02




走っているわけでもないのに苦しい。
息がうまくできない。
目の裏が熱くなって、心臓の音がいやに耳について、泣きたくなくても涙が溢れる。
他の誰でもない、自分の体や感情だというに制御できず、ひたすらに持て余してしまう。
突発的な衝動じみた現象を人は何と名づけてきたのか、誰かに問うまでもなくとっくに知っていた。

清行さんの見立ては正しい。
見て見ぬふりをしていたところに突きつけられ、何も言えなくなった私が悪いだけだ。
重ねに重ねた蓋を抑えつけ、底の底からかすかに聞こえる音に耳を塞ぎ、どうにかして堪えようと心に決め始めた頃、それでも口をつく感情に負かされた。
親でも友達でもない、清行さんにだからこぼしてしまえたんだろう。
憧れだとか純粋にすごいなと思うだとか、そういった有り体の言葉や気持ちにかこつけて、名前と詳細なやり取りなどは伏せた上で、彼を語ってみせた日が何度かあった。
日に日に膨れていくものが一人で秘めているには重く、抱えきれなくて、どうしても形にしなければやっていけなかった。
そんな私が急に学校での話をしなくなれば、誰だって不審に思う。
何かあったのかとすぐさま聞いてはこなかった分、清行さんは大人でとても優しい人だ。

できなかった。
前のようには話せなくなった。
学校であった事を語れば、いやでも思い出さずにはいられないから。
何にでも関連付けて、ひた隠しにしていた名前をかたどり、胸の底で今も溢れている光色をした水の流れに取り込まれかねない。
好きじゃない。
好きじゃない。
好きじゃない。
繰り返し唱えてきた魔法の呪文はその効果を失くし、今となっては唱えれば唱えるほど逆の方向へ気持ちが進む呪いと化している。

星座の話、ちゃんと聞いてくれたんだよ、すごく嬉しくて、ちょっと泣きそうになった。
私、跡部君と一緒にいるとすぐ嬉しくなって、でも同じくらい辛いんだよ。

時間にして数十秒にも満たない話が、何だって話せた清行さんにも言えない。



中等部最終学年である三年生に上がって最初の日曜日だった。
散々部員達を悩ませてきた部長と顧問の両名が珍しくミスもせず、スムーズに学校施設の使用申請が叶い、午後の明るい内は新三年生による部室の掃除、日が落ちてからメインの天体観測をするという計画だった。
――はじめの内は。
部長が整理整頓からは程遠い死ぬほどマイペースなタイプだったのが災いし、大掃除も目じゃないくらい徹底的な浄化作戦へと様変わりしたのである。
予定よりも時間を食い、観測するだけのはずだった下級生達はもれなく巻き込まれ、本来の目的を遂げる事ができたのは校舎が暗闇に包まれてから一時間弱。企画倒れもいいところだ。
わざわざ休みに天文部の為に登校してくれる部員は少ないというのに、その貴重な人員にまで被害が及んでいては、そりゃみんな顔を出さなくなったって仕方がない。
現に集まったのは両手で数え切れる程度で、部に籍を置いている人数の半分の半分以下だった。
この状態で、なんで活動が許されているんだろう……。
掃除で疲労困憊しよれた体が悲しい、遠い目になるも、普段は足を踏み入れる機会のない夜の屋上へと出てしまえば不思議な高揚感に支配される。
春の夜空は少しぼやけて映る。
冬の張り詰め澄んだ空気と比べるのがいけないのかもしれない。
とろとろと流れる墨色が天を覆い、裾のあたりで街灯りに押され煙っていた。
まるい空には雲ひとつなく、月は猫の爪のように細い、絶交の観測日和だ。
どういう経緯で手に入れたのかが謎の、部に一台しかない高級な望遠鏡を熱心に覗いている部長の横で、寄り添うように座る友達の背中があった。
よそでやれ、と悪態つく者がいないところが天文部の長所である。
みんな空を見上げるのに夢中で、かくいう私も気になったのはほんの数秒だけ、あとは星座早見表と照らし合わせるのに集中したから周りの様子は覚えていない。
墨に似たものから濃紺と漆黒の狭間色へと変わりつつある空に散らばる星々が、気の遠くなる時間を越え、ちいさな宝石が静かに輝くような、冬とは異なる穏やかな煌めきを私達に見せてくれている。

