二藍 (ふたあい)




朝しか会えない彼女と、夕暮れまで一緒にいるのは初めてだった。
海鳴りが風の中で渦を巻く。
潮の香りは鼻腔深くへ差し込み、肌や髪に湿気た空気が触れて離れていって、遠くの水平線が落ちゆく太陽を反射していた。
光の道筋はぼやけてい、海面に立つ細やかな波を照らす。
今にも沈みそうな灯りの源へ向かって、群れた雲達が薄く伸びる。沖に近いものは暮れかかる陽でくっきりと染まり、岸辺へ寄れば寄るほど暗い影を帯び、夜色だった。
海はまだかろうじて紺を保つ部分があって、夕闇と陽光のどちらも水面へ浮かばせつつ、静かに揺蕩わせている。
かつての白雲を巻き込みながら数え切れぬ色彩を滴らせ、視線の行き先を奪うのは空の方だ。天辺には濃い闇が這い寄りつつあり、沈むごとに黒から青藍、薄紫、溶けて朱色へ移り変わって、太陽の周りだけが煌々として赤い。
幾重にも重なる彩りを真正面から受け取る俺達は、人の目には途方に暮れているよう映るのかもしれなかった。
すぐ隣の華奢な女の子が、佐伯くん、と耳を澄まさなければ聞こえないくらい、微かな声で俺を呼ぶ。
夕まぐれの海へ伸ばしていた眼差しを引き取り、慎重に見下ろすと、仄かだけれど確かに存在している残光が、風を浴びる睫毛となだれる髪、頬骨の一番高い所、柔らかい輪郭の全てに宿っていて、心までもが黄昏てしまう。
綺麗だけど綺麗だと言いたくない。口にしてはいけない気がした。







その日の事は今でも鮮明に思い出せる。
テニス部の朝練開始時刻は夏が近付くと早まり、ともすれば夜明けと共に家を出もするし、夜中より人気のない目抜き通りや朝焼けに染まる海を横目に歩くのがほとんど日課のようなものだ。
慣れ親しんだ塩気のある空気を吸う。
角の道を折れ、錆び付いた遊具や海風に強い木々の植えられた公園に差し掛かり、突っ切る途中で、彼女と出会った。

「何してるの?」

まずよく状況を吟味し、少なくともある程度様子を見てから問い掛けるべきだったのに、あまりにもインパクトが強過ぎて先に声が出てしまった。
はっと振り向いた人物は、六角中の女子制服を身に纏っている。
学年はわからないが同じ学校の生徒だ、我知らず見開いていた両目から力を抜いた。通学鞄も手に提げている。断じて変質者の類ではないが、姿勢や立つ位置が珍妙だった。
中腰のままひと際大きな木の幹に身を寄せ、公園の出入り口を見張りでもするかのよう睨み付けていたのだ。
俺の目に飛び込んで来た背中から放たれるオーラだけで、尋常ならざる集中力が発揮されている事が窺えた。
時間も時間だし、何かよくないもの――痴漢や不審者に遭遇でもしたのか、と思わず眉を顰めた瞬間、彼女が見遣っていた側から、

「おーいサエー! なんだよはえーな!」

快活な声が届き、手を挙げて応じる。知った顔だったのだ。
声の主は広めに造られた出入り口を横切り、走り出したのだろう、軽快な足音を立てて去っていく。
ふと鼻先を戻すと、さっきまで警戒中だった彼女がしゃがみ込んで小さくなっている。鞄を押し潰すように抱える様は、さながら丸まったハムスターである。
俺は首を傾げた。

「……黙ってて!」
「え?」
「私がここにいた事、誰にも言わないで、内緒にして。お願い」
「あ、ああ…それは別にいいけど」

一体何をしてたんだい、疑問を口の端に乗せるより早く、

「ありがと佐伯くん!」

跳び上がって背筋を伸ばした女の子が、草むらや煉瓦で出来た仕切りをひょいと越え、引き止める間もなく駆け転がって行ってしまう。
取り残された俺は、絵に描いた間抜け面で眺めるしかなかった。


あくる日も彼女はそこにいた。
話し掛けようとして、唇の前に立った人差し指で制される。
飛んで二日後の朝、やはり同じ体勢。
普通に尋ねた所で解は得られないだろうと思ったので、そっと近付いてノックする要領で硬い幹を指で叩く。
細い肩がびくつき、素早く振られた表情は驚愕と表すのが相応しい。知らぬ間に背後に立たれたのだから当たり前だ、申し訳なさを抱えながら、俺は先日の彼女と同じ仕草で沈黙を促した。

