勿忘草 (わすれなぐさ)
最初の内は、なんやえらい一目散に帰ってく子やな、程度の認識だった。
流石にスピードスターという通り名を欲しいままにしている謙也には負けるが、さて部活行こか、と鞄を背負う自分より数段上の速さで教室を飛び出ていくので、脳裏に焼き付いてしまったのかもしれない。
ちょっと転ばんといてよとの友人の気遣いに掌で答え、駆けているにもかかわらず足音を大して立てず、机と机の間をすり抜けるテクニックは見事である。
制服の襟は速度に応じて翻り、なびく髪が教室のドアへ吸い込まれるよう消えていく。
騒がしさすら残さぬ、鮮やかな帰宅。
不思議と印象深い背中だった。
直接言葉を交わしたのは、皆がようやく新学年に馴染み出す葉桜の頃だった。
麗らかだった陽射しがゆっくり初夏の熱を孕み、だけど頬を撫でる風は爽やかな午後、普段ならばお笑いに走る者、ふざけて大騒ぎする者、四天宝寺らしい色に染まるはずの体育館。
広い室内の丁度真ん中を天井からぶら下がる濃い緑のネットで分け、男子と女子別々にバスケを始める所だったと思う。
昼食後一発目の体育の授業という事でどこか気怠い雰囲気を弾く、明るい声に名を呼ばれる。
「えっ白石君、手ぇ大きない?」
倉庫の鍵を開けた当番が仰々しい音と一緒に器具が入った籠を引きずって来たのを見、特に意識もせず日頃扱うものより数倍大きいボールを掴んで丁度のタイミングだった。
横合いの低い位置で零れた感嘆に俺は少々面食らう。
「しかも左利きなんや! びっくりした」
ひどく子供じみた輝きに染まる瞳が本人を通り越し、掌中に収まった茶色い球体のみを熱心に覗き込んでいる。
「今頃気付いたんか。クラス一緒んなってもう一ヶ月以上経つやろ」
「やってどっちの手使て生活してるんかなーて人のこと見ぃひんもん」
悪びれもなく、あなたの事をよく見ていませんでした、告解する少女は相変わらずこちらの掌に見入るばかりで一切目が合わない。
自分で言うのも何だが女子に声を掛けられる頻度が高めで、もっと正直に白状するとそういった事が得意でない俺にとって珍しいシチュエーションではあった。
キュ、と室内履きで床を擦る音が辺りにこだまし始める。誰かが早速ゴールを狙い、しかし外したようで、ボードを弾く反響音が耳についた。
眼下の大きな籠はほとんど空になっている。続々と持ち出されたバスケットボールが、あちらこちらで跳ねて飛んでのお祭り状態だ。
「ええなぁ。なんでも鷲掴みーて感じで羨ましい」
優に一回り二回り小さな掌を掲げ、開いて閉じてを繰り返していたクラスメイトがそこでようやく顔を上げる。
どうしても見下ろす形となってしまう俺を仰ぐその子は、嘘偽りや世辞の類を感じさせぬ笑顔だった。
「具体的に何がどう羨ましいん?」
気を引こうだとか好印象を狙ってだとか、そういった含みを潜ませていない事が丸わかりの表情と態度についほだされ俺も笑って尋ねる。
「たくさん物持てて便利そう。あと女子は両手やないとシュート難しいけど、白石君やったら片手で楽に出来るぽいとこ」
どこに目ぇ付けてんねや、と一層毒気を抜かれた。
張り合ってどうする、無駄だろうとしか思えない。
もしかして彼女は負けず嫌いな質なのか。
「いくら片手で出来たっちゅうてもシュート入らな意味ないやろ。それに片手よか両手のが成功率高いんやで」
「そうなんや! なら私でも勝てるかな?」
「いやいや何の勝負する気やねん。
男子と女子で混合試合するわけちゃうし、そこはちゃんと分けて考えなさい」
「あ、もう勝利宣言しとる」
