白群 (びゃくぐん)




轟音で何も聞こえやしない。
地の底まで響くような雷鳴と、空気を真白に染めかねない勢いの雨が降りつける音、地上の全てが濡れ鼠と化していく水量による圧倒。
荒天に纏わるあらゆる現象の所為で、耳に差したイヤホンはほとんどその役目を果たせていなかった。
音量を上げれば済む話なのかもしれないが、自身の好みで調節するならまだしも、余所に原因があって己の意に反する行動を取らなければならない状況が、仁王はあまり好きではない。
大して熱心に聞き澄ましていたわけでもなかった為に、大粒の雨が駅構内にまで侵入し始めて早々、人目を引く髪色の男は携帯音楽プレーヤーを停止させた。
イヤホンを外すと、益々雨音が大きくなる。
あちらこちらで滝が出来ている駅構内で、突然の豪雨を愉快げに揶揄する声や嫌だと口にしておきながらどこか楽しんでいるような悲鳴がこだましていた。
靴と言わず服と言わず、コンクリートの床や駅舎の屋根、或いは街が丸ごと水底に沈んだようだ。あまりの雷雨に運転を見合わせているのだろう、電車が線路へ姿を現さなくなって随分経つ。矢に似た雫は落下の衝撃で砕け、ホームの先で白煙が立ち上っていた。
雨の匂いに肌が騒ぐ。
尻に敷いたベンチは、いやに冷たい。
左膝上へ預けた右足の踵を、意味もなく振るった。
人相ばかりか態度も悪い仁王である。
あえて近付く物好きはおらず、気象庁が警報を出す程の天候だという事も相まって、彼の周囲には目に見えぬ薄布が張られているようだった。
硝子玉めいて透き通り、何事も映していないと思しき瞳はその実、ただ一点だけを見据えている。
アスファルトに広がる水溜りが波立ち、地を這う小川の如し水流はしぶいて濁った噴水と化す。
傘の意味すら失くす風雨によって辺り一面は悲惨な有様だ。
行き交う人々の眉を曇らせ、憂鬱顔を招く。
万が一にも、待ち焦がれる天気ではない。
湿気を吸い、ややふやける銀糸の毛先を避けながら、仁王は左手で携帯端末を取り出した。
連絡を取る手段としてでなく、時刻を確認する為だった。
何しろ彼の待ち人は、直接会う以外に声を聴けるとしたら自宅の固定電話以外ないという、このご時世にあるまじき環境の住人である。
実際接するには不便としか言い様がなく、以前の仁王なら面倒だと放り出して顧みもしなかっただろう。
昼中にもかかわらず薄き光を反射した双眸が、小さな画面の現在時刻を視認する。
余程の事がなければ、雨の日のみに姿を現すかの人が丁度やって来る頃合いだった。
座っていても猫のよう僅かに丸まった背を長椅子へ預けたまま、今この時に限って時計代わりとなる端末を鞄へ仕舞い込む。
風向きがざっと音を伴って変化した。
濡れそぼる風景を斜めに切り取っていた水の絹糸は反転し、再びあちらこちらで悲哀に満ちた叫びが巻き起こる。濡れた濡れないの大騒ぎだ。
ただ仁王だけは、鼓膜へ楽器のよう触れる雨垂れによって記憶の引き出しを無作為に暴かれ、身動き取れずにいた。


「仁王君、お花は持って行かないの」

他意の一切が存在していないと思われる問い掛けを口にした、いつぞやの少女の面差しが蘇る。
手短にではあるものの一応の事情説明として、同じテニス部に籍を置く選手が入院しているのだと話してからというもの、彼女は折に触れて気遣うようになった。
常識を持つ人間ならば当然の振る舞いで、それについて仁王が言う事は特にない。
ないのだがしかし、相手が悪かった。

「よう考えてみんしゃい、俺が急に花なんか持っていったらおかしいじゃろ。第一似合わん」
「……そうかな?」
「そーじゃ。お前さんの目に俺はどう映っとるんか、一度覗いて見てみたいの」
「ええと…少なくとも、お花が似合わないようには映っていないけれど」

