04




秘めた想いなんていうものは、とにかく辛く苦しいものだと思っていた。
実際、自覚が一気に押し寄せた後の数日間はなんでとどうしてを延々繰り返したし、叶うどころか口に出せる可能性すら望めない現実に呆然として、跡部君の隣に並ぶに相応しい人を想像して苦しくなったりと一通り荒れた感情に振り回されたのだ。
失態の数々、見られたくない場面をよりにもよって目撃された事、意に反して体重が増えてしまい気にしていた時期、片っ端から今になって思い出しては誰もいちいち覚えていないよと悶絶する自分を諌めつつ、強烈な自己嫌悪でベッドに入ってもなかなか眠れない。
コンディションなんか最悪中の最悪、それでも机上の花の世話をし続け家族に不気味がられて、友達には普通に心配された。
晴れない霧の内に閉じ込められ、うずくまったが最後動けない。
朝を迎える都度、お腹が痛くなったり熱が出たりしないかと心から願ったりもした。

けれど不思議なもので、一旦落ちる所まで落ちると後は勝手に浮上していく。

いっそ怖いくらい楽観的になり、何故ああも自分に嘘をついて我慢してきたのか馬鹿馬鹿しくなった。
だって、この気持ちが向かう先は跡部君だ。
泣く子も黙るというか泣く子も跡部様と口走りそうな、人心を惹きつける氷帝の王様なのだ。
私一人なんかが想ったところで彼には何の関係もないし、そんなの有り得ないけど気持ちを悟られてしまったとしても王者のゆく道に影響はない。
誰かの好意を受けたとしたって、自らの意に添わなければきっときっぱり跳ね除けると思った。半端に、宙ぶらりんのままにはしないだろう。
万民に温情を施す王様は、きちんと向き合えばその分返してくれる。
こんな風に言い切っていたらお前は跡部様のなんなんだと怒られそうだけど、二年と少し同じクラスにいて言葉を交わしてきたのだから、基本的な人となりについての理解はある程度及ぶ。特別な感情が加われば、尚更だ。
跡部君は頂点にいるべき人で、相応の実力を持ち、同じ教室内で机を並べているのが不思議なほど世界の違う人。
重々承知してきた事実を確かめれば確かめるだけ、とても気が楽になったのだった。
押し隠していた頃は民草その一程度の自分を恥じたりもしたが、胸底の蓋を放った今やその逆をいく。
想い続ける事にかの王は罰を与えない。
黙って見ているだけの存在なんて、もっと縁がないだろう。
だから私は自分で終わらせない限り、跡部君の事を考えていられる。
口にも行動にも出さないのだから迷惑だと眉を顰められる可能性もなく、重荷に感じられてしまうほど近くない、邪魔になるのだったら全速力で退くつもりだけど、その必要もなさそうな位置だ。
すっと胸が晴れ渡った心地である。
認めてしまえばこんなに簡単な事もなかった。
もっと早くに向き合って、思いきり見ていればよかったとすら思った。
氷帝に入学してから今まで色んな跡部君がいたはずなのに、それを変に意識しない為に磨いたレンズで眺めていたのは勿体ない。
くだらない事で一喜一憂する自分自身の事なんか構わず、跡部君だけを一生懸命見たかった。そうしていたらきっと、今の比じゃなくきらきらした中学生活だったろうに。

一種の開き直りの境地に達した私の様子は、見るからに不審だったらしい。
なんかよくわかんないけど、悩み事が解決でもしたの?
友達に問われて笑う。
うん、そうみたい。
即答が疑いの余地を生んだみたいだった。
ええーちょっと何があったの何が、ついににも庭と星以外に大事なものできた!?
机を挟んだ向かい側、我が事のように身を乗り出す友達が無性におかしい。
人の事なんだと思ってるの、返せば、だって私から好きな人の話とか聞いた事ないんだもん、唇を尖らせる。
恋愛事で悩んでいるなどと一言も語っていないのに、彼女の中ではどうやらそう結論づけられているようだ。当たらずとも遠からず。
やっぱりおかしくなって、もっと笑うしかなかった。
緩む一方の頬を自覚しながら、蓋を除けた分広くなった胸の内でちいさく反論する。

大事なものはあった。
清行さんのつくる庭と、空に浮かぶ星々以外にも、私を形作るものは確かにあった。
気づかなフリ見ないフリをしていただけで、本当はずっとここにあったのだ。

一緒に春の夜空を仰いだ事、優しい掌の温度、楽しそうに曲げられた眦の柔らかさ。
多分、私のお守りになる。
これから先、苦しみや悲しみに襲われた時、記憶の中で輝き続けて励ましてくれる、一番の思い出になるに決まってるから、もう本当に充分なのだ。
叶わなくて構わない。
跡部君がくれたたくさんのものを大事に覚えて、私は私のまま生きていくのを頑張れる。
我ながらものすごい掌返しで調子のいい事だとは思ったけれど、胸に宿り続けていた気持ちと向き合えば当然の結論だった。

