○跡部
灯る光が潤んで淡い。
日頃きつく見える目元は、俯いている所為か優しげだ。伏せられた睫毛へ仄明るい粒子が散って瞬き、時間の流れを遅くする。
私は跡部くんのちょうど良く薄い瞼が下り、再び持ち上がっていく瞬間をつぶさに見通しておきたくて、目の際へゆっくり力を籠めた。
片頬と右手を恐ろしく柔らかな枕に埋めた横向きの姿勢で、分厚い本か何かへ静かに鼻先を落とすかんばせを眺める。
一度座れば立ち上がる気力が失せてしまう高級ソファチェアに背を預け、薄明るい照明しかないのに美しい光沢具合が見て取れる肘掛を使い頬杖をついた人の、組まれた足が本当に長い。無駄な肉付きのない精悍な顎を支える手の甲の凹凸が骨っぽく、相反して指は綺麗だ。今はよく見えないが、テニスを続ける彼の爪は短めで少しばかり四角い。脳裏に大切に仕舞い込んである形や色、感触を引き取り思い出す。
整理され丁寧に磨き上げられたデスクの隅、跡部くんの手元だけを照らす光が絶妙な陰影と光彩を生んでいた。
茶がかった前髪の余韻、頬に映える影や整った鼻筋を際立たせるぼやけた灯り、引き結ばれた唇へ降りかかる幽き明暗。
もの皆全て音もなく流れ、揺蕩い、しとやかな静寂が満ちてゆく。
跡部くんが穏やかな呼吸をする都度、触れれば意外な程厚みのある胸元が膨らんで、また平らかになる。
時折上下する喉仏に付き従う影は散らず留まり、ページをめくる響きで鼓膜が粟立って、器用と言うべきか行儀が悪いと言うべきなのか、片手と指一、二本で紙面を進めていく仕草が闇の内を揺らした。相当に耳を澄まさなければ拾えぬ、彼らしからぬ大人しい息遣いは夜のものだ。
長く細い息を吐く。
ともすると滞り一気に落ちかねない瞼を、しきりにしばたたかせた。
柔い微睡みで全身が沈む。肌触りの良いシーツとブランケット、ふっくらと心地好いベッドマットの何もかもが総出でこちらを落としにかかって来てい、眠気は最高潮に達しつつある。我が家には毎夜響いている誰かしらの生活音や遠くでがなる車のエンジン音、立ち並ぶ家々の灯りが生む余波、坂道を上っていく自転車の気配等々の一切が遮断されたよう静まり返って遠い。塗り込められた暗闇はとてつもなく優しかった。
紙面がそばだち、くたりと均される。
一寸の瞬きは淡くも力強い。振るえる睫毛は瞳の下へ降りかかり、その色が濃く深かった。当たり前に繰り返される一連の動作に何故だろう、腕を広げ抱えても尚、有り余る幸福を覚えてしまう。
じんわり滲んで染みていく。
自分の心拍数がうっとりと落ち着き、ほのかに濡れて感じられる空気を吸って吐く、どうという事もない行為すら心安い。
いっそ泣き出したかった。あんまりにも穏やかな時間に包まれ、許され、傍にいる。何も口にしていないのに舌が甘い。
さぞ値の張るであろうベッドの中、うとうとしながら見る跡部くんが私は好きだった。
多忙に多忙を重ねる人は時間の使い方が上手で、あらゆる全てを疎かにせず、同時に私の事も忘れたりしないのだから素直にすごいと思う。
字を読むのに向いているとは言えぬ環境下、気配を感じさせない彼について知ったのはいつの事だったろう。
ある闇、ぼんやり濁った視界のさ中でたまたま目が合って、離れていてもわかる人の悪い、けれど上機嫌の証たる笑みを差し向けられた。
ある時、はっと目覚めたらもう玉座の如し椅子へ堂々腰掛けている。
ある夜、記憶の残るところまでは手の届く距離――すぐ隣で眠っていたはず。
尋ねるのも恐ろしい総資産額を誇る跡部家は当然ながら広大、どれだけの部屋数なのか考えるだけで眩暈を覚え、本物のお城みたいと間抜け面を晒し笑われもした。
豪邸に相応しい振る舞いと実績、誇りや輝きを持つ彼ならいくらでも選べるのだ。
寝室一つ取ってもそこらのマンションより広々としており、読書にも書類仕事にも適したスペースがきちんと用意されているし、十人並の神経及び感性しか持たぬ私に悟られず別室へ移るくらい跡部くんのスキルを以ってすれば至極簡単、ハッ、赤子の手を捻るより容易いぜ、と本人も鼻で笑いそうなものだが、今まで一度だって傍にいなかった事がない。
決まったタイミングで起きるわけでもなく、朝昼晩といった時間帯を無視し不規則だった事もあるのに、跡部くんは私が目覚める時いつもそこにいた。
高級ホテルでもそうそうお目に掛かれぬようなキングサイズベッドの近く、明るい光の元で見れば豪勢なつくりの机で書きものをし、或いは開かれたパソコン画面眺め、もしくは今と同じく椅子に腰を落ち着かせ本を読んでいる。
頭の回転が速いとはお世辞にも言えぬ私が更に鈍かった頃、高潔なテニスプレイヤーの視力低下が気に掛かり無謀にも提案した。
私の事は気にしないでいいよ、一回寝たらかなり起きないし、だからもっと明るい部屋で読んだ方が。
案件を受けた側はというとコンマ1秒軽く目を見開き、ものの喩えではなく本気でせせら笑う。
「バーカ、余計な気遣ってんじゃねぇ」
いち民草の私如きでは解読困難な英字の蔵書が乱雑に旋毛の辺りへ乗っかって、低い笑声を皮切りに二度三度軽くはたかれてしまう。
柔らかな衝撃に思わず両目を瞑ると、瞼と眼孔の境が震えた。一瞬止まった心臓はうわっと巻き返しを見せ、勢いよく暴れ出し、息が熱く凍える。
かの三白眼はいつも通りガラの悪い角度になっていたけれど、眦や睫毛の生え際が甘く馴染み、どうしたって優しげに緩んでいるようにしか映らなかった。跡部くんの全部が消えていってくれない。
百年早い、と十代の男の子じみた発言が続く。
間を置かずして一片たりとも充血のしるしなき美しい双眸に覗き込まれ、突然の事に驚きおののいていたら、何度間近にしてもフィクションのヤクザさんを彷彿とさせる笑顔とかち合った。
不服か。だったら寝んじゃねえ、精々気張って起きておけ。……出来るもんならな?
