03 春の闇夜は心持ち肌寒く、空気の膜が厚かった。 数え切れないほどの、と言うにはうら寂しいけれど確かに光る星の下、どうしても誤魔化しきれなかった願いを唱えてしまった日から私の日常は、少しずつずれを見せ始めている。 萎む肺を膨らまし、こぼれそうになるものを懸命に押さえつけた。 傍にいたい。 今まで一度も言葉にせず、明確な意志として取り扱わなかった感情が、体の内側から浸食して心臓を掴んでいる。 いっときの幸福が過ぎた後、少しずつ沁みこむ毒と化したのだ。 跡部君ほどの人と向き合いなにかを祈る時みんながそうだとは言わないけれど、少なくとも私には相応の理由が必要で、軽々しい気持ちで思う事、考える事はゼロに等しかった。 だから訳を辿るのが恐ろしい。 辿って、思い知るのが怖かった。 認めたら最後輝かしいばかりだった日々がくすんで、大事な時間のはずが、一片でも思い出すだけで多大な痛みを伴うようなものに様変わりしてしまうに違いない。 それだけは避けたいのだ。 大切に触れて、宝物みたく仕舞い込み、時々取り出してはささやかに眺める事の叶う、とっておきの記憶としてずっと抱えていたかった。 抑え、溢れ出そうになって、また閉じ込める。 涸れない泉に似た想いを埋めるのではなく、ひたすらに上から蓋をしていく。 矛盾を咎める声はしない。すべて含めて沈めたからだ。 でも時折、音が聞こえた。 光を帯び、清かに流れ、私の中から消えていかない本当の気持ちが呼んでいる。 振り払う都度、制御を司る神経は悲鳴に近い軋みをあげた。 そうして気持ちと気持ちがぶつかりすりきれていく中、唐突に気づく。 跡部君は似ている。 思い出の内で輝く、幼い頃に迷い込んで以来脳裏に焼きついた、いつまでも褪せない美しい庭に。 ※ 珍しい事に、その日私は機嫌よく帰り支度を済ませていた。 先日せっかく清行さんに会って春の陽射しに揺れる緑の庭を目にしたのに、心はよそへと傾きいつものよう弾まず、不自然な別れ方となってしまったのを後悔していたから、ここ数日は余計に気分が重たかったのだ。 好きな男でもいるのか、よくない相手ならやめておけ、口に出された途端に逃げ帰るだなんて明らかにおかしい。完全に図星を指されてうろたえた、赤子の手を捻るが如く扱いやすい小娘その一である。 清行さんは私達くらいの年代からすれば物知り博士で、子供の私より何倍も人を見る眼が磨かれているだろう。そんな人相手に、誤魔化しがきくとは思えない。 看破され末問われた場合、うまくかわせる自信がなかった。 延々迷い悩んだあげくに迎えた日曜日、散歩コースを変えた私は清行さんに会いにいかなかったのである。 意図的に避けたのは、はじめてだったように思う。 考えていた以上に足先を翻すのは簡単で、考えていた以上にとてつもなく心苦しい。 あの美しい庭を手掛ける人はとても優しい人なのだ。 それこそ身をもって知っていたので、私が訪れなかった理由を自分が悪かったと責め悔いているかもしれない。 余計な口出しをした所為で、としょげる背中を想像するだけで胸が誰かに思いきり叩かれたみたく詰まった。 けど謝らなくちゃ、思えば思うほど、どうやって謝るの? と問いかけるもう一人の自分に苛まれる。 急に帰っちゃってごめんなさい、だけではあまりにも不自然だ。続きを考えなければならない。 構いやしねぇよぉと清行さんが笑ってくれても、理由を聞かれたら100パーセント返答に詰まる。 洗いざらいすべて話すか、頑張って取り繕ってみるのかの二択しかない。ないが、そのどちらも叶えられる気がしないのだ。 こんがらがる一方の思考回路、罪悪感、好きな男という単語から連想されてしまう人、様々なものに振り回された私は友達に心配されるくらい、思いつめた顔をしていたらしい。 