開幕三角形! 他のどんな季節より夏が終わるのが一番寂しいと言ったら隣の精くんが、どうしたの、随分感傷的だ、おかしそうに笑った。 暗い夜空に花火の残光が瞬いている。 最後に大きな円がいくつも描かれて打ち止めの音と光が響いたきりで、夏の闇を払うものはもう何もなく、散った花の後を追うようさざめき出した虫の音が耳に優しい。 屋台を巡りあれほど買い込んだ食べ物を、一つ年上の幼なじみは花火の間にぺろりと平らげてしまった。 本人が食べると断言したのだから当然残さないとはわかっていた、いたけどこうして間近で目撃するとやっぱりびっくりする。結構な品数と量をほんとに全部食べた。 病気の所為で痩せてはいても決して線の細い人ではない、だけどやんわりとした印象を与える精くんらしいかと聞かれたら想像つかないですと答えるしかないと思う。いわゆる運動部の底力というものなのだろうか。 夏の風物詩の余韻に浸りつつ大きくなった幼なじみの変貌について考え、さっきまで色鮮やかな火の大輪が開いていた海岸の方を眺めていた私の横で、さて、という声がこぼれた。 間もなく、さっと立ち上がる気配も続く。 視線で追いかけると、私には焼きそばやらお好み焼きやらを取り出しぺったんこになったビニール袋を敷くようにと渡してきたくせに、自分はどうでもいいやとばかりに地べたに座っていた精くんがこちらを見下ろしている。 真っ暗な中、片手に多量のゴミをぶら下げていてもなぜか様になっているので、精くんて変わったんだか変わってないんだかわからない、内心首を傾げる。 「帰りたくなくなっちゃった?」 いつまでも腰を下ろしたままでいる私をからかい微笑む人の、やわらかな声が静かに闇を割った。 何も持っていない方の手を差し出され、ほとんど反射的に掴む。 力強く、けれど無理矢理にではない速さで立たせてくれる精くんはつくづく、優しくて頼れるかっこいいお兄さんだ。 お兄ちゃんみたいなのにどこか違うと感じたのも確かだが、そうそう周りにいるタイプでなければ同い年の男子とも全然重ならず、となるとお兄さんのような人、と表現するのが一番近いのかもしれない、思い直す。 触れた掌は熱を持ち、私のより倍はぶ厚い気がする。 とてもじゃないが、ついこの間まで入院していた人の手だなんて信じられなかった。 スカートの裾についた草きれを払う。 待って、と歩き出そうとする人を引き止めしゃがみ、広げていたビニール袋を回収してすぐさま立ち上がる。 明かりがごく薄いのと、隣に座っていたさっきより距離が生まれてしまった所為でおぼろげな輪郭しか映らなかったが、幼なじみが微笑んだ事はなんとなく感じ取れた。 そこでようやく気づく。 手を握ったままだ。 まったくの無意識だったので恥ずかしさより驚きが先にはじけてしまい、さっき階段を上っている時は繋いで貰えなかったのにどうして、と不思議に思う暇もなかった。 「、こんな所までホイホイ着いて来たら駄目だよ」 ごめんなさい。 ともかく謝ろうと口を開きかけたら、笑みが含まれた声にあっさり遮られたからだ。 どういう意味だと尋ねるまでもない。ちょっとだけ呆れた。 「……精くんが連れて来たのに」 「俺以外には付いて行かないようにって事。暗くて危ないもの」 完全に保護者である。 むしろ、遊びが絡んだ途端に妹放置で駆け出すような実の兄より兄らしいのでは。 改めて見渡せば確かに暗い、というより暗過ぎて互いの表情すらよくわからない。 その上に人気もなく、地面が歩きやすいよう舗装されているわけでもないときては、納得しない方が難しいだろう。 一つ頷き、悪路に備え足の裏へと力を入れる。 「そうする。ありがと精くん」 夏の濃い夜に紛れて、幼なじみはまた笑ったみたいだった。 ※ ――それで、どうして私が見知らぬ学校の案内板とにらめっこしているかというと、新しい季節を迎える為の儀式を終えた、かの人の取り計らいが発端だ。 