01




思い出の中の庭はいつも美しい。


花だけでなく緑の葉や枝も季節ごとに色を変えるのだと、私にとって大切な場所が教えてくれた。
うちはごく普通の造りだし、家族に趣味がガーデニングの人もいない。
申し訳程度の庭というかフリースペースもあるけれど、春や夏が来ると雑草が生えて邪魔、虫がわくから嫌、もう全面コンクリートにすればいい、なんて乱暴な意見が持ち上がるばかり。
情緒のじょの字も感じられず、春夏秋冬の移り変わりがどうのと感想を抱く間もない環境に育ったからこそ、憧れてしまうのかもしれない。
学校や部活のない日、犬の散歩ついでに足を向ける庭園は、いつでもどんな時でも整えられてひとつの隙も見当たらなかった。
余分なものなどなく、自宅の庭に勝手に生えてくるような植物なんてもっとないし、結構な広さにも関わらず一つだって枯れても萎びてもいない、見る度美しさを増す勢いで咲き誇る花は透明な雫に濡れて光っている。
でも、けして他者を寄せつけない雰囲気じゃなく、完璧主義の顕れというわけでもない、ここをお世話している人の心のあたたかさが伝わってくる出来栄えなのだと思う。
広い庭園の良し悪しがわかるほど上等な人間ではないけれど、時間と手間をかけ心を込めて手入れされているんだとは感じる事ができた。







「おい、
「はい!」

目当ての本を手に図書室を出、階段を下りようとしたまさにその時、背後から鋭角に投げ込まれた呼びかけに肩が跳ねる。
軍隊ばりの素早さで転がった返事と一緒に振り返れば、思った通りの人物が防火扉の横に立ち、呼ばれただけで何ビビってんだよ、と不敵に笑った。
そう言われても、この人に名前を口にされて慣れる日が来るとは思えない。
逸る心臓へ落ち着け、と言い聞かせ、急激に渇く唇を動かしてみる。

「ご、ごめんなさい」
「まあいい。それよりお前、記入ミスだ」

氷の帝王と中学生にあるまじき尊称で称えられる跡部君が簡潔に言い落して一枚の書類をこちらへ差し出す、受け賜ったしがない民草たる私は慌てて手元のプリントに目を通した。
部の活動について書かれたものだ。
何月何日に教室を一部屋を貸して欲しいと記されており、部長と顧問の署名、それから申請した日付に判子、確認しながら辿っていくと、肝心の希望する時間とその理由が抜けている。
強張っていた肩ががっくり落ちた。
部長の天然はいつもの事だけど、先生だってチェックしているはずなのに、なんで。

「……部長と先生に確認してきます。ありがとう、跡部君」

迷惑かけてごめんなさい。
謝罪の途中からめっきり声に張りがなくなった自覚はあった。
多忙極まる人に余計な手間を取らせてしまった事が申し訳なさ過ぎて、下がる頭も石が乗っているみたいに重い。
目に見えてトーンダウンした私の様子を二百人の部員を束ねる御方が見落とすはずもなく、

「相変わらずみたいだな、天文部は。上が間抜けだと余計な仕事が増えやがる」

末尾に、ご苦労、とついてきそうな、一見そうとはわからない労いの言葉をかけてくれる。
跡部君の言う通り、我が天文部は部長と顧問揃ってのんびり屋……というか、時たまとんでもない大ボケをかますのだ。


