あの日、仁王雅治と名乗った男はいつもの駅で降りるを電車内から見送った。
話にあった、男のくせに花が好きな人物に会いに行くらしい。
長いようで短い十数分の乗車時間、いい土産話が出来たぜよ、と非常に健全ではない薄ら笑いで告げられ不安が募る。あまりおかしな事は言わないで欲しいと控えめに訴えてみたのだが、おざなりに相槌を打たれるのみだ。

「何かと話題に飢えとるヤツなんじゃ。大目に見てやってくれ」

付け足し説明された所でよくわからない。
与えられた情報は断片的で、おまけに総量が少ない為整理のつけようがなかった。
ただ、長らく見つめる一方だった相手から、近しい距離で乞われてしまえばは恐る恐る頷かざるを得ない、小さな意地も泡と化す。


煙る雨の壁を抜けて進む車両が揺れ、籠もった空気も今日ばかりは一切気にならないのが不可解だ。
ドア付近で並び立つ隣人の横顔を不意に仰いでみれば、どういうからくりだろう、雨雲のおかげで微かなものとなった光を纏い、灰色の風景からくっきり浮かんで見えた。
長い前髪の影で、鋭い形をした瞳が瞬いている。
見出して一日も経っていないというのに最早馴染んでしまった薄い唇の下にある黒子。
声を零し、または時折笑む都度、喉仏が違う生き物のように動いて、首筋の血管は太い。
は我知らず、己のそれを手で覆い確かめてみたくなった。
男の子と二人で話すのなんて、中等部に進級して以来なかったなぁ。
こみ上げる感慨を喉元で殺し、流れていく車窓の外に目を遣ると、濡れた建物や電柱、角を曲がろうとしている車と所々に開いた傘の花がくすんだ街に咲いている。アスファルトは黒々として雨雫に染まり、その上を大きなタイヤが通れば飛沫が舞った。
あっという間に過ぎていく風景は飽き飽きと見慣れたものでも、注意を払ってみれば細かな差異に溢れているのだ。
にとっての仁王も、どことなく同様の感情を呼び覚ます。
初めて会った時、表層だけをなぞり恐れ戦いていた。
少しして、雨という共通点が浮かび上がる。
目を向けるとその度異なった様相を見せるから、気鬱の種の一つであった雨が待ち遠しくなっていった。
よろけた所を支えてくれた掌の大きさと体温が前触れなしに肌で再生され、次いで後頭部と背に当たった胸元の感覚も蘇る瞬時、腹の中と腰回りの皮膚がもたついて蠢き、足先が落ち着かない。
今更ながらこの人は背が高いと思った。
記憶された身近な異性と言えば父親しかおらず、率直に並べて比べるのも妙な心地を生んだが、他に頼るべきサンプルがいないので打つ手がない。
そもそも仁王雅治という男はの人生において、今までもこれからもまず関わる機会自体見当たらぬ人種だろう。その証拠に街中で似た人を見た覚えはなかったし、先の長い今後で邂逅が果たされるかというと、否、確信に近い予感が浮かぶ。
そのように稀有な人物と、ついさっきまでは名前もわからず黒子がある事にさえ気づいていなかった彼と、こうしてごく普通に話しているのが何だか無性におかしかった。
独りでに緩みかける持て余しつつ隠そうともしないはつまり、のんびりとした気性なのであった。
カーブを描く線路に沿いうねり曲がる車両が軋む。
角度を変えて窓を叩く雨粒が透明な硝子に当たって砕け、進行方向と逆へ流れ落ちていく。軌跡は細く短い。次から次へ塗り潰される雫同士がかち合った瞬間、の頭上より幾分も高い位置から声が降った。

「おんなじ事の繰り返しでよく飽きないのう、お前さんは」

どうやら電車通学について言及しているらしい。

「学校からの登下校は、飽きる飽きないの問題だと思わなかったから。別に平気だよ?」

ただ雨の日だけは一等楽しかった。
とは、言わない。
口が裂けても言えない。
の神経はそこまで図太くはないし、勇気だって振り絞ってみても滴ってこない。
吊革に手首ごとを預け、ぶら下がる恰好で背を丸めた仁王が小さく首を竦ませる。

