツから抜け出すついで奏でられる声色は、相変わらず優しい。
私はとっさに、あっ取られた、思った。
言いたかった台詞も、精市君からの問いかけも、一番乗りも、私なんかよりずっと素直で迅速な子たちがさらっていってしまったのだ。
話す機会を失って立ち尽くす目の前で、無邪気な声と声が鳴り響く。
年齢は私や精市君よりみんな下のようで、小学校に入学する前の子は似顔絵を描いたと差し出し、小学生と思わしき子は院内でやったテストか何かのプリントを掲げてはすごいでしょ私一番だったのと弾けるように笑っていた。
無意識の内にテスト用紙の入った鞄を後ろに隠す。
こんなに小さい子たちと自分、まったくの同レベルである。
お邪魔しましたと即刻立ち去りたい気持ちに駆られ、恥ずかしさのあまり目を逸らした。
どこがお姉さんだ。
一人ツッコミが虚しくこだまする。
人気者の幼なじみは一人一人に似合った言葉をかけ、判子を押すよう重なってない賞賛を送っているので、幼稚園の先生になったらいいんじゃないかと密かにもしもの未来を想像した。
視線が額あたりにふと当たる。
恐る恐る合わせると、何気なく笑む顔があった。

「どうしてまたそんな隅にいるんだ」

子供たちの小さくて丸い頬が後に続く。

「お姉ちゃんだあれ?」
「精市兄ちゃんのともだち?」
「学校の帰りなの? あのね、僕も今度元気だったら学校にいけるんだよ!」
「お姉さんのお名前なーに!」

勢いに追いつけず、一体どれから答えていけばいいのかもわからないでただただ困惑していると、苦笑を浮かべた精市君が助け舟を出してくれた。

「そのお姉さんの名前はっていうんだ。俺の幼馴染」

いくつもの幼い視線がまとめて剥がれ、たおやかな声の主へと注がれる。どれほど耳目を集めたとて精市君は揺らがない。
おさななじみってなあに、舌足らずの質問へ、ずっと昔からの仲良しのお友達かな、笑う人の全部が優しくて、私はなんだかもうそれでいいやと何がそれでどこがいいのかもよくわからないまま率直に相槌を打った。
その日は結局、子供たちの話や遊びにお付き合いしたので、成果を発表しないで終わったのだけど、これを切っ掛けに以降も続いた勉強会に時折幼い乱入者を招く事となって、幼なじみの部屋は初め感じた寂しさが嘘のよう華やぐ。
絵の上手な子が一人いて、勉強をほっぽり出してお絵かきしりとりなるものに三人で興じた午後もあった。
精市君もその子も絵心があった為に、何を描いているのかわからないと言われるのはいつも私のほうだった。

「ブタさん?」
「わかった、猫だ」
「……パンダです」
お姉ちゃん絵、へた!」
「うん、下手だね」
「い…いいよもう、次までに練習してくるもん」
「次じゃなくて、今教えてあげる!」
「そうそう、教えて貰うといい」
「ばかにされてる……」

冬はとっくに過ぎ去ったもので、陽気は春から初夏へと移り変わり、窓の外でそよぐ緑が生き生きとし始める一方、白い室内は何事も変わりない。
しりとり上手で絵上手な子は最後に私と精市君の似顔絵を描いてくれて、元気よく退院していった。
精市君は少なくとも私が見る限り、いつもいつもさようならと見送る側だった。
厳密には元気とは言い切れない人が、元気になった相手に対し元気でねと前途を祝福する。笑顔を絶やさず、小さくて可愛いおでこを撫でながら、陰りもなく言うのだ。
丁寧で穏やか極まりない手つきが、もう戻ってきちゃだめだよ、無言の内に語っているような気がしてならなかった。
私はそういう精市君の深い仕草、声、眼差しを肌で感じる度に、もやもやと霞む胸の内を吐き出したくて仕方ない。
精市君にはいるんだろうか。
精市君がみんなにしてあげている事を、精市君にしてあげる人がいるんだろうか。
さよならと優しく見送って、ずっと元気でいるんだよと祈り、今までよく頑張ったねと撫でてくれるような存在が、心の頼りになる誰かが、一人きりの病室で戦い続ける彼のそばに。
ねえ、いてくれるの。
歩くごとに寂しさの募る病院からの帰り道、お見舞いの品物や花が尽きなくて、病室を訪れる人はたくさんいるのだと看護師さんがこぼすような幼なじみがそれでも拭い切れず、向き合わなければいけない孤独に思いを馳せては途方に暮れた。
本当の精市君はもっと強い人で私の心配は余計なお世話で失礼な事なのかもしれないけど、考えずにはおれなかった。
(いてくれればいいのに)
誰も隣にいない路地裏、子供の頃に触れた掌を思い出す。
お母さんと二人精市君の家へお邪魔していて、おつかいを頼まれた。知らない街の風景、知らないお店までの道のりは心細くて、口にはしなかったものの顔に出ていたのだろう。
一緒に家を出た精市君は黙って私の手をとり、優しく引っ張ってくれたのだ。
あの掌は今と比べるまでもなく幼さに溢れ柔らかかったけど、世界で一番頼もしかった。
握り締めると返してくれて、安心する。
不安なんてものは跡形もなく消し飛び、緊張のおつかいは子供だけのお出かけと様変わりし楽しいとさえ感じた。
いればいい。
精市君をそんな気持ちにさせてくれる誰かがいてくれたらいい。