そもそもどうして私が天文部に入っているのかといえば、率直に成り行きと言う他ない。
綺麗な庭園に憧れるのなら植物に携わる部や委員会に入るべきだとは考えたものの、花や緑ならば無条件で好ましいわけでなく、あの目にも鮮やかな、つくる人の心映えが溢れている場所が好きなだけなのである。
つくり手には向いていない。
センスも知識もないし、もしやってみたとしても求める理想が高すぎて逆に嫌いになってしまったら。
考えると怖かった。
そうしてまごついている間に季節は過ぎていく。
真新しい制服に身を包んだ私を迎えてくれた春が夏へと様変わりし、静かな秋を越え、冬の冷たさがやって来た頃、天文部に籍を置いている友人に頼みこまれたのだ。
後で知った事だが当の女友達は、当時ただの平部員、現在は部長を務める彼とお付き合いをしており、好きな人の窮地を救いたい一心でなりふり構わず私にお願いをして来たらしい。
ちょうどノリと勢いで入部届を出した人は姿を見せなくなる時期、そうでもない生徒も身にしみる寒さが原因で天体観測の類いは遠慮したいと部室を避け始め、公式の部員数は足りているのに肝心の動ける人数は圧倒的に不足中という事態に陥っていた。
活動報告をせねばならない定例会までは間がない。
氷帝学園は生徒に自主性を求めており、ある程度の自由は許されていたが、その分適当な処理は決して認められず、やるべき事はきっちりやれ精神で基本言い訳は通用しないのだ。
このあたりは学園というよりも、通常の倍権力を持つ生徒会長の所為といった方が正しいかもしれない。誰もがうちの学校おかしくね? と思いながらも、会長が会長なので最終的には納得してしまうところが特色と言えるのだろう。

ともかく、時間がない。
その上人手も足りない。
新入部員なんて今の時期からじゃ到底望めない。
定例会発表までの間でいいから手伝って下さいお願いします。
深々と頭を下げられ、見返りとして新発売のチョコを捧げられた私は、まあどこの部活にも入っていないし人助けになるならいいかあ、と軽い気持ちで承諾したのだった。
それから無事山場を乗り越え、短期間だったはずの在籍は間延びし、なんのかんのと活動に参加している内、もう入部すればいいじゃん、背中を押されて、完全に止め時を見失っていた私はまたしても軽い気持ちで、部に顔を出す人がいないのは変わらないみたいだしいいかあ、頷く。
自分ではわからなかったけど、天体観測や星についての話を聞くのは嫌いではなかったし、入ってみたら居心地はよかったので向いているのかも、というのがその時の本音だった。

跡部君と話す機会が増えたのも、ちょうど同じ時期だったように思う。
クラスが一緒になったのは二年生からで、一年生の当時は顔と名前しか知らない、海外帰りだなんて住んでいる世界が違う有名人くらいの認識しかなかった人に、いきなり話しかけられた時は本当に驚いたものだ。口から心臓が飛び出るかと思った。

モノに釣られて入部した割には、長続きしてるみたいじゃねえか。

にやり、ととても中学生が浮かべるものではない、人の悪い笑みだったのを今でもよく覚えている。
接点なんか存在していなかったはずなのに、天文部に在籍している事や入部に至る経緯までも把握されている事にまず仰天し、加えてとてつもなく恥ずかしかった。
彼にしてみれば安物、タダも同然であろう値段のお菓子を受け取って手を貸したのだ、人としてやっすい、簡単すぎる、見下されても反論できない。
返す言葉に詰まった私の心中を言い当てるよう、彼はつけ加えた。
勘違いするなよ、褒めてやってんだから光栄に思え。
ははあ、と時代劇さながらにこうべを垂れそうになった。
上様の御成り。
インサイト恐るべし。

