君が見ている境界線




春に三日の晴れなし。
ことわざ通りに週末は雨予報。今日に至るまで風の強い日が続いていた。
細かな砂やら埃やら、後は多分花粉も混じっているであろう、うっすら汚れた窓ガラスががたがたと唸っている。
時折、びゅう、と吹きつける風は容赦なくグラウンドに砂煙を巻き起こす。何人かの生徒がそのうずまきから走って逃げているのが、遠目からでもわかった。

「こら、手ぇ止まってんで」

なんや気になるもんでもありましたか、とある意味わざとらしい丁寧語で詰めて来る人を、あえて真正面から見据える。

「春の嵐」
「ん?」
「春の嵐て最近の風の強さとか、明日からの雨のこと言うんかなあ考えててん」

春のさ中に生まれたんやなあ、とかつて石田くんから祝われていたその人は、端正な顔立ちに軽い笑みを乗せ肩をすくめた。

「お手本みたいなうわの空やな」
「へーき。別のこと考えながら手元動かすの得意やもん」
「いつかケガする未来が見えてしゃあないわ」
「その予知は外れるから大丈夫やで白石くん」
「いやどんな自信やねん。あと何を根拠に言うてんねや」

しゃべりながら作業しとる白石くんかて同じようなもんとちゃうん?
返しても良かったのだが、なぜだか唇が上手く動かない。口を閉じたっきり結んだまま、長年の砂埃をかぶったコンクリートの床を見た。





一刻も早く終わらせようとしたのがいけなかったのかもしれない。
憂鬱な掃除当番を終え、集めたごみを捨てた帰り道、たまたま通りがかった先生から、おお感心感心、おーっとついでに用具倉庫の片づけにも人足りんかったんやすまんけどちょおっと頼まれてくれるか、等と矢継ぎ早に面倒ごとを鍵と一緒に押しつけられた私は、マヌケであり鈍くさいのだろう。あんたそんなんでこれから学校でやっていける思てんの、実の母親から神妙な顔つきで諭されたのは記憶にも新しい。
そういう、マヌケで鈍くさい女子を放っておかないのが、四天宝寺中イチのモテ男と呼ばれて久しい白石くんだった。
遠くから一部始終を目撃していたらしい彼は、中学三年生に上がって間もない、新体制で忙しい部活前にもかかわらず、どないしてん、大丈夫か、と声をかけてくれたのだ。びっくりして二度見した私を、嫌な感じが全くしない笑い声でごく優しく言い含めた。
『そないに目ぇおっきくして見返すとこちゃうやろ。俺の顔になんかついてるか?』
いーっつもキレイな目ぇとえっらいキレイな眉とエグいくらい整った鼻とめっちゃ形いい口しかついてません、とやり返さなかった私は偉いと思う。

その後の白石くんの紳士っぷりは後世に残すべきである。
かくかくしかじか、できるだけ手短に説明すれば、なんやえらい災難に合うたなぁ、ちゅうか先生もいい加減すぎや、手伝うで、ぱっぱと片づけよな、うんともすんとも応じる隙をこちらに与えず、指示された倉庫の方へをつま先を向け、置いていかれっぱなしの私を大いに慌てさせた。
ええよええよ白石くん、そんなん、私ひとりでやる。
固辞したところでどこ吹く風、はいはいはよ行こ、止める間もなく学ランの裾を翻して進んで行ってしまう。泡を食うとはこの事だ。
(やって白石くん、今日誕生日やのに)
またしても言えなかった言葉は舌の上から喉の方へと滑り落ち、胸の奥で溶けていった。