「大した優等生じゃ」
「………普通だと思う……」
「普通なら俺も出来ちょらんとおかしいじゃろ」
「……それは、仁王君…が、優等生じゃないっていう事を言いたいの?」

慣れない外国の言葉を発するように名前を紡ぐと、案の定つっかえてしまう。
しかし呼ばれた当の本人は気にも留めず、器用にも唇の片端のみを持ち上げて笑い、鼻先をの方へと傾けた。

「俺が真面目な生徒に見えるか」

揃いの目は丸い光を帯び、足元が振動で揺れると淡くほのめいた。
どれほど笑みを浮かべていたとて三白眼が変化するわけでもない、相変わらず目つきは悪いが、かつて抱いていた恐れはすっかり影を失くしている。
春の頃、窓の向こうを眺めておきながらその実何ものも映していない硝子玉の瞳と、今を見下ろすそれは似ても似つかない所為で怖くはなかった。
あえて演じられていたのならお手上げだと言わざるを得ないが、でなければおそらく、つまらないとは思われていないはずだ。
感情のふり幅がそうそう表情に出ないであろうと思っていた人は、その眼差しに多くを含ませる質なのだと理解が及んで来、おぼろげな直感を頼りにしてが答える。

「…よく、わからない」

彼の視線の行方がじっと凝らされた。ほー、と間延びした声が落ち、二の句を待ちわびる空気で満たされる。

「もしかしたら学校ではすごくきちんとしているかもしれないし、反対に生活指導の先生に目をつけられているのかもしれないし。私、はっきり言い切れる程、あなたの事知らないもの」

話せと音もなく語る両のまなこに導かれ、舌が滑り良く回り出す。
聞き届けた仁王は眦をくしゃくしゃに曲げて笑った。

「あからさまに怖がっとったくせに、よう言うのぅ」

年齢を知るまでは年上の高校生と信じきっていたくらいの大人びた顔つきが、とんと幼く様変わりする。

「……ご、ごめんなさい。仁王君みたいな人、見た事なかったから。その…ちょっと怖かった。本当ちょっとだけ、初めだけ」

座席で小さく縮こまっていた春先が思い返され、一も二もなく謝罪を述べる他ない。
周囲全てをまるで相手にしていないように見えたのだが、そういうわけでもなかったらしい。自分では必死に誤魔化していたつもりだった所をあっさり見抜かれてしまった。
だけれどは悔いて歯噛みしやしなかった。

「ま、あんたからしてみれば俺みたいなのは縁遠いタイプの男じゃしな」

目を細めて笑うと、子供みたい。
胸中で呟いてみれば即座に染み渡る。
仁王の変わらずに上機嫌である目尻と唇を前に浮かぶ、真綿のような感情があらゆる雑事を遠ざけるのだ。
些か迷い、ありのままを口にする。

「というより、男の子から縁遠いんだ」
「流石女子校育ち。精々、ぼんやりせんと気をつけんしゃい」

茶化す声音が転がった。

「そうだよね。また転びそうになってもいけないし、気をつけます」

しかしここで憤慨、もしくは弾む調子に乗る類いの人種ではないは真正面から苦言を受け入れ、危うい所を仁王に支えて貰った過日に思いを走らせながら素直に頷く。

「あん時は吹っ飛ばされただけやき、おまんが気ぃ張る必要なかろ」

返す方も意外な程の真顔である。
が瞳を忙しなく瞬かせ隣の男を仰いだ。

「……吹っ飛ばされた」
「思いきり」
「肩が掠ったくらいじゃ?」
「そんくらいでこけそうになるんか」
「普通は、ならないけど」
「なら吹っ飛ばされたで間違っちょらん。よう周り見んアホもおるもんじゃの」