乱暴な言葉の割に優しい唇で反論も息継ぎもひとまとめに塞がれて、抗う隙も与えられず熱い眩暈に溺れるしかない。
視線は交わってなどいないし、呼吸のタイミングだってずれていない、前触れも予兆も感じず、それでもわかってしまうのが不思議だ。
私が落ちつつあった目の蓋を気合で以ってこじ開けたのと、薄闇の内にて息づく跡部くんがちらとこちらへ眼差しを流した一瞬が見事に重なった。
吹けば飛ぶように儚く灯篭じみてぼんやりと揺れる光は、僅かに向きの変わった角張った肩に、シンプルなデザインでも高価だという事が窺えるパーカーの下の太い腕、ちょっとだらしなく見える程開いた胸元の隙間や、真横へ伸びる硬そうな鎖骨とそれから張り締まった首筋、幅広の腰周りまでを仄かに照らしている。跡部くんの体は、研鑽を積み鍛え上げられた男の人のものだった。
喉がとろけて滲む。
会っているのに会いたいと焦がれるし、指一本触れていないのが却って近いとも思った。
組まれていた足がほどけるとジャージの布地が擦れる音が小さく落ち、しっかり瞬きしてもう一度見詰めてみた股下は変わらず長い。
「まだ起きていやがったのか。とっとと寝ろ」
「…………跡部くんは?」
脳を通さず転がしてしまった率直極まりない問い掛けだったが、依然として王たるオーラを損なわぬ人は片眉だけを器用に上げるのみ。
ややあって予想と違わず厚みのある、存在感も凄まじい装丁が、ぽん、と一般的な本よりも重たげな音と共に閉じられ、か細い灯し火が作るふやけた円の中でごく小さな埃が舞ったのがわかった。
フン、と鼻を鳴らす寸前の表情を浮かべた彼は非常にわかりやすい溜め息を流す。やれやれ。言わんばかりの響きだ。だけれど終いの方が微かに笑んでいる所為で、ちっとも刺さらない。
優雅に立ち上がった唯一無二の影が、汚れ一つないぴかぴかのデスク上に置かれた照明へと腕を伸ばし、同時にもう片方の手でパーカーのジッパーを下げたので、私は頬と言わず口角と言わず顔全体をしならせた。
ふっと無言で消える灯りと訪れた真っ暗闇に対抗し、目を凝らしながらいつかの夜を思い出す。
何も羽織っていない素肌の感触。体温、高熱、骨や筋肉の形。汗ばんで濡れた裸に指を添わせたところで滑って逸れてしまい、抱きつきたいのに上手く出来ずに困った事。不敵且つ不遜に口元を歪めるか、悪人顔でほくそ笑むかがほとんどである跡部くんが、バカくすぐったいんだよ、堪え切れずといった調子で子供みたいに肩を揺らして笑ったのは、後にも先にもあの時だけだ。
とても幸せな事に覚えある香りのするパーカーを着た人の横で眠ろうとし、ファスナーの金属部分が頬や片側の首、胸の辺りに当たって、思わぬ冷たさにびっくりして軽く飛び上がった直後、どうした、と少し慌てている様子だった低い声は、いまだに体の深い場所を掴んで離してくれない。
跡部家の御曹司は尊大で大層な自信家の俺様人間として世間では通っているのかもわからないが、少なくとも私にとっての彼は見落としてもおかしくないような、小さな気遣いを疎かにしたり踏みつけたりする人ではなかった。
衣擦れが途絶え、限りなくしじまに似た足音が近くなる。
寝ても覚めても傍にいたい。
記憶と気持ちの折り重なるところが、跡部くんと私ではきっと同じなのだ。
私は心がうずうずと弾むのを肌で感じ、よっぽど固く噛み締めても零れ止まない喜びに捕らわれた。
「ごめんね。あの頃…今もだけど、不服なんかじゃないよ。あと私、気張っても起きてられないみたい」
「いつの話してんだテメエは」
必死に声を潜めるも長く続かず笑ってしまったら、跡部くんも笑い返してくれた気がして、すごくすごく嬉しかった。
○幸村
あたたかそうな寝姿だった。
無防備とは彼女の為、或いはこんな状態で寝こける人の為にあるのではないだろうか。
うすく開かれた唇から和やかな寝息が漏れている。規則的に繰り返されるそれは耳に甘く己の脈の速度に合わさっていとも容易く馴染んで、音の境目を探ろうとして追い掛ければたちまち溶けて崩れてない交ぜとなり、瞳の奥が撓んで揺らいだ。
心からの安堵と仄かな高揚、二度と味わいたくない過去の辛酸と手に入れた幸福の手触り、相反し揃う二つはしかし等しく存在している。
ベッドのスプリングはちょっと体重を掛けただけでにわかに軋んだが、一度眠れば朝まで起きぬ熟睡タイプの子には関係ないらしく、呼吸で上下する胸も天井へ向いた鼻先も健やかに動じずびくともしない。
何だか面白くなってしまった俺は笑みを零し、まず間違いなく届かないとわかっていながら呼び掛けた。
自由に動く唇で、唾を飲み込める喉の奥で、しっかり震わせる事が叶う舌の上で、ただ一人の名を紡ぐ。
「……本当に、よく眠っているね」
そう広くない部屋に響き伝うのは紛れもなく独り言だ、場所も状況も異なっているが聞いてくれる相手がいない事に変わりない。ないというに、開き切った大差を思い知る度、心震わす喜びに体を投げ出したくてたまらない。
そんな風に時々どうしようもなくなってしまう俺を、彼女はきっと知らないだろう。
やわく閉じられた瞼に揃う睫毛を密かに拭い、親指の腹で温もりを感じ取ったのち目尻へと撫ぜ擦ると、細やかな毛先がくすぐったかった。
顎の周りに肉が付いただの何だのと俺にはよくわからない変化についてこんこんと語り出し、つるりとしてなだらかな眉間へ深い皺を刻む様が蘇るので、記憶を元に順繰りになぞっていく。
血色の良い丸みを帯びた頬からこめかみの小さな窪みを行き過ぎ、重力に従いなだれる前髪の柔らかさをそっと払い除け、頬骨の少し高い所を指の背で摩ってみる。縁に軽く腰掛けているだけだった体勢を崩し、左足を完全にベッドに乗せてからもう一度。
全然起きないなあ。
胸の内へ零れた呟きが我ながら惚気ている為、苦笑するしかなかった。
