女郎花 (おみなえし)




一夜明ける毎、本格的な夏へ進む季節の針は容赦ない。戻りもせず、引き留める事だって不可能である。
生い茂る青葉を貫く陽射しがつくる、あらゆる全ての影はとてつもない数の蟻が群れた濃さだ、思い出したよう時たま吹く風に揺られて蠢く。
屋根瓦に店の看板、アスファルトの微細な凹凸、濡れた蛇口のカーブ、地上の人工物は悉く高熱に侵されている。太陽そのものの勢いに反射光が加わり、方々で放たれる眩しさに目を開けていられない。
金太郎が倒れ込んだ草むらは、噎せ返る緑の匂いと少々の水っぽさ、昼過ぎまで散々温められた土の香りに満ちていた。
すぐ傍の幹に取り付いているのだろう、声を張り上げる蝉が喧しい。合唱が至る所で見境なく繰り返され、ハンドルを限界まで開いたシャワーのよう延々と降り注いで来る。
四天宝寺中男子テニス部より騒がしい夏の声を浴びつつ、空腹を訴える胃のうねりを感じ、意識まで朦朧として覚束ない金太郎の耳へ、

「あの……大丈夫?」

気遣わしげな問い掛けがするりと伝い落ちて来たのだ。
跳ね起きる。
求めて止まぬ芳しき香が鼻腔を掠めていた。腹が鳴く。物欲しげな響きだった。

「タコヤキ!!」

突然の事に驚いたらしい、しとやかな声の持ち主は目を丸く太らせてい、腰も少し引けている。
爛々と目を輝かせ、今にも食いつかんばかりの前傾姿勢である小柄な影へ対し、何事か唇を開こうとした瞬間、金太郎の胃の腑が、怪物か動物か知れぬが、巨大生物を身の内に飼っているのではないかというほどの咆哮をした。
一拍の間があく。

「よかったら、どうぞ? 私の食べかけでごめんね。でも、残っているものに口は付けていないから」

少女が思わず、といった調子で零した微笑みは酷暑に似つかわしくない、春の日なたのような柔らかさだった。


近くのベンチへ誘おうとした少女の言葉は、腹を満たす供物しか目に入っていない金太郎へ届く事はなかった。
陽に焼かれ色を濃くする夏草の上に腰を落ち着けた小さな怪獣は、差し出されたタコヤキにかぶりついて、ものの数分と経たぬ内にぺろりと平らげたのである。
尻をつけずにしゃがむ恰好をとった少女は、たただただ圧倒されるばかり。途中、バッグの中に入っていたペットボトルのお茶を渡そうとし、恐るべき勢いに掻き消され口を挟む隙も見つけられないで、結局傍で控えるに留まった。

「ねーちゃんおおきに!」

口元の鰹節やソースを拭った金太郎が、満面の笑みを浮かべる。

「なんや駅集合言われてな、いっちゃんデッカイ建物目指して走っとったはずなんやけど、知らん内にようわからん道に入ってもうてん。ずーっとグルグルしてホンマ腹減って死ぬとこやったわ!」
「そうだったの」
「あ、アカン!」
「えっ?」
「自己紹介忘れとった。ボク遠山金太郎いいますねん。四天宝寺中一年、テニス部!」

誰かに助けてもろたら必ず名乗ってお礼しなさい、謝らなアカンでて白石がうるさいねん。
威勢良く続ける、いわゆる迷子を前にし、小さな親切を手渡した側というと、白石って誰なんだろう、素朴な疑問に首を傾げた。

「なあ、ねーちゃん大阪の人ちゃうやろ?」
「え、う、うん」
「うーんやっぱそうやんなあ。まーいちお聞くけど、駅どっちか知らん?」
「ええと、駅名は?」
「わからん! 忘れた!」
「ええ?」
「ナントカ町とか、ナントカ丁目とか言うとった気ぃする」
「それは……ちょっと。ヒントがもう少し、欲しいかな」
「そんならええわ、道わかれへんけどとりあえず走ってみる! タコヤキ美味かったで、ホンマおおきにごちそうさまでした!」