次の雨を乞い呆けていた自らにも責任の一端があると思ったが、否定をすれば芋づる式に理由まで述べねばならず、一人気まずくなりつつも押し黙るしかない。
横合いを素早く通り抜けていった所為で顔も見えなかった、あの日のサラリーマンへ向け、心の内でそっと謝罪する。
ごめんなさい、ちょっと濡れ衣着せちゃいました。
と、余所事にかかずらったを見咎めでもするかのように、あまりにも微動だにしないので幽霊か何かかと怯えたいつかの男が、ちょうどのタイミングで湿った空気を食むのであった。

「ああいう手合いが声掛けてきても馬鹿正直に相手しちゃならんぜよ。十中八九、損しよる」

見ず知らずの人へ対し、なかなかに酷い物言いだ。

「した事あるの?」
「……うん?」

嗜めもせず心に浮かんだ疑問を言葉にするに、白色に近い髪の持ち主が首を傾げて問い返す。凝らされていた双眸は今や不思議に揺らめいてい、少しばかり戸惑いを覚えるくらい真っ直ぐだった。先刻の笑顔に似て、幼さの混じった仕草。
それらの引力に過ぎた影響を受けぬよう、腹の底と足の裏へ力を入れて押し留まり唇を開く。

「損。そういう人? とお話しして、した事あるのかなって」

自ら発言しておいて疑問符がつくのは、そういう人とはどういう人を指すのかをいまいち理解していないからである。
先日のサラリーマンを指しているのであれば、彼は仕事に追われ急いでいただけであって、他人に言葉を掛ける余裕も暇もないだろう。よって一個人に限定されておらず周囲への注意が足りない者、という括りになるのかもしれないと考え、だがそうくるとやはり余所の人間へ気が向かないのではないかと思い直す。
理解及ばぬ部分を埋めんと欲した純粋な問いだったのだが、

「俺がか」

心持見開かれていた瞳の細められた、にやりだとかにんまりだとかの表現が似合いの笑みに気圧され、何やら己が間違った質問をしたのではと急激な不安に襲われてしまう。
一拍の間を置き、ゆっくりと首を縦に 振り下ろした。
すると、顎が俯くや否やの応答。
なるほど、そう来るか。
あるかないかの笑声が潜んだ一言で首後ろの間接が外れそうになった。
外見だけで判断するのであれば間違いなく、怖い、に分類されるであろう人物が発したとにわかには信じ難い、優しい響きだった。

「さぁて、どうじゃろ。手当たり次第に他人を構っとらんし、してないと思いたいのう」

が完全に首を持ち上げる頃には、すっかり窓側へと顔を向けている仁王が気のない返事を寄越す。だけれど片方しか窺えぬ目は硝子玉にあらず、儚い光を吸って煌めき佇んでいた。
は困った。
何に困ったのだと追求されれば更に困るしかないのだが、とにかく困った。

「ええと……私には損するってアドバイスしてくれたのに?」

あげく、自分の事はどうしてわからないの、付け加え忘れた足らない言葉を投げてしまい、吊革を握る手に汗を掻く。
やや混濁し始めた少女の胸中を知ってか知らずか、その足りていない部分を首尾よく察した様子の仁王が淀みなく答える。

「相手を選べ言うとるだけじゃ」

しかし微妙に真意をはぐらかした言い草だ。あえて他を排除し且つ自らの損得には言及せずへの助言のみに徹している、お陰で飲み込むまでにそれなりの時間を要した。おまけに、そうして綺麗に噛み砕き嚥下してみた所で全ては理解出来ない。
仁王は恐ろしい人物ではないが、実に難解なのだ。
身に染みて悟り、頭の中でううんと唸った。

「本ばっか読んじょらんと、たまには周りにどんな人間がおるか見てみい」

等と今日の空模様と同じくぐずついていたらば、髪が走る速さで仰いでしまう程の発言が落ち、軽い衝撃に目蓋が乾く。

「車輪の下」

一週間程前、仁王の声を初めて聞いた日以前から読み出した、今も鞄の内に仕舞われている本のタイトルを言い当てられては返す言葉もない。
何か言おうとし、結局は潰える唇の形が間抜けそのものとなったとて致し方ない事だろう。
うっすら鏡代わりとなった窓に、瞳だけでを見下ろす仁王の笑む様が映っている。
合った視線を逸らす事も出来ず、はただ無闇に呼吸を繰り返した。
てっきり一方的に、だと思っていたのに。