それが今日になってあからさまに晴れ渡っていたので、どうしたの色んな意味で変だよ最近、突っ込まれてしまった。 花がね、と正直に告白しかけ、やっぱりやめた。 なんとなく秘密にしておきたかった。 はじめは私一人だけが知っている事のままで、それから次に明かすのは清行さんがいい。できるなら花を分けてもいいと許してくれたお家の人と一緒がいいなと思ったけれど、そこまで求めるほど厚かましくはなれない。 日々水を取り替え、空気が入らないよう水中で茎先を切り、図書室で借りた本を読み込みメモに書きとめて、弱ってきた時の対処法も調べた。 その甲斐あってか、塞ぎがちとなった日々の支えだった可愛い花はまだ咲いていてくれている。 以前、お母さんが職場でもらってきた花が三日足らずですっかり枯れたのを目撃していたから、それを優に越す期間持ってくれているのは素直に嬉しかった。 持つにしたって一週間くらいだろうと言ってきかぬ家族の意見を無視し、できる限りの手を尽くした自分は間違っていなかった、寝惚けた視界の隅で綻ぶ花びらに心躍った今朝からずっと、浮かれてしまっている。我が家にやって来た花の中で最長記録を叩き出せば、気持ちも上を向くというものだ。 理由や誤魔化し方、問題は山積みだけどもういい、話したい事を話してから考える、細かい事は置いておいてとにかく早く話しに行きたかった。 それにこれは、一つのきっかけだ。 何事もなければずっとおっかなびっくりのまま罪悪感に潰されて清行さんの所へ行けなかったかもしれないし、大事にしてきた花が背中を押してくれたみたいに感じられて、よりいっそう心が騒ぐ。 嬉しさが先行するあまり授業中は上の空、午後からは一秒だって惜しみ過ごして、遠足前の子供並みにそわそわしていたと思う。 先週と違い運悪く今週は掃除当番だ、持てる力を注いで迅速にこなし、足取り軽く昇降口を後にした。 朝、家を出る前から清行さんに会いに行こうと決め、あらかじめ自転車登校を選んだ私は大したものだと自画自賛する。 放課後になってこんなに早く帰りたいと焦れるのだから、徒歩だったら走っていたかもわからない。 急いていた。 浮足立ってもいた。 長い懲役じみた罪悪感や悩んできた事から解放され、謝る機会を与えられたという思いに乗っかって、少しはしゃいでいたのだろう。 「……あれ?」 だからこういうミスをする。 駐輪場まで辿り着き、さあ帰りますよと意気揚々鞄の中に仕舞ったはずの鍵を探り、手ごたえのなさに首を傾げた。 普段は自転車を使わずに登校する私は、鍵を入れるいつもの場所、というものを持ち得ていない。もっぱら自宅と近所用なのだ。 なくしたら大変だから、と今朝は戒める余裕もなかった。 いつもなら絶対気をつけるのに。 後悔した所で後の祭りだった。 鍵はかかっている。自転車も確かに自分のもので、誰かのと見間違えているわけでもなく、こつ然と姿を消しているわけでもない。 肩に下げていた鞄をかごに置き、あらゆるポケットへ目を通して底をさらい、丁寧に確認する。 ない。 じゃあこっちかもと制服のスカートとシャツのポケットの中も掬って、念の為上から二度三度はたく。 ……ない。 待って待ってもう一回、自分で自分に言い聞かせながら胸元と腰周りにそれぞれ手を這わせ、一人二役で空港で危険物持ち込みを疑われた人と疑う人といった状態に陥って数秒、まったく前触れのない問い掛けに全神経を奪われた。 「どうした、」 反射的に声のほうを振り返った。 佇む人の姿を見、私の唇は案の定勝手に震えて揺れる。 感情を含ませる事に意識がいかなかった、でも無感情には響かない、するすると奏でられる唯一の名前。 呼ばれた彼は、綺麗に片眉を上げ訝しげな表情だ。 瞳は晩春のまろやかに濃い陽射しを反射している。 太陽を浴び、王冠に似た光の輪のできた茶色の髪が、男の子なのに綺麗だった。 