○仁王 交わしたのは一言、二言。数えるまでもない。 細くしなやかな指を閃かせた彼女が、笑顔を連れにごく当たり前の挨拶を口にする。 じゃあね、バイバイ。 おー、と仁王は気怠い返事を投げ、何とはなしに両手をポケットへ突っ込んだ。 振り向け。 止まれ。 こっち見ろ。 どれもこれも当てはまらず、願う事など何一つなかった。 制服のシャツの裾を緩くはためかせる風が仁王の背を揺する一方で、肩に鞄を引っ掛けたクラスメイトは真っ直ぐ校門の方へと歩を進めていく。 一瞬、唇を開きかけた仁王だったが、しかし相応しい言は出て来ない。その気配すら感じられない。 更に言えば呼吸すらか細く消えかかっていた。 快晴でしょうと天気予報士が昨晩告げた通り、降る光は優しく輝き眩い。 穏やかな午後だ。眠気を誘うあたたかさが辺り一面に漂っている。 背中どころか首の後ろまで丁寧に撫でるような陽光の所為か、目元をゆるめた仁王の鼓膜に葉擦れのやわい音が染みた。 少し先に植わっている木の枝が、散らぬ緑の影を煉瓦道へとごくゆっくり撒く。 視線を上向かせれば見事な青が広がっているであろう事など想像に難くない。 夜の暗闇は遠かった。 ラケットを握ったまま汗だくで眺めたいつかの夕暮れも、眼前の景色を塗り替えるまでの威力は持っておらず、脳裏を過りもしなかった。 満ちるのはひたすらになだらかな光。 己の片腕一本で全て事足りるのではないかと錯覚してしまう背中が、見る間に小さくなっていく。 靴の裏は地面に隙間なく縫いつけられているらしい。 実際有り得ないとわかっているのに、そう表現する他なかった。 体は重くはないが軽くもなく、ただ無為に立ち竦むしかない。 決して顔には出さなかったものの仁王は途方に暮れていた。 寂寥とは程遠い朗らかな陽気の下、何故こうも言い知れぬ感情を覚えているのか。 胸の奥深い所がじんわり濡れてゆき、やがて心臓にまで染み渡って肺を覆う。 まるで身の内だけ雨に打たれたようだった。 待てと呼び止めたいわけじゃない。口の端にも上らない思考の欠片さえ浸されている。 得る前から奪われた所為で理解が追いつかない。 ひどい喪失感だけが確かな事実として残る。 それが恋だと、去ってゆく人を見詰めるだけの仁王は気付いていなかった。 ○幸村 「はい、どうぞ」 両手一杯に荷を抱え難儀している様子だったので、見るに見かねて踏み入った。 どうにかしようと苦心している背を追い越し素早く的確に、だがたおやかな仕草で扉を開けた幸村はとどめとばかりに微笑んでみせる。 予想外の手助けだったのか、施された側の少女は目を丸くし、それから青くなったと思いきや赤くなった。なんとも忙しい事である。 堪え切れず吹き出した幸村に対し、胸元辺りから慌てた声が上ってくる。 ごめん、ありがと。 薄紅に染まり弾む頬に芯を揺さぶられたものの、ほんの僅かな間も置かず体勢を取戻し、一言。 「どういたしまして」 そういえばつい先日ばっさり切った髪を友人に披露していたな、と思い返してしまうくらい傍で見遣る首筋は細かった。通り過ぎていくうなじが頬と比べれば薄い朱を乗せており、焦っているのか照れているのか判断に迷ったが、とりあえず嫌がられてはいないらしい。 見届けた幸村は、よし、と微かな緊張を断ち切りドアのレールを跨いだのだった。 切っ掛けを得たからといって急速に近付けるかと言えば否だ。 初めは、おはようとまた明日を時々交わす程度。 萎縮されぬ頻度で折を見て手助けすれば、申し訳なさが際立っていた顔色に変化が起きる。ごめんよりありがとうが先に紡がれ、幸村の心を優しく溶かした。 音に聞く神の子前では何かと縮こまっていた小さな肩からいつの間にか力が抜けている。 自分に向かって響く笑い声を初めて聞いた。 目がきちんと合う。 