心の奥底から念じ続けたがしかし、懸命な願いも虚しくたった一言で打ち砕かれる。

梅雨入りしてしばらく経ち、明けるのもまもなくかという時期にもかかわらず、いまだやまない雨に文句をぶつけながら帰宅したらと静かに呼ばれた。

「…精市君ね、あんまりよくないみたい」

手術が必要なのだと言う。
私は、じゃあテニスは、反射的に尋ねた。
精市君が頑張っているのは病気を治す為だけどそれだけじゃなくて、三年最後の夏に間に合わせる為でもあるのだ。全国三連覇を目指している事は、病室内にて交わした会話でいやというほど知っている。
手術をしたら絶対に治るのか。
今からでテニスは間に合うのか。
そもそも選手として復帰できるのか。
様々をこめた問いかけに、お母さんは何も答えてくれなかった。
私は肩にかけていた鞄を下ろして、あの日きらきらと輝いていた瞳を、コートを駆け回る人にしてみれば狭すぎる病室で退屈だと手足を伸ばしたのを、だから、何か話してよ、笑って無茶振りする幼なじみを、何度もなぞる。辿って再生し、停止しては巻き戻した。
精市君は受け止めるのもやり遂げるのも一人なのかと思い知らされついに塩からい涙が込み上げてしまい、キッチンで洗い物を続けるお母さんに背を向けて、自室へ続く階段を駆け上がる。
精市君が戻れなかったら、間に合わなかったら、もうテニスができなかったら、神さまを絶対呪ってやる。実在していようがいまいが関係ない。末代まで祟る勢いで恨んでやる。
乱暴に閉めたドアに背中をつけて、私は涙を噛み殺すように泣いた。
泣きたいのは私じゃなくて幼なじみのほうだとわかっていたので必死に我慢し、けれども堪えきれない幾筋の雫が腹立たしくてしょうがない。







はたして幼なじみはめでたく復帰を叶えた。
手術を控えた時期に親族以外の部外者が立ち入るのもいけない、とお見舞いを取りやめていたので、手術日や退院日は正確には知らない。
お母さんは精市君のお母さんと連絡を取り合っていたようで把握していたらしいけど、私にまでは情報がこなかった。
精市君本人からメールが送られてくるまで、いるかもわからない神さまを呪い続けていたのである。
不毛だ。だけど幼なじみが無事ならもう何でもよかった。
神罰が下るかもしれないが今の私にとっては安いもの、もしも罰が当たったって、精市君が退院できた喜びには敵わないだろう。
二度三度とメールで話して、今日。
最後に会ったのは手術をすると聞かされる前だから、約二ヶ月ぶりだった。
室内で過ごしていた時よりも日に焼けていて、どこかほっそりとしていた体はたくましくなりつつあり、パジャマじゃない私服姿の印象が昔とまるで違うので、色々と消化しきれない。
再びの尻込み、気まずさや気後れは私一人だけが抱いているらしく、常に自然体の幼なじみは参拝道にひしめく人波を前にしてもどこ吹く風だ。
道と道の端に沿って並ぶ屋台はとりどりの光を帯び、食べ物のいいにおいが風に乗ってやってくる。
提灯の仄かな赤が、普段は静かな神社の敷地内を照らしていた。
あちこちを揺れて通る浴衣は灯った色を浴びて濃い夏夜に映え、空気が湿気て濁り、虫の音は喧噪に溶けてしまう。見上げれば空には月が輝き、雲一つない。花火がよく見えるだろうと思った。
あらゆるざわめきは決して耳障りではない、ただ懐かしくて、その昔私と精市君の家族みんなとで遊んだ夜が記憶から浮かび上がり、佇む私に寄り添ってくる。
夜店の種類や数は変わっているけど、雰囲気そのものは当時と限りなく近い。
お囃子が不意に途切れ、すぐさま蘇った。
御社に伸びゆく道は明るくて暗い、先には急な階段がそびえ立っていて、参拝する度に息を切らしていたなと思い出すまでもなく思う。

