それって、俺じゃだめなの?




幸村くんと話した事は片手で数えられるほどしかない。


学期末の大掃除は誰もが嫌がるもの。
もちろん立海は有名私立で皆基本的に真面目だから、ダリぃ、サボりてぇ、堂々と口にする生徒はそうそういない。
いないが、進んでやりたがる子なんていないのも確かだ。いたとしても少数派だろう。でなくばお決まりの行事として受け入れ、唯々諾々と従っているか。
早く終わらせたくはあるけれど張り切ってはいない、半端な空気が浮遊する中、班ごとに振り分けられた持ち場で、満杯のごみ袋が想像以上に出来あがってしまった。
掃除が終わった後でまとめて運んでも良いんじゃないか、いやまだこれからごみは出る、よく考えろ45Lの袋だぞ、後々を思えばもう捨てに行った方が、寒気にあてられた手を擦りつつ丸い輪になって話し合った結果、代表者を選出し収集場まで持って行って貰う事に決まった。
それじゃあじゃんけんを、一方が言い出し、自分はじゃんけんが弱いから不公平だ異議あり、だったらどうすんだ、あみだくじにしよう、あちこちで声が上がる。
掃除を途中放棄しているも同然だ。そんな事をしている暇があったら全員で励み、全員で手分けしてごみ袋を運ぶ方がよっぽど早く帰れるのでは。
ツッコむ間もなく、班で一番背が高い男子が抱えていた箒を引っくり返し、柄の部分で砂地に簡易あみだくじを描き始めるのだから呆れるしかない。
折角整えた地面をもう一度汚しているし、傍からすると遊んでいるようにしか見えないし、なかなか大きな線を引いていくしでもう散々である。
私を含む女子が、ちょっと意味わかんない事してないで掃除して、つか男子が行ってよ重いんだからさ、訴えるも興が乗ってきた様子の男子にのらりくらりと躱され、めでたく全員参加と相成った。
右端から名前順にスタート位置が定められ、一番手、二番手と重荷の運び手を回避して行き、私の番。

「あ、当たりじゃん」

ひどすぎる。
真面目に掃除をしていたのに、この仕打ちはどういう事か。私がどんな悪事に手を染めましたか、染めてないでしょ、神はいない。
ひっそり絶望するさ中、んじゃあともう一人な、今となっては憎らしい発案者が人の気も知らないで続けようとした時、

「それって、俺じゃだめなの?」

横合いから飛んで来たもの柔らかな声に、やや盛り上がりつつあった場がふっと落ち着いた。
一同揃って見遣れば、学校一の有名人と言っても過言ではない、元テニス部の主将が眼差しを淡くぼかしながら佇んでいる。

「お、幸村!」
「幸村君どうしたの、びっくりした」

方々で上がる驚きへ、少し通りがかってね、微笑み返す顔色は明るい。
一瞬変に力んでしまった私もすぐさま肩を緩め、突如として軽々と首を突っ込んで来た傑物を見遣る。

「だけど幸村お前、今日定期検診だっつってなかったか?」

なるほど、だから私たちみたいにジャージなくて制服姿なのか。

「大丈夫。予約の時間までまだ間があるからさ」
「ええー! いいよ、幸村君にごみ捨てとかさせらんないよ!」
「テニスの方忙しいんじゃねえのか? 先月も合宿行ってたじゃん」

皆の腰が引けるのも無理はない。
何と言っても幸村くんは長く入院していて、復帰したと思ったら全国大会決勝まで駒を進めたすごい人なのだ、申し出は有り難いけれど、先生から直々に免除されているばかりか同じ班でもないのに、ではお言葉に甘えて、あっさりお願いなんか出来るわけがなかった。
ともすればごみ捨て場への道を並んで歩く事になるかもしれない私はもっと切実だ。
想像するだけで申し訳ない、身の置き場に困ったあげく挙動不審になり、色々バレないよう下を向き続け最終的には身長が縮む気さえする。
そんな事する必要ない、何なら一人で行くし、本当に気にしないで。
用意していたどの台詞も言葉にするより先に、強い声音に掻き消されてしまう。