どれくらいそうしていただろう。
望遠鏡を代わる代わる覗き、銘々あの星がどうだ、この星が好きだと語り合い、そういえば座り込んだお尻が冷たいなと思い始めたところで、いつもならとっくにご飯を終えてお風呂から上がっている時刻を告げた先生が続いて終了の声を上げた。
星を見るならまだまだこれからが本番だが、学校を使用している以上無断で引き伸ばすわけにもいかない、各々後日レポートを出し不定期で発行している天文部新聞にてまとめる事が決定し、観測会はお開きとなった。
友達は当然部長と一緒に帰るし、他の部員達も家の方向が同じ者同士で固まっては散っていき、忘れっぽい人の代わりに部室の戸締りを確認する役目を仰せつかった私は必然的に最後の一人だった。
教室の明かりもグラウンド側の明かりも失せる宵闇、尾を引く星の余韻に酔い、暗い足先へ気を配るのも忘れて首を傾け天を仰ぎながら、火の消えたよう静まり返る学び舎を背に歩いていたその時、



一度覚えてしまえば二度と忘れようのない声に呼び止められる。
肩ばかりか首や喉まで竦み、息が一瞬途絶えた。
咄嗟に振り返った唇からは、唯一無二の名前が転がり落ちていた。

「あ、跡部君」

例えじゃなく本当に暗闇から姿を現した彼はTシャツに膝丈のジャージ姿、イメージと正反対にラフな格好だ。テニス部のユニフォームですらなかった。
響く王の靴音が重い。
頼りない外灯しか照らすものがないおかげで、ずいぶん距離を縮めなければ顔色や細部まではわからずじまい、本当にすぐ傍と言うべき近さになったところではじめて、尋常でない量の汗を掻いているのだと知った。
ぎょっと慄いた私に、跡部君が表情を崩さず告げる。

「お前…何してんだ、もう九時回ってるぞ。とっとと帰れバカ」

心底呆れたといった声色に恐ろしげなしかめっ面だった。
通る鼻筋の上、眉間や額には大粒の雫が滴り落ちていて、髪も雨に降られた後みたくしなっている。

「だ、大丈夫。今帰るとこ」

ゆるゆると吹く風が自分とは違うにおいを運ぶ。
家族や友達の誰とも違っていて覚えがなく、周りには誰もいない。
濃い闇と校舎側から漏れるわずかな光しか存在していなかった。
だからこれは、跡部君のものだ。
気づくや否や心臓が壊れそうなくらい跳ねた。
日頃わからぬ事がわかってしまうほどの、とてつもない近さで立っているのだ。

「大体、休みだってのにどうして学校にいやがる。……また天文部か」
「あ、あ、そう、そうだけど、べつに問題があったとかじゃないの!」

またあの間抜けが問題起こしたんじゃねぇだろうな、問い詰める声が聞こえてくるのではないかという剣幕に、急ぎ否定を並べてみせる。
確かにくだんの部長に振り回される事は多いが、濡れ衣を着せるわけにもいかなかった。
鼓動は相変わらず早鐘を打っている、胸元をきつく押さえつけていっそ永遠に黙らせたい。

「集まる日で、今日は……部室の掃除と、観測。春の星座の。だから、今まで残ってて」

文脈を無視し、たどたどしい言葉も跡部君には届いた様子である。

「ハッ、それで? どうせ部室の戸締りでも引き受けたんだろ、頼まれてもいねえのに。お前はつくづくバカだな。好きこのんで貧乏くじなんか引いてんじゃねーよ」

煩わしそうに前髪を掻き分けながら、きっぱりはっきり言われてしまった。
最後に、それでこの時間に一人になってたら世話ねぇな、とぐうの音も出ない正論を突き立てられてはどうしようもない。
両手を挙げて降参。
お白洲で裁きを受ける罪人気分。

「でもあの、悪い事ばっかりじゃないよ? 夜の学校で星を見るの楽しかったし。今日は満月じゃなくって暗いから、いつもよりよく見えたんだ。……は、春って冬と違って空気がぼんやりしてて、星の見え方も違って面白いんだよ。冬より一等星が少なくてちょっと寂しいけど」