そうして散らかり放題の荒れに荒れた倉庫の薄暗さの中で、哀れな子羊たち──もとい私たちはせっせと整理整頓に励んでいるのだった。
手伝って貰っておきながらヨソに意識を飛ばしているとは何ごとだ、怒られたり白石くんを好きな子に恨まれても至極当然、仕方のないこと。だけど申し訳ない気持ちと片づけに集中できない落ち着かなさが相まって、違う方に意識を飛ばしていないと何を口走るか定かではないし、何より脈のはやさがバレそうで恐ろしいのだ。
本当は今日、四月十四日の主役たる白石くんをこんなしょうもない場所に留めておいてはいけない。
わかっていても、もうええよ、白石くん今日誕生日やねんからこんなひどい場所におらんと、はよ部活行ってや、口にしてしまえばほんの十数秒で済む単純な言葉が出て来なかった。代わりに下に横倒しになったり大きく壁にもたれかかっていたり、とにかくバラバラになっている竹ぼうきを二、三本抱えてずれないように立てかける。
軍手欲しかったな、声にはしないで呟いたと同時に、

「……時々な」 

半分開けた入口の方、つまり私の後ろ側で同じく片づけに従事していた人の静かな声が背中越しに届いた。反射的に振り返る。

「自分、さっきみたいに遠くの方見てじーっとしてる時あるやろ? 何考えてんねやろていつも不思議やってん」

包帯で巻かれた左手に一体いつのものなのか、思わず眉をひそめるほど古びた野球ボールが三つ四つ乗っかっている。大きな掌だ。

「ぼけっと突っ立って大丈夫なんやろかこの子はー、思てたんとちゃうくて?」
「いや言い方な。俺もうちょい優しく言うたやん」
「白石くんはマイルドな気遣いがおじょうず」
「そらおおきに。せやけど心配ゆうより不思議のが勝ってたんはほんまの事やで」

さらさらと流れるような返しに【四天宝寺中イチのモテ男】の風格を感じる。多分、白石くんにとってはなんでもない日常会話に違いない。
でも。
──でも私にとっては……片思い中の人を前にした私にとっては、全然なんでもない事なんかじゃないのだ。
白石くんが、私の知らないところで私を見ていた。
考えるだけでみるみる加速していく心臓の音が聞こえやしないか気が気じゃなく、竹ぼうきの間に隠れていた金属製のちりとりのわずかなきらめきにも指先がびくっと反応してしまい、頬どころか首から上の全部が真っ赤になっているのではないかと本当に不安で、倉庫が薄暗くてよかったと感謝の念すら抱いたくらい。

「……不思議、言われても、大したこと……は、考えてへんもん」

やっとの思いで紡いだ声が、途切れ途切れに震えている。
神さま仏さま誰でもいいから偉い人さま、どうか私を助けて下さい。

「はは、そか」

特段気にする素振りを見せない白石くんが、いつ誰がどこから持って来たのかスーパーの買い物カゴじみた入れ物に手中の白球を放る。そののち屈み、空気が抜けて半分以上ぺしゃんこになったサッカーボールをつまみ上げた。
開け放たれた重たくぶ厚い扉から、外の光が差し込んで来ている。
その斜光を背負う形となった人のすっきりと通った鼻筋や美しく生え揃ったまつげ、頬骨の少し高いところの周り、耳たぶの下やすぐ傍に、淡い影が宿って儚い。普段は目に見えないごくわずかな塵埃が、明かりの中できらきら舞い踊る。
世が世なら著名な画家がキャンバスに描く事で切り取っていたであろう、夢のような一瞬。

「さっきみたいに普通に聞けば良かったな。何見てるん? て。同じクラスやねんから」

私が独占していい時間でも人でもない。

「……私かて四六時中ぼーっとしてへんし!」
「俺が思てたんはぼーっとやない、じーっとの方」
「ニュアンス細か」
「よう言われます」

肩を揺らしつつどこか上品な笑い声を立て、今度はバスケットボール用のカゴとカゴの隙間から謎の孫の手を引き出す白石くんが、うわなんやねんこれ、誰の持ち込みや、とちょっと本気で引いている。
(なんのてらいもなく笑うあなたの事が、ずっとずっと大好きでした)
言葉にできたらどんなにいいだろう。

「色きったないし、十年くらい前のものかもしれんへんよ?」
「そんなら俺らの先輩やな、孫の手先輩」
「それ持ちネタにして披露せんといてね絶対スベるほんまにびっくりするくらい空気冷える」
「……息継ぎひとつもせんと言い切るくらい酷かったか? もうちょい手加減して欲しいわ、辛口審査員さん」

