一線実直(仮)!
-イッセンジッチョクカッコカリ!-





小さい頃から、どうも引っ込み思案な子で、と両親は挨拶ついでに口にし、私自身、人といてもすぐ緊張してしまったり、恥ずかしくて何も言えなくなることがよくあった。
だから、あんなに誰かと話してみたいと思ったのは、本当に初めてだったの。


うっすら湿った空気を吸うと、体の内側がほんの少しだけ冷める気がした。
雨のにおいがする。
――中は暑かったから、ちょうどいいのかも。
声には出さずに呟いて、ぽんと傘を開く。ドアをくぐり抜ければこもった騒がしさはすぐに止み、水気まじりのやわい空気が、足の下から頬骨にかけて覆いかぶさって来た。
濡れていないのに濡れた感じがして、なんだかおかしい。
車道を黒々と染めあげる霧雨には傘を差すほどの勢いはなく、一瞬迷ったくらいだ。
外灯や建物の看板から放たれる光がぼんやり滲む。
遅れて店から出て来た皆も、夜色に染まった薄い雲を仰いだのち、思い思いに雨避けを開いてゆく。透明なビニール、背景に溶け込むほど真っ黒なもの、淡いオレンジ、目の覚めるイエロー、落ち着いた紺色、エトセトラ、エトセトラ。傘の花が咲く、とはこういうことを言うのだろう。
揺れ動く様を見るとはなしに見ていると、友達の密やかなささやきが背中に寄り添った。

「ねえ、びっくりしたよね。こゆとこに来るの珍しいもんね、幸村君て」

男子何人かの輪の中心で、今も朗らかに笑いながら話しているその人へ視線を移す。うん、と頷いて、掌の温度でぬるくなった柄を軽く握り直した。
ゼミの懇親会って称して飲み屋でただ騒ぎたいだけっしょ、と酷評していた友達にとっても、流石に不測の事態だったらしい。
形式的な乾杯が済んで場が華やぎ始めた頃にやって来た彼は、中学生の時からずっと立海の有名人だ。「すまない、少し遅れてしまったようだね」いの一番に謝罪をしつつも微笑みを崩さない、他の誰とも違う雰囲気で一気に空気が変わる。わっ、と春風が吹いたよう。ほうぼうの席から視線が集まって引きも切らない。端っこで眺めているだけなのに見えない渦に気圧されたのは、今日が初めてだ。

そんなふうにして、いつだって幸村くんはあらゆる意味で一目を置かれる存在だった。
大学進学で初めて立海に足を踏み入れた私にしてみたら、何もかもが遠い人。
そう思っていた。
――あの時までは。







大変なことになってしまった。
全て己の不注意が原因とはいえ、困り果てて立ち尽くす。
なんの気なしに荷物を整理しようとして、手ごろなベンチに腰を下ろし鞄を開き始めたのがよくなかったのかもしれない。
大学に辿りつくまでの道すがら出たごみを捨てる為、わずかに離れたスペースへコンビニの小袋を追いやり、底の方に押しこまれていたハンカチを掬い上げすぐ傍に置いたところで、一陣の強風。
あっという間に飛ばされた。
慌てて立ち上がり走りに走って、必死に追いかける。
息がやや切れ始めたところで、うらめしいほど爽やかな青空を滑っていたものが不意に勢いを失う。
偶然なのか必然なのか二つとも揃って落ちていったのは、丁寧にお世話されていることがちらと見ただけでわかる花壇である。
大勢が行き交う道の傍に作るにしては幅広な、柔らかな土を囲むレンガは傷もなく色褪せもしていない、実に立派なものだ。立ち入り禁止、と記された可愛らしい看板が手前側に鎮座し、奥の方で小さくて白い花が足の踏み場もないほど一面に咲いている。
はあ、ふう、と肩で息をしながら更によく見渡すと、こげ茶色の土の部分より、うっとりと開いている花びらの面積が大きい。
こちら側からも反対側からも遠いちょうど中間地点で、ごみ袋とハンカチは重なり合うようにして落とし主たる私を待っていた。
(……どうしよう)
むなしい間があく。
しかし途方に暮れていても事態が好転するでもなし、なんとかしようを足掻いてみる。
花壇のふちギリギリのところでつま先立ちをし、精一杯腕を伸ばしたが、全く届かない。
ならばと硬いレンガに膝をつき、ごめんなさい! と心で叫びながら小ぶりな花達を避け、よく手入れされた土に左の指先数本を乗せ、反対側の掌を限界まで伸ばすも、まるで足りず。
何か棒のようなものがあればまだ道は開けるのに、と試しに近くに下ろしていた鞄からノートを取り出して、ほんの先端だけでもいいから引っかかりはしないだろうか、うんうん唸りつつ指がつりそうになるくらい腕の付け根ごと伸ばしに伸ばしていたら、

