支子 (くちなし)




事故だ。
それも己の不注意でも何でもない、完全な貰い事故である。

図書委員の特権をフルに活用した財前は、図書室を利用する生徒がいないのを良い事に貸出カウンターから離れ、この暇で仕方ない時間をどうやって消化してやろうかと考えながら、昼尚暗き本棚の群れに身を隠していた。
遠い窓辺から差し込む日光が、独特の角度で本の背表紙を陰と陽に分けている。
午後の陽射しはどこかまろやかな黄味を帯びており、なんや見てるだけで眠なる、普段からはきはきと溌剌に活動をする質ではない財前が目頭を擦ろうとした、その時だった。
半端に掲げた腕をそのままに数歩奥へと進み、立ち止まる。
カウンターからは窺えぬ空間があったらしい、完全死角となった位置で密やかな話し声がぽつりぽつりと落ちて来ていた。
人おったんか。
唇を開かずに呟いて、何の気無しに人影を確認しようとし、

「好きや」

意に反したタイミングで伸ばした首を緊急停止させる破目となってしまう。
低い声で愛を乞うたのは見知らぬ男子生徒で、おそらく上級生であろうと思った。
いやよそでやって下さい。図書室で何してんねん。
しょーもな、の一言が脳裏を過り一秒と経たぬ内に霧のよう失せた。
大きな体を竦ませ懸命に想いを告げる男の傍にいたのは、財前が入部当初からくるくる動き回り白石を補佐していた、一学年上のマネージャーだったからだ。
視認した途端、背の高い本棚の影も割って入る明るい光も色を失う。
(は?)
音を得たらば恐ろしく冷たい響きになっていたと思われる一声が胸を汚したあげく、呼吸の尾をとんでもない強さで握り潰そうとして来、財前は耐え切れず頬や眉間を強張らせた。
無意識の内に開かれていたらしい瞳孔が、斜め後ろに居る後輩の存在に気付きもしない少女の横顔をしかと捕らえる。
黒目がちな瞳は真摯に相手を見詰め、日焼けしやすい白皙の頬がうっすら撓んだ。
太陽の光に照らされとろかされた空気をよそに、垣間見えた彼女の表情はいっそぞっとするくらい大人びている。
刹那、背骨の終いを打たれたかのような衝動が息吹き、財前は呼吸を忘れた。
見知らぬ女にしか見えぬよく見知っていたはずの先輩が長い睫毛を伏せ、すぐさま持ち上げる。
そうして、時折財前を呼んでは微笑む柔らかな唇が震え、恋の終わりを無情に告げた。

「……ありがとう。けど、ごめんなさい」



事も無げに当番を終えた財前は、部員やマネージャーからやや遅れて部活に参加した。
図書委員の仕事だというのにもかかわらず、サボリやズルやと揶揄してくる三年生を尻目に何食わぬ顔で着替えを済ませ、よってたかって後輩をからかう皆を嗜める部長へ軽く会釈する。
細心の注意を払わねばならなかった。
悟られるわけにはいかない。
特に、大雑把なようで変に鋭さを発揮する白石にだけは気付かれたくなかった。
腐っても絶頂でも四天宝寺テニス部を纏め上げる部長、噂好きでもなければ面白がって広める事もないとわかっていたが、己でも整理しきれぬ心の内を掴まれたくなかったのだ。
耳を彩るピアスの数を指先で確かめながら、追い掛けたくないのに追ってしまう人の背を、ほんの一秒だけ見遣る。
ウォーミングアップを終えただけなのに既に汗だくとなっている幾人かを笑い、タオルやら飲み物やらを甲斐甲斐しく手渡す彼女はいつも通りだ。
つい先刻、生真面目に恋を告げられたとは、いかにも鍛えてますといった風貌の男を無惨な失恋に追いやったとは、到底考えつかぬ瑞々しい顔色でてきぱきと働いていた。
愕然とする。
無論、表情にはおくびにも出さない。
だが財前の胸中は、畏れに似た何かと所以の判明しているくせに跳ね除けたくなる腹立たしさ、日頃の大人しやかな様相からは想像出来ぬ程はっきりとNOを叩きつけた強さに対する痺れ、真っ直ぐ見据える瞳が美しい事への抗い難い賛美、それら全てを飲み込んで渦巻く泥ついた感情、混ざり混ざって嵐の如く吹き荒んでいた。
あのよう知らん野郎の先輩はアホや。
せやけど助かったんはホンマの事やから、黙っときますわ。
誰に宛てるでもない呟きで以って平静を保とうと心掛ける。
俺は間違えたりせえへん。
しっかと腹を括り、幾度となく自らに言い聞かせ、あえて傷をつけて回った。

