マスト




『あなたはみんなに愛されているね』

今なお耳に残る言葉を零したその人は、中学一年生からの同級生だった。
たとえばバレンタインだとか誕生日だとか、象徴的なイベントごとの日に言われたのならまだわかる。今日の六角中の主役はサエだね、ようロミオ大変そうだな、等々からかわれたのは数知れず、慣れているわけではないが、ある程度対処法が身に付いていたのは確かだ。
だが、この時はそうじゃなかった。

「普通、大会を控えてる運動部になら誰でも頑張れって言うと思うけど」

真夏を目前にし、テニス部に限らず部活動に励む生徒たちの熱気や活気がぐんぐん上がっていく、高気温と湿度に苦しめられる季節。
梅雨明け宣言はまだされていないが二、三日前から晴れが続いているせいで、みんなすっかり傘を持ち歩く習慣から抜け出している。豪快に開け放たれた廊下の窓から差し込んだ、セミの大合唱ときつい光が肌の上で弾けた。
うだる暑さに歪む午後、風は吹かない。
俺は直前に、通りがかった幾人かのクラスメイトに関東大会の応援をされたところだった。

「だめだよサエさん、その誰もが言う言葉の中にある機微を読み取らないと」
「いや、そうは言っても深読みし過ぎてカンチガイだったらどうするんだよ」
「サエさんはカンチガイしたりしないでしょ?」
「そんな風に評価してもらってありがたいけどさ、買いかぶり! 俺はキミが思ってるほど器用じゃないって」
「テニス部の副部長と生徒会副会長を兼任してる人が言うことじゃないと思います」

笑いながら髪のひと筋を耳にかけ、数冊のノートとクリアファイルに仕舞われた書類の束を抱え直した手の甲に走る血管の青さが、校舎をまるごと焼く太陽に晒されている。

「俺は俺に出来ることしかやってないよ」
「出来ること、の範囲がとんでもなく広いんじゃない?」
「言うなぁ」
「みんなサエさんを信頼して愛してるんだよ」

六角中で過ごす三回目の七月。
俺は聞けなかった。
そのみんなの中にキミは入っていないのかと、言えなかった。

「試合、がんばってね。いつも応援してるよ」

それが最後のはなむけの言葉だったと知ったのは、カレンダーが九月に切り替わった後の教室だ。
変な気を遣わせたくないし、お別れ会なんてされたらかえって悲しくなる、と担任やごく一部の親しい友人にだけ転校を打ち明け、彼女はいなくなった。
立つ鳥跡を濁さず、のお手本のよう綺麗さっぱり、姿ばかりか痕跡すら残さない。
俺はただ言葉もなく、空っぽになった机とロッカーを眺めながら立ち尽くす。
残酷なくらい完璧な別れだった。







「……そんなドラマみたいな言い方、してない!」

中学の頃の面影が見え隠れする二十歳を超えた彼女が、青々と光る海を背にこちらを睨み付けている。
俺はどういうわけだろう、なんの気負いもなく笑った。

「でも言ってたことの意味は一緒だろ」
「ニュアンスが違ったら意味は同じでも違うでしょ、私はあなたはみんなに愛されているねじゃなくて、サエさんってみんなから愛されてるしほんとモテるよねーって言ったんだよ?」
「同じじゃん?」
「同じじゃない!」

ぬるくなったビールの缶を軽く振って確かめると、もうほとんど残っていない。気色ばむ彼女が両手で掴んでいるレモンサワーの缶も、おそらく似たり寄ったりだろう。
捨ててこようか尋ねようとして、やめた。

「俺のは、愛されてたっていうか……まあ嫌われてはなかったと思うけど」
「思うじゃなくて、嫌われてなかったよ。みんなに好かれまくってたんだから」
「ハハッ、そっか。でも今、愛されてるって言われても気が引けるなぁ」

あれから六年と少し。
ずっと千葉から出ないまま酒が飲める年になった奴もいれば、早々に東京や近隣の県へ出て行った子もいる。人それぞれ行く道は違っていて、定期的に集まっていたり同窓会を開いたりもしていない。
それでもひと声かかれば集まるもので、気持ちよく晴れ渡る空の下にあの頃のクラスメイトほぼ全員が揃い、飲めや食えやと囃し立て、本日の主役たちを祝福していた。

