消炭(けしずみ)




何一つ楽しくないだろうにへらへら笑っている顔が気に食わない。

第一印象は薄かった。
立海は県下に名高いマンモス校だ。同じ教室に在籍する生徒を覚えるだけでも苦心し、加えて部員数の多いテニス部に所属している丸井は、移動教室やクラス替えの度に様変わりする顔ぶれなんか気にしていられるか、と放り投げていたのである。
髪の色からして大いに目立つ丸井に声を掛けるでもない。
ねえねえこれあげる、人を動物か何かと勘違いしているのか、軽い調子で菓子を渡して来るなどまず有り得なかった。
むしろそういった類の女子に引っ張り出され、少々離れた位置で傍観に徹してい、大概の事をいいよと軽々引き受け嫌な顔一つせずこなすのが彼女だった。
ほんのたまに通りすがる途で目に入れ、なんだよジャッカルの女版みてえなヤツじゃん、トレードマークのガムを膨らませながら胸の内へと呟き落とす。
つーかやりたくなきゃ断れよな。
当事者の意志をまるきり無視したあげく、勝手極まりない解釈で他人事のように見ているばかり。関わるどころか名前を知ろうともしなかった。
よって丸井が彼女に呼び掛けられたのは、中等部で迎えた三度目の春の終わり、清しい若葉の萌えいずる季節だ。

「丸井くん。私、さっきそこで伝言を頼まれたんだけど……」

声の在り処を振り返れば、右斜め後ろでノートや教科書を抱えた姿が視界を柔く裂く。
何? お前クラス外の頼まれ事も引き受けんの。
シンプルな感想がそのまま飛び出す寸前、多少慌てて引き止めた。
ひどい、せっかく教えてあげたのに、等々絡まれでもしたら面倒だ。
底抜けのお人好しが攻撃的に食って掛かって来るとは思えなかったが、予防線を張っておくに越した事はない。
グリーンアップル味の風船を割り、舌の上へ戻す。

「集合場所が変わったんだって。海林館じゃなくて、ホールの方。時間も十五分早くなったから、遅刻しないようにって言ってたよ」

伝言として託すにはかなりの重要事項である。
クラスメイトが辿る口調から察するに、柳か真田、はたまた柳生か、ともかく優等生派の輩が預けたのだろう、人づてに知らせて来るのは珍しい。
判じながら丸井は溜め息を吐いた。
どういう流れで変更の嵐が巻き起こったのか定かではないが、指定に間に合わせるとしたら放課後の食糧確保時間を縮めなくばならぬかもわからない。

「マジか」
「うん。あ、急ですまないなと伝えてくれって言ってた」

なるほど、発端は柳。
脳内で絞った容疑者の顔写真にマルとバツをつけていく。

「急すぎんだろい。詫びになんか奢れっつっとくわ」
「丸井くんていつもお腹減ってるの?」
「減ってねえ時なんかねえよ」

間髪入れず戻った返事に揃いの瞳を瞬かせた同級生は、ややあってブレザーの外ポケットを軽くはたき始める。
丸井は元気が有り余った弟達の大合唱を連想した。
ポケットの中にはビスケットが一つ。
はたして現れたのは童謡の中で増えていった菓子ではなく、透明なフィルムに包まれた水色のキャンディだ。

「ごめん。こんなのしか持ってないけど、それでもよかったら」

実に控えめな申し出に、そうそうこういうイメージ、いつぞやの傍観者然としていた姿を重ね合わせる。
仰向いた手に乗ったカロリー源も同じく素朴だが、断る理由も選択肢も丸井の中には存在していない。
差し出された気遣いを有り難く掴んで頂く。

「ワリ、ソウゴチ! 伝言もな。おかげで助かったぜ」

えーと、と続きを紡ごうとし、そういや名前なんつったっけ、失念に断ち切られてしまう。
つい言葉に詰まった薄情な丸井に対し、親切心の塊が首を振るいながらあっけなく笑ってみせた。

