鳥の子 (とりのこ)
出発ロビーの床の色を見るとはなしに見ている。
俯いた私の後頭部へは、さっきから強い視線がぶつかってやまない。
悲しみが後から後から湯水の如く湧いて来、堪えて耐えるのに精一杯だ。
到底、激励なんて出来そうにもなかった。別れの言葉なんてとんでもない。
一言でも発しようものなら、色々なものが溢れて顔面が崩壊するだろう。
大勢の人のざわめきは耳から耳を通り、私の中を突き抜けていく。
近いはずの雑踏が遠い。
恐ろしく現実感がないあまりに、両ポケットの手を突っ込みながら佇む人がいなくなるという、すぐ傍にて待ち構えている未来なんて想像も出来なかった。
したくない。絶対に無理。
やめておけばいいのに否でも応でも考えてしまい、より深みへはまっていく。
上品極まりない搭乗アナウンスが頭上を通過していった。
誰ぞを呼び出す声がする。
幾百の足音に紛れ出会いと別離とが交差し、さあ時が少ないぞ機を逃すなと責め立ててくるので、最早吐きそうなほど苦しい。
磨き抜かれた床に私ともう一人の姿がうっすらと反射している。
鏡めいた輝きは顔にまでは至らぬらしく、靴と膝あたりまでしか映っていない。
今まさに世界へと羽ばたこうとしている後輩の前途を祝い、背中を押してやらなければならない事は嫌という程理解しているつもりだ。
そのはずなのに唇はみっともなく震え、喉の奥にまで振動が伝わり、遂には肺や胃までを圧迫する。
息がつかえて濁る。
空気を吸うと体の重たい所に落ちていって、一生吐き出せない気さえした。
親兄弟と別れるでもなし、何がどうしてそんなに辛いの、問う声が頭の中で反響している。
呆れと嘲りの混ざった音色が脳の隅から隅まで駆けていく度、私は否定して回った。
そういう問題じゃない。理由なんかない。悲しいものは悲しくて、嫌なものは嫌だ。
言えたらよかった。
場所も省みず、恥じらいを捨て、わんわん大泣き出来たらよかった。
でも、だめ。してはいけない事。我慢。
ひたすら、馬鹿の一つ覚えみたいに、呪文のよう繰り返して耐える。
「……先輩は難しく考えすぎなんじゃない」
そういった血の滲む努力なんて知った事かとばかりに、かつての生意気なルーキーがテニスコートにスマッシュを叩き込む要領で言い放った。
出会った頃に比べうんと背の伸びた越前は、もう私のつむじなんて難なく見下ろす。
それが癪だと思う一方、過ごして来た時間の長さを振り返らずにはいられない。
口元を緩めずに鼻から息を吸い込むと、空港独特の雰囲気が混ざった匂いがした。
「…難しくないもん」
下からじっと睨みつけてやる。
高い天井から降り注ぐ照明を浴びた越前の顔は薄い影に包まれており、男の子だというに大きな瞳が猫のように光っていた。
意味わかんないんだけど、とすげなく返される前に言い連ねる。
「だって、いつも言うじゃない。私は単純だって。ちょっとは先輩らしくしてよって、言ってたの越前でしょ」
続けていく内に、懐かしい日々が鮮明に花開いた。伴う感情の粒は次から次へと生まれゆき、胸をいっぱいにさせる。
喉に塩辛い水が絡んで揺れてしまう。
目の膜など既にうっすら濡れ、さぞや恨みがましく見える事だろう。
私は私が大嫌いだ。こんな時でも可愛げゼロの台詞しか出てこない。
「あんたって相変わらずどうでもいい事ばっか覚えてるね」
「……どうでもよくないよ」
とりとめもない一日の、なんて事ないやり取りがどれだけ大切だったか。
相対する後輩はちっともわかっていない様子で軽く絶望した。
一方通行だったのだろうか。
いつの間にか根付き、押し留める方法など知らずに育ててしまい、手渡さなければ溢れて零れて私一人ではどうしようもなくなる気持ちは、今ここで生まれる前に殺すほかないのだろうか。
ついさっきまで体中に吹き荒れていたものとは別種の悲しみがお腹の底を突き破り、みっともない嗚咽を呼ぼうとする。
奥歯を噛み締めるとこめかみが突っ張った。
最後かもしれないと覚悟はして来ていても、いざ終幕を迎えるとなってしまっては怯えが顔を出す。
いよいよ舌の根がひくつき始めたその時、越前の長い長い溜め息が鼓膜にぶつかって弾けた。
「どうだっていいよ。他にもっと気にするとこあるでしょ。なんで俺が今先輩と会ってんのかとか、そういう事考えてくんないと困るんだけど」
びっくりして思わず顔を上げる。
反動でぽろと涙が頬を伝い、絡まった視線の持ち主は目を瞬かせた。
「なに泣いてんの」
「な、泣いてない」
「いや泣いてるじゃん。嘘つく意味がわかんないんだけど」
「こ…これは、その……びっくり涙!」
「ふーん。じゃ、予告しとけば出ないわけ。そのびっくり涙とかいうやつ」
仮にも女の子が涙ぐんでいるにもかかわらず、図太い神経の持ち主である後輩はさっさと話を進めようとするので、目まぐるしい急展開についていけず困惑してしまう。
「よ、予告……?」
「驚いて泣いたりしないでよ」
「え、え、ちょっと、待っ…」
一寸前までの驚きをもう仕舞い込んだ越前が、ぐずつく鼻を啜る私の眼前へ何かを差し出す。
お陰で目の焦点が合うまで些か時間を要し、理解の及ばぬ間中、ぽかんと口を開けた間抜け面を晒す羽目になった。
表彰状授与式かというくらい丁重に受け取って、記された文字を懸命に追う。
最後まで辿り尽くし、まさかの招待状に夢かと思った。
だって信じられない。私達は先輩と後輩でしかなかった。特別な約束事だってなかった。だからこそ別れが耐え難く、一生に一度の機だと腹を括って見送りに来たのに、全てを優に上回る衝撃で殴られた気分だ。
泣くなと言われたのに、目の前が涙で滲んでいく。
越前も床も壁も何もかもが潤んで溶けてしまう。
試合会場と日時が書かれたチケットを握る指は震え、何度見返しても特等席としか思えない番号に言葉で表すだけじゃ足りない感情が沸き起こる。
しょっぱい雫を拭い、もう一度手ずから寄越されたチケットを見、首を上向かせると真正面から目が合う。
テニスって楽しいじゃん。
その一言を供にして、一番強力な武器にして、並み居る強敵をねじ伏せて来た王子様が不敵な笑みを佩いた。
「どうせ泣くんだったら嬉し泣きすればいいんじゃない? 難しくても単純でもあんたなら俺、もうどっちでもいいからさ。それくらいわかってんのかと思ってたのに、まだまだだね。先輩も、俺も」
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