「一人で笑ってないで吐け、!」
「きゃあちょっとやめてって!」

掴みかからんばかりの勢いで机ひとつ分乗り越えてくる腕から逃げようと身をよじったら、椅子ががたがたとわめき出す。
避けきったと思えば二の手三の手が襲いかかり、ふざけ半分真面目半分の攻防は激化し収束しない。
子供みたいなじゃれ合いがおかしくなったのか、目の前の友人も私と同じような笑みを浮かべていて、私達の騒がしい声は休み時間を迎えたクラス内にまあまあな大きさで響き渡った。







放課後、窓越しにどんよりとした空が見えて、思わず歩み寄る。
半袖のシャツでちょうどよかったこの間は夏並に暑かったのに、今日は肌寒いくらいだ。雨が降るのかもしれない。
サッシのあたりに指をかけて横に引く。
からから軽い音を立ててガラス窓が開かれ、生暖かく、水っぽいにおいのする風が廊下へゆったりと吹き込んで停滞した。
絵具の黒と白を混ぜたような濃い灰色をしている雲は、その内地面にまで垂れ下がってくるんじゃないかというほどぶ厚く、所狭しと敷き詰められている。
冴えない空模様を見上げる私の脳裏に、美しい庭と、その片隅でしゃがみ込んで土いじりに精を出す背中が浮かび上がった。
たかだか数週間目にしていないだけなのに、何年も会っていないような寂しさを感じる私は本当に勝手だ。
足を向けるのは止めたのは他の誰でもない自分自身なのに、今すぐ走っていって清行さんに全部を話したくて仕方がない。
同時に、ちいさな頃から心の中で輝きを放つ庭が気がかりだった。
朝露に似た雨なら濡れた緑は綺麗だけれど、度を越したゲリラ豪雨に襲撃されてしまっては、広い敷地内のすべてが無事に済むとは限らない。
熟練の職人と言っても過言ではない清行さんなら大丈夫だと思うけれど、それとこれとは別問題、心配なものは心配なのである。

結局あの日――跡部君に鍵を拾ってもらった日、会いにいく事は叶わなかった。
色々と容量を超える出来事と感情を処理するのに精一杯で、震えてペダルをこいで帰るのがやっと、人と言葉を交わす気力など尽きていたのだ。
だから尚更、今になって話がしたくてたまらないのかも、思う。
言いたかったのに言えなかった事が多すぎて、何から始めればいいのかもわからない。
けど黙ったままでいるのはもう限界に近いし、散々お世話になってきた清行さんに話さずして誰に話すんだと戒める理性的な自分も存在している。
雨粒が落ちる前に急いで行けばあるいは、考える傍から、でも話すなら時間も天気も気にしないでいられる時がいい、焦れて落ち着かない思考を諭す声が胸の内に反響した。
仰いでも仰いでも晴れる気配のない天が恨めしい。
溜め息で湿る喉が、音にならない声を生む。
(あー駄目だぁって時、ほんとに来ちゃった)
人生の大先輩のお言葉は予言かというくらい、ぴたりと言い当てていた。
せめてあの時からでも、自分の気持ちに素直になっていたらこんなじれったく足踏みする事もなかったのに、悔いたところで時間が戻らないのだとしても願わずにはいられない。
けど残さずきちんと話しきる為に今日は大人しく諦めよう、揺れ動いていた心の水面を鎮め、置き傘なんてないから降ってくる前に帰ろうという決意と一緒に窓枠へ手をかける。
正門へ向かう生徒達は立派な雲の層を見上げたり見上げなかったり、思い思いに歩いている様子だ。
ぬるい空気の塊がなおも雨の予兆を訴える。
レールを滑るガラスが再び音を鳴らす直前、視界の端がなにかを捕えた。
影かどうかもわからないほど一瞬だったから、見たというよりは感じたという方がおそらく正しい。
はっと反射的に首を捻って目に映ったのは、長い廊下の端から歩いてきたらしいその人が、3−Cと書かれた標識の下をくぐった瞬間だった。
声をかけられるより先に気がつくなんて珍しい。いや初めてかもしれない。
癖みたいに強張る肩と途端に騒がしくなる心臓を自覚しながら視線を無闇に伸ばしていると、窓側、ひいては晴れない空へと傾いていたかの眼差しがなめらかに流れて、逸らす間もなくかち合ってしまう。
舌が喉の底まで引っ込む感覚、息の詰まった錯覚、名前を呼ぼうとして呼べない。
一瞬、ほんの一秒だけ、優しげに和らいだ目元の幻を見たが、すぐさま露と消えた。
あの日の甘さはどこにもなく、茶色がかった前髪の奥には射抜くような光がある。
厳しいと言えなくもない、ひょっとすると不機嫌さを表している可能性も含んだ二つの瞳にひるんで取り繕う事もできない。
そんなわけないのに、自分が何事かやらかしでもしたのかと真面目に振り返ってしまう程度には他を圧倒する強い視線だ。
花冷えの廊下を踏む両足が迷い、腰は心なしか引けている。
進むも荒野退けば沼地、身動き取れない状況に陥った私が跡部君と呼べずにいる間に距離を食らった王様は、ポケットに手を突っ込み、顎を持ち上げ、実に尊大な仕草と共に声音を転がした。