「でも俺、今までクラスの行事に参加して来なかっただろう。掃除当番も人任せだったしね。ごみ捨てでも構わないから、関わらせて欲しいな」

幸村くんにそこまで言われて拒める生徒がこの立海に存在するのだろうか。
皆して返事に詰まっていると、それとも俺もあみだくじに参加した方がいいかい、冬の空気をあたためるような笑みで決め手を打たれてしまい、私は大量にごみ袋を抱え神の子と行軍する破目になったのだった。


流石、元運動部と言うべきか、幸村くんの行動は迅速だった。
ブレザーの袖を捲り、見慣れたラケットバッグではなく通学用の鞄を肩に掛け、膨れ上がった45Lの袋を幾つも軽々持ち上げる。穏やかな物腰からは想像がつかない力持ちっぷりだ。
ぽかんと大口を開けていた私は慌てて最後の一つに取りつき、悪いなよろしく、二人ともありがと、班の子の声を背中で聞きつつ先行く人を追いかけた。
冬晴れの真昼といえども風は12月らしく冷たい。
からからに渇いた空気の渦に打たれた頬は凍えて、剥き出しの指先はかじかみ、気を張っていなければ大掃除の成果を落としてしまいそうだ。
美化委員を呼ぶ人や応じる誰か、廊下を走る笑い声、後からついていく大きな足音。
モップどこ、水道水マジ冷たい、遊んでないで真面目にやれ、少し遠くで響くそれらがばらばらに放り込まれ、実に騒がしい。通りすがる都度、賑やかだなと他人事のように思う。
二歩ほど前を歩く肩が、どこか浮ついた空気を切って進んでいる。思わず首を竦める寒さなど物ともせず、一から十まで全部弾いているみたいだ。
地面がグラウンドの砂地から煉瓦道へと変わった。
幸村くんが右手に二つ、もう片方に一つぶら下げているせいで、一番軽いものを抱える事となった私はやっぱり申し訳なくて、粛々と過ぎる場を繋ぐ言葉を生み出せないでいる。
ごめんね、ありがとう。
俺がやりたくてやってるんだ、気にしないで。
ついさっき交わしたきり、後が続かない。
気まずくはないけれど分が悪かった。
――だって幸村くんには今年の夏、情けない場面を目撃されてしまっている。

「そういえばキミが描いた絵、見たよ」

何気なくこぼれた一言に背筋を叩かれた。

「ええっ、嘘!」
「フフ、本当。コンクールに提出したんだね」
「……うん、先生に言われて。というかうちの部は全員出さなきゃいけないんだけど」
「ああ、美術部は3年最後の活動がコンクールなのか」
「そう」

もたつく私へ目を遣る彼は、器用に首を捻って話している。
いつまでもこの距離に甘んじていては重ねて申し訳ない、日なたに満ちた隣まで小走りした。

「選外もいいとこだったから。幸村くんに見て貰えるようなすごい絵じゃないし」
「そんな事ないよ。俺は見ていて面白かったな」

褒められているのか否か微妙なラインだ。

「学校の敷地内で描いたんだろ? 見覚えがあるのにここだって特定出来なくてさ。
さんの絵の前で、しばらく考え込んじゃった」

ちょっとだけ照れくさそうに小首を傾げる幸村くんが、目のふちに冬の淡い光を灯して笑う。途端、体の中心に熱が籠もった。

「学校の中の、好きな場所を混ぜて描いたの。ほんとに色んなとこから見た景色。だから、私もここだよってきちんと言えないんだ」
「へえ……そうだったんだ。なら俺にわからなくて当然かな。だけど、それじゃあ……」
「お察しの通り、先生に怒られました」
「やっぱり」
「自由に描きすぎだ課題の意味を考えろ、っていっつも言われてて。でももう慣れちゃったから、まあしょうがないかなって」

不真面目と取れる答えを返したにもかかわらず、意外と問題児だ、と伝う一言によって空気が和らぐ。広い肩は笑み揺れている。
的確な評に自分が悪い癖して、うっ、と息を詰まらせていたら、

「相変わらずキミは面白い事を言うね」

ゆったり細められた瞳と柔らかく響く声音に、心臓だけじゃなく全身を射抜かれた。
あたたかい陽射しを掻き消し凍てつく冬を確かに感じながら、私の五感は真夏へ逆戻りする。



