長春 (ちょうしゅん)




ゆっくりと混じり合ってゆく。

「……ん?」

常人ならば聞き逃すであろう、あえかな囁きだった。
小さな呼び掛けと何事か紡いだ唇が今は淑やかに引き結ばれてい、じんわり濡れて滑る肌や髪を宥めすかしていた指で割りたくなって困る。
室内に籠もったか細い息は存在を主張しないにもかかわらず、耳朶へ直接降り零れるよう響くものだから寒くもないのに背後ろが粟立った。
熱は痛いくらい近く、重なり擦れる部分とそうでない箇所の差異に気が遠くなってしまう。
煮える血の流速が急かす。
早く早くと喚く心臓に時折痛みが差して、眼球の裏側でとりどりの火花が散った。
幸村の所為で乱高下を散々繰り返した呼吸は大層弱り切っている。
この上まだ強いるのかと罵られたらば反論は出来ないが、可哀相に、今の彼女には行動に移す気力が残っていないらしい。
昂ぶる一方かと思われた頭の片隅にも冷静さが縛り付けられていたようだ、後々詰られそうだな、等と声帯を震わせず呟く。
しかし付随する感慨や胸だけに落ちる響きが想像より遥かに無情で、幸村は自らの在り様に唖然とした。動揺にも似ているだろうか。
僅かにぶれた鼓動を押し隠す為と、いつまでも現状維持では身が持たないという切実さ、半分ずつの理由を伴って膝を進めれば、湿り気を含んだ音と跳ねた柔い声が容赦なく的確に煽ってくる。
口の端や口腔内から水分が蒸発し、妙な渇きを覚えた。そのくせ皮膚は濡れている。
裸の胸を荒く上下させる少女も同じ状態らしく、懸命に、だが手加減を忘れず触れた所で滑り伝うばかりだ。どうしようもない。
フ、と息を切った瞬間、噛み合わぬ奥歯が微かな音を立てる。
引き込まれていく感覚に腰が震えた。
鼓動は最早背ごと打ち据える勢いにまで達し、意思とは全く関係なく強張った自らの眉間が異様に気に障って、上がった呼気の狭間、幸村は組み敷いた恋人を見下ろした。
仄かな血の色が体の内から浮く肌は、薄暗がりに滲んで淡い。
所々に残る跡が目に毒だった。
シーツの上を流れる髪は夜を吸い尚黒く、反った細い首筋が呼吸の都度蠢いて、伏せられた睫毛の先にごく小さな水滴が宿っている。
唇を覆うでもなく、かといって解放するでもない位置で緩く握られている指の一つ一つが艶めかしかった。
視線のみで触れる表情は、怯えているようにも苦痛に喘いでいるようにも見える。
まるで知らない子みたいで不思議だ。
胸中へ呟き落とし、つい先刻の不快感が少しばかり癒えるや否やベッドについていた手を丸い肩へと持っていき、極めて慎重に撫でた。
それから良くないとわかっているのに名を紡いで、案の定、いとも簡単に芯が沸き立ってしまう。
幸村の変化を直に感じた証にひくと口元を振るわせる少女がうっとり瞼を持ち上げる。
かそけき光を反射するまなこに色らしい色は塗られておらず、ただ奥底に柔らかな火を燻らせていて、引き摺り出せばさぞや快いだろうと幸村は思った。
闇に薄明るい線を描くような双眸の動きに全身がざわめく。
込み上げる欲求を堪え、華奢な肩から腕へ何気なく掌を滑らせた時、言葉になり損ねた声と共に首を捻った少女が揺らいだ。
どちらのものかは知れぬ汗か目端に溜まっていた涙か、透明な水の粒が反動で頬を伝い、半端に開いていた触れればすぐさまほぐれる柔い唇へつと流れる。
刹那、押し殺していた何かが焼き切れた。
吸い込まれ消えた雫ごと掬うつもりで、酸素を求める途だったと思われる所を口で塞ぐ。
突然の事に硬直する彼女のそれはやはり、容易く形を変えた。
先程に比べ甚だ縮まった距離は充足を与えてくれるどころか、もどかしさの詰まった焦燥を呼ぶ。
ざらつく舌はしとどに濡れてい、思うさま蹂躙したとて従順に違いないと断言出来る柔さだ。
幸村が一切を顧みず己で選んだ機に息継ぎするのを、翻弄されるばかりである少女は咎めない。
苦しいと訴える事さえしない。
時たま気まぐれに離される唇と唇の間で、呼吸と呼べぬ空気の屑を漏らすだけだった。
おまけに目で問う幸村へ翻意をちらとも見せず、答え代わりにおずおずとではあるが舌を絡めてくるので、幸村は再度一瞬にして身の内を食らう熱を味わう羽目となってしまう。
間髪入れず腕を細腰の下へ差し込み引き寄せ、柔らかい肉付きの足を抱えて、埋めていなかった分を押し広げた。
それまで大人しく幸村に従っていた少女が声ならぬ声を上げる。
鼓膜は纏わりつく水音に侵され、汗が一斉に吹き出た。
這い寄る怖気じみた震えに眼前は白くちらつく。
苦痛を取り除いた呻きが皮膚越しに通った。
彼女が堪らず離した唇を幸村はあえて追わなかった。
は、は、と短く繰り返される息がない交ぜになり最早どちらのものか知れない。
脈打つ拍は恐ろしく近いはずなのに、何故か段々と遠ざかり潮騒のようになってゆく。
正気を保つのも難しい暴力的なまでの悦びと底の窺えぬ充足で、呼吸が怯えた。
まかり間違えばもう充分だと口走りかねないと確かに思うのに、その先を求める衝動が優に上を行く勢いで心臓に更なる熱源を注ぐ。
頭の芯がぐらついた。
噴き零れそうになるものを奥歯で噛みしだく強さで以って耐えながら、腹に力を入れ今少し引こうと試みる。直接触れている箇所や肌に留まらず、網膜までもが限界の地点を知らせるよう不可解に色づき揺れた。
すると、そこで初めて必死に息継ぎをするだけだった少女が、僅かだが能動的な振る舞いを見せる。
縮こまらせていた手を開き、幸村の首筋を撫でたのだ。
大抵冷たい日が多い掌だが、この時ばかりは血に燃えて熱い。
ややあってまたしても薄れた囁きが零れ、くすぐったいというのもあったが、何より反応らしい反応を取り落とすまいと幸村は少しだけ身を起こす。
はくはくと空を食み喘ぐ唇が呼んでいる。
遣りそうになっていた気が舞い戻った。聞き澄ますと、やにわに耳を打つ。
精市くん。
途切れ途切れに呼ばれたようだ。
痛むのか、そうでなくば嫌なのか。
尋ねる事等止めて久しい幸村は、何かを訴えんとする少女が零す反応をよく知り得ている。互いに境界を超えるやり方と伴う快感も嫌という程理解している。
甘く濁る気配は濃厚なれど、達するまでにはまだ間があるだろう。
自らを空気が読めないと卑下する恋人はしかし、こういう時滅多に待ったをかけはしない。
よって、真実伝えたい言葉があるはずなのだ。
スプリングを軋ませる。
距離を作った体に弱々しく、だが意志の感じられる指先が触れた。
次いで肘の辺りを掴まれ、だめ、と上向く呼気へ乗った音に引き止められる。
緩慢に瞬きする双眸が幸村を見上げており、仰がれた方は一寸ばかり動きを止めた。
この期に及んで駄目もクソも何もない。
思いはしたがひとまず探らなければならないだろう、懇願する眼差しを撫でながら軽い口づけを落とす。