言うが早いか立ち上がる。金太郎の動きに遅れる事数秒、余波で草きれが舞い踊り、夏嵐が吹き荒れたかのよう、無風の午後に一瞬の涼しさが流れ込んだ。
ぽかんと大口を開けるのは取り残された少女だ。
急展開に次ぐ急展開で、情報処理が追いつかない。
放り出された食事の跡を引き寄せ、スカートに降り落ちた深い緑の葉を跳ね除ける。

「……遠山金太郎くん」

呟きは夏虫の鳴動に上書きされて消えた。



偶然のひとときだったはずの邂逅は、時を経ずして再びやって来た。

皆に遅れる事数十分、心配したんやで金ちゃん、自分どこ行っててん、今度から気をつけよな、ちゅーか単独行動しなや、様々な言葉を掛けられつつテニス部の輪に加わった金太郎は、存分にラケットを振るい、よく食べ、よく寝、翌朝を迎える。
類い稀なる身体能力で入学早々、新入生にして諸先輩らに頼られる存在となった彼は、白石や謙也を筆頭にテニス部の誰かしらが目を配っていなければ、大小様々なトラブルに巻き込まれる質だ。明らかに燃え上がりそうな火種へ、自ら突っ込んでいく事もある。
小柄な体躯に加え、一見して無邪気な子供である金太郎の無謀とも言える行動に気を揉むのは何も知らぬ路傍の人ばかり、やられたらやり返せ、をモットーに突き進む本人は降りかかる火の粉という火の粉全てを追い払ってしまう。
この日もそうだった。
他校との練習試合を完勝という形でつつがなく終え、さて一度学校へ戻りミーティングだ、2、3年のレギュラー陣が辺りを見渡した所で、一人足りない。最も厄介な‘ゴンタクレ’がいつの間にやら姿を消していたのだ。
金太郎を擁する学校が四天宝寺でなくば、ある者は眉を顰め、また慌てふためき、もしくは溜め息を吐く等々、程度に差はあれど少々の騒ぎになるだろう。だが幸か不幸か関西の雄と称されるテニス部は、時折手のつけられぬ暴れん坊と化すスーパールーキーを許容する気風があり、良く言えば非常におおらか、悪くすると実に大雑把であった。
本人が口にする通り、金太郎は山嵐だ。
事件の発生場所こそを目指すべき。
部長の白石を始めとして皆思い思いに頷き、慣れ親しんだ大阪の街へと散っていく。


走り出したが最後一直線に突き進み、誰の声も耳に入らなくなる愛すべき一年生は、例によって大立ち回りを演じていた。
またしても迷子と化していた所、古典的なカツアゲの現場を通り掛かり、気付かぬまま道を尋ねようとして、上背のある高校生ら数人に金の有無を問われたのだ。

「ワイ、持ってないでぇ! っちゅうか持っててもやらん。今そっちのにーちゃんから取ったやつ、ちゃんと返したりや」

素直に答えた所、因縁を付けられた。ぎらつく無数の目が、狭い路地にひしめいている。
問答無用と殴り掛かられたのは、金太郎が左右に立ち並ぶ雑居ビルをふと見上げた直後の事。
宣告なき暴力を持ち前の反射神経で一手を避け切る。
場はどよめき、次いで三問芝居のように、調子乗んなや、イテまうぞガキ、全員かかれ泣かしたる、口汚い言葉の矢が射られたがしかし、穿たれた側はといえば物ともせずに羽交い絞めにして来る背後ろの男に後頭部で頭突きを食らわせた。
体の自由がきくようになった瞬間、目にも止まらぬ速さで屈み込む。間を置かず午後の太陽に温められたコンクリートに手をつき、ちょうど逆立ちをするような恰好で前方のでくのぼうへ強烈な蹴りを一発。
相手に呼吸の機すら与えない。よって呻き声もなかった。
中学生に比べ大きく出来あがっている体躯が、どうと転がり伏してから初めて痛みに歪んだ短い悲鳴を上げる。
体勢を戻した金太郎は勢いのまま、急展開のあまり呆けていた一人が構えるより早く鳩尾へ靴底を叩き込んだ。まるで弾かれたよう倒れた者の口からは衝撃で唾液が飛び、一方で息が詰まったらしい、空咳を繰り返しながら身を捻じっている。ふん、と両足で着地をした小さな影は汗一つ掻いておらず、呼吸も乱れていない。なんやねん道聞いただけやん、眉間に皺を寄せて不本意そうに吐き捨てたのち、路辺にて尻餅をついている、金銭ばかりかバッグごと奪われかけていた気弱そうな少年へ視線を滑らせた――、