「しー。なんだかよくわからないけどさ、バレちゃまずいんだろう?」

出来るだけ小声で問い掛ける。

「あっ…だ、なん…っ」
「誰にも言ってないよ。言うつもりもない。でも理由くらいは聞かせて欲しいなって」

いいかい?
続けると、混乱と戸惑いを行ったり来たりしていた人が、落ち着きを取り戻した様子だ。
一つ深い息を吐いて、もう少し端に寄れ、とジェスチャーだけで伝えて来た。次いで、どんと構える木を背にして腰を落とす。
我に倣えという事か。大人しく従った。

「張ってるの」

こちらがラケットバッグを下ろすや否や、内緒話のトーンで彼女が言う。

「何曜日の何時にどこを通ってどこへ行くか、行動パターンを調べてる」
「……誰の行動を?」
「佐伯くん、こないだ朝声掛けられてたでしょ。あの人」
「…………なんの為に?」
「私の友達の為に!」

相対する形で屈む座にて聞かされたのは、剣幕の割に微笑ましい話だった。
彼女には先月転校した友達がいて、その子の片想いの相手がくだんの陸上部部員だそうだ。告白も出来ないまま離れた事を悔いている友人を励まし、何度か会って話を聞き会議を重ねた結果、出来る限りの協力するからと申し出、想いの成就を見届けると決意したらしい。
それでどうして、スで始まってカーで終わる輩じみた真似をしているのかというと、告白に最適な時間帯や場所を確かなものにしておきたいとの事だった。
恋人の有無と行動予定を把握した上で、あくまでも偶然を装い今だ行けとのサインを送りたい。さも運命のように二人を再会させ、ドラマチックなお膳立てをしたいのだ。
切々と語る彼女は真剣である。冗談のにおいが感じられない。

「絶対黙っててね。私の事がバレちゃったら、上手くいくものもいかないでしょ? ちなみにこの後尾行もするから佐伯くんはしばらくここでじっとしてて」

はっきり言って俺は呆れた。努力の方向性がずれている。

「普通に呼び出して言えばいいじゃん」
「そんな事してフラれちゃったらどうするの? 悲しいわ泣きたいわ恥ずかしいわで、もう死にたくなっちゃうじゃない」
「だったら、俺も手伝う? こっそり呼び出すくらい簡単だけど」
「だめ! 絶対だめ! 佐伯くんみたいに目立つ人が動いたら全校に話が広まっちゃう!」
「そんな。いくらなんでも大袈裟だぞ」
「万が一にもバレたくないの。だって考えてみて? 後つけて行動パターン絞りまくって好きだとか言ってくる女の子、怖くない? ドン引きだよ。百年の恋も一瞬で冷めるよ」
「……そこまで言っておいてまだ続けるのかい」
「全部バレなきゃ健気で終わる話だもん」

なんとも逞しい。おまけにかなり強かだ。勇ましくさえ見える。

「佐伯くんだってそんなストーカーみたいな子に好きだって言われるより、ふっと偶然出会って本当はずっと言おうと思ってたんだけど、って言われる方がいいでしょ?」

折角こちらがぼかしていたのに、本人自らストーカー宣言をしてしまった。

「俺は…どっちがいいとか、特にないな。好きだって思って貰えたら、それだけで嬉しいよ」
「……ごめん今のなし。聞く相手を間違えた」
「え、どうして」
「みんながみんな佐伯くんみたいに懐広くないし、心身ともにイケメンじゃないって事!」

素直に答えただけなのになかった事にされて、褒められているのかどうかも微妙な言葉をぶつけられていたにもかかわらず、俺は小声で一所懸命に言い連ねる目の前の女の子に対し、面白い子だな、と妙に浮き立つ感慨を抱いていた。こう言ってはなんだが新鮮な気持ちだ。
わかってくれた、と確かめる声色も真剣味に溢れ研ぎ澄まされている、揃いの瞳に見上げられながら、
(あ、そうか。思い出した)
心で手を打つ。
いつだったか生徒会室で作業をしていた時、代理ですの一言と共にドアを開いたのが彼女だったはず。
目線を落としたプリントに記載された委員会はのんびりとした雰囲気だと記憶しており、てきぱきと必要事項を述べ書類を持ち返る様が元の委員と全く違っていて、どういう経緯の代理なのだろうと不思議に思ったのだ。
もしかして、その転校した友達の代理だったのか。
問う寸前で、相変わらず丸まったハムスターの様相を呈してた少女が立ち上がる。素早い。残像が目の裏に残るほど迅速である。