その内、廊下の隅で他愛ない立ち話をするようにもなった。 大丈夫。怖くないよ。こっちにおいで。 幸村は至極丁寧に、一等大事なものを扱うが如く、語らずして伝え続けた。 「あのね、今だから言うけど私最初はびびってたの」 純粋な――けれど正直なところ少々の下心を潜ませていた親切を手渡してから、大分時間が経った頃。 放課後の教室で生徒総会に必要な冊子とやらを一人黙々と作成していた女の子の為に、例によって例の如く手を貸していた幸村の耳へ柔らかな笑みをたたえた声が滑り込んだ。 「だって幸村君てとにかくすごい人だと思ってたから。私なんかが話しかけていい人じゃない気がしていたし」 「フフ。なんだい、それ」 「もう、笑わないで。あの時は真剣だったの! 真剣に、遠い世界にいる…なんだろう、すっごく由緒正しいおうちの芸能人…みたいって思ってて」 「嫌だな、俺はそんな大それた人間じゃないよ」 「そうだね、そういう意味で大それてはいないけど。でも」 「……でも?」 「でもいつも優しいし、それだけじゃなくって神の子なんて呼ばれてるだもん。やっぱりすごいね」 のんびりとした口調で賞賛するクラスメイトへ、そこまで褒めてくれるのならここはありがとうって言っておこうかな、幸村が穏やかに返せばぱっと笑顔が花開く。 ううん、私の方こそ。いつもありがと。 照れ臭そうに小首を傾げる彼女のうなじはきっと赤く染まっている事だろう。 もう判断に迷わない。 見分けがつくくらい傍にいたのだ。 手を伸ばせば触れられる距離で綻んだかんばせに視線を落としつつ、幸村はつい一瞬前の返答を撤回する。 (そうでもないよ) 重ねたプリントをホチキスで止める音が、静寂を柔らかに破ったのち溶けていく。 俺だって普通に好きな子から好かれたいって思うしね。 胸の淵へと声もなく囁き落とす幸村は最後の一冊を閉じ終え、紙触り過ぎて指先がかさかさになっちゃった、無邪気に告げてくる少女を向かい合わせの席から眺めながら、闇を照らす灯火を前にしたようやんわり目を細めた。 (だけどキミは俺の気持ちなんて知らないんだろうなぁ) 当然だ。 そのように振る舞ってきたのは他の誰でもない、幸村自身である。 当初の望みを叶えたはずだというに、どうしようもない寂しさがふと胸を突く。 耐えるでもなくただ受け入れながら、いまだかつて覚えのない感情は乞うている所為だと気が付いた。好きでいる以上抱えていかなければならないのだろう。 だがそれら全てを凌駕し、包み込むあたたかさが幸村の中に生まれている。 課せられた仕事を全うしようと熱心に励む目の前の彼女が可愛くて愛おしい。 理由なんてない。 探す必要性もないような気がする。 伝えたかった。知って欲しかった。許して貰えるのなら手を取り、直に触れながら告げたかった。 好きだよ。 気を抜いたら最後、唇を割り勝手に出ていってしまうであろう言葉達を、しかしあえて引き戻す。 今はただ、この恋しさに身を委ねていたい。 ○柳 クラスメイトの柳はいつだって突然、前触れなしに速球を投げてくる。 「もう春の空気だな」 風光明媚な観光地や芳しい香りが満ちる花見の名所ならまだしも、見慣れた学び舎の階段を下っている途中だ。 手を十数倍に伸ばさなければ届かぬ位置の明かり窓から日が差すくらいで、季節を感じられる匂いも景色も存在していない。どちらかといえば少々埃っぽくすらある。 そんな殺風景とも言える場所を通りすがるさ中で呟き落とされた、風流過ぎる一言だった。 「そ…そうなの?」 「ああ。日に日に春めいて温かいだろう?」 何故お前は気付かなかったばりに堂々と返され、なんと相槌を打つべきか迷う。 確かに暦の上じゃ冬は去っているけれど、そもそも彼の言う春の空気とやらを気付く所か感じてすらいない、五感アンテナの錆びた私である、相応しい応答なんぞ見つかるはずもなかった。 