(さくら)




壮観だった。
あまりにも見事なので、海友会館の外壁に寄り掛かりながら眺めていたら、

「精市くんここにいたんだ。真田くんと柳くんが探してたよ」

横合いから彼女らしい何気ない声音で呼ばれる。

「そう。わざわざありがとう」

首を傾けると、壁沿いに歩く姿が視界に映えた。遮蔽物を避けて来たのだろう。
口元を緩ませて、すごいだろう、組んだ腕を解かずに同意を求めてみる。

「……これ、どうしたの? 大掃除?」

俺が見遣っていた方へと渡る瞳は、まろやかな光の帯でくるまれているようだ。
いいや、と否定したのち、掻い摘んで説明をした。
テニス部は年に二度ほど、マネージャー含め部員総出でタオルやジャージ、ウェアにハーフパンツ、ともかくありとあらゆる布製の備品を洗い干すのがお決まりとなっている。
日頃の感謝を込めて、用具を乱雑に扱う事のないよう等々をお題目に、俺の代よりずっと前の先輩方が始めた事らしい。
半ば部の伝統行事と化してい、この時ばかりはレギュラー陣やそれ以外の部員、学年も関係なしに一緒くたになって賑々しく洗濯に勤しむのである。
普段は使わず仕舞い込まれている分まで引っ張り出し、洗濯機をお借りしたり手洗いしてみたりと大忙しで、量も膨大だからなかなか手間と時間のかかる作業だった。
洗い終えた所ではい終了、とはいかない。
大変な数の洗濯物を全て乾燥させなければ、この一大イベントは終わらないのだ。
家庭科室と美術室、体育倉庫から物干し竿やそれに似た長い棒を運び出し、支柱を立て、足りない分は頑丈な紐を通し、巨大な干し場を作る。
土台や竿を整然と並ばせ、太陽の角度と時間経過による傾きを計算し、隅々まで陽が当たるよう指示を出すのは、我が部が誇る参謀の仕事だった。俺はいつも感心しているし、彼が存在していなかった諸先輩方の時や、俺達が卒業した後はどうするのだろうと思う。
尤も、正直他人事で、健闘を祈る事くらいしか出来ない、というかしないのだが。
こめかみに軽く汗を滲ませつつ、何に使うのか知れぬがハンカチサイズに始まり、フェイスタオルの大きさから大判サイズのタオル、果てにはシーツほど広々としたのもの、ひたすらに干し続けていく。
赤也や丸井、仁王辺りが適当に引っ掛けるのを見た真田が、しっかり伸ばして干さんか! と怒号を響き渡らせて、そのまま引き千切るんじゃなかろうかといった勢いで白いタオルを左右へ伸ばし、濡れ滴る布地をきっちり四角四面の形にまで整えた柳生に窘められていた。真田君、そんなに力を入れては破れてしまいますよ。
一番器用なのはジャッカルだ。ウェアやジャージの類は向きを揃え、物干し竿やら紐やらへ大雑把でもなく神経質過ぎるでもなく、上手に引っ掛ける。手際が良い。

「なんか色々想像出来るよ…絶対真面目にやらないで遊び出す人いたでしょ」
「あはは、正解。よくわかるね」
「もう何年も見てればわかるってば。精市くんは、まさか前みたいに参加してびしょ濡れになったとかじゃないよね?」

俺が無地のTシャツを着てごく普通のジャージを穿いている所為で、余興じみた水遊びに耽った夏の日を回顧したのだろう。
よく覚えているなぁと何か可笑しくなる。

「もう少し俺を信用してくれてもいいんじゃない」
「前科がある人を簡単に信じられません。なんで後先考えないで遊び出すの? いつもはしっかりしてるのに意味わかんない」
「失礼だな、考えているよ。これは後できっと面倒な事になるなって考えた上で遊ぶんだ」
「余計タチが悪いんですけど……」

盥や籠の中が空になれば、後はもう太陽に任せるばかり。干し尽くした後には大仕事を終えた達成感すら抱いた。
午後の光は空気も地面も平等にあたためてゆき、穏やかな風に吹かれる大小様々な洗濯物が何故だか眩しい。数えるには少々骨である枚数の、ジャージの黄色、白いタオル、人それぞれの予備のハーフパンツが陽射しを浴びて揺らめく。
普段は目にも留めない備品や光景に、どういうわけか魅入られてしまう。
先刻自らの体で味わい、今もしっかり目にしているにもかかわらず懐かしさに襲われ、頭の天辺から中まで優しい眩暈をまぶされて、どこか遠くに佇んでいる気分になる。
大病の経験が引き止めるのかもしれなかった。
もう何年も前の事なのに記憶が色褪せない。
多分、ずっと覚えたままでこの先も歩いていくのだろう。
それが良い事なのか、はたまた悪癖なのかを己で判じる事すら出来ず、折に触れて切り離せなくなった深みを無為に思い出すだけだ。
俺はそんな風にしか生きられない。
だけど。