「そ…そんなに、本ばかり読んでるつもり、なかったけれど」

縦に長い車内で出会う都度異なる様相、掌中でころころと変わる持ち物、気に掛かって見ていたのは自分一人だと思い込んでいた。
というより、相対する彼が己を認識しているわけがないと、随分と最初から決めつけていたのだ。
それも当然だろう、電車に揺られる仁王はいつだって視線を集中させながら瞳から色を隠していたし、一度たりとも周囲の物や人へ注意を向ける素振り等見せず、車両が大幅にがたついた時でもぴくりとも動かなかった。
そのような男がどうして自分の顔を覚えてい、読んでいる本のタイトルまで知り得ているものと考えるであろうか。考えていたとしたら、相当の自意識過剰だ。

「電車ん中じゃ毎日読んどるんと違うか」

図星を指された気まずさと、胸奥を衝く感情の礫とがない交ぜになり、喉が詰まる。
息の端はか細く、心許ない。
がたん、とひと際大きな音を立てて車体が斜めに浮いた。が降りる駅の数個手前の駅に着いたのだ。アナウンスと共にドアが開き乗る人と降車する人とが行き来し、微かなざわめきと外を漂う雨のにおいが舞い込んで、肺の中でぐるぐると渦巻く。
1分にも満たぬ停車時間を過ぎ、再び扉の閉まる音が鼓膜に当たった。
電車の傾きは正常な位置へ戻り、ゆったりと速度を上げて走り出す。

「ハハ、当たりじゃな」

が言い知れぬ忍耐を重ねている間にも、心の内を読み取った仁王は低い声を連ね、しなやかにの領分へと潜んで行った。
不自然に隠し通そうとはせず、かといって乱雑に踏み入ってくるわけでもない、曖昧と言える距離。
臆し、拒み、足を後退させる余裕等作れそうもない。
ほとんど初めて聞く笑い声だった。
呼吸の隅に混ざりかけたものは今日何度か耳にしたけれど、確かな音と共に零れた今の響きに覚えがなかった。
やはりどこか子供のようで、少し優しく、話している時よりも幾段か低く聞こえる。
いっそう強く、胸の縁が揺れ動く。

「ま…毎日では、ないです……」
「そーか」
「………ほんとだよ」
「なんじゃ念押ししよって。俺は別に、嘘つけとは言っちょらんぞ?」

たたん、たたん、と電車特有のリズムに合わせて会話が進んでいった。
しずしずと鳴り響く心臓が収まった体の中心が温かく、緩やかな血の流れを芯から感じ、指の先まで温水に浸る。
硝子窓を打つ雨雫は絶える事なく伝い落ち、足早に過ぎ去る街並みをじんわり滲ませては震え、の目に染み入った。
一人ではなかった。
自分一人が見つめていたわけではなかった。
無論、は相手がどういった心境でだとか視線を向ける頻度だとかを推し量るすべ等持ち得ないから、つまびらかに知る事は叶わない。
だがそれでも構わない。
どちらがどれだけと比べるべくもなく、似た思いでいたのかどうかも考えさえもしなかった。
毎日同じ事の繰り返し。手元のページをめくるばかりで、周囲に気を払わない。本のタイトル。時折電車の中で会う。
何でも良い。
知っていてくれた事が嬉しくて、けして一方通行でなかった事に心が躍り、たったそれだけの事で感動を覚えている。
指で掴む傘の柄が温かい気がした。
口元が勝手気ままに弛緩し、胸の辺りと背中がまるで落ち着かない。浮き立つ足はいよいよ駆け出しでもするかという手前、車両の振動に紛れてわからなくなる。
は多くを尋ねはしなかった。
彼の人となりや部活での在り方、住んでいる場所、或いは連絡先等々と、世の人々が本来真っ先に入手を心掛けるであろう情報の数々に意識を向けなかった。というよりも、そういった発想がなかったのだ。
だって会える。
雨の日の午後になれば、この電車を使ってさえいれば、いつだって。
約束もなく不確か極まりない状況下にあって根拠の見当たらぬ確信を抱き、自らの降車駅に到着しいよいよ別れる時になっても、一抹の寂しさすら感じない。朗々とした心地よさを味わいながら、冷えた空気を運ぶ扉をくぐったのである。
その上仁王が、