例えば鼻の頭にキスしてみたって、可愛らしい睫毛を唇で食んでも、俺の特別な女の子は安らかに眠り続けるに違いない。
顎のラインを辿り、小さな耳殻を人差し指と中指で僅かに挟む。顔の半分が掌に収まり切る感覚を実際に味わうと、幸村くんて手おっきいよね、興味津々の四文字が相応しい光で瞳を輝かせ、俺の手になよやかな五指を合わせて来るシーンが再生された。
常日頃、子供っぽいと揶揄されるのは彼女の方だ。
俺自身がどう感じているか心掛けているかは関係なく、あくまでも他人の目を通しての話、別段肯定も否定も口にはして来なかったのだけれど、本当の所は逆じゃないかと思う事がままある。現にこうして撫でていても自分が優位に立った気がまるでしなかった。
唇に接した親指がおとなしやかな吐息で湿る。ちょうど真ん中の膨らんだ部分を軽く押せば柔らかく、なぞりながら口の端へ触れていけば想いが込み上げた。
初めて寝顔を見たのはいつだろうか。
うらうらと暖かな午後の陽射しが差すリビングで、健やかな寝息を立てながらソファに転がっている。朝方の眠そうな声と半分しか覚醒していない事が窺える一対の瞳。息すら聞こえて来ないのは熟睡の証だ。あまりにも静かなので、思わず口元に手を遣って確かめた。事を終えてまだ熱の残るベッドで知る、胸の内を明かしたくもあり、そのまま黙って鼓動を聞き澄ましていたい欲がわだかまるあの空気と、煮えた後の熱いけれど無闇に高くはない体温。俺の背中を滑って渡る指先が肩甲骨近くで留まり、ぴったりと寄り添って来る。呆れるくらい満ち足りた微睡みだった。
いちいち数え上げるのは趣味じゃないし、単なる感傷に過ぎないとわかっている。
俺だって四六時中浸ったりはしていない。
やっていかなくては進めない時、考えなきゃならない事はいくらでもあって、一つ一つが充実していた。
過去の経歴や起きた出来事を知らぬ人は、天は何物も与えたな、と笑い冗談交じりの賞賛をくれるのだけど、中学生の俺はむしろ何物も奪われたのではないかと振り返る。
それを驕りや慢心、思い違いだと直裁に言われてしまえば、頷ける部分もなくはない。
確かな自信があった。
実績を上げ、実力も備わって来ていた。
夢を叶え続けて、立海での三年間を一度も負ける事なく歩み、いつも通りの明日は必ずやって来るものだと信じて疑わなかった。
一日にも満たぬ僅かな時間で崩れ去った後で、誰も何も呪わずに生きろというのは不可能だ。神の子等と呼ばれた所で、神も天も慈愛に満ちた施しを授けてはくれない。
絶望が深くにまで浸食する。力ずくで振り切り、強く望んで意志を括り付けても、テニスなんてもう無理だろう、たったの一言で叩き落とされた。
中学生だった俺は多分、恨んでいたのだ。可哀相に、可哀相に、可哀相に。同情や憐みの声なき声が圧し掛かって来、恨むという表現すら思いつかない程暗い衝動に囚われ、そして何より幼かったのだろう、周囲の優しさを蹴って喚いた事もある。
なんで俺が。どうしてこんな目に合わなくちゃならない。俺が何をしたって言うんだ。なんで、どうして俺なんだよ。
思うよう動かない手足、自分で自分を殴り付け麻痺した感覚を思い知らされて、病状が悪化すれば呼吸も会話もままならず、生きているのか死んでいるのかもわからない。
あの時、病気にならなければもっと別の人生を歩んでいたし、おそらく進む道も違った。影も差さぬ日向の高みに居続けた可能性だってある。
けど――それはもう俺じゃない。
幸村精市という名前だけが一緒の別人だ。
立海で過ごす日々、テニスを通して繋がった他校の皆、数々の人達と出会わなかったかもしれず、出会ったとしても今のような関係性にはならなかった。家族、仲間、友達、恋人。何もかもが異なっただろう。
俺はある日突然、俺になったわけじゃない。
小さな積み重ねと命の連なりで生まれてから今日に至り、繋がった先で今の全てがある。
だとしたら、良かったとまでは流石に言えないものの、俺の人生にやり直さなければいけない汚点など存在していないのだ。
小石が弾む程度の些細な食い違いで傍にいなかったかもわからぬ彼女の白皙を包みながら、そう思えるのは少し大人になった証拠かな、子供じみた誇りで胸を張る。
顎の下の肉が柔らかく、すべらかな肌にくるまれた骨は細かった。閉ざされた目の幕は伏して語らず。起こしたくはないので存分に眠っていてくれて構わないのだが、俺以外の相手にもここまで無防備だったら頂けないな、誰にともなく思う。
何度も啄んだ覚えのある首筋は怖いくらいに温くて、ラケットを握り続けている為に分厚くなった掌でも一定のリズムで脈打つ血管を感じ取る事が出来た。
眠れ、眠れ、母の手に。
シューベルトの子守歌が頭の中でふと流れ出すも、いいや、俺は母じゃないから俺の手にと言うべきだね、と即座に否定し、馬鹿馬鹿しさに危うく吹き出しかける。
他愛ない、取るに足らない独り言を零して一人笑ってしまいそうになる夜を、大事な人の温度の甘さを、淡い息遣いすら取り落としたくないという強い祈りの訪れを、幼い俺は想像しただろうか。
一体どこの誰が、どれだけ優れた思考力の持ち主であれば、春なき冬のような冷たい辛苦の日々が、指の爪先まで温もりを灯す幸せに繋がるのだと見通せるのか。
しらずしらず眦が緩み、唇が弧を描くと同時、こういう時は決まって内から外からにじり寄る、意地の悪い謗りが体の芯に揺さぶりをかけて来た。
天から何物も授かったのであれば分け与えなさい。
汝、神の子、その身に有り余るほどの至福を差し出し勤めよ。
――何でも持ってるお前なんか、一つくらい落としたって痛くも痒くもないくせに。
しかしすぐさま跳ね除け蹴飛ばす。
嫌だ。
ついでに一言で片付ける。
俺に不必要なものは何もない。優先順位だってつけやしない。全部抱えた上で目一杯喜んでやる。
(ねえ、キミもそう思うだろう?)
