滅紫 (めっし)




激しい雷雨に襲われて逃げ込んだ先、テニス部の部室は暗い。
私の腕を掴み走った人の髪から無数の透明な雫が滴り落ちている。


ふと鼻をくすぐった冷たい空気と水っぽい匂いに予感を抱き、照りつける光源の昇る天を仰いでみると、まだこちらまで届きそうにはないが黒々とした暗雲が立ち込めていた。
これはひと雨来る、確信と共に沸いて止まぬ蝉の声や煉瓦を溶かすほどの日光と、留まりどこにも流れて行かぬ熱風に肌という肌に纏わりつく湿気、夏の彩りの中を抜けていく。
旋毛辺りが焼かれて熱い。
木陰を通れば幾らか冷めた。
斜光と葉陰を交互に吸う目はちかちかと明滅する。
足音さえおぼろげに響かせる、限界まで熱され膨張した酸素が前触れもなく揺らいだ。
轟く稲光が高き天を割り、あれほど苛烈であった陽射しは立ち消え、鼓膜を叩き壊すような雨音が辺り一帯に降り注ぐ。
附属校の敷地は広く雨宿りの叶う建物が遠かったのも災いし、進むも戻るもどちらにしろずぶ濡れ間違いなしの状況に追い込まれてしまった。
通学鞄を傘代わりとした苦肉の策が今後も通用するかわからない、というかしそうにもない、歩を緩め、ひと際大きな木の下で惑った瞬間、左腕を後ろから掴まれ息が止まる。
はっと振り返れば軽度の私に比べ相当の浸水被害を受けた人がいて、すわ幽霊の類かと背筋が凍った。方々で上がる悲鳴や屋根のある所まで急げと追い立てる声、ろくに聞こえやしない突然の荒天とはいえ、あまりにも気配がなさ過ぎて心底驚いたのだ。
名前も呼べぬ私の腕がくいと引かれる。
こっちに来て、と語らずして囁く二つの目が、濡れてしなった前髪越しにまっすぐな光を投げ掛けて来ている。


視界を白く染めるようなフラッシュが煌めいた瞬時に、けたたましい雷鳴で耳が痺れる。
思わず肩を竦めてしまう近さで暴れる夕立の下を全速力でくぐり、二人揃って安寧の地へ飛び込んだ。
慌てて扉を閉めれば聴覚を狂わせるほどの雨垂れや雷はにわかに和らぎ、そうすると今度は己の乱れた呼気や心音が頭の天辺まで響き渡るようになった。
肩で息をする私に対し、びっしょりとしか言い様がない濡れ鼠の彼がにこやかに笑う。

「酷い雨だね。見て、こんなに濡れちゃった」

水漬き垂れ下がった髪を掻き上げ、ワイシャツとネクタイの裾をひとまとめに握って払うその人――精市くんは放った言葉とは裏腹に楽しげだ。

「あのね……そんな事言ってる場合じゃないでしょ! タオルは?」
「大丈夫、あるよ。アテがなければ部室へは来ないさ」

一体どこをどうやって駆けて来たのか、いやそもそもどこにいたのか、真上から大きなバケツに入った水を掛けられたが如し風貌である。豪雨と呼ぶに相応しい嵐を浴び振り回されなくば、ここまで酷い有様にはならないだろう。
ハンカチを取り出そうとスクールバッグの内を探り出した所で、濡れていないか問う声に差し止められた。

「平気。私早めに逃げようとしてたし、遠くにいたわけじゃないから。ていうか人の事より自分の事だよ、ほんとひっどいよ今の精市くん」
「そう? 随分と手厳しいな」
「だって全体的にぐしゃぐしゃになってるんだもん。何してたらそこまで濡れちゃうの?」
「花壇の世話をしていたら空模様に気付くのが遅れてしまってさ。降り出してから用具を片付け始めたんだ」