小さな時と同じに、夏が去っていく頃一日だけ遊んではそれぞれの日々へ戻るものだと思っていたので、立海の文化祭に来ないかと誘われたのは少し意外だった。 「家族に渡す優待券みたいなものがあってさ。余分に貰えそうでね。よければ遊びにおいで」 切り出した幼なじみは、どこにいても変わらずたおやかに笑う。 明るい道を通るからいいと、自分では結構かたくなに断ったつもりだったのに、結局押し負けてしまった。花火の後、家まで送ってくれた精くんを、お母さんがそのまま帰すわけがなかった。 よそのうちの息子さんを、実の子供よりよっぽど可愛がる母である。 おまけに精くんは丁寧に挨拶をし踵を返そうとする礼儀正しさまで身に付けているものだから、きっと好感度がうなぎ上り。 何度も何度もやめてよお母さんと抗議する娘の声なんて、聞こえてなかったに違いない。上がっていってとやかましい事この上なかった。 困った素振りをちらとも見せず、それじゃあ少しだけ、答える精くんは本当にできた人だ。 私なんて見慣れたリビングのソファに腰掛ける姿が視界に入るだけで、なんだかそわそわしてしまうのに、無理矢理招かれたこのお客様は随分落ち着いているようだった。 実際の差は一学年分だけのはずなのに、精神的にはもっと離れているんじゃないだろうか。 貰い物のぶどうやらメロンやらを出そうとキッチンへ消える、浮かれた母の背中に溜め息が出た。 「ごめんね……精くん」 「何がだい」 「お母さん、一回言い出したら聞かないから。迷惑だったら迷惑ってちゃんと言ってね」 「迷惑だなんて思った事は一度もないけどな。俺は好きだよ。も、の家族も」 ……普通なら持ってしかるべきの、思春期の恥じらいというものが存在していないらしい。 なんの他意もない風に、さり気なく、でもはっきり言い切られてしまえば、できる返事などたかが知れている。 迷惑じゃなければいいんだけど。 ぼそぼそとした呟きしかこぼせない私の方が、恥ずかしい台詞を口にした精くんよりずっと照れているみたいだ。 でもこの照れくささは、異性に好きだと告げられた時に感じるであろうものとはちょっと違う気がする。 例えるならば長く家を空けていた父や兄が帰省し、大きくなったな、頭を撫でられた時のような、もっと親愛に近い感情。 どことなく気恥ずかしくて、けれどすんなり受け入れる事ができるのは、精くんの声や言葉が明瞭に厚意を示しているからだと思った。 表も裏もなく私ばかりか私の家族ごとに親しみを抱いてくれている、そう信じる事ができるあたたかな声だ。 どうしたって他人なのに、他人よりもそばにいる。 家族とは違う。 友達とも呼べない。 いつだって、精くんは精くん。 根拠もないくせして胸を張って言うのが、理屈はわからないけどきっと一番相応しい。 不思議と肩の力が抜けたおかげで、私は思いがけない誘いにも素直に頷く事ができたのだった。 余談だけど、お母さんが田舎のおばあちゃんかというくらい盛りに盛ったフルーツと冷たい麦茶の全部を、精くんは綺麗に食した。底なしの胃袋だ。最早何も言えない。 ※ 部活の引き継ぎや新学期で忙しいのだろう、『家族に渡す優待券みたいなもの』はこれまた丁寧に郵送されてきた。 薄い水色の封筒を受け取った私よりお母さんの方が行きたい行きたいと連呼していて、たまたま居合わせたお父さんにその日は仕事なんじゃないかと突っ込まれ、私は手の内の上品な色合いを見つめながら、これって精くんが選んだのかな、などとぼんやり思いを馳せていた。 封を開ければちょうど二枚入っていたので騒ぐお母さんを尻目に友達と一緒に行く事を決め、文化祭当日。 人の多さと規模に圧倒されつつ足を踏み入れた幼なじみの学び舎は、とにかく広くて大きい。 徒歩圏内にある公立中学校しか知らない私たちは、私学との違いに目を丸くする一方だ。