「どうかした?」

穏やかな問いが、座り込んで悪戦苦闘を繰り広げる私に降りかかって来た。
はっとして居住まいを正す。

「す、すみ…ません。落し物を拾おうとしていて」

振り仰ぎ、向き合って初めてよく見えた声の主の顔に内心驚いてしまう。
(この人、ユキムラくんだ)
友達や同じ授業を取っている人達の中で折に触れ口の端に上る、知名度抜群の注目の人。テニスが上手くて強くて成績も優秀、見目麗しく、バレンタインでは恐ろしい数のチョコを貰っていた伝説がまことしやかに囁かれ、しかしそれらを鼻にかけた態度を取ることもない、確か漢字は幸村くん。
そうして常に渦中の人たる彼は一瞬で事態を察知したのか、なるほど、と頷き、

「少し待っていて」

言うが早いか、二の句を継げない私を尻目にきびすを返して去っていく。
置いていかれた側としては、ぽかんと口を開けて見送るしかない。
ほとんど地面にへたり込んだ形だ、手も膝も土だらけだしみっともない、白昼堂々往来の真ん中で失態を晒してしまった、次から次へと浮上する情けなさをこらえ、汚れた掌を払っていると、荒々しくないのにどこかしっかりとして重たい足音が空気に触れる。
鼓膜がかすかに揺れた時にはもう近かった。
釣られて顔を持ち上げてみれば、にっこり、という表現が似合う笑顔があって、右手にはおそらくごみ拾い用と思われるトングが携えられている。

「キミの落し物をこれで拾うのは心苦しいけれど、背に腹は代えられないって言うだろう? 許して貰えるかい」

そんなまさかとんでもないごめんなさい、二重三重に首を横に振るさまを見た幸村くんは、よかった、と瞳を綺麗にゆるめて微笑み、私の必死の固辞もなんのその、ビニール袋とハンカチを鮮やかな手付きで拾い上げてくれたのだった。


こうして印象深い出会いを経て知ったかの人は、思ったよりもずっと親しみやすく、そしてなんというかとてもマイペースだった。
あの幸村くんになんて感想を抱くんだ、と怒られるかもしれない。
けれど、例えば構内で偶然会うと自分が誰かと一緒でもごく普通に話しかけて来るし、たまたますれ違った時はなんでもない話題で立ち話。同じ講義の日、あいている席を探す途中で目が合えば、挨拶代わりに穏やかな微笑みを向けてくれた。
人見知りをしないし、相手に不快感を与えないのだ。
これが私にだけだったら心の中で大騒動が巻き起こるところだが、見かける都度都度、毎回違う相手と話しこんでいるシーンに出くわすので、相当顔が広く、誰に対してもあまり壁を作らないタイプなのだろう。
本当に私とは全く違う、ないものをたくさん持っていて、一目見ただけでこの人だとわかる特別な雰囲気の持ち主。
時々、心の底からの感嘆の溜め息がこぼれそうになる。
自分から話しかけるなんてまさかとんでもない、気後れするばかりで上手く返せているかも怪しい、少しだけ言葉を交わすだけなのにこわばり、心臓の音が体の外まで飛び出しているんじゃないかというくらいドキドキしてしまう私は、ある種の尊敬の念を幸村くんに抱いていた。