だけど言えないから、私はお誕生日おめでとうのひと言だって今日一日、口にできなかったのだ。 


キーン……コーン……といやに間延びしたチャイムの音が、明と暗の混じった倉庫に響いて来る。部活開始や帰宅をうながす合図めいた鐘は、くしくも夢の終わりを告げたようだった。
私の夢。
私ひとりだけが嬉しい、叶わない可能性の方がうんと高い片思いの最中に思いがけず出会えた奇跡。
いつまでも続くものじゃない。

「白石くん、ほんまにもう大丈夫。先生も隅から隅まで全部きっれーに片づけろー言うたわけやないと思うし、あとは私ひとりで片づけました感出すし」

長い両足を折ってしゃがんでいた白石くんが、ぱっと顔を持ち上げる。
少し距離があったもののまともに見つめられ、喉仏のあたりが緊張できゅうと締まった。肩の先がこわばる。制服のスカートの裾を握り締めそうになって、必死で止める。どうしてか指先の感覚が消え失せ、心臓が鼓膜の奥に上がって来たんじゃないかと疑うほど爆音で鳴り響いている。

「今日、誕生日の人が、罰ゲームみたいな片づけ、することちゃうもん。手伝ってくれてありがとう。あと、誕生日……おめでとう」

よし言うた言うたで、言うたった、大っ変よくできましたハイ合格!
すくんで震える足に喝をいれるつもりで心の中で唱えたら、こちらを見上げる白石くんが珍しく目をまんまるにしていて、どうやら言葉を失っているようだった。
(え? なんで? おめでとう言うただけやん、えぇ? もしかして日にち間違えとった?)
まさかの反応に血の気が引き始め、

「あの……白石くん?」

思わず呼べば、

「ああ、いや……すまん。変な間ぁ作ってしもた」

利き手の左で軽く顔を覆い、それから前髪をよけて額に当てていた人が、自身の手を真横に振り音もなくスッと立ち上がる。私はなんだか力が抜けた。

「びっくりした。嘘やん私誕生日間違えた!? てほんまに焦った」
「間違えてへん、間違えてへん」

両手をポケットへ突っ込んだ白石くんは、大笑いしたいのに笑えないような、そこかしこが緩んでいるけどしっかり形は保っているような、これとあてはまるたとえのない表情で私に向き直る。

「ありがとう。おおきに。めっちゃ嬉しい」

やっぱり耳まで上がって来たりはしていなかった、左胸の中にある心臓を鷲掴みにされた衝撃で息が止まった。
だって、目の前の彼は軽く握った利き手を口元に当てている。

「俺の誕生日、知ってくれてたんやな」

何かを隠すみたいに。

「し……知って、るけど、」
「うん」

けれど隠しきれずに綺麗な二重の目と形のよい唇の端を柔らかく綻ばせ、少しの躊躇いを見せた後でつま先ひとつ分、私との距離を縮めた。
たったそれだけのことで体の内側全部が爆発しそう。

「けど、実際言うて貰えるまではわからへんやろ? 見てるだけやなくて話さんとアカンかったて、今ようわかったわ。我ながらおっそいなぁ、そら審査員さんも辛口になって当然や、しゃあない」

喉が渇く。舌が回らない。破裂する勢いで跳ね回る心臓の音がうるさい。足の裏から這い上がって来るお腹の底を叩く震えが止まらない。絶対に顔が赤一色に様変わりしていると思う。
早く、一刻も早くなんとかしないとどうしようもない、とぎゅうぎゅうに握り込んだ拳のおかげで爪が刺さって痛いはず、でもびっくりするほど何も感じなかった。おかげで夢なのか現実なのか境目が曖昧になって、目の前で起きていることと頭の中で処理できる容量が見合っていない気がする。そこまではわかっているのに、心も体も動かない、動けない。
全てを解決したいのなら、ひとこと聞けばいいだけだ。
(見てるだけやなくてて、なにを?)
──誰を?