「永遠の愛を誓い合った二人がいるもんね」
「そういうこと!」
「うん、だけど……」
「もちろん、比べるべきじゃないってのはわかってるよ」

俺の返しに頷いた彼女の視線は、幸せいっぱいに笑う新婚さんの方へと向かう。
学生の頃──聞けば中三から付き合っていたらしい彼らは、先日めでたくゴールインした。
籍だけを先に入れて挙式の資金はこれから本格的に貯める、とは新郎の談。だったら二人が出会った場所である六角中、三年C組の面々でささやかな結婚おめでとうパーティーを開こう、年月を重ねても新婦と親しい交流を続けていた女子が発案し、今日に至る。
中学卒業を待たずして県外へ転校してしまった彼女は、折に触れ連絡を取り合っていた友人から知らせを受けたそうで、なんの前触れもなく現れた。

『結婚おめでとう!』

見覚えのある全開の笑顔で女子一同からの大きな花束を抱え登場した瞬間、ざわめきが場を包む。ちょっとした騒ぎになって、新郎新婦のどちらとも驚きに目を見開き、新婦の方は感動したのか涙ぐんでいたほどだ。
ドッキリ大成功、と数人が入れ代わり立ち代わり新たな門出を迎えた二人を取り囲み、ヤバい久しぶりすぎる、変わってないね、いやそこはキレイになったって言うとこだよ、てかびっくりしたーこの年で結婚てすごいくない、ほんとおめでとう、とはしゃぎ喜び合い、寄せては返す波のよう祝福のささめきが風に乗って流れていた。
俺はというとちょうど着いてすぐのところで、お祝いパーティーでバーベキューをする、くらいのことしか伝えられておらず、祝う間もなく早々に繰り広げられたサプライズを遠くから呆然と眺めていただけ。
あの時、彼女がいなくなってしまったことを知った時と同じように。


「……あのね、サエさんの中の愛の定義はわからないけど」

ついさっきは否定したくせに今、【ドラマみたいな言い方】をしている隣の元クラスメイトが、視線を戻してふと呟く。
話す声が懐かしい。

「あの頃サエさんが愛されてたの愛と、結婚する人たちの愛はたぶん別のもので、どっちが上とか下とかないよ。みんな子供だったけど、子供なりに一人のひとを全力で愛してたんだと思うよ」

少し離れた鉄板の並びの辺りから漂う、肉の焼けるいいにおいが鼻先をかすめる。
本来なら食欲をそそられるところだが、俺は自分の腹具合なんて全く気にならなくなっていた。

「それに、こうじゃなきゃ、こうしなければ愛じゃない、なんてゆうのもないと思うし」

威勢の良い煙が立ち上る鉄板を取り囲み、わいわい楽しそうにはしゃぐかつてのクラスメイトたちが、明るい陽射しに輝いて眩しい。
うなじが熱を持ち始めた気がして、利き手でとっさに押さえた。
息をつく。

「あいかわらず、キミの中の俺は高評価なんだな」
「いいえとんでもない、適切な評価と判断します」
「アハハ、今度はAIみたいな言い方してるぞ」
「きっとAIも人間もおんなじように褒めるよ、サエさんのことは」

陽の光を受けきらめく長い髪が、海風に吹かれてたなびいている。慣れ親しんだ、潮のにおい。波のさざめきの合間を縫って、静かだけれど芯のある声音が鼓膜を打つ。

「みんな、って言っちゃうとちょっと違うかな。……私はの話だけどね、サエさんってヨットに乗ってるみたいだなって思ってたの。あ、クルーザーみたいにおっきいのじゃなくて、自分で帆を張って乗るほう」

私が言ってるのは単なるたとえだけど、もしかしてほんとにヨット持ってたりするんじゃない、と明らかにからかいの色を含んだ調子につられて笑えば、気づいたらしい彼女が瞳の奥にいたずらっぽさを滲ませて微笑んだ。
──ああ、そうだ。
想像上の帆を空に描き、ヨットを操る仕草でおどけてみせる人を前にして確信する。