「危ない後ろっ!」

と同時、助言が何処からか飛ぶ。
脳で理解するのではなく、鼓膜が振動した一瞬の内に判断を下した。
俊敏な獣もかくやといった速さで振り向く。得物を手にしたひと際大柄な男を視界に捕らえる。ギロチンめいて不気味な光を放つ金属バッドの風を切る音が鋭い。無手の金太郎では叶わぬと思ったのか、泣きじゃくり腰を抜かしていた被害者は脱兎の如く逃げ出した。置き去りにされた金太郎だけが卑怯な男を見据え、揃いの目のどちらも逸らさずに開き切っている。

「死に晒せクソボケ!」
「金太郎くん!」

距離としては眼前の悪口雑言が近かった。
だのに、何故か名を呼ぶ高い声の方が耳に残った。
不可思議な現象を心に留めるに必要な一寸の余白もなく、凶器が天高き頭上より真っ逆さまに落ちて来る。
些か離れた位置で甲高い叫びが跳ねた。きゃあやめて、言っていたかもしれない。その切実なる音が伸び切らぬ内に、ブォン、間の抜けた響きで場が凪いだ。
男は手応えのなさを訝しみ渋面になり、転瞬、呼気まるごとを破裂させる。身長差を逆手に取って懐へ飛び込んだ金太郎から強烈な当身を食らったのだ。
良くも悪くも名高きゴンタクレは諸共地面に転がる寸前抜け出し、背を低く保ち続けて駆け、三歩分行き過ぎたのち身を翻した。
死屍累々。
端的に表すと四文字熟語に集約される。
小さな体に見合わぬ強さの持ち主がずいと進んだ所で、ダメージを負った者の悉くが尻尾を巻いて退散していった。
騒がしい足音が去ってゆけば、大乱闘の証は取り残されたバットだけだ。ひょっとすると己の脳天を割っていたかもわからぬそれを掴み、路面の端へとよける。金ちゃん、道通る人の邪魔したらあかんで。日頃、毒手で以って金太郎を制する聖書の教育のたまものだった。が、真に公共道徳を心掛けるのであればまず喧嘩を回避するべきで、若干認識がずれているのはご愛嬌、といった所か。
カランコロンと硬度にしては可愛らしい反響が周囲の道路へ広がり、金太郎は確信を抱いている事自体に気づかず本能の赴くまま踵を返した。

「やっぱりタコヤキのねーちゃんや!」

天真爛漫な笑みで顔をいっぱいにし、掴み合いが始まる直前に放り投げていたバッグを拾い上げる。
呼ばれた方ははっと弾かれたよう、へたり込んだコンクリートから離れて駆け寄って来た。

「だ、大丈夫? 怪我は」
「ない! ねーちゃん見てなかったんか? ワイ、ああいう奴らに負けた事ないでぇ」

並びの良い歯を見せ言う少年の溌剌とした声音が、やや青ざめていた少女に安堵をもたらした。

「そう……。はあ、よかった……」
「それよりさっき危ないーて言うてくれたやろ。また助けようとしてくれたんやな、おおきに! うーんと、あとなに言うんやったっけ、うーん…………あ、心配かけてごめんなさい!」