「じゃあ佐伯くん、私の事は見なかった事にしてね!」

緑地とコンクリートの敷居をひょいと越える背中は、ターゲット目掛け突っ走っていく。忍者かと思い違いをするくらい足音が最小限だ。

「……前にもあったな、この展開」

唇から零れた独り言が想像以上に呆れておらずむしろ楽しげなので、俺は自分の事なのについ吹き出してしまった。



ある種の規則正しさで以って、同学年と思しき女の子は朝方の公園に現れる。
早くも蝉が鳴き出す頃合い、太陽が本格的に地上を差す前、そろそろと起きる街並みの傍。
どう、進捗は。
挨拶代わりに聞いてみる。
ただいま集計中。
生真面目なんだか軽く躱しているのか、どっちにも取れる答えが返った。
自己紹介をされても名前に覚えがなかったので、クラスは一度も一緒になった事がない。何故自分を知っているのか疑問を投げれば、佐伯くん六角一の有名人じゃない、ああロミオあなたはどうしてロミオなの、立派な木の幹に背を預けた彼女に笑われる。
早朝という時間帯は危ないだろう、せめてきちんと日が昇ってからにしてはどうか、提案し、防犯ブザー所持済みです、と証拠を突き付けられた。
学校内では細心の注意を払い、気配を消しているらしい。いよいよ忍者である。曰く、顔を見られでもして気付かれたら最悪、との事。
当然、俺に話し掛けては来ず、佐伯くんは何をしても目立つお陰で避けやすいとまで言われてしまう。悪い理由ではないにしろ、こうもあからさまに近寄るなと弾かれるのはちょっとショックだった。
何組か聞くのも止めておく。
ひたすら友達の為に身を粉にする彼女の邪魔を、したいわけじゃない。

朝の公園だけだ。
おはようの一言を交わし目的達成は近いのか尋ねたり、天気の話や期末テストの結果にと雑談に花を咲かせるほんのひと時だけ、俺達は普通に会う事が出来る。

強いられてもいないのに言われるがまま黙り通したのは、少なからず協力したいと思っていた事と、わざわざ人に暴露する意味も見いだせなかったというのに加え、俺自身楽しんでいた節があったからだった。
奇妙な枷をはめられて、限られた時間のみを共有する、健やかな秘密が心地よかったのだ。
友達とも言えない不思議な距離にいる女の子は、誰にも気付かれずに学生生活を送れるとは考えにくい個性を持っており、話していて純粋に面白かった。
友人は多い方だという自覚はあるけれど周りにいないタイプだったので、こういう子が友達だったらいいなと願った事が、何度か。
自分ではない誰かの為に、朝昼夜とパターンを予測しデータとしてまとめる姿は、最早執念の塊だ。裏返せば、見返りを求めぬ献身である。なるほど、恋のキューピッドとは彼女を指すのかもしれない。

「私、今まで飽きるくらい海見て来たはずなんだけど、朝の海って全然違うんだね。初めて知ったよ。佐伯くんはテニス部だから、全部の海見た事あるんでしょ。もう海マスターだね」

尾行が格段に上達したと、一度学校で佐伯くんの後をつけてみたけれど気付かれなかったと、聞き捨てならない武勇伝と決して誇れぬスキルアップについて語ってみせた子は、小さな子供のように口角をぐんと上げて歯を見せ笑う。
どうして校舎内だと見つけられないのか、やっぱり腑に落ちない。
影が薄いなんて有り得ないはずなのに、八等星まで確認可能な視力があっても探し当てられなかった。
俺も陸上部のあいつも、気付かない、気付けない理由がわからないのだ。
だってこんなにも印象深い。