「ちょっとちょっと、幸村くんと知り合いなの!?」

お昼時をやや過ぎた食堂の入り口で鉢合わせ、やあ、今日は学食かい、うん、昨日はお弁当だったから、最近は天気がいいものね、外で食べるのも悪くなさそうだ、うん、日当たりのいいベンチで食べると春だなあってなるよ、フフ…おすすめをありがとう、いい場所を探してみるよ、いつも通り和やかに会話し終え、緊張のせいで自然控えめになっていた息を細く長く吐いていたら、隣にいた友達に腕を揺さぶられる。

「し……しりあい、だと思う……」

たぶん、とあやふやな付けたしをし、

「いや多分じゃないでしょ、知ってなきゃあんな風に話さないって。すごいじゃんどうやって知り合ったの? てーか上がり症的なのはだいじょぶになったん?」

数少ない立海大附属外の高校から一緒で、私の性質をよく理解している子に出会った日のエピソードを語り聞かせ、そんな状況なりたくなかっただろうによくわかんない強運持ってんね、心配されつつ呆れたふうに感心もされた、あたたかな春先のこと。
幸村くんが歩き去っていった廊下に、大きな窓ガラスに濾されてまろやかになった光の層が、やわやわと降り積もっていた。







大変なことになってしまった。
いつかのリフレインが頭の中を高速で駆け巡り、傘の柄を握る掌が汗で滑る錯覚に襲われる。

二次会か解散するかでしばらく話し合った後、参加組と帰宅組に分かれることになったらしく、みんなに比べると自宅が少々遠い私は後者を選んだ。
ぱっと見て八割の人が前者なようだから、珍しい方に入るのかもしれない。
もう暗いしおまけに雨の中を女子ひとりで帰すのもどうなんだ、何人かが声をあげてくれた。
そんなに距離があるわけじゃないから、

「じゃあ、俺が行こう。二次会に誘ってくれた幹事には悪いけど、正気の内に帰っておきたいからね」

大丈夫、と辞退する前にとんでもない発言が飛んで来、文字通り言葉を失ってしまう。
ここからだったら使う駅は一緒かな、平然と問うて来る彼――幸村くんは、自分に集まっている視線に気付いているのかいないのか、威風堂々たる構えだ。
えー幸村君かえっちゃうの、よく言うよんな酒弱くないだろ幸村、またこういう機会あったら飲もうね、かわるがわる声をかけられている。口を挟む隙がない。
あまりのことに呼吸がしぼむ。気管をぎゅうっと掴まれ押し潰されたみたいな気がして、は、とかすれた息が漏れた。さっきまで落ち着いていた心臓が打って変わって早鐘を打つ。
(どうしよう、こんなの全然考えてなかった。こういう時はなんて言えばいいの)

「ちょっとー気を付けなよー、いい感じに丸め込まれて変なとこ連れ込まれんよーにね!」

男子のほうで幹事の人と話している様子を遠目に混乱していたら、やけに笑顔な友達が先ほどとは違った意味でとんでもない発言を放り投げるので、本当にびっくりした。目が取れて飛んでいくかと思った。

「そ…そんなことあるわけないよ、幸村くんに限ってないよ」
「わっかんないよぉ〜? お酒だって入るんだしさあ〜。そもそも、この人に限ってありえない! なんて考え危ないと思うなあ」
「ないよ!」
「あはは、おっきな声出た。久しぶりに聞いた。その意気でがんばって話しなよね。んで明日、どうなったか詳細希望!」

人の気も知らないで、と睨みたくもなるが、彼女なりに高校の頃からずっと心配や気遣いをしてくれているがわかるから、もう何も言えない。
恥ずかしい、でもない。
困っているわけじゃない。
緊張は……しているけれど、子供の時のそれとはきっと違う。
だって、幸村くん以外の人だったら、今と同じ気持ちになっていないと断言できる。
気のせいみたいにかすかな雨が、音も立てずに傘を濡らす。湿り気を帯びる空気は相変わらず肌にまとわりつき、どこか冷たい。靴の先に小さな水の粒が乗っかって、ごく細やかに震えながらしっとりと光っていた。