すっかりすべて見止めてしまってから心臓のわななきが一挙に押し寄せ、遅れに遅れた分、衝撃は凄まじかった。 「か、鍵……自転車の鍵、探してたの」 どうして声を掛けられる距離まで彼が近づいている事に、気がいかなかったのだろう。それほど浮かれきって、鍵の在り処探しに没頭していたというのか。 行き場を失くした視線をさ迷わせると、あまり縁のない場所だったので今の今まで知らなかったが、駐輪場は三年生の昇降口からテニスコートへ向かう途のちょうど真ん中に位置しているのだった。愕然とした。 私のバカ。 周りにちょっとでも意識を向けていたら、跡部君の視界に入り込まない為の注意もできたのに。 避けたいわけじゃ決してないけれど、積極的に会いたい相手ではない。 だって今顔を見て声を聞いたら、ただでさえ危うかったものが、荒海に投げ出された小舟並みに頼りなくなり、激しい揺れにもまれてしまう。 「落としたのか?」 「わかんない…けど、鞄にもポケットにもないから、多分……」 あやふやな説明への応答なのか、跡部君はごく短い息を吐いた。 それだけの事で背筋が凍る。 ごめんなさいが舌の根まで迫り、羞恥は頬を薄い赤に染め、わけもなく大汗を掻くのではないかというほどの焦りに襲われどうしようもない。 「樺地、先行ってろ。俺様の代わりに指示を出しておけ」 「ウス」 くいと首を斜め後ろへ遣りながらの声に応じた一言で、はじめて樺地君の存在に気がついた。少し離れた所に立っていたといっても、常に傍らで控える大きな影に意識がいかないなんて相当だ。 知らず知らず狭くなっていたらしい視界が開けてくると、黒塗りの高価そうなファイルを後輩へ差し出している跡部君は制服で、受け取る側はテニス部のジャージを着込んでいるのにも気がついて、部活前、先に準備し終えた樺地君が主将を迎えに来た事が容易に窺えた。 紛れもなく手間をかけさせた上、彼らが何よりも打ち込んでいるはずのテニスの邪魔までしてしまっている。 血の気が引いた私を置き去りに、上背のある後輩はテニスコートへ、目の前の彼はといえば昇降口から来たんだなと念を押して足元へと目線を落とすのだから、これで慌てなかったら一体いつ慌てるというのか。 「あ、跡部君! いいよそんな、私一人で探せる!」 「フン、鍵をどこに仕舞ったんだかわからねえ、ついでに落とした場所の見当もつかねえ奴がなんだって?」 いいからさっさと探せ。 叱りつける音程でぴしゃりと言い切られ、遠慮の言葉を差し出すのも難しくなった。 申し開きようもない失態にぐうの音も出ず、しおしおと萎えた背中で、はい、と答える以外残された道はない。 先頭を切る制服の背中が太陽の熱にさっと撫でられたのが眩しく、コンクリートに落ちる影はやや薄ぼんやりとしていて、まどろむ春の陽気を物語っていた。 それにしたって、どうしていつもいつも間近になってからじゃないと跡部君の存在に気づけないのだろう。 何かにつけて急に現れたかの王様にびっくりしたり肩を竦ませたりで、出迎えの準備などできたためしがない気がする。 相手側が意図的に気配を消しているだとか、非常に影の薄い人であるとかいう要素があるのならまだしも、天下に轟く跡部様だ。どう考えても自分が鈍い所為だとしか思えない。 一度意識してしまえば、こんなに忘れられない人なのにな。 内心首を傾げていたら、 「…ったく、天文部はお前が一番ましなんだろうが。気ぃ抜いてんじゃねえよ。部活以外でも落ち着いた行動を心掛けろ」 手厳しい叱責に耳をいたぶられてしまう。 反論の余地も潰され、ごめんなさいすみません、以外の台詞を並べられない私は道すがらの隅々へ目を配る跡部君に頭を下げつつ、清行さんにもおんなじような事言われたなあ、と思い返す。 嬢ちゃんはもっと落ち着いて周りを見る癖をつけなきゃなぁ。 