結果、この有様だよ。
括目せよとばかりに両手を開け放たれても、では喜んで拝謁します等と返すわけにもいかず首を横に振る。

「たるんどるぞ幸村」
「返す言葉もないね、フフ」

黒い空が絶えずびかびかと光る都度、健気に追従する轟きは体全部へ駆け巡った。お腹が重くはたかれる感覚を、小さい頃に行ったお祭りで聞いた和太鼓の演奏に似ているかも、と重ね合わせる。屋根を打つ雨の銃弾のお陰で傍にいても話す声はクリアに聞き取れない。
幾重にも群れた雲が太陽を覆い隠し、昼日中へと闇をもたらしていた。
しかし当然夜には遠い時間帯なので完全な暗黒には至らず、夏の光と色を僅かながら残したまま、整理整頓された室内へ仄かな影を呼ぶ。変な天気だ。
精市くんが前髪を幾度となく掻き遣り、よけた傍からすぐに落ちてしまう。雨粒に浸され尽くしている所為だった。余す所なくしとどに濡れ、放っておけば風邪を引くのではないかとやや心配になる。
いつもなら蒸し暑さにぐったり項垂れるはずなのに、ガラス窓に穴をあける勢いで跳ねる飛沫の影響を受け少し涼しいとさえ感じた。

「すまない、着替えたいから鍵を掛けて貰ってもいいかな」
「あ、うん。わかった」

取り出したハンカチを片手に体を反転させ、駆け込んだ入口側へ向かい歩く。
近付くにつれ雫の跡はおびただしく、二人分の靴裏が雨水によって描かれていた。
拭かなきゃだめかも、後々の予定を組み立てつつ指示通りドアノブの鍵を回し、こうして見ると足のサイズが結構違うんだなあ、等と場違いな感想を抱いていたら頬に冷えて湿った風が当たる。
首を傾け、手近な窓の隅が数センチ開いている事に気付いた。換気の為にあえて閉めておかなかったのかもしれない。駆け寄り、こちらも鍵を掛ける。外で荒れ狂う暴風雨を思えば、微かな隙間も見逃すべきではない。
丸々太った水の粒が窓に取り付き、次から次へと滑り落ちてゆく。
発見が遅れた為かあいた幅の分風雨が吹き込み、床に細長い跡が出来てしまっていた。窓のサッシも同様に濡れている。
ぞうきん代わりにしていいものはないか。
責任者たる部長へ尋ねようと上半身を捻ったら、実に女の子らしくない悲鳴を上げる破目になったのである。

「ぎゃああちょっと部屋の真ん中で脱がないでよ!」
「うん? どうしてだい」

我ながら怪獣めいた喚きだった。
一方不気味な咆哮をぶつけられた彼はと言えば平然としている。びたっと壁に張り付いて後ずさる私を見た上で不思議そうに目を瞬かせており、常人と異なる感性の持ち主である証を突き付けられた心地だ。
落ちる雷鳴により震える部屋は、そう広くない。
時と場合を省みず夏服のシャツを全開にした精市くんの、すっきりとした筋肉の乗った首筋から意外に分厚い胸元にかけてと、中性的な容姿に似つかわしくなく綺麗に割れた腹筋までが露わになっていて、とてつもなくやり場に困った。
こちらの訴え等は端から聞く気もないのだろう、襟から下がっていたネクタイをさっさと抜いて、半開きのロッカー扉に引っ掛ける。薄らとした暗がりでも裸の胸やお腹が濡れている事はわかってしまう。
視線があからさまにさ迷って定まらない。
問われた所で一般常識的に隠れて着替えるべきといったありきたりの、一笑に付されるに違いない答えしか浮かばなかった。
思考を右往左往させている間に、鋼の心臓を持ち羞恥心はゼロらしい人が中途半端にスボンに仕舞われていたシャツの裾を引っ張り出し、右肩から肌蹴させて脱いでいく。
ごく当たり前の動作だとわかっているけど、脱ぐなという人の制止を丸ごと無視する態度はどうなんだ。
ヤケクソで睨み付けるや否や腰周りの緩んだベルトと外れたボタンに少々下がったジッパーを目撃してしまい、声帯が締め上げられ呼吸もつかえた。

「ズ、ズボンを…ちゃんとはいて!」

ほぼ悲鳴に近い。
精市くんが和やかな笑声を零す。

「それだと着替えられないよ」
「じゃ、じゃあせめて脱ぐ前に脱ぐって言ってよ!?」
「今更俺のパンツくらいどうって事ないだろう? もう何回も見ているじゃないか」
「そんなわけないどうって事あるに決まってるじゃん精市くんのバカ!」
「ひと息で言い切ったね」