時々、想像する。
早朝の光以外に染まった彼女を思い浮かべる。
真昼の炎天下、暮れゆく空の濃淡、炭を撒いたような夜、どこにいるのだろうか。
己の存在ごと消して埋没し、自分に得などないであろうただ一つの結末を目指し、ひた走っているのかもしれない。
気配すら追えない人の居場所を考える都度、俺は言葉にし難い感情が胸の底でざわめくのを感じていた。
正確には友達じゃない。積極的に関わっていないから、協力者でもないのだろう。クラスメイトではなく、かといって知らぬ顔じゃなかった。
やがて八月が来訪する。
朝から晩までラケットを振るい、厳しさを増す陽に撃たれ、汗みずくでコートの中を駆け回った。
風は独特の熱に炙られた匂いのまま、中学最後の夏が終わる。
準じて朝練もなくなり、新学期が始まる頃にはもう、あの公園に彼女の姿はなかった。



「佐伯くん、ちょっといいですか」

同じ学校に通っていながらぷつりと途絶えていた縁が結ばれたのは、十月も半ばに入った頃だ。
部活のなくなった元テニス部部員は皆暇を持て余していて、何かにつけてコートへ顔を出したり、高校でもテニスを続けるつもりだから自主練に励んだり、空いた時間で雁首揃えて受験勉強をしてみたりと、集まる機会は多い。
昇降口でスニーカーに履き替えた俺は、おい今日の放課後どうするよ、と下駄箱を挟んで向こう側から届くバネの問いに答えようと一歩、砂利混じりの外床を進んだ所だった。
傾きかけた陽射しを浴びた正面玄関を背にし、テニス部の仲間の声がした方とは逆の下駄箱からひょいと飛び出た顔の所為で一瞬息が止まる。本当にびっくりして足を捻りかけた。
夏が薫る朝、何度も何度も話をしたのに、初めて声を聞いたみたいな気持ちに捕らわれて、彼女のやや後ろで目を瞬かせているチームメイトへ応じる事も忘れてしまう。

「あの、ごめんなさい。もし忙しいようなら、別に今日じゃなくても」

申し訳なさそうな口調で我に返り、慌てて首を横に振る。
バネはただ力強く頷き、グッと親指を立てながら退場していった。若干誤解されている気がしなくもない。

「いや、そんな事ないよ。大丈夫。……何か俺に話がある?」


明るく晴れ渡ったとは嘘でも言えない顔色で長めの拍を置いた彼女は道中不自然に黙りこくったまま、俺を駅前のファーストフード店まで連れてゆき、お世話になったから奢る、と言い出した。
大した事はしていないし女の子に奢って貰うわけにはいかない、固辞を続けるも、じゃあ口止め料として受け取って、頑として譲らない。このままでは埒が明かない、根負けした俺は非常に不本意だがごちそうになる事にした。
店内はそれなりに混雑してい、これまでみたいに秘密にしなければならない話を交わすには不向きでないかと思ったが、箝口令を敷いた彼女自身が選んだ場所なので問題ないのだろう。
ハンバーガーとドリンク、ポテトが乗ったトレーをテーブルに置き、正面の席を見据える。

「それで。どうしたの? 学校で話し掛けて来るって事は、もうバレても平気?」

俺の問いを聞き入れた人がゆっくりと首を縦に振りながら、カップに刺さったストローで注がれたクリームソーダをつついて掻き回す。

「結果報告をしなくちゃいけないと思って」
「……結果報告」
「うん。あのね、上手くいった。私の集めた情報をフルにじゃないけど活用して、付き合う事になったんだ、あの二人。ごめんね、言うの遅くなっちゃったけど結構前……八月の終わり頃かな、お役御免になってたの」

素晴らしくめでたく、この上なく綺麗な結末だ。
おめでとう、頑張った甲斐があったじゃん、本来なら讃える所、功労者自ら頼んだプチパンケーキを大して美味くなさそうに咀嚼するものだから、返しに些か時間が掛かった。

「そりゃよかった。キミが一番に望んでいた事だろう?」
「うん。よかった」
「なのに、浮かない顔してるね」
「…………そんな事、ない。多分……」

間が空いただけでなく、語尾もあやふやにぐずついている。
これはもしや、元々友人と同じく好意を抱いていたが身を引いた、あるいは情報を集める内に惹かれてしまった。見知らぬ他人はありがちだと笑うかもわからないが、彼女に近しい者や本人にとっては紛う事なき悲劇に見舞われたのではないか。

「待って。佐伯くんなんか変な事考えてるでしょ?」
「変な事は考えてないよ」
「嘘だもん。顔が真剣だったもん、今。違うから。同じ人好きになっちゃったどうしようとかそういうの、全っ然違うから!」