、どこから寄っていく?」

そうして浸っていた所為だ。

「私はどこからでも…歩くついでに全部見てけばいいかなって。精くんは?」

いつだったか、小学校低学年だったろうか、放課後の昇降口で偶然鉢合わせた年上の幼なじみを気安く呼び、近くにいた男子にひどくからかわれ、長らく封印していた呼び方が口から転がってしまった。
恥ずかしくてその場から走り去ったはいいが、これからなんと呼ぶべきか迷った幼き日の私は、精市君と口にする母の真似をしたのである。
下の名前の時点で大差ないぞと今ならわかるけど、当時はとにかく何でもいいから変わりたかった。
いやそれはいい。今はいい。置いといて、言ってしまったものをどうするかだ。
必死に考えを巡らせるも解決策は得られず、しまった、やらかした、完全に顔に出ていたはずなのに、当の幼なじみはにっこり笑ってこう言った。

「俺もどこからでも良かったから、の言う通りにしようか」

颯爽としてさえいるスニーカーが迷う事なく進んでいく。
呼び名について言及されなかったのは幸か不幸か判断がつけられぬまま、私は粛々と従うのだった。
一度言葉にしたものはもう取り消せない、今後精市君に戻すのかそれとも精くんでいくのかどうしようか、などとお祭りの柔らかく賑やかな雰囲気そっちのけで悩んでいたら、豪胆と表すしかない買い込みっぷりに段々目が吸い寄せられ、呼び方どころじゃなくなっていく。
たこ焼きかお好み焼きかで迷っていたのが始まりだった。
二つの屋台を見比べる私にどちらも買えばいいとシンプルな解決方法を提示した幼なじみは有言実行したあげく、加えて自分の分まで入手する。
それを皮切りにご当地バーガー、焼きそば、フランクフルト、パスタポッキー、じゃがバタなどなどB級グルメの中でもなかなかに重量ある品物を手当たり次第かといった具合に購入していくので、圧倒された私は買いたいものを忘れた。
お祭りの入り口である鳥居近くで屋台のお兄さんから声をかけられ、おすすめされるままに生のマンゴーを使った練乳がけのカキ氷を買ったきり、他には手が出なかった。
溶ける前に食すべしという掟は知り得ていたので、完食を目指して黙々と口元へプラスチック製のスプーンを運ぶばかりだ。ちなみにカキ氷はお兄さんのおすすめ通りとても美味しかった。
ひょっとしたらこの場の誰よりも屋台食フル装備なのではと思わせる様子に影響を受け、わたあめとベビーカステラを買った私に、甘いのばっかりだ、かの人が小首を傾げて笑う。
さっきまでどう呼ぼうか決めかねていたのも放り出して、抱き続けた疑問をぶつける。

「精くんそれ全部食べられるの?」
「食べられないのに買うわけがないじゃないか」

それはそうだ、そうなんだけど、どちらかといえば食が細そうで病室のベッドに花のごとく腰掛けていた人が、実際この量を口にするとは間違っても思えず頷けない。
病を得てからいっそう健康に気遣うようになったとお母さんから幸村家の事情を聞いていたし、精くん本人も好んでジャンクフードを食するタイプではなかったはずだ。イメージが重ならない。
困惑が消えないまま歩き、一通り満足したらしい幼なじみが軽々荷を手に下げた格好で、行き着いた階段に踏み込む。
境内までいき花火を見ると言っていたが、段を上がる人も下りる人もそれなりにいるので、上は人でいっぱいなんじゃないかと危惧した。
聞いてみようかちょっと迷ったけれど、穴場を知っているともこぼしていたので反抗はしない。
小さい頃に比べれば踏み越えやすくなった石段は古めかしく、一段一段が高くて急だ。
屋台の光が遠のき、足元を照らすのは質素な提灯のみとなって、暗い空が近づいていく。
高台に向かうにつれて、吹き通る風は冷たくなった。
ノースリーブのシャツとスカートでは少々寒いくらいで、何か羽織ってくればよかったかもとやや後悔し、しかし上る内汗と熱が滲み出てきたので取り消す。
とにかく長い。
敵は階段にあり。
息を切らし、