ぎらつく太陽が作り出した木陰の色は、黒に近い。
庇代わりの枝葉はぴくりとも揺れぬまま、強烈な日光を浴びていた。
風が吹かないせいだ。
熱で膨れた空気はじっとりと湿っていて、呼吸もままならない。
勝手に滲む汗は時々こめかみや背中を伝い落ち、なけなしの集中力を奪って、筆を持つ指も滑らせた。
長いお休みに入った学校は部活動に励む生徒しか登校していないから、運動部の人達の活気で満ちてはいるもののどことなくいつもと違う。外や体育館の方は賑やかで、一転、校舎内はしんと静まり返っている。
在籍する美術部の課題の進みがいまいちだった私は、言われる前にやる、の精神で先生に断りを入れたのち、水彩紙やら絵の具やらを持ち出した。
少しでも涼しげな場所を探し歩き、コンクリートや煉瓦道さえ溶かしかねない、天高く昇った真夏の象徴から逃げる。
そうして短時間の内に干からびた体を滑り込ませたのが、一人じゃ抱えきれない太さの幹の傍だった。
家の物置から引っ張ってきた、折り畳み式の小さなアウトドアチェアを広げ置く。
腰を下ろした分だけ青々と茂る下草が近づいて、噎せ返る緑の匂いに鼻をくすぐられた。水遣りもされていないだろうに枯れぬ夏草の強さにいっそ呆れる。私なんかちょっと外に出ただけでぐったりしてしまうのに。
道すがら購入したペットボトルのお水で喉を潤すと、冷え切ってすがしい味が舌やお腹の中へ染み渡っていった。
ふう、と息をついてひと呼吸。
画材を押し並べ、描き上げたいたくさんの事と向き合う。
そこら中で鳴り響く蝉の合唱に交じって、野球部だろうか、野太い掛け声が大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。ミーンミンミンミーン、ファイオー、ファイオー。じりじり揺らめく酷暑を倍増させるような夏の風物詩も、眼前の絵へ神経を向ければさほど気にならない。

――どれくらい時間が経ったのか。

異変は突如として起こった。
前触れも気配も一切ないまま、掌サイズのボールがすごい速さで突っ込んできたのである。もっともボールだと理解したのは大してよくもない目で確かめた後で、初めは何がどうなったのかまったくわからなかった。
まず、非情な日射から守ってくれていた立派な木がたわんで激しく震えた。葉が数枚散らばり、耳の奥を痺れさせる衝突音で目がちかちかした。
たまらず首を竦めた私の頭上で弾んだ影は、外周ランニング中だったサッカー部の集団へと矢のように飛んで、先頭者のつま先辺りに落ちたと思ったら、コンクリートの地面に踏み込んだ誰かの片足によって蹴飛ばされる。不意の落し物に彼は驚く間も加減する余裕もなかったに違いない、半円の軌跡を描いた正体不明の物体Xは間髪入れずこちらまで戻った。正確には、足元に置いていたバケツに。
今度はガコッとけたたましい物音を伴い、容器内の水をも溢れさせる。綺麗なホールインワンだ。
感嘆するより早く衝突の反動で勢いよく倒れ、黄色いボールと絵の具混じりの水が一緒くたに流れていった。
一秒、二秒、よくよく観察し、唇の裏で呆然と呟く。
(ピタゴラスイッチみたいだった……)
うおおビビった、なんだ今のボールか、どっから飛んできたんだよ、花壇越しの騒ぎを耳に入れつつ、己の惨状を目の当たりにする。
絵は無事、筆やパレットも問題ない。問題があるのは、靴下ごとびしょびしょになったスニーカーと、夏服のスカート、肘まで捲り上げていたシャツのお腹周りだ。
暑さにかまけてエプロンを着用せず、いちいち洗いに歩くのが面倒だと横着し、バケツいっぱいの水を用意していたのがいけなかった。
自業自得とはこの事だ、わかりやすすぎるお手本である。
見下ろす腹部は特にひどい有様で、悠長に眺めている場合でないというのに見入ってしまう。
滴る模様は、幾度か筆を突き入れたお陰で多色に濁る水で出来ている。最初に連想したのはシャボン玉の原液、ついで水溜りに混入した油、最後に浮かんだ一番ましな喩えは、お風呂が宇宙になるとの謳い文句で売り出されているバスボム、だった。
浴槽がとんでもない色で染まる光景は、記憶にも新しい。お母さんに、あんた何使ったの、怪訝な顔で聞かれたのはつい2週間ほど前の夜だ。