沈黙を恐れるあまりいらぬ事まで言い並べた気がする。
完全に挙動不審だ、一向に収まらない心臓の音が煩わしく、隣の彼に聞こえやしないか心配でたまらない。
一旦、息を切って唇に落ち着けと命じた。
跡部君はこんな時間までどうしたの、話題転換に尋ねようとして、すぐさまテニスに決まってる、と思い直す。
ふと首を巡らせればテニスコートのほうから煌々とした光が天空目掛けて上っていて、聞くまでもなく中学生活の集大成である今年、一段と力を入れているのだと肌で感じた。
文字通り氷帝の頂点にて座す王は、地位に甘んじふんぞり返っているだけの王ではない。
結果を出す為の労力、努力を厭わず、光なき闇夜だろうと汗だくになって己を鍛え、成すべきを成さんと走り続けているのだ。
いつもそう。
跡部君は、いつだって光り輝いて見える。
月じゃない。
高温で燃える星、あるいは太陽。
けれど彼には昼も夜も関係ないから、そのどちらでもないのかもしれない。
何ものにも当てはまらず、当てはめられない、たった一人の尊い人。
人間の差というものを思い知る度、足はみるみる萎えて、体の真ん中、私を私として立たせている軸が折れそうになる。
頑丈にこしらえたはずの蓋も割れ、重石は塵と化し、溢れていく。
ここにいるべきなのは私じゃない、嗜める冷静な声と、どうしても抗えない自分。
抑える事のできないそれらは、ずっと心惹かれてやまない、あの美しい庭園へ通い続けた日々に似ていた。

「…………どれだよ」
「えっ」

密度を濃くする黒々とした闇の内に、独り言でない、明らかにこちらへ向けられている音が落ちた。
わかったから早く帰れ、とかそういう類いのものを浴びせられると思い込んでいた私は寝耳に水状態で、どういうわけか隣から消えない声の主たる王様を素早く見返すも、視線は合わない。
跡部君は顎を上向かせ、はるかな星空へと眼差しを向けている。

「お前が今日見た星だ。さっさと教えろ」
「え!」

いよいよわけがわからない。
唐突にもほどがある御召に、いくつもの思考が頭の中を右往左往し出す。
しかしどれほどこちらが戸惑っていようとも、汗にまみれても尚崩れぬ傑物は堂々と立つばかり、一歩も退く様子を見せなかった。
天高くにと放たれる瞳に、薄い灯りの余波が降り落ちている。
濡れた前髪が頬や耳を掠め、綺麗な鼻筋は微塵も揺らいでいない。
隆起した喉仏の横、かたく張った首筋を汗が下り伝っていくのを見、皮膚が粟立った。
うるさいを通り越して最早痛み始めた心臓を胸の上から押さえつける。
唇が震えた。
舌の根は渇き切っている。
さっきと同じ調子で語れる気がしない。
でも。
でも跡部君が隣にいる、と歯を食いしばり勇気を掻き集めて、強張る喉に力を籠めた。

「…あ、の、肉眼だと、見れる数、少ない」
「それでいい」

途切れ途切れの上肩透かしな前置きに、跡部君は間髪入れず許しをくれる。
頬が熱い。きっと、みっともないくらい真っ赤になっている。
夜でよかった。
跡部君が空をまっすぐに射抜いてくれていてよかった。
今、この時なら、多少体裁を繕わなくても大丈夫だ。
かすかな安堵が緊張を緩ませてくれ、深呼吸の機会もくれた。
じゃあまずはと同じく天を見上げ、視線の行く先を巡らせれば、まず立ち位置がよくない事に気づく。
正面から薄いとはいえ校舎の灯りを浴びてしまっている、星の瞬く夜空からは目を離さないまま、三、四歩移動した。
意図せず跡部君の前を横切ってしまった形となったものの何も言われなかったので、引き続きいいポイントを求め歩き、建物や木々の間が広く現時点では空が一番見える場所を探し当てたのだった。