「ううん、テニス頑張ってね」



ひと度知ってしまえば何もかもが容易い。
防火扉の近くで別れたその後、十数分と経たぬ内に名前を覚えた。
連絡の不手際を償え食糧支給で詫びろと丸井はテニス部が誇る参謀に詰め寄ったものの、暖簾に腕押し、涼しい顔でするりと躱されたので即座に諦める。
切り替えて伝言相手の選別方法について問い質すと、一年の時にクラスが同じだったんだが、それがどうかしたのか、事も無げに返され腑に落ちた。

件の善人は成績優秀者だが、朝に弱い。
朝練後の栄養補給に時間を掛け過ぎた為に遅刻寸前の丸井と、激しく乱れた肩の持ち主が鉢合わせになったのは数知れず。
昇降口に程近いピロティであと一分しかないと慌てふためき、焦るあまり上履きを逆に突っ掛けた彼女が幼稚園児並の豪快さでびたんと転んで、数歩先まで進んでいた丸井は急ブレーキを掛けて停止した。
私は大丈夫だから先に行って、死亡フラグじみた台詞を息も絶え絶えに囁かれ、んじゃそうするわなどと甘えるわけにもいかず、床に突っ伏した腕を引き上げてやった瞬間、無情なるチャイムが鳴り響いた日。
一応保健室へも寄り事情を説明したのだが、結局は仲良く叱責を受ける事となった。
丸井くんまで怒られちゃってごめんなさい、消え入りそうな声に思わず吹き出し、途端にチューインガムが弾けた。

間抜けなくせして他人をよく見ている。
だからあれもこれも引き受けてしまうのだ。
無論相手から頼まれもするが内半分は、私も手伝うよ、私がやろうか、自ら申し出ている様子で、マジかよジャッカル以上じゃん、尊敬しつつ呆れもした。
丸井はそういう、つい先日まで名前すら知らなかった、今では出席番号も暗記しているクラスメイトの女子を、単純に‘いいヤツ’だと思っていた。
空腹感を武器にせがめば、大なり小なり菓子を寄越す。
余所を当たってくれなどと断られた覚えは一度もない。
頑張ってね。
何かにつけて穏やかな声でこちらを励ますので、生真面目の中に包まれている優しい心根を見出した思いがした。
友人に付き合わされた事が丸わかりの所在ない様子で、テニスコートの端に佇んでいる。
何遠慮してんだよ、どうせ見に来たんならもっと真ん中の方で見てろい、集まる衆目の一切を無視した丸井に目を見張りながらも、いとけなく首を縦に振った。
わかったよ。ありがとう丸井くん。
テスト範囲を見事に当ててみせる手練れだ。
ややこしい数学の公式を噛み砕き、わかりやすく教えるのも得意だった。
教諭によって異なる課題の傾向にも詳しく、お陰で危うげにふらついていた合格点を越える事に成功する。
おい、あんま家庭教師扱いしてやるなよ、同情を禁じ得ないといった表情のジャッカルに窘められ、してねーだろいと不服を訴える。

口うるさくない異性の優等生はどこか新鮮だった。
いつまでも早まる気配なき登校時間が丸井にまで馴染んで、どうして左足ばっかケガしてるの? 不思議そうに傾ぐ双眸は底に薄い白光を蓄えており、何の種目にしろ天才的妙技を披露してみせた体育の授業や、どの班よりも美味なる品々に胸を張った調理実習、あらゆる場面で自己主張を伴わぬまま丸井の日々に映り込む。
あまりに何気なかったので、ぶれないお人好しの軸の揺らぎになかなか気付けなかった。