もっと違う傘にすればよかった。
後悔してもまさしくあとの祭、何の変哲もないいつもの傘の柄を軽く握り直す。幸村くんが気にするはずないとわかっていてもなにかが恥ずかしくて、こらえていなければついつい俯いてしまいそう。
とっておきの日に使おうと大事にしまってある、新品の可愛い傘を思い浮かべつつ、濡れ模様を静かに反射させるアスファルトの歩道を一生懸命に歩く。
こんな急にとっておきの時間が訪れるだなんて、予想すらしていない。
夢を見ているみたいだから足元がおぼつかなく、じゅうぶん気をつけていないとくじいたり転びそうなのでちょっと本気で怖かった。

「キミが飲みの席に来るとは思わなかったな」

どうやってみんなと分かれたのか既に思い出せないくらいいっぱいいっぱいの私が、今日も変わらずに穏やかな幸村くんと差しさわりのない――途中で運ばれてきたあの料理が美味しかった、お酒は強いの、よく飲んだりするの、同じゼミでも初めて話す人が結構いたね、共通点があるようでないなあ、そういう話をどうにか繋げていたら、ふとした瞬間にこぼされた、もうほとんど降り終わりつつある雨にまぎれた声で一気に現実へ引き戻される。

「……え?」
「いつも、誘われても来ないだろう?」
「そ、そう、かな……」

そもそも誘われたかどうかさえ怪しい。
高速で記憶を巻き戻しても、緊張で震える指先を押さえながら思い返してみても、これというポイントには辿りつかなかった。

「滅多に見かけない、と皆に言われていてさ。特に男子の方は大盛り上がりだったよ」
「そんな、目撃情報の少ない珍獣、みたいな感じ……なの? 私」
「あははっ、珍獣! キミは意外と思いきった言葉を使うね」
「え、あ、あの、変だった?」
「いいや。そんな事はないよ。面白い返しだなと思っただけだから、気を悪くしないでくれ」

面白い。
男の子に初めて言われた。
上の方から、ぼつ、と雨粒のぶつかる音がして、電柱か電線にぶら下がっていた水滴が耐えきれず落ちたのだと思う。
傘の内側で声と声が反射するふうに聞こえて、余計に落ち着かなくなっていく。

「ちなみに俺はね、なんだったっけな、SSR? そういうのを思い出していたよ。前に後輩が騒いでいた事があって」
「ああ…、えっと、ソシャゲのガチャ?」
「そうそう。詳しいのかい?」
「ううん、自分でやったことはないよ。昔、友達が無欲な人の方が引けるって言ってて、頼まれてタップだけしたことがあるの。なんのゲームかは知らないんだけど……」
「フフ、なるほど。それで、‘神引き’だった?」
「幸村くんこそ詳しいの?」
「さっき話した後輩が大喜びしていた所を近くで見ていた程度の知識ならある、と言うのが正しいかな」
「……幸村くんも、代わりに引いてってお願いされたことあったりするんじゃ?」
「あはは、正解。ただ画面をタップするだけの事に、人によって差が出るとは思わないけれどね」
「………でもSSR、引いたでしょう?」
「それも正解。よくわかるなぁ。もしかして、その場面を見ていたりしたのかい」
「え! ま、まさか……見てないよ。見てないけど、なんとなく想像がつくの」
「そう。俺もつくよ。キミが友達に頼まれてタップして、感謝されている所」

当たっていたが、こうもはっきり断言されると返す言葉に困る。
幸村くんだって昔の私を見てなんかいないのに、まるで全部わかるみたいに言い切るのだ。
声色や喋り方も優しく、強い言葉で決めつけたり、強引な言い方もしないのに、その通りです、以外の答えを先手を打って封じられている感じがして、なんだか上手く言えない感覚に陥ってしまう。
どこかこそばゆくて、どうしてわかるの? 聞いてみたくなる気持ちが芽生え、色んなことが知りたくなる。
知らなかった。
(私ってこんなにおしゃべりで、聞きたいことがたくさんあるって、あの幸村くんに思ったりするんだ)
決して話しかけやすい存在ではないのに、いざ、少しでも踏みこんでみると話しやすい、みんなの注目の的の幸村くん。
胸のうちで様々を辿れば辿るだけ、夜陰の濃さに引きこまれたくなる。