「してへんて」
「テニスもすごくてバスケまで上手やったらもうツッコミ所ないやん。少し弱いとこ見せとかな、他の男子に恨まれても知らんよ?」
と、話題の軸がこちらへ転がる。
どういうダメ出しだ、利き手がどちらかは知らないがテニス部所属である事は知っているらしい、若干人の話を聞いていない節がある、諸々の取っ掛かりが浮かんだが、そのどれもが口にする前に胸中にて消えた。
言うだけ言って気が済んだのか、肩までの髪をひとまとめにした少女はくるりと方向転換し、女子に振り分けられたバスケットコートの側へと去ってしまったのである。
始まりは唐突で終いもあっけない、ほんの数分の会話だった。
取り残された形となった俺は何を感ずるでもなく、曰く‘鷲掴み’の手を見遣る。
当然ながらいつも通りだ。
人から羨まれる要素など、自分としてはないように思える。
行き場を失い首後ろへ預けていた右の掌に、より深い困惑が生まれた。
置き所がまったくわからず、これは今までなるべく排除してきた無駄の範疇に入るのではないか、と新たな迷いまでも脳内で駆け回り始めていく。
しばしそのままでいたら、バスケットボールと睨み合いをかましているよう見えたのだろう、怪訝な顔をした謙也に、何途方に暮れてんねんしっかりせぇ、至極当然のツッコミを頂戴した。
不可思議な同級生のイメージが一変したのは、それからしばらく経った梅雨入りの時季だった。
毒手と称し一年のゴンタクレを抑える為活躍して来た包帯が見るも無残に裂かれてしまい、どうやって切り抜けるべきか考えていた時である。
暴れ馬が可愛いく思えるレベルの縦横無尽な山嵐を追うさ中、注意を怠ったつもりはなかったものの焦りが生じてしまっていたのだろう、廊下の壁から微かに突き出た釘に左手の白布を引っ掛けた。
急いでいたのもあって、あっと声を上げる間もなく反射的に腕を引き抜いた結果、それはもうばっちりズッタズタのボロッボロになった。
よく観察すると包帯ばかりか肘の薄皮も軽く擦れて赤い。
不覚以外の何者でもない状況に愕然としつつ、あーあやってもうた、どないしよか、垂れ下がる毒手隠しをとりあえず巻きつけ直し、
「わぁ、白石君平気? ひっかいてへん?」
一ヶ月ほど前の光景を彷彿とさせる、唐突極まりない呼び掛けで背が張る。
咄嗟に左腕を体の横、死角へ向かわせ、ぎょっとしながら隣を見遣れば案の定、彼女だった。
「包帯めっちゃ破れてるやん。替え持ってないの? 血ぃ出た?」
そしてこれもまたデジャヴであるが、視線は一向に交わらない。
俺からは背の差の関係で旋毛しか見えぬ為、矢継ぎ早に問うてくる子の表情も窺えなかった。どうも他人との距離を測らないタイプのようだ。
悪気はないんやろなあ。
口を結んだまま呟き、仕方なく半歩ほど退いた上で答えを投げる。
「…平気や、なんともあらへん。包帯の替えは……今持ち合わせないな」
「利き手なんやから大事にせなあかんのに、なんで? そない急いでるとこやった? 聖書さんも慌てたりするんやねぇ。けどほんまに気ぃつけてや」
「………返す言葉もありません」
「ふふ! 白石君の敬語、おかしい」
軽々倍は打ち返されて白旗を上げると、鈴の音に似た笑声が耳朶をくすぐり、僅かに歯を見せて笑う少女のまなこと鉢合わせになった。
廊下の窓から差し込む陽射しはごく弱く、かろうじて雨は降っていないが時間の問題だと思わせる曇天下、いつだって颯爽と去ってゆく彼女からなかなか連想し辛い微笑み方に、俺は一瞬声を詰まらせる。
