01




ままならぬ事をままならないと認めるのは癪に障る。
だからいつも騙してきた。
人も、物も、自分自身さえも。




変幻自在の声色を故意にいつも通り出してやると、案の定白いシャツの背がびくつく。
当番か担当教師に頼まれたかのどちらかだろう、腕一杯に抱えていた大量のノートを取り落としかけ、数秒要したもののどうにか堪えたがちらりと目だけで振り返った。絶妙なバランス感覚である。
お見事。
心にもない無感動な称賛を浮かべ、仁王は形式的に唇の端を吊り上げた。

「どこまで持って行くんじゃ」

空気に困惑が伝わり走ってい、どこへ視線を向けるべきか迷っているらしい少女の瞳は頼りなく宙を舞う。
沈黙をたっぷりと吸うさ中、やがてささやきとも取れる小さな音がひとつ。
職員室。
行き交う生徒の騒がしさ漂う廊下では、あまりにも矮小だ。
緊張で張り詰めた表情を前に、答えをはなから知る仁王が問うた。

「手伝うか」
「…………い…いい……」

語尾は消えてしまいそうだった。拒絶というより怯えが濃い。微かに首を振る仕草はゆるく、揺れた髪がひとすじ頬へと引っ掛かっている。
じゃ、こけんよう気ィつけて持ってきんしゃい。
いかなる区別もつけず、飄々と言い置いて背を向ける。追い縋る声など聞こえない。
当然だろう、名前を呼ぶなと告げたのは昨日の事だ。
仁王のような変わり者にも屈託なく接する彼女の性質を思えば、さぞかし戸惑ったに違いなかった。
可哀相に。
色のない言葉が胸の内を叩き、はからずも昨日自ら発した声と重なり合った。
欠片も感じていない哀れみをあえて形にして尚、罪悪を抱かぬ己はどれほど外道なのかとも思ったが、思うだけで終いになる。嘲りすら沸いてこない。
昔々、子供じみた時間を共有した幼馴染が人の面を模した畜生に堕ちているなどと知ったら、どんな顔をするだろうか。
何を口にしても、平然と呼ぶのだろうか。
あの頃のように、あの頃とは異なる音程で。
雅治。
自分の名前だというに彼女の唇を通した途端、聞き慣れぬものになるのだから嫌になる。
煌めく水面と泥で煙る底とが混ざり、波立つ胸が疎ましい。ひどく息苦しかった。
抗えば余計手に負えないと悟っている仁王はもがかなかったが、そうすると深く沈んでいくばかりで浮上のすべがない。
どこにいても思うさま呼吸が出来ない、このままでは。
だから、と一人思考に区切りをつける。
諦めるべきだ。
面倒臭がらずに済む距離で在り続けた幼馴染と言う名の隣人と、違和の一つもなく共に過ごす日々が潰えると観念しなければならない。
誰より仁王自身が真実望んでいなかった。
至極当然に幼馴染を幼馴染として扱うをこれ以上ないほど泣かせて、押し倒し、組み敷いて滅茶苦茶にしてやりたい、暴虐的な気持ちに支配されてしまうようでは望む資格もないだろう。最もそんな資格はこちらから願い下げだった、欲しいものを欲しくないと突っぱねるのは良いが、欲しくないものを欲しいと求めるのは性に合わない。
詐欺師の名が泣くのぅ。
またしても心に滲まぬ上辺だけの感情を掬い上げ、手早く放す。
後には何も残らなかった。



数年振りの会話だったというのに、今となっては委細を覚えていない。
二言、三言はまだ脳裏を掘れば見つかるが、それ以外どのような言葉を交わしたのかはおぼろげな記憶の彼方である。朝、出掛けに姉か親に久々にと話をしただの何だのと絡まれた気がするから、切っ掛けはその程度だったのだろう。
小雨が降っていた。
じとりと肌へ張り付く空気に顔を顰め、うっすら曇る教室内で微かな覚えのある背中へ声を掛けたのだ。
同学年の男から名を呼び捨てられた事などなきに等しいは一瞬肩を竦ませ、それからすぐに振り仰ぐ。
仁王の姿を視認したのち、驚いたのか目を丸々と太らせ、ややあって一人納得したような面持ちになり、素直過ぎる応えを寄越した。

「雅治。どうしたの。テニスしないの?」

性別の差異がなかった頃と比べ、大なり小なり変化しているはずの趣味、嗜好、様変わりした友人、学校生活。
あらゆる万別を無邪気にふいにする、なんでもない声色だった。
仁王は内心苦笑し、テニス部へ入部した経緯など一切話していないにも関わらず、大まかな事は知り得ていそうな気楽さを舌の根で味わい、容易く言葉を転がす。

