瑠璃 (るり)




くすんだ銀色の蛇口が辺りを刺す勢いで輝いている。
煌びやかな光の大粒は真夏特有の熱を纏っていて、見ているだけでうなされそうだ。
汗やら涙やら、かろうじて垂らしはしなかった鼻水やらのお陰で、今夏一ひどい顔になっているであろう事は容易く想像出来た。
試合が終わっても引かない、両の瞳から溢れる水滴をタオルで拭い取ると同時、雲一つない空に遠い歓声が響き渡る。
広い会場内のあちこちで熱戦が繰り広げられているのだろう。
すん、と最後のつもりで鼻をすすったのに、つい先程の試合を連鎖して思い出してしまいまたこみ上げて来た。
じっとしていてもじんわり汗の滲む陽気に意識が持っていかれそうになる。
深呼吸しながら炎天下を進み、ひとまず顔を洗おうと水道前で屈んだらハンドルとノズルが細長い鏡と化して、熱気にあてられ頬まで赤くなった私と遙か彼方の青空を映す。
ずっと握り締め続けてしまった手を洗う為だけに歓喜の渦を抜けたのだが、どうせなら顔も洗った方が良いかもしれない。
何せ高温注意報が出るくらい、苛烈な天気なのだ。
余計な部分まで濡れたとしてもすぐに乾くだろう。
熟考せずにさっさと決めると、直に触れば火傷するんじゃないかと怯えるレベルで熱い蛇口を捻った。
指先を落下予想地点へ差し込む。降って来た水流は初め温く、やがて待ち望んだ冷たさに変化していき、飛び散る涼やかな音が耳の温度を下げてくれた。
一息ついて、中央を窪ませた両手で真夏にはとても有り難い涼を掬う。
ある程度溜まったところで火照った肌に打ち当てると、閉じた瞼の裏で不可思議な色が弾けた。
真っ黒いはずなのに、限界まで水で薄めた絵具を垂らしたみたいな、桃に近い赤、緑と白の混ざった紋様、様々色彩が不規則に混ざり合ってすぐさま消えていく。
水滴だらけの顔を少しだけ左右に振り、余所へ避難させていたタオルを手繰り寄せて拭う。
二度、三度洗い流しただけだというに、大分すっきりしたな、と想像以上の爽快感を得、ハンドルをきっちり元の位置へ戻してから、睫毛を持ち上げた勢いのまま空を見遣る。
反った首の後ろ、背中へと髪が流れてゆくをシャツ越しの肌で感じた。
遮るもののない青空が少々丸みを帯び広がっていて、地球が丸い証だ、いつか聞いた彼の声が鮮やかに蘇る。
重力は私が今座り込んでいる地面に向かって発生しているはずなのに、どうして吸い込まれそう等という感想が浮かぶのかが不思議だ。でもそれ以外に相応しい言葉が見つからない。
天は仰のく私を中心にして丸まり視界の裾までほとんど濃い青に染まっているから、自分が宝石の中に入っている錯覚に陥ってしまう。
おもちゃの指輪のイメージだ。
リングにあしらわれた、飴のような飾り。
四角の隅がほんの少し丸まっている。美しい碧玉の内。
狭いはずの世界がその色のお陰でとてつもなく広く、底が知れぬ程に深い気がしてくる。
ふと視線を横にずらすとぎらつく太陽とかち合いそうになったので、僅かに水気の残る掌で目を覆う。
ダメだ。今日は私バカになってる。
胸中で呟き、曲げていた膝を伸ばしたところで、少しの間だったのに汗ではりつく肌に顔を顰めた。
試しに手で腿から膝裏を撫でてみれば、うっすら濡れてしまっている。
後悔よりも納得した。この炎天下を体育座りで呆けた自分が悪いのだ。
しっかり立ち上がれば、青に焼かれた目の奥からまた水の気配がする。
やっぱりバカになってる。
どこもかしこも故障中だ、なんてふざけた思考に寄りかかった所為か何なのか、今尚鮮明な記憶が自動再生された。
割れんばかりの歓声、猛暑も吹き飛ばす気迫。
一人きりで戦うには広すぎるコートを縦横無尽に駆けていく。
小さなボールを正確無比に操る人が、ラケットを振り抜く。
スマッシュが決まる音。打ち合う響き。
たくさんの応援が重なり合っていて私のところまで聞こえるはずないと思うのに、シューズの激しい摩擦音がすぐ傍で鼓膜を叩く気さえした。
見ているだけなのに鼓動は速まって息も上がる。
こめかみを濡らす汗が鬱陶しい。
試合終盤に差し掛かると遂には呼吸もままならなくなってしまい、苦しくて心臓の辺りを握り締めた。
相手がどんな選手だろうとも大抵危うげなく勝つ人が、荒い呼気で肩を揺らしている。
抑え切れない汗が流れ伝ったのか、目元や耳上の生え際を軽く擦る手が大きい。
だけどそんな風に立ち止まったのは一瞬だ。
すぐさま前を向く。
相手のサーブを打ち返そうと、力強く構える。
普段穏やかに笑んでいる揃いの瞳に、ものみな射殺さんばかりの鋭い光が宿っていた。
私はといえば、体の真ん中から張り裂ける気持ちに襲われまるで生きた心地がしない。
頑張れと声に出すのも憚られた。息を潜めてただ祈るように見詰める。
ポイントがコールされる度に怖くて仕方なくなって、でも絶対に最後まで逸らしたくなかった。