「うわあ……すごい忠実に再現されてる」

口をついた独り言を、言ってる場合か、と首を振って払いのける。
ひとまず洗うか拭くか対処しなければ始まらない、立ち上がってさっきまで白一色だったシャツとクリーニングに出したばかりのスカートを絞り、昇降口近くの水場へ続く道を脳裏で辿って、木陰を抜け出し数歩。

「はい、暑いだろうけど羽織っていて」

唐突に降った声と肩を包む布地の感触に喉がひくついた。
びっくりして振り仰ぐと、テニスウェア姿の幸村くんが、灼熱の太陽を背負うようにしてこちらを見下ろしている。もう一回びっくりした。
え、あの、と答える手前で、ほんの少しだけ困ったふうに微笑まれた。

「随分濡れてしまっているようだから、何も羽織らないままで歩き回らない方がいいと思ってさ。とりあえずキミが着替えるまでの間、貸しておくよ」

今思い返せば苦笑だったのかもしれない。
二の句を継げない私を追い越し、ボール暴投の犯人捜しと後始末は俺がしよう、言い置いて団子になったサッカー部の輪に加わっていく。
両肩から太もも辺りまでをすっぽり覆ってくれる黄色は、絶対王者と名高いテニス部レギュラージャージに他ならなかった。
頭の天辺まで血が逆流して頬が熱い。
状況を把握したが早いか、驚愕と混乱と理由がわからぬ焦りで全身が慌てふためいた。意味もなくその場で小さく行ったり来たりを繰り返し、ふとお腹に手を当てる。
芸術的と言えなくもない染色に注目するあまり気づけなかったけれど、なみなみ注がれた水のほとんど被ったのだ。目を凝らしたら、当然というかなんというか、肌までうっすら透けていた。
瞬間の羞恥心は言葉に表しきれない。
鬱陶しい汗と体に重くのしかかる真夏の気温、何もかもが吹っ飛んで消える。
奇声を発しなかっただけ上出来、いますぐ埋まりたい、誰か私の息の根を止めて、頭を抱えて振り回したい衝動を堪えた私は、あえてはっきり言及しなかった優しい幸村くんが掛けてくれた人目隠しに縋って、部活動に励む生徒がいない方向、敷地の外れを選んでひたすら走ったのだった。

夏休みにあわせてロッカーへ押し込んでいた荷物のたぐいは持ち帰ってしまっていたので、同じく登校していたバドミントン部の友達にTシャツとジャージを借り、人生で一番急ぎ着替えて来た道を戻る。
息せき切って元いた木の葉の下に転がり込むも、無人。
意図せず置き去りにした画材も綺麗さっぱり消えていた。
残るは水の粒を弾く青草と、それらの間から見え隠れする湿った土ばかりだ。
困り果て、親切なクラスメイトが発した単語の一つを思い出す。
後始末。
まさかと己の考えを疑いながらもテニスコートへと方向転換し、そう歩かぬ内に探し人を目端で捉えた。
整然と立ち並ぶ部室棟の傍近く、コンクリート製の流し場前で、見覚えのありすぎる筆やパレットを軽く振り、水滴を落としている。
そこで初めて、シャツとスカートを洗おうと立ち上がった際に、掌中の一切合財を地面へ放り投げていた事を思い出した。
ひええ、とテレビでも耳にしない悲鳴が喉の奥で空回りうるさい。

「ごめんなさい幸村くん!」

力の限りダッシュし、縋りつかんばかりに距離を詰めた一瞬後、大声に目を丸くした彼が相好を崩した。

「やあ、早かったね」

私が転びかねない勢いでつんのめりながら差し出したジャージを受け取り、役に立ったかい、朗らかに紡いでみせる。
うんうんと何度も頷くしかない。
どうにか呼吸を整え、今一度ごめんなさいと口にした。