筋肉が乗っていない平らな肩や、男の俺や見知った面々のそれとは比べ物にならぬ細い鎖骨を下ってゆき、縒れて外れかかったパジャマのボタンに指をくぐらせ、殊更丁寧に外した。皮膚の薄いところは乾いておらず、むしろしっとりと潤って心地好いのだから本当に敵わない。
喉近くの肋骨は触れれば形と硬さがわかる。
鎖骨を越え、頼りなくもなだらかな首の付け根まで掴んで撫ぜて、丸っこい肩先へ払おうとしたが、結局やめた。そこまでしておいて次のボタンを外さないでいられる自信がない。
煌々とした灯りを物ともせず寝入る、陰りのない顔色をじっと見遣った。
先刻よりほんの少し露わになった肌は、健康的に艶めいて綺麗だ。
掌を置く。息の在り処を辿り探そうと滑らせる。
柔らかくあたたかな膨らみに感じる所がないわけではないし、やましい気持ちは一切ありませんと誓えるかというと首を振る他ないが、様々なしがらみや欲、面倒事を取り払った奥にて息づく本心は別にあった。
まあ、ここで彼女が起きでもしたら言い逃れは出来ないだろうから、全て本音と言えば本音なのかもしれないね。そこは見逃して欲しいな、俺だって男だもの。しょうがないじゃないか。
いまだに滲む、不快感を伴わぬ苦笑と共に左手の内で聞き澄ます。
やんわりと指の腹を刺激する感触の狭間からやや外れた、音の根源のちょうど真上。
熱を孕み全身へ赤い血を巡らせていく、最後のその日まで鳴り続ける命のしるしが皮膚を通り越し伝わって来た。
耳で確かめるというよりは、直に触れていると言った方が正しい。微細な振動は本当にささやかだ、けれど脈々と綴られており、決してか弱くはなかった。
俺はぼやけた頭にも焼き付いた心電図を思い出す。
運び込まれたICUで意識の喪失と覚醒を繰り返すさ中、緑の波形と数字によって可視化されていた心臓の動き。視界に捉えているにもかかわらず、何も考えられなかった。心も体も、無感動且つ無味乾燥にしんと静まり返って動かない。
違いについて文字通り身を以って知り、実感を肌で得る。溢れ零れて滲んで止まぬたくさんの感情が鮮やかに色付き、体の中身を悉く潤していくから胸が詰まって、感嘆の溜め息すらつけなかった。
それなりに経験を積んで生きて来たはずなのだけれど、上手く当てはまる言葉が見つけられず、なるほどそうか、俺もまだまだのようだね、ターニングポイントでもあった試合の対戦相手がよく口にしていた台詞を流用させて貰う。
相当名残惜しくはあったが思い切って手を剥がし、少々肌蹴た胸元はあえて直さぬまま、顎の傍まで掛布団を持ち上げ被せた。
明日の朝が楽しみだ、独りごち、でも多分気付きもしないんだろうな、胸中にて肩を竦める。
俺の心臓と彼女の心臓、二つ揃って思い知る事の出来る夜は、何ものにも代え難い贅沢だ。ぬくい額へ掛かる髪を梳きながら一向に開かぬ睫毛に唇を寄せ、幸いで凪いだ心へと呟き落とす。
おやすみどうかいい夢を。
そして願わくば、そんな君の隣で俺もいい夢を見られますように。
○佐伯
「悲しい事があったの?」
強いているわけではないが一切ありませんと突っ撥ねる事が出来るかというと否定せざるを得ない、芯の強さも秘めた柔らかな物言いの佐伯くんがあたかもノックするように私の肩を叩く。
掛け布団の上に二枚ほどブランケットを重ねているのに左手の広さや筋張ったところ、果ては高い体温までもが伝わる気がして涙腺が溶け崩れていった。
丸まった私はさながらダンゴ虫、ベッド上の布類全てを巻き取っているように映るのだろう、零れた笑声が静けさを纏いながらも爽やかだ。
「おいおい、黙ってちゃ何もわからないだろう? とりあえずこの手、離そうよ」
力いっぱい握り込んでやった指先は布地の裏に隠れている、にもかかわらず佐伯くんときたら迷いもせず一発で在り処を探し当ててしまう。
分厚い布越しでも大きな掌に包まれれば、どうしたって心強い。薄暗い視界が塩気で濁り、頬と鼻先の片方を押し付けた枕がしっとりと濡れた。
私の名前を口ずさみ、ゆるゆる落ちる声がいっそう近くなる。
布団から天辺だけ飛び出た頭を撫でられ、髪を掬う指先の感触がやわく、ややあって寄せられた額の硬さで胸が苦しい。触れていない部分まで余すところなく温まってしまって、きっと私は佐伯くんがいなくなったら冷たくなって死ぬんだ、大真面目に想像し恐怖を覚えた。言ったら言ったで、俺はどこにも行きはしないさ、ずっと一緒にいよう、とか何とかいつもの笑顔を添えて平気で返して来るに決まっているので、絶対に死んでも口にはしないけど。
「こんなに布団を重ねてよく息が出来るよなあ、苦しくないのかい」
くぐもった音の最後に笑みが滲んでい、押しても引いてもびくともしないくせして自然体でい続ける人が段々憎らしくなって来た。
目尻に熱を孕んだ雫が宿り、鼻の奥がツンと痛んで、喉元は腫れぼったい。
「確かめないと俺、心配で眠れないぞ。ね、顔を見せて」
元々ほの明るい程度だった照明がふっと消えたのが布の波の三、四層下にいてもわかった。ベッドサイドのキャビネットに置いてあるリモコンで佐伯くんが灯りを落としたのだろう。雨戸を閉めた上で遮光カーテンもぴっちり引いてしまえば、広々とは言い難い寝室はたちまち暗黒に支配される。
こうも冴えない視界で顔を見せろとはどういう事か、並の人相手なら抵抗のしようもあったが、生憎と彼は凛とした瞳で以って八等星まで射抜く超人。嘘つきのうの字もろくに紡げずうんともすんとも言えぬまま鼻を啜ると、やんわり苦笑された気配がした。
ブランケットを引き摺り込む筋肉にも限界が訪れ始め、徐々に力が入らなくなっていく。
途端、僅かな隙も見逃さない鋭さを併せ持つ人好きのする笑みの持ち主が、簡素ながらも築いた私の砦をさっさと剥いだ。大して重くもないだろうに、よいしょ、とお父さんみたいな掛け声と共に一旦身を起こした様子で、数秒間冷気が吹き込み、しかしすぐさま暖かく煮詰まる。二人で眠るにはスペースの足りていないベッドを微かに軋ませた佐伯くんが、こんもり盛られた布団で自分の体ごと私を包み手際よく隣へ滑り込んで来たのだ。
呼吸がたおやかにぶれた。
縒れたパジャマの襟元を行き過ぎ、穏やかに首筋を撫で耳近くの窪みへ添えられる指が骨張っており、顎の骨を下から上へなぞる掌の肉は、太っているのでなく分厚く逞しい。今でも頻繁にラケットを振るうスポーツマンのそれだった。
佐伯くんの手も腕も足も何もかもが暑いくらいに温かく、冬の寒さより却って眠りを妨げる要因に成り得るのでは、と目の前に在る長袖のシャツの胸元をねめつける。
「キミって時々猫みたいだよね、ハハッ!」
「……前はミノムシって言った」
「そりゃ物の喩えだって。あ、勿論今のもな。だって人間の女の子じゃなきゃ、こんな風に抱き合って寝れないし?」