「ほんじゃ、また。

等と言って寄越したのが尚悪い。
弾みが膨れ上がり体全部を一杯にしていって、曖昧だった予感へ形を与えてしまう。
つい先刻まで何も知らずにいた人の声で呼ばれると、自分の名前ではない錯覚に陥ってやまない。
同じだった。
少なくとも雨の日に再会を果たすという点においては、も仁王も揃って一致していたのだ。

「うん!」

鮮やかに泡立つ感情のままに答え、ホームへ爪先を遣ると雨の気配が濃くなった。
転瞬、振り返る。
吊革からぶら下がった、でなくば吊るされたように怠惰な姿勢と裏腹に、仁王の目元は静かに、優しく笑んでいた。



その凪いだ瞳の色がいつまでも残るお陰で、後悔といった類いの心情からは程遠い。
これまでになく長い余韻は晴れだろうと曇りだろうとを満たして、夢見を良くし、日々の気分までをも上昇させる。
楽しい。
嬉しい。
苦しさはなく、ただただ雨が待ち遠しい。
ごく緩やかに過ぎていく毎日は降り積もり、通学の途も軽やかに進む事が出来た。
だから、己の行動を悔いる時が早々やって来るとは、まるで思考の内に入れずにいたのである。







別の路線が信号故障か何かで運休したらしい。
駅のホームが常より混雑しているとは感じたものの、実際乗り入れて来た電車の様子を目の当たりにし、絶望にも似た心境に陥った。
足が怖気づく。喉奥から、う、と尻込みする声が漏れた。
可能であれば何本か見送り空く頃になってから乗りたかったが、帰宅時間が大体決まっている自分が遅れれば家族が心配するだろうし、何よりこの時間の電車でなければならぬ理由がある。
今日は雨だ。
それも、名前を知り、また、と挨拶して帰った日以来の。
見るからに満員電車の類い等死んでも御免だといった風貌の彼だから、別の路線を使う可能性も多いに有り得る、有り得るのだが万に一つでも乗り合わせていたら会う機会をみすみす逃す事となってしまう。
ブレーキ音が小雨に濡れる構内にゆったり響き、開かれた扉からぱらぱらと降りる人々が流れ出て来、それでも尚車中には所狭しと人の影が立ち並んでいた。
外からあの目立つ髪色を探そうにも、薄曇りとなった硝子窓が邪魔をして何も把握出来ない。
逡巡し、そもそも乗る駅降りる駅が日によって異なっていた、今眺めてもほぼ無意味だと気が付く。
そうこうしている内に発車を告げるベルが鳴り、は慌てふためき勢い良く電車に飛び乗った。