二年生に進級して、同じ組に配属された。
跡部君に間抜けと断じられてしまった現部長はこの時から部長に任命され、全学年の部員達をその天然っぷりで振り回した。
他に向いてる奴いなかったのかよ、と誰もが考えたが、えり好みしていられるほど部員数は潤沢ではなかった為、即座に諦める。
テニス部の域には達していないものの色んな意味で濃い我が部に興味が沸いたのか、毎日教室で顔を合わせる偶然のおかげか、跡部君は時たま下らねえヘマするなよと釘を刺してくれるようになった。
多分、部長の抜け加減や天文部の状況、一時は定例発表会が危うかったギリギリ運営、おおよその事情を熟知していたんだろう。スーパーがつくくらいなんでもできる人から見れば、さぞかし珍妙な部に映ったに違いない。
だからてっとり早く確認の叶う、チョコなんかで釣られる単純なクラスメイトに、わざわざ声をかけるのだ。
悪感情は持たれていない。
跡部君はそんな事で他人を区別したりしない。
だけど、そこに特別な意味なんてない。
あったとしても、物珍しい、程度。
近寄り難い経歴に相反して心の垣根が低く、目つきは確かに怖いほうでも怒りに荒れた声なんか一度も聞いた覚えがなかった、人民を統べるみんなの王様。
彼の唇から自分の名前が転がる度、機嫌のいい時と悪い時の違いをなんとなく理解していく過程、文化祭の作業が終わらず下校時間をぶっちぎってしまったら眉を顰めてもう暗いから早く帰れと言ってくれた夕闇の放課後、部長が提出した書類が一枚抜けていて慌てて生徒会室まで持って行ったらすごく笑われた時、気にかけてくれているのかもしれないと考えてしまう都度、浮き立つ心を必死で抑え込む。
私だってそこまで馬鹿じゃないし、身の程くらい知っている。
偉大な王様の、何の裏もない厚意を汚してはいけない。
跡部君の言葉は全部、ごく個人的に好ましい人物へ手渡すものではなく、臣民へ与える類いの温情なのだ。
そんな事は、以前一度だけ思い切って、どうして天文部の事を部長じゃなくって私に聞くの、問いかけて、あの間抜けに言うより同じクラスのお前のが手っ取り早いだろうが、至極当然、何でもない当たり前の選択肢だといった調子で言い放たれた時からずっと、よくわかっている。
だから私は胸の底で流れる水に蓋をした。
綺麗な光に透け、揺らめいて、心ごと覆ってしまいかねない波打つ感情を塞いだ。
跡部君はすごい。
とても同い年には見えない。一人三役どころか何役だってこなせそう。
本当に王様みたい。
尊敬だってしてる。
テニスをしている時もしていない時も、かっこいい人だと思う。
でも好きじゃない。
憧れてはいるけど、いわゆる恋愛対象、傍にいたい男の子として見ているわけじゃない。
何度も何度も言い聞かせ、蓋に重石を乗せる。
ぬるい水に沈む音すらさせなかった。
はじめから何もなかったよう隠して、目も向けなければ日々は王の築いた太平の世だ。
そうすると、私は安心して跡部君と話せた。
時々思い出したみたく高鳴る鼓動や、上がる息、苦しくなってしまう胸を耐えていれば、どうという事もない。
年単位で身に着けた生きている世界の違う人との関わり方はすでに自分の一部になっていて、今更剥がせるわけがなかったし剥がそうとも思わなかった。そのはずだった。


「で? 天文部のお前が、どうして植物図鑑なんか借りてやがんだよ」

こちらの掌中に収められている本へ視線を落とす素振りもなく、跡部君が鋭い眼光と一緒に言葉を投げる。

「え? あ、ああ、これ…これはね、ええと……」

大して疑問に思っていなさそうな顔つきなのに、適当な回答は許されぬ雰囲気である。王の謁見か何かか。
少しだけ首を傾げた跡部君の片頬と瞳へ、茶がかった前髪が降りかかった。
冬よりも日に焼けてきている首筋が伸びる。ポケットに突っ込まれた両手は行儀が悪い。
突然の質問に戸惑いながら、私はいつも通りありのまま話す事にした。

「昨日、花を貰ったんだ」

清行さんに、と彼が知り得ない人名を出しかけ、慌てて断ち切る。
隠すほどの秘密じゃないけど、全部語ったら要点がぼけてしまうし、何より聞いているほうがめんどくさくなるだろう。

「でも私花をもたせる方法とかよく知らないから、調べようと思って」

ついでにいつか役立つかもしれないから育て方も、と言い終わらぬ内に、聞き逃しかねない、呼吸に紛れた音がこぼれた。
ささやかすぎて、すぐにはわからなかった。
でも多分、笑い声だった。