「そこで見てたって晴れねえぜ。今日は雨だ。降られる前に、とっとと帰るんだな」

告げられて数拍後、やっと口元が正常に動き始める。

「や…やっぱり、降るのかな?」
「こっから快晴になるとでも思ってんのか」
「思ってない、けど、曇りのまま持ってくれるかなって……」
「持たねえな」

きっぱりすっぱり断言されて続けられなくなった。
そのまま通り過ぎていくのだと思っていたのに、どういうわけか跡部君は立ち止まり、横に並んで相変わらずどんよりした空へ目を向けている。
心臓だけに留まらず胸の中身全部が飛び出してきそうだ。
そういえば二人だけで話すのは自分の気持ちと向き合って以来だと気づき、いっそう緊張が増した。
なんだかもう吐きそう。
というか私、変な顔になってそう。
だけど言葉もなく俯くよりはと、跡部君にならって雲の群れを見上げる。
纏わせていた威圧的なオーラは少しだけ収まったようだがしかし、いつもと同じと言うにはほど遠い。
一体何がここまで王様の機嫌を損なわせているのかまるでわからない。
天気がよくないから、テニスの練習できないとかなのかな。
情報の不足している中、わかる部分だけでも掻き集めなんとか答えを得ようとするも、やはりヒントがなさ過ぎる。
今日の空模様と似て重たい沈黙に耐えかねた私は迷いに迷ったあげく、渾身の力で固まっていた唇をこじ開けた。

「……ざ、残念…だね。テニス、雨だとできないもんね」

できる事なら明日はきっと晴れだよと軽い笑いのひとつでも足したかったが、そこまでやってしまったら声の震えが隠しきれなくなりそうなので諦めた。
半端に開いた窓から差し込む風が、張りつく指に絡んでくる。
跡部君の姿勢は崩れない。
直立不動の様を傍で窺っている内に、もしかしたら機嫌が悪いのではなく何か思い悩んでいる気がしてきて、継ぐべき言葉に迷う。
常人では考えられぬ重圧のかかる玉座に君臨する王の思案事だなんて、力になるならない以前の問題だ。正しい理解さえ叶わぬに違いない。
どうしよう、ここは余計な事を言わないで暇を告げたほうが、と右踵を浮かす。

「お前は」

場違いに高鳴っていた鼓動を抑え込み、静かに呼吸を繰り返す彼の隣から一歩離れかけ、頭上にこぼれたひと声に引きとめられた。
え、と首を持ち上げる。
跡部君はさっきと同じ態勢で、雨雫をこらえる雲を眺めていた。
誰かが階段を駆け下りる音がする。
背後ろの教室から、まだ残っている何人かの話し声がかすかに届く。

「……私?」

続きを待ったはいいが言ったきり唇を引き結ぶ様子にそうではないと悟り、おぼろげに応えた。相槌にもなっていない私の相槌を視線の行方も変えずに打ち返す人の横顔が、降ってもいない雨を疎んじているよう張り詰めている。
残念なのか。
落ちた響きには感情の色がほとんどない。
ただ文字を形にしているだけの独り言みたいで、でも確かにこちらへ投げ掛けている口調だった。
何が何だかわからないなりに慌てて返事をする。
ざ、残念。残念って、雨が降る事が?
必死に言い募る私をちらと見下ろした跡部君は、ちょっと呆れた表情だ。

「……でもねえか、その様子じゃ」
「え、いえ、あの」
「なんでもねーよ」
「でもあの…跡部君」
「悪かった。忘れていい」

頑として固定していた目線を素早くずらし、言うだけ言って私の後ろを通っていってしまう。
急に動き出した王の時間は忙しなく、取りつく島もなかった。
追いすがって尋ねる勇気なんて私にはなくて、ぐるりと巡らせた首で背中を追うのが関の山。
振り返らずに行く人の髪が、曇天時特有の薄暗さの中で揺れている。
顔色ひとつ、窺えない。