肺活量が増えたようで何よりだ、ゆったりとした物言いと伏せられた瞼の形は柔らかいがしかし、見惚れている場合でも賞賛を有り難く頂戴している場合でもなかった。
あるべき羞恥心はどこへ行った、お母さんのお腹の中に忘れて来たのか。
恨み言がどんどん積もっていく。

「なら聞くけど、私が部屋の真ん中でいきなり脱ぎ出したらどうするの? やめろいきなり脱ぐなってまず止めるでしょ!?」
「え? 喜んじゃうけど」
「………………」
「あはは、呆れないで」

トレードマークたる両手首のパワーリストを順調に取り去り、いつ見ても新品同様の輝きを放つロッカーへぽいと放った精市くんは、こちらの動揺等歯牙にもかけぬ様子である。
おまけに鮮やかに切り返され言葉に詰まった私がない知恵を絞り、どうにか止めさせようと頭をフル回転させていたらベルト通しに手を掛けて本当に脱ごうとするので、力一杯目を瞑り人生で一番と言っても過言ではない速度で背を向けた。
信じられない。人の心を持っていない。いくら神の子だってそこまでじゃないと思ってた、有り得ない、何考えてるの。
罵った所で口にしなければ無意味だ、いや、そもそもぶつけてみても軽々いなされる可能性が高いだろう。というか初めから私が見ないようにすれば良かっただけの話である、混乱のあまり正常な判断がつかなくなっていたらしい。
冷えた壁に手をついて、手の甲へ額を寄せる。少しばかり濡れた髪や制服の肩を拭おうと探し当てたハンカチは、指の内で丸く萎れていた。
はあ、と安堵とも気疲れとも取れぬ溜め息を吐いたと同時、猛烈な風が壁一枚隔てた向こう側で忙しなく渦を巻く。入れ代わり立ち代わり異なる角度から屋根を刺す雷雨の狭間にて金具の擦れる気配とベルトを引き抜く音が零れ、肩と背筋は瞬時に強張る。ひいっと思い切り声を上げられればまだ良かったのかもしれないけれど、息は逆に肺や胃の中へ引き摺り込まれるばかりでどうしようもなかった。
耳を塞ぎたい衝動に駆られ、奥歯を噛み締める。指先ひとつ凍り付いたみたいに動かせないからひたすらに耐える他ない。百歩譲って叶ったとしても、たおやかな微笑みで抉って来る人に死ぬほどからかわれる未来だって有り得る。
頬に血が集まるのが自分でもわかった。
胸の軸がぶれて跳ね回り、肋骨や周囲の皮膚を軋ませ揺らし、したくもない想像が脳裏を巡って、連鎖した記憶がやわやわと蘇ってしまう。掻き消して欲しい時に限って雷鳴が途絶え、雨の勢いもふっと収まるのでこの世は地獄だ。
微かな衣擦れが鼓膜を摩り、益々縮こまる。
助けて神様、と普段は一切祈りも頼りもしない天を心で仰ぎ、羊を数えて気を紛らわそうと試み、気配を殺して己を壁だと思い込むべし等と血迷って、終いには泣き出したい気持ちに体中を支配された。
再度、耳を突く轟音。
沿う壁がびりびりと振動する錯覚を抱く。
突如激しくなった雨脚は喧しくて、頭の天辺から足の先まで濡らしてやるといった意気込みすら感じた。

「もういいよ」

気まぐれな天気と同等に前触れなく背後ろから投げられた一言は、嫌味かというくらい落ち着き払っていた。

「……ホントに?」
「本当に」
「絶対だよ? ドッキリとか絶対にやめてよ!」
「悲しいなぁ、君は俺がそんな悪戯を仕掛けて面白がるような奴だって思っているの」

これまでの行いを胸に手を当てて振り返ってみろと大きな声でぶつけてやりたい。どの口が、と舌の根がわななき、引き止める為に歯を食い縛る。
信じ切れぬまま恐る恐る首から上を曲げ、Tシャツとジャージに身を包んだ姿が片目に映った途端、思い切り脱力した。
幅広のタオルでわしゃわしゃと犬か何かを撫でるような手付きで髪を拭く精市くんが、被った布の奥、元より頼りなかった光を飲む影を纏いながら言う。