「これ取り込むのも大変じゃない? 私無関係なのに気が遠くなってきた」

血色の良い頬の彼女が俺の傍に日常を引き戻してくれるお陰で、わからなくても何の問題もないような気がした。
本人は与り知らぬ所であろうが、俺一人が知っていればそれで済む話だ、あえて言葉にするのは避けておこう。
いつかもっと確かな形で、決して傷つけないやり方を見つけ、他の誰も懐に潜り込めなくなる一撃を彼女にお見舞いしてやりたい。

「うん。だから、自分の分だけ先に取っておこうと思ってさ」

体を預けていた分厚い壁から離れ、校舎と平らな地面の間にある僅かな坂を下った。
慌てて追い掛けて来る気配が背中に染みる。

「自分の分って……どこに干したか覚えてるの精市くん。結構な数の洗濯物じゃん」
「まあ、ぼんやりとはね」
「いやダメだよぼんやりじゃ」
「なら手伝ってくれないか。一緒に探してよ、俺のヘアバンドとジャージとウェアと、あとタオルも」
「……最初からそれが目的?」
「フフ、まさか。あらかじめ君が来る事を知っていないと上手くいかない計画なんて、立てるだけ無駄だろ」

洗い晒しの白さに所々黄や黒が混ざり、空気の行方によって入れ代わり立ち代わり向きを変え、ぱたぱたと微かな音を奏でながら棚引く布製の海へ飛び込んでゆく。洗剤と水っぽい匂いが鼻を濡らし、肺の奥まで滑り落ちる。不思議と心地好かった。
旋毛がぬくい。シャツの半袖口から指先まで、満遍なく温められていた。
タオルに映し返される陽の光がまばゆくて、下瞼がせり上がって来る錯覚を起こす。
素早い瞬きを数回、次いではためくタオルの隙を抜けて進んだ。
恐る恐るといった調子で波間から顔を覗かせる子へと首を振り、俺はこの列から調べていくから君は一つ前を頼む、協力を仰ぐとしばしの絶句。正直者だ。馬鹿を見ないといいけれど、等と胸の内で呟き笑った。

「いいけど、自分のにちゃんと名前書いてる?」

軽い溜め息を吐き、ほんの少し生まれた空白地帯をくぐり抜け、と素直に動く細い肩が陽の光で煌めく。
小学生扱いをされたも同然なのだが、憤慨する気が起きない。

「書いてなかったらどうやって探すのさ。この量じゃ、いくら俺でも至難の業だよ。大体うちの部は大所帯なんだから、所持品の管理を徹底させているに決まってるじゃないか」
「…それもそうだね」
「諦めがついた?」
「……精市くんのお陰でね!」
「君の力になれて嬉しいよ」
「むしろ逆に力取られた気分だよ………」
「それは大変だ。俺に出来る事があれば言って欲しいな。どんな事でも手伝うから」
「…もういい。さっさと探してさっさと帰る!」