氷の帝王は天候すら操るのだろうか。
見た事も聞いた事もない跡部君に戸惑ったけれど、いつまでも留まっているわけにはいかず、学校を後にした私が家に着いてしばらく経った頃、透明な窓を水の粒が滴り始めた。
あのものすごい色の空加減を見れば誰でもわかる事かもしれないが、跡部君が言うと人の倍は説得力がある気がして、屋根を騒々しく打つ雨は彼が連れてきたのではないかという突拍子もない考えが頭をよぎる。
絶対王政を敷く人の些細な揺らぎを垣間見て、私も私で少なからず動揺していたのだろう。
どんな事があっても彼は進む道を間違えず、何事にも影響を受けないし、そもそも関係がない。
そう思って、そう見えたから、叶う確率の低い気持ちに自分なりに決着をつける事ができたのに、思い違いなのかもともう挫け始めている。落ち込んだり浮上したり、我が事ながら目が回りそうだ。
本当に最近の私はおかしい。
友達や清行さんに気取られても仕方がない。
跡部君自身は良くない人なんかじゃ絶対ないけど、私なんかが想い続けるには良くない相手なのかな。
いわゆる、身の程を知れっていう意味で。
聞きたくても聞けない無数の問いが、雨音の響く都度、心に生まれては消えていく。


雨は日付が変わる頃に上がったらしい。
よく晴れた翌日、まだ濡れ色のアスファルトが、朝日を浴びてうっすら光っていた。
跡部君は普段通り席につき、授業を受け、生徒会にテニス部に忙しく指示を出す。私が声を掛ける隙もない。
次の日、前日と同じく。
そのまた次の日、テニス部のレギュラー陣は遠征で公欠、ファンクラブの子達がキング不在の校内はひどく寂しいと嘆く。
それでも滞りなく日々は過ぎ、太平の世はいつまでも変わらずに続くようだった。
安寧と待ち構える学校行事への期待とが重なって膨らむ空気の中、私は溜まりに溜まった色んな事を話してしまいたくてちょっとどうにかなりそうだった。
迷惑な上に勝手だけど、清行さんに全部を打ち明けて尋ねたい事が山ほどあった。
自分の思っている事を昔みたく素直に伝えきって、それから跡部君の様子がおかしい訳を聞いてみたい。
プライバシーに関わるので勿論名前は伏せるつもりだ。
それだけじゃわかんねぇなぁ、とかの庭を守る人はきっと苦笑するだろうが、そこはなんとか納得してもらう。
どんな時も、だなんて大口は叩けないけど、でもとにかく、優しい皺をつくって笑うおじいちゃんは話せば聞いてくれるはずだと信じているし、ずっと信じてきたのである。
跡部君が私のお守りなら、清行さんは私の味方だった。


そうして長い夜が明けた日、部活動予定にはなかったのに急遽集まる事となり、天文部に罪はないが、初めの一歩を蹴飛ばされた気分になって一人項垂れる。
結果として願いが叶ったのは週末。
部活を始めてからはよく訪れていた、お決まりの土曜日だった。
数日前の曇天が嘘のよう、隅々まで青く染まる空は晴れ晴れしい。
軽やかな足取りの愛犬は早く早くとコンクリートを蹴って、私を引っ張っていく。
不思議と気後れはしていない。
久々の面会に対する緊張よりも、溢れそうな感情の波が勝った。
光に満ちる葉の緑が延々と続いていくような壁の内側で輝き目に眩しく、昼を少し過ぎた休日の住宅街は恐ろしいほど静かだ。
人影も見当たらず、走っていてもおかしくはないバイクや車のエンジン音だって聞こえてこなかった。
清行さんの姿は見当たらない。
表からの剪定をしない日なのかもしれない、と裏口あたりへ歩を進めていけば、麗らかな陽気に目蓋の裏までもがほのかにあたたまる。
やわらかな光の粒があたりを染め上げ、また揺らめかせてもいた。
芸のない賛辞だとは思うけど、今日は本当にいい天気なのだ。
まさしく、絶好のお話日和である。
足元で逸る相棒を待って待ってと抑えながら、開け放たれた門前に立つ。清行さんいる、とやや大きめな声をかけてみるも返答はない。
不在の場合はしっかり施錠されている、いない事はないはずだし、大体いつもこうして呼んでいるのだから急に不審者扱いされる事はないだろう。
美しい庭へと続く門はこちらを誘うよう盛大に開ききっている。
少しばかり迷って、一、二歩踏み込んでから再度呼んでみようかと片足を持ち上げた。


「おせえ」


そうして靴の裏が着地する前、耳は思いも寄らぬ声をしっかり聴き分けていた。
人生で一番じゃないかという速さで首を振る。
裏口らしき場所を覗くようにしていた私の、斜め後ろ。
長い壁伝いの道。
慕ってやまない人と、その人がつくりだす庭のすぐ傍ら。
何の気負いもなく、そこにいるのが当然だと言わんばかりの様子で、彼は立っていたのだった。