それでも、正門で貰ったチラシを元ににぎやかな校内を巡り、お祭りの出店みたいな模擬店を見て回る内に、段々楽しむ気持ちが勝っていく。 友達は、小学校の同級生が出るの、と剣道部の公開試合を見に行くという。 頬を赤く染めて本当はこれが目当てだったのだと教えてくれた時は、なんだか私まで照れてしまった。 どうやら目玉の催しらしく、剣道部のエリアは見学希望の順番待ちでごった返していたし、理由を考えれば邪魔者の私はいない方がいいと考え、待ち合わせの場所と時間を決めて一旦別れる。 何かあればケータイに連絡、とも付け加えたので、うまくいけば私は一人で帰る事になりそうだ。おめでたい事なので淋しくはない。むしろ、頑張れ、と心の中で祈る。 さてじゃあテニス部は、と探しにかかったはいいが、唯一の情報源であるチラシには簡単な案内図しか記されておらず、方向音痴の気がある私は別行動を取った途端に困ってしまった。 でもあんなにも嬉しそうな表情を前にして、一緒に待つとかテニス部の場所わからないから付き合ってだとか、言えるわけがない。どんだけ空気読めない、友達甲斐のない子なんだ。 簡易地図と向き合い下を見ていると、話し声の海に放り込まれた心地だった。 軽快なBGMすら薄れ、校内アナウンスも聞き取り難く、夏の最後に出向いたお祭りよりひどい混雑ではないのか。 秋晴れの空は薄く青い。伸びた雲がうっすら白く透けていて、陽射しはやわらかかった。時折額を掠めていく風の爽やかな感触が、行楽日和ですよと語る。 恵まれた天候と裏腹に私はまごついてしまい、とりあえず目指してみようと決めた場所へ向かうどころか、人波に飲まれどんどん逆方向にと追いやられていく。 恨もうにも判断したのは自分自身だから恨めない。 あちらこちらで交錯する流れを上手にさばけず、何分も脱出できずもがいたあげくの果て、放り出されたのは人気の少ない空白地帯のようだった。 ベンチも設置されているので、休憩スペースなのだろう。人ごみにもまれ、疲れを感じていないでもなかったけれど休むよりまず精くんに会いに行かなくちゃ、途方に暮れつつあった心を奮い立たせてもう一度歩き始めてみる。 進んですぐ、ぽつりと佇む案内板を発見した。 引き寄せられるよう近寄って、安堵する。 風情はひっそりしていてもつくりは立派なもので、これまで目にしてきたみたく文化祭仕様の飾りつけもされていないから、多分元からあったものなのだろう。天の助けかというほど有り難い。 現在地は、と人差し指で地図を辿ろうとした、その時。 「おい、そこは立ち入り禁止だ!」 びりびり耳にくる大きな声が後ろから覆い被さってきて、肩が跳ね上がった。 「ごめんなさい!」 親か先生に叱られた子供かといった具合にわけもわからず謝罪を口にし、慌てて案内板から離れる。 咄嗟に振り返って、目が合った。 あっと思った。 声に出ていたかもしれない。そんな私の様子を見、相手も少しだけ目を見開く。 「真田くん!?」 「お前、か」 お互いを認めた声は見事に重なっていた。 驚きにいつもと比べ高くなった自分の声と、想像以上に低くすっかり男の人になった声の差が、なんだかおかしい。 とんでもない確率の偶然に足が浮き立ち、半歩ほど距離を詰める。気まずさは感じず、久しぶりだね、転がしかけた素の感想をすんでのところで押し留める。 「そうだ、ごめんなさい。立ち入り禁止ってわからなくて…」 精くんに見せて貰った写真の中では被っていた黒いキャップを脱ぎ、制服に腕章をつけた長身の人が訝しげに眉を寄せた。 「規制線が張られているはずだが」 「えっ、そうなの? 何もなかったけど」 「……そうか。誰ぞの手抜かりだろう。後で注意せねばならんな」 まったくたるんどる。 いつか幼なじみが口癖だと教えてくれた通りの発言をし、組んでいた太く長い腕を外した真田くんが生真面目極まりない声色で私を呼ぶ。