なるほど、荷が詰めに詰められた箱のような車内は想像に違わず最低だった。
座る所か立つ場所すらままならない上に、他人との距離がゼロに近い。
湿気た空気が口腔内ばかりか頭の天辺から足先までとはいかずともくるぶし辺りまで覆い、天候と無数の体温のお陰で淀んだ酸素がを埋め尽くしている。
これで上背があればまだましだったろうに、中学生女子の平均値より僅かに下を行くの背では到底意味のない仮定だった。
息が籠もる。
水気を含んだ髪の毛は重い。
夏服の袖から伸びる腕、スカート、靴下、あらゆる部分がスーツや鞄、傘と、誰かの濡れた持ち物で湿っていく。
肩を縮こまらせて耐える他なく水が張り付く感触に不快感を催したが、己も他人にそういった不便を強いている可能性がなきにしもあらず、内心文句を浮かべる余地もなかった。
楽しいはずだった雨の電車は、ただの苦行に様変わりする。
レールに揺すられるまま体を預け、ひたすら他を濡らさぬよう心掛け、生温く重たげな空気を無言で吸う。
仁王を探すとか会いたいだとか考えるまでもなく、は乗車数分で真っ先に悟っていた。
あの人は、これほどまでに居心地の悪い乗り物を使ったりしないだろう。
乗るわけがない。
人ごみやら混雑やら、人並み以上に毛嫌いしていそうだ。
反芻すればする分、元々落ち窪んでいた気持ちが更に深い谷底まで駆け下りていって、知らず知らず俯いた視線を、無数の足の狭間に埋もれそうな自らの靴へ当てた。教科書や図書室で借りた本の入った学校指定鞄が重石となって腕に圧し掛かり、旗色の良くない気分までをも道ずれに引きずり込もうとする。
天気予報を念入りに確認した昨日までは舞い上がっていた心地は失墜し、更に墜落地点のみに留まらず地の底へめり込んだ。
楽しくない。
雨が降っても、そこに彼がいなければ、どんな天気だろうと意味がなかった。
縮み通しの肩が落ち、萎えた肺はか細い呼吸を繰り返す。
吊革や手摺を掴む隙も間もない車内で、失望と諦観にまみれたは溜め息すら吐かずにしおれていた。

そうして修行僧か石像かという表情ないし体勢で長すぎる十数分を耐え抜き、ようやっと慣れた駅名のアナウンスが鼓膜まで届く。
到着するまでの間、駅に止まる都度幾度となく人の行き来があったが、かの人物の片鱗さえ見出せず、車内の人の数自体も変わらないままであった。
当然の結果だと理解しているのに落胆は消え失せない。
減速していく電車内で出入り口側にと体の向きを変える。
立っていた場所から一歩、二歩、三歩、小さな動きを繰り返し、今まさに開かれんとしている救いであり終わりの合図でもあるドアへ進もうとし、行き詰った。
動けない。
人と人とが重なり合わさり、堅牢な壁としての前に立ちはだかっている。
気の抜ける開閉音が奏でられたのを、居並ぶ誰ぞの頭上越しに知る。
待っていた所で降りる機を逃すだけだ、精一杯の力で背中と背中の間を縫い歩き、ごめんなさいと口にしながら突っ張った腕で壁を掻き分けていった。
だがしかし、あともう一歩、距離的には四歩といった箇所で完全に道が途絶えてしまう。
押してみる。
とにかくひたすら押してみる、壁はぴくりともせず急く息が空回る。
発車までそう猶予はない。