「び…っくりした、跡部君」

遅れて心臓の音が体中に響き出す。
人見知りからはほど遠い我が家の末っ子、もとい犬がリードを限界まで伸ばしてかの人に近づいていこうとするのを両手で制止するのに気を取られた。
現状把握もろくにできずにどうしてここにいるのと尋ねかけ、

「お前の大好きな『清行さん』はいねえぜ。今日一日、暇をとらせたからな」

理解不能な言葉に何もかもが打ち砕かれてしまう。
どうしての、ど、の形になっていた唇がぽかんと開いたままで固まった。
どうしよう、跡部君の言っている事が日本語なのにわからない。
幻聴かも。
じゃなかったら白昼夢。
混乱を通り越して真っ白になった頭が、それでもただ一人の姿を追いかける。
シンプルでも高価な事だけはわかる普段着らしき格好の夢みたいなその人は、いつもと同じに王様然とした足取りで歩み、やがてゆっくり不敵に笑う。
茶色の髪に揺れる陽射しが差しかかる。
持ち上がった口の端が綺麗だった。

「なんだその間抜け面は」
「う、うん。……うん?」

まるで返事になっていない返事に、跡部君はハ、と声をこぼしてから笑顔になる。

「それだけか?」
「えっ」
「俺に聞きたい事、あるんじゃねえの。聞いてやるから言ってみろ」

言葉のチョイス自体は乱暴でも、口調は決して尖っていない。
脳みそは強制シャットダウンの真っ最中だったが、促され唇だけが答えた。

「あの……どうして跡部君が、清行さんの事知ってるの?」
「うちで雇っているからな」
「……なんで私と清行さんが知り合いって知ってるの?」
「それは、業務日誌を義務付けているからだな。雇い主側が大抵の状況を把握しているのは当然だろ。庭といえども敷地内には変わりねえ、侵入者の有無は報告してもらわねえとこっちとしても困る。まあもっともお前の言う『清行さん』は、必要事項以外の事もいちいち俺様に知らせてきやがる世話焼きなんでな、例外だ」
「………………跡部君」
「なんだ」
「いえあの、その……い、今の話聞いてると、まるで清行さんが跡部君ちの庭を管理してて、跡部君ちで働いてる人みたいなんだけど……」
「バカかお前は。さっきからずっとそうだっつってんだろうが」

1、へえーすごいね。
2、あっそうなんだ。
3、気づかなくってごめんなさい。
いずれかに丸をつけなさい。
頭の中で問題と選択肢がものすごいスピードで浮かび、しかし選ぶ間もなく消えてなくなる。
空回りする思考や緊張や不安感、どれとも違う意味で跳ね上がる鼓動、目の前で広げられた現実、全部が全部一緒くたになって私の体を揺さぶってやまない。
つまり、ようするに、したがって、どういう事かというと。
参考書の例題文めいた文言が、こんがらがったイヤホンコードをほぐすみたく、散らばっていた欠片をひとつの形へと導いていく。

「え……え、え、ちょ…待っ、ええええ!?」

あまりの事態に足が萎えた。
というか折れたかと思った。
がくっと一気に視点が下がる。
頭を抱えて地べたにしゃがみ込むと、ずいぶんと近くまでやって来ていた跡部君が低い笑い声を転がす。

「お前の足りてねえ頭でも、理解出来たみたいだな? …ったく、これだけの事にどんだけ時間をかけるつもりだ。トロいんだよ。いつまでたっても話が進みやしねえ」
「だ…っだって、そんな、そんなの私聞いてない、知らないよ!」
「そうかよ」
「ほ、ほん、ほんとに知らなかった……い、今まで」
「……俺は知ってたぜ」

人目も憚らず、相手が跡部君だというのに配慮できずわめき散らし始めた私の頭上で、ぐっと静けさを増した声色が降った。
呼吸の大元を掴まれたみたいだった。
肺が動きを止める。
地面に近い所で宙を泳いでいた目線は独りでに上向いていく。

「天文部に入ったいきさつも、中等部の制服にはしゃいで入学式前に見せに来た事も、小学校の卒業式終わりに卒業証書広げて来た事も、どこかに行く度土産だなんだと律儀に『清行さん』の分を寄越してきた事もな」

私を見下ろす二つの瞳が、空気に混じった光を反射し輝いている。
ゆっくり丁寧に、なにか確かめるみたいに眦を緩ませた跡部君が、やわな響きで落ちる言葉を紡ぐ。
もうガキじゃねえんだ、迷子になって大泣き、なんてのは卒業しただろ。

「ほら立て、置いていくぞ」

輝かしい王の言葉なれど今ここですんなり従うのは難しい。
どこへ行くつもりなのと尋ねる気力も残ってはおらず、足どころか心までもが折れた心地だった。それもひどい複雑骨折だ。立ち直れそうにない。突っ伏してコンクリートと一体化して干からびたい。
だって跡部君が言っているのは、