「ありがとう、筆とパレットまで洗って貰っちゃって……」
「いや、気にしないでくれ。むしろ謝らなくちゃいけないのは俺達の方。バケツを引っくり返してさんの邪魔をしたのは、テニス部の奴なんだ」

曰く、主将の幸村くんがちょっと目を放していた隙に、下級生の誰かがサーブを盛大にミスしたらしい。
フェンスも飛び越えるパワーショットだ。
厳しい叱責に肩を落とすその子に、いっそ野球部に転向しろ、レギュラー陣から半分悪ふざけ、半分真剣味を帯びた一声がぶつけられたとの事だった。

「俺の監督不行届だね、本当にすまない」
「そんな……いいよ、全然」
「よく言い聞かせておいたから」

声色そのものは穏やかなのに、言い方や音の響きに凄味がある。
彼の言が正しければ被害者たる私の方が何故かうろたえてしまった。

「あの、ほんとに私は大丈……」
「ちなみにバカみたいな暴投をした犯人は今、罰走中でさ。一通り済んだらきちんと謝罪させるよ。どこか涼しい場所で、少し待っていてくれ」
「ええ!? そこまでしなくていいよ! 別にケガもしてないし、絵も大丈夫だったんだもん、あんまり怒らないであげて!」
「フフ……うちの部員を気遣ってくれてありがとう。だけどここで甘やかしてしまったら、いつまで経っても学習しないかもしれないだろう? 今後の為にも協力して欲しいな」

なんとも断りにくい建前を用意してくるものだ。
まあ多少は本音が入っている可能性もあるが、ほとんどはこちらを気遣ってのものだと思う。
幸村くんとは2年から同じクラスで、仲良しとまではいかないものの人となりくらいは知っている、荒々しく声を上げた所や級友をないがしろにする場面なんか目にも耳にもした覚えがなかった。
だからきっと、今回も。

「絵は完成間近?」

テニス部部員にとって誇り高き色のジャージを腕にぶら下げ、私がいない間に片付け持ってきてくれたのだろう、先刻まで向き合っていた水彩紙を丁寧に差し向けてくる幸村くんが、何気なく唇を緩ませる。
配慮を無理矢理に押しつけるでもなく、察するに色んな意味でひどい恰好だったに違いない私の恥ずかしさには触れず、過酷な8月の質量を孕む空気も自らが持つ独特の雰囲気に変換してしまう。

「ううーん……まだ6,7割くらい?」
「そう。なかなか先の長い話、なのかな」

優しい思いやりをなるべく悟られぬよう、相手が気に病まないよう、上手に隠す人なのだ。
私は幸村くんほど器用に立ち回れないけど、気にしないでいいよくらいの事は伝えておきたかった。

「かも。でも頑張る。ごちゃ混ぜになった色も、それはそれでいいものなんだなってバケツにボール当てられて初めてわかったし」
「え?」
「絵の具入りの水が跳ねたとこ、バスボム入れたお風呂みたいだった」

気づけたのは勘が鋭いからじゃない。
仲が良い友達だったお陰、なんてもっと有り得ない。

「ははっ! さん、そんな事を考えていたのか。俺、ひどい目に合わせてしまったと気にしていたんだけどな」

答えは単純明快、簡単な一問一答だ。
よく見ているから。
一つしかない理由が胸の奥でこだまする。



不意にざわついた凍れる風で意識が舞い戻った。
8月の頃よりずっと弱まった陽射しで、私より背の高い彼の髪は艶めいている。
面白そうに揺れる目の底には閃く光がしっかりと蓄えられており、この人はどこにいても、どの季節でも変わらないのだろう、確信に近い感想を抱く。
到底ロマンチックとは言えない存在たるごみ袋を持ち直し、表に出せる言葉だけを奏でた。