「上がったようだね」

夜に溶けるような響きがやわらに胸を割る。
先ほどまでは薄い雨雲に覆われていた空を、隣にいる彼がじっと見上げていた。倣って首を反らせば深い紺色の晴れ間が垣間見え、ところどころで星がまたたき、雨はすっかり消え去って気配しか残っていない。
すっと傘が下ろされたのを、視界の端で捉える。ほんの一瞬の動作にもかかわらず、その手つきのたおやかなこと。好きなものを見つけようとする時にうまくピントが合うみたいに、よくわかった。
心臓が細かく音を立てる。
濡れ染みた地面の感触が靴裏を通して伝わり、密かに息を吸いこむとやっぱり冷たくて、変にこもった頭が冴えてゆく。
おかげで、今日はほとんど数合わせに呼ばれただけ、いつもなら断っていたかも、でも参加を決めたのはちょっとでも変わりたかったから、幸村くんともっとちゃんとお話できるようになる為の第一歩として、と後から後から溢れてくる、言葉にならない本当の気持ちを告げずに済んだ。
空気がしんと静まる。
わずかな静寂が私と幸村くんの間に流れ、靴音は異様に際立って反響し、呼吸の強弱まで露わになるのではと気が気じゃない。
やがて車のタイヤが雨で濡れた道路を走り滑る音が、遠くの方から聞こえ始めた。
暗い夜道をついに抜け、いよいよ大通りに近づいている。駅はすぐそこだ。
畳んで下げた柄をゆるく掴み、日ごろの倍は動いたであろう口を開いた。

「……ほんとだ。上がっちゃったね」

子供じみた調子になったのを、言い終わった後で自覚する。両頬に血がのぼって熱を帯びたのも遅れてわかった。
まだどこか夢見心地で浮かれているのは、お酒のせいなのかもしれない。
(なんでだろう、今さら酔いが回ってきたのかな)

「こうなってくると、急にただの荷物になるから困りものだ」

私のものより大きな男物の傘をお腹の辺りまで掲げて指し示し笑う、幸村くんの指の節がでっぱっているのが、夜のただ中にいるからだろうか、かえって綺麗に浮かび上がって見える気がしてしまい、別の意味で困った。
おまけに傘の下で聞いていたものとまた違ったふうに鼓膜を揺する、低いけどやわらかな声がいっそう近づいた錯覚に飲まれかけ、ほんとにだめ、お酒よくない、と必死に振りほどく。
広い横断歩道は赤信号。
白線を越えたその先、駅舎から漏れる煌々とした灯りが、うすく濁った雨上がりの夜に滲んでいる。
夢の終わりがすぐ傍まで迫っているのが嫌でもわかり、自分でも驚くくらい名残惜しかった。
帰り道は、駅までしか一緒じゃない。

「乗る電車はJR? それなら、そこの階段から地下を通って行った方が改札は近いかな」

幸村くんはどの電車、尋ねる勇気を振り絞るより早く、彼は渡れの色に変わった信号に従い歩き出す。
一拍遅れでついていき、颯爽としていながらこちらに合わせてくれている歩幅を、今の瞬間を、取っておける技術はないのかな――なんて、どうしようもない思考を巡らせる自分に溜め息が出そうだ。
夜の黒を強く弾く白っぽい黄色の人工灯の下をくぐり抜け、雨の跡でつるつるしている段を下りてゆく。
くだりきった所、広々とした地下通路には少ないながらも人影があって、夢みたいだけど夢じゃない、現実なのだと遅ればせながらしっかりと悟った。
悟ったからには、私は私の足で帰らなければいけない。

「ありがとう幸村くん、一緒に帰ってくれて。……あの、本当は二次会に行きたかったとか、そういうことがあったらごめんなさい」

発車時刻の映された電光掲示板が見えて来、改札横の駅員さんの姿がくっきりした辺りで意を決し、区切りをつける。
こちらを見下ろした瞳の芯が穏やかに凪いでい、持ち主たる幸村くんは、ふ、と息をこぼして笑った。