「つまり…さ…最初から、全部……?」

そういう事なのだ。
こめかみに置いていた両手をいっそうきつく戒め、自分で自分の頭をかち割ってしまいたかった。
あれこれもどれも何もかも、詳細は省かれていたにしろ筒抜けだったのである。
私は人生で初めて心から本当に全力で願った。
死にたい。
過去に戻ってやり直したい。
清行さんとの思い出が全部、そっくりそのまま跡部君と結ばれた線になって繋がっていく。
私と心優しいおじいちゃんの二人だけだった長年の交流に、叶うのならばあなた場違いですと直訴したい王様がどういうわけか違和感なく収まった。
過ぎた日を遡り、だって、だって、私ほんとに色んな事話しちゃった、いっぱい厚意に甘えてた、と数え上げる途中で耐えられなくなって髪を引っ掴む。
思い出したくないのに脳が断りもなく再生するので、灼熱地獄に落ちたかというほど身悶える。恥ずかしいじゃ足りなかった。
妙な唸り声が喉奥から出かかるし、頬はもれなくどちらも熱いし、もう目は合わせられないから下を向くしかないし、昔の失敗談ならまだしも最近なんて跡部君の名前は伏せてはいたけど話題にした事があったし、あまつさえ好きな人がどうとかいう話へ発展していたし、とまで考えたところで顔の大半を手で覆う。
なり振り構わずうわあとかぎゃあとか大声を上げ、この行き場のない羞恥心ややってしまった感を発散させたかった。
肩を震わせてただひたすらに耐える私の前で、誰かが背を屈めた気配がする。
誰かってそんなの跡部君以外にはいない、いないけど、脳が実感を拒否している。
物言わぬ圧迫感に恐る恐る目だけで確認すると、思った通り目線を合わせてくれた王様が、何度も同じ事言わせんじゃねえ物分りの悪いヤツだな、とやっぱり言葉遣いのわりに優しく言った。
逃げようもない現実に叩きのめされて、でも跡部君の表情や声がちっとも私を責めていない様子に戸惑いを隠しきれず、同時に自制の努力も虚しく速まっていく胸の鐘が重たくて痛い。
混ざりに混ざって区別のつかなくなった感情に押され、本意とは裏腹の言葉ばかりが口をついて出る。

「…な、なん…っでそんな、あしながおじさんみたいな事を……!」
「……誰がおじさんだ」

穏やかだった顔つきが途端に曇る。あからさまにむっとした表情だ。
普段ならごめんなさいといの一番に謝罪を述べているところだが、今日だけは上手く続けられない。

「お前ら血縁でもなんでもねえくせに似てるんだよ。どうでもいい話をいちいち報告しやがって、知りたくもねえ事ばっか増えてったじゃねえか」

顰められた眉が張り詰めていて、眉間の皺がちょっと怖い。
揃ってしゃがみ込んだ私達の間を行ったり来たりしている、愛犬のふわふわとした毛並が視界の端で見え隠れした。
それからまったくもって不可思議なタイミングで、今日は来たな、と跡部君が呟いた。
唐突過ぎてなんの事だかわからず、三秒遅れで清行さんに会いに、庭を見に来た事を指しているのだと気がついた。
答える為に、息を吸う。

「………好きな男はどうした。もういいのか」

吸った傍からまたしても唐突な問いにひっくり返り、へとえの混じった間抜け極まりない音となって転がった。
数度瞬きをしてみても目の前の人はいなくならず、不機嫌そうなしかめっ面も変わらない。
氷帝に君臨する唯一の王に問われたのならば、平民の私など即座に応じなければならないはずだ。
けれど質問の意味や口にすべき返答へ辿り着く前に、被さった表情のおかげで呆気に取られてしまって動けなくなった。
射抜くような瞳の光、厳しいと言えなくもない、ひょっとすると不機嫌さを表している、他を圧倒する強い視線。
何がここまでかの王の機嫌を損なわせているのか、見当がつかなかった。
ひょっとしたら機嫌が悪いのではなく思い悩んでいるのかもしれない、おぼろげな直感が囁いた。
今、すぐ傍で私を見る跡部君は、雨の降り出しそうな空を隣り合わせで仰いだあの日とほとんど重なっている。
瞬時。
沸き上がった衝動が、日頃の自分からは考えられないスピードでもって体を突き動かした。びゃっと野生動物のように後ずさって立ち上がる。