思わず、はい、と気をつけしそうになった。 「どうやらお前は迷い込んだだけのようだな。すまなかった」 シンプルな一言に、今の今まで思い出の底に仕舞われていた日が蘇る。 あれはいつの頃だったか、二人がラフな打ち合いをしている所を見ていた時、オーバーコートしたボールが私の足元近くで弾みフェンスにぶつかった。 破裂音じみた衝撃は大きかったものの、目にもとまらぬ速さの内の事だったし、私が直接被害を受けたわけではない。びっくりして固まっていただけだったのだが、精くんと真田くん二人とも心配して駆け寄ってきてくれたのだ。 大丈夫、ぶつからなかった、と聞かれ首を縦に振る。 まだ私とそう背の変わらなかった幼なじみは安心したらしくほっと笑い、そうして隣の男の子へ言葉を投げた。 真田。 たったそれだったけど、すごく重かった覚えがある。向けられていない私の胸奥深くにまで刺し込む力を秘めていた。 精くんの雄弁な一言を浴びた真田くんはといえばたじろぎもせず、被っていた帽子をわざわざ取り、視線を逸らさないままで言う。 すまなかった。 誤魔化しはせんと、瞳が語っていた。 肺の裏側から、懐かしさが込み上げる。 古めかしい物言いや態度、真正面から向き合う心も、変わっていないのだ。 精くんもだけど、精くんの周りの人もそうなのかな。 口には出さずに一人呟く。勿論変わった部分もあるだろうが、大事な根っこみたいな所はきっとそのまま。だから気後れというものが沸かないのかもしれない。 体中に張り巡らされていた緊張に似た何かが抜けていき、私は頬と口元を緩めた。 「ううん、私も入っちゃいけないとこに入っていたから。でも久しぶりでびっくりしちゃったよ! 元気だった?」 「ああ」 「あっもしかして、精くんが私の写真見せたりしたの?」 真田くんが相槌を打つと、出っ張った喉仏が下がって上がる。 率直な疑問をぶつけた私を見下ろしたその人は、なんの話だ、少し困ったように言い落した。 精くんの成長っぷりにも驚かされたけど、目の前の彼だって相当だ。 まず抜きん出て背が高い。首を上向かせないと目が合わないくらいだった。 肩幅は広く、全体的に堂々としている。筋肉のついた腕、太い首、厳しい目つき。 そこに立っているだけなのに、なんだか体のどこもかしこも硬そう、勝手なイメージを抱いてしまう。 同じ人のものとは思えぬくらい低くなった声でと呼ばれるのは、不思議な心地がした。 「精くん、私にもテニス部の人たちとか真田くんの写真見せてくれたんだよ。見てなかったら真田くんだってわかんなかったかも」 だって別人みたいにおっきいから。 言われたところで、なんと答えていいかわからないのだろう。真田くんは軽く眉を顰めて、そうか、とだけこぼす。益々面白い。 「だが。俺は写真の類は見ておらんぞ」 久々の再会に沸き立ちはしゃぐ私を諌めるが如く、硬質な声だった。 そうなの、続けようとしてすぐ引っ込める。ものすごく馴れ馴れしく話しかけていたけれど、一学年上の他校生にこの態度はいかがなものか。 子供の頃を知っているとはいえ本当に小さいひと時の事のみで、幼なじみだと明確に言える存在の精くんと真田くんは似ているようで違う。 本来なら敬語を使うべき相手なのだ、気づきが場の流れに杭を打つ。 急に心細くなった。 落ち着けと息を浅く吸う。 「そ…そうなんですか。ごめん。なさい、ええと、私はわからなかったので……真田…くん? も、すぐ私だってわからないかなと思って。思いまして、聞いてみただけでした」 付け焼刃が過ぎてひどい有り様である。 真田くんの眉間が険しさを増し、私の心臓を叩く。 「全然変わってないのかなって! 思ったの。じゃなくて、思ったんですよ。ちっちゃい頃のまんま成長してないって事じゃん、みたいな……」 どうしよう敬語ってなんだっけ。 