最早隠す事を諦めた私のしかめっ面は、暗がりにあっても驚異的な視力の彼にかかれば手に取るようわかるに違いない、低く甘く掠れた声で笑われた。
うっすら湿った頬をさすり、睫毛の際を拭って、至極丁寧に涙の跡を消していく体温で私はかなしくなる。途方に暮れてしまい、どうしようもなくなって、抱き寄せて来る人の張り締まった首に腕を回す他ない。
全身の端々にまで満ち足りた震えが顕れた。
心臓がとくとくと穏やかに鳴り始め、体の境界に溶け込んで淡く混じる。
佐伯くんは生きた熱を帯びているから本当に暑くて、上下する喉仏の振動が皮膚を通じて伝わって来た。噛み殺したとも堂々したとも言い切れぬ、どちらつかずに秘められた微笑みが所以である。
「いいんだ」
耳朶を甘く食む囁きだった。
「俺は人間の男で良かったって思ってる。だからキミは泣きたい時に泣けばいいさ。そしたら慰めるよ。ワガママだって何だってもっと言葉にして、俺に甘えればいいじゃん? 前にも言ったろ、ほっといたらホントに蓑虫になっちゃいそうで怖いってさ」
行き場のない慟哭が、突然起こる発作みたいにやって来る。
仕事で嫌な事があった、家族とのちょっとした諍い。
仲が良いと思っていた友達との間に価値観のズレを見つけてしまった日や、何でもない躓きが骨を折る大怪我と化すようで立ち止まる苦味、小分けに少しずつ積み重ねられてゆき、あげくの果てにはほんの子供の頃とても大切にしていたものを失くした時の深い喪失感を不意に思い出したりして、塩辛い涙で目や頬が雨に打たれたのと同じに濡れていった。
いよいよ手に負えぬ悲しみの窮地に立たされれば、部屋にあるだけの布団を引っ張ってぽんぽん放り投げ、積まれた寝具の一番下でぺちゃんこになってみる。押し潰された状態でしゃくり上げて、涙を作り出すだけの体力が尽きたのちひたすら眠るのだ。
そうして私は大人になれぬまま、堪える方法ばかり学習していってしまう。
決して大きな声では言えぬ行動を誰にも告げた覚えはなかったのだが、いつからだろう、佐伯くんはものすごいタイミングの良さで現れるようになった。
近くを通ったからどうしてるかなと思って。メシ食いに行かない、どんな時でもいっとう真っ直ぐな声音が電話越しにきらきらと揺れた。
たまには家で飲もうよ、とビールやサワーの缶とおつまみの入ったビニール袋を片手に開けたドアの向こうで笑う。
ようやくさ、なんとか人に食べて貰えるレベルになったんだ、と食材持参でキッチンに立つ高い背は窮屈に見えてもおかしくないというに、伸び伸びと大らか且つ楽しそうだ。
はじめは偶然と信じていた事も、重ねていく内に疑念が沸いた。
それはもうふつふつと沸いたのだが、かといってもうすぐ私は限界ですといった自己申告などしていないし、毎日密に逢瀬をしているわけもなく内心首を傾げるしかない。素でやっているのだとしたらとんでもない人である。
どうしていつもちょうどの時に来てくれるの。
堪え切れず尋ねると、彼は小首を傾げてみせた。
んー、なんとなく。そろそろかなってね。彼氏のカンってヤツ?
爽快感溢るる輝きの双眸が緩み、私の方へとしな垂れかかる。視線以外どこも触れてはいないけどよく晴れた午後の陽だまりに導かれた心地だ、うっとりするほどあたたかい。我知らず微睡む寸前、肩先にて滑る私の髪を捕らえ、優しく梳いていた左手が横合いへゆったり払われた。
髪、もう伸ばさないの。今のも可愛いし似合ってると思うけどさ、久しぶりにロングヘアのキミに会いたいな、俺。
もののついでのようナチュラルに乞われてしまい、返すすべもわからずに口を噤む。
佐伯くんは無理矢理何かを強要しない、煌めく笑みを振り撒いては女の子から熱視線を浴び、しかし秀でた所を鼻に掛けない出来た人で、いつだって優しい大好きな彼氏ではあるけれど、時々ちょっとタチが悪いと本気で思う。
何があったんだって心配しているんだよと言わずして告げて来たのもつかの間、近ごろは直球、直行がほとんどだ。例えばそう、ついさっきの物柔らかで、でも無回答を端からカウントしていない問い掛けみたいに。
「結構快適だよ、ミノムシ」
「それ、本気? 俺は遠慮したいけどね。成虫になるのただ待ってるだけなんてつまんなそうじゃん」
「…面白くはないかも」
「だろ? だからほら、布団に頼るのはやめようよ」
私を強く抱いていた腕が僅かに離れる。
暗闇に慣れて来た目は佐伯くんの髪の毛や後頭部の角度越しに、そこそこの年月を経た壁を映していた。
幾重にも積もった寝具を被り、より濃い闇を共有しながら、私達は真向いで見つめ合う。
端整な顔立ちは横になっていても崩れず綺麗なままだ、さして視力を誇れぬ私でさえ見通せるのだから、驚異的な目の良さで視力検査をくぐり抜けて来た人は如何か、なんて愚問中の愚問である。無駄に肉付きだけはいいこの頬が重力に引き摺られ、枕とくっついてひん曲がっている事を文字通り肌で知っている私は顔を覆いたくて仕方がない。
掴まっていた太い血管の走る首筋から手を外し、肩の始まりへ置いた私を見た人が、いつまでも瞼の裏に焼き付いて離れない笑顔を零した。
「大丈夫、俺がいる。絶対にキミの傍からいなくなったりしないさ。というか離れる気なんて更々ないってのが正しいかな、うん。いくらミノムシのが快適だって言われても、布団の中で泣くのが一番手っ取り早い方法だとしても……俺は俺を譲るつもり、ないから。それに何より! キミの事も譲れない。他のどんなヤツにも渡したくないんだって事、そろそろ信じてくれないか?」
きりりと整った揃いの瞳へ、闇に透ける前髪がなだれかかっている。陽の光で彩られている時は綺麗な薄茶に染まる毛先は暗色を吸うと共に柔らかな灯りを纏い、紡がれる言葉の強さと結び付いた。
急に、前触れもなく、夜の匂いが香り立つ。
しっとりとささめく静寂の滴り。
鼻腔ばかりか頬や額、皮膚の薄い箇所にまで染み渡っていき、どうしてか佐伯くんの存在がより鮮明になる。体の奥まったところ、心深くにある感情の鼓動が淑やかに波打ち、湿り気を孕んでいた目の内側が甘くほぐれて消えてしまった。そのなくなりようが幸せなのに少し怖くて、触れていた掌を引き戻して顔の手前、枕の上へ置いたら、真剣な眼差しをふっとなだらかで丸いものへと変えた彼が、口の端を淡くさせながら微笑む。
ふと微かな布擦れの音に耳を撫でられ、かと思えば広くて熱っぽい掌が額にぴったりくっついて来、シーツ側へ流れていた前髪を丁寧にすいていくので半ば反射的に目を瞑った。
呼吸が安らぎ落ち着く。露わになったおでこへ優しい感触が宿って、その柔らかさ、ごく静かな仕草、穏やか極まりない温度に吸い込まれる心地だ。彼は唇までひたすらにあたたかい。