傾いだ首に合わせて絹糸めいた髪がなだれ、ゆったり弧を描く眉はやわく、目尻がほんのりと緩む。
小作りな鼻。
笑い声を零す唇は開いていても、変に大きくない。ごく自然で上品だった。
口元の動きを追ってたわむ頬が、女の子のものだ。
普段やかましい男共と向き合う事の多い俺にとっては尚の事、深い実感を抱かせる。
だけど母親や姉妹の誰とも違う。
初めてリアルに眼差しで触れる異性だった。
「ほんなら私、ちょお行ってくる」
呆ける脳がすぐさま逸れた両目と響きで揺り起こされる。
え? と驚きが喉を突くよりも先にクラスメイトは来た道を戻っていった。
俺はと言えば、小さな背中が音もなく失せていくのを思わず大口開けて見送ってしまう。
ぽかん。
効果音をつけるとしたらこれが相応しいだろう。
行ってくるてどこへ。何しに。そもそも俺は待ってるべきなんか、どっか行ってええんか。
散々悩んだあげく、ぼうっと突っ立ているわけにもいかない、ともかく金太郎に目撃される前に毒手を何とかせねば、決意新たに一歩踏み出した、その直後。
「おーい! 白石君、替えの包帯!」
舞い戻った明るい声に挫かれた。
「今の、アンパンマンみたいやったね! 新しい顔よーて!」
けど白石君は正義の味方ぽいから似合う、と無邪気な微笑みが巻かれ縮こまった白布を手渡して来るので、次から次へと忙しなく進む展開に軽い混乱が生じる。
ツッコミも追いつかない。
「……いや、めっちゃ有り難いんやけど、自分これどこから持って来てん」
俺が投げた疑問に対し、自称バタ子さんは屈託なく告げて来た。
「ん? 保健室」
「………一応聞くけど誰かおったか?」
委員会の当番表と養護教諭の出張予定について記憶を探る最中で、もしやととある可能性が閃く。
「ううん。ノックしたけど誰もいーひんかったから、後で報告しにきますて心ん中で呟いて貰て来た」
「それ無断拝借やろ、アホ……」
「なら借りて来たことにしよ?」
「アカン。返して来なさい」
嬉しくない大正解に力が抜けてしまうが、ぐったりと肩を落とし、教師じみた注意を口にする俺へ向けられた瞳は煌めいている。
身長差の分だけ仰のく少女の角度はどうしてか新鮮だ。
「せやけど包帯ないと困るんと違うん、白石君」
「それとこれとは話が別や。自分忘れてへんか、俺保健委員やねんで。その委員が勝手しよったら示しがつかん」
想像と違わず同級生の所属委員会までは把握していなかった様子で、そうやったん、呟く人は尚も続けて反論に勤しむ。
「勝手したんは白石君やなくて私やもん。もしなんか言われたら俺犯人ちゃうして知らん顔したら」
「嫌や。そんなかっこ悪い真似絶対したない。女の子に罪なすりつけるくらいなら俺が犯人でええわ」
「…そこまで気にせんでも私、別に全然平気やねんけど」
「俺が平気とちゃうし気にするんや。はいはよ返し行くで」
「ええー……白石君、私のダッシュ無に帰すん?」
「コラ、ついさっきの事もう忘れとる。俺保健委員て言うたやろ、自慢やないけど先生の信頼も厚い。そういう生徒が取り行けば無断拝借も許してくれるんちゃうかな。あと廊下は走らんとゆっくり歩き」
無理矢理突っ返すのも心苦しく、急いで替えを取って来てくれた気遣いが嬉しかったのは確かだ、それにいつまでもここで問答を繰り広げているわけにはいかない。
よって妥協案というか折衷案を提示したのだが、ついでに生活態度についての注意を受けた少女はきょとんと目を丸くしていた。
よく動き、俺よりよっぽど多くの物を映せそうな大きい虹彩が、見る間に和らぐ。