「なんに対してもそう見えてたよ。風を読んで、上手く波に乗ってさばいて……こんな感じ!」

俺はそういうキミが好きだった。
いや、過去形じゃなくて、今もずっと。

「なんでだろうね? サーフィンでもいいと思うんだけど、私の中のサエさんってなんだかヨットぽかったんだ」

手近な簡易テーブルに空き缶を置いて、それこそヨットのマストを張るように順番に思い出していく。


桜の降る入学式。
クラスは三年間の途中までずっと一緒だった。くり返された席替えで、何回も隣同士になった。彼女はその都度決まって、よろしくサエさん、目元をうっすら染めながらやわらかに笑う。
時たま、通学路で鉢合わせた。
砂浜を悠長に歩いてはいられないほど焼き焦がす太陽の下、海辺の道を並んで歩き、なんでもない話をした夏の日。熱中症になるから、としっかり用意していたらしい日傘を開いてくれて、まさかそのまま入れてもらうわけにもいかず、俺が持つよと引き取れば、ほんの少しだけ指先が触れたのかもしれない、ぱっと頬を赤くした彼女が小さく呟く。ありがとう。
夕暮れの教室、忘れ物を取りに来たと入って来た後で贈られた、遅くなっちゃったけど誕生日おめでとう、緊張と照れを混ぜ込んだ声がいつまでも胸の中で反響した。
耳たぶが凍りそうに冷たい風を受けながらの外周をどこからか眺めていたのだろう、朝練後の階段ですれ違いになり、見てるだけで寒かったよ、運動部ってすごいよね、あっ男テニがすごいのかな、感心したふうに告げてから、まっすぐな瞳を投げかけて来る。ほのかにやわらいだ彼女の唇が囁く。
サエさんは本当にすごいね。
瞬間、掌の内側に宿った熱さのこと。
その全てを断ち切られた突然の別れ。
全国大会初戦の敗北、夏休み明けの高気温、持ち主を失ったロッカー。
当たり前だった日々はその実とても脆く、驚くほど簡単に会えなくなってしまう。


「時々、思いっきり海に落ちるけどな」
「あはは! 大丈夫、サエさんなら水も滴るいい男になるだけだよ。それにすぐに上がって、またヨットに乗り直すでしょ?」

胸にぽっかりと大きな穴があいたとしか言いようがない、今まで再生されて来た喪失のイメージは、つい先ほど再会した時の高揚に溶かされ綺麗に塗り変えられた。
『……サエさん、久しぶり!』
最初、目を見開いて驚いている。次の瞬間、ほころんだ笑顔。わずかに頬を薄赤くして駆け寄る人の足取りは軽い。私のこと覚えてる、と照れくさそうに尋ねられ、もちろん、当たり前だろ、と答え頷いた俺は、限界まではやまった心臓の音が聞こえやしないか内心ヒヤヒヤしていた。
同時に、数年越しの会話を始めてからこの方、誕生日を祝ってくれた放課後みたいに緊張してどことなくはにかんでいる子が、他の誰にもそんな表情を見せてはいないことを知っている。
中学生の頃にだって、何度も巡り合った特別な感覚だ。

かなり出遅れてしまったけれど、今の彼女は航海に出る門出を祝福してくれるかな。
でも俺はいってらっしゃいと見送られるんじゃなくて、さようなら、がんばってね、と別れを告げられるのでもなく、ヨットには一緒に乗りたい。
何に対しても風を読んで上手く波をさばき、進んでみせるというのであれば、なおさら。

「それじゃ、今乗り直すよ。ずっとキミに聞きたかったし言いたかったことがあるんだ。この後、場所を変えて話さない?」


空気を揺らす潮騒も消し去る勢いでこちらを振り仰いだ彼女が後々になって、

「ねえなんであそこでこんな大事な話切り出したの? 絶対タイミング違くない? しかも私お酒の空き缶握りしめちゃってたし!」
「機を逃したくなかったんだって」

頬どころか顔全体を真っ赤にして言い募り、嬉しくて笑う俺を涙目で睨みつけたというのが、この色んな意味でおめでたい幸せな話の結末だ。