「……佐伯くんって」
「ん?」
本当に悲しくて仕方がなかった事、誰にも話せないくらい嫌な思いをした日、胸を塞ぐ重い記憶。
全部ひっくるめてそっと撫でられ、大事に触って貰えた気がした。
「やっぱりちょっと変」
「え、どういう意味? ひどいなぁ」
暗闇に合わせ微かになった笑い声が染みる。
「でもあのね、なんだかね…なんていうか、私も人間の女の子で良かったんだと思う。すごく。本当に……他の生き物に間違えて生まれて来なくて、良かった。だから…ありがとう…」
とろとろとした覚束無さを佐伯くんも察したのだろう、目映い笑顔のまま左手でゆっくり髪を梳かしてくれているお陰で眠気がぐんと倍増した。
口の中がとろけて緩み、目頭から眦まで撓んで、体温が心地よく上がっている事が自分でもよくわかり、既に唇と舌が回らない。心臓へ注ぎ込まれた甘くてぬるい血や息遣いは、体ばかりか心をも夢みたいに気持ちいいところへと呼ばう。
このまま寝てもいい。
やっとの思いで甘えると、
「……あぁ、どうぞ?」
小さく吹き出して笑った吐息が夜半の黒とまぜこぜになって、私の鼓膜をバカにする。それでもいいかな、と素直に受け入れてしまいそうなのが困りものだ。でも、こんなにあたたかくては抗いようがない。
陥落した瞼にほんの一秒、大好きな人の熱を感じる。
寄せられた今日最後の口付けとおやすみのひと言が決定打だった。
佐伯くんの硬くて男の人っぽいけど優し過ぎる胸へ抱え込まれて、キラキラした見掛けと違って逞しい両腕で優しくくるまれて、私はあっという間に安らかな眠りへ落ちていく。
○白石
一体全体何をどうしたらそういう話になるのか。
誰か説明をして下さい、ひとまず周囲を見渡し懇願してみても頼りなどなく、結局元の位置へと戻ってくるしかない。
「……白石くん、いつからそんなキャラになっちゃったの?」
「俺は生まれてこの方こんなキャラやけど」
「変な嘘つくのやめようよ」
「何を言い出しますお嬢さん。嘘とちゃうし、変でもない」
「………何を言い出しますお兄さん」
「ははっ! お兄さんか。新鮮でええな」
「実際お兄さんでしょ?」
「友香里の事か? 確かに妹は妹やけど、お兄さん呼びなんかまずして貰えん。ほっとんどクーちゃんや」
「なんかのマスコットみたい」
「そんなん言うたら俺を大事にして可愛がらなアカンで」
「……会話の前後が繋がってないよ?」
「いやいやちゃんと繋がっとるやろ」
「ううん、繋がってない」
「ほんま退かない子やなぁ。しゃあない、もっかい一から説明しよか?」
「いいです、遠慮します!」
「あはは、そこは退くんかい」
バランスの良い夜ご飯をしっかり食べてお風呂もシャワーだけで済まさず湯船に浸かり、リラックスモードの体が眠気を訴えて来る頃合いだ。
素足でも寒くないぬくもりは、時として健康オタクと揶揄される白石くんのお陰とも言えよう。現に私は彼と出会って風邪を引く回数が減っている、感謝こそすれ悪感情など欠片も抱いていない。
積み上げた手近なクッションや枕へ背を預けた白石くんは、普段の何をしていても目立ち女の人からいわゆる逆ナンをされてしまう、ただ人を待っているだけなのに絵になる雰囲気を湯に落としてきたみたいにさっぱりしている。
髪も整えていないし、恰好だって寝る前だから必然的にラフなものだ。なのにだらしないだとか気を抜いているだとかマイナス方向の感想が微塵も沸いてこず、私の欲目かもしくは彼が持つスキルなのか些か判断に迷った。
ベッドの上で体育座りをして、肩から被っていたブランケットを引っ張り直す。
体制を変える都度向かい合わせの人へ冷気を招いてはいけないので、わざわざソファに置いてあったものを持って来た時、頂戴した耳に好い笑声と優しいツッコミをなんとなく頭の中で思い浮かべた。
「お兄さんは普通のお願いやと思います」
こちらの発言を面白がって逆手に取る同い年の恋人は、時々関西訛りの標準語を使う。絶対に物珍しさから口にしているくせして、うつされてしもた、目の色と瞼の形をほぐしこちらの追及を軽々かわすのだ。弁解になっていない弁解だが、楽しそうに眼差しを揺らされると怒りようがなかった。
「普通かなあ……」
「普通やて」
「……白石くんさ、皆に無茶振りするなって言われない?」
「全く」
「……ほんとはちょこっとくらい言われるでしょ?」
「お前はハジケきらんから中途半端でダメなんやとは言われるな」
「…………」
「コラ、今なんとなくわかるなー思たやろ」
「お、思ってない」
「俺のお願いも半端でつまらんっちゅう事やな、あーあ失敗した、もっと欲張っとくべきやった」
「思ってないよ!」
「なあ、やり直してもええか?」
「え、ど…どこから?」
「はは! 真面目に受け取りなや」
いつか痛い目合うで、お嬢さん。
文面だけだと脅かしているようだけど、音の響きや表情の所為でちっとも怖くない。
立てていた膝を落とし、洗い干して気持ちの良い感触のするシーツにぺったりくっつける。
「痛い目」
「せや。その調子でつけ込まれたらどないするん、自分困るやろ? そもそも俺が困るわ、心配で夜も眠れません」
笑い飛ばすには勢いが足りておらず、かといって背筋を伸ばし受け取って然るべき真剣みは薄く、いまいち本気の有無が見極められず仕舞いだ。
目にも柔く膨らんだ掛布団の上で白石くんが長い腕を組む。
こんなにスマートという単語の似合う人が他にいるだろうかというくらい様になる彼は、それでもやはりしっかりと男の人で長袖から覗く手首は思いがけず太い。手の甲は直接触れずにいてもごつごつしているのがわかるし、肩幅だってきっと平均的一般男性より広いだろう、襟ぐりの深いシャツを着た胸の厚みが近くにいると目立っていた。
合わせると余裕で私の数センチ上をゆく指が硬く、だけど私を撫でてくれる時は却って無神経だと恨めしくなるほど穏やかで優しい事。出っ張った喉仏の角度と顎の骨のラインに、照れると真っ赤になる耳たぶの形、やんわり響きもすれば深くで染み入る瞬間もある声音、たくさんの白石くんを順番に思い出してみる。
顔は大阪の百人中百人がイケメンやなと評するほどかっこいい。
通った鼻筋や綺麗な二重と頬に影をつくる睫毛が、時折憎らしくなりもした。
世界で活躍するテニスプレイヤーと比べたら低い方、などと謙虚に振る舞われても私にはスタイルの良さを生かす高身長にしか見えず、しかも単純に高いばかりでなく鍛え過ぎていない筋肉もついている為、かつて完璧な聖書なる通り名を戴いていたという逸話にも素直に頷ける。
反比例し、寝顔は少々幼い。
珍しく寝惚けている様子の朝、陽光を浴び揺れる目の色が好きだ。
喉に甘く絡んだおはようの一言はもっと好きだった。