「面白い事言ってるつもりはないんだけど……」
「ああ、ごめんごめん。からかっているわけじゃないし、貶してもいないよ。どちらかというと褒めてるんだ」

幸村くんと話した事は片手で数えられるほどしかない。
だけど目で追った日は、両手でも数えきれないほどあった。
正面切って堂々口にする度胸はない。そこまで身の程知らずでもない。
精々、声にも出せず呟く程度だ。
(私も幸村くんの絵、見た事あるんだよ)
目を見ちゃいけないとまで囁かれる出来の、精緻な石膏デッサン。不足している美術の授業の出席日数を補う為に出されたらしい自由課題を、私含む美術部部員が舌を巻く美しさの油絵で超えてみせた。書道の時間、黒塗りの硯に向かう背筋が真っ直ぐ伸びていて、後日廊下に貼り出された毛筆の字はしなやかに力強い。
名は体を表すというのなら幸村くんは真実神の子なのかもしれないが、相応しいことわざがもっと他にある気がした。
(作品は人格を表す……とかかな?)
勝手な造語を巡らせて、人生のほとんどの時間、ラケットを握り続けて来た人の手による絵を目にした美術室の光景を、記憶の底から引っ張り出してなぞり返す。
2年の初めの頃だった。
単純に絵が上手い、優れた技術を遺憾なく発揮している、美しく繊細な筆遣い。
どれもこれも当てはまらない。
正直いまだに明確な表現が探せなくて、そうそう言葉にも出来なかった。
午後にまどろむ陽射しにけぶり、塵やほこりが薄く光ってちらつく室内、飾られたたった一枚の絵に、ただどうしようもなく惹きつけられた。
あの瞬間から、幸村くんは私の特別な人だ。







箒にちりとり、小さな子なら入り込めてしまいそうな大きさのごみ箱、古びた軍手。
大掃除でもないのに物々しい装備は一体どうした事かと問われたので、ありのまま事情を説明する。

「友達の代打を終えたとこ」

なんでよりにもよって彼に変な所ばかり目撃されてしまうのか、つくづく自分には女子としての運がない。
私と同じく制服姿の人が軽く首を傾げた。

「……うん?」
「掃除当番変わってあげたの。急に彼氏とデート出来るってなったみたい」

昼を過ぎ明度を増す太陽が、上品な反物を極限まで伸ばしたみたいな白藍色の空に浮かぶ。
穏やかな晴れ模様は、季節が移り変わりつつある証拠だ。
冬は尾を残すばかり、春が刻一刻と近づいている。
またしても通りがかったらしい幸村くんは、考え中ですといった表情で一拍押し黙り、ゆっくりと心地よい声で続けた。

「キミにだって予定の一つくらいあるだろう」
「大した用じゃないよ。友達の彼氏、他校の運動部なんだって。なかなか会えないって寂しがっててね、大変なんだなあっていつも思ってたから」
「……最近、美術室に入り浸りだと聞いたよ。誰にとっても時間は有限だ。やり残した事はないのかい」

バレている。
どうして、と冷や汗が湧き出、そういえば終業チャイム後に美術室へ続く廊下で鉢合わせた事があったっけ、美術の先生が呼んでいたよと伝言を預かってくれもしたし、と順に辿っていけばすぐさま引っ込んだ。
特別こそこそ行動するつもりもなく隠す気だってないのだ、露見したところで困る事もないかと肩から力を抜く。

「私のは……急ぎじゃないもん。卒業式までに終わらせれば全然セーフ」
さんは、のんびり屋さんだね。なんだか羨ましいや」

俺はそこまで気長に構えていられない。
鷹揚な微笑みで呟きこぼした幸村くんが、私が抱えるごみ箱をごく自然に持ち去るので、驚く暇もなければ遠慮する間もなかった。

「手伝うよ。どこまで持っていくつもりだったの」

本気で慌てに慌て、一人でやるからいいよ、必死で食いつくも冬の比じゃない早足で離されて、

「海友会館の辺りでいいのかな」

あげく正解を叩き出されてしまい、返しだけでなく息すら詰まる。

「フフ、その様子だと当たっていたようだね」
「…………大当たりです」
「見事に?」
「見事に」
「よかった。それじゃあついでにもう一つ、俺に教えて欲しい」
「え!? な、何を?」
「ほとんど毎日放課後に美術室へ寄ってから、海友会館や竹林広場の掃除をし始めている訳をさ」

――バレている。

「吹き抜け廊下を歩いているとよく見えるんだ。あと、コートへ向かう途中でも見かけるね。キミは無自覚かもしれないけど結構目立っているよ、誰かに見つかりたくないのなら気をつけた方がいい」

