降るぞ降るぞと朝から天気予報士が散々注意を呼び掛けていたのは把握していたが、まさかこうも突然の土砂降りになるとは夢にも思わなかったのだ。
今まで抱いてきたどの待ち遠しさとも異なるものを胸に秘め、緊張に似た心境でテレビ画面に映る雲と傘のマークを睨んでいたのは、昨日の事。
季節外れの台風は関東地方の遙か手前で温帯低気圧に変わったものの、もたらした雨雲まで雲散霧消という訳にはいかず、昨今よくよく耳にするゲリラ豪雨なる現象を誘発する可能性が大きい。
とは毎日お世話になっている予報士の言だった。
昼過ぎまでは曇りがちな空模様で、夕方頃から局地的な雷雨になるらしい。
キッチンテーブルを拭く母親が、嫌ねえ、急に降って来られると洗濯物が困るのよ、切実な音色でぼやき、風呂上りで涼むついでにソファに座り、妙に真剣な眼差しでテレビを眺める娘の様子に気づかぬまま続ける。
きちんと傘を持って行きなさいね。あなたの事だから、忘れたりはしないでしょうけど。
うん、と答えるはしかし、余所事で頭の中を埋め尽くしていた。
手を引かれ混み合う車内から下ろして貰った日からそう時間は経っていないはずなのに、うんざりする程長かったような気がする。
またなと言ってくれはしたけれど、豪雨となれば先日の二の舞となるかもしれず、会えるかどうか不確定だ。
もし会えたとして、自分が聞きたい事を上手く尋ねられるかもいまいちわからない。
急くあまり、とんでもない失態を犯しそうで恐ろしかった。
人目を引く髪の色、猫背、傍にいると第一印象を覆す程豊かな色合いを見せる瞳。
笑む唇と、ひんやりとした手の温度。

雨と聞き、よぎる姿なんて一つしかない。


さて、が長らく信を置いてきた予報士は流石の腕前を見せる。
明けた朝はうっすらと太陽が見え隠れし、昼食を終える頃合いになれば本格的な曇り空、やがてどす黒く染まって、遂には自重に堪え切れず巨大な水風船が破裂する勢いで大粒の雨を零し始めたのである。
不運にもちょうど駅へと続く道の上にいたは無論用意していた傘を差したが、三分と経たぬ内に無意味だと悟った。音に聞くゲリラ豪雨の威力を見くびっていたと言わざるを得ない。
意味がないのだ。
傘を差していても。
けたたましい雷鳴が空を割り、嵐かという程強く吹く風の所為で足どころかほぼ全身が湿り気を帯びてしまう。
傘を打つ雨雫は最早雫と呼べる次元でなく、エアガンの如き鋭さで落ち当たって来、その内貫通するのではないかと半ば本気で危ぶんだ。
周りを歩いていた人々は一目散に駆け出して、僅かな屋根と成り得る軒下や少し遠くに見えるコンビニへと逃げていく。
ええー、嘘でしょ、これはすごい、やばい、各々の悲鳴も凄まじい雨に掻き消され途絶えた。
荒天も荒天、酷い状況下でのんびり歩く訳にもいかない、というか出来ない、釣られるように走り始めたの靴はすっかり濡れそぼっている。だけれど雨宿りをするという選択肢は元より有り得なかった。
今居る位置から駅まではそう長い道のりではない。
意を決し速度を上げて、濡れるというより丸ごと水に浸かったと表現するのが正しいくらい、乾いた部分の見当たらぬ街を駆けていく。
いるかもしれない。
いないかもしれない。
むしろ不安要素の方に比重があったとて可能性がゼロでない限り、同じ時間に同じ電車に乗らなければならないのだ。
にはそうしなければならぬ理由がある。
心の望むまま、願う通りに動けなかった時、手痛い後悔を味わうのは自分だともう知ってしまったから、余計な思考に手間はかけない。