「……柳ってたまに超雅な発言するね?」 「折に触れ四季を眺めるのも悪くないと思ってはいるが」 「平安貴族か! 歌とか急に詠んだりしないでよ!?」 ツッコんだ途端に高貴なご尊顔に見えてくるのが不思議だ。 ていうか柳ってどの時代にいても仕事出来そう。参謀とか軍師ポジに収まってそう。 等とくだらない空想に捕らわれかけた瞬間、涼しげな声音が二段下の踊り場へと落ちる。 「月に叢雲、花に風、か」 「…………はい?」 え? 今なんて? 聞き返そうと横を見遣れば、すっと通った鼻筋が僅かに下向いている。 さっきまで私の方へ傾いていた顔が正面側へ逸らされている所為だった。 「意味わかんない、柳はいつも色んな事が急過ぎる、もうちょっと私にもわかるようにして下さい。と、お前は言う」 「いやそれ当てられるんならホントわかるようにして!?」 「気にしなくて良い。単なる独り言だ」 「するから。気にするから」 「何なら世迷い言と一笑に付してくれても構わないぞ」 「しません!」 「だろうな」 間髪入れず打ち返されてぐっと喉が詰まってしまう。 このまるっと全てお見通し感は何。 休み時間の校舎はどこもかしこも騒がしく、はしゃぎ合いながら段を駆け上がっていく幾人かの男子生徒とすれ違い、歓声めいた反響音が遠ざかった所でバレないよう息を吸い込む。 「柳はいつも急だけど、でも今日のはなんか変だよ?」 「そうか」 「……どうしたの。なんかやな事あったの」 「お前には俺が沈んだ顔をしているように見えるのか?」 「ないから聞いてみた」 「では俺も白状してみよう。今、丁度、このまま花嵐が起きなければいいと思っていた」 益々意味がわからない。 「悟られたくなくば、解の見つからぬ問いと出会った時眉間に皺を寄せないよう心掛けろ。お前の思考回路は明快故に弄しやすい。俺でなくとも楽に読み取れる確率85%だ」 容赦なく単純な奴認定をされた。 言い返したいのに、ことごとく先回りされてぐうの音も出ない。 そこまで顔に出やすいのかと額に手を当てたと同時、低くても心地よい響きを伴う声が耳を浚っていく。 「勝つか負けるかわからない賭けに出たくなっただけの話だと言えば、幾らかわかりやすいか」 上履きが階段を蹴る音をBGMにやや物騒な物言いが覆い被さり、私は驚きに目を見開く。 こちらを見下ろす両の瞳はこの期に及んで涼やかだった。まるでいい天気ですねと朗らかに述べた後みたく自然体だ。 だからこそ、疑問がむくむく湧き始める。 「ついさっきは嵐が起きなければいいとか言ってたのに、なんでしっかりした勝算もない賭けしたいとか言い出してるの?」 「さて。俺も先日まで自覚していなかったが、根が勝負師なのかもしれないな」 元々見開いていた目が裂ける寸前まで開かれる。 キャラ崩壊だ。柳しっかりして。綿密なデータを元に確率を出して行動するのが柳でしょ。 負けないでよ。危なげなくまっとうな道進んでいこうよ。 私の中に存在するありとあらゆる語句を駆使し、よくわからないままに説得を試みていたら、 「私も一緒に頑張るから! ね!?」 いつの間にやら非行少年を更生しようと燃える熱血教師じみた勢いが出てしまい、柳が珍しく気圧されている。 はっと我に返り、前のめりになっていた姿勢を戻そうとして、ご丁寧に耳のそばまで伸びた長い溜め息によって引き止められた。 なんの溜め息。 聞くより早く柳が答える。 「毒気を抜かれた。……お前には敵わないな」 要するに呆れたのだろう。 なのに当の本人はうっすら笑みを浮かべているから、本当に柳ってよくわからない。 もしかしたらバカにされているのかと眉を顰めれば、していない、とやはり心を見透かしたとしか思えぬ否定が寄越された。 