02




空気が障った。
困惑しきりのと別れた足で中庭まで来た時、物言いたげな視線を感じ、擦り動かしていた両足を留めて思考と過去の波を断ち切る。

「……用があるんなら、さっさと言いんしゃい」

意識したわけではなかったが自然と声に棘が生まれてしまい、これは良くないな、思った。
いつの間に立っていたのか、ファイルを片手にした柳生が小憎たらしい普段の口調で嗜めてくる。

「いいえ、どこへ行くつもりなのかと思いまして。もう授業が始まりますよ」
「うちのクラスは次美術やけ、美術室」
「おや、先程丸井くんが慌ててB組の教室に向かっていくのをお見かけしましたが?」
「忘れもんでもしたんじゃろ」
「では、仁王くん。あなたが教材をお持ちではないのは何故ですか」
「さーてな。家に置いてきてしまったんかの」

真意を語るつもりのない仁王の口上に、紳士はらしく軽い溜め息でもって受け答えた。
右腕に風紀委員の腕章をしているので、校舎の見回りでも終えたところだったのだろう。
既に委員会の範疇を越えている気はするものの、取り仕切る委員長が色々な意味で範疇外の男だから仕方ない。

「部を引退したとはいえ、後輩達にとってあなたが最高学年である事に変わりはないのですから、そのように行動すべきでしょう」
「プリ」

出来れば味わいたくないお小言も、じりと焦げささくれた跡には有り難く、へと傾いていた心中を戻すのに一役買ってくれる。
周囲に露見したら明日は槍が降ると揶揄されるほど珍しい事態だが、柳生の堅苦しい性格に少々感謝した。
知ってか知らずか、腕時計に目を遣った元パートナーは言い落とす。

「あまり心配をかけないよう、真面目にやりたまえ」

仁王の息が一瞬詰まった隙に、見飽きた顔は視界から薄れていく。
撤回する。
口調こそ普段通りだったが、込められた意味は普段通りじゃなかった。
どの程度まで把握しているのかは怪しい、他人の事情を詮索するような男でないから、つまびらかな事情が広まっているとは考えにくく、するとやはり参謀か。
あれきりそういった事は口にしていないつもりだったというに、なかなかどうしてやり手の達人である。部室でこぼした情けない一言を、今になって後悔した。
柳生は誰々と言及せず、後輩にと断言もしていない。
しかし物言わぬ声が、あなたの思う人に、そう語りかけていた。
さぼる気を隠そうともしないふてぶてしい態度を確認していながら、やたらとあっさりとした引き際。眼鏡の奥の瞳は、仁王のようなその日暮らしを地でいく人種にも公平なのだろう、配慮に満ちているに違いない。
しっかり引き結んだはずの糸が、ほつれる音を聞いた。
綻びをもう覆えないのだとしたら、次に打つ手は。
探ろうとして、ひとつしかないのだと気が付く。
考えてみればあれだけ触れる事を忌避していたくせに、わかりやすく傷ついたの顔が泣きそうに歪んだ途端、焼けた掌を差し伸べた時点で幕を下ろすべきであった。
ただの遊びのはずとなんとなく勘付いていたにもかかわらず、薬指の爪へ載った美しい色合いに喉をかっ切られ、浮かんだ余所の男の顔に苛ついた時、既に騙し合いは瓦解していたのだ。
足掻くのは仁王の悪い癖だけれど、錆びついた肩では背伸びをしたって緞帳まで届かず、いつまで続くのか演者にもわからぬ舞台で成りすます他ない。
ぐだぐだと先延ばし、引くべきを見極められずにいるのは、幼馴染が幼馴染だからだ。
ひとつ糸を切れば、連なる全ても失いそうで恐ろしい。
鐘の音では区切れない時間を切り離した後の、の瞳に映る自分が想像出来ない。

本当は抱きしめたかった。
親しく思っていた相手から、否定にしか聞こえぬ宣言をされ、不安と悲しみに揺れる頬の白さ。オレンジがかった陽を反射し、まるく目に馴染む肩の線。
あの時、死ぬほど強く。

いっそ終わらせてしまえばと思う。あるだけの想いを形にし、受け入れてくれと懇願出来たらどんなに救われるだろうか。
そうしてそのまま家へと引きずり込んで、キスでも何でもして、どうにかしてやりたくてどうにかなりたかった。
過ぎ去った瞬間にしがみつく望みばかりが消えず、薄れるどころか色濃く刻まれていく。
焼け爛れた手が熱く、気付けば痕は腕にも達していた。
病のように巣食うものを、最早恋と呼ぶ気がしない。