「光くん、はい。これ」

そのさ中、呼び止められて決意は頓挫する。
財前、財前くん、光、光くん。
その時々によって呼ばう形を変える少女がどうという事もない、といった態度で一枚の用紙を差し出してきたのである。
視線を外していた隙に、随分距離を縮められていたようだ。
常の財前ならば別段気にする事もなく受け入れていただろうが、今日は――今日だけは事情が違った。
己の不覚を悔いるのも忘れ、怒りに近い情動によってやわい部分を突かれ呻く。
(は?)
二度目の絶対零度もやはり表には出ない。
出ていかぬ分、重く冷たく圧し掛かった。
財前が来る前にミーティングでまとまったいくつかの事柄を記したのだとマネージャーは説明したが、薄い紙切れ一枚に指の皮膚が侵された瞬間、元からささくれ立っていた心がより一層毛羽立つ。
何でもない。
何でもない事なのだ。
あの哀れな男も、男が迎えた結末も、意味も他意もなく財前を気安く呼ぶ人にとっては。
自分と彼女の間にだって何もない。
驚くべくもない当然の帰結。
だというに、口を割るのは底から引きずり出したかのような低い響きだった。

「…………どーも」

たった三言しかない応答も最後までまともにぶつけられない。
ちらと一瞥しただけで逸らした財前の態度は、諸先輩方には大層ふてぶてしく映ったのだろう。あちらこちらで声が上がる。

「あ、コラ財前なんやねんその態度!」
「ヤダァ、光クンってば怖い顔ぉ」
「おう何小春怖がらせとんじゃしばくぞ!」

はいそこ騒がんとそっとしとき、口にしながら、けどなあ財前、マネージャーかて先輩でいつも世話になっとるんやから礼くらいきちんと言いなさい、注意を怠らぬ白石を、傍近くで何事かと目を瞬かせていた少女がやんわり押し留めた。

「ううん、ええよ。お礼のおの字もなかったらあれやけど、今のは言うてくれたもん」

微笑みの浮かんだ頬は健やかだ。
財前は一層頑なに周囲を拒み、騒がしい先輩らを目にすればお決まりであった気だるげな溜め息も零さない。
けどめっちゃ無表情やね、今日。なんかあったん?
ただ暢気に尋ねる人の細い肩を掴み、思い切り引きずり倒して詰ってやりたかった。
もし自分が好きだと告げても同じ表情で断るのだろう。
その辺の男に対するものとそう差異なく、実にあっけなく、何事もなかったかのように、かくも美しき女の顔でけりをつける。
そんなつもりなどないと真剣な眼差しに語られたとて、拒絶された方にしてみたら踏み躙られたのと同義だ。
耐えられないというより、我慢ならない。
彼女の特別を得られぬのであれば、告げるべき言葉も意味をなさない。
交わす会話はただただ毒である。
だから口にはしない。

「あったとしても先輩にだけは言いたないっスわ」
「え! なんで!?」

死んでも言わないと決めた。
持て余した恋情を飼い慣らす事が出来るようになるまで、彼女のいつも通りに素知らぬ顔で付き合えるようになるまで。
――この人が、自分のものになるまでは。