照柿 (てりがき)




「乗るか」
「………いい」

練習はどうしたの。
聞く勇気も気概もない。
夕焼けに染まる校門で鉢合わせたのは、全くの偶然だ。
雅治も私も互いの行動を隅々まで把握しているわけではない。
だけど時たまこうして重なってしまうのは、過ごして来た時間の長さというやつなのだろうか。
不幸不運で、幸運幸福だ。
その時々によって形を変える。今に限って言えば、前者だった。こんな気分のまま、真横で見たい顔じゃなかった。
だらりと着崩した制服の幼馴染が口を開くでも頷くでもなく、ただ目だけで了解の合図を送って来、さしたる感想もないとばかりに歩き始める。
黒のリストバンドに押される自転車がカラカラと声を上げ、日暮れに伸びる影の後をついていく。
私はといえば、突っ立っているわけにもいかないし、帰る方向が一緒なのにわざわざ道を反らすのも変な話だし、と観念して一人と一台のやや後ろに陣取って続いた。
一体どこから見つけて来たのか、そもそも本当に雅治のものなのか、全てが謎である有り触れたママチャリのカゴには荷物の類が何もない。
いわゆる手ぶら状態なのだ。
最早呆れるとかいう段階等、とっくに通り越している。
ああも厳しそうな副部長がいる部に所属しておきながら、この生活態度。
色んな意味で良いのか、後々とんでもない叱責を受けるのでは。
つい心配してしまう自分の弱さに嫌気が差して、小さな溜め息を吐いた。
回る車輪の音は暮れなずむ景色へ溶けていき、大きなスニーカーがコンクリートを踏む気配によって少しばかり心を乱される。私のローファーが鳴らすそれと何もかもが違う。違い過ぎるから、元々重かった口が更に固く閉ざされていった。
時折思い出したよう吹く緩い風で、雅治の髪の毛が流れる。限界まで苛め抜いた色だ。
髪と同等の色をした猫背を包むシャツは、赤、橙、薄紅、混ざり合う黄昏に浸されていた。街路樹の下を通りがかればふっと濃い影に染まり、抜けるや否や昼と夜の間へと舞い戻る。
薄手の布越しに、昔の面影等捨て去った幼馴染の肩甲骨と背が透けていて、何故か目の奥が痛い。
肩から通ずる腕は当然自転車のハンドルに繋がってい、ほんのり浮き出る筋が男の子のものだった。
夏を間近に控えた季節。
考えてる事の十分の一だって理解し難い雅治は、衣替えを過ぎても夏仕様のシャツを着たり着なかったりを繰り返している。
ちゃんと夏服を着なよ、注意した所で、引っ張り出すんが面倒なんじゃ、すげなく躱されお終いだ。
いい加減諦めのついた私は、彼のシャツが夏服か冬服か逐一確認するのをやめた。
だから、先刻顔を合わせてようやく知ったのだ。肘のあたりまで捲られた袖が、今日はどちらなのか語らずして答えてくれている。
何がしたいの?
問うのは簡単だろう。雅治から返事が寄越されるかどうかは別問題として、尋ねるだけならほんの数秒もかからない。
しかし、渇きを覚え込まされた唇は容易に開きそうもなかった。
私にだってわからない。隣の家で育った幼馴染が考えている事も、自分がどうしたいのかも、今までなら許せていた些末事が許せなくなった理由も、誰かが解を与えてくれたらすぐさま飛び付くくらいわからないのだ。
呼吸すらやっとの事で続けている私の胸中は淀む。家々の屋根にてらてらとした光を塗りたくる太陽の形に、しかめっ面で睨みを利かせたい。それで何がどうなるわけでもないが、少なくとも気は紛れるだろう。
足音に重なり添って、ゆっくりと離れていき、また縮む。
繰る鼓動の流れゆく先、もしくは根源たる隣人が不意に零した。

「まだ話す気にはならんか」

こちらを見もせず言い通すので、思わず目線だけでなく首ごと傾けてしまう。

「…じゃあ雅治が話せばいいよ」

ついでに酷く拗ねた声まで勝手に出ていく。
呟いてしまってから羞恥が湧いたが、取り返しはつきそうにない。

「お前さんには俺が話題豊富な男に見えるんか?」
「雅治には私が話題豊富な子に見えるの?」
「俺よりはマシじゃろ」
「そんなの、話してみなきゃわからないじゃない」
「だから話せ、言うとるんじゃ」

誘導尋問である。
しかもかなり不毛だ。
無茶苦茶だと詰ったとて許されるであろう態度なのに、言いだしっぺの鼻先は相変わらず前を向いていて、私の方に振られる気配等一切ない。
慣れているとはいえ流石にむっとして、眉間に皺が寄った。

「ならお題を出して」

思い通りになんて行動してやるものかと意地を張っての発言だったのだが、隣を行く人がハ、と吐息じみた笑声を暮れかかる空気へ落とすので、額に刻まれた険しさが益々鋭くなってしまう。

「口癖じゃのぅ、それ」

一体何がそんなに楽しいのか、日々のほとんどを三白眼でやり過ごす目の縁を柔く曲げている。
口元の黒子はゆったり撓み、耳に障る低い声音が紡がれた唇へ、時として寂寥を生む薄暮が差し込んだ。
曲がり角を右に進むと、雅治と自転車の影が私の側に伸びてくる。
太陽との位置の関係が起こす自然現象みたいなものだ、わかっていても胸が騒ぐ。
丁度いい日除けになったと増長出来る性格ならば良かったのだが、こちらを丸ごと覆うような背の高さにはいつまで経っても慣れない。

「……だって何もなきゃ話せない」
「ん。そーか、俺も」

だったら人に求めるな。
よっぽど叩きつけてやろうかと思ったけれど、雅治の一見普段と変わらない、でも頑なな部分も感じられる仕草や物言いに段々と柔らかさが含まれて来た気がして、意趣返しに燃える心が萎えた。脱力した、と言い換えても良いかもしれない。
黒い色をしたゴムの輪がくるくる進む。
二人分の足音。通り掛かる車のエンジン。
吹き抜けていく風に僅かばかりの夏が薫った。
始まりは間違いなく怒りだったはずなのに、胸の内に生まれいずる感情は喜びに近い、何もかもをほぐす優しい形をしているのだから不思議だ。
瑞々しい緑の葉も見事に染め上げる斜陽へと、宥められ撫でられ溶けていく。
角膜を滑りじわじわと目に沁みる色彩は、もっとずっと子供だった頃、遊び倒して二人で見た夕暮れのそれとよく似ていた。
思い出が静かに輝く都度、ケンカの理由も至るまでの工程も薄れて消える。
多分言う事聞いてくれないんだろうな。
言葉にはせず呟き落とし、捻くれ者のくせして真っ直ぐ前を向いたままに違いない予想図に胸中で苦笑しつつ、意識して唇を引き結ぶ。
雅治がこっち向いて話してくれたら、お題がなくても、何もなくたって話すよ。
ひょっとしたら似たような気まずさを抱えていたのかもしれない、わかりにくいのに変な所で隠そうとしない幼馴染へ、はっきりと言ってやる為に。