というより、仁王にとって分が悪いのだ。
いとけなく本心を語る眼前の優等生は勿論の事、知る限り最も病院が相応しくない男の含みある微笑みが、詐欺師と称されて久しい彼の胸中に波風を立てる。
仁王、俺を口実にしているだろう。
何の前触れもなくば他の部員がいない場でといった配慮もない、者皆居並ぶ中で差し向けられた時は流石の仁王もたじろいだ。
笑みばかりは人の良い、豪胆な神の子は手加減の手の字も感じられぬ速度で尚も続ける。
嫌だな、責めてはいないよ。だけど俺をダシにしたんだもの、それなりの結果は出すように。
仁王がたった一言を発するまでもなかった。弁解や詐欺を働く暇すらない。
しっかりやれよと檄を飛ばす病床のキャプテンの背後に、練習後の部室を幻視する程だった。
周囲の幾人かが何事かと目を瞬かせる中、揃いの瞳にあえて平静を宿らせた男が、首の後ろへ手を遣りながら呟く。
それなりでええんか。
いよいよ笑声を零した幸村はさらりと打ち返した。
へえ、それなり以上の結末を迎えられる自信があるのかい。
急所を抉るが如し言い草だが、悪意の類は見受けられない。
常勝立海という看板を背負い率いて来た部長の底知れぬ胆力に、ただただ肩を竦めるばかりである。口惜しい事に敵いそうもない。
お手上げだとばかりに仁王は口元の黒子を撓ませた。

「自信か…。正直わからん。こればっかりは俺一人でどうにか出来るモンでもないきに」
「なんだ、だらしがないな。たるんどるぞ」

真田の口癖を奪って朗らかに笑う幸村に、強奪された張本人が一体何の話をしているのだと眉間へ皺を寄せる。
参謀は無言の内にメモを取ってい、柳生が幸村君に迷惑だけはかけないようにしたまえと如何にもな発言をした所で、バスを乗り間違え一人遅刻した赤也と探しに戻っていた丸井とジャッカル、計三名が騒々しく病室へ押し入って来た。
窓の外には雲のひと欠片も見当たらず、雨は遠い。
到底降りそうにない事を週間天気予報によって知らされていた仁王は、妙にぼやけた表情で四角い空を眺めてみる。
下手に全て誤魔化すよりも本音を混ぜた方が躱せるかと考えての物言いであったがひょっとすると悪手だったか、と諦念に似た思いを体の芯へ纏わせた。
そうして意識もしない内から、問われたとて関係性を答えられない、あえかな糸しか見出せぬ一人の柔らかな面影が滲む。
静かにせんかと怒鳴る真田の声量こそが最も大きく響く一室を見下ろす天は、柔らかな白が混ざった水の色に染まっていた。


激しい滴りにて煙る目の奥で、あの日の蒼穹が広がって止まない。
ふと舞い戻った性急な意識を不問とする様が如何に滑稽かは、他の誰よりも仁王自身がいたく理解している。
ほんの僅かな時間を共にする彼女について知る事は数少なく、名前と学校、住んでいる所、家族構成に読書が趣味等々、基本的な情報しか蓄積されていないのだ。
だが面積は増していく。
連鎖する記憶にも露ほどの脈略がなく、他愛ない為、胸を躍らせる程喜ばしくはなかった。
だというに、不可解に逸る心は留まる事を知らず、時として仁王の意志すら超越してしまう。
雨だけが繋ぐ回廊。
細かな水の粒が含まれた空気に抱かれ、昼日中の太陽を遮る暗天下へ進んで向かう。
靴底はしとどに濡れた道を踏みしだき、車が跳ねた冷たい雫の一つが腕を伝って、黒いパワーリストへと潜り込んでいく。
不快か愉快かで言えば前者である。濡れて喜ぶ趣味等、彼にはない。
それでも日頃気まぐれな足は何故か律儀に辿る。
曇天の所為で灰色がかった街並みを悠々と通り過ぎ、猫科の動物じみたしなやかな動作で以って彩り豊かな傘の花畑を抜けて、幾度と通った駅にと急ぐのだ。
異変が露見したとてペテンで幾らでも騙せるであろう少女を前にし、しかし仁王はその気をとうの昔に失くしてしまっていた。
見舞いに花等腐る程貰っているはずだと言ってやれば、そうかもしれないね、ご迷惑になったらいけないもの、屈託なく、だがどこか気遣わしげに頷く。
私の事をお土産話にするのはいいけど、お願いだから変な事は言わないで。
出会いたての頃はのらりくらりと躱し面白がってさえいた切実な要求を、今となっては一度の首肯で受諾する。
形の良い唇が事ある毎に紡ぐ。
仁王君。
上品な響きだった。
断じて大きな声でないのに、延々続く雨音を退かせ、重たげな空気に割り入り、仁王の鼓膜を振るわせるだけの威力を持っている。
本人に否定されたもののやはり箱入り中の箱入りにしか見えぬ少女と、切っても切れないえにしの雨天が美しく重なった。
だから仁王はいつだって、天候等お構いなしに心を澄ませてしまう。
虹はかからない。雲だって晴れない。
広がる色だけが晴天めいて健やかだ。
縁遠いはずの青に染まるのである。