笑み崩れた声で応じる俺から、勇ましく踏み鳴らされる靴底が離れていった。それでも一枚一枚確かめて着実に探索している様子である、風紀委員に注意される事はあってもとことん根が真面目なのだ。
ごく柔らかな壁を挟んだ向こう側で彼女のものだとわかる足音が響いており、俺の頼み事を完遂すべく立ち止まっては歩き、進んではやや戻って、片方がチェックする用に一列分飛ばし、と動作を重ねていく。
その気配の薄さが却って胸を打つ。
じんわり染み込んで来、肌や体の中身を優しく撫でてくれるから、眦や頬、唇の端が和らぐのを自覚してしまって、だらしなく笑うしかない。
上下左右に目を走らせ、揺れて仄かに光る布を通り過ぎる。
視界を覆う程の、まではいかないが、相手の居場所を楽に見通せるかというと否、ほとんど膝下、良くて腰周りからしか見えなかった。
隔たりにぼやけた輪郭が浮かび、影はとてつもなく薄い。灯りと緩い熱をもたらす太陽の所為だ。
俺は段々、易しい迷路へと踏み入った気がして来る。
子供の頃家族で行った、フィールドアスレチック。何個目かのポイントに設置されていたのは、今にして思えば大分背の低い木板で出来た迷宮だった。
おっかなびっくりでも進もうとする妹の、小さな掌を握って歩いた。
90度の角だらけの道には園内の至る所で咲き誇った桜の花びらが敷き詰められており、通りの真ん中で湿った土の濃さや人の靴に浸されくすむ一方、踏み荒らされていない隅の方は瑞々しい花の色を保っている。
空いた方の手で壁を伝い、ゴールで待ってるからね、と俺達を送り出した両親が待つ場所を目指すさ中、密かな緊張感と不愉快では決してない高揚、少しばかりの不安、純粋な好奇心、ないまぜになった事さえ気付かないでいた、無邪気な幼さ。
とうの昔に過ぎ去ったはずの日々が不意に近くなる。

「見つかったかい?」
「それ聞きたいの私の方だし…場所ぼんやり覚えてるって言ったの精市くんでしょ!?」

居並ぶ洗濯物の列を二、三探し終えた辺りで問えば、年の割にあどけない声が戻った。

「フフ、怒られちゃった」
「…怒ってないよ、どっちかって言うと呆れてる。ていうか精市くんがなんでそんなに楽しそうなの」
「あれ、楽しんでるのわかったんだ」
「だって全然隠そうとしてないんだもん。声聞いてるだけでわかった」
「はは! そうか。いや……うん、ありがとう」

転がった一言が大層甘く、我が事ながら肩を竦めたついでに天でも仰ぎたい心地だ。

「…………なんのお礼」

見えないのに、怪訝な表情をしているのがわかった。

「うん? 声を聞いただけで気持ちがわかるくらい俺の事を好きでいてくれてありがとうっていうお礼かな」

空気がまるごと黙り込む。
日向の匂いで満ちる干し場に爽やかな風がゆったりと舞い遊び、細かな光の粒子は柔らかにきらきらと跳ね、スタートとゴールもなければ待つ人もいない迷路は静かだ。
けれど恐ろしい静寂ではない。
清かな葉擦れや鳥のさえずり、靴の裏に貼り付く砂の擦れる音に加え、どこか離れた場所から人のざわめきが届いているし、何より薄布のすぐ先で慎重に押し殺した息遣いが聞こえる為、心や体中のどこもささくれ立ちはしなかった。

「どうして黙ってるの」

胸の奥が陽射しを吸った飴のようにとろける。
ねえ、と追い打ちを駆け、想いを乗せて名を紡ぐと、いいからやめろとばかりに言葉で食って掛かられた。

「ど…っうもこうも、ない、なんでもない! 作業に集中して!」
「何でもない事はないだろう」
「……人の話聞いてないし……」
「大丈夫。俺、話しながらでも探せるタイプなんだ。安心して?」
「私は私の事で不安なだけ、精市くんの事は心配してないです」
「だから尚更、君の様子が気になるんじゃないか。一度手を止めてこっちを向いてごらん」
「…………やだ」
「あはは、綺麗な墓穴を掘ったよね、今。本当に見事だったよ」
「そういう褒められ方しても嬉しくない!」

端から端までをほぼ隣り合わせの早足で行き過ぎて、次の列へと突き進む。
ひらめく布をくぐる時、ばさばさと少々騒がしい音が耳にかかってくすぐったい。
ここぞという時にのみ如何なく発揮される反射神経が備わっているのか、今頃顔を真っ赤にしているであろう女の子は、俺がのれんじみた洗濯物を掻いて追いつく一瞬前で前列へ滑っていってしまう。
喉が笑む形に震えた。

「笑ってないで真面目に探してよ、精市くんの持ち物なんだからね!」
「話しながらでも大丈夫って言っただろ。ちゃんと探しているよ、俺はね。それより君の方こそ平気かい」

彼女という人の縁取りしか追えないから、尚の事過敏になるのかもしれない。
右から左へ向かい、終いへ辿り着けば奥に踏み込み、今度は左から右。
俺より一拍早く足を動かす面影みたいな空気が、重たげだがゆるりと柔らに沈んでいく。照れているのだ。
タオルとジャージのタグが次々に遠ざかる。抜かりなく視認しつつ、斜め前の背中らしき気配を辿った。