「あ! あれ、北斗七星。わかりやすいと思う」

彼が星座に詳しくないとはあまり考えられない、だって天下の跡部様だ。
何でも知ってそうだし、今更人に教わる事もないように見える。けど、求められたからにはきちんと語らなければならない。
手始めに一番メジャーなものから見つけるのがいいと思ったし、私自身そうして星を辿っていく事が多かった。
不意に細かな砂利を踏みしだく音がする。
代わりに返るはずの声はなく、あれと不思議に思ってその音のほうを見遣るとちょうど、跡部君が最後の一歩で私の傍に立つところだった。
息が止まった。

「どれだ」

体を動かしてきた所為だろう、私のものではない高まった体温が空気を通じて伝わる。
さっきよりもずっと縮んだ距離感だ。
低い響きは頭上から落ちてきているはずなのに、やたらと近い。
言い切りの短い言葉でも、苛立ちや呆れは存在しておらず、静けさに満ちた声だった。
跡部君のにおい。
血管という血管が一瞬にして膨れ上がり、死んじゃいそうだと馬鹿げた事を本気で考えた。
星見に相応しい場を探すのに気を取られ、なんたる愚か者か、何よりも尊重しなければならないキングを置き去りにしてしまっていたらしい。ふらふらと歩く私を咎めずただ黙ってついてきてくれた彼は、本当に平民にも優しい王様だ。

「……あれ、えっと…七個、繋がってるように見えるやつ」

我ながら要領を得ない説明だとは思ったが、跡部君の呼吸音さえ鼓膜を打つこの距離で、明快且つ楽しい解説などできるはずもなかった。
震えを隠せぬ腕を持ち上げ、星のひとつひとつを指し示していく。
疑問を呈する声は響かない。
すぐ傍にいる彼が暗がりに広がる天を見上げたのが、気配でわかった。

「それで、一番下の星から…まっすぐじゃなくて、ちょっと曲がった線を書いてみて。春の大三角形に繋がるんだよ」

自分の声が自分のものじゃないみたく、耳へ飛び込んでくる。
きちんと話せているんだろうか。
私日本語喋ってるの、今。
不安は消えてくれないのに、どういうわけか言葉はするするこぼれていった。

「アークトゥルスと、スピカと、デネボラ……で、春の大三角形」

喉が痛くて熱い。
目も痛い、鼻の奥も心臓も痛い。

「望遠鏡じゃないとちょっとわかりにくいかもしれないけど、アークトゥルスはオレンジ色で、スピカは青っぽいの。春の夫婦星って言うんだって」

秋と異なる、冬には聞こえてこなかった虫の音が流れる。
体の全部が鋭敏になり、一度黙りでもすれば何かが壊れそうで、とても怖かった。
星々を指していた指先が、独りでに落ちていく。
瞬きする都度、目蓋の裏に光の尾が焼きついた。
スピカはおとめ座。連星。大きな星と小さな星が回り合って、一つの光に見えている。和名は真珠星。
アークトゥルスはうしかい座。和名で麦星、ハワイ語だとホクレアといって、幸せの星、喜びの星と呼ばれている。
専門書や図鑑で見た通りの文字を唇で羅列させる中、心はあらゆる記憶を無遠慮に再生する。