「病院に行くのを嫌がる猫のようだね」

思い切り緩んだ語尾は彼の心を如実に表しており、私は渋面を作るしかない。

「私が猫だったら病院行くより今のがずっと嫌だった」
「ははっ! そう毛嫌いしなくてもいいだろ」

長く深い息をついてくるりと体を反転させる。
仕上げのつもりだろうか、最後にタオルごと後頭部から額側へ掻き遣り、前下がりとなった髪を上げてまた後ろへ戻した人が、部屋の中程に設置されたベンチを跨いだのち腰掛けた。お風呂上りの夕涼み然とした風体だ。表はいまだ酷い雨と風で乱れているというに、部室内の空気は静けさを含んでゆっくりと流れている。
ようやく息継ぎの暇を取り戻した私は精市くんの隣へ座り、

「ゲリラ豪雨なのかな」
「だとしたらそう長くは降り続かないはずなんだけどね」
「……結構止みそうにないよ?」
「足止めを食らってしまったかな。テニスコートと花壇が心配だ」

ごうごうと吹き荒ぶ風雨のさ中で言葉を繋いだ。
四、五人掛けのベンチは硬く、長時間腰を据える事には向いていない、手ずからまめまめしく花の世話をし生活のほとんどをテニスに費やす人の為にも、早く上がればいいのにと胸中で呟く。
稲光が冴え渡り、ご丁寧に目の底まで焼いて眩しい。反射的に瞑った瞼の裏に白い閃光が走り、続いてぼんやり赤く染まった。視界を開くと同時、暗い空の鳴動に体を割かれてしまう。
ここまで凄まじい土砂降りに出くわした経験はあまりない。
黒色に豊かな夏の色彩を悉く滅ぼされた雲がパッと光る度、ガラス窓に貼り付き震える水滴型の小さな影が私達を貫く。
より一層首を反らし見上げた直後、肩甲骨辺りに届いた髪の毛先が微かに湿り気を帯びている事に気付き、次いで握り締めたままのハンカチの存在も思い出した。
そうだ拭こうとしていたんだった、膝上に置いていた掌へ目線を下ろしたその時、不意にうなじへ灯った指ひとつ分の温もりの所為で全てが削がれる。
弾かれたよう右腕を上げ、思いがけず熱源に触れた。
ほんの僅かに湿って冷たい。
水気を孕み、いつもと比べれば重たい私の髪を梳いて払う指の爪先を辿った果て、無地のタオルを首の裏に引っ掛けた精市くんが、雨に曝され癖の増す前髪と等しく濡れた瞳を携えている。

「いい匂いがする」

どんな騒音の中でもしんと響く声に心臓が殴られた。
すぐ傍の精市くんへ向かって、両目のピントが絞られていく。
焦点が合わさると、彼以外の全てがあまやかに揺らぐ。

「え……わ、私?」
「うん」
「雨とか土っぽい匂いなんじゃ、」
「ないよ。自分で嗅いでみてごらん」

俺の言っている事がわかるだろうから、と続く言葉も底なしに優しい。
唆されて実行に移したが最後、犬か猫扱いされるに決まっているじゃないか、打ち返そうとし、もしやそれが狙いか、といつまでも離れていかない人差し指を抓る要領で掴んだ。
人のうなじをくすぐって穏やかに笑う人の上品に持ち上がった口角は、機嫌の良さを表している。手の施しようがないくらいずぶ濡れという憂き目に遭い、着替えなければならぬ被害をこうむったのに、一体どこに気持ちを上昇させる要素があったのか。
首を傾げつつ本日の行動を朝から順繰りに逆再生してみる。
香水なんかはつけていないし、制汗スプレーも持ってはいるけれど汗を掻いた時や体育の後にしか使わないから……と来れば思い当たる節は一つ。

「なんだろう、シャンプーかな」
「ああ、そうだね。近いかもしれないな」

とはいえ新しく替えたわけでもない、今一つ決め手に欠けると言わざるを得ないだろう、摘んでいた精市くんの指先を離して生え際へ掌を差し込み、毛先の方へと梳いていくと、しっとりとした感触が指の腹を押した。やはり濡れている。タオルを借りるほどじゃないが放っておけば生乾き一直線。そこまでこだわってはいなくとも痛んだ枝毛を進んで作りたくはない。
五指の間それぞれに髪を挟んだ状態で軽く握り締めたら、ふと背中から大きな掌が去っていく気配を感知する。
何気なく見遣り精市くんの唇が開いたのを目にした瞬間、ひと際け大きな雷鳴が遙か彼方の頭上から降り注いで、狭い室内を縦横無尽に駆け巡った。凄まじい稲妻に気圧されて首が引っ込んでしまう。
びっくりした、と素で呟いた私と違って、いついかなる時も悠然と構える彼は会話を邪魔する存在も何のその、轟き渡る間も口を動かしていた。恐るべき事だが、ごく普通に話し続けようとしていたのである。どれほど神経が太いのか。