だからだろうか。
マッチウォンバイ、の後に、幸村、と続いた瞬間、たまらなく嬉しくて叫びかけたのは。

それから、自分でも知らない間に張り詰めさせていた呼吸を再開しようとし、審判の声から一秒遅れで360度から湧き出でたような怒号めいた喜びと賞賛の渦に気圧されて、変に咳き込みそうになってしまったのだ。
本当は駆け寄っておめでとうを伝えたかったのだが、周りの観客たちが見事な試合展開と晴れ晴れしい勝利を見せた神の子を放っておくはずもなく、人の壁で物理的に近づけなかった。
残念に思う気持ちがないわけではないものの、今の状態で話し掛けたら何を口走るかわからない、顔も手も汗を掻いているし少し落ち着いてからにしよう、と勝利に沸く場から一人抜け出して来たのである。
でも正解だった。
ついさっきの選択を自画自賛する。
最後には技術面でも精神面でも圧倒的な強さで勝ち切った彼を間近で見た所為で、祝福するように晴れ渡る空や時折吹いては髪を冷やす風の何もかもが今は感動的に思えてしまう。
危険極まりない。
恐ろし過ぎる、色んな熱で頭が煮えたのか。
本当にどんな恥ずかしい感想を述べるかわかったものではない。
現にまた泣けてくるし、とやや俯き目尻を爪先で拭いて、心臓と息との両方がいっぺんに止まった。
東屋の向こうから、大勢に囲まれ祝福を受けていたその人が悠々と歩いている。
よく見返さなくても、幸村精市その人だ。
人目を避けて遠い水場まで来たはずなのに、どうして今さっきまで熱戦を繰り広げていた選手がこんな会場の外れにいるのか。
尋ねたって答えは戻って来ない。
立海テニス部ユニフォームの黄が風にはためいて、彼の肩に乗った白いタオルも同様に裾を揺らしている。
私があれこれ感慨に耽っている内から見ていたのかは不明だが、試合中の鬼気迫る雰囲気等綺麗に消し去った精市くんが片手を上げて笑った。
上向く唇が私の名前の形に様変わりし、たったそれだけで半端な位置で止まっていた掌に熱が籠もってしまう。
観戦中に抱いていた感覚がクリアに蘇るようで、見る見る呼吸の間隔が狭まった。
木立の濃い影を浴びた精市くんがヘアバンドを外し、今やすっかり見慣れたそれを握ったままの拳で大雑把に髪を掻き上げる。
滴る汗を洗いざらい拭き取った顔は、すっきりとした風体で私の目に映った。
試合直後で疲れていないはずがないのに、すごく身軽になったみたいだ。

