菫 (すみれ)
最早慣れ親しんだ仏頂面に対し、負けじと睨み返す。
背の高い手塚は見上げられる事の方が多いのだろう、別段堪えた様子もなしに私を眺めている。
同じくらいの苛烈な勢いを含み、鋭い目線でもって締め上げられても困るくせに、平然と構えていられるのもそれはそれで面白くない。
などと、たとえば素直に告げたとして、一体どちらなんだ、真顔で戸惑われる事間違いなしの勝手な感情が体中を暴れ回っていた。
意識してぐっと眉間へ力を籠めてみると、眼前の長身がわかる者にしかわからない程度にほんのちょっと後ずさるのでこれ幸いと畳み掛ける。
「どうして教えてくれないの?」
「……何を言っている。何の話だ」
「またそうやってバカみたいに真面目に聞こうとする。言っておくけど私、話題変えたりなんかしてない! ずーっと同じ話しかしてないからね?」
私の剣幕に手塚が小さな溜め息を吐いた。
何故真面目である事を罵られているのか全く以って理解不能だ、と声に出さぬだけで一切隠そうとしていない。
「だとしても、俺にはそうは思えないが」
「うん、そうみたい。だって手塚、私が怒ってると思ってるでしょ?」
「違うのか」
「怒ってるけど、手塚が考えてる理由では怒ってないですー」
「…訳がわからない」
「手塚は?」
工夫の一つもせず乱暴に水を向けてみた所、眼鏡の奥に鎮座する涼しげな瞳が僅かに光る。
青春台行きのバスが来るまでまだ間はあったはずだ、先程調べた時刻表を脳裏に思い浮かべ、他に待ち人のいないバス停で尚も睨み合いを続けてみようと決めた。
「私がわけわかんない事ばっか言ってたら怒る?」
「…………仮に俺が怒ると口にした所で、お前は態度を変えたりしないだろう」
「時と場合によるよ、失礼な。私だって手塚が嫌だって思う事はしたくないもん。でも譲れないものは譲れないって言おうとしてるだけ」
「では同じ事だ」
時折車が行き交う道路へと通った鼻筋を向ける人が、日がな一日振るっているらしいラケットの所為で筋肉の発達した腕を組みながら言い落す。
「俺の一挙一動に合わせお前が変える必要はない。そんな事をして、何になる。ただ窮屈になるだけじゃないのか」
長年とまでは言わぬが、手塚とは委員会が同じだった縁でそれなりの時間を共有してきた。
だからよくわかる。
手塚国光という男の子は、度を越して口数が少ないのだ。
本人の抱いている感情が貧しいかどうかは別として、というか多分手塚は手塚で考えている事がいっぱいあるんだろうけど、ひとまず横に置いといて表情だってかなり乏しい。
ゆえに真意を読み取るのは至難の業である。
私が男でテニスでもやっていれば、コートの中で分かり合える部分もあったのかもしれないが、所詮叶わぬ夢だ。
それに今はもう、手塚と近い場所にいるテニス部の面々が羨ましいとは思わない。
最近の私は、自分が女の子で良かったと心から感じ入る一方なのだった。
「キョーミがないみたい」
「……何?」
「手塚の言い方だと、どうでもいいから変える事はない、聞きたい事もない、あえてお前に言う事だって俺にはないって言ってるみたいだよ」
絵に描いたような堅物と複雑にこんがらがった問答をして楽しいのか、と呆れ顔で問われた時を思い出す。
冷めた視線も何のその、私は一も二もなく、楽しいよ、返してやったのだ。
確かに手塚は必要最低限の言葉しか形にしない気はあるし、いやひょっとすると必要な事すら胸に仕舞い込みかねない青学一の寡黙人間だけれど、意味もなく人の行為や声を跳ね除けたりしない。
時々雑談に付き合ってくれもすれば、こうして突っ掛かっていっても生真面目に応じようとする。
声音に優しさも柔らかさもなくて構わない。
口数の少ない手塚が、私にだけは少しだけ多く話してくれる事が、びっくりするくらい嬉しかった。
「…それで、怒っていたのか?」
おまけにこちらが怒っているのかいないのかをあの手塚が、恐るべき朴念仁とまで評された手塚が気にする素振りまで見せるのだから、これ以上何を望むというのか。もう充分だ。
「ううん、違うよ? だって手塚は別にどうでもいいって思ってるわけじゃないじゃん」
我ながら小さすぎる幸福だとは戒めてはいるものの、とある部分を除いては満ち足りてしまっているので今更如何ともし難い。
差す陽射しはこの上なく麗らかだ。
薄い雲がのんびり泳ぐ空が青々と高かった。
ほのかに地表をあたためる光に影はひと欠片も付随しておらず、絶好のお出かけ日和と表すべき今日、行くあてを二人で決めて向かおうとしているだなんて、どんだけ仲良し、とついつい自分で自分にツッコんでしまう。
喜びは私の中身丸ごとを大いに沸き立たせ、だが表裏一体に付いて回る憤りが胸を焼いた。
「むしろ私の事は別にいいの。なんなら自分で決めるしね。問題は私じゃなくて、手塚!」
「何故そこで俺の問題になる」
「俺の問題だからですよ。あのね、手塚。さっきから自分がどう思ってるか、何がしたいのか、手塚は全然言ってくれてない。久しぶりに会うのに、せっかくの機会なんだから我が侭言ったりすればいいのにさ」
海外暮らしが長いといざ日本に帰ってきてもいまいち実感ないの?