「……へえ」

見れば、跡部君が唇の片端を上げている。
てっきりいつもの人の悪い、悪人面と揶揄されても擁護できない笑みがあると思っていた私は、優しさを湛える眼差しとやわらかな口元に返すべき言葉を奪われてしまい、呆然と立ち尽くす。

「殊勝な心掛けじゃねえの。精々、長くもたせるんだな」

まばたきをした時の、睫毛の長さ。
やけにゆっくりとした動作に映った。
窓から差し込む光を浴びた目元が、流れるような軌跡を描いて逸れていく。
宙に舞うちいさな埃がきらきらとあたり一面を輝かせ、同じ階にある生徒会室に戻るのだろう、去っていく跡部君の姿は映画のワンシーンと見紛うほど整っていた。
写真にだって残せない。
けど心のどこかに焼きついてしまう。
いつからだろう。
三年生に上がってからは特に、跡部君はよくわからないポイントで穏やかな顔をするようになった。
一体何が王の琴線に触れたのか皆目見当がつかない平民その一の私は、いつだって立っているだけで精いっぱいだ。


頑丈にしつらえ注意深く乗せたはずの重石が、まるで頼りなく浮いている心地に陥って、言い様のない不安に襲われた。
水音がする。
清々と流れ、涸れる事はない。
胸の奥。
はるか彼方のようで、とても近い場所で。







もう何年も前の事だ。
今の家に引っ越してきたばかりで土地勘もなく、道もちゃんと覚えていなかった私は、学校から帰る途中で見事に迷子になった。
見知っていた近所の人はいない。
友達も、道も、学校も、家ですら真新しく、慣れたとは言い難い。
知らない場所で進めばいいのか戻ればいいのかもわからなくなった恐怖は、当時小学校低学年だった自分にとって大きすぎた。
歩きすぎた足は疲労を訴え、肩にはランドセルの紐が食い込んで痛み、人気の少ない真昼の住宅街に責め立てられている気がして唇を噛み締めるしかなく、泣くまいと耐えていた瞳が潤んでぼやける。
立ち並ぶ家々の壁、終わりのない道路、すべてがこちらを拒んでいる、とんでもない異世界に迷い込んだ気分だった。
それでも抜け出そうと必死に動かしていた両足を止めたのは、延々と続く白い壁の所為だ。
壁伝いに進み途切れた所の角を曲がろと考えていたのに、肝心の壁がなくならないので曲がろうにも曲がれず、この調子ではきりがないように思われた。
今ならさすがに冷静に判断できるけど、小学生の、しかも迷子中の思考能力では限界だったのだろう。
もう私、うちに帰れないんだ。
呟くと現実感が増す。
絶望の底に叩き落とされ、鉛の靴を履いたみたいに重たい足を抱えてその場にしゃがみこんだ途端、我慢していた涙がぽろとこぼれた。
一度決壊してしまえば後から後から絶え間なく溢れ、自分の意志ではどうにもならない。
そうして車の通りもない道の端で一人しゃくりあげる私を見つけてくれたのが、清行さんだった。
魔王の城でも囲っているのかというほど長く果てしなかった壁の内側は、当然空っぽのはずもなく、長さに比例するように広い庭があった。
清行さんはその庭園を管理しているらしいおじいちゃんで、手入れをしている最中に座り込んで泣いている小学生に気づきとても驚いたそうで、どうしたどうしたと優しく声をかけ、うまく答えられない私の話を辛抱強く聞き、家へと連絡してくれたのだ。
両親が迎えにくるまでの間、庭内に置かれた何やらえらく値の張りそうなベンチへ招かれた私は清行さんが持ってきてくれたジュースを手に、隅々まで手の入った花々や緑に目を奪われていた。
家族旅行で立ち寄った花畑、学校の花壇、以前の家の近くにあった市立公園、どれとも異なる美しさが、燦然と広がっている。
涙などとっくに渇き、恐怖と不安も何のその、そっくり忘れ去った有り様に清行さんは苦笑して、呆ける私の隣に腰を下ろす。思わず見上げて素直に伝えた。
『お庭すごい、綺麗だね』
『今日は特別だからなぁ』
降る光に満ちた景色と、交わした言葉だけが、いつまでも心に残って離れていかない。