「どうしてこんな所にいるんだい。探したじゃないか」

学校で見掛ける顔つきから馴染み深い声が零れ、息が血管ごと詰まるかと思った。
ゆるゆる通り抜けていく空気の流れに深緑の葉が揺れ、光と影が交差する。
葉擦れの音が頭上で奏でられる都度、どこも悪いところなんてなさそうな精市くんの頬に煌めく夏の粒子が散った。

「…ちょっと顔を洗おうと思って」
「へえ。顔を洗う為だけに、わざわざここまで来たの」
「……近くの水道は混んでたの」

無論、嘘である。

「それで、人がたくさんいる場所から抜け出したら気が抜けちゃったんだ?」

どうやら苦し紛れの言い分を聞いてくれるつもりなのは有り難いが、続く言葉が解せない。
率直に訝しげな顔をしたら、今座り込んでぼうっとしていただろう、目の端まで細めながら微笑まれた。
察すると、柄にもなく物思いに耽っていたところを目撃されていたようだ。
羞恥がどっと沸いて首から上に溜まる。

「だ、黙って見てないでよ!」
「なら大声で呼べば良かったかな。俺は気にしないけど君が恥ずかしいかと思って自重したのに、フフ」
「そういう意味で言ってるんじゃ…っていうか気抜けてないし!」
「それじゃあ、のぼせてるみたいだったって言い替えようか」

当たらずとも遠からずどころか的確極まりない表現に返す声を失った。
精市くんは時々、私より私の気持ちに詳しい。
一体どういう事だと詰め寄りたくなったけれど、実行したらしたで二枚三枚上手の言葉を軽々放り込まれたあげく修行僧並に押し黙るしかなくなるのだ。
想像がつき過ぎてどうしようもなかった。刃向かうだけ余分な手間を重ねるだけで意味はない。
滲む前から涙の気配が濃厚だ。
今日何度目なのかは知れないが鼻をすすった。
すると温和な音色が汗ばみ始めている耳に触れ、鼓膜の内まで広がる。
つまらなかった?
伏せた目線を上げずともどんな表情かいとも簡単にわかる響きだ。
私が何て答えるかわかっているくせに。
心で歯噛みしながら首を振れば、どうせならもっとスマートに圧勝する所を見て貰いたかったんだけれど、なかなか上手くいかないね、物柔らかな声が戻る。
それだけで、それだけなのに、私の視界は薄く潤んでしまう。

「………つまんなくない。精市くんは、いつもすごいよ」

力を籠めて瞬きし、淡くぼけた目の前をくっきり浮き立たせたのち、すぐ傍で佇む人を仰いだ。
思った通り、今日の空に似て澄んだ眼差しとかち合う。
緩いウェーブのかかった髪は水気を含んで撓って、先刻雑に掻き上げた所為でまとまったり散らばったりしている。乱れた毛先の奥で、さざめく木陰へ混ざり込む夏の凶暴な光を静かに反射する瞳が囁いた。
続きをどうぞ。
紳士的なようでいて、決して優しくはない。