息継ぎする間もなく続ければ、些か驚きに見開いた目をした手塚が眼鏡のブリッジを押し上げる。相変わらず指が長い。
「さっきのセリフ、そのまま返すよ! 私の一挙一動を気にする必要はなし。手塚に窮屈な思いして欲しくないから、気を遣って黙るとかもなしだよ? まー喋るのが面倒で黙ってるって場合もある…か……それは、うん、よしとしよう。手塚に足りてないとこがあるとしたら、そういうとこ。私にとっては手塚がどう思うかが一番大事なの。我慢したって何もいい事なんかないんだからね!」
一気に捲し立て息を切った。
車の排気音が通り抜けていくすぐ横で、ふん、と肩を張るといった子供じみた仕草でもって、なるべく大仰に映るよう立ってみる。
以上だけど相応しくなかったらグラウンドでも走ってこようか、勢いのまま付け足してやるかとふざけた思考をくゆらせ始めれば、いつの間にか眼差しを真っ直ぐ私に向かわせていた人が意外そうに瞬きをした。
「………いや。俺は」
ゆっくりと、丁寧に言葉を選んでいる。
開きかけた唇を再度閉じ、綺麗に引き結んでと、場にそぐわぬ長考の構えだ。
陽射しを柔に断つよう伏せられた睫毛が、歯ぎしりするくらい美しい。
一連の移り変わりを間近で目撃しただけなのに、体中の力がいとも簡単に抜けていった。
顔が怖いと揶揄されようと、選手として厳しい一面を持っていても、もしかすると一日のほとんどを無言で過ごすとしたって、真心のある人なのだ。
今一度、いつぞやの声が脳内再生される。
楽しいのか。
私はやっぱり同じように、いやあの時よりもっと強い想いを込めて宣言した。
楽しいよ。
そうして、でも、と余分に付け加える。
たくさんの人に知って欲しいとは思わない。手塚の、傍にいないと伝わってこない良さは内緒にしておきたいんだ。
「充分に我が侭を言っているつもりだ」
こんな風に真顔で呟く時の手塚を他の誰かに易々と知られたくない。
たちまち笑み崩れる頬やら口元やら、一切合財隠さずに半歩ほど距離を詰めた。
「そっか?」
「ああ」
「手塚の我が侭ってささやかだね」
「……そうか」
ふと息をつく人が珍しく率直に安堵を滲ませるので、私は己のわかりやすさに内心で拍手喝采する。
手塚は腕と腕とが触れ合う近さに寄る事を咎めなかった。
お陰で喜びが二倍にも三倍にもなって駆け巡って留まる事を知らない。
えへへ、とだらしなく緩んでたるんだ笑声が飛び出そうだ。
いやあ単純で良かったと一人頷いていたらば、またしても生真面目な響きが鼓膜に向かって落ちてくる。
「お前がそう言うのであれば、一つ良いだろうか」
「うんいいよ!」
「…まだ何も言っていないぞ」
「え? だって我が侭言えばいいじゃんって言ったの私だよ?」
女に二言はなしだと胸を張ったはいいが、相対する手塚は受け入れ難いとばかりに微妙な渋面だ。
何事だろう。
疑問のままに首を傾げると、
「……わかった」
ものすごく深い溜め息と一緒になって願いが告げられる。
「絵葉書をくれないか。長く話す事があるのなら手紙でも構わないが……俺はお前から貰った分程のものを返せない。書けて一言二言だ。だが、葉書ならば相応に返せると思う。だからそちらで頼む。………以前、送ってくれた事があったな、菫の絵葉書が良い」
手塚にしては珍し過ぎる、つらつらと続く言だった。
思わず目を丸くして見上げれば、お馴染みの仏頂面だ。眉間に皺さえ寄っている。
だけどいつかみたいに、口元を握り拳で覆った彼が僅かに咳払いをするから、現実なのだと嫌でも理解した。
夢じゃない。
胸中にて浮かばせた文字を辿るにつれ、鼓動が高鳴っていく。
才気溢るるテニスプレイヤーの手塚とごく一般的な日本国民でしかない私とでは、そうそう一緒の時間を作れない。
電話代だって馬鹿にならないし、時差という壁もある。
よって私は始まりのひと時だったとお互いに意識している出来事にあやかり、エアメールや葉書でコミュニケーションを取ろうと試みている最中だったのだが、それらに関して手塚が言及した事はなかった。
本人の言う通り返信は確かにそっけなく、まあ反応があるのだからとりあえず迷惑ではないのだろう、と合格ラインを低く設けるくらいだった。
何かしたい私が、一方的に送りつけているものだとばかり思っていたのだ。
なのに、さっき彼が紡いだ言葉はどういう事か。
乞われただけに留まらず、希望まで告げてくれるだなんて、ちらとも考えなかった。
恐悦至極、と日常生活でまず使用する機会などない四文字が猛スピードで脳内を飛び回って喧しい。
足裏を天高くまで力強く押された心地に声が息ごと弾んでしまう。
――今浮かれずしていつ浮かれる!
「わかった任せて! 一番綺麗なの選んで送るね。書く事もちゃんと、真面目に考える! あ、勿論今までだってしっかり考えて書いてたんだけど」
込み上げるものを抑え切れず、組まれた硬い腕に指先で触れた。
だがやはり、手塚は私の全てを黙殺するつもりのようだ。
どうでもいいからじゃない。興味がないからでもない。きっと、相手が私だから。
そんな嘘みたいに幸せ極まりない理由で、許してくれている。
確かめれば確かめるだけ、笑んでしまった。
口の端が緩むばかりで締まらない。
誰がどう見てもにこにこ顔の私を、いつも通りの手塚が目元を涼やかに保ったまま見下ろす。
機嫌は直ったようだな。
むっつりと語るので、元々悪くしてないよ、と思い切って筋張った腕に抱きつきながら否定してやった。
|