ちょっと乱れた髪も目元を擦る仕草も、うなじを掻いた後で落ちる寝起きの溜め息も、全部が私の胸をゆったりとろかして来、その特別な感覚を味わいたいが為に気合を入れて早起きし、ごめんな、俺寝過ごしたか、尋ねられた事が何度かあって、罪悪感を抱くと共に幸せな苦笑で否定する。
私が早く起きたかったの。
起きしなではいつもの回転の速さを発揮出来ないのだろう、白石くんはわかっているようなわかっていないようなぼんやりした顔つきで曖昧に首を縦に振って、腰掛けていたベッドの端から立ち上がる。
どれだけ繰り返しても飽きない一日の始まりがあるだなんて、白石くんと出会うまで一ミリも信じていなかった。
「じゃあ、白石くんもつけ込むのやめてね?」
「いやなんでやねん、彼氏特権どこいったん?」
「今私が彼女特権を行使したから、どっかに行きました!」
「アカン、強行採決は良くないで。まず話し合おうや」
「平行線辿っちゃうよ」
「そら辿りたないなぁ」
「だから! おやすみなさ……あ」
「はい振り出しに戻る、と。サイコロはよう考えて振らな、肝に銘じときなさい」
転がる声の調子に合わせ肩を揺らし、布団の下であぐらを掻く彼は本当に楽しそうだ。
「また、そうやって面白がる…」
「好きな子とおって楽しないわけないやんか」
私が軽口を叩けば白石くんも同じように返して来て、逆もまた然り。
可愛いあだ名だね、蔵リン。
いつだったか、四天宝寺中卒業生且つチームメイトとして日々を過ごしながらもテニスで競い合ったらしい彼の仲間と会う機会があり、色々な話を聞かせて貰った後日、唇に多大な笑みを含みつつ投げたら、目をまん丸に見開かれてしまう。
誰に聞きよった。
しかしすぐさま元の整った形に戻し、アイツらいつの間に、と今でも交流のある面々に対しお小言めいた呟きを零す。
小春ちゃん。
もうちゃん呼びしとんのか。
小春の後にちゃんって付けて可愛く呼んでねって言われたよ。
はー……人の彼女の事なんだと思ってんねや、図々しいやっちゃな。
そんな事ないよ、皆、親切だったもん。小春って名前、可愛いよね。
まあ別に否定はせんけど、俺は目の前におる子ぉの名前が一番かわええと思うで。
人差し指の背で私の下瞼近く、上頬を撫でる白石くんが、甘く滲ませた瞳で笑った。
油断も隙も何とやら、やな。ええか? 次からはアイツらに会うたらちゃんと俺に言ってや。俺の知らんとこで仲良うなるのナシやで。
気持ち居住まいを正し、付け加えるのも忘れずに。
「……わかったよ、もう!」
脳裏を巡る一つ一つが煌めき止まないシーンに得も言われぬ感情が込み上げ、放置しておけば独りでに震えかねない声帯をきゅっと締める。
「うん? 話し合い始めるか?」
「始めない」
「そんならサイコロ」
「振り直さない」
あえて切り捨てる口調で続けると、そない怒りなや、宥めるような柔らかな声が掛布団やシーツの上を滑っていった。
私はいよいよ腹に据えかね放り出していた両足を折り畳んで正座し、白石くんはといえば組み込んでいた腕をほどき、私の名前を呼ぶ為か、薄くもなく分厚くもない唇を僅かに開く。一歩手前で、ストップ、の意を掲げたジェスチャーで知らしめた。
元々大してあいていなかった距離を詰めてゆき、不思議そうに瞬きをする人のごく傍らまで近付くと、清潔な石鹸の香りがほのかに漂う。自分から同じにおいのする夜もあれば、少しだけ違う事だってある。
鼻腔をくすぐる私にとっての弱味に釣られ、時として女の子のものより張りがあって瑞々しいかもわからない頬を両手で包んで、二、三度撫で摩った。最初はびっくり顔をし、続いてくすぐったそうに左目を瞑った白石くんだったが、私がむにむにと無駄なき顔のお肉を摘んでからようやく得たりとばかりに笑い出す。
「あったかい手ぇやな」
「柔らかいほっぺただね」
「そか。俺はもっとやわいモンに触りたい」
聞く人が聞けばセクハラと化すであろう言を真正面から受け取ったつもりで、私の手には余る輪郭を叩いた。痛、それ結構痛いて、もうちょい手加減してや、尚も笑む美しいつくりのかんばせを、最後にひと撫で。
お風呂上りでちょっとばらけて自然な感じになっている前髪へ指を這わせ、間髪入れず力を籠めて掻き分けて、今時漫画やドラマでもなかなかお目に掛かれぬぎちぎちの七三分けにしてやる。白石くんが遂に声を上げて笑った。眦を限界まで溶かして笑み崩し、私の手首を追い柔く掴んで来る掌にも構わず事を押し進めていく。
半ば押し倒す恰好で背中を屈め、毛穴が存在していないのではと目を疑うほど艶やかでニキビの類など一切見当たらぬ額を丁寧に撫で付ける。髪の毛一本残すものかと我ながらよくわからない拘りと意地で以って掻き遣り、子供みたいに無邪気な光の宿った瞳で見上げて来る人を軽く睨んで、後はもう勢いのまま唇を寄せた。
とはいうものの、歯がぶつからないよう細心の注意を払ったので大した感触にはならなかった、本当に児戯めいた口づけだ。
でも白石くんは満足げに目の端や口元を緩め、私の首から頬にかけてを大きな手でくるむ。
「……これで合ってる?」
「ん、おーきに。合うとるし、充分や。…って言いたいとこなんやけど、なんや欲が出て来てしもた」
先刻ベッドへ滑り込んだ時のお望み通りに結果を得ておきながら、涼しい顔で次をねだって来る人が頬より何より柔らかな囁きを落とした。自然、ごく近くで聞く事となった私は溢れるあたたかい気持ちを抑え切れない。顔の全部がだらしなく緩んでしまう。白石くんも喉を鳴らしながら笑顔を滲ませ、あまやかに鼓膜を掠めていく言葉で私をいざなった。
もう一回。今度は唇にな。おやすみのキス、してくれるか。
○手塚
手紙が一番いいと思っていたけれど、電話もなかなか悪くない事に気がついたのは、ごく最近の事。
彼らしい几帳面な字で番号が記された小さなカードは今でも私の宝物だ。
このそっけなさがたまらないのだ、一度友人に話した所、あんたにMっぽい趣味があったなんて知らなかった、ちょっと引かれたけれども聞き流す。誤差の範囲内である。
手塚は私の突拍子もない行動に呆れたりしない人だった。
『特にはないが』
久々に帰国する、と相変わらずシンプルなカードで知らされ意気揚々と電話を掛けた。
じゃあ何を食べよう。
その前にどこで会おう。
空港へは何時に迎えばいいかな。
矢継ぎ早に尋ね、端的に返される。
俺の方に希望はない。
どこでも構わないが。
無理をしてまで迎えに来なくていい。
電話越しの声がひょっとしたら冷淡かもわからない響きでも、手塚をよく知らない人が耳にすれば突き放しているよう聞こえたとて、丁寧にコミュニケーションを取ろうとしてくれているとしか私には感じられないので全く問題がなかった。
じゃあ手塚、何か食べたいものはない?