「い、いや…あの、そ、そんなの、い、いないから! 全然大丈夫だから! ほんと!」

もっと違う言い方をしたいのに、一体何がどう大丈夫なのかまったく不明の答えになっていない答えしか出てこない。
まさかここで真実を告げる勇気なんぞ持ち得ていない上、肩や背の後ろを這い上がった恐怖に似た得体の知れぬ感覚が残っているから、簡単な受け答えすら叶わなかった。
落ち着け落ち着け落ち着け、と死に物狂いで繰り返す。
跡部君が知っているのは思いきり挙動不審だった私の心中を読んだ清行さんがそれとなく話したからで、すごく面白くなさそうな顔をしているのはおじさんと言われたのが不本意だったからで、別に意味なんてない。変な事なんてひとつもない。
放っておけば今にも跳ね上がりかねない息を押し殺し、女の子らしくない仁王立ちをしていれば、黙ってこちらを見ていた跡部君がごくゆっくりと膝を伸ばした。
腿のあたりに当てられていた手が骨ばっている。
腕も足も長い。
背と両肩に乗っかっていた陽射しの群れを払い落とし、影をも後退させる強く確かな一歩を踏み出す様は、キングと称されるに相応しい堂々たるものだった。
ついさっきまでだぶって見えていたあの表情は消えている。
変わらない、いつもの跡部君。
けれど何故かおののいた私は彼の歩みに合わせてまとわりつく愛犬を諌める事も忘れて、ただ立ち尽くすしかなかった。
跡部君は口を開かない。
左の肩横を緩やかな風とわずかな体温が通り過ぎていく。
星見の夜が思い出されて、体の温度がたった一秒で蒸発するくらい上がったんじゃないかと本気で思った。
振り返る。
息づく深い緑と春の初めよりは濃い陽の光、汚れひとつも見当たらない白い壁、通い慣れた風景のその中に、脆さとは縁遠い背中が在った。
唇と言わず舌と言わず喉の奥、ひいては肺までもが大きくわなないた。

「……っあ、の!」

目的地など最初から決まっているとばかりに迷いのなかった歩みが止まり、横顔だけが私を見遣る。
片側の瞳の底で彼しか持たない一等の光が静かに流れていて、破裂しかけの心臓が暴れてやまない。

「なん…ど、どうして、教えてくれなかったの」

知ってたら私、もっと色々気をつけた。
それはもう細心の注意を払って臨んだ。
べらべら何でもかんでも話したり、跡部君の言う、どうでもいい話をいちいち報告、なんて絶対にしなかった。
自分の体の一部なのに、口は好き勝手に動く。
本音とはまるで異なったものしか音にならないのがもどかしかった。
もっと他に聞きたい事、話したい事がたくさんあるのに、思いと思いが上手く結びつかない。

「甘えた事言ってんじゃねえ。ちょっと考えりゃ普通に気付くだろうが。うち以外のどこがこの庭を管理出来んだ、アーン?」

本意ではない問いかけではあったけれど、ですよね、の他に相槌の打ちようもない見事な切り替えしをされて言葉に詰まった。
本当にその通りだ、少しでいいから頭を働かせていれば、この辺りで美しく広大な庭園を維持できるお金持ちなんて跡部君の家しかないとわかるはずなのに、なんにも考えないでのこのこと王の屋敷に土足で上がり込んでいたなんて世が世なら打ち首ものだ。
無礼者の馬鹿者としか言い様がない。
やっぱり過去に戻ってやり直したい。
道路を踏む足から順に地底深くまで埋まっていく心地がして、己の迂闊っぷりに嫌気が差す。
ついでに、嬢ちゃんは落ち着いて周りを見る癖つけなきゃなぁ、在りし日の清行さんの声も蘇り、あの頃から進歩していないという事実に打ちひしがれた。


「……はい……」

肩を落とした私の喉からは同じく落ちこぼれた声しか出ていかない。
傍で尾を振る犬の愛らしさがいっそ痛かった。
歩幅二つ分の距離を保った跡部君が、何でもない事のように言い落す。