混乱に混乱が重なり、語尾が怪しくなってしまう。すぐそばに立つ『先輩』がこちらの異変を確かめる為か目を細めるおかげで、余計舌が空回る。手に汗もかいてきた。あれだけ騒がしく鼓膜を打ってきたたくさんの話し声も今や遠い。 「一日二日前に知り合ったわけでもなかろう。古馴染みの顔や雰囲気くらい、長らく会っていない俺にだってわかる」 ふ、ふるなじみ……。 打ち返された言葉を脳内でなぞると、一気に年を取った気分だ。 古馴染みって、もっと他の言い方があるのでは。というか中学生が使う単語か。 ――やっぱり真田くんは変わっていないんだ。 萎えて痩せ細っていた空気が肺の中で膨らみ、 「ああ、いた。真田!」 弾けかけてまた小さな泡に帰る。 聞き覚えのある、あり過ぎる声だった。一瞬の間に首を傾ければ、大勢の人の流れを背に片手をあげながらこちらへ向かってくる、男の人。 「何だ、幸村」 同じ一歩でも私のより二倍進めるんだろう、軽々と片足を動かす真田くんが呼んだのだから間違っていないはずだ。 なのに男の子でなく男の人と表現したのは幼なじみが見た事のない、給仕さんみたいな格好をしている所為だった。 髪の毛も上げて整っているし、留め金で止められ捲られた白いシャツの袖から覗く腕が、夏見た頃より日焼けの色が落ちていて、歩き辛そうな黒のロングエプロンは様になっている。 着こなしが完璧な副作用というかなんというか、恐ろしく目立っていた。 びくともせずに背筋を伸ばす真田くんは慣れているらしい。周囲の視線などものともしない精くんが私の姿を見止め、表情をやわらげたのがわかった。 「あれ、じゃないか」 笑う目尻が確かに幼なじみの男の子のものだったので、驚きがほどける。 次いで喉を駆け上がった率直な感想が、勢いよく唇を割った。 「精くんかっこいい!」 「フフ、ありがとう」 言い終えた直後、横でものすごく微妙な顔をしている真田くんに気がついてしまう。 呆れているようにも見え、バカみたいな事言っちゃった、消沈した私は肩を窄めて若干後ろに下がってみた。 制服姿のがたいのいい男子に他校の制服を着ている女子と、優雅が服を着て歩いているといった体の精くんはなんだかもうきらきらしているしで、よく考えてみなくても変な三人組である。 わずかに咳払いし、その格好どうしたの、尋ねれば、テニス部の露店に出ていたのだと答えてくれる。察するに、カフェか何かなのだろう。 「もう引退しているし、本当は裏方で良かったんだけれどね。お前は去年出てないんだから今年出ろって推薦されてさ」 というより脅されたんだ、言っておきながら目元は眩しそうに細められていて、釣られて顔の全部が緩むかと思った。 精くんが嬉しい事は私も嬉しい。 よかった、と芯から喜びが生まれてくる。 だって、これまでにないほど精くんが一人じゃない証拠だ。 「それよりはどうしたんだい、こんな所で。もしかして迷った?」 図星である。 浸っていた所ものの見事言い当てられて言葉に詰まっていると、真田くんが真一文字に結んでいた唇を開く。響くのは重々しい音だった。 「そうなのか?」 そこは聞かないで欲しかった。 「……そうです……」 一体いくつの迷子だと我ながら悲しくなる。 「一人で来たの?」 「ううん、友達と来たよ。でも今別行動してて…私はテニス部のとこへ行こうとしてたんだけど、人波がすごくて」 「流されでもしたか」 「…した。流された。ました」 精くんと真田くんの両方に優しく問われ、より情けなさが増す。相変わらず敬語も使えない、いいとこなしとはこの事だろう。 「……幸村、お前はどうしたのだ」 「あ、そうだった。実行委員の後輩かな…さっき顔を出しに来てね。真田を探しているようだったから、手の空いた奴で探していたんだよ」 「何? またか」 「言うほど何度も探されているのか。