東京ではなかなかお目に掛かれぬ雪に降られた日、廊下の窓からテニスコートを眺める横顔を見た。
二年生になった春。
クラス替えで一緒になり、餌に釣られて天文部入りしたじゃねーの、とからかわれた。
授業中、先生にあてられた時の、耳に残る声。
生徒総会でのとんでもないパフォーマンス、球技大会で上級生を差し置き眩い活躍を見せ、テストではずっと一番。
テニス部が練習試合をすると、たくさんの歓声が上がった。
熱の中心はいつも跡部君だった。
席替えで後ろを席を引き当てて、授業どころじゃなくなった時期。
前から回ってきたプリントを手渡され、指切るんじゃねえぞ、意地の悪い形をした唇で笑われた。前日の英語の授業で行われた小テスト中、用紙ですっぱり人差し指の先を切ってしまい、その日は絆創膏をしての登校だった。間抜けは部長じゃなく私のほうではないか、ひたすら恥ずかしくて、はい、と頷くしかなかった。
うだるような夏、休み明けの跡部君の身長は伸びていた。
私はずいぶん前に、成長期を終えてしまっていた。
差が広がる。
どこもかしこも重ならず、遠のくばかりだ。
王様の生誕祭を迎える秋、校内全土がさわさわと色めき立つ。
なけなしの勇気を振り絞って伝えたおめでとうという簡単な一言にも、ああ、ありがとよ、にわかに微笑みを見せて応じてくれる。
運動会では現場を取り仕切るもする生徒会長、テニス部部長としての何者も寄せつけぬ強さを放ち、他を圧倒していた。
部活対抗リレーなどというやる前から勝敗の見えた競技、部長の番をはらはら見守っていたら案の定彼は盛大に転んで見事ビリ、くじ引きでアンカーに決まっていた私は誰も走っていないグラウンドを衆目に晒されながら全速力で駆ける憂き目に合い、もう本当に恥ずかしかった。
見ている人みんなに頑張れとあたたかい声をかけられ、再び用意されたゴールテープを切る瞬間など拍手が巻き起こり、勘弁して下さいと羞恥に腫れた頬を隠し俯く。
それだけでも穴を掘って埋まりたいくらいだったのに、喧噪から離れ、砂まみれのバトンで汚れた手を洗っていたところ、ふと影が差すので鼻先を持ち上げる。
と、想像だにせぬ人物が視界に写り反射的に一歩退いてしまう。
跡部君。
呼ぶより早く、彼が言った。
悪くねえ走りっぷりだったな。
嫌味かというタイミングだが、声色にはちっとも棘がない。跡部君は秋晴れの空みたく健やかに笑っていて、日の光に透けた髪が綺麗だった。
文化祭は、誰よりも働いて誰よりも目立つ。
生徒会にテニス部と、回すべき場所の多い彼はほとんどクラスには顔を出さなかった。
慣れっこである私達クラスメイトは跡部君がいなくても大丈夫な仕組みをつくり、様子を見に来てくれた時恥ずかしくないよう頑張ろうと一致団結して頑張ったが、結局みんなの王様がクラスに合流したのは後夜祭の真っただ中だった。
集合写真のフラッシュ。
花火の煌めき。
とっぷり暮れたグラウンドを飾る、静かなライトアップ。
本物の星も埋もれる光の渦に目を奪われながら、星みたい、と呟く。
地上の星空。
時間の壁に遮られる事のない、手が届く美しい輝き。
招いたのは企画し、実行した生徒会長である跡部君だ。
どうしてか胸がいっぱいになった。
込み上げるものを呼吸に含ませ紛らわせていると、誰に聞かせようとしたわけでもない独り言を横合いから拾い上げるた声が落ちる。たくさんの人達が奏でる音が止まない中でも、しっかり心を捕える音色だった。
なんだよ、観測でもするつもりか?
はっと首を捻れば、こちらへ眼差しを降らせる彼がいた。
淡く、けれど儚くはない光の粒を帯びる瞳は穏やかに息づき、唇はといえば笑み滲んでいる。
き、聞こえてた。
聞かれたくなけりゃ、でけえ独り言には気をつけるんだな。
さざめく数多。
はしゃぐ声々、波立つような空気と、騒がしいお祭りの後に来る、少しの寂しさ。
暗闇の中に浮かぶ光。
打ち上げ花火が宙を駆け上がり、独特の高音を奏でる。
開いた火の色は煌々として地を照らす。
全部が全部あわさって、一つのちいさな銀河だった。
本来中心に或るべき恒星が、何故か私の隣で輝きの光景を眺めている。
その有り得ない幸福を、どうやって伝えたらいいのかがわからない。
わからぬままで、綺麗だね、感じた事をそのまま口にした。
奇跡みたいとは言わなかった。
跡部君は、バーカ、俺が手配したんだから当然だろうが、軽い口調で、でも堂々と断言する。
それからしばらく、生徒会の人が跡部君を呼びに来るまで、二人で並んで星めいた灯りを見つめていた。
お互い何も話さず沈黙を守り続けるなんて、普段じゃ気まずくて絶対無理なのに、この時だけは不思議と受け入れる事ができたのだ。