用具倉庫の手前でしゃがみ込んでいる。
縮こまった肩を二階の窓辺から見下ろす丸井は、大して近い距離でもないのにぴたと探し当てた自らの変化を素通りし、んなとこで何してんだよ、ところでなんか食いもん持ってねえ、相手に届くように声を張り上げ掛けて、すぐさま閉じた。
さっと膝を伸ばした少女の傍に、誰だか知れぬが男子生徒が現れる。
距離を詰めた両者は立ったままで二言三言交わしており、校舎に対し背を向けている男の顔は窺えない。上背があるものの、厚みはなく縦に長いばかりなので運動部ではないのだろう。
見なければ良かったと、のちに丸井は跳ね除けた。
だが見ておかなければならなかった事だとも丸めた手の内に仕舞った。
焦りや緊張から来るものなのか何度も耳へ髪を掛けて、そんな事ないよと声まで聞こえてきそうな掌の振り様が目につき、少女は全身で気恥ずかしい、照れ臭い、瑞々しく訴えている。
丸井の前ではちらとも取らなかった態度だ。
硝子窓のサッシに引っ掛けていた肘が揺らいだのもつかの間、眼下の風景に異変が起きた。
第三者が闖入したのである。
歓談していた様子の男の方へ自然に身を寄せたのは幾分髪の長い少女で、先程までしきりに肩を弾ませていたクラスメイトはといえば後退している。あからさまな遠慮振りだ。
かと思うと二人の女子生徒は互いに歩み寄って楽しげに笑っている為、どうやら勝手知ったる仲らしい。
やがて手を振り合い、一対と一人きりに別れていく。
取り残されたお人好しは立ち尽くし、友人と思しき彼らの去り際をじっと見送っていた。
たかだか数秒。
けれど膨大な空気を伝って滲む彼女の感情は豊かだ。
瞬時、丸井の周囲のみに無数の縫い針じみた、目には見えない棘が降る。お陰で身動きも取れない。ひと度踏み出したが最後、耐え難い痛みが容赦なく襲いかかって来るだろう。
踵を返し倉庫側へと数歩寄ったクラスメイトが、再び腰を下ろす。
探し物をしているのか平らかな地へと視線を這わせていて、遠くからでも熱心且つ懸命である事が感じられた。
灰色のコンクリートに向かって曲げられた首筋、なだらかに靡いた髪の下から白い項が現れ、煌めく陽光に照らし出されて嫌でも浮き立つ。
丸井は息継ぎを忘れた。
屈んだまま移動する頼りない背中は、倉庫の壁が生み出す暗へ飲み込まれていく。
白昼で在っても光の差さぬ物陰に紛れ、恐ろしげな黒色で覆われてしまい、その深さに舌の根が渇いて飢えた。
影響を受けた拳に走る太い血管がみっともなく震える。
あたかも焼け焦げたのちの、鮮やかな色彩全てが失われた奥へと進む彼女だけが、燻る火の粉のようだ。
陰影の只中にあっても尚存在し続け、いくら丸井が躍起になって消そうとしても燃え残り憑りついて、いつでも熾せるのだから無駄だとばかりに種火と化す。
目元か額のどちらかをゆっくり拭う仕草と、枯れて萎れた花もかくやと俯く後ろ姿に心臓を抉られ、つい先刻まで発しようとしていた声の中身を取り落とした。
明るい学舎にて溢れ零れる、はしゃいだ喧噪が遠い。
他人をよく見ている、お人好し、いいヤツ。
大概の事なら微笑んで応じ何気ない日々を送る優等生だって、傷を負えば血も涙も流すのだ。
ごく当たり前の現実に愕然とする丸井は、そう言う自らも体の中心に杭を打たれた強烈な痛みに見舞われているのだと数瞬遅れで考え至った。