あ、だか、は、だか、判別のつかない吐息まじりの声が、耳と項の境目をくすぐった。
室内履きから靴に履き替える為しゃがんでいた仁王が目線を投げると、硬直しきったが突っ立っている。たとえば人ならざるもの、幽霊にでも出くわしたらこんな顔をするんだろう。
優しい進言をまともに取り合うはずのない仁王は結局、あれから授業に出なかった。
正確には出はしたのだが、内容を流し聞いていただけなので出席したと言い難い。
ふらふらと時間を潰し、下校時間のチャイムで昇降口に向かったところで、柳生以上に面倒臭い元副部長に見つからずに済んだのは幸運としか言い様がなかった。
自ら差し出した隙をどうすべきか必死に思案しているの顔が面白い事になっている。
待っていてもどうせ気詰まりになるだけだ、ならばと仁王が薄い唇をわななかせた瞬間、

「あの……か、帰るの?」

予期せぬ早さで二の句が告げられ少し驚く。
おう。短く肯定すると、そっか、息を切る一言。
どこかで扉の開く音がし、遠いざわめきの中へ溶けていく。人の姿はなくとも気配は残る放課後、妙な空気が頬を打ち、がしどろもどろといった調子で切り出した。

「じゃ、じゃあ……あの、その…聞きたい事があるんだけど……」

見上げた根性のチャレンジャーである。
昨日の振る舞いを見た上で対話を試みようとするとは、流石俺なんかの幼馴染。
先程はしきりに後退っていたくせにどういう心境の変化か。ふざけた独り言で胸を濡らし、踵を履ききらない内に立ち上がった仁王は、半分背を向けた状態でわざとらしく尋ねた。

「ここで?」
「え!? あ、え、い、急いでる? 時間、ない?」
「いんや」
「そ、そう……あ、でも帰るんだよね、帰りながらにするから、ちょっと待ってて」

言い終わるや否やロッカーの影へと身を翻したと思ったら、やがてがたがたと慌てた音が玄関口じゅうに走り、落ちた革靴の軽い衝撃音と興じて協奏を響かせる。
語らずとも知れた彼女の心境に肩を竦ませ、騒がしさの根源へ足を向けたと同時、駆け足で飛び込む顔が正面きって現れた。
一拍の沈黙。
ちいさな鼻を摘んだ感覚の宿った掌が血に燃やされる。
目で映せば尚更だ。拳ひとつでなんなく隠せてしまう。鼻と言わず、唇と言わず、頬と言わず、すべて手の内に収まるのだろう。
焦げつく指の腹が痛み、無意識に焼け跡が及んでいないかどうかじっと確かめ、ふいと顔を背けられた事でくだらない杞憂だと覚めた。
仁王の瞳から逸れたはやや俯き心地で、懸命になるのを厭わず言う。

「いこ」

ドアへかけられた右手、四番目にあたる指の爪が仄かな紅に艶めいている。
えもいわれぬ感覚が舌がざらつかせた。
ご立派な硝子扉をくぐり、数多の生徒を迎え入れ送り出したレンガ道に足を踏み入れた所で、そういえば学校から揃って帰路についた事がないと考え至った。
取るに足らない他人にどう受け取られようが全く構わない仁王と違い、目立つ幼馴染の所為で顔も名前も知らない女子生徒に詰め寄られた経験を持つの問題が所以だ、避けていたわけではないけれどあえて飛び込みたい渦中でもなかったのだろう。機会が見当たらなくても不思議じゃない。
校門までの数十歩、何人かの生徒とすれ違った。
団子になってまとまりながら歩いていた女子の集団が、大騒ぎとはいかずともはっとした表情でこちらを見ており、流れのまま隣の女を確認してみれば今後如何にして本題へ入るべきかでいっぱいいっぱいの形相。絶対わかっていない。
あーあ。
またしても他人事のような声音が心中の海へ放られ、明日から多かれ少なかれ降りかかるであろうの災難を思った。
いい加減振り回している自覚があった為、可哀相に、とは呟かなかった。
というより、心の籠もらぬ同情を寄せる余裕がなかったのだ。
遂に公道へ出るにあたって件の男、名前も知らないし馬の骨でいいか、そいつが姿を見せなかった忌々しさに舌打ちをするばかり。
悟れば良い。今のは、幼馴染が犯した所業で頭が一杯だ。

「……私、心当たりがないんだけど」

そんなどうしようもない思惑に捕らわれていた仁王の耳へ、弱い反響が忍んでくる。
よそごとに意識を遣っていても足は学校の敷地を取り囲む塀と沿い歩き、一定の距離を置くのが殊更上手い。
蒼白に染まりそうな少女の頬がかたく張り詰めていた。仁王は黙って続きを待った。

「ない、から……もし何かしちゃったんなら、言って欲しい。あ、謝ってどうにかなる事じゃないかもしれないけど、謝るから」

言葉の一つ一つを丁寧に選んでいるおかげで、不必要な突っ掛かりが弾んだり沈んだり、実に聞き取り辛い。
やわ肩へぶら下がっている鞄の紐を握り締める指先から色が抜けていた。力を入れすぎているのだ。
惑う目線を足元へ遣りつつ、は切実な声色によって仁王を追い詰める。
ゆるしを乞われても、許しようがない。