豪快な笑い声までもが鼓膜の奥で蘇った。 私って他の人からするとそこまで落ち着きのないうっかりしがちな間抜けに見えるのか。 忙しい人の手を煩わせてしまった情けなさに、謝罪する語尾は萎れて消えた。 いつになく棘が潜んでいるような低い声が重くのしかかり、やがて心の奥深くにまで刺し込んで鈍痛を生む。 だけど自分には全然関係ないはずの、他人の失せ物探しに付き合ってくれている跡部君は、口調はどれだけ尖っていようともやっぱり臣民に優しい王様だ。 嬉しくて、胸が痛い。 憧れや尊敬といった枠組みからはみ出した気持ちに、息の根を止められそうだった。 鞄を抱えた私は雰囲気に押し潰されぬようお腹に力を入れ、帰宅する誰か、委員会や部活へ向かう人、まだまだ様々な気配の残る所を横切り、身軽な跡部君と来た道を戻った。 あからさまに不躾な視線を浴びる事はなかったけど、だからって目立っていないかというとそんなはずもなく、やや離れた所を歩きながら下方へ気を配っている人はどこにいても注目を集めるのだ。 王らしからぬ視線の俯き加減に、探し物をしているのだと人々は遠からず気づくだろう。 噂にでもなったらどうしよう。 知らないフリをすればいいのか、正直に鍵探しを手伝ってもらいましたと告白すべきなのか、ちっとも判断できそうにない。 であれば一秒でも早く目的のものを見つけ出し、みんなの王様を解放して部活へ行っていただこう、これに尽きる。 両肩が縮こまる緊張感と申し訳なさをなんとか振りほどき、つい向かってしまう意識の矛先を無理矢理変えて、くすんだ銀色の鍵が転がっていやしないか目を皿にして探し回った。 が、努力虚しく昇降口までの道筋にはそれらしきものは落ちておらず、早くも不安と焦りに押し流され始めた私は、思いきり頼りなげな手つきで自分のロッカーを開ける。 上履きに、体育の授業で使うスニーカー。 何遍見渡してみても、それ以外にめぼしい発見物はない。 落胆は溜め息にさえなり損ね、胸の奥に奥にと籠もっていった。 工夫もなく困ったなあを頭の中で何度も呟き、床に落ち転がっていやしないかとしゃがんでみる。 制服のポケットに手を入れた跡部君が私の手元を覗き込んだのがなんとなくわかって、鼓動が速まった。 個人的な感情に振り回されている場合じゃないのに、嫌になる。 自分の胸元が発生源である騒音を聞こえぬフリで封じ、桜の花をかたどった根付がついた鍵をなぞるようにして思い浮かべた。 清行さんに出会い、子供の足ではやや骨の折れる距離を越えた先にある庭園へと通い始めた頃だ。 目にも鮮やかな上に可憐な花達に影響され、身の回りをとにかく花をモチーフにしたもので固めていた時期があった。 家族旅行のお土産で健康お守りとして売り出されていたストラップを渡しに行ったら、これは根付だと教えて貰う。 清行さんには相応に渋い選択をしていたので、お花の形してれば自分の分も買ったのに、こぼした私に、あるにはあるんじゃねぇか、土まみれのぶ厚い掌が茎の様子を見ながら笑っている。 物を知らぬ小学生だった。 そうかあるのか、閃きに似た衝撃を受け、お母さんの買い物についていっては店内を探し、とうとう見つけ、理由もなく子供を甘やかさぬ親と交渉した結果、家の手伝いをする代わりに手に入れた思い出の品物なのだ。 それをこうも簡単に失くすだなんて自分で自分が信じられないし、跡部君に呆れられても仕方がない。 注意に注意を重ねて見てみたが、この周囲の床には落ちていない様子だ、区切りをつけて立ち上がる。 あとは教室に行って、三階の東階段にも行ってみるよ。今日掃除当番だったんだ。ほんとに私一人でも探せるから、大丈夫だよ跡部君。 言うつもりで唇を震わせかけたら、私の右斜め後方に立っていた人影がわずかに動き、そのまま校舎の廊下側へと歩を進めていった。 