「何、お前ってああいうのがタイプなの?」
「えっ!」

確信で腐りつつある胸の奥をひた隠し含んだガムは可笑しいかな、気に入りの銘柄だというに一段味が落ちた気がしてならない。
おまけに随分と前から枷とも感じなくなっていたパワーリストやアンクルがずしりと重くぶら下がるので、たかが一歩近付くにも普段の倍以上苦労した。
とある一瞬だけ、見慣れた人の好い笑みがにわかに崩れる。
うんいいよ、引き受けておきながら眦には薄らとした悲しみが宿り、心なしか唇の端も諦観で歪んで、細やかに生え揃う睫毛が震えている。
曖昧さを溶かした微笑みが遠目にも気に障った。
何処にも預けられない、伝言すら叶わぬ、とにかく無性に腹が立って仕方がない。
突如降って沸いた丸井の問いに、肩を跳ねさせた優等生が微かな怯えを纏う。
なんでわかるの。
聞かずとも返答が読めた。
目は口ほどに物を言うのだとしたら、ざわつくこの胸中も反映されているのだろうか。
丸井は取るに足りない感傷を手荒く払い、綺麗な円状に膨張した無味のガムに本音を吹き込む。
(いつも見てたからに決まってんだろい。……って俺もついこないだ気づいたばっかだけどよ)
とんだ失態に骨の髄までもが窪んでいく。
天才的。
絶対に近い自信の顕れを嘘でも口に出来ない。
形無しの台無しだ。
ズボンのポケットの中で握り締めた掌がじっとりとした熱を孕み、不愉快極まりなかった。
家庭教師扱いなんかしてねえ。
俺は一度も。
一度もどこぞの誰かみたいにごめんなと簡潔に済ませたあげく、平気な顔で頼み事を持ち込んだりはしていない。
ぶつける相手の不透明な憤りが膨れた菓子と一緒に弾けて萎む。


見破られた原因は掴めずとも、ひとまずお人好しのまま押し通せぬ事を悟ったらしい。
一方通行の想いに身を捧げる少女は、丸井曰く‘いいヤツ’の面を少しばかり剥がす回数を増やした。
口喧しいとまではいかないものの生活態度にささやかな注意を降らせ、何かにつけて雑になりがちな男子中学生代表の丸井に対し呆れを滲ませたり、テスト期間前のみ机にかじり付いても仕様がないだろう、あくまでも優しく軌道修正をほのめかして来る。
怪我の功名、不幸中の幸い。
無数の引っかき傷を生んでいく、クソの役にも立たない故事が頭の中を好き勝手に浮遊して煩い。
誰が不幸な怪我人だふざけんな。
半ばやけくそ気味に一人きりで反論し、腹立ち紛れに道端の小石を力一杯蹴飛ばす。
落胆というよりは苛立ちの方が強い。

ともかく丸井は、大好物だったはずの菓子に以前のような並々ならぬ情熱を注げないのが一番困った。
不味くはないがさして美味くもない。水で流し込めば益々旨味がぼやける。
それでも腹は減るから質が悪い。
施しを受け取りはするものの気のない対応をしてしまい、どこか御加減でも……、と言い差す柳生の声音に混ざっているのは憂慮だ。
真面目くさった風紀委員の幾分か後方で、詐欺師と呼ばれて久しい仁王が察しているのかいないのか、相も変わらず真意の読めぬ尖った目付きを投げて来ている。クラスが同じである分、この男が一番厄介だった。
次いで柳、因みに最下位は色恋沙汰に疎い真田である。
もしかしてダイエットてやつすか、いや先輩ぜってー続かないっしょ、などと赤也が的外れも良い所の予想を口にし、常ならばいい度胸だなコートに入れワカメ野郎と扱いてやる所だが、なんともそれらしい理由だったので便乗した。
今回は本気だかんな、黙って見てろい。
気遣わしげに視線を巡らせるジャッカルの横をすり抜けて、手中のテニスボールを軽く打ち上げた次の瞬間、鮮やかに軽々とキャッチする。