手厚い助言を施す幸村くんが微かに速度を落としてくれたお陰で追いつけた。
掃除に使う道具をまとめて横抱きにして、焦りで煮立つ脳をなんとか回転させる。

「わ、悪い事はしてないよ!」
「うん、わかってる」

だが容赦してくれる様子はない。
はっきり言われていないものの、納得出来る答えが得られなければどこまでも私の用事に付き合う、とばかりに訴えてくる雰囲気がほんのり漂い始めている。
(見つかりたくない誰かがいるとして、それは幸村くんなんだけど……)
滑り止めのついた軍手でしかと柄を握る。この期に及んで粘ってもいい事なんかないだろう、大人しく観念し唇を開いた。

「前に、好きな場所を混ぜた絵を描いたって言ったでしょ。卒業前に見ておくついでに、掃除しておこうと思ったの。隅の方なんか、意外と汚いとこあるんだよ。雑草も生え放題だったりするし」

静けさの中に映える彼の声が、私が何と応じるかあらかじめわかっているようなスピードで跳ね返る。

「同じ敷地内じゃないか、高等部に行っても出来る事だろう」
「それはそうなんだけど」
「もしかして、立海以外の高校へ進学するのかい」
「ううん。高等部も立海。美術部にも入るよ」
「……そう。うーん、余計にわからなくなってきたなぁ」

お手上げだと降参に近いぼやきを落としておきながら、すっきりと通る鼻筋や引き締まった頬のラインでどこか嬉しそうに笑う。癖のある前髪がかかった瞳も同様、陽射しを受け柔らかにまたたいていた。
そんなふうに微笑みかけてもらえる理由が思い当たらなくて、私だって幸村くんがわかんないけど、独りごちつつ腕の中の荷を抱え直す。

「お世話になりましたってお返ししたかっただけ。絵のモデル? になってくれたのもだけど、やっぱり好きな場所だから。もう部活なくて暇だし、自分のやりたい掃除をしようかと」

やりたい掃除ってなんだ、素直に話したはいいが単なる変人認定されるのでは。
浮上した迷いは、すぐ傍で綻んだ破顔一笑に掻き消された。

「あはは! なるほど、うん、よくわかったよ」
「……ええと。何がわかったの?」
さんはのんびり屋さんだけど律儀で、友達思い。それからすごく一途だね」

瞬時に跳ねた鼓動を抑えるさ中、つけ足された発言にぎくりとする。心臓が肩ごと震え、肯定も否定も出来ないまま視線は戸惑い、足取りも迷い衰え出してしまう。
私は一途ですなんて自画自賛するつもりはないけれど、一人の人を想い続けてきたのは本当だから笑い事じゃない。上手く躱す自信だって皆無だ。知る由もない隣の彼に、隠し事を見抜かれた思いがした。

「好きな場所を熱心に描いて、描き終えた後もずっと大事にしているんだ、一途で合っているだろう?」
「……そういうのって、普通は人相手に言う事だと思う。景色とか場所に一途って変だよ」
「それは仕方ないじゃないか、俺はキミが絵や部活動に頑張っている所しか知らないんだもの。それとも誰か……そうだな、例えば付き合う相手にも今のように一途だったりするのかい」

とんでもない爆弾で肺と心臓まとめて破裂寸前まで膨張する。
まさか幸村くんと恋愛について語る流れになるとは想像していなかった、踏み込んだ話をする相手としては一番に避けたかった人だ、下手を打って世間話も出来なくなったらどうしよう。
焦りが混乱を生み、軍手の下の指先に妙な熱が籠もっていく。
ぐっと握り込んでも尚不安だ。

「ど……どっ、うなのかな、わ、わかんない。そういう人、いないし」
「そういう人って?」
「いやだから……もう。彼氏! 引退しても美術準備室借りてたまに絵描いてて、友達の当番替わった後で自主的に掃除してるんだよ? いるわけないじゃない」