「多分、おんなしや。緊張してたやろ、俺におめでとう言うてくれた時。俺もしとったで。めっちゃ緊張してた。さっき話しかけてからここに二人きりでおる間中、ずっとな。あと挙動不審なってないかほんまに心配やった」

どんな時でもすぐに引き出せる記憶の中の白石くんと比べ、心なしか早口に聞こえるのは私の勘違いなのだろうか。
はっと呼吸を思い出し、傍にいる好きな人を確かめれば、知らぬ間に頬を薄赤く染めている。
気づいた途端、また膨れ上がった心臓にこっぴどく打たれて頭が真っ白になった。


いつも見えない線が引かれているみたいだった。
白石くん自身がそういう人じゃなくても、ただのクラスメイトAでしかない私にしてみれば、ここから先は立ち入り禁止、あなたは入れません、明確に区切られた感覚がどうしても拭えず、簡単には近づけない。
教室で忍足くんと部活の事や何でもない世間話をしている時。にぎやかな笑い声を背中や片耳だけで感じ取り、あの輪の中に入っていける子達が羨ましかった。
全国レベルのテニス部の名に相応しく好成績を叩き出す体育の授業で、アカンやっぱかっこいい、彼女作らん主義てウワサほんまなんかな、一回聞いてみよかな、離れた所から密やかにはしゃぐクラスメイトのその更に遠くから、同じグループの男子と談笑しながら袖口で汗を拭う白石くんを確かめるので精いっぱい私は、彼女達のよう素直な気持ちを口にする事も出来ない意気地なしだ。
現国の授業で先生にあてられ、朗読する姿を斜め後ろの席からこっそり見つめた。
四天宝寺の聖書なる異名を彷彿とさせる、正しくまっすぐ伸びた背中。制服のシャツ越しに大きくて骨ばった肩甲骨が浮かび上がっているのがわかる。太い首筋のうなじにかかった髪の毛と、垣間見える耳の形、教科書を辿る瞳と下向く睫毛の長さ、何度も目にした横顔なのにとても綺麗だ。
白石くんの声とやわらかな調子で紡がれてゆく文章は、自分が開いている教科書の中身と寸分違わず同じはずなのに、なんだかもっと特別なものに思えた。
人気もまばらになった放課後、廊下ですれ違う。
『お、今帰りか? 気ぃつけてな』
『うん。白石くんもテニスがんばってや』
『はい、頑張らせて頂きます』
『いや私上司? 白石くんにその返しされたらめっちゃ上から発言なってまうやん』
『はは! ちゃうちゃう、応援されて気合入ったでーて伝えたかっただけや』
おおきに。
目尻を緩めて笑う彼のなんでもない、日常会話に過ぎないたったひと言が、いつまでも心に残ってしまう。

そういうふうにして、小さな幸せをよすがに生きて来た。
学年で一番に可愛い子から告白されたと聞いて胸が痛んでも。叶う確率の低さを考えて泣きそうになる都度。それくらい別に平気、単なるクラスメイトでしかありません、嘘の表情を作りながら、ずっと白石くんの事だけが好きだった。
本当は好きな人の特別になりたくて、同じくらいとまでは言わないから少しでも好きになって欲しくて、だけど下手に告白なんかして今の関係を壊したくなくて、ただ見ているだけだから許して下さい、と神さまに祈るような気持ちで、望みを捨て切れずに。

「どう見えてるんか知らんけど、なんでもない顔で話すの今まで結構苦労したんやで」

軽く小首を傾げながら照れ臭いと嬉しいを半分にして混ぜた微笑みを向けられて初めて、彼と私の間に境界線なんてなかった事に気がついた。

心拍数がまた上がる。
頬が熱い。
上手く息が吸えず、うんとかすんとか何かしら答えるべきだとわかっていても、相応しい言葉は出て来てくれそうもない。
私だって嬉しいと笑っていいはずなのに、涙で視界の端が滲み始めた。
(お願い。夢なら覚めへんとって)

一歩、白石くんが近くなる。