「嫌だな、俺が本当は二次会に行きたかったのに仕方なく来たように見えたの」
「みっ……えない、けど、万が一、」
「万が一にもないよ。安心するといい」

今、やけに素早く‘万が一’の可能性を切り捨てられた感じが……、と考えた途端、歩くスピードがゆるまった。
それを決めているのは私ではなく、彼の方だ。

「それと、早く帰りたくてキミを口実にしたわけでもないから、よく覚えておいて」

足はもう完全に止まっている。

「う……、うん」
「……それだけかい?」
「えっ!? は…はい!」
「あはは! 返事の仕方を聞いたわけじゃないんだけど、フフ…まあいいや」

目元を笑み滲ませている人が傘の柄を持ち替えた拍子、左手首の腕時計が蛍光灯を浴びてきらりと光った。
たったそれだけで息が止まりそうになって、どうして、なんで、と自問自答することもできない。
つま先の向きをかすかに私側へとずらした幸村くんは、小首をかしげてまた微笑む。

「人生にSSRな事があるとして、それを運で引きたくないんだ。俺はね」

優しいのに真っ直ぐで決して折れない芯がある、彼特有の声音が紡がれていく。
全くもって大きな声ではない。
むしろ静かに降る雨のよう響き落ち、ゆっくりと私にまで届いている。
だけど同時に、鮮明なしたたかさを内側に秘めて聞こえるのは、はたして気のせいなのだろうか。

「自分の意志で引き寄せたよ。信じている人を否定するわけじゃないけれど、運に任せたり神様とやらにお願いするのは好きじゃない。だから今日の事も……いや、今日までずっと、俺は俺の意志で決めて来たつもりだ」

幸村くんが私を見ている。
じっと見澄ますよう、ただ一心に。
その瞳の水面がにわかに揺れ動き、ごくゆっくりまばたきをした。
そして私も私で知らぬ間に熱心に見上げていたから、気づいてしまったのだ。少し癖のある前髪の奥、駅舎の光を吸ってまたたいた目元が、うす赤く染まっていることに。
瞬間、胸を割られて心臓を掴まれたかと思った。
息が本格的に止まる。
喉が干上がって掠れてか細い空気も通らないくらい狭まって熱い。
もはやどちらが早かったかはわからない、見計らったかのようなタイミングでかの人の口の端がやわらかくゆるみ、今まで目にした中で一番綺麗な弧を描いた。

「俺の方こそありがとう。一度、ゆっくり話してみたいと思っていたから、少しでも一緒に帰れて良かった。大学で会った時も今日のように話してくれないか。ああ、できればで構わないよ。俺だって、無理強いはしたくないもの」

それじゃあまた、学校で。
言うだけ言って爽快ともいえる笑顔のまま、幸村くんが軽く片手をあげる。さよならの合図だ。次の電車の時間が刻一刻と近づいて来ている。
誰かのICカードのタッチ音がこだました。
半歩、遠ざかる。
真正面で向き合っていた顔が横顔となり、片方の目が見えなくなった。
続いて一歩。
着実に離れていく。
いつだって迷いのない足取りで、彼は進んでいく。
でも私は見ているだけ。話しかけてもらったり、挨拶代わりに微笑んでくれるのを、ただ返していただけ。一度でいいからちゃんと話してみたいと焦がれるだけ。いつもいつも、いつまでも、受け身な姿勢から抜け出せなかった。

小さい頃から、どうも引っ込み思案な子で、と両親は挨拶ついでに口にし、私自身、人といてもすぐ緊張してしまったり、恥ずかしくて何も言えなくなることがよくあった。
だから、あんなに誰かと話してみたいと思ったのは、本当に初めてだったの。


――それだけは絶対に、私が自分から伝えなくちゃいけないことだ。


「ゆっ…き、幸村くん!!」

想像以上の大声が出てしまい、呼び止められた彼ばかりか周りにいた数人までもが振り返る。顔から火が出そう。恥ずかしい、こんなに注目される経験なんてしたことがない、本当に恥ずかしい。
当の幸村くんは珍しくびっくりした表情で、目を丸くしている。
ますますもって羞恥心がこみ上げて爆発寸前、なんなら恥ずかしさのあまり目の膜がうるんで前がよく見えない。

「あの、わたっ、私も! 私も、ゆ…幸村くんと、ずっと話してみたかったの。ほんとうは多分、聞きたいこととか、他にもいっぱい……。だから、あの、だから……明日から、大学で…み、見かけたりしたっ、ら、私から、話しかけても……いい?」