妙に格式張った口調である、きっとお母さんかお父さんに言い含められたのだろう、と一般的な推測に微笑む少女は、後輩を上手く導くテニス部部長の存在を知らない。

「ううん。君に怪我がないならいいの。私、大した事はしていないから」
「ほんならワイら二人ともなんも気にしとらんし、めでたしめでたしや!」
「ふふ、そうだね」
「あ、なあ、大阪の人ちゃうのになんでまだおるん? ねーちゃんどこの人?」
「ああ、私は……お父さんが単身赴任で大阪にいるんだ。それで、お父さんの所へ家族で遊びに来てたの。本当はみんなで観光するはずだったのだけれど、ちょっとね。お父さんが急に仕事になっちゃって。お母さんは部屋の掃除と買い出しと、挨拶回り? をするから、折角だからあなた一人だけでも近くを見て来たら、って送り出されて、今に至ります。目立つね、金太郎くん。遠くからでもすぐにわかったよ」

朗らかに語られる自己紹介を、金太郎は珍しく耳を澄まし聞き入っていた。
話の内で少女の家が府外にある事はわかったが、県名はともかく聞かされた住まいの委細はものの数分で忘れ去る。彼にとって重要なのは大好きなテニスと出会った大阪と、戦って倒したい相手がいる東京くらいなのだ。
年は中学三年生。関東出身、学校は開校記念日と体育祭の振り替えで休み。
大阪名物のタコヤキを一度は食べてみたいと購入し、手頃なベンチにて味わい始めたら、ふらつき遂には地に伏した金太郎を見つけて驚いた事。
昨日の男の子はどこの学校の生徒だったのだろう、とぼんやり考えながら言いつけられた買い物の帰り、恐喝する輩と金太郎の一悶着に出くわし、咄嗟の一言を飛ばしてしまったそうだ。

「そうやったんかあ。グーゼンて続くもんなんやな」

両手を頭の後ろへ回した金太郎がぶらぶらと右足を揺らしながら、自分より少々背の高い少女を見遣る。
照り返しの熱が漂い、蝉は飽きもせず鳴き喚いて、ヒョウ柄のタンクトップの裾が一瞬だけ強く吹き込んだ風で煽られた。
やんわり微笑む人がおとなしやかな手つきで掌の内から腕首を摩るので、我知らず前のめりになった。彼らしからぬ細やかな洞察力だ。発揮された訳は、なよやかな左手が擦れうっすらと血が滲んでいる所為だった。