人気者は大変だ」 「馬鹿を言うな、俺とてもう卒業する身なのだぞ。いい加減、俺抜きでもやり遂げねばならん時期だ。どいつもこいつもたるんどる!」 男の子同士の会話って、わかるようでわからない。 しかも相手は年上の人たちだから尚、不可思議だ。 本日二度目の口癖を耳にし、しみじみ感じ入る私を見遣った精くんが口元を綻ばせる。 「ね? 真田、変わっていないだろう」 いたずらっぽい目が秋の光に揺らめいて、記憶は自然と花火の日まで巻き戻されていった。 何があったらそんないかつくなっちゃうの。 さあ。俺には大して変わっていないように見えるけど。 息切れした階段の途中で交わした会話が、そう昔の事ではないのに懐かしい。 「………何がだ」 わけがわからないといった風に眉間に皺を刻む真田くんを確かめた目線が、また私へと帰ってくる。 真田に振ってみろと精くんが言外に伝えてきているのを即悟ったものの、素早く実行できる行動力なんて今の私には残されていなかった。というかまず口の利き方すら掴めていない、ちょっと待って時間をくれませんか、切実に訴えたいくらいだ。 迷う私の前で、幼なじみが唇を綺麗な半月型に曲げる。 第六感的なものが叫んだ。 これはからかわれる。 「真田は昔っから老け顔だったなあって話をしてただけ」 「ええっ…そんな話してない! です! 全然してません!」 てっきりこちらに矛先が転がると思いきやとんでもない方向へぶっ飛んでいくので、慌てふためき必死に否定した。 精くんは穏やかな笑い声をこぼし、真田くんは呆気に取られた様子で私の勢いに押されている。後から考えれば軽口だと理解が叶う年月を共にしている二人である、わざわざ私なんかが弁解しなくてもいいものを、この時は焦りで気がつかなかった。 「ちが、ちがくて、違いまして、あの…私は真田くん変わったなって思ってたの。じゃない、ました。大きくなってて、いかついなとは思いましたけど、老けてるとかはないよ。あっ、ないです!」 「…フッ、っは、あははっ! 駄目だ、それ面白いや。ごめん俺降参」 遠慮なしに吹き出し大笑いを始める精くんの横で、真田くんが深い深い溜め息をつく。 おかしくてたまらないとお腹を抱えるチームメイトをちらと見、時と場合によっては辺り一面を静まり返させる威力を持つ声を放った。 「……構わん。気にせず以前と同じように話せ、」 ただ、今の私にとっては、張り詰めた肩やら神経を緩める効力のある、ありがたい言霊でしかない。 「そ…そっか」 「うむ」 「ごめんね。敬語使わなきゃいけないのかそれとも大丈夫なのか、話してる途中でわからなくなっちゃったんだ」 「もう良い。お前は俺の後輩ではないだろう。それに今更改めろと言われた所で出来ん事もわかった。好きにしろ」 なんとも厳めしい、昔のお父さんみたいな口調である。 でもだからか、かえって落ち着きを呼び込んでくれる。しらずしらず速まっていたらしい鼓動が静まるのを感じ、浅い所で繰り返すのみだった息をゆっくり吸い直す。 心細さも生まれた多少のわだかまりも、丸くなって溶けていった。 ――と、笑い乱れていた呼気を整えた幼なじみが背中を伸ばし、向かい合う私と真田くんをじっと眺め、かと思えばすごく楽しげに笑う。 「これにて一件落着?」 「一件など起きていない! 大体幸村、元はといえばお前が」 「ちなみに、真田弦一郎の一は一番の一だよ」 「…………何だと?」 「わあもういいよその話は!」 何度も振り返りたくはない過去を持ち出され、一刻も早く打ち消そうともがく。 にわかに騒がしくなった私たち三人の輪の中で、漫画なら頭上にハテナマークが飛んでいる事間違いなしの真田くんだけが腑に落ちていない様子だ。 大きくなった精くんは時々人が悪い。 