どうしたのと問う前に、一筋の光に似た声を鼓膜がキャッチする。 「……おい、これじゃないのか」 釣られて見遣る。 ロッカーの上、持ち主不明の埃や砂をかぶった靴やら教科書やらが積み重なった群れに何故か紛れている長い定規の端、見覚えのある花の根付が引っ掛かっていて、赤い紐を辿っていけば鈍色の鍵がぶら下がっている 私が声をあげたのは、ちょうど跡部君の指先が届くか届かないかの境だった。 「っそ…それ!」 突然の一声にもかかわらず、硬そうな骨の浮き出た手の甲は動じず掴み取る。 弾んだ語尾を整えた頃には、私だったら少しの背伸びが必要な高さを腕すら伸ばさないで超えた跡部君が、掌中に収まった根付と鍵へ睫毛の先を落としていた。 目の下を這うその影が長い。 視線に灯る色合いは真摯だ。 彼にとっては大した事でないのかもしれないけど、自分の持ち物をまじまじと眺められるのはどうにも気恥ずかしく、ありがとうの言葉と共に受け取ろうとした体が急ブレーキがかかったみたくぐっと停止し戸惑う。 浅く一回、深く二回。 繰り返した所できちんと酸素が吸えない、呼吸とは名ばかり、肺と気管を無意味に刺激していくだけで歯痒い。 掠れた声帯をなんとか揺り動かそうと試み、いつもと同じに落ち着けと言い聞かせていると、視線だけが重なった。 花の根付を見る為うっすらと下ろされていた目蓋が上向き、まばたきに閉じられる事はなく、そのままゆっくりとこちらへ投げ掛けられたのだ。 元々明るいエントランスに陽の光が差して、尚の事眩しい。 「よっぽど盛大にブン投げたみたいだな」 おら、と放られた鍵へ向かい慌てて両手を差し出す。 そんなに鞄振り回して歩いていないよだとか、拾ってくれた親切な人がわかりやすいよう引っ掛けてくれたんだよとか、それらしい異論を唱える暇もなかった。 唇の片方だけを持ち上げた跡部君の瞳が、心なしかやわらかに映る。 射られた私は本能で目線を外し、掌に飛び込んできたちいさな鍵を見つめて、使い込まれた風情と購入当時に比べると色褪せてしまった桜の色をじっと確認した。 大丈夫だ、間違えていない。 今朝机の引き出しから取ってきた時と変わりない。 安堵よりも喜びが先走った。 「私一人じゃ下ばっか見ちゃって、気づかなかったよ! 跡部君ありがとう!」 薄っぺらいただの鍵でなく、思い入れのある鍵だ。 「お前さっきから声がでけえ」 それも今さっきまで息を切らして会いに行こうとしていた相手と関わるものだったから余計力んでいたのだろう、テニス部の誰かから生まれの割に悪人面だと評判の跡部君は、その悪人面がもっと悪く見える微笑みを湛えてはしゃぐ私を嗜める。 熱中していくさ中冷水を浴びせられた心境に陥り、けれどおかげで一気に目が覚めた。 まだ人気は残っているといえども、昇降口は場所柄どうしても音が響く。 指摘はもっともだ。 「そ、そうだよね、ごめんなさい…。私一人だったら見つけられなかったと思う。跡部君、本当にありがとう」 勇んだ肩を沈めつつ、意識してボリュームを絞った。 通りがかりの人には拾い切れるか怪しい小声では心からの感謝が伝わっているか不安で、同時に頭を下げる。 ややあって持ち上げ、向き合う一秒前。 跡部君が喉を鳴らして笑った。 聞いた覚えのまるでない、一種の爽快さを含んだ響きだった。 「バカ、律儀に繰り返さなくていい」 それでいて殺しきれなかったらしい笑みに潤んで、ひどく優しく耳朶を打つ。 目元などひょっとしたらそれ以上だ。 柔らに曲がって揺らめき、春の光を蓄えながら、一心に見つめている。 心臓がぎゅっと限界ぎりぎりまで縮こまった。 何を。 何をだろう。 なんで、どうして、全然わからない。 「声がでかかろうが小さかろうが礼は礼だ、大した差はねえよ。きっちり受け取っといてやるから安心しな」 事もあろうに私なんかを、嬉しそうに、楽しそうに見ていてくれているんだろう。 