「ま、待って。精くん、ちょっと待って」

二段は先の背中を引きとめると、暗闇の中でも見てとれるほど血色のいい顔が振り返った。汗一つかいていないし、息も整っている、平地を行くのと何ら変わりない。私より多く荷物を抱えているにもかかわらず、である。
ついていくので精一杯の私を見据え、精くんが悪戯の意をこめた目で微笑む。

「どうした、まったくたるんどる」

なんでそんなに楽しそうなんだろう……。
思いながらも口にする余裕がなかった。
代わりに聞き覚えのない口調について尋ねてみる。

「なあにそれ」
「真田の口癖」
「ええっ……」

絶句した。

「あはは、絶句したね」

言い当てられた。

「だって、想像つかない…。
ねえ、真田くん、何があったら、そんないかつくなっちゃうの」
「さあ。俺には大して変わっていないように見えるけど。気になるなら、本人に聞いてみたらどうだい」
「で、できない、できません」

乱れた呼吸をなんとか平らにしようと試むさ中での会話は覚束ない。
幼なじみは不自然に途切れる私の言葉を聞き逃したり、聞きにくいと詰ったりはしなかった。
そんな風に優しいけれど、そばには下りてこない。
上の段で留まり、私が追いつくのを待っている。
私がもっとちっちゃかったらあの日と同じに手を繋いでくれたんだろうな、知らない間に変わっていたらしいものをおぼろげに感じ取りながら、ふう、と息を吐いた。

「精くんも、だよ」
「え、俺?」

しばたく睫毛が宵に溶けて黒く、よく見えない。

「うん。前と同じじゃないもん。お兄ちゃんみたいなのは変わらないけど、私のにーちゃんよりお兄さんっぽいけど、なんとなく違う」

苦しかった息がしやすくなるに従い頭の中もクリアになる。
体ごと私へ向き直った精くんの瞳が、夜を纏いながらもかすかな光をたたえていて、角度によっては眩しく映った。

「それはそうだろ。確かに俺はお前より年上だけど、本当のお兄ちゃんじゃないしね。それに、妹は一人で充分だもの」
「うん、元気?」
「元気だよ。に会いたがっていたから、今度うちに遊びにおいで」

私と幼なじみの間を走る言葉は、主語がなくても場所を指定しなくたって繋がるツールだ。
とても便利で、でも他の人には使えないもの。
いざという時には役に立たなくて、私は形のない何かに祈り願うしかなくなってしまう。
嬉しいお誘いにうんと頷くまでもない、精くんは私が答える前から笑って承諾している。

「……精くんも、真田くんも、いつからおっきくなったんだろ」
「なんだい急に、どうしたの」
「それで私、あんまり変わってないから。
階段も早く上れないし。精くんは力持ちだよね。そんなに持ってても平気そうなんだもん」

夏の終わりがもたらす寂しさが、決して戻らず進んでいく一方の時間からはぐれかけの、もしくはそう思い込んでいる私の隙間につけ込んで、好き勝手に唇を動かしているようだった。
精くんなんか小さい時はそれこそ天使みたいだったのに、男の子ってどうしてすぐ変わるの。背が伸びて、体の全部が大きくなってしまうの。
吐き出すべき相手のいない声が重たく渦を巻く。
何と答えてほしいのか自分でもわからないのだから、幼なじみに聞かせたって仕方のない事なのだ。
そうでなくとも病み上がりで夏の大会を終えたばかりなのに、気遣うべき立場の私がだらだら言い募っている場合じゃない。
笑いこぼれた幼なじみの声がやけに耳に残って、胸を打つ。

「精くん、精市くんの‘いち’は一番の一じゃないの」

唐突な声を頭から被って目が覚めた。

「覚えてる?」

忘れるはずがなかった。
精くんの名前を声の響きだけで覚えていて、漢字を習い始めて知った衝撃の事実だった。
私は精市くんではなく精一くんだと勘違いをし、初めて幼なじみのフルネームを目にした時驚いた。勢い余って、思うままを本人にぶつけてしまった。
親にも精くんのおばさんにも笑われて、あれは子供ながらに恥ずかしかったのだ。