濡れようとも雨宿りをする人に笑われようが構わず必死に走り、駅のロータリー手前に辿り着くと雨は些か小止みになった。
といっても降り出しの天変地異並の勢いがやや削がれた程度で、大雨は大雨だ。
感覚の麻痺を認知しつつ、苦しげに荒れた呼吸で改札口へ続く構内に駆け込む。
畳んだ傘から、水滴等という可愛らしい単語の似合わぬ量が滴り、元々濡れていた床を滑って滲んでいく。
いつもの比じゃなく人ごみで溢れている駅の電光掲示板を見遣れば、強風、豪雨、浸水等々で早くも運転を見合わせている区間が映し出されてい、落とす部分もなくなる程目一杯肩を落とした。
何の為に全力疾走したのかわかったものではない。
ここ数年で最も落胆した。
ああもう今日は会えない、けれどこれだけ広範囲に影響を及ぼしているなら彼もどこかで立ち往生しているかもしれない、まぜこぜになった思考を保ちふらふらと壁際まで移動する。
掌に収まる端末でどこぞへ連絡している人、すごいねと言い合いながら空を仰いでいる誰か、駅員に今後の運行状況を尋ねる濡れた背中、掻き分けぽっかり空いたスペースに体を預けた。
深い息が体の底から流れ出、不思議と力が抜けて冷静になった。
雨の勢いが凄すぎて怒りさえ沸いてこなかった所為だろう、よしこうなったらもうしょうがない、引きずらないでさっさと割り切る。
最早爽快感を抱いたと言っても過言ではない。
人知の及ばぬ天を恨んでも仕方のない事なのだ。
仁王の姿を見出せるか否かはひとまず置いて、問題点はこの後如何にして帰宅するかに絞られる。
歩くにしては自宅は遠いし、電車の運行再開を待っていたら何時になるか予測がつかない、タクシーは強烈な土砂降りのお陰で皆出払っており、家へ電話しようにも手段がなかった。
最も現実的な選択は再開を待つ事だが、そんな悠長に過ごしていては風邪を引きかねない。何しろ濡れ鼠もいい所のずぶ濡れである。
かろうじて上半身は湿って重たい程度に留まっているが、肩の一部分や髪、スカートから下の足は擁護のしようもなく雨に侵されている。
とりあえず、と飛沫を浴びた鞄を開け、ハンカチを取り出した。突っ立って何もしないでいるよりは幾らか良いだろう。
頭と肩先を軽く払い、スカートの水染みを抑え、太腿に伝う水気を拭き取っていく。
布地を裏返して、膝も包んだ。
肌に張り付き、嫌な感触をもたらしている靴下へ同様にハンカチをあててみるも、やはり想像通り酷い有り様であった。
濡れてるっていうか、池に浸かってるみたい。
しみじみと遠い目になる。
可能ならば脱いで絞りたいくらいだが人目がある為それも叶わない。仕方なく小さく引っ張っては指先で摘み、位置を下方へとずらしまた引っ張り、数度繰り返した所で痺れを切らした。
埒が明かない。
おまけに中途半端に弄った所為で、気持ちの悪い不快感が増していた。
は曲げていた背中を僅かに正し、右に左に視線を巡らせ、誰一人として己を注目していない事をざっと確かめる。
尻側のスカートを手で抱え込み、幼児のようその場にしゃがんで、やるなら手早くと左の靴下をくるぶし辺りまで一気に下げた。
剥き出しとなった素足を拭く。
それからくるりと丸まった靴下じみた残骸を握りあらん限りの力で絞った。
浮き出す水滴が指や掌をじんわり濡らす。
布地の萎びた様子を見、理想の脱水は叶わなかったものの放っておくよりは随分良い、結論付けて右の足に取り掛かろうとして、ふとハンカチを握った手が揺れた。
根拠も証拠もなかったから直感と言うのが適当だ。
……見られてる?
胸中で呟くと途端に確かな質量を帯び、冷たく湿る肌で感じた眼差しは形なき形を持つ。視線の帯がの髪、肩、足、爪先、様々に触れていた。
反射的に顔を持ち上げれば気管が固まる。
気だるげに頬杖をつく手首に、見覚えのあるリストバンドがはめられていた。
常と異なり同程度の高さに見えるのは、相手が座り込んでいるからだ。
ポスターの貼られた支柱に背を預け、ずり落ちでもしたのかといった風情で目線を流している。
結ばれ動かぬ薄い唇が遠い。
頬に添えられた手は大きかった。
前髪の向こう側に在る、揃いの目から色が抜け落ちていた。
かつて比喩した、硝子玉のそれ。柔くはない、鋭さを孕んだ眦に笑みはない。
だけれどとても真っ直ぐに向けられており、逸らされる気配はなく、瞳孔の表層に浮かんだ光の後ろで何か熱が凝る。
そのようにして、仁王はをただ見つめていた。