うん、わかった。
素直に頷いたのは廊下を走るなという指摘についてらしかった。
そろそろ部活動が始まる時刻である放課後の校舎内、遠巻きに人の声や気配がする。
空を埋め尽くす雲に果てはなく、街の向こうまで敷き詰められてどこか息苦しい。
だが雨の薫りも濃厚な空気も何のその、むしろまとめて一気に吹き飛ばす勢いを伴う爆弾がいかにも少女らしい声音で放られた。
「あんね、白石君は安心してええと思う。包帯ボロボロでも関係あれへん、たまには人のせいにしたり! それでも許されるくらい、かっこいいんやから」
間近でもろに食らった俺はお陰さまで彼女の綻んだ表情を否応なしに覚える破目となってしまったのだった。
積み重なる日々の他愛なさに、懐の奥まった所が温まるのを我が事ながら傍観する。
予想を裏切らずやはり忘れっぽい。
しかし忘れ物が多いかと注視すれば否、成績面やパッと見ではそこそこの優等生である。
何度言い聞かせても、先を急ぐ時は廊下を走る。
コラ、の一言を放れば、ごめんなさい、まるきり子供の謝罪が戻った。
一度、俺にとっては忘れ難いそのクラスメイトはお約束のように階段で足を滑らせかけバランス崩壊を起こし、持っていたノートやら教科書やら一斉にぶちまけた事がある。
地味な惨事だ。
階下にいたこちらにまですっ飛んで来た晴れ渡って明るい空色の下敷きを拾ってやって、ありがとー、と間延びした礼に鼓膜を撫でられても、薄く平らな落し物を手渡す折には指先の一つも重ならなかった。
時に多くを尋ね、時に肝心要の問いを失念するらしい。
左腕の毒手について彼女がつついて来る事はなかった。
興味がないのかもしれない、と些か気になった日もあったが、であればこうも向こうから話し掛けては来ないだろう、心に立った白波を落ち着かせる。
物事を解決しようと試みる時に限って言葉少なに行動へ移す所為で、驚かされた回数は知れず。
突拍子のない言動はいくら味わっても慣れない。
あからさまにふざけた様子で、ピンチの時はいつでも新しい包帯持ってくで、なんならめっちゃ上手に投げるし見といてな、みんなのヒーローやねんからちゃんと受け取ってや、と俺をアンパンマン扱いした。
え、そうやった?
口癖だ。
こっちが格好悪いと忌避する場面で、大丈夫だと胸を張る。続く台詞など最早簡単に当てる事が出来た。
白石君はかっこ悪いことしとってもかっこいいんやから平気、ほんま気にしぃやね。
脳裏をよぎったセリフの一言一句そのまま、笑って口ずさむのだから苦笑しか涌いて来ない。
彼女の‘かっこいい’には正義の味方へ対する憧れ、羨みしか籠もっておらず他意がなかった。なさ過ぎた。ないものを掬い上げ、形にする事は不可能だ。
採点甘いで、バタ子さん。
滲んだ輪郭を描き出す多彩な感情をひた隠して乗っかってやるとあの笑顔が寄越され、瞬時に震え出す胸のすくような鮮やかな色を纏った線は、心のやわい所を縁取っていく。
去り際が潔い。
立つ鳥跡を濁さずを地で行き、突然現れたと思ったら目くらましでも使ったのかというくらい完璧に掻き消えている。
小さな背中は引き止める間もなくもっと小さくなっていった。
ぱっと行ってさっと帰ってくる、自ら豪語するだけの事はあって、正しくその通りの行動を取る。
俺は彼女の後ろ姿を見送る立ち位置に、すっかり慣れ親しんでしまっていた。
背は低く体のどこを取っても俺より頼りないつくりで、到底屈強に見えないにもかかわらず、なよやかだとかか弱いだとかいう表現が似合わない。
ほな頼んだで、と任せられるだけの説得力があった。