不名誉だと憤慨する一方、冷めない内にどうぞ、と食事を勧めてくれるので、お言葉に甘えまだ温かいハンバーガーの包みを剥いた。

「そういうのじゃないならさ、どういうのなんだ?」

甘めのテリヤキソースとパティを舌で味わうさ中、よぎった可能性を全力で否定され自分がほっとしている事に気付く。

「むしろちょっと嫌い」
「えっ?」
「ていうか憎い」
「えーと……陸上部のあいつが?」
「うん。調べたら調べた分だけなんでって感じ」

けれどすぐさま叩き割られたお陰で、得も言われぬ疼きはどこかへ飛んで行ってしまった。

「……何か嫌な事を言われた?」
「ううん。話した事ないから。そもそもバレてないし、私の存在すら知らないと思う」

相変わらず忍びの者である。いや、くのいちと言うべきか。
ポテトを摘んで口へ運ぶ。

「じゃあどうして」
「友達が好きになる意味がわかんない。どこがいいのかな」
「また随分辛口だなぁ。彼は嫌なヤツじゃないよ。気さくだし、話しやすい方だし」
「うん……それはわかる。わかるけど」
「けど、ダメなんだろ。俺にはイマイチよくわかんないけど、キミにとっては評価するに値しない。そういう事でいい?」
「うん。いい」

言い切るのが早い。
七月の朝、俺に手を振って来た人好きのする笑顔を回想し、なんとなく申し訳なくなった。
散々な言い様を知る由もない彼は今頃、グラウンドを間借りして自主練習に励んでいる事だろう。本当に、ここまで非難されるような男ではないのだ。

「あのさ…佐伯くんは、人と離れちゃった時、寂しくなったりしない? 物理的でも心理的でも、どっちでもいいんだけどね。なんか、こう……妙にしんみりしたり」

しゅわしゅわとした炭酸の泡に満たされたコーラで喉を潤していたら、心持俯いた彼女がごく静かに呟いた。
メロンソーダの緑にクリームの白がすっかり溶け込んでしまっている。ストローを挟む細い指先は、店の照明器具に照らされ艶めいていた。
ざわめきが不意に遠のく。

「今まで何してたのか、これから何をすればいいのか、わかんなくなっちゃった」

切り分けたパンケーキの残りひと欠片を飲んだ唇は、それきり引き結ばれ開きそうもない。以前、よく目にし好ましいと感じていた子供っぽい笑顔はすっかり鳴りを潜めてい、現れる兆候さえなかった。
役目を果たした包み紙を丸めてトレーの端へよける。不規則、不連続に飛び交うたくさんの話し声が耳を打った。騒々しいとも言える環境下、滲んだ声は消え入る寸前の小ささだったにもかかわらず、何故だか隅々まで聞き取れてしまう。
根拠もなく確信した。
多分、俺はもう探し当てる事が出来る。
どんなに気配を消されても、彼女が存在感を薄める努力をしたって、そうっと後をつけられたとしても気付くはずだ。視力の良さは関係ない。訳はもっと別の所にある。
低いテーブルに足が収まり切らなくて、椅子を少し引いて座る俺の向かい側で、透明な雫を纏うプラスチックの中からクリームソーダが減っていく。
そうしてとうとう底をついた時、夏の兆しに満ちる空を戴き話していた頃と打って変わって静まり返る女の子に言ってみせた。

「出よう」

灯りに濡れる睫毛が上向く。

「続きは、ここじゃない場所で話さないか? どこにいたって話す事は変わらないかもしれない。でも俺が嫌なんだ。キミの質問にちゃんと答えたいからさ」







秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、店の自動ドアをくぐった時には陽射しは大分傾いていた。
あ、そうだ、ごちそうさま。雑踏を掻き分ける手前で礼を述べると、いいえ礼には及びません、ほんのお気持ちです、僅かに元の気質が窺える声音で微笑まれ、悟られぬようひと息をつく。
まもなく彼女が海に行きたいと言うので、行き先はあっさり決まった。

「俺にもあるよ」

それにしても不思議だ。
友達のようで友達じゃない女の子と学校帰りに買い食いをして、とても身近であると同時に特別な海辺まで赴き話す、他に喩えられない関係性はなんなのだろう。