「雨じゃけ、コートは使えんよ」
「ああ、そっか」

一体何がそう腑に落ちたのか定かではないが、またしても納得したと言わんばかりの表情でが頷いた。
既視感を抱き、浅くもない記憶の中から一片が取り上げられ得心する。
それは幼馴染の癖だった。
仁王の言にいちいち感心したよう首を縦に振る、幼い時分とそう変わらぬ仕草。どうにもあどけない。
気安い距離感を食みながら、半分は馬鹿馬鹿しい気持ちになった。脱力したと言い替えても構わないだろう。
離れていた時間の弾みは咽喉に突っ掛からず、何故だか清々とした気持ちで会話を終えたから、本当にどんな話をしたかわからない。
取沙汰するほど、彼女は特別な相手ではなかったのだ。


だが、ゆっくりとではあるものの、どうとも意識していなかった幼馴染に馴染まぬものを感じていくようになった。
一日と一日の間、違和が挟まる。
ふとした瞬間、不覚にも目を見張り、化かす事に慣れきった肉の筋が弛む。
他人の機微を化け物じみた鋭さで指摘する幸村や柳が傍にいなければ、取り繕うのは簡単である。ゆえに小さな変異を悟られはしなかった。
ほんの一秒。
たかだが瞬きするかしないかの刹那。
存在理由を問うたり、わざわざ認識するまでもなかった少女の中に、見知らぬ誰かがいる。
見極めんと息を詰め気付かれないよう観察をしたのは、単なる癖だと思っていた。
コート上の詐欺師と呼ばれ、つわもののプレイスタイルを吸収し己が物にしてきた仁王が、相手に化ける時まず始めるのがそれだったからだ。
はそのような仁王の事情から程遠く、言ってしまえば関係ない人物であったが、完璧に近い領域まで成りすまし勝利を手にする内、テニス外の日常にまで『騙し騙され』が侵食してきているだけで他に訳など見当たらない。そのはずだった。
埒もない口を利く。
時折、コートの横を通りすがる背を黙視した。
名前を口にすれば拘りなく返答が戻る。
ある程度交友関係を把握しても、姿なき彼女の誰かは雲中の月、掴めない。
気の所為かと興が削がれかけては、しかし仁王の眉間を僅かひくつかせる非日常が尾を現し、追っているのか追われているのかいよいよ判別がつかなくなった。
さて、どうしたもんかの。
匙を投げるほど行き詰ってはおらず、かといって正体へ繋がる糸口があるわけじゃなし、最も障りなく一番近しい他人だったへここまで時間を割くべきか否か、迷い始めた頃。
頭上から、傍近くへと声が落ちてきた。
仕向けていたのではないが話の口火を切るのは常に仁王であった為、先んじて呼ばれるのは再び顔を合わせた日から初めてのことだった。

「雅治」

ぎくりとした。
音は肩に撥ねて耳たぶを撫でる。
首の後ろが粟立ち、瞑っていた目までもが意志を無視して独りでに開いてしまう。
注意深く背の方、斜め上へ視線をやると、窓のサッシに手をかけたがこちらを見下ろしていた。
室内の彼女へ対する仁王は外に居り、ちょうど校舎の壁に体を預け、長く伸びた木陰に入り直射日光を避けて座り込んでいる所だった。

「何してるの? さぼり?」

音楽の教科書を片手に、いつも通り屈託のない問いを降らせるの顔立ちは確かにの物だが、見上げる角度の鋭さで喘ぐ瞳はそのように映さない。
腰から項にかけてを走る何かは悪寒に似ていたけれど、どうしてか不快が伴わない。
シャツ一枚を境に触れる白い壁が、硬いままで震える背を刺激する。伝わった生々しさが今度は項を下りて腰深くまで差し込んでいく。
仁王は答えられなかった。
問い質されたらもっと良くない状況に陥っていただろうが、前方から他の女子生徒が来た事に気が付いたは慌てふためき、一方的に会話を打ち切っていったので詰問を免れたのである。
窓枠の中から降り注いでいた余韻が消えても尚、肌の薄皮を支配する恐ろしさの抜けた怖気は引かなかった。
曲げていた首を戻し、立てた膝上に乗せている左腕を視野に入れ、そこでようやく息をすると、肺へ送り込まれた酸素が染み渡り体内の淀みを霧に変えていく。
きらきらとさざめく光と影から夏の匂いがした。
土と草とが噎せ返る、灼熱の一歩手前で、響かぬままだった心が音もなく喚いている。

女だ。
の中にいた見知らぬ誰かは、幼い面影を脱ぎ捨てた彼女だったのだ。
そしてそれはの在り様に左右されたのではなく、幼馴染以外の顔をした仁王が探し見つけたものだった。