心臓が耳の近くに引っ越したのかと真剣に考えてしまうくらいうるさい。一体どこで早鐘を打っているのかわかったものではなく、もはや体の全部がどくどくと鳴り始め、元の姿形を失っていっているのではないかと思う。
息がうまく吸えず、ひく、と変な音が出た。
靴の裏を縫われたみたいにその場から動けない。こわばった肩がちいさく震えてしまい、やがて指先までかたついて来た。私って今、どんな私になっているんだろう。
永遠にも感じられた彼からの答えが得られるまでの時間は、どうやらほんの一瞬だったらしい。
やや集まっていた視線の数々は後腐れなく散らばり、残ったのは幸村くんのものだけだ。その幸村くんが、今度は嬉しそうにはにかんで、離れていた距離を取り戻してくれる。

「もちろん」

ゆったりとして余裕がある歩み寄りに心底安堵し、いつの間にか止まっていた呼吸がぶり返した。

「でも、その前に」

かと思えば遮られ再び息の仕方を忘れる。

「少し予定を早めてみよう」

その前にって?
予定って?
なにを早めるの?
聞きたいのにまるで声の形にならない無数の問いを、承知しているよ、言わんばかりに頷く人がよりいっそう笑みを深くした。

「この後、まだ時間はあるかい? 俺は今、もっとキミと話してみたいな」

明日からじゃなくてね、となんでもないふうに付け加えられ、どうしてか乾いた唇がぴりついてわななく。もう絶対に私の顔は見れたものではなくなっている自信があった。

「そうだな……これ以上、酒の力を借りるわけにもいかないし、普通に話せる場所にしよう。カフェでもファミレスでも、俺はどこでもいいよ。この選択権は、キミにある」

色々と聞き捨ててはおけない言葉が一気に押し寄せたものの、でもお酒の勢いでなんとかなっていたのは私も一緒かもしれない、なけなしの冷静な部分がとにかく落ち着けと指令を飛ばして来る。
外よりはぬるい空気を吸って吐く。
ちゃんと話さなきゃ、とくり返す。
そんな私の努力を押しても引いてもびくともしない佇まいの幸村くんが、にっこり笑顔で打ち壊した。

「安心して。いい感じに丸め込んだり、変な所にも変じゃない所にも連れ込んだりはしないから。フフ」

思いっきりしっかり聞かれていた!
恐ろしい衝撃が走り思わず友達の名前を頭の中で連呼する。あまりの事態に叫び出しそうだ。違う、そんなことないって否定したよ、今日のなにもかもをやり直したい、ああでもそうすると今の幸村くんとは会えなくなってしまう、混乱極まりもう長いことまともな返事ができていない私にも追撃は容赦なく降り注ぐ。

「けど、俺が幸村精市じゃなかったらどうなるかはわからない。他の男相手の時は気をつけないとダメだよ。警戒心を持つように」

ものすごいことを言われているのは嫌というほど痛感しているが、返す言葉がちっとも出て来ない。軽いめまいの前触れさえ見え隠れしている、もしかしたら酸欠状態だ。心臓なんてとっくに体を飛び出してどこかへ放り投げられているのかも。熱いのか涼しいのかすら判断がつかない。
でも、と胸の底から沸きあがる感情に押されて舌がひとりでに回った。

「…………幸村くん、」

(でも幸村くん以外とはこうならないよ)
声にする手前できゅっと唇を噛みしめる。燃やし尽くされたはずの理性のうち、奇跡的に残っていたひと欠片が思いとどまらせたのだ。
それなのに。

「……参ったな。そんなつもりはなかったのに、結局ナンパみたいになっちゃった」

それなのに幸村くんが今まで一度だって見た覚えのない、照れ臭そうな笑顔で言うものだから、戻って来たのかもしれない心臓と血管が膨れ上がって暴れ回るせいで私はもうなりふり構わず泣き出したくなり、きらきらしていて綺麗なはずの気持ちに苦しいくらいの熱がまじり合って、ドキドキだとかときめきだとかを追い抜き、色々なものが飛んでいってしまった。