その後すっ飛ぶ勢いで迎えにきた母親はとにかく平謝りしていて、私も私で盛大に怒られた。
夕食の時、家族全員に笑われる。
後日あらためて菓子折りを手に、清行さんへ謝りに行った。
普通ならそこで綺麗に完結する縁は途切れなかった。
綺麗な風景と、それをつくる人、特別だからなぁの一言にこもったあたたかな響き、いっぺんに魅入られた私はいい加減にしなさいよと嗜める母の目を盗み、輝きを集めるだけ集めた場所へと足しげく通った。
はじめは、また来たんかい、困ったみたいに笑うだけだった清行さんも、いよいよこちらが本気と知れると質問に一つ一つ答えてくれるようになった。
当時はちっとも理解していなかったが、おそらく雇い主にきちんと許可を取ったのだろう。
普通は知らない家の子供なんか入れないはずだから、清行さんの庭を捧げられているその人はものすごく心がおおらかなのだ。
ちなみに、広すぎる庭園に圧倒され管理されている公園か何かかと勘違いしていた私が人の住む家も中にあるのだと気づいたのは、しばらく経ってからの事だった。
正直に話すと、嬢ちゃんは落ち着いて周りを見る癖つけなきゃなぁ、豪快に笑い飛ばされた。
春になったらなんの花が咲くの、私チューリップ好きだよ、暑いから清行さん倒れないでね、台風来るけど大丈夫、冬でも咲く花ってあるんだね、この葉っぱはなに、この花見たことない、私もちょっと手伝いたい。
鬱陶しいと払い除けられても仕方のない、子供じみた言葉にも丁寧に応対してくれる清行さんは、一見怖そうなおじいちゃんなのにとても優しかった。
どうしてあの日が特別だったの?
聞けば、
『そらなぁ、大事な人をお迎えする為に庭の仕上げしてたとこだからよぉ』
誇らしげな表情が返る。
旅行の度、お土産を買って持っていった。
修学旅行先で見かけた花が気になって、描いた絵を携え聞きにいったら図鑑を広げて教えてくれる。
犬を飼い始めて、散歩の道すがら寄るようになった。
雨の日は寂しい。
晴れれば駆け転ぶ勢いで向かう。
氷帝中等部に編入が決まって、入学式より前に制服を着て見せにいくと、おっきくなったなぁと頷きながらあたたかい掌で撫でてくれた。
小学校の卒業式帰り、顔を見せたら目尻の皺を深くして喜んでくれた。
万全の態勢で挑んだ中等部入学式の帰り、すごい挨拶をしている人がいたんだよと跡部君の事を話せば、なるほどなるほどと一人納得しきりの様子で、首を傾げる私ににやりと笑ってみせる。
天文部の手伝いをはじめた事、手伝いが本格的な入部になった事、だからあまり来れないかもしれないと項垂れて伝えると、おれが落ち込むならわかるがなんでちゃんががっくりしてんだ、目元をやわらげて見るからに重量のある袋から堆肥を取り出していた。年齢に似合わず力持ちだ。
部活で起きる珍事件、星座に少しだけ詳しくなっていって、天体観測目的で行った合宿が楽しかった事。
家の事、学校の事、友達の事。
越してきてからこちら、私の日常にはいつもちょっと顔の怖い、けど声と中身はうんと優しいおじいちゃんがいた。
親や友達にも話せない事も、この庭に来ると、顔を見ると、何故だかするする口から飛び出てしまう。
近況や私の考え、思った事を一番よく知っているのは清行さんだと言い切っても過言ではないくらい、なんでもかんでも言葉にした。