「…別に平気です。精市くん私の後ろから来ないで、ち、違う方から探したら? ほらちょうどこの辺真ん中だし、こっから右が私で左はそっちって事で分担しようよ」
「境界線が曖昧だ」
「じゃあチェック終わったらつま先で線引くから、」
「ちょうど引くタイミングで鉢合わせになるかもしれないけど、それは構わないのかい」
「…………」

思い切り言葉に詰まりましたといった沈黙を走らせるので、あたたかな苦笑を覚えながらもそろそろ言葉遊びはお終いにしようと腰を屈めたら、迅速に察したらしい、俺が同列に並ぶより随分早く大判サイズの布地に身を隠す。乾いて軽くなったタオルの下を抜け背筋を伸ばし切る頃には、制服のスカートと足元しか見えなかった。
髪の毛の先や制服の裾、振られて戻る最中の手と指先、完全に捉える事は叶わず、それらの余韻だけが残っている。体力や運動神経の差を思えば労せず捕まえられるはずなのに、どうしてか追いつけないのだ。
待って。願ったものの語尾が腑抜けてしまった所為だろう、待たない、力強く断言された。
その上立ち止まる素振りも見せず、踵を返したりあえて伴走してみたり、絶え間なくフェイントを仕掛けて来るものだから、もう笑うしかない。
みたい、じゃなくて、まるきり小さな子供だ。

「こら、かくれんぼしている場合じゃないだろう。君はそんなに俺と遊びたかったのかな」
「別に遊びたくないし精市くんが私の顔見ようとするの止めてくれたらいいだけの話」
「そこまで言われると余計に見たくなるね」
「いいから、そういう事言うのほんっとにいいから! 大した顔じゃないよ見なくていい!」
「フフ…なに恥ずかしがってるの。俺しかいないんだから、気にする事ないじゃないか」
「それが、一番、嫌、なんだってば!」

強調された反響だけが鮮明で、肝心要たる声の持ち主は姿を現してくれない。酷い言い草についても、やはり染まった頬を想像する事が容易いので、一向に腹は立たなかった。
部員数×三倍、四倍の洗濯物に行く手を阻まれ、方向や相手の居場所がこんがらがって、どこだい、呼び掛けると思いも寄らぬ側から戻る。こっち、精市くん逆、向きが反対。
元々俺から逃げる為に行動し始めたくせして、自らの立つ位置を簡単にだが教えているのだ、本末転倒にも程があるだろう。はたして気付いているのかいないのか。
他愛ない遊びは続く。
逃げて、追って、視界の隅を割り割られ、すんでの所で駆けていき、振り返った時にはもう何もない。
彼女の呼吸と応じる一言が笑み崩れている。釣られて俺も笑った。

「驚いたな、今になって新しい発見をした気分だよ。君は思った以上に逃げるのが上手だ。才能があるのかもしれないね」
「私もちょっとそんな気がしてきた!」

自分のものではない弾んだ息が背後ろから腕を伝い、前方へと駆けていく。
膝とふくらはぎの上部の裏が、タオルやジャージの波にもまれている所為か、いつもより真白く見えた。また笑みが込み上げて来る。後から後から湧き出、尽きる事はなく、可笑しくて仕方がなかった。
あちらこちらで零れる密やかな笑声は、小学生並にいとけない。
俺の妹だって我を忘れてこうも目一杯、児戯に没頭しないだろう。
普段はしっかり蓄えている冷静さ、遵守すべき規律や掟、時と場所を考慮する洞察力の数々が、童心によって揺り返され頭の片隅に追いやられていってしまう。
両の目が露骨に覆われていないだけで、状況は目隠し鬼だ。
鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
はしゃぐ声を細くしならせ、荒れた息を静かに殺し、布でつくられた軒下を屈んだり来た道を戻ったり、追う俺から離れてはまた傍までやって来、飽きもせず笑いながら繰り返す。
安らかな風になびく迷宮の中に在って、音と色彩はひどく鮮明で、迷う気がまるでしなかった。
スタートもゴールも他から与えられたものは打ち捨てる。自分自身で決める事だから。
待つ人はいない。待っていて欲しい、傍にいて欲しい人の手を離すつもりなんて更々ない。
どれほど遠くても、それこそ己の掌さえ見失う闇に飲まれて迷ったとしても、いつだって俺は手を伸ばして、絶対に諦めないと決めたのだ。
影がおぼろげに舞う。
淡い声の色がささめいている。
軽やかな足先がさっと横切った瞬間、