「……なんで精くんそんな事覚えてるの」
「そうだな、精くんは一番じゃないんだって言われて地味にショックだったから、って事にしておこうか」

喉元を冷たい手で掴まれた心地に、一秒経ずして呼吸がひゅっと引っ込んでいく。

「まあ嘘なんだけど」
「嘘なの!?」
「半分はね」
「はっ…半分、半分……?」
「お前と一つしか違わないのに、昔の俺はずっと年上の兄気分だったからさ。妹みたいに思っていた相手から名前の漢字についてとはいえ一番じゃないの、なんて言われたら忘れようにも忘れられないだろう」
「……ご」
「ごめんなさいは言わない。俺が子供で、馬鹿だったってだけの話だ」

笑む形を崩さない所を見るに怒ってはいないのだろうけど、唐突な思い出話に私の問いとも呼べぬ言葉とどんな関係があるのかは読み取れなかった。
相変わらず二段上から動かないで私を見下ろす幼なじみは、静かな笑みを湛えている。

「一番になる為に努力した。真田の事は真田に聞かないとわからないけれど、少なくとも俺はそうだったよ。切っ掛けや理由は別として。それから、今は色んな事が変わっているとしてもね」

開いていた唇を結び、凛とした表情の幼なじみを仰ぐ。
常に整然とした解を示してきた人らしからぬ、わかりやすいようでわかりにくい、精くんなりの答えだった。
引き締めた口元を緩ませて、何を言うべきか決まっていなかったけれど言葉にしようとした瞬間、地面を伝いお腹の底から轟くような音に流れていた空気が切り捨てられる。

「やばい、始まった」

精くんの呟きで、花火の音だと気がついた。
段上の彼が見上げた方角へ目を向ければ、夏の闇に沈む空の片隅で黄や赤の光が不連続に花開き、稲光めいていた。ドン、ドオン、轟音はやまない。
、あともう少しだ。頑張れるかい。
お兄ちゃんみたいだけどお兄ちゃんじゃない幼なじみに問われて、いいえと否定する材料が見つからなかった。
萎え竦んだ様子から復活しつつある膝を伸ばし、幅の広い階段を斜めに突っ切っていく背を追いかけていくと、ちょうど中間地点に設えられた踊り場のような所で、精くんは整備された階段から草木の茂るうっそうとした横道へと足を踏み入れる。
とんでもない抜け道だ、けもの道ですらない。
ひええと悲鳴を上げかける私に、前へ前へ突き進む幼なじみが背中で笑った。
精くんいつ知ったのこんな道。
部の奴らと前に一度来た時かな。
ちょっと乱暴に思える言葉遣いも、チームメイトへ対する気安さの証みたいで嬉しかった。
幼なじみは決して一人なんかじゃないと心から信じる事ができたからだ。精くんの通う立海テニス部の面々とは会った事はないけれど入院中に写真をまじえて話してくれたから、一人一人の顔も名前も特徴も覚えている。
あの人たちがつくる輪に入って笑う幼なじみを思い浮かべると、ひどい具合の道も泥だらけになってしまったサンダルも大して気にならない。
ねえ、さっき浴衣じゃないのって言ったけど、浴衣だったらどうしてたのここ。浴衣で上れって事?
嫌だな、その時は俺がおんぶしてあげたに決まってるじゃないか。
土でできた険しい坂道と格闘しながらふざける。すっかりお姉さんだねと言ったその口で子供扱いをするのだから困ったものだ。怒るに怒れない。
せめてもの仕返しに力一杯辞退する。
目だけで振り返った精くんは、さっきの比じゃなく辺りが真っ暗なおかげで全然わからないけれど、きっと笑っているんだろう。