「寂しくなったり、しんみりしたり。誰にでもあるんじゃないかな? 生きてればさ」

ハイシーズンを通り過ぎた海は潮騒ばかりが打ち寄せており、夕暮れ時という時間も相まって人影はなかった。
砂浜は真夏の日中と違い、色濃い濡れ色に浸っている。
向かう最中は黙々と歩くだけだった彼女が着いた途端にローファーを放り、あまつさえ靴下も脱ぎ出すので、ぎょっとした俺は立ち止まってしまい、結果的に置いてけぼりを食らった。
腿からつま先まで剥き出しになった肌が目に痛い。上半身は冬服仕様の長袖でセーターも着込んでいる為、アンバランスだ。
確かに極寒ではないが過ごしやすい気温とも言えず、それなりに寒いはずなのに、素足の人はといえば全速力で波打ち際へと駆けてゆく。
砂地には思い切り足跡がついているし、白波を足の甲で叩く仕草は大振りで、彼女が自身に課していたであろう忍者の気配など微塵もない。
肩を竦めた俺は学ランの長袖を捲り、念の為にとズボンの裾も引き上げる。砂まみれになるのはともかくとして、海水に濡らすと後が怖いのだ。
裸足で踏み締める砂の感触が懐かしかった。しっとりと湿っていて、少しばかり冷たい。
俺よりずっと小さな足跡に添うよう歩き、声が届く距離まで近付いたはいいが、彼女はさっさとあぶくの立つ間際から離れ、手近な所に転がっていた棒切れを掴んで何事か描き始めている。
大きな流木を尻目に進んで、一言。

「間取り図?」

実寸大ではなくミニチュアサイズの屋内の様子が、棒の先で掘られていた。

「昔こうやってよく遊んだの。将来一緒に住む家の間取りを考えたんだ。私の部屋は、二階。キッチンは広め。料理してても見える位置にテレビを置く、とかね、二人で話して決めた」

なんでだろう。
と、続く言葉は弱々しい。
鉛筆替わりの木の棒は放り出され、図面は未完成のままだ。生白い足先が、でこぼこに引かれた線を掻き乱し消していく。
波音が恐ろしいほど近かった。

「ちっちゃい時は何をすればいいのかとか迷ったりしなかったのに。寂しいのは遊んで別れた後くらいで、家でご飯食べて寝ちゃえば全然平気だったんだけど」

藍色に混ざる。青、赤、紫、桃、朱。折り重なって、やわらかな層になる。
彼方で滲む夕焼けが眩しくて優しい。
佐伯くん。
溜め息めいた囁きに、耳朶の後ろが熱く騒ぐ。

「私が一番の友達だと思ってた」

でも違ったみたい。
告解が重たげに撓っていた。
転校先で新しい生活に馴染み、異なる環境で育った友人が次々出来て、長年想いを寄せていた相手と通じ合う事が叶い、ありがとうと感謝され、今すごく幸せだよと芯から伝えられて、本当によかったと安心する。幸福極まりない事の顛末に涙ぐみさえした。
一方で、途絶えがちになる連絡にも気付いていたのだ。
ないがしろにされたわけでも、用済みだとばかりに切られたのでもない、ただ時間の経過や離れた距離の分だけ繋がりが薄れていく。
見返りは求めておらず、転校先に知り合いがいなくて寂しい、六角中に戻りたいと嘆く友達が可哀相で、力になりたかった。
打算なんてない。
友達だから。それも、一番の。
それだけが理由で、それしかなくて、他に何もなくてもよかった。忘れられて置き去りにされるなんて、夢にも思わなかった。