「……すみません! 降り…っます」

意を決して心持大きな声で主張すると、何人かの人が微かなスペースを作ってくれたが、残念ながらが抜け出せる程度までは達しなかった。
混み具合からして避けるのも限界点があるのは重々承知しているので苛立ちは抱かなかったけれど、焦りと困惑の方は拭えない。この調子でいたら終点まで行ってしまいそうだ。
ぐっと腹にあるだけの力を入れて、そびえる壁に立ち向かおうと半ば割り込ませていた半身で前進しようと試みた、ちょうどその時。
扉を目指し伸ばしていた腕、手首よりやや上、肘に寄った箇所が誰かの掌にむんずと掴まれる。
左手だった。
触れた力強さと冷たい体温に全身が毛羽立つ。
間髪入れず人の群れの中で垣間見えた黒いリストバンドが目の奥を焼き、瞬間、甲高い発車のベルが響き渡った。
声を上げる暇もなく思い切り手を引かれ、あれほど堅固だった壁も数秒かからずして抜け出してしまう。遠慮なしに左右の誰かと接触したので、さぞかし不愉快だったろうが、気遣う余裕が今のにはない。
触れている肌の薄皮が熱い。
よろめくはずの所を何故だか健全なまま通り過ぎ、瞬く間にドア前まで辿り着いて、着いたと思ったら背中を優しく叩く感触にはっと呼吸が止まった。
突き飛ばされたわけでもないというに、体はすんなりホームへ移動していき、そのさ中で握られていた腕が離される。乱雑等といった言葉から程遠い穏やかな所作だった。
つんざくベルが沈黙した代わりに扉の閉まる音が雨風に乗って流れて来、見てもいないのにほとんど確信するは即座に振り向いた。
結露で白く染まる窓を大きな掌で一拭きして、口の端をひょいと持ち上げる人がいる。
いつもと変わらぬ位置で、人波に押し潰されも塗り潰されもせず、悠々とした余裕すら感じさせる雰囲気の、彼が立っている。
硬いはずのコンクリートが足の裏でぐにゃりと歪んで、ホームの屋根を打つ雨音がにわかに強まる途端、一様に静まり返る。風に煽られた髪が頬を掠めて舞った。
息を飲んで、一拍。
あ、だか、う、だかともかく意味を成さぬ一言が舌上を転がる寸前、ドアの向こうの男は唇だけで言葉を紡ぐ。
と。
ろ。
い。
読唇術なぞ習得していないにもすぐわかる動きだった。
仁王君。
呼ぼうとして、何故だか潰える。
初めは恐れ、時に好奇心に満ちた猫のように揺らめき、子供みたいと感じた事もある両のまなこは凪いでいた。
抗い難い彼の引力に心ごと捕えられ、固まったままの足が震える。
ざわめきが止んだ。
雨に濡れた空気も何処かへ姿を消していた。
渇いた唇が無為に酸素を含む。人々の行き過ぎる反響は耳に遠い。
ともすれば茫然自失と言える状況のへと、間に分厚い硝子を挟んだ仁王が口元で語りかける。

――またな。

実際は聞こえていないはずなのに、明瞭な声が脳裏で響いた。
鈍色のドアに額と左肩を預け寄りかかり、腕を組む人のかんばせの角度が柔い。
長い前髪がはらはらと鼻筋にもたれかかって、投げられる眼差しは微笑む気配を抱いており、の心臓までも止めようとする。
彼にまつわる全てのお陰で息の出来なくなった胸が甘く痛んでどうしようもない。
舌の根で絡まる名前は無闇に熱を持つ。
まるで忍びでもするかのようそろそろと走り出す電車を僅かに追おうとした己に意識が向き、数瞬かけて押し留め、先程とは違った意味で動けなくなる。
かといって改札口へ向かえるわけではなく、どこにも行けない。
言うだけ言い、の反応を確かめるだけ確かめ事足りたのか、仁王はふいと顔の角度を逸らして窓の傍から離れた。
はと言えば半端に薄く開いた唇のまま、ただ呆けて見送る他なかった。
幾重にも水の粒を纏った車両は行き過ぎ、彼の影すら残っていない。
打って変わって静寂が支配するホームに、重くたれこめた天から降り注ぐ雨音だけが反響している。
頬が熱いのは紅潮しているからだ。
今更高鳴り出した心臓が疎ましい。
どくどくと体のあらゆる内側で響く鼓動は、やたらに存在を主張して来ていた。
誰が聞いているわけでもなというのに、勝手に消え入りそうになる息はか細く、訳の知れぬ焦燥を余計煽る。
ありがとうの一言も掛けられなかった。
今日叶える事が出来なければ、次の機がいつ巡ってくるかは誰にもわからない。
何せ天気頼りなのだ。
まさに神のみぞ知ると表する他なく、に打つ手等有りはしない。
後から後から、聞きたい事や伝えたい事が湧いてくる。

住んでいる場所、連絡先。
雨の日以外の帰路。
もっとずっと確実に出会える方法。
約束をしたいと願っても、不快に思われないだろうか。
ああも混雑している電車に、いつも通り、いつもの車両、いつもの位置に乗っていた訳を問うても、嫌われやしないだろうか。
例えば数え上げたとてきりがないくらい、幾つもの声が肺の奥底で渦巻く。
その中で一等強く浮彫となった感情が、喉を切り裂かんばかりに込み上げた。


どうして私、もっとたくさんあの人の事を聞いておかなかったんだろう。





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