甘味に限った話ではない。
口にする食糧という食糧の風味が、時に褪せてしまう。
今にも降り出しそうな雨雲に似た表情と、遂に涙で濡れそぼった瞳、限界まで堪えた上で零れた嗚咽は聞いているだけで苦しい。
思い出す都度、味覚が狂った。
泣くなと慰めれば慰めるだけ泣きじゃくって、摩ってやった柔い背中は震えている。
体温を肌で感じられるくらい傍にいるのに、結局のところ手も足も出せない隔たりに胸が痛んだ。
眼球の二つとも、心臓に腸、全身の骨、手足と指の先、隅々まで軋んで、だが涙の一粒も出て来ない。
悲しみの前触れはなかった。
辛苦と言うには不足しているし、後悔に捕らわれる程殊勝な性格でもない。
通り雨の間に走った剥き出しの感情は、丸井にとって悲劇たりえなかったのだ。
けたたましく鳴り轟く雷が刻一刻と迫る。
暴雨をたらふく蓄えた炭色の暗雲は範囲を丸井らの頭上まで伸ばしつつあった。
想う相手がすぐ傍で空知らぬ雨に濡れているのに、眼差しの地平に広がる青草の群れから滴る雨の残り香がやけに気に掛かって仕方がない。どこもかしこも塩辛い涙をまぶされたようだった。
薄手のシャツ一枚越しに触れる体はあたたかく、丸井は不意に、大泣きした末ふて寝する弟らの体温を思い出した。
幼子故のものだろうと、当時は別段思う所もなく寝室まで運んでやったのだが、どうも違ったらしい。
大人も子供も泣けば嗚咽に呼吸を阻まれるし、腫れぼったい熱に侵されてしまうのだ。
大粒の涙の重さで下向く睫毛はしんなりとしていて細い。
苦しげに歪む表情とちぐはぐに、目の端を拭う指筋が健気で綺麗だった。
顎を伝い下る透明な雫に豪雨の予兆たる風が当たり、引き止める間もなく砕け散っていく。
ともすれば身を震わせるであろう情景だが、肩を寄せるだとか抱き締めるだとか、そういった類の衝動は一向に沸いて来ない。
忍び泣くクラスメイトがただ純粋に可哀相だった。
‘減ってねえ時なんかねえ’はずの腹が静まり返っている。



意図せず帰り道が重なった。
すんでの所で乗り逃がしたバスを呆然と眺めている背中に声を掛ければ振り返った彼女が、あ、ま、丸井くん、とおたつきながら目を丸くする。
号泣姿を目撃されたとあっては流石に合わせる顔がないのか、停留所の先頭者として収まったきり口を噤んでしまう。
それでも何とか場を持たせようと試みた様子で、今日は雨じゃなくてよかった、もうすぐ夏だね、テニスはどう、ちゃんとテスト勉強しないと、どうでも良い話題を所狭しと並べたあげくどうぞ手に取ってご覧下さいとばかりに人好きのする笑みを浮かべている。
満腹でもないのに胸やけじみた不快感が込み上げた。
気に入らない。
上手く成り切れないのであれば営業スマイルなど作る前に諦めろ。
腹の奥は一瞬で焦げて、火の波が喉をぐいと押した。

「それいい加減やめろよ」

低く這う否定に丸い肩先が応じる。

「え……」
「笑いたくもねえのに笑いやがって、だったらこないだみたいに泣かれた方がまだマシだぜ。どうせ今だって泣くの我慢してんだろ」

時折行き交う車体が日ごと角度を変えていく陽射しでちかちかと輝く。
反射光は下瞼の近くに溜まって焦点を揺らした。
風のない午後に走る沈黙に、張り詰めた匂いはない。

「………丸井くんがいけないんだよ」

静寂が丁寧に破られ、余韻に鼓膜は微かに波打つ。
謂れなき謗りに丸井が眉根を寄せた。

「ハア? 俺なんもしてねえぞ。意味わかんねえ」
「……してなくない。丸井くんが、そ…そうやって優しくするからずっと苦しいのに。この間だってそうだし、今泣きそうに見えるなら丸井くんのせい」
「じゃもう俺以外に泣かされんなよ」