「ぁ、わあっ!」

タオル生地とジャージが不連続に干された場所の、微かな隙に垣間見えた肌色を油断なく捕らえた。ここは多分、真田に雷を落とされていた問題児三名の誰かが担当したのだろう。余所事に思考を振りつつ、ゆったりと揺れる布の波間からはみ出た腕を見下ろす。
肘のすぐ下を握っていた所、丁寧に伝い落とし、掌全部で触れて、手首を掴んだ。骨の出っ張りが、男の俺より慎ましい。
手の甲を撫ぜる。
半端に曲がった形で固まった様子の指を包み、内側の柔らかい肉をひっそり押し揉む。冷えてはいなかった。
爪の先が丸く整えられていて、陽の光に艶めき、綺麗なピンクに染まり上がって目に深い。根元の小さな半月と甘皮は、春を象徴する花色だった。
指先一つ取っても彼女は健やかに色めいている。

「あ、び、びっくりした……」

自分が赴くのではなく、緩やかに腕を引いてたった一人を呼び寄せた。
ついさっき丸くしたばかりなのだなと思しき双眸が、穏やかな午後を反射してまたたく。

「遊園地のアトラクションみたいだった。……ううん違う、テレビとかで見るドッキリ映像だ」

散々逃げ回っておいて引き止められた事に対し異論の一つもないらしい、実にしおらしく、すんなりと俺の傍までやって来るお陰で、唇が勝手に微笑みをかたどる。

「隙あり」
「いや隙があったっていうか……精市くんが本気出したら私一人捕まえるのなんて簡単だって事忘れてた。あの…なんかごめんなさい」
「簡単ってわけでもなかったけれどね、フフ」
「…よく言う……。でもすごい心臓に悪かったからもうちょっと手加減し」

言い終わる前に先手を取った。
つやつやとした爪を包む掌はそのままに、もう片方の手をやや掻き乱されたうなじへ差し込む。なぞってみると、ほんの僅か汗ばんで湿っぽい。覚えのある感覚に舌の根が潤んだ。
びくと震えた肌の持ち主が口元を、え、の形で凍らせている、俺にとって都合の良すぎる展開だ、いっそ苦笑を浮かべたい衝動に一寸駆られるも、ここで退くような優等生ではないし、折角隙を見つけたのだから最大限に付け入ろうと調子に乗ってみる。
一秒の間に唇を合わせた。
腕にあっけなく収まってしまう女の子は肩をびくつかせたが、すぐさまほどいて力を失っていく。
触れているとあたたかい。
淑やかに濡れる様が、直に伝わる感触が、堪らなく好きだと思う。瞬きすら惜しい。息継ぎが億劫だと感じられるくらい、体の中心、心の奥底を優しく掴まれ強かに打たれて、今更手の施しようがなかった。
驚き開かれていた瞳がゆっくりと閉じられる寸前で、角度を変えてもう一度塞ぐ。
こういう時はびっくりする程大人しい指が抵抗のての字も見せず、俺の首筋やTシャツの襟ぐりを摩るみたいに辿っていた。
細い首の後ろとなだらかな肩へ当てていた手をずらし、俺に比べて丸みを帯びた頬へと添える。
空気の流れを孕んだタオルが大きく舞い上がったようだ。背の裏を下から撫でて腕周りにまで到達し、素肌を掠める布地は陽に晒されたて柔らかく、干したてのシーツに似た匂いがした。
あるかないかの空白を作っている唇は、簡単に侵入を許す。
やんわり甘く噛みながら、滑りくぐらせた舌でぬるついたあたたかさに触れ、舐め取るようにくねらせた途端、瞼をしかと閉じた彼女が強張る。仕方なく引き抜いた。
タオルの海が元通りに凪ぐ。
ちょっとの物足りなさを均して、濡れて光って映る揃いの目に視線で熱を送り、互いの鼻の頭をくっつける。合わさった額の狭間で潰れた前髪が擦れるから、何か面映い。
間近の虹彩が俺を強く射抜き、かと思えばあからさまに狼狽えた。

「…………あの……な、なんで?」
「好きな子にキスする理由なんて、好きだから以外にあると思うかい」

吐息の温度も繋がる傍で、目には見えない灯りが色付く。
他に喩えようがないくらい綺麗だ。一生忘れられそうにない。