「私…私は、いつもあんまり上手く言えないけど。でも、すごいと思う……」

まるで足りていない返答でも寄越せと求められるのだ。
言ってしまってから自分の不足っぷりに情けなくなるのに、その辺りの微妙な感情の機微というやつを顧みてくれない。
吸い込んだ息が恐ろしく熱かった。
舌の根を転がり、喉へ落ちて、肺まで伝わっていく。
そこから血液に乗って鼓動が打つごとに全身を巡るから、体温は上昇する一方だ。
本当にさっき差し出された表現が相応し過ぎて嫌になる。
熱にあてられた。次々最高気温を叩き出す夏の所為だけじゃない、テニスが発端である熱気に飲まれた。心情を述べよと問われればそう応じる他ない。
心臓が破裂寸前までがなって、到底抗えぬ渦へと巻き込まれ、呼吸すらままならない。
握り締めた手が内側に張りつく高温で焼ける。頬にまで上った血で余計汗が滲んだ。
いつもそうだ。
私が変になったりバカになったりする原因はいつもいつも、テニスコートで戦い続けている精市くんだった。

「試合をして汗だくで走り回っているのは俺なのに、観てる君の方が苦しそうだ」

ふ、と鼻にかかった笑声が零れるや否や、私と彼の間にあった距離がゼロになる。
抱き締められたと気付いたのは眼前にユニフォームの色が飛び込んで来た、一秒後の事だった。
突然の感触に体が竦んだ。
私じゃない人のにおいがして、熱が肌から立ち上って薫る。
本当にのぼせちゃったの、とごく近くで優しく尋ねられると、またしても世界の色がぼやけて遠のいてしまう。
真夏の光線に晒されたお陰で乾きつつあるとはいえ、直接皮膚に触れる布はうっすら湿り気を帯びている。
汗をいっぱいかいた人の体温が高くて、背中や肩を抱く手も私のものより熱っぽい。
でも嫌じゃなかった。だって、精市くんが観客と会場を熱狂させた証拠なのだ。

「あ、ごめん。そういえば俺汗すごかった」

言っておきながら、ちっとも開かない距離と離れない掌にちょっと呆れる。

「いいよ別に…今更だし、気にならないから」
「そう。まあ確かに、初めてじゃないものね」

微笑んだ余波で揺れる腕の中で籠もった声を零したら、あからさまに含みのある言い方な上、こちらの言をわざと曲解している雰囲気を壊れた蛇口かというくらい流しっ放しにするので、緩んでいた顔面の筋肉が一瞬の内に強張った。
すかさず握った手で硬い肩を叩けば、ちっとも痛くなさそうな声が痛いと嘘を吐く。

「酷いなあ。少しは勝者の俺を労ってくれ」

戦い終えた人の肩越しに、かしましい蝉の声が降って沸き、清涼な音を立てる青々とした葉やそれらが生む無数の黒い影、隙間を縫って降り注ぐ強い陽射しにと、これ以上ないまでの夏が見える。
全てを包むように広がっているのは、あの宝石めいた空だ。
見上げても仰いでもきりがなく、深く透き通っている。
たとえば視界が涙の雫で濡れても色だけは消えないのだろう。
美しく煌めき、目を離せない程輝いて、心の奥までもが震えた。
一つの帰結をひもとき辿れば、どこをどう通ったとしたってテニスコートへ行き着いてしまうからだった。
瞬きにまなこを閉じる。
再び開くまでの一瞬にも満たない間、儚くも強い光芒が瞼の裏を走った。
王者の風格を保ち続ける精市くんが、背筋を真っ直ぐに伸ばして立つ。
一人で戦うには広すぎるのではと心配になるコートに、方々から上がる声に満ち熱気溢るる戦場へ、悠然と向かっていく。
絶対王者の証たるジャージが波打って、苛烈な太陽を放って来る瑠璃色の空に良く映えた。


不意に胸を突く衝動が息の根を止めんばかりに大きくなった所為で、やっと生まれた声からはすっかり力が失せている。
お疲れ様。
なんか、本当にすごかった。
湿った喉を通った音の濡れ具合を笑ったのかそうでないのか、精市くんは無遠慮に吹き出して、そこは本当に格好良かったとか言わなくちゃ駄目だよ、と肩を揺らした。
文字におこしたら不出来な私への叱責にしか思えないがしかし、耳を撫でる声音はすごく嬉しそうだ。