「ゆっくりがいい?」

間近で問い掛け、どこにそんな余力が残っていたのかと目を見張る力強さで以ってかぶりを振られた。
たった一人の名を口ずさもうとして、違う、潤む瞳で断たれてしまう。

「…い、いいっ……。どっちでも、いいよ…い、っいから」

跳ね上がる息の間を縫い、彼女はささめき零す。

「………どこにも行かないで」

予想だにしない願いに虚を衝かれた幸村は、不覚にも言葉を失った。
ひと雫の汗が背を伝い下り吸い込まれるまでの一連の流れに鳥肌が立つ。
隅々まで行き渡って、体の中心は目一杯締め付けられた。
狂おしいものが喉を駆け上がり、発露口である唇を通り越して脳髄にこだまする。
畳み掛けるよう、凄まじい速さで延々繰り返される。さながら晴れ間なき嵐だ。果ても見えぬ昂ぶりだった。
そういった身の内を食い荒らされる感覚とは裏腹に、酷く凪いだ気持ちが幸村の声帯をいかにも優しげに押す。

「…行かないよ」

行けるわけがない事を、君は知らなすぎる。
胸の淵へ沈む呟きが無闇に熱い。
今にも涙が零れ落ちそうな、だけれど既の所で留まっている、濡れた瞳が幸村を誘っている。
乞われるままにしっとりと潤む肌を手繰り加減もしないで抱き締めた。
幸村の腕一本で事足りる小さな背中へ差し込んだ手にあるだけの想いを籠め、一層鼓動を近付けた所で、抑え切れなかった感慨が深い息となって空気を湿らせる。
陰影にほのめく首へ鼻筋を寄せると、泣かない彼女が子供のよう縋ってきた。
だが抱いているのか抱かれているのか、正しきがどちらなのか最早誰にもわからない。
宥め応じながらも幸村は思い知る。
その心ばかりが薄い彩りに滲んで静謐だ。
それ以外の全て、背骨すら砕く激しさにくべられ跡形もなくなっていった。