「どないしてんそれ血ぃ出とるやんか、ねーちゃんこそ平気なん!?」

下ろした腕の持って行き所がわからず、宙にてさ迷わせる。
ああ、と落ち着き払っているのは年長者たる少女だ。

「さっき金太郎くんが危なかったの見て転びそうになったから……慌てて手をついたらね、ちょっと擦り剥いちゃった。でも、平気だよ。気にしないで」

声の柔らかさは頭にまで届いていても、内容自体は入って来ていなかった。
自分の方こそ大怪我をする可能性が高く、何なら盛大に転んで全身擦り傷だらけになった日だってある、しかしどういう訳か今の金太郎はすわ一大事だと背筋を正し、時々睡眠欲が混入するかもしれないが基本的にはテニスとタコヤキで二分される脳細胞を、ほんの傍でちらつく傷口の為に使い始めた。
バンドエイド、その前に止血だ、いや消毒が先。
考え至り首を巡らせるも水道はなく、消毒液もない。思いあぐねる間も惜しいとばかり右腕を伸ばす。間髪入れずほぼ無意識に少女の手首を掴み、いつだったか膝小僧の軽い擦過傷を白石に見咎められ、ツバつけたら治る、平然と答えた日を脳内で再生させた。
平生の金太郎であれば即座に次の行動を取るはずだが、今回は違っていた。
古典的且つ野生動物じみた手当てを実践する意気があっという間に萎える。驚愕によって塗り潰された、が正しいかもしれない。
凡そ関わった覚えのない細さだった。
残念ながら比較対象がテニス部三年の面々しかおらず情報としては不正確だが、相手は異性といえども二つも年上、であれば相応の手応えがあって当然だろう、と金太郎の幼さが決めつけていた。
実際はどうか。
掴み回した指先が大層余る。テニスラケットの所為で肉厚となった己の掌に比べ、直に感じるぬくい体温の在り処はどうしたって薄い。肉刺だらけの指の付け根が、彼女の皮膚が如何にすべらかであるかをむざむざと知らしめる。
金太郎はとにかく驚いた。
大口を開いたまま、時が止まったかのよう凍りついていた。
少女は目を軽く見開きつつ瞬かせており、突然の事態に理解が及んでいない様子である。
日がな一日屋外で暴れるテニス少年と違い、静脈の薄青が透けそうな白地の頬が見えた。長い睫毛が影を作っている。どうかしたの、金太郎くん。ゆっくり傾いだ細い髪の傍から、仄かな暗にまみれたこめかみが覗く。ちかと微かに光るものがあり、何拍か遅れて気付いた。汗だ。夏本番を迎えていないとはいえ太陽は中天に座してい、放たれる陽射しは瞼ごと眼球を焼く凶悪な光線。然るべき発露だった。
ええと、あの、といよいよ困惑ぶりを隠さぬ声音に、呆けていた金太郎が我に返る。
思考は自動的に遡り、つい先刻までの拙い物思いごと飛び越え、なかったものにしてしまう。
表面のみで判ずれば穏やかだがその実強めのツッコミを入れて来る、包帯に巻かれた左腕の持ち主の言が蘇った。
金ちゃん、唾付けても消毒にはならんのや。誰に何て言われたんか知らんけどな、舐めたらダメ。絶対あかん。特に、人様にそれやったらそん時はもう毒手やで。金ちゃんは死にたいん。
猛スピードで血の気が引く。
猫の如くびゃっと飛び退き、嫌や死にたない、せやけどちゃんと傷洗わんと、混乱はあちらこちらを行き来し、不思議そうな表情の少女がポケットから取り出したハンカチで自らの傷口を押さえるまで、しばし繰り返された。
忙しない事に、今度は空気を抜かれた風船と同様に金太郎の背がしぼむ。

「……ねーちゃん、痛ない?」
「うん、痛くないよ、大丈夫だよ。さっきも言ったでしょう? ちょっと擦っただけだって」

図体だけは立派だからこそ厄介な輩と相対し、傷一つ負わぬまま勝利した者と同一人物とは思えぬ消沈振りだ、少女は眦を和らげ、頼もしい限りだが確実に年下ではある少年を見、付け加える。

「そんな事より、金太郎くんは? テニス部だって言っていたよね。部活はいいの。また、道に迷ったりしていない?」
「あ、せや! めっちゃ忘れとったワイ学校に戻らなあかんかったんや!」
「なら、早く行かないと」

あくまでも丁寧に紡がれる言葉に対し、金太郎が僅かに何か考える仕草を見せるも、間を置かずして制服のズボンを乱雑に叩き始めたので、本当に一秒にも満たない間の出来事だった。
ポケットに両の手を一遍に潜り込ませ探る。
内側の布地まで引っ張り出して振るい、ついでに二度、三度と跳ねた。
首を傾げる少女への気遣いを忘れているのか、金太郎は背負っていた鞄を下ろし、腹の前で抱えながらいの一番にラケットを取り除いて、事もあろうに逆さまにする。
勿論、滝のようにざーっと中身が流れて来た。
登校時に入れたきりと思しき教科書は折り目もなくまっさらで、消しゴムとシャープペンに極太のサインペンは直に放り込んだらしい、ペンケースが見当たらない。甲高い音を立てて転がる小銭、しわくちゃのプリント、丸まった紙ごみ。几帳面な字で綴られた迷子札のようなもの。それから使い勝手の知れぬ折り紙の束と竹とんぼ、紙風船に外れクジの残骸と、駄菓子屋仕様のラインナップが続いた。
突如として起きた事態に目を白黒させる少女が、どうしたの、何か探し物、尋ねる前に、