思い出の根付を大事に握り締める事もできない。 喉奥から得体の知れぬ嗚咽に似た何かが込み上げて、息をするのにとても邪魔だった。 ついさっきまで頼れる働き者だった本能は完全に沈黙し、普段ならば絶対逸らしているはずの場面だというに目先は動かない。 だから、まともに見合ってしまった。 降る声の強さと裏腹に穏やかにたわむ揃いの瞳を、死ぬまで忘れないくらいしっかり目蓋の裏へ焼きつけてしまった。 不意に薄い影が差し、頭の上に掌型の体温が灯る。 他の誰かであるはずがない、ここには私と彼しかいないのだから選択肢なんて一つしかない、突然お化けが現れたとか荒唐無稽なアクシデントが起きない限り自分のものより大きな手の持ち主なんて、一人しか。 あっ、と思った。 はじめはつい弾みでとばかりに簡単にこぼれ、胸の奥でひしめく水面を滑り、次々描かれる波紋に繋がっていく。 熱を帯びた掌が静かに髪を撫でつける。 丁寧でゆっくりとした仕草とは言い難い、ほんの少し掠めた程度だったけれど、それでも壊れものみたいに扱われているのでないかと感じた。 想像するに手首の上辺りが少しばかり額、前髪の生え際にふれている。温もりが数瞬の目眩を呼ぶ。 真っ先に嘘だと声もなく呟いたけれど、何度確かめたって信じられないけれど、それなりに重たげな質感の手の内、指、渇いた皮膚は尊い王様のものだった。 跡部君が私の頭を撫でているのだ。 よくやったと褒め称えるみたいに、もう充分だと労うみたく――特別優しくするように、確かな温度を持って触れてくれている。 じゃあな。 言われたのかもしれない。 この俺様が折角見つけてやったんだから、二度と落とすんじゃねえぞ。 鼻で笑われたのかもしれない。 一体いつ頭の上から彼の掌が離れていったのか、一体どれくらいの時間そこに置かれていたのか、気づかず見送った私には何もわからなかった。なのに均整の取れた腕が視界を横切った一瞬、肘に治りかけの擦り傷があるのははっきりと記憶してしまう。 細かな砂利を踏む足音が遠ざかっていくさ中、数人の生徒が話しながら廊下を行く反響と部活開始時間を知らせるチャイムが混ざり、辺り一帯に深く染み渡る。 燦々と降る午後の陽光、初夏に限りなく近い風、あたたかなにおい。 恐る恐る指を這わせた髪が熱い。 そんなわけないよと理性が戒めるけど、どうしたって熱を感じずにはいられなかった。 他のどんな子より特別で、他のどんな人とも違う。 跡部君の体温と掌の形、指先の硬さ、優しい手つき、つらつらと思い馳せて辿れば、あっという間に体の芯にまで到達して食い込んだ。 蓋が真っ二つになって崩れる音がする。 頑丈にこしらえ、あるたけの重石を乗せて、そう短くはない間ぎゅうぎゅうに押し潰していたにもかかわらず、幕切れは実にあっけない。 あっ、の次は、ダメ、だった。 私、ダメだ。 多分もうダメだと思う。 心の中に落とされた呟きの雫は割れた蓋の間をくぐり抜け、奥底で閉じ込めてきた水源へとまじり消えていく。 「星座の事とかよくわかんないし、ぶっちゃけ毎晩眺めるほどの熱意はないよね。けどそばで見てて、ほんと星が好きなんだなとか彼にとっては超大事なものなんだなってのはわかるじゃん?」 いつ頃の事だったろうか。 暑かったのか寒かったのか、朝か昼か、基本的な情報も思い出せないから、何の変哲もない、他愛ない会話の中で生まれた一声だったのかもしれない。 一途に部長を想い続け、好きな人の傍にいる喜びを枯れさせない友達の言葉が止めようもなく蘇る。 「そうすると、私もなんか星を好きになった気がする。自分の中の好きなものが増えるの。好きだなって思うのは、そういう所?」 小首を傾げて語る彼女はこと恋愛において、暗闇にも負けずに煌めく一等星だった。 