そうして静かな囁きが白昼の廊下へ花びらのようはらと散る。 どうやら無駄だったようだ。やはりまだ賭けに出るべき時ではなかったのかもしれないな。ああ、徒労と言うべきか。 落ち着き払った口調に一層眉間の皺が強固になる。 「…何そのやる気失せたみたいな言い方」 「いや、逆だが?」 今度は問いを頭に思い浮かべる隙もなかった。 疑問が生まれる速さを上回る衝撃で私の心臓が鷲掴みにされた所為だった。 意識もせずただぶら下げていただけの手に私じゃない人の温度が触れている。 柳の長い指が皮膚を辿り、優しく、だけど振りほどけない強さで私のそれを握り込んだ。 あまりの事に呼吸さえままならない。 だというに、何でも見通せる参謀なのに、絶対わかっているくせして、断じて攻め手を緩めない柳は最後にとんでもない爆弾を落とした。 「勝とうが負けようが関わり合いのない事だ。どちらにせよ俺はもう待てそうにない」 ○白石 羨ましいと言われた。 他意の一つも見当たらぬ、きらきらとした瞳で。 「私白石くんみたいになりたかったな」 かっこよくて優しくて、勉強もテニスも出来るんだもん。モテるのもわかるなぁ。白石くんは私の憧れの人だよ。 微笑む人の声も滲む目の縁も、何もかもが澄んでいる。 確かに一種の好意ではあるだろう。 だが白石の欲して止まぬ類のものでは決してない。 「なんや、急に。俺褒めても何も出ぇへんで」 「いらないよ。なんにもいらない。伝えたかっただけだもの」 穏やかに語る少女が流れ落ちた髪を耳にかけ、また一段と笑みを深くした。 白石に贈られる賞賛は常に裏も表もなく、ともすれば気後れする程に純粋だ。 立つ角がない。どこまでも滑らかで丸みを帯びており、その無駄のない麗しさに触れる事すら躊躇われる。 おおきに以外の返答を禁じられているかのようだった。 「そんなん言われたら逆に出したなるわ。言うても毒手くらいしか出せへんけどな」 「あはは、毒手ってサービスなの?」 「それはまあ、受け取る側の意識次第っちゅーとこや」 「ふふ、そっか。遠山君にとっては怖いものだよね」 不格好な足掻きと知りながら、絶対言わへん、強く誓う。 ありがとうを紡いだが最後、それで終いだ。 美しき終幕を迎え、めでたしめでたしと拍手喝采を浴び、物語は二度と始まらなくなる。 一点の曇りもなく綺麗なままのエンドマークなどクソ食らえだと内心毒づいた。 白石は時折、聖書の名に泥を塗るような凶暴な気持ちに支配される己を嫌というくらい知っている。 それもとうの昔から。 一から十まで、隅から隅まで理解してしまっている。 ミスターパーフェクトと讃えられる彼の性が、皮肉な事に細部まで把握する所為だ。 どこがや。俺のどこが羨ましい。 表面にはおくびも出さず声なき声をぶつけた。 「ねえ、毒手って奥の手なんじゃないのかな。安売りなんかしたらだめだよ」 一つとして上手くいかない。 求める結末までは到底辿り着けず、通ずる道さえ煙に巻かれ、分岐点以前で立ち止まっているのだ。お話にならないとはこの事だろう、語るに叶うエピソードも築けていなかった。 「せやな、けど自分にだけはサービスしたってもええで」 「えええ? そこでサービスされたら却って怖いよ! 通常営業でお願いします」 意に反して軽口ばかりが上手くなる。 本当の気持ちだけが形にならぬまま胸の奥深くへと埋まってゆく。 想いは堆積する一方で、自重に耐え切れず崩壊してしまいそうだ。 足を引き摺る程の荷ならば捨てよと天啓めいた理性が断じ、しかし白石はただの一度も従った事はない。 例え再生するだけで気力を削られる記憶だとしても、手放すものかと抱え込む。 そうしてしかと抱くと同時、暗い目で尖った感情の刃を掌中に潜ませていた。 