言ってて悲しくなってきた。
彼氏のいる子と自分との差を突きつけられたみたいで、居た堪れない。

「今キミがあげたいくつかの事と、恋人がいない事は関係ないだろう」
「あるよ……一体どこの誰がそんな意味わかんない変な子と付き合いたいって思うの? もういいよ。どうせ友達みんなの中で一人なの私だけだよ」
「あれ、さんも彼氏が出来なくて寂しいって思ったりするんだ、フフ」

さっきから発せられる一言がいちいち刺さって痛かった。
打ちのめされたせいで語尾が萎む。

「思わなくは、ないけど。まず縁がないもん」

鼓膜に染みる幸村くんの声は変わらずにしなやかで、あたたかな春めいている。話に色気を含ませる響きではない。
同い年と思えないくらい落ち着き払っていて、時と場所が違えばずっと聞いていたいなと願っただろうけど、あいにく今は本格的に落ち込むばかり。
だってこれじゃあ、目の前の本人に望み薄だから諦めろと宣言されているようなものだ。
沈む心は肉体にも影響を及ぼすらしい、つい先刻まで何も気にならなかった荷物がずっしりと重たい。足を引きずり歩いてしまいそうだった。
元々、幸村くんに気持ちを伝えるなんて大それた事をするつもりなかったし、とろくに話しもせず描いた絵や記した字を見るだけで胸がいっぱいになっていた日を再生し、落ち窪む一方の気分を奮い立たせる。
すると、静かな呼びかけが降ってきた。

「ねえ、さん」
「なあに」
「それって、俺じゃだめなの?」

呼吸のなり損ないが喉で爆発する。
へ、ふ、あ、は、の全部をごちゃ混ぜにして雑に掻き回した返事をしてしまい、慌てて左手で口元を覆う。弾みでちりとりが落ちる。カランと地面とぶつかる音がした。気づかないはずないのに、幸村くんは立ち止まったきり拾おうとしない。
私は咄嗟に大掃除を思い出す。
もの柔らかな声、甘く滲んだ目元、微笑みをかたどる唇。
確かに同じ台詞だった。それって、俺じゃだめなの。私の他にもう一人、不運な運び手を決めようとしていたあの時。ごみ捨てでも構わないから関わらせてくれとこぼし、ちょっといたずらっぽく自分もあみだくじに参加しようかと言ってのける。
そのどれもが今や存在していなかった。
どう頑張っても、穴があくくらい視線を集中させたって、私の好きな人は――幸村くんは真摯な瞳で、いつの間にか黙りこくる空気の一点を貫くだけだ。ちっとも痛くない切っ先は、信じられない事に私へ向かって真っ直ぐ伸びてきている。

「やっぱりだめかな。こんな学校の外れで、しかもごみ箱片手になんてさ。ロマンチックの欠片もないものね」

大騒ぎする心臓からどっと溢れた血が体の隅までをものの一瞬で支配し、昂ぶった熱のせいで視界が陽炎のよう揺らいだ。
夏じゃないのにすごく熱い。今が冬なのか春なのか、まるでわからなくなった。立っている場所さえおぼつかず、聞き返したくても口の中が渇きつっかえて舌が回らない。
幸村くんが笑う。
揃いの目は優しげに細められている。
だけど甘いばかりじゃない、したたかな光を秘めて、音もなくゆっくりと瞬きをした。
初めて見る表情だった。

「俺に一途になってよ」

私は薄汚れた軍手の上、竹箒を抱えていて、幸村くんもさっき自分で言った通りごみ箱をすぐ横に置いている。
いよいよ死んでしまうんじゃないかと危ぶむような高鳴りに身を委ねる場面じゃないだろう、本当にロマンチックでも何でもない。脳の片隅で理解していても、加速する心音は止められなかった。
2年の時から穏やかなまま保たれ続けていた距離が、柔らに縮む。

他の誰でもだめだった。
幸村くんが描いたものだからずっと特別だった。
幸村くんだけが、私の好きな人だった。

今更思い知ったところで手遅れだ、もうどうしようもない。ただただ箒の柄をぎゅっと握り締め、有り得なかったはずの状況に恥じらう事も出来ず、人目につく可能性と場所を考慮する事も忘れた私の耳へ、ひそやかなささめきが届いた。

「だめじゃないなら頷いて」

変な子でも変な子じゃなくても、俺はキミが好きなんだ。