「あ、いた! 清行さん!」

跡部君に殊勝な心掛けだと言われた次の日、部活も掃除当番もなく早めに帰る事ができたのでお供の犬といつもの裏口らしき門あたりを目指していれば、想像と違わぬ位置で道路へと出て剪定に励む後ろ姿を見つけ、脇目も振らずに駆け寄った。
おう、と振り返る清行さんは、

「どうだい、花長持ちさせる方法、見っかったか?」

にかっと歯を見せて笑う。
何年も通い続けていればお気にいりの花も見つかってくるもので、ある一輪を熱心に見つめていた私に切り花にすっから持ってけ持ってけと言ってくれたのは、先週末の事。
恐縮して辞退したものの、だーいじょうぶだ、くれてやれって言うはずだから、と庭の主たる人物の気持ちを代弁する清行さんは、さっさと綺麗な花弁に相応しい綺麗な包みを用意している。
突然の思いつきではない事くらい、私にもわかった。
いいな、この花可愛いな、と前々からよく目を向けていた自覚はあったし、最早実の祖父母より長い時間を過ごしているだろう清行さんに見抜かれないはずもない、あらかじめ雇い主の人へ花を分けてもいいか尋ね、その辺の新聞紙ではないものも手配してくれたのだろう。
可愛らしい薄桃色の花びらに、上品な色合いの包装紙がよく似合っている。
勿体なくて捨てられなかった私は、花ばかりか包みまでもしっかり保管しているのだった。

「頑張るつもりだけど……私素人だし、不安です。それより、詳しい清行さんに教わりたかったよ……」
「駄目だ駄目だ、こういう事ぁ自分で考えなきゃよ」

ハッハッと舌を出して尻尾を振る愛犬の頭を撫でる手には、年季の入った皺が刻まれている。春も終わろうとしていて、梅雨に向かうさ中の日差しに焼けた肌は小麦色だ。
灼熱の季節を前にこれでは、今後一体どうなるのかちょっとだけ恐ろしい。いつか本当に焦げちゃうんじゃなかろうか。
でも私は清行さんのしわしわの手が好きだった。
どれだけ人のために庭を手入れし、心を傾け、数多の時間を捧げてきたのかがよくわかる、物言わずして歴史を語るあったかい手なのだ。
ちいさい頃は撫でてくれた事もあったけれど、最近ではめっきりそれもなくなってしまった。
寂しくないと言えば嘘になる、が、大人になっていく過程で線引きされなければならないというのなら我慢しようとも思う。他ならぬ清行さんの判断だ、間違っているはずはない。

「ま、ま、大事に生けてやってくれな。したらみーんな喜ぶから」
「みんな?」
「みんなだなぁ、ああ、みんなだみんな」

首にかけたタオルで汗を拭った清行さんが、やけに唇の端をゆるめながら作業に戻った。
我が家では末っ子扱いである愛犬が、もっと構えと作業着の足元にまとわりつく。

「……あの、気になっていた事、聞いてもいいですか?」
「なんだ珍しい。昔のちゃんは気になった事ならポンポン聞いてきたもんだが」
「む、昔は置いといて! どうして…どうして、花をくれたりしたのかなって。
私、そんなに物欲しそうな顔だった?」

いくら清行さんが優しいおじいちゃんとは言っても、仕事で庭を管理しているのだ。
無償ではない。
そこには賃金が発生し、雇っている者と雇われている者が存在している。
木々や花を鮮やかに生かし愛しているのは確かに彼だが、所有しているわけじゃない。
持ち主は別にいて、清行さん一人ではできる事とできない事がある。よく考えなくても当たり前の話だった。
選択権を持つ主の元へ話をしに行くほど、自分は図々しい態度をとっていたのだろうか。
はじめて花を分けて貰えて、それも自分が好きなものだったのが嬉しかったと同時に、大事な人のためだと語った庭を踏みにじっていたらと恐れ、いい加減迷惑なんだからやめたらどうだという天の声に少々苛まれていたのである。