「……なんもないぃ……」

金太郎はがっくりと肩を落とす。

「ねーちゃんに助けてもろてケガさしてしもたのに、ワイお返しでけへん」

彼なりに気にしていたらしい。

「そんな、金太郎く……」
「よっしゃわかった、ツケにしたって!」
「ツ、ツケ!?」

だが、しおらしい様もつかの間、晴れ晴れとした今日の空のよう言ってのけた。
散らばった持ち物を拾う事も忘れ、二人は正面から向き合う。

「うん、後でちゃんと払う!」
「…借金じゃないんだから……」
「しゃっきん? ようわからんけど、言い方間違うた?」
「うーんと、間違い、というか。全部間違いではないんだけど誤解を生みそうだし、それに本当に気にしなくていいんだよ」
「そーなんか?」
「そうだよ、ふふ」
「ふーん? けどワイは気になってまうから、ねーちゃんも気にしてや!」
「え……」
「忘れんよう覚えとく。せやから約束な。あ、ツケやのうてこう言えばよかったんか!」
「あの」
「ほんならハイ、ねーちゃんペン持ちや」

落ち転がっていた太いペンを眼前へ差し出され、少女は困惑しきりである。
一方、金太郎は誇らしげに言葉を繋げる。

「大事な時はねんしょするんやろ、ちゃーんと知っとるでぇ!」
「ね、ねんしょ?」
「知らんのん? 今日の日付と名前と住所書いて、ごめんなさいーゆうのと約束する事書いて、机にしまってとっとく紙」
「あ、ああ、念書のこと」

本来の念書とは微妙に違っている部分もあるので、どこかで誰かに聞きかじりなんとなくで覚えていたのだろう。
言下に行動を開始する金太郎は、引っくり返っていた教科書を閉じた上で地べたへ押し付け、色とりどりの束から手ごろな一枚を摘んだ。躊躇なく折り紙に己が名を記していく様を見、なるほど勉強用具を台紙として使うつもりだったのか、少女が遅れて悟る。
にかっと快活な笑みを浮かべて、一言。

「今度はねーちゃんが書く番!」

それなりの炎天下で座り込み、一枚の紙へ鼻先を落とす両人は傍からすると妙な遊びに耽る子供であったが、全くお構いなしに名を書き合う。
並んだ文字には大分差があった。
細くしなやかな筆跡と、筆圧も濃くて大きく、荒っぽいもの。
終えて、仕上げとばかりに大阪一のゴンタクレがびりびりと折り紙を真っ二つに破いた。
少女は金太郎の名の部分を手渡され、金太郎はその逆を鞄の内ポケットへと滑らせる。やはり勘違いをしているのだ。しかし少女はあえて言及せず、半分の念書を大事そうに折り畳み、笑って言った。

「わかった。私、金太郎くんを忘れない。だから、金太郎くんも私の事、覚えていてね。約束だよ」



かくして約定の人となった二人であったが、そう易々と再会を果たせたわけではない。
熾烈を極めた全国大会ののち、行きたい所があるから走って帰ると言い出した金太郎はテニス部部員に全力で引き止められた。
浪速の暴れ牛がまたわけのわからぬ聞き分けのない事を、と頭ごなしに叱るばかりの先輩達を見回し、

「そやかて約束破ったら毒手の出番やでていつも言うとるやん、白石のアホ! なんで今日はあかんのん? ワイ、自分で言うた事ちゃんと守りたい」

靴紐を力一杯結びながら捲し立てる。
やけに熱弁するスーパールーキーに、一体どういう事だ、と部員のそれぞれが腰を据え尋ねた結果、ともかく驚く者、金ちゃんすごかねと感嘆の声、先を越されるやもといった嘆き、心構えだけは立派やんなと目を眇める一人、素敵と褒め称えるつぶらな瞳、呆れ果てた表情、気持ちはわかるねんけど無茶言いなや、嗜める誰か、てんでばらばらの様々な反応が戻る。
全て振り切り、渦中の少年は堂々たる宣言をした。

「そんでな、会うたらお返しにタコヤキごちそうして、もっかい約束すんねや。日本一のテニスプレイヤーになって、世界一にもなる! テニスで一番とったるから、そん時はねーちゃんがタコヤキ山ほどごちそうしてなーて!」

‘約束を守る’という意味を含む花の色を模した念書を真っ青な空にかざす。
天高くにてぎらつく太陽が、強い繋がりと裏腹に薄い紙上の名前へと差し込み、サインぺンの黒色を浮き立たせていた。
金太郎が笑う。
輝く双眸の行き先はいつだって、これと心に決めた確かな未来だ。