どんな時も朗らかな声音で囁き、春の陽射しめいた柔らかな笑みを浮かべ、白石くんが羨ましいなと瞳に優しい明かりを灯す人を滅茶苦茶にしてやりたい。 枯れる程泣けばいいとまで思う。 一対の瞳に宿る激情がごく密やかに囁いた。 俺の所為で、俺の為に、傷つくんなら上等や。 少なくとも輪郭すら掴めない最低な現状に比べれば大分ましだろう。 最早容易く引き返せる距離ではない。 かといってこれ以上近付ける温度を、彼女が持っていない。 暗澹たる景色の中で唯一ほのかに温度を秘める声は、迷い子を引き摺り込む悪魔のそれだ。 羨ましいな。憧れの人だよ。白石くんみたいになりたい。 解けない呪いのよう何度も何度も木霊する。 抗う心を自身の手で焚き付け続け、けれど時たま、誰にも見せない弱さに沈む事もあった。 そういう時、白石は決まって僅かに傾いだ背を更に伏し、身を切る思いに血が吹き出ようともひたすらに耐えて、きつく握り締めた左手をこめかみへと当てながら目を閉じ、切実に、一心に問い掛ける。 (なぁ、そんならなんで俺はダメなん。もっと近くで教えてや。君の言葉で、俺だけに) その様は祈りに似て尊く、ひどく懸命だ。 ○赤也 女っつー生き物はどいつもこいつも自分勝手だ。 ポケットに両手を突っ込み、背筋を折り曲げ、上履きの裏を擦るようにして歩く赤也は不平を吐き出したい衝動に駆られていた。 姉というわかりやすい例を生まれてこの方間近で味わい続け、不当な扱いを数知れず受けて来た為に姉妹を持たぬ同級生に比べ夢を抱いていない。 優しいねーちゃんが欲しかった、妹なんて可愛いモンに決まってんだろ、目を輝かせ憧れを語る男の滑稽さを捨て置けず、んなわけねーアリエネーお前の思ってる姉とか妹とかぜってーこの世に存在しねーしと悉く否定し軽い小競り合いを起こした日もあった。 尤も、クラスの女子は彼の姉ほど恐ろしく強烈な存在でない事を、赤也も赤也で理解している。 ただ子供のお使いみたいなものなのだから簡単だろうとばかりに、ちょっと切原行ってきてよ、気安く丸投げされ、俺って頼られてる、等と浮かれる感性を持ち合わせていないだけだ。 「あっ、いた切原君! 待って待って、私も手伝うよ!」 愚痴が口をついて零れかけていたのに、追いかけて来たたったの一声で綺麗さっぱり引っ込んでしまう。 はっと振り返るまでもなく、赤也より少しだけ低い背の女子生徒が隣に並ぶ方が早かった。 「どこまで行くの、資料室?」 偶然くじ引きで同じ係となった少女が何気なく赤也を見遣る。 「そーだけど」 向けられた視線が真っ直ぐ過ぎる気がして受け止めきれなかった赤也は、逸らした鼻先をさも不機嫌ですと訴えるように小さく鳴らした。 が、クラスメイトは別段気にする素振りを見せない。 鈍感なのかそれとも単に豪胆なのか、いつまで経っても謎のままだ。 柳先輩だったら見破れんのかな、独りごちて緩やかに歩く速度を落とす。 「私の仕事でもあるんだから、声かけてくれればよかったのに。一人じゃ大変じゃない?」 「いちいちアンタ探して声かける方がメンドくせー」 「えー同じ教室にいたじゃん」 流せよそこは。 そうなんだーつって見ねぇフリして黙ってろよちょっとは。 心にもない悪態をつきそうになり、すんでの所でどうにか抑えた。 制服のポケットに隠れた手がじわと汗を掻き始めている。 げ、ダッサ。 歯噛みしながら情けなく滑る指を握り込み、切原君て意外とすんなり頼まれ事引き受けるよね、構わず暢気に話す少女の存在を意識しないよう必死に努めた。 女っつー生き物はどいつもこいつも自分勝手だ。 こっちの気持ちスゲー無視するし、はっきり言わねえのになんでわかってくれないのとか言い出すし、人の好みにはギャアギャア騒いでケチつけるクセして自分は優しい人が好きとか言いやがって、サッカーバスケテニス、まあなんでもいいや、ともかくスポーツが出来て運動神経がいい人ってかっこいいーつってはしゃいだりする。 