「ごめん今なんて言ったの? 全っ然聞こえなかった」

据わり過ぎた度胸の持ち主が肩を揺すって微笑む。
屋根や外壁をかき鳴らす雨雫は変わらずに騒々しい。
眦を淡く溶かしながら開かれた両の瞳に吸い込まれる寸前、力強く抱き寄せられた。

「……これなら聞こえるかい?」

びっくりするほど傍で奏でられる声音と右肩に置かれた手の熱に肌が粟立つ。突然の事だった。Tシャツ一枚しか隔たるもののない逞しい胸元に頬で触れ、ごく間近で息遣いを知る事態に陥った私はしきりに瞬きを繰り返す他なく、輪郭を擦るタオルからは柔軟剤と洗い立ての匂いがした。
額が熱い。
微かに掛かる吐息と、ほとんどくっついたまま言葉を紡ぐかの唇がいけないのだ。

「き…っこえるけど、あの、精市くん」
「なんだい」
「こんなに近付かなくても、だ、大丈夫だったと思う……」
「ついさっき聞こえないと言ったのは君の方じゃないか」
「…雨が止んでからじゃ、だめだったの?」
「気が長くて羨ましいなあ、フフ。言っておくけど俺は待てないよ。だって今すぐ、話したくて仕方ないんだもの」

落とされる声はしとやかに濡れていて、音に温度があるはずもないのにあたたかかった。
半ば無理矢理引き寄せられたが為に肩は丸まり、自然右の掌をかたい胸板へ這わせる体勢になっている、指先に力を入れていいかどうかもわからない。
いよいよ大暴れし始めた心臓が全身に高速の脈動を送り、この調子では一から十まで悟られてしまっていると確信を得、収まれと願えば願うだけうるさく叫ぶ。頬と言わず耳たぶと言わず、全身が高熱にまぶされて今にも破裂しそうだ。
心拍数と折り重なるみたいに雨が降る。風になぶられ、稲光に照らされ、地響きめいた霹靂で揺れている。
外から内から鼓膜が蹂躙され、遂には自分の呼吸音さえ混じって境を失った。
ぐ、と掌へ力を籠め、距離を詰めて来る精市くんのTシャツから体温が薫る。
そんな風に私に触れるただ一人の彼はこちらの耳殻に左の指を掛け、丁寧に髪を撫で付けた後、あの通った鼻筋を埋めた。目ではなく肌で知り、首裏がびくりと跳ねて総毛立つ。高鳴る鼓動が染みて痛い。
絶対に気付いているはずの精市くんは何も言わない。
先刻少しだけ添わせていた箇所へと今度はしっかり手を差し入れ、私の首ごと自分の方に抱き籠めたあげく、

「少しの間だけでも構わないから、そのまま大人しくしていてくれ。……ねえ、わからない? 本当に、君はいい匂いがするんだ」

等と内緒話のトーンで囁くのだから手に負えなかった。
やめてと跳ねのける気力も根性も――何も沸いて来ないのだ。
いまだ荒れ狂う外の嵐は私の意識から遠のきつつある。
知覚が叶わない。
精市くんの声と肌越しに伝う鼓動、静かに繰り返される呼吸に包まれてしまってどうする事も出来なかった。

離さないと語る腕にそっと優しく抱えられた私は為すすべもなく、暗がりに在って更に影を纏う出っ張った喉仏の近くに鼻先を預けている。ちょうど顎の辺りに感じる鎖骨は硬く、見えないのに形や太さをきちんと感じ取ってしまう。張り締まった首に浮き出た太い血管が、とくとくと脈打っていた。
雨雲と雷光に焼かれ色のくすんだ薄闇の中、酸素を吸うごとあたたかな精市くんの香りに捕らわれ、いつか感じた覚えのある熱や甘さで目が眩んだ事は恥ずかしいから絶対に言わない。