一歩を確実に踏みしめて上るにつれ覚えきれなかった思い出たちが目蓋の裏、花火みたいに光って消えた。
暗闇の内で、音だけが鮮明に鳴り響いている。

幼なじみの言葉に間違いはない、いざとなれば本当に私を背負っただろう広い背中を見詰め思い返す。
夏の終わりがじわりと迫る頃、小さい時からずっとテニス少年である精くんは忙しかったはずなのによく一緒に遊んだ。
毎年、ジュニア大会やテニスクラブ主催の大会に出場していた彼は、勝ち負け関係なく突拍子のない行動に出た。
今日と同じに突然電話がかかってきたり、お母さんに連れられてお邪魔した幸村家でいつもはしない遊びを提案してきたり、頼まれたわけじゃないのにあえて庭の花の植え替えをしてみたりと、あきらかに少し様子が違っていた気がする。あの頃はわからなかったしどうとも思わなかったけど、今になってやっと理解が叶う。
新しい夏を始める為の、一種の通過儀礼なのだ。
過ぎた季節に別れを告げて、終わりから芽吹く次の真夏に向かって駆けるにあたって必要な儀式。
精くんの中にあるスイッチを切り替えて、新たなスタートを切るはじめの一歩。
私は多分、そこに関わる事ができて嬉しいんだ。正しい表現じゃないかもしれない。でもそう思う。精くんの事を元気づけたり、励ましたり、いつか願ったみたく手を握って安心させてあげられるようなすごい人間じゃないけど、それでもできる事はあった。
どんなに小さかろうと、できる事があるというのはとても幸せな事だ。
身に余る幸福を噛み締めたのと同じ所に、一人きりの病室で戦い続けた幼なじみにかける言葉がなかった悔しくて悲しい気持ちが残っているから、私は散々恨んだ神さまにじゃなく四季折々に巡る夜空に祈りを捧げる。


「よし着いた!」

一年先に生まれついた彼の、子供じみた声の末尾が弾んで楽しげだ。
肩で息をしてよれよれになった私が隣に並ぶと、病室で見た時よりもたくましくなった首を傾げて誇ったように笑いかけてくる。

「ほら、穴場だろ」
「……誰も来れないよ、こんなとこ……」

舗装されていない高台には人影はない。花火の打ち上がる音以外には虫の声しか響いておらず、普段どれだけ静寂に包まれているのかが目に浮かんだ。
木々が途切れて開けた場所で、二人して立ち尽くす。
金色、赤、桃色、薄紅、緑と青、きらきらゆらゆら、真っ黒なキャンバスに光の花が咲いては散っていった。音が遅れてこだまする。耳ではなくお腹の奥でじっと聞き澄ます。
首は動かさないで横を盗み見ると、海岸近くで上がる花火へ向かうまっすぐな瞳が一瞬の大華にきらめいていた。
精くんのゆるやかな髪が、余計な肉のついていない頬が、出っ張った喉仏が、襟から垣間見える鎖骨が、色彩の洪水に染まって浮き立つ。明るさが散る。宵闇に溶け、すぐにまた輝かしく灯る。
何重もの円を描き、丸々大きく開く夏の花は、たとえようもなく綺麗だった。
消えても光る。
なくなってもそれでおしまいじゃない。
夜の暗さに負けても負けっぱなしのままではいなかった。
精くん。
精くんだってそうだよ、勝手だってわかってるけど私はそうだって信じてるよ。
絶対に口には出さないと心に決めて語りかける。
手術とリハビリを乗り越えてようやく迎えた中学最後の試合、果たせなかった夢の続きを抱え、負けたとたった一言電話越しに伝えてくれた年上の幼なじみの声が、耳の奥へと落ちた先、体の内側で巡り巡っていた。
夏はあっけなく終わってしまった。
一度しか来ない夏だった。
去年のものとも違うし、来年のものだって重ならないだろう。
でも、だからこそ繰り返さない為に始めなくちゃいけないんだ。
火の大輪が咲き誇る。
伴う痛みに似た轟音が遅れて吠える。
私はこんなに芯から願った事はないというほど強く、何度も同じ言葉を唱えた。

心の支えになってくれる人が精くんのそばにいてくれるといい。
今はいないのだとしたら、いつかできたらいい。いつまでもずっと元気でいて。
テニスを思う存分楽しんで、いつかのきらきらした瞳を私にじゃなくてもいい、どこでもいい、誰にでもいい、もう一度見せてほしい。
それで、私の大好きな笑顔でいてくれたら、もう何もいらないな。うん、完璧だ。
精くんが何の躊躇いもなく笑っていられる場所は、まばゆい光に溢れているに違いない。

だから、今日この時から始まる次の季節が、優しい輝きに満ちていますように。
新しい夏が、どうかこの人に幸せを運んできてくれますように。