うきうきと提案し、あえなく戻されたのがさきのひと言だが、頬は緩みっ放しで締まらない。
「うーん、そしたら私が行った事ないけど行ってみたいお店と駅から一番近くて便利なお店と、ちょっと…ていうか結構時間がかかるけど和食の美味しいお店と、どれがいい?」
初めて電話をした日、耳に届いたのは変わらない手塚の声音だった。
突然も良い所、予定や時間を無視した現代利器のおとないだったにもかかわらず、彼は私の中にいつもいる彼のままだった。
どうした、何か用か。
鼓膜が痺れ震えて無性に嬉しくなってしまい、用はないよ! と元気いっぱいに告げ、弾む勢いを殺せず通話を切る寸前。ぐっと堪えて、今日一日どんな事があったか教えて、無茶振りにも程がある問いを紡いだのだ。
『…………今、ここで決めなければ駄目なのか』
困っている。いや、生真面目にも眉間に皺を寄せ考えあぐねているのかもしれない。私は益々笑みを深めた。
「日本に着いてからでもいいよ? けど手塚、飛行機に乗ってる間中、どのお店にするのがいいかとかずっと考えてちゃ駄目だからね」
遠く離れているのに押し黙る空気が伝わり、しかもそれが目の前にいる時と相違ないのがとても嬉しかった。
不思議だね。今手塚のいる場所と繋がっているのはきっと私だけって、なんだかすごく特別だ。
溢れる言葉を胸の内に留めながら、うっすらと明るみを帯び始めた窓の外を見遣る。日本の方がドイツより早く時間が進んでいる、知った時は本人との電話中、私が手塚の一歩先を行っているみたいで優越感、正直に浮かれて重い沈黙を頂戴した。
『即決するような事ではないだろう』
「即決した方が楽しいのに」
『………何故だ』
「もーいーくつ寝ーるーとー手塚とあのお店でご飯ーって今から数えられるじゃない」
たった一度、自分に厳しい人代表且つ理性の塊みたいな彼が、夜遅くに連絡をして来た事がある。
うつらうつらしていた私は寝惚けまなこを擦りもせず応答し、低く怜悧に、しかしどこか柔らかく揺れる電波のお陰で覚醒した。
えっ手塚…手塚だよねあの手塚、手塚国光!
バカそのものといったリアクションにも、フルネームで呼ばれた側は平静を保っている。
そうだが。……お前は、俺の番号を俺の名前で登録していないのか。
ボケなのか素なのかいまいち判断のつかない返しがまた手塚らしい。上半身を起こし、ついでに被っていた布団も蹴飛ばした。
ううん、してる。手塚からの電話珍しかったからびっくりしたの。
ベッドサイドのラグマットへ向かってつま先を下ろし、意味もなく両足をぶらつかせてみる。全身をまったり包み始めていた眠気は跡形もなく吹っ飛んでいた。
不意に息の気配が途絶えたので、携帯端末と共に首を傾げる。
どうかした、発する前に、すまない、と沈痛とも表現可能な謝罪が左耳に触れた。意味がわからない、手塚に謝られる事をされた覚えなどまるでないのだ。
別にすまなくないけど。
今時幼稚園児だってもっと上等な答えを述べるだろう、残念なバカ者にも手塚は恐ろしく真面目だった。
時差を忘れていた、そちらはもう夜だったな。
私は本当に、自分でも何に驚いているのか見当もつかないくらい驚くと同時、わっと心が浮き立つのをしかと感じてしまって、真っ暗闇の道を全力で走り出したくなった。
大丈夫! 私も夜だって事忘れてたから。
喜びがたっぷり乗った音を声帯で生み出し、相手に伝わらなくともお構いなしに満面の笑みを浮かべる。ほんの一拍、静かで優しい静寂が満ちて流れてゆき、互いに穏やかに見送った後で、出場した大会でつい先程優勝したのだと手塚は教えてくれた。
瞬間、私は傍にいる時よりも多く得られる類の幸福で、体の内側の全てを潤ませる。
皮膚のすぐ下を通る血の管に混じり、隅々まで行き届く甘さが切なくてどうしようもない。
同じ学校に在籍していた頃だって日に何度聞けたかも定かでない声は、どれだけ時間が経っても硬さを帯びており、やはり容易く味わえるものではなかったけれど、だからこそ余計深くで反響した。いい事があった時、手塚以外の誰にも一番に教えるのをぱったりと止めた程私を捕らえて離さない、何者にも勝る感慨と衝動だ。
慎重に言葉を選ぶ。
口には出さず心の中で反芻させ、繰り返し辿っていく。
書き文字にも音を得た声でも表せない気持ちにもどかしさはなかった。
すっかり気遣いや遠慮をし始めた様子の手塚は、実家に押し掛けかねない勢いで言祝ぎ大はしゃぎする私に二言三言返すばかり。詳しい話を避けていたものの、最後の最後で囁くように零してくれた。
夜分にすまなかった。また改めて報告しよう。おやすみ。
通話を終えたのちも轟く胸の鼓動を抱え、小さな子供みたいに丸くなってシーツの上へ寝転がる。
おやすみ。
とてもいい響きだ。
おやすみ。
すごくいい挨拶だ。
目を閉じて脳内の記憶領域へ刻み付けるが如く再生し続ける。
しつこく飽きもせず、手塚が知ったら十中八九、例の仏頂面で思案するであろう奇行に走り、輝く太陽が差し込むドイツのテニスコートについて思いを巡らせるさ中、私もおやすみって言い返せたらいいのにな、と独りごちた。
普通に面と向かって話している時より間近で落ちた溜め息で空気が凝る。
『…………わかった』
重々しい承諾が愛おしい。私は手塚の溜めに溜めたひと言が大好きなのだ。
告げてやりたい欲求に従いドイツの夜時間を計算して、うちのおじいちゃんでも起きて来ない時刻に目覚ましを掛け月に一度早起きをするくらいには、おやすみと発音したくて我慢がきかなかった。
壁の時計を仰ぎ、今ではもう秒単位で悟る事の叶う時差を数える。
頃合いだ、あまり無理強いしても良くない、この場はひとまず引いておこうと譲歩し、ドイツ出国する時までに決めてくれればいいよ、勝手に溢れて来る微笑みを乗せながら言って、心からの想いで時間を繋いだ。
「おやすみ手塚。ぐっすり寝て、しっかり休んでね」
ガラス窓越しに朝の黄色い太陽が昇る。
手塚のいる彼方の国は、今まさに漆黒の夜を迎えようとしているのだろう。
空気が静々と揺れ、私の目も脳も清しく冴えてゆく。
『ああ』
願った通りにそっけなくシンプルで、低い上に断じて軽くないたったのひと言が耳朶を掠めるので、私は遠慮せずに思いっきり強請った。
「じゃっ、はいお返しに、手塚は私におはようって言って!」
手塚の強い意志に似て鋼めいた声音で始まる、今日という素晴らしい一日の訪れまで、あと数秒。
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