彼女にまつわる一つ一つを数え記憶していく過程が、時折妙な弾みを生む。
不快感など欠片も見当たらないから、相変わらずやなとのん気に笑いながら受け入れた。
だから、いつどこでどのタイミングで、といった問いに答える事は出来ない。
気付いた時にはもう遅かった。
落ちて転がるような激しさはなくても、のたうつ痛みが身の内を走らずとも、さも愉快げに、だけど静かに居場所を広げる存在の正体なんて、俺はとっくの昔に知っていた。
初めて言葉という形にしたのは、出会いから季節がひと巡りした春先の事だった。
卒業を間近に控え、三年生の間にもややしんみりとした空気が流れ出す頃合いである。
どこの物好きが作り上げたのか目的は何なのか等々答えを持つ者のいない、我が校における百ある謎の内の一つだが、四天宝寺華月横に年季の入った温室が不釣り合いな装丁を施され佇んでいる。
そこでは植物お笑い研究機関なる怪しい部活が日夜励んでおり、俺は毒草を見分けられる識者として招かれる事が多々あって、最後だからと顔を出した帰りに別れにはまだ少し早いが今まで世話になったと心ばかりの花束を贈呈されたのだ。
一度はガラじゃないと辞退したのだが最後なのだからどうしてもと懇願され、そういえば‘毒草聖書’の執筆や構想の手助けをしてくれたな、ふと蘇った思い出にも背を押された結果、大人しく受け取る事にした。
テレビやら式典やらで見掛けるような派手さ、大きさのない花々は慎ましくも美しい。
無駄なき姿かたちに自然と笑みが零れる。とりどりの色合いは互いの良さを殺す事なく共存していて、限りある時の中で精一杯咲いていた。
植物図鑑を保持し毒草に詳しくても季節の花についてはそこまで明るくない俺が一輪ずつためつすがめつ眺め、お、この花の色はいつかの吹っ飛んできよった下敷きに似とんな、何気なく追憶しようとしたと同時。
「わすれなぐさ!」
誰や、いきなりなんや。
口にするまでもない。
3号館の外壁沿いに歩いていた俺の背後から急に顔を出した少女があの時みたいに――いつものように、ひょいと手元を覗いて来る。
「私基本ぜんぜん詳しくないんやけど、この花だけは知っててん」
それから香り豊かな花の元から睫毛を浮かせ、光を帯びた瞳で一足早い春越しに俺を見た。
馴染み深い位置、慕わしい角度、何度も向けられた笑顔。
持ち主は顧みもせずその辺に落ちていた木の枝を拾い、土をほじくり返し始める。
漢字はこう、との声と共に記された字は意外なほど整っていた。
勿忘草。
一画ごとが伸びやかで丁寧だ。生み出した細い指がひらと舞い、肩掛け鞄の紐へと移る。
「綺麗だし、ちっちゃくて可愛い」
はっとして呼吸を断つ。
すぐ傍で綻ぶ微笑みは、一番鮮明な花だった。
俺の努力と状況次第で枯れずに咲き続けるだろう、誰にも知られていない事を祈るばかりの常春。
見止めた途端に不思議と肩の裏が温まり、体の中を通って肺や心臓を押し上げる。
その優しい熱によりすぐさま息を取り戻した俺は、顔の筋肉が独りでに緩むのをわかっていながら引き締められない。
俺が伝えたかった事言われてしもたな。
胸中にて呟き落としつつ追従した。
「そやな、かわええな」
「ね。ほんまに」
だが個々の音に籠めた感情の方は大人しく追いかけておらず、目を細めて頷く少女が思い描く形からはきっとかなりかけ離れている。
青い小振りな花びらが冬の名残を灯す光に揺れ、音もなく語り掛けて来ていた。
私を忘れないで。
勿忘草は、フォーゲット・ミー・ノットの和訳だ。
