鬱金 (うこん)
遠くにいてもすぐにわかる。
穏やかな陽射しに恵まれた放課後だった。
日直の私は黒板消しをクリーナーに吸わせ、それから念の為はたいておこうと寄って行った窓辺で、渡り廊下の屋根下から抜け出す人を見つけた。
ひと際背が高い所為か、遠目からでも目立つ。
柳くんだ。
ポン、と叩き合わせた深緑から白い煙が立ち上っていく。チョークの粉越しでも気付いてしまう無駄に研ぎ澄まされたサーチ能力に自分でもちょっと引いた。
校舎の薄暗がりを通り過ぎ、大きなごみ袋を片手に中庭へと入っていく所のようだ。
そうか、今日はごみ当番なのか。
一人納得し目線を外さぬまま日直の仕事を再開しかけたら、長い手足を楚々と、しかしモデル並みに美しく動かす彼の傍らへ走り寄る誰かの影で両腕が固まった。
女の子だ。スカートの裾が可愛らしく翻り、胸元を彩るネクタイは駆けた反動でひらりと舞って、余韻に長い髪が揺れている。
話し掛けられたのだろう、それまで颯爽と歩いていた柳くんがやや速度を緩め、かつての私が後光が差しているようだと讃えた顔を傾けた。
流石に表情まではわからなかったが、大きなリアクションを取ったりはしていないから、きっと普段通りに振る舞ったはずだ。
だというのに、私の腕はみるみる力を失くしていく。
軽いはずの黒板消しが筋トレ用の器具に変化したのかというくらい重くなった。
血の気が引くとまではいかないものの、心が心臓ごと萎むのが自分でもわかった。
生きていく上で重要なパーツが見事にしなっとくたっと弱ったイメージが容易く思い浮かび、余計に気力やら元気やらが吸い取られてしまう。
優しいな、公平な人だな、ちゃんと人の話を聞こうとするよね。
いつもなら素直に感心出来るのに、何事かを囁いた様子のその子へ少しばかり屈められた柳くんの背中が今は憎らしい。
「仏様じゃなくって、お坊さんなのかも」
胸に巣食い出したもやもやを上手く手懐けられないので、どこか別のはけ口がないかと自分なりに探した結果、翌日にはそういう事になった。
「……何の話だ?」
脈略も前触れもない呟きだ。
柳くんは博識でクラスの男子に比べたら察しもずっといい出来た人だけど、わからない事もあるらしい。
感情の読みにくい顔にうっすら困惑を乗せ、室内に小さく響かせていたペンの音を止めた。
それでちょっとだけ、本当にちょっとだけだけれど気が済むのだから私って救えない。
「柳くんの話」
「俺は出家した覚えなどないが」
「してなくても、世俗にまみれてる感じがしないもん。あと、みんなにあれ何これ何って色々聞かれてるよね」
話が出来ればいい事ありそうだし、太陽を背負う時なんか後光が差しているみたいだし。
指折り数えて述べる内、雨の日も風の日も目にする立海テニス部ジャージが高僧の法衣に思えてきた。
全国連覇中という強烈な印象を一般生徒に叩き込む誇らしい色は、徳の高い彼によく似合う。
ふと空気が緩んで和らいだ。
注視しなければそれとわからぬくらいの微笑を唇の端に乗せた人が、節々の際立つ長い指からペンを解放し、日なたで温められた机上へと静かに置く。
昼過ぎの陽光はお坊さんじみた柳くんに淡く滲んで、世間離れした雰囲気により一層の説得力を持たせた。
有り難い説法でも始まりそうだ。
「今度はどうした」
凛とした声色で尋ねられ、違った、説法じゃなくて人生相談が始まった、と脳内で訂正する。
「どうしたって、何が?」
「お前の思考回路は読めている。以前ならば少々意味合いも違ったが、こうなった今他意も含まれているだろう」
「…………柳くん」
「何の話? とお前は言う」
「……混ぜっ返さないでよ……」
「俺は水を差したつもりなどないが」
人の話は最後まで聞けと暗に諭されているようで、やっぱりお坊さんのお説教だと思う。
どうしようもない気持ちに振り回される、本当に救いようがない私でも赦して貰えるかなあ。
顎についた両手を外さず、視線の行く先をずらす。
やがて柳くんの胸元を飾るネクタイへと辿り着き、ひと握りの人間に許された法衣、もといジャージを脱いでいるから今はオフかな、なんてふざけた思考に脳を偏らせてみる。
けど、制服姿でも何でも彼は彼のままなのだ。
それがいいか悪いかは別として。
「近頃のお前は俺を誉めそやす時ほど、機嫌が悪い」
切れ味抜群の指摘に一瞬息が止まってしまう。
理解者と言えば聞こえがいいが、こちらの都合や想いの類をまるで無視した上で急所を突かれるのは、柳くんには申し訳ないけれど勘弁して頂きたい。
「故に、今度はどうした、と聞いたんだ。お前の気性が伸びやかである事は俺もよく知る所だからな。その分、表情や態度には出にくいようだが……お陰で読みやすい時もある、とは因果なものだ。さて、経験則を以って言わせて貰うぞ。原因は俺なのだろう?」
連なる隙のない物言いに抗うすべが全く見当たらなかった。
時と場合や言い方によってはとんでもなく高慢に聞こえる台詞なのに、柳くんが口にした途端に高尚且つ涼やか極まりない論舌となるのだから困る。
安易に受け入れては駄目だと自分で自分を叱咤するも、空気を伝い鼓膜に触れる声に威力がありすぎて勝てそうにない。
おまけにとてつもなく恥ずかしい指摘をされている気までしてきて、頬や耳に体中の血が集まっていくのがわかった。
ジャージという名の法衣を脱いだ姿に、後光は差さない。
ほんのり開かれた目元が涼しげにこちらを見詰めている。
向かい合わせの席で押し黙る私に、立海テニス部の参謀と仰がれるその人は、柔らかな面持ちで止めを刺した。
「……自惚れだったか?」
胸を凄まじい強さで打たれ、うんともすんとも言えなくなった私が力を振り絞って首を横に振ると、切り捨て御免とばかりに追撃の手を緩めない柳くんが事も無げに続ける。
お前の高評価は有り難いがな。生憎と俺は世俗まみれだぞ。
それからさっきまで熱心にノートに綺麗な字を書き記していた手を伸ばし、赤面を隠す為に顔の半分以上を覆った私の手の甲に音もなく触れた。乾いた掌の感触に心臓を掴まれる。
あたたかな体温が殊更に優しく肌をなぞり、一指一指丁寧に剥がそうとしてくるから、気圧された鼓動は凄まじいスピードで体中に巡っていった。
全て暴かれる前に白状した方がいいと慌てて口を開く。
私以外の子にあんまり優しくしないで欲しい。
最後までつっかえず言い切ったら、大体にして感情の読めない顔にわずかな驚きが表れた。
たちまち後悔に駆られ、ずっと黙っておけばよかった、ひたすら恥じる。
だけど私にとっての有り難いお坊さんは、別段気にも留めていないらしい。
先程単なる俗人だとの自己評価を下した唇を薄く滲ませ、
「心掛けよう」
なだらかな揃いの瞳へ光を灯しながら嬉しそうに笑った。
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