「そりゃーなぁ、ちゃんは昔馴染みだしなぁ」
「……それだけ?」

訝しむ私に、いやいやいろんな事が重なった結果だわな、と清行さんが笑い飛ばし、とりあえず余計な気遣いするとこじゃねぇぞ、続けた。

「ありがとうって笑って受け取ってりゃいいのさ。それともなにか、ちーとも嬉しくなかったか?」
「そんな! あるわけないじゃないですか! すっごく嬉しかったから困ったのに!」

とんでもない発言に慌てふためき言い返せば、反応をあらかじめ予測していたとしか思えぬ横顔に頷かれる。
わかったわかった、あの花の贈り主にも言っといてやっからよ。
妙に引っ掛かる言い草の上、ゆるみの窺える声色だ。ともすれば面白がっているようにも取れる。

「贈ってくれた人は、清行さんじゃないの?」
「おれはまぁ贈った人でもあるが、正確には花育てた人だからなぁ」
「………そっか。じゃあ、本当にありがとうございました、とても嬉しかったですって言ってたって、伝えてくれますか? 清行さん」
「おお、任せとけ」

綺麗な庭をつくる人も、つくらせているであろう家の人も、みんながみんな優しいのだと思った。
私の様子を間近で見ていてくれたのは清行さんで、花を持っていっていいと許してくれたのは彼の雇い主なのだ、おそらく。
しかもこんなに広い敷地を持って、美しい庭を維持する、気後れしてはっきり聞けないままだけどだいぶお金持ちの人っぽいのに、懐ばかりか心にまで余裕があるらしい。
身に余る施しを受けた報いとして、ばちがあたりそうで怖い。
心中で手を合わせ拝む気持ちでいた私の耳に、にしても、と話の向きを変える清行さんの声が響いた。

ちゃんは本当最近変わった変わった」
「そうですか?」
「なんだ、ここに来ても、ぼーんやりしてる時があっからなぁ。悩み事でもあんのかと見てれば明るく喋り倒して帰る時もあってよ、こらぁ好きな男の一人でも出来たかって思ってたとこだ」

ぎくりと肩が強張る。
喉はあっという間に塞がって、冷たい掌でお腹の中を撫でられる感覚に襲われた。
顔がよぎったのは、一瞬。
名前までくっきり浮かぶ前に振り払う。
違う。
違う、だって好きじゃない、好きじゃないから大丈夫。
繰り返せば繰り返すだけ、胸が詰まってしくしくと痛んだ。

「おいおい……良くねぇ相手かぁ? 変なのに捕まったらおれは泣くぞ、そんな顔すんならそいつはやめときな」

思った以上に硬い表情で長々と沈黙してしまっていたらしい。
園芸用の鋏を持つ手を止めた清行さんの眉間には険しさが浮かんでいて、我に返った私は完全に焦りを隠せぬまま答えるしかない。

「そ、そんなんじゃないし! 好きな人とか……いないです」
「ほんっとーかぁ?」
「ほ…ほんと」
「ま、あんましつこくは聞かねぇけどよぉ。自分に嘘ついて無理したって、碌な事ねぇぞ。その内、あー駄目だぁって時が来ちまうんだからな」

ぐらぐらと揺れていた、心のやわい所をがつんと殴られる感じだった。
人生の大先輩のお言葉は説得力がある。あり過ぎて困る。
使い込んだリードを握り締めても否定の言葉が見つかるはずもなく、何とか耐えようと俯く私の顔を、散歩の続きをしようよ、と誘う愛犬がつぶらな瞳で見上げていた。
うんともすんとも答えられなくなった私は、職人らしく黙々と作業を続ける清行さんへ早々に別れを告げ、逃げ帰るようその場を後にしたのだった。





×