白石君はその花束の中やったらどれが好きなん、どうという事もない問い掛けがいやに優しく響き、誘われて目線を下へ遣れば、春夏秋冬同じ場所から心に触れる人がいる。
いつかおかしいと笑われた敬語で君が好きですと告げたら、どんな反応を俺にくれるだろうか。
埒もない空想が指の間から零れる砂粒のよう溢れ流れて、留まる事を知らない。
どうしようもなく込み上げる笑みを一人噛み殺しながら、偶然にもぴったり当てはまっていた言葉を耳の奥で繰り返し再生させた。
綺麗。
ちっちゃくて可愛い。
それから自分自身の声と感情をごく慎重に、丁寧に確かめるよう重ね合わせる。
花ではない。
彼女がだ。
綺麗なのも小さくて可愛いのも相応しいと感じるのは、隣で世間話を仕掛けてくるたった一人なのだ。
「…さあ、どれやろ。皆それぞれいいとこがあるんちゃう?」
本音とは裏腹に軽く肩を竦めて当たり障りのない返事をしてやれば、大分低い位置にある眉間が露骨にひん曲がった。
「うわぁ、めっちゃ優等生回答」
「はは! なんで嫌そな顔すんねや。おかしいなあ、優等生てもっと褒めて貰えるモンのはずやけど」
「そんなん先生とかに頼んで下さい。私の範疇外やもん。……白石君、完璧な聖書続けるのもええけど、一個くらい内緒の特別作ってや。そんで息抜きもちゃんとした上での大活躍が、理想形やと私思うけどなぁ?」
聞き捨てならないセリフを置き土産に、あんま考え過ぎると肩凝るで、と平均身長まで届いていない様子の背丈が俺を通り越していく。
軽過ぎて聞こえぬ足音、制服の襟はやわらに翻って踊り、微かな残り香で一瞬だけ空気をふるわせる髪が艶めかしい。
まだ肌寒いとはいえめっぽう春に近付いた陽光は、遠ざかるばかりの後ろ姿をほのかに浮き立たせていた。
確かに特別だというのに見慣れてしまった光景だ、良い傾向ではないだろう、でもいつまでも眺めていたい。
望む事は山ほどある。
激しく責め立ててきはしないものの緩やかに膨れ上がって占拠し、言いたくて堪らなくなる時、喉を焼く切なさが染みて仕方がない。まるで揺らがぬといえば嘘だった。
目に残るのはいつも背中だ。
振り返らずに駆け抜ける。どんどん離れて小さくなっていく。存在感のみを置いていったまま紛れていってしまう。
呼び止めた事は一度もない。
やがて彼女が校舎の角を折れまったく見えなくなった所で、春の花の色によって剥かれた本心がさざめき出し止まなくなった。
(あのちっさい背ぇが、真っ直ぐ俺を目指してくれへんかなあ)
覚えて欲しい。
あの子に俺の事を、俺がずっと忘れないでいるみたいに。
なんでもかんでも手当たり次第に記憶してしまえばいい。
強く、深く願う。
その為だったらアンパンマンにでも、つまらん優等生にでも、他の奴から恨まれる男にでも何にでもなってやる。笑われても構わない。ダサいわとツッコまれようがドン引きされようが、そんな事はどうでも良かった。
かっこ悪くてもかっこいい、と太鼓判を押してくれた彼女なら、多分笑って受け入れてくれるだろう。
せやから走って来ぃや。
転んでも助けたる、怒らんし遠慮せんとダッシュでええよ。
一つしかない内緒の特別、ほんまはもうずっと前から作っててん。まあ人の利き手もよう見ん自分の事や、知らんかったやろ。
けどこれだけは覚えなあかんで、いっぺん聞いたら忘れられんように、念の為きっちり言うな。
君が好きです。
ほんまのほんまに、大好きや。
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