急速に面積を拡大させた何かの弾みで声帯が研がれて奮い立つ。
刹那の間にしじまが広がり、衣服に包まれていない頬やら腕やらを素早く撫ででいった。
零した声は己が意志によるものであるはずなのに、いまだかつて聞いた記憶などないと思う程の真剣味を帯びていていっそ小気味好い。
言葉という形を与えるとこうも楽に胸の靄が晴れるのかと感動すら覚えた。
あーやべえ言っちまった。でも俺のせいとか言われたら黙ってらんねえっての。今更取り消せねえしマジでコイツ泣きそうになってんじゃん。
丸井は唇を割らぬまま独りごちて、スカートの裾前できつく握り締めた両手を真っ赤に染め上げた少女を見遣る。
一歩にも到底満たない、半歩以下の僅かな動作で距離を詰めた。
下へ下へと鼻先を向けている、丸井の所為で泣きそうに歪む唇を引き結んだクラスメイトが気付かないはずがないのに、ほんの少しも逃げていかない。
暗がりに溶けるにつれ悲しげに小さくなっていくあの日の背中と、焼け焦げてすっかり色を失ったような倉庫の横が色濃く蘇る。
燃え残る火種を、今なら消せるかもしれない。
息を吸うと夏の気配がした。
ポケットに潜り込ませた掌に力を籠め、生まれる熱へ気持ちを預ける。
緊張がないと言えば嘘になるが、どんな時でも天才的妙技を披露する自分をいつも通り信じれば良いだけの話だ、丸井は迷いなく口火を切った。

「あのよ。はっきり言っとくけど、俺は誰にでも優しくしたりしねえかんな」
「…………そんな事ない」
「そんな事あんだよ。普通に考えてお前が好きだから以外に理由なんかあるわけねえだろい」

耳朶を食むだけの語尾の弱さに肌がざわつき、釣られて咽喉が狭まってしまう。
それにしても半泣きのくせによく途切れさせず言い切ったものだ、視点を垣間見える上頬へ落とせば、産毛が震えている所まで見通せる錯覚に目が眩んだ。
呼吸の在り処が近い。
眼前の舗装道路を車が突っ切っていく度に前髪がそよいで、一層泣き出しそうなクラスメイトの俯く鼻梁や薄ら上気した頬を露わにする。
丸井が肩に担いだラケットバッグのショルダーストラップを掴んで直すや否や、試合前に駆け巡る高揚感が齎す鼓動とは異なるぶれに背を押される。
一足先に真夏が訪れたのかと思い違いをしかねない灼熱で喉が捻り曲がった。
行き場を失くして溢れた唾を悟られぬよう慎重に飲む。

「…無理して笑ってんな。俺が悪いってんなら余計にだ。その代わり泣くなとかもう言わねえし、責任取って慰めてやる。お前が好きなんだよ」

伝え切ったところで一拍の無言が置かれた。
すぐ隣の体温が身じろぎし、煽りを食った肌はそう熱くもないのに焼ける心地だ。

「………とも……」
「……とも?」
「……友達から…お、お願いします」

意志を含ませた一対の瞳に仰がれたまでは良い、やっと顔がはっきり見えた、しかし宿る光が誠実な分丸井は脱力した。
唖然として眼差しを返す。
これでは根性を出した意味がないではないか。この期に及んでまどろこしい。