「俺はお前と、こんな話をする為に待ってたわけじゃねえ」

色々と有り得ない言葉が並べられるからびっくりした。
あまりの事態に、しょぼくれて下がっていた視線が勢いよく跳ねてしまう。

「こっち来いよ」

裏口といえども充分に立派なつくりの門前で、器用に口角を片方だけ上げる人が陽射しをいっぱいに浴びている。
携えられた光の洪水。
蓋をなくした私の心が、共鳴して騒ぎ出す。
飼い主を放って王のお供をする気満々の呑気な相棒が、とんでもない誘い文句を口にした人の足元で愛嬌を振りまいていた。ほんのちょっと前までは私の横にいたのに、いつ移動したのだろうか。気づけないくらい動転していたらしい。
時間が止まったみたく硬直した私を置き去りに、少しだけ背を屈めた跡部君がそら触れや構えやと催促をする我が家の犬の頭を慣れた手つきで撫でてくれている。
道路につくかつかないかの高さで尻尾を全開に振り、今の今まで落ち着きなく歩き回っていたのに撫でてもらえた途端に行儀よくお座りなんかして、私相手の時なんか絶対そんないい子じゃないくせに。人をよく見過ぎだ。
跡部君にかかると、血統書もなく和犬の雑種という事くらいしかわからない愛犬だって、気品に満ちたお利口さんになってしまうのだから恐ろしい。
裏切り者め、と胸中で呟いても余計虚しくなるだけだった。
焦げ茶の毛並から手の甲が離れたと同時、普通にしていても鋭い目つきが私を射抜く。
全身が凍りついた。
でもすごく熱い。
死んじゃいそうだと思えば思うだけ、脈打つ体中のそこかしこが好き好きに駆け出そうとして、もう自分がばらばらになるかのではと真剣に危ぶんだ。
天をも恐れぬ、いやいっそ掴みかかりかねない王が、目には見えないけれど確かに光り輝いているであろう冠を揺らしながら、人の悪い笑みを浮かべて言う。

「うちの庭を散々褒めていたらしいな、ありがとよ。俺も『清行さん』も呆れるほど甲斐甲斐しく細部まで賛美してもらった所悪いが、もう忘れろ。今まで通りと思うな。大昔の記憶を、後生大事に抱えてんじゃねえ」

まるきりヤクザとかその道のお兄さんに脅されている図そのものだ。
だけど何も怖くない。
一見乱暴でも、人相が悪いとテニス部の人達に揶揄されても、他を切り捨てる言い方に聞こえても、彼の眼差しが放つ光には濁りがないから。

「お前の中にある思い出とやら全部、綺麗に上書きしてやる」

自信に満ち溢れ、ともすれば不遜に聞こえる物言いにだって、どこか優しさが潜んでいる。

「今日は特別だ。……お前の為の庭だからな」

ものの数瞬で目蓋が濡れそぼった。
呼吸よりも早く視界が歪んでどうしようもない。
跡部君は氷帝に素晴らしい治世を敷いた、偉大な王様かもしれないけどずるい。ひどい。もっと言うと、意地悪だ。
絶対に私が泣き出すのを見越して言っているようにしか思えなかったし、まんまと涙をこぼす単純っぷりが情けなくも恥ずかしかった。
目元が腫れぼったい。
胸が熱くて苦しい。
息が肺から上がってこない。
顔中を濡らす勢いで溢れる涙が止まらない。
唇に伝うとしょっぱい。
自分の事はわかっても、周りの状況なんかひとつもわからなかった。
私多分、今すごく不細工になってる。
でも、それでもいい。
それでもよかった。


記憶の中で息づく庭は一番綺麗で、私の特別だった。
出会った日からずっと慕い続けて、憧れ続けてきたものだった。
迷い込んで目にした時の衝撃。色褪せない美しさ。
輝く光の降り散る色彩。
小さな頃は純粋に宝物のよう見つめていて、最近ではただ一人を想う時に浮かぶ情景。
それらをつくり出した人が、大事な人をお迎えする為に仕上げていた所だから今日は特別なのだと、部外者でしかない私に教えてくれたのである。
彼が知らないはずはない。
その跡部君が今、なんて。
なんて言ったのだろう。
言外にあの日から今日までの全てを含み語り、彼や彼の為に庭を手入れする人の、特別、に私を招き入れてくれたんだ。
夢かもしれない、よく考えなくたって有り得ない、傷つきたくないもう一人の自分がいくら諌めた所で、嬉しくならないわけがない。


「…泣いてんじゃねえよ。なんとか言え」

無茶苦茶だ。
そんなの無理に決まってる。
だって跡部君は私の一番で、特別で、大好きな人なのに。
平気な顔でなんか、いられない。

お腹の底から上擦った鳴き声がこぼれ出て何も言葉にできないから、子供みたいにひたすら首を振るしかなかった。
手の甲で拭っても拭っても、瞳からの雨は止まない。
その内擦れた薄皮がひりひりと痛んで、余計に涙が染みてしまう。
コンクリートを踏む足音で鼓膜がたわんだ。
鼻をすすり顔を持ち上げても、目の前の人はぼんやりと滲んでいる。
陽の光ばかりでない眩い煌めきのさ中、わざとじゃないかというほどひどい言い草で宥められた。

「5分だけなら待ってやる。有り難く思え、間抜けバカ。だからそのみっともねえツラをどうにかしろ。主賓が来なきゃ、始まるもんも始まらねえだろうが」

吹き抜ける風は初夏の香りを孕み、濡れに濡れた頬にも優しく触れていく。
だけれど跡部君の声はもっとやわらかに笑っているから、どうしたって泣きたくなる。
それでも明るい兆しを逃がすまいと、必死に目元を擦りながら、何度も何度も頷いた。





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