いつまでも話を進めないままでいたらもっと心臓に悪い事が起きかねない、空気を切り替えるに相応しい話題を探すさ中、何の気なしに肩に掛けた鞄の紐を直したその時、私だって行きたいと騒いでいた母からの頼まれ事を思い出した。 「あ、そうだ! 精くん、写真撮ってもいい。お母さんに頼まれてて」 写メではなく娘にデジカメを持たせる辺りが本気である。我が母ながら、精くんを気に入り過ぎじゃなかろうか。ううん、と心中のみで唸る。 好青年の幼なじみは、突然の申し出にもかかわらず快く頷いてくれた。 「いいよ。でもどうせ撮るなら、一緒に撮ろう」 「ええ? 私かぁ…私の写真なんてお母さんいらないと思うけど」 ほとんどぼやきに似た返事をしつつ、朝無理くり押しつけられたカメラを探りに鞄へ手を突っ込み、近くの幼なじみと『古馴染み』を目に入れる。 厳格な面持ちで腕を組んでいるのが真田くんで、さっき爆笑していた時によれたらしいシャツの袖を直しているのが精くんだった。 似ても似つかない二人なのに、どうしてか気心知れた仲に見えてしまう。 ちっちゃい頃を知っている私の欲目かな、胸の内で独りごち勝手に微笑ましくなっていたら、最後にシャツの留め金を引き上げた幼なじみが突拍子もない提案をしてくる。 「なら真田も入れば?」 ものすごく軽い誘い口調だった。 でも辞退を許さぬ鋭さを帯びてもいる。 矛先を向けられた真田くんは目を見張ったのち、困惑しきりの様子で反論した。 「何故俺が。の御母堂は俺が映った写真などいらんだろう」 「でもお母さん、真田くんの事覚えてたよ?」 「い、いや、それとこれとは関係が……」 「よし決定だな。その辺の人に撮って貰おう」 私が発見し取り出したカメラを鮮やかな手さばきで奪った幼なじみは、言うが早いか颯爽と歩き出す。 私も真田くんも、目で追いかけるのがやっとの速度だった。 神がかった行動力、実行力の持ち主だ。まさに神の子。 「おい、幸村!」 「あ、やっぱ赤也に撮らせようか。おいで、部室に寄っていこう。真田が若かった頃の写真もあるよ」 「何!? 老いも若いもあるか、俺とお前は同い年だ! 待て幸村!」 ついに大きな声でがなり始めた真田くんも真田くんで、あっという間に先を行く人へ追いつきそうなくらい速い。 というか身長があって歩く足の幅が広いから、一気に距離を稼げるのだ。 置いていかれた私はぽかんと口をあけ、すごいなあ、とただただ感心するしかない。 精くんの背中はたおやかななのに鋼じみた強さがあって、真田くんのそれは見るからに頑丈そうで揺らがぬ迫力を纏っていた。 先頭を突っ切っていた、服はらしくてもその実給仕でもなんでもない幼なじみが歩みを止めずに振り返って、小さく手招きしながら笑う。 「早く! 真田に捕まる前に部室まで行かなくちゃいけないからね。まあ俺は捕まらないけど」 名指しされた上に逃げ切りを宣言された人の闘志に火がついたのが、後ろからでもわかった。背中が燃えている。周囲の気温が秋らしからぬ熱で膨れたみたいだ。 「、早くせんか! また迷子になっても知らんぞ!」 同じく速度を緩めないまま首から上だけを捻って私をどやしつける真田くんは、何も知らない他の人からすると年下の女子にも容赦ない非道な男として映ってしまうだろう。 でも、むきになって精くんに追いつこうとする姿は、私にとって懐かしさのかたまりだった。 いつか目にした事のある光景。 互いにラケットを振るい、弾むボールへ向かって一直線にひた走り、陽が暮れようとも雨が降ろうとも延々打ち合う。 ずっと前からテニスで繋がった『お兄ちゃんみたいだけどお兄ちゃんじゃない』二人に揃って呼ばれては、立ち止まっているわけにいかない。 「待って、精くんと真田くんに本気で走られたら追いつけないよ!」 いつだって優しくてでもちょっと強引な笑顔の人と、厳しげな顔をしていても目で私との距離を確かめてくれている人が、駆け出したその先で待っている。 |