猩々緋 (しょうじょうひ)




氷帝に君臨する王。
等と堂々口にしてしまうと、学園外の人から一体どういった学校なのだと疑念の眼差しを浴びるかもわからぬが、これ以上相応しい言葉が思い当たらないのだから仕方がない。
単なる派手好きに見えてその実、とんでもない時間と研鑽の積み重ねを経て輝くその人を、眩しく思わずにはいられない。
平気な顔で見上げられる程、人間が出来ていないのだ。
先輩や会長といった一単語だけでは到底追いつかぬ尊敬は時々ふいにはみ出ていく。
一学年上のかの王様が手の内を見せるよう、滲ませる優しさに触れる都度、増す一方である心の速度に眩暈を覚える。

とっぷり日が暮れた頃だった。
生徒会に振り分けられた仕事を必死の形相で片付けていたらば、下校時刻を越えてしまっていた。
多忙を極める跡部がテニス部の練習を終え生徒会室へと現れたのも丁度同じ頃合いだった事は、幸いか災いか判断に迷う所だが、ともかく偉大なる王と人民から喝采を浴びる生徒会会長は整った眉を顰める。
それから不出来な後輩を哀れんだのだろう、施錠をするからさっさと出ろ、と乱雑な物言いと共に空の手をズボンの右ポケットに仕舞った。
要領の悪い後輩が大人しく従う様を見届けたのち、ついて来い、問答無用のオーラで語らずして語る。
辿り着いた先は、人気の失せた自販機コーナーだ。
目を瞬かせる小さな影の持ち主を置き去りに、育ちも尊き王が慣れた手付きで飲料の購入を済ませる。
薄ぼけた蛍光灯の下、人工音がやけに大きく響いた。
何気ない仕草も跡部景吾という傑物がなぞるだけで、一寸先に迫る暗闇を退けてしまう威力すら得ているようだった。
肌寒い時期には有り難いほのかな湯気の立つ紙コップが、色彩も灯りも乏しい宙を横切る。

「熱いから気を付けろよ」

差し出された恵みをしかと受け取り覗き込めば、瞳に反射する色はミルクティーのそれだった。休憩時間に好んで飲んでいたもの。
いっつも同じの飲んでるよね、隣席にてひと息入れていた会計の先輩に笑われた日もあった。跡部はその場にいた事はいたが、絢爛豪華な生徒会会長専用の椅子に腰掛け書類に目を通していたはずだ。
そもそも、一生徒会役員の好みまで把握しているとは思えない。
だけれど事実、有無を言わさず手渡された嗜好品が確かな温度と共に存在を訴えていた。
考え至った瞬間、胸の奥と言わず隅と言わず、あらゆる全てに強烈な炎が宿る。

「先輩好きです」

零れた声にさえ生まれたての熱が馴染み、異様な説得力を持ってやまない。
鼓動は追いつかず、呼吸もたった今得た情熱の色に染まっている。
先刻まで鼓膜を触っていた遠くのざわめきは既に失せ、空気の固まった音がする。
大抵何か見据えている所為で鋭く映える跡部の双眸が見開かれてゆくのを間近にしてようやく、彼女は己が失態に気が付いた。

「あ……いえ、人として? 人間として尊敬してます。大好きです」

弁明したまでは良い。
だが、慌てたのは良くなかった。
真実、心からの言葉だったというにいまいち嘘くさい。
その証拠に、跡部の眉間は見る間に強張り、解けそうにもない強固な形状で落ち着いてしまっている。

「そうかい、ありがとよ」

コーヒーだろうか紅茶だろうか、自らの分の紙コップに口をつける王様の声音がひどく平坦だ。
お陰で日々彼を仰ぎ尊ぶ少女は気が気ではない。

「えっ、ホントですよ!?」
「ああ」
「私嘘ついてません!」
「そうか」
「絶対です、信じて下さい跡部先輩」
「わかったからそろそろ黙れ」
「ホントのホントに、大好きな先輩ですから!」

言い連ねる毎に最早ほとんど顰め面をしている跡部の返答がおざなりになっていった為、尚も繰り返した所で、

「……お前、ケンカ売ってんのか」

語尾に、アーン? と例の口癖を加えた声によって、体に巡っていた熱を断ち切られた。
滅相もございませんの意で首を振れば、どうしてか不機嫌な様子の王様が眉間の皺を緩めぬまま紙コップをぐいと一気に飲み干し、用済みとなった容器をゴミ箱へと放る。
乾いた音の余韻が耳朶を噛んだ。
急に張り詰めた雰囲気に気圧され唇が先走る。

「ご、ごめんなさい……?」
「何が悪いかわかってもいねえのに謝るな」
「…………すみません」
「もういい」

今まで味わった事のない温度だ。
肌がざわめき、衝撃のあまり目の奥で火花が散った。
まるで頭を鈍器で殴られたようだった。底抜けに愚かなミスを犯したとて、こんなにも冷たく突き放された覚えはない。
手の中に在り続ける、ついさっきまでは嬉しくて仕方がなかったあたたかな気遣いが急速に薄れていく錯覚に陥ってしまう。
俯いた視界の端。
いついかなる時も美しいかの人の靴先が微かに揺れた。
チッ、と落とされた苛立たしげな舌打ちに背筋も凍りつく。

「まだ何も言ってねえのに、なんでこの俺がフラれた気分になんなきゃならねえんだ。そういう所がいちいち気に障るんだよ、バカが。ちったあ考えて物を言え」

極限まで小さくなっていた彼女ははっとした。
時も場所も忘れて眼前の尊い人を見た。
視線は重ならない。
通った鼻筋を背けた跡部が、あらぬ方向を見遣っているからだ。
夜の帳に包まれた学園の敷地内、闇のきざはしを帯びた横顔が瞼に焼き付く。
消えない跡になっていく。
憂い、戸惑い、苛立ち、様々を含んだ彼の片目が、こんな時でさえもひと際目立って映る。
怯え震え佇むばかりだった少女の顔がたちまち赤く染まった。
顕現した感情は首を滑り、心臓を回って、手どころか指先にも到達する。
あっという間の事だ。留める間も抑えるいとまもない。
鮮烈な血潮にも似たその色は、突然訪れた恋を言葉よりも如実に物語っていた。