完璧に同意できるだなんて言わないけれど、なんとなく感覚で理解する。 庭園の事は詳しくない。だけどとても綺麗で、どれほど手を尽くし、愛情を注いでいるのかはわかる。 そんな素晴らしい庭のつくり手たる人の好きなものは、きっと私だって好きになってしまうだろう。 頷いたらせっつかれたので素直に話したがしかし、のそれはなんか違う、と恋愛話に花を咲かせるつもりだった友達の表情を曇らせる結果となった。 ごめんごめん、謝りつつも私は心に浮かんだもう一方の声を無視していた。 テニスの事はわからない。だけど跡部君が心を傾け、忙しさを想像すれば足りないだろう時間を使って、涼しい顔に汗を滴らせるくらい打ち込んでいる事ならわかる。 入学当初から人並外れた個性を持ち氷帝学園の頂点に君臨する彼の大事にしているものは、きっと何より尊いのだ。 自分の中に自分なりの光を携えている人は眩しくて、傍観者たるこちらまで引き込む力がある。 いつの日も息づく緑の映える庭で、時々我知らず見入ってしまう星で、輝くばかりの日々。 綺麗なもの、美しいもの、目を背けても心惹かれるもの。 私にとっての跡部君だった。 遠くから観客でいっぱいのテニスコートを眺めた。 あんなにちいさなボールを的確にライン内へ叩きつけるのがすごい。 ラケットを手にする姿は、いつでも自信に満ちている。 体育の授業中、クラスの男子に指示を出しながら笑う時の目元。女の子達から送られる情熱的な視線の束を物ともせずに受け止める。 天文部を代表して申請書を出しに行った時、必要事項を確かめる鋭い眼差しと、白いプリントを掴んでいる骨ばった指に、いやでも目立つ泣き黒子。 なんでもない風に名前を呼ばれて心臓が高々と鳴った。 用具入れから箒を取ろうとして戸がぴくりとも動かず一人苦闘していたら、横から伸ばした腕でいとも簡単に開けてくれた。 びっくりしながらありがとうと振り仰げば思わぬ近さでもう一回びっくりした。 肩が強張り、おそれ慄き退くと、どうした。簡潔な一言。 お前の考えてる事はインサイトでお見通しだと言わんばかりに不敵な笑みを浮かべている。 清行さんの花との違いはどこだろうと花壇を見ていたら背後ろで、園芸部に鞍替えでもするつもりか、あからさまにからかう口調が落ちた放課後の事。 時たま気まぐれみたく、笑った目尻が優しく滲む。 出所の知れない噂に一喜一憂する。 おそらくOBの人だろう、高等部の制服に身を包んだ綺麗な女の人と生徒会室前で話している所に出くわし慌ててUターンした。何日か経った後たまたま階段ですれ違い、上品で嫌味なく綻んだ笑顔と共に挨拶をされて、とてもとてもみじめになった。 不出来な自分が恥ずかしい。 跡部君にしてみれば取るに足らない、私にはすごく大切な毎日を、辛い思い出にしたくない。 そういうすべてが、一緒くたになって丸まっていく。 喜びに涙、悲しかった事と嬉しかった事、好きなもの嫌いなもの、幸も不幸も何もかもを抱え込む勢いで嵩を増す感情の波にくるまれてしまうのを止められない。 何を根拠にまだ大丈夫だなんて判断したんだろう。どこをどう見て大丈夫だと思ったのだろう。 全然大丈夫じゃない。 ずっと大丈夫じゃなかった、まったく、ちっとも、少しも大丈夫なんかじゃなかった。 彼方に在っても届く光を放つ恒星からすればコンマ一秒にも満たない、でも確かに積み重ねてきた私の14年間が塗り替えられる。 溢れこぼれた透き通る泉の水に流され、もの皆あえなく飲み込まれる。 後にはもう、跡部君の笑った顔と、人を呼ぶ時の強い声色と、平熱の高そうな掌の感触しか残らなかった。 圧倒的な説得力に、息継ぎもままならない。 一歩でも動いたら最後、たった一人だけを強く想う気持ちの渦から抜け出せなくなりそうで、熱の伝染した掌を握り締めてただ立ち尽くす。 ← × → |