大雨洪水警報が、と話す目前の人影をにわかに追った先、改札口へと通ずる階段の降り口にふと小さな背を見出す。
夏服の袖から剥き出しになった腕をハンカチで拭い、やや張り付いているらしい前髪を柔らに避けている女子生徒がいた。
ざあ、と象徴たる雨脚が一層強まる。
――来た。
元々伸びていなかった背をより曲げ、腿上に付いた肘へ顎を預けた仁王は、待ち人の一挙手一投足をただ見遣った。
熱意を持って注視しているわけでなし、だけどひたと這わせて離れず、見る者が見ればつまらなそうだと言いかねない、雨のそのまた向こうへ今にも飛び去ろうとしているような、不可解な眼差しだった。
主張なき強い視線に気付く様子のない少女は肩に掛けた鞄を払い、方々を拭った布を広げ、濡れている箇所がないか確かめているのだろう、二、三度はためかせたのち丁寧な手付きで畳み出す。
四角折の角を摘み、ポケットへ仕舞った。
セーラー服の襟にかかった長い髪を片側へとまとめて流す指が白い。
露わになった首筋はなお一層白く、男の手一本で事足りてしまいそうな程細かった。
仁王にしてみると同じ部位とは思えぬ小さな掌で輪を作り、一時的に髪の毛を縛った少女は、それから右に左に目配せしつつ歩んでくる。ぐるりと巡った首の肌の上を、黒の毛先一筋が伸び落ちていた。
口に出してさっさと気付かせたいような、しばらく放って彼女が避けるのを目視するに留めておきたいような、奇怪な心地に仁王が飲まれつつあったその時。
目が合った。
騒音の域に達しかけていた駅舎内の音という音が、ほとんど勝手に絞られか弱いものになってしまう。
瞬間少女は破顔し、目元を淡くぼかす。
ずっと探していた物を見つけたと言わんばかりの、晴れ晴れとした表情から窺えるのは喜色だ。花の如しかんばせを綻ばせ、仁王目指して小走りになる。
(まるきり犬じゃ)
そう胸の淵へ呟き落とす仁王の唇とてあからさまに上向いていた。
軽く腹に力を入れ一気に立ち上がると、反動で背中をぼんとラケットバッグが叩く。
気圧されたというわけでもないが、味わった衝撃に影響を受け常と変わらぬ猫背で駆け込んでくる相手と向き合う。ズボンの両ポケットへ無造作に手を突っ込み、一歩進んだ。
距離が縮むにつれ屋根を打つ数多の水音が息を吹き返していく。
陳腐なドラマのようスローモーションにはならず、仁王が四歩目を刻んだ所で果たして二人は邂逅した。
待たせただろうかと几帳面に謝罪をし、また私の方がいっぱい濡れてるね、仁王君、どうしていつも濡れないのかな、照れ臭そうに耳上の豊かな黒髪を撫でつける人を見た刹那、仁王は唐突に悟る。

「………いや犬は俺じゃな」
「え?」

当然、少女に理解出来るはずもない。
小首を傾げて乞う両目に対し、なんでもなか、答える仁王の瞳は凪いでおり、やはり雨の日に似合わず曇り知らずだ。