意味ワカンネーよ。誰でもいいんじゃん。俺らが可愛い子がイイとか胸でかけりゃそんでオッケーとか話すのと変わんないっしょ。 浮かれた話題が飛び交う度に納得出来ぬと不満を重ね、その内実に潔く諦めて話の半分も聞かなくなる赤也だったが、彼女の言葉だけはしっかりと拾い上げてしまう。 うちの学校カッコイイ先輩多いけど、どんな人がタイプ? 聞かれて答えた声がいやに耳に残るのだ。 うーんそうだなぁ、優しい人がいいかな。 全く以って面白味のない、誰でもいいんじゃんと赤也が閉口したその他大勢の回答と重なるにもかかわらず、いつだかテニス部の先輩達がくれた『思う所があるから気になるんだろう』というヒントに沿う感情が次々湧いて溢れていく。 いやどんなだ。 どんな風に優しいヤツがいいんだよ。 つかこいつにとっての優しいって何。 いつもニコニコ笑ってるヤツ? こっまけぇとこにいちいち気がついて、そんでなんでも出来るヤツとか? どこ行くにも荷物持ってやる男がいいワケ? 立てたくもない聞き耳を立ててしまい、考えたくもない事で脳内が満員電車状態と化して、身動きが取れない。どうでもいいはずの話題一つ一つが気になって仕方がなかった。 近くにいてイイ事なんかなんもねぇ。 つーか隣にいなくても目で追っちまうからあんま関係ねーし。 癖の強い髪を掻き毟りたい欲求に追い立てられ、早鐘を打つ心臓には回数制限が設けられていない事を思い知り、益々熱の籠もる掌は勿論、体の全部が己が意の枠外あちらこちらへ散らばりそうだと必要以上にきつく結んだ赤也は、長年踏みつけた所為で潰れた上履きの踵を歩きながら直す。 よれた感触が靴下越しに伝わった。人からはだらしなく映るであろう背を気持ちしゃんと伸ばしてみる。ダリィ、をカモフラージュに一層歩みを遅くした。 「わかった、お姉ちゃんいるんでしょ切原君?」 が、やはり赤也が抱く感情の一切合財を素通りしていく少女は、相も変わらず世間話を続行するつもりらしい。 話した覚えのない家族構成を見事当てた勘の良さは認めるが、どうせなら違うとこでその勘働かせてくんねーかな、微妙に萎えたやる気をそれでも捨てられぬまま舌の上へと渡す。 女っつー生き物はどいつもこいつも自分勝手だ。 脈があるんだかないんだか全然わかんねぇし、どうでもいい話ばっかダラダラ続けるし。 聞きたいとこそこじゃねーってツッコめる隙もあるんだかないんだかさっぱりだ。言葉にしたらちゃんと伝わんのかよ。 あのさぁ、俺アンタが好きなんだけど。 そこんとこわかって話しかけてきてんの? 「なんかたまに弟っぽいとこあるよ。ねえねえ、当たってた?」 何の衒いもなく微笑む彼女ばかりか自身の感情にさえ振り回されつつある赤也だったが、立ち向かう明確なすべを手に入れていないが為に項垂れる。 その上腹に溜まる苛立ちに似た何かが笑顔一つで帳消しになるので、予想以上に重症だと思い知った。 ○跡部 こうべを垂れてひれ伏す人々の群れが整然と並ぶ様はいっそ清々しい。 跡部自身はそれらに鼻を高くし図に乗るような愚かさは持ち合わせていなかったが、見慣れた光景である事は確かだ。 しかし始めから与えられた輝きに非ず、眼前にてそびえる壁を壊し、地に膝をついた痛みや泥にまみれた屈辱を丸ごと握り、何もかもを飲み込んで血肉とした末の結果だった。 この世の全てが是だと囁く。 跡部が進む毎、不可能の文字が薄れて淡くなる。 絶え間なき賞賛の騒がしさに祝宴めいて浮かれた空気、跡部を煌々と照らす輝きが眩く、一つとて足りぬものはないかのよう。 いついつまでも喝采に包まれ、彼が居るだけで場が華やぐに違いないと誰しもが認めていた。 ――傍目から見れば、そんな所だろう。 