「すごい被害妄想だってわかってるのに、取られたみたいな気持ちになるの。単純にやな奴だよ、私って。友達甲斐が全然ない」

風に揺れる髪のひと筋が白くて丸い頬を掠め、頼りなげに歪む唇へ触れている。黄昏に傾ぐ両の瞳はうっすらと濡れて見えた。さざ波が寄せては返す。
寂しかったのは何も彼女の友達だけではないのだろう。
誰にも悟られぬよう行動し、気配や存在をも消し去って、大事な人がより良い未来を掴めるように努めた。
俺の目の前で佇む女の子は、一人ぼっちでも関係なしに奔走し続けたのだ。
一番の友達が遠く離れたばかりで、平気な人間はそうそういない。特に彼女のよう献身的になれるタイプにとって、孤独はさぞ身に染みた事であろう。
呼吸する暇があまりなかった。
さんざめく海に気取られている場合でもない。
多分ここは、じゃあ俺が友達になるよと励ますべき場面だ、わかっていても言いたくなかった。一つ前の季節、友達にいたら楽しそうだ、友達だったらいいなと思う気持ちはもうとっくに失せていたのでとても困った。
友達じゃダメだ。
肩を抱き寄せたい。泣かないでと慰めてやりたい。寂しくなくなるまで傍にいてあげたい。
全部叶えるには、友達じゃダメなんだ。
口にする言葉や想いは決まっているのにやり方が定まらないから、自然会話が途切れてしまう。この際手順は飛ばしてもいいか、考え、でも夕暮れの海辺っていくらなんでもベタ過ぎるよなぁ、悩みが再発し堂々巡りが始まる。
水平線の向こうからやって来る海風が止んだ直後、

「私じゃなくちゃだめな事なんて、別にないんだよね。超思い知ったよ」

やや振り切れた調子の独り言めいた声が零れるので迷わず口火を切った。

「けどさ。俺は朝、ああやって話す子はキミがよかったよ。きっとキミじゃなきゃ、こんな風に海まで来る事はなかったと思う」

神様の唇で吹かれたみたいに一気に戻る風は短く左右に揺れ、俺達二人の髪を撫で回してぐちゃぐちゃにする。
そう気にする質ではないが流石に邪魔だ、視界を塞ぐ前髪を左手で掻き上げ首を払う。指に絡むそれは雫の一滴も被っていないにもかかわらず湿り気を含んでい、これでは俺よりも長く伸びた毛先ならば相当だろう、何気なく視線を遣ったら、彼女もちょうど乱れた髪を耳に掛ける所だった。
黒髪の隙から覗く耳殻が日暮れに焼けたようほの赤い。

「……佐伯くんのタラシめ!」

語気は強く下からキッとねめつけられた形だったが、ちっとも怖くないし、暴言を吐かれている心地にも陥らなかった。
どうしようもない笑みが込み上げ、転がしてしまう。

「なんでだよ」

俺にとっては一番の女の子が薄紅を纏っているのが、沈みゆく太陽の所為じゃなかったからだ。
大きな瞳の三分の一くらいの領域は涙で縁取られてい、なだらかな頬が薄く火照り、あたたかそうな唇なんてへの字に曲がりかけている。控えめに言って、すごく可愛い。

「ヒト科ヒト属ロッカクチュウ目の学名ヒトタラシ」
「本当の気持ちを言ってるだけだろ?」
「そういうとこがヒトタラシ!」
「新種のポケモンみたいな呼び方するなって」

元くのいちはどうやら存在感を消す事を止めたらしい、颯爽と踵を返し、履物が放られた方へと肩を怒らせながら突き進んでいく。かと思えばはたと停止し、眼光の鋭さは消さずに声を張り上げた。

「それ色んな子に言ってたらやだから信じない! でもありがとう、佐伯くん!」

俺は笑いが止まらない。
胸を突く爽快感がたまらなかった。
跳ねて転がり駆けていく素足はこの期に及んで勇ましく、細くなよやかなのに、折れそうに頼りないものではないのだ。彼女は地に足をつけどこまでも走っていける人なのだろう。
だけど引き止めようと密かに決意する。
友達にはなれないし、なりたくないからならない。俺だって好きな子には一番傍にいて欲しいんだ。色んな子になんて言ってないよ。一人にしか言ってない。何なら信じて貰えるまで、いくらでも想い続ける事が出来る。必ず証明してみせる。


誰かを想って走り続けた背中を、今度は俺が追い掛けよう。
本当は寂しがり屋の女の子の為に。
本当の一人ぼっちにさせないように。
本当に好きなんだと余す所なく伝わるまで、ずっと。


ゆっくりと視線を向ける。
空が暮れていくばかりの逢魔時でも、俺の目は見失わない。
見ているだけで寒くなる短さのスカートを翻し、夏からずっと隠密行動してたせいで足速くなっちゃった、明け透けに笑う彼女が大好きだ。
胸に溜めれば溜めるだけ募って温いけれど、言葉にした方がもっとあたたかくなるに違いない、釣られて口の端を持ち上げてしまう俺は宵闇の迫る中、迷わずたがわず歩き始めた。