名が柔い。
心地は好いが、どうやら良い気分一色でいられない。
振るえる音の浸透の早さ。染みいってゆく時、背筋を走る高揚。堪えられる寸前をさ迷う危うい感触に、言葉をつくるはずの舌が奪われる。
記憶へ刻むでもなく当然覚えていた、甲高く、舌足らずだった声はどこにも存在していなかった。末恐ろしい事だがの形を保ったまま相応の女になっている。
傍らの他人。
幼馴染。
生まれた時から隣同士で育った。
遊びの途中で雨に降られた日など、面倒だからという怠惰な理由でまとめて風呂に入らされたし、そういえば同じ布団で眠った夜さえある。
有り得ない感情へ向けた呻きは、大分遅れてやってきた。


「勘弁してくれ」


ウェアに着替え終わりロッカーの扉を閉めたと同時、苦しみに満ちた喘ぎが端から零れ、全て落としきった後そのみっともない声色に無言で憤る。
机上でレギュラー以外の部員へ配る予定表をまとめていた柳生が怪訝そうな間を一拍置き、予想通りの質問を投げ掛けてきた。

「……何のお話ですか、仁王くん」
「……ピヨ。なんでもないぜよ。俺が、変態かもしれんってだけの話じゃ」

へん……、と言い差し、最後まで続けるのを躊躇ったチームメイトが眼鏡のブリッジを押し上げた瞬間、押し開けられたドアから制服姿の柳が顔を覗かせる。
随分と早いな、仁王。
軽くあげた片手で答え、さっさと部室を後にした。
紳士はともかく切れ者の参謀は微かな異変をも悟るだろう、背を向けた室内でどんな会話が交わされているのか想像に難くなかったが、今更取り繕っても意味はない。億劫になった仁王は思考自体を放棄した。



しまったと後へ引くにはもう遅い。
興味を持った時点で一線を凌駕している。
考えてみれば十数年気安いままの女など、一人もいやしなかった。
碌に話していない。けれど訳知り顔で隣を歩かれても厭わず、すんなり受け入れる。家族とは違う他人をだ。
何度か他意なく傍に寄られたが、決して邪険に扱わなかった。
そうする事が自然だった。
意識の有無を除外するくらい近しい。そのくせ向こうの意思などお構いなしに、ただの一言にすら女を見い出している。

それを特別と呼ばずして、何と呼ぶのだろうか。

無造作に頭を掻き、俯いてみても薄汚れたスニーカーがあるだけで、否定の材料は転がっていない。
過去に抱いた幾つかに似ているがよく洗い晒してみればまるで異なっていたし、繰り返し再生出来るほど仁王は誠実ではなかった。過日の古ぼけた出来事は折り重なり、におい立つ感情のみが鮮烈に脈打っている。
それらの感傷から僅かつま先ひとつ分抜きん出ている風景が幼友達を描く。
児戯めいた思い出は途切れ途切れのようでいて、ひとつ繋がりだ。
切り離せない。
幼馴染である事と、への感情を、上手く分けられない。それぞれを別にして考える事が、どうしても出来なかった。
手をつけてはならない領域だと無意識下に覆っている、今も。

だから聞きたくもない浮いた話を耳にした時など腹が煮えた。
この頃になると仁王は既に自ら進んで観察する事を止めていたから、完全に不可抗力と言えるだろう。
真田の追求をかわしつつ涼を求めて人気のない水場で汗を冷やしていたら、どこぞの部かは興味がないので知らないし覚えていないが、とりあえず運動部らしい図体のでかい男どもが幾人か通りがかったのだ。
耳を澄まして聞いていたわけじゃない、詳細は定かでないけれど、お前、誰だっけ、あの子と話出来たのかよ、うるせえなほっとけよ、とか何とかじゃれ合っていたように思う。
暑さに気を取られてどこかぼんやりとしていた仁王の聴覚が、次の瞬間めざましい働きをした。

思い出した、さんださん。
席隣になったんだろ。どうなんだよ。

霞がかっていた視界がものの数秒でクリアになる。
鼓動に近い所でわだかまっていた血は燃え立ち、足先と言わず指先と言わず、くまなく全身を蹂躙した。
過敏なまでに反応する血肉を追って、遅れた思考がついてくる。
の苗字だ。あまりにも使う機会がなかった為、素早い認知をし損ねた。
同姓である可能性も考え、喧しい声の数々がやや過ぎたあたりでちらと視線を送ってみたが、輪に含まれた一人に見覚えがあり打ち消される。何故だと記憶を辿る途で、幾度かと歩いているのを目にしたからだと思い至った。
移動教室、掃除の時間、下校時刻の昇降口。何の気なしに仁王が声を掛けようとしたら先を越されていた時もある、そうしょっちゅうではなかったから単なるクラスメイトか何かだと片付けていたのだ。
そういう事か。
喉奥からこぼれてべたりと胸の内壁をなぶる呟きは暗い。
面白くもないのに唇へ笑みが灯る。
手足を焦げつかせたあげく切り落とす狂暴な熱に反して、頭だけがいやに冷静だ。冴え渡り、冷え切っている。
おかげでようやく自分の馬鹿さ加減もわかってきた。
とりあえず、今すぐ浮かれた野郎の背中に蹴りを食らわしたいと七割方本気で考えるくらいにはくだらない男だ。
容易く呼び合う仲の人間が乱闘騒ぎを起こしたと知った時の表情を想像し、別段愉快にはならないなという結果へ辿り着いたにも関わらず、衝動を押し留める鍵と成り得ない。
己を騙し騙し抑え込む他なく、滑稽そのものである始末に本格的な笑いが込み上げてくる。