「おいおいそっから始めんのかよ! つか俺らとっくに友達じゃねえの?」

言うが早いか涙雨の気配が遠かった双眸に瞬きの稲妻が走り、睫毛の際や眦へさっと朱が乗った。
ところが、間近で見詰めていた丸井が呼び止める前に隠れてしまう。
逸れた目線は再び地に落ちて戻らない。
コイツ今超泣きそうになってんな。俺のせいで。
何故か絶対的な確信を抱き、黙りこくったままの少女との距離を詰める。今度は半歩以下などといった手加減はせず、一気に間合いに入った。
スニーカーの底を踏み下ろしたと同時、部活中に耳が腐る程聞かされた戒めがよぎる。
あまり調子に乗り過ぎるな。
天才的妙技とやらを発揮すべき時と場合を考えろ。
小石を蹴飛ばす要領で放り投げた。
冗談じゃねえ、待ってられっか。お人好しのペースに合わせてたらいつになんのかわかんねーだろい。
しとやかな震えを纏う彼女には、かつての濡れた伏し目が全く重ならない。
ポケットに潜らせていた掌を取り出した丸井が、隣で力を失くして垂れ下がっている細い手首に触れる。
なめらかな薄皮を撫でて、ぴくりと微かに動いたきり黙る甲へ被さるように握った。
日がな一日ラケットグリップを掴む丸井の手は、少女のそれをいとも簡単に覆い切ってしまう。指ごと折り丸めた先で合わさる感触が嬉しくてどうしようもない。
持ち替えて、もっと柔らかな手の内側から包み込めばしっとりと撓んでい、己のものに比べ格段に薄いというに骨張っておらず、何より柔らかかった。
友達から、と線引きした張本人は友人の領分を踏み越えた丸井の行いについて咎めもせず、嫌の一言だって口にしない、ひたすらに覗き見る事の叶う頬のラインへより深まった紅を滲ませている。これでは顔全体の有様など想像に難くない。
(こんなん友達じゃねえじゃん)
確かめれば益々心音が速まっていく。
ついでに減退傾向にあった食欲と対する情熱が、真夏の入道雲のよう沸き上がって肥大化した。腹の虫も盛んに騒ぎ出す。
ものの試しだと獲った掌を引き込んでみる、よろけながらもやはり抵抗しない友達じゃなくなった友達を見遣り、

「腹減った」

率直に述べた。
はたと見上げて来るかんばせにはまだ熾火の赤が残っている。

「え? あ、ご…ごめん。私、今日は何も持ってない……」
「いらね。お前に貰ってばっかじゃかっこつかねえだろい」

律儀に与えようとする優等生を遮り、一回り程小さな手に隙間なく触れた上でもっと強く握った。実際の距離は縮まずとも、今までで一番近付いた気がした。
少しばかり低い所からぶつけられる視線が、外したいのに外せない、複雑怪奇な色合いを浮かべつつ、たった一人だけに限られた特別を含んでいる。
例えば今、丸井が彼女へ向ける眼差しに潜ませているような。

だっからよ、それ友達じゃねえじゃん!

叫び出したい所をどうにか堪え、行こうぜ、と僅かに握り返して来ている指先を引く。
行くって、どこに。
尋ねる声は戸惑い、緊張しているのか恥じらい故か絶妙に上擦っていた。
いよいよ本格的に高鳴る心臓を抑え込む。
一分一秒でも惜しい。
去ったばかりのバスを動かざる事山の如しじっと待てる程、丸井の気は長くない。

「腹減ったつったろ。ケーキ食い行くぞ」
「え!? 今から?」
「今から」
「……下校時の買い食いって禁止されてるよ?」
「知るかよ。俺の中じゃ校則よかキッチリ勝負キメんの優先ってのが鉄則なんだよ」
「……今度の大会ですごく強い学校と当たるの?」
「ちげえ。つーかウチより強い学校なんか神奈川にあるわけねえだろい」

話していても埒が明かない、どうやら大人しくついて来るつもりらしい泣き虫の同級生を引き連れ、腹を空かせた丸井が毎日通る帰り道と正反対の方角へ突き進んで行く。
どこに行くのとは、もう聞かれない。
丸井はとぐろを巻いていた苛立ちと、不快感を伴うつかえが綺麗さっぱり洗い流されてしまった胸の内へ、課し続けて来た自分なりの掟を今一度打ち立てた。
‘腹が減っては戦ができぬ’