「何かってなんじゃ」
「何って、それは……その……」

間があった。
静寂は重かったが、次にが口にしようとしたものを肌で読む。
雅治。
彼女は呼ぼうとして、挫けたのだ。

「…………あの、怒ってる?」

長ったらしい無音を横たえたのち、恐々こぼれた口調は着地点を見失っている。
拾うわけにもいかない仁王は細心の注意を払って、常と変わらぬ顔色を保った。

「怒っちょらん。見てわからんかのぅ」
「……ごめん、わかんない」

いちいち素直な奴だ。
適当に誤魔化すとか、とりあえず流しておくだとか、かわせば良いものを馬鹿正直に真っ向から受け止める。心の内を隠そうとする気配は微塵も感じられない。
腹の底に浸してばかりの仁王とちっとも似つかわしくなかった。
天敵。
手強い怪物。
可愛い顔して人を邪な方へ引きずりこむ悪魔。
罵った所で気が晴れるはずもなく、怯えているくせに関わりを諦めぬ幼馴染へ視線の行方を預ける。
仁王の腹積もりなど露ほども知ろうとしないは更に言い連ねた。

「怒ってない?」
「ない」
「じゃ…あ、いいんだけど……そしたら、あの」

なんで?
主語の抜け落ちた問いであろうとも、仁王にはわかった。
なんで昨日あんな事言ったの。どうして私をあんな風に見たりしたの。
雄弁な瞳がなんで、どうして、と散々訴えかけている。
しかしだからこそ、応えるわけにはいかない。
掌の焼け口に感情の雫が染みて痛んだ。
腕を駆け上がり、頭の芯まで到達する。
包み、覆い隠していたものをありったけ握り込みつつ、わざと掴み損なわせたひと欠片を舌の根に忍ばせた。


「……っ、な…なに?」

名へ滲んだそれが正しく伝わったか定かではないが、の震えはなかなかお目にかかれない甚だしさだ。
仁王はぞっとした。
己のたった一言でゆらぐ少女と、己のたった一声に含まれた深みのどちらともに、胸を突かれてしまった。
穿たれた杭が暴れ出す。
歪む唇で端を持ち上げても違和感は残る。笑顔なんかつくるべきシーンじゃない。わかっていても、勝手にひずみが生まれた。

「言うたじゃろ、気にせんでええ」
「……言ったっけ?」

どこまでも墓穴を踏み抜く女である。段々愉快になってきた。
隙だらけなのに触れられない侘しさの代用かもしれない。

「わからん事を、いつまでも気にしなさんな。俺はちいとも怒っとらんし、お前にああしろこうしろとは言わんよ」

何が何でも騙してやろうという気概の感じられない嘘を並べながら、その出来の酷さに失笑した。詐欺師が聞いて呆れる。うつろな言葉に真実も人を化かすほどの威力も、ありはしなかった。
賭けてもいい。
は気付かないだろう。
仁王だけが見透かしている。
だがそれで良いのだ。
変化を生む可能性の芽を摘む破目になったとしても、蓋をせねば歩けない。
だったら靴底で踏みしだいてやる。叶えられる限り、叶うところまで、幼馴染のツラを下げて、区分け出来ない時間を離さないでいよう。

(お前が呼んでくれさえすれば)



「……なんか、よくわかんないけど」

しばし考える素振りを見せていた少女が、喉で何か詰まったような、歯にものを挟んだような、実に歯切れの悪い声音で呟き落とす。
そーか、わからんか。
気の抜けた返答をし、やけに熱が籠もった首筋を掻いた。来るべき快諾に備え、澄ます耳奥のこだまは海鳴りのようだ。

「とりあえず、そうする」

一秒だってもどかしい。早くしろ。もう手が出るぞ。

「……で、いいんだよね、雅治?」

が俯かせていた鼻先を上げる途中、言った。
ふやけて溶けた微笑みで象られる四文字は、単なる名称以上の意味を持つ。柔らかい。
それが少しばかり恐ろしかった。
呼ばれたくなくて、でも聞いていたい。
一際深くに分け入る声が、じんわりとそこかしこを支配する。
ひょっとして自分だけなのだろうか、大層甘い味のする響きに酔いそうだ。喉を鳴らして笑い返す仁王は我知らず天を仰ぐ。

「露骨にほっとしよる」
「………誰のせい」
「俺か?」
「じゃなかったら他に誰がいるとお思いで」
「おるんやったら連れて来んしゃい。指差して笑ってやるきに」
「……なんでそんなに性格悪いの? 昔そんなだったっけ、雅治」


再びの甘やかな声で紡がれれば、退く道は断たれたも同然だった。
塞ぎたい唇から通る名前一つで、仁王は不毛な化かし合いを続けることに決めた。結び目を綻ばせたまま、焼かれた手をきつく握ったまま。
思う強さに反し、の一挙一動で弱くなった部分が身じろぐ。
安堵する一方の少女は、でもよかった、怒ってなきゃいいや、うん、などと暢気に笑っている。
不意に仁王が目蓋を閉じた。
すると、声にならない真実は檻の中で澱んだ。


ゆるしを乞われるべきはお前だ。
本当にゆるされたいのは、俺のほう。





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