恋情が手を焼いた。
焼けた指が、形ばかりの、空っぽの響きを抱き寄せる。

繰り返せば繰り返すほど、体の芯が重い。誰を化かしたとてこんなに苦しくなかった。
脳裏にやわらかな声がちらつく都度、揺さぶられて息が途絶え、浅い呼吸の狭間で声にしないままもう一度手繰った。
――
託された音色は悉く平坦だがしかし、そうでなくてはならない。
名を掴む掌にのみ全てを隠す。
でなければ傍にいる事など到底叶わぬだろう。

だから俺はもうさわれない。
昔のようには、あいつに触れられない。
醜い焼け跡の燻る手を伸ばしたが最後、このペテンは露と消え、真実となってしまう。
己が立つ場所を定めたからこそ、仕掛けた化かし合いを飛び越え、当然の触れ合いを易々とこなす名も知れない男が疎ましかった。
理解出来ない。
そもそもしたいと思わない。
学校、朝のHR、授業中。休み時間と登下校する姿。四角四面のチャイムと時間によって切り取られたと呼べるのか。呼べないだろう。
少なくとも俺には無理じゃ。他愛ない好意をちっとばかし表に出しているだけの、お前なんぞにわかってたまるか。
人となりどころか名前さえ思考の淀みに消えていくような相手へ大人げなく思ったりもした。
そういう全部が面倒だった。
振り回されるのは御免だ。
煩わしくて仕方がない。
毒を吐くそばから、それでも幼馴染でなかったら状況は違ったのか、などと耽って自嘲する。意味のない仮定の為手間をかけている場合じゃないのに、千々に乱れる夢想に苛まれるばかりだった。


けれど、他の誰も入れないところ。
名前だけは触れられる。
名前だけが、許されている。
呼んで呼ばれる度、俺達は互いしか知らない時間にふれている。


声が腕を引き、抗い難い色でいざなう。
雅治、雅治と、打てば奏でられる特別じゃない声音の特別じゃない名前。
彼女にとっては当たり前で、少し前の仁王にとっても当たり前だった。
放る応答はいつでも決まっている、含み、託し、咥えさせ、たらふく太らせた数々だ。
巧妙に隠しきる事で難を逃れてきたが、己で己を騙すには些か骨が折れ帳尻の合わない綻びを生む。
見ていたくない場面でも目が離せない。
焼かれた腹の底を這う感情はとてもじゃないが口に出せる類いのものではなかった。
ひと時も視線に捕らわれてくれぬ日など、柄にもなく気が急いた。
どこぞの馬の骨に手を出されてたまるかと身勝手に腹立たしくなる片隅で、一挙たりとも動けない不甲斐なさを嘲り詰る。
神をも凌ぎかねない詐欺師である、と時に恐怖の対象であった彼にしてみれば、げに恐ろしきは可愛らしい少女の形をしたこの怪物だ。
振り解けず、遠ざけられもしない、弱点がないわけではないがそこを突く胆力は仁王になく、成敗するに相応しい悪女かと言えばただの善良な一般市民。だが、稀代のペテンをあぶくへ変えてしまう可能性を秘めており、仁王のような男からするとほとんど天敵に近い女である。
相手などいくらでも自由に選べるはずなのに、何故よりによってなのだろう。
希うのなら、わざわざ幼馴染でなくたって、他の女にすればいい。
好意にまみれた欲を難なく満たしてくれそうなものだ、はじめから距離が定められている彼女よりは。
――これだから外道なんじゃ、俺は。
独りごちると実感が増した。
その上これはただの感想にしか過ぎない、反省するはずもなく、自己嫌悪へと陥らない。
無自覚より余程たちが悪いと他人事のように思う。いつか成敗されるのは、自分の方かもしれない。
冷え冷えした分析をしているのに、一切の危機感も抱けなかった。
こんな時正してくれそうな幼馴染は、今や遠いところに在る。
寂しいのか、喜ばしいのか、仁王自身にさえわからない。





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