あらゆるものが夢幻となる可能性を跡部は知っている。 跡部だけが知り得ている。 どうという事もない、いわば平々凡々たる唯一が否と首を横に振ればそれだけで跡部の世界は裏返ってしまうのだ。 オセロや囲碁の黒白があっという間に様変わりするように、満ち足りた是が掌から零れて色を失っていく。 はるか彼方の天に座す神より余程確実に跡部の運命を握るは、ただ一人きり。 「跡部くん。こないだの数学の授業で課題が出たんだけど、プリント誰かにもらった?」 テニスの試合でいなかったよね、持ってなかったら私のコピーしようか。 教室内の自席につく跡部の視界にひょいと紛れ込む少女が、やや緊張した面持ちで机前に立っている。小さな親切なのか、はたまた好意からくるものか、今の跡部には判ずる事が出来ない。 嘆息したのち腕を組んで答えた。 「……ああ、頼む。悪いな」 内外にその名を轟かす跡部は、数学の授業に限らず全科目の担当教諭から不在時の授業内容や課題について逐一知らされている。 まさしく王そのものだ。 しかし御触書のよう大々的に周知されているわけでなし、一般生徒たる彼女が知らぬのも無理はない。 よって跡部は不満の類を抱かずにむしろ甘んじて受け入れ、あえかな繋がりでもないよりはましだ、言い聞かせ顔や態度におくびも出さないで嘘をついた。 すると、氷帝に君臨する王様に頷かれほっとしたのか、少女が表情を緩める。 うん、わかった。コピーするだけだから特に大変じゃないし、気にしないでね。 笑みほぐれる頬が柔らかそうだ、と断じて漏らすわけにはいかない秘密事を心臓の裏へと仕舞い込んだ。 ともすると見落としてしまう程に一瞬だった。 目まぐるしい日々の中では掻き消え、喧噪や輝かしい光の輪から置き去りにされ、記憶容量に何の影響も与えぬ、頼りなく小さな存在である。 跡部が刻み付けて来た歴史を塗り替える威力などない。 他愛なさのあまり吹けば飛んでいきそうだ、馬鹿馬鹿しいと理解していても尚真面目に分析してしまう。 一週間の内一度声を聞くか聞かないか。その程度の関係性しか築いていないが為に、彼女が日頃奏でる言葉自体には大層な意味や力などなかった。 脅威となるのはたった一言なのだ。 否。 実際跡部は拒絶された事などないし、声を掛けた所で嫌だと断られる可能性だってほぼないものとしている。 だが口に出されたが最後、渇いた旅人のよう途方に暮れるだろう。 愕然と立ち尽くし、次の一手も打てぬまま無為に時を過ごす。 それまでの跡部を鑑みれば、有り得ない、と者皆全てが驚きに目を見張る無様を晒す羽目となるに違いない。 明確な輪郭を持つ恐れを抱えながら、しかし跡部は決して屈しなかった。 コピー機の設置された教室へ向かおうとする背中を呼び止め、 「その前に話がある。…来い」 出来得る限り低く響かぬよう心掛け決意に身を固めれば、待てとの王命を受けた少女は大きな瞳をしきりに瞬かせている。 唇の端に想いの一片を佩いたのち、不敵な笑みで以って跡部が続けた。 バーカ、なんだその間抜け面は。そう時間は取らせない。すぐに済む。ま、お前次第で長引くかもしれないがな。 どこからどう見ても何の変哲もない、跡部にとってはただの女でしかなく、だけれどこの世にただ一人きりの、絶対唯一がすわ何事かと顔色を失う。 あからさまに狼狽え、私何かやらかしましたか、混乱極まった表情で王の中の王に視線で縋り付くが、尚も跡部は笑みを退かせない。 慌てふためく彼女へと今すぐ手を差し伸べたい欲を掌中にて転がし、待ちきれぬとばかりに唸り始めた本心に命を下す。 俺が否を是にしてやる。 いつだってそうして世界を変えてきたのだ、 諦める理由など何処にも――人智の及ばぬ天上にすら存在していない。 確信と誇りを供に連れ、跡部は王然とした一歩を踏み出した。 |