秋と冬の間、季節の変わり目に風邪を引いてしまい、やっと熱が下がって登校した朝、なるほどバカでも風邪は引くらしいな、と手の甲で軽く頭を小突かれた。
図書館で偶然会ったけれど、私語厳禁の標語を守り会釈だけ交わす。
跡部君がテニス部のレギュラーミーティングがあるとかで急いでいた時、掃除当番を代わったら誠実に謝ってくれたし、お礼も言ってくれた。
晴れがましい空の下で、ラケットを振るう。
雨の日、制服の裾をわずかに濡らしながら歩く背が、振り返って私を見た。
傘持ってないの、思わず聞けば、俺が歩きで来ると思ってんのか、車だから必要ねえんだよ、鼻で笑われてしまった。彼ほどの人でも足元の水気は防げないのかと、しみじみ考えた。
雪の積もった渡り廊下。
息が濁る。
反射する白い光の降った、ブレザーの肩は広くて大きい。

桜が咲き散って、三年生になった。
始業式後の教室で、まだ続ける気か、天文部の事を物好きな奴だと揶揄された。
慣れると意外と大丈夫。
答える私に跡部君がうっすら笑う。
楽しそうで何よりだ、精々最後までやり遂げろ。


跡部君はいつも人の輪の中心にいて、私の心の真ん中にいた。
話題も、注目も、何もかもを集めて離さない。
惹かれる一方の要素が数え切れない、男女問わず圧倒的な支持を得、渦中の有名人であり続けた。
だからその分、出所や真偽不明な噂話もよく耳に入った。
お金持ちの令嬢が婚約者、ミス氷帝を振った、他校に彼女がいる、テニスを優先するから特定の恋人は作らない、実は年上のモデルと付き合っている、追っても追ってもきりがない。
友達やクラスメイトから聞く話だけが、唯一信憑性のあるものだった。
告白した子はいくらでもいる。
でもみんな泣いて帰ってきた。
どうしても諦めきれない勇者の心意気を持った子がいて、一日だけでいいからお願いします、とお付き合いを申し込んだら、俺は好きでもない女の相手をするほど暇じゃない、すげなく且つ至極真っ当に断られたらしい。
そんな臆が一の可能性を掴める女の子が、この世のどこに存在しているのだろう。
途方もない確率に眩暈がしそうだ。
身を縮めて、私はまた一枚、胸の奥に沈める蓋を増やす。
クラスメイトでいられる事だって、かなりの幸運には違いない。その上時折声までかけてくれるのだ、他に何を望むというのか。
傷つきたくない。
終わりにしたくない。
跡部君との全部、あの後夜祭で目にした、小銀河のように輝かせたままで仕舞っておきたかった。
だから――、



(――神さま)

心の底から信仰しているわけでもない、こんな時ばかりよすがにして祈るお決まりの口上だった。
でも私には、他に頼れるものがない。

「思ったよりまともに解説出来んじゃねえか」

もう充分。
充分、幸せな時間を貰いました。
わがままは言いません。明日から、何なら今から、怠けずたゆまず頑張ります。

「……だって、私結構な古株だもん。できなかったら問題だよ」
「籍だけ置いてる連中だって、期間だけで見りゃ古株だろ。そいつらよりお前はよっぽどきちんとした天文部部員だ。遠慮しねえで誇れ。俺が許してやる」

星のかすかな瞬きから目を離さず、細心の注意を払って目蓋を閉じた。
開いた傍から視界が滲んで揺れる。
奥底で抑え続けてきた蓋から染み出、抱えきれなくなった分が、涙として顕れ始めているのだ。
春の闇に全て溶けてくれればいいと思った。
王様に悟られず、自分自身を誤魔化していられるのなら、まだ大丈夫だから。
まだ大丈夫、まだ跡部君の隣で、何でもない話ができる。

「………じゃあ、がんばる。一番は部長だから、二番手くらいにはなれるようにする」

見えない、あえて見ずに済むよう心掛けた暗がりに、跡部君の優しい笑い声がしみていく。

「バーカ、二番目指してたら二番にすらなれねえんだよ。よく覚えとけ」



(神さま)

いい子になります。自分の事ばかり考えるのはやめます。分不相応なお願いをしたりしません。
だからあとちょっとだけ、このままでいたいです。
今だけ。
今だけでもいい。
跡部君の傍に、いたいです。





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