「にっ……!」

今度ばかりは声を奏でたが、体勢を起こした反動でたどたどしい弾みと共に名前を口にした。
仁王君。
立ち竦み、すぐさま背を曲げる。だらけた靴下を引き上げる為だった。
右と左とで感触がまるで違うのは非常に落ち着かなかったが、些事に気を回している場合ではない。
慌てながらも足元を整え、鼻先を彼の方向へ遣るより早く、微かな影が降る。
がもたついている間に距離を詰めたらしい、変わらぬ眼光を宿らせる仁王が音もなく立っていた。

「気づくんが遅いぜよ」

全く以って当然の指摘である。
割合近い真正面に陣取っていた、会いたい人に何故気づかなかったのか自分でもわからない。雨の所為だと口にしかけ、なすりつけるのは良くないと思い直した。

「ご……ごめんなさい」
「右と左の確認して正面飛ばす理由がわからん」

ぐうの音も出ない。間抜けと評されても反論出来ぬ失態だ。
今再び謝罪をしようとし、

「おまけに、ようけ人がおるとこで脱ぎ出すしのう」

とんでもなく誤解を招く発言をされて吹き飛ぶ。

「そんな事してないよ!」
「してたじゃろ」
「い、いつ?」
「今。豪快に足見せとった」

酷い言いがかりにも程があるが、何から何まで的外れかというとそうではなく、は抗い切れずに両頬を羞恥に滲ませた。
自らの行動を辿れども辿れども、誇れぬシーンしか掬い上げられない。はしたなく、行儀の悪い所を目撃されてしまった。
それも最初から、余す事なく。
彼がいつから居たのは知れないが、口振りには色々と察しているのが推測される、一部始終と考えるべきだろう。

「……あの、見せようと思って見せたわけじゃなくて。…そのぅ……濡れてて気持ち悪かったし、ちょっとでもいいから拭いておきたかったの」

しどろもどろと言い訳じみた弁明をし、何とか顔に集まる血の気を引かせようと試みる。
小さな恐れを含ませながら眼前の人を仰げば、相も変わらず色の落ちた瞳がを見下ろしていた。
終ぞ異性から向けられた事のない種の眼差しに、喉はひくつき、及び腰になる。
優しかったはずの目元が張り詰めてやまず、だが悉く興味の失せた様子かと言えば違う、怠惰極まる空気もなく、以前と等しくつまらなさそうに眺めているのでもなかった。
どれかを選ぶには、仁王の視線は強すぎた。

「……プリ」

言い置かれた単語の意味は理解出来ない。
けれどなんとはなしに、怒っているような気はした。
頼りない第六感で判じ、でもだからといって何か打つ手があるわけでもない、どう返そうか戸惑っていると不意に彼の目蓋が綻んだ。
預けられていた視線は宙を舞い、さっと剥がれる。

「まぁ、ええ。しっかしどこの誰が見とるかわからんからの。やめときんしゃい、あーいうのは」
「…………はい」

外見に反して至極真っ当な注意をするので、頷くしかなかった。
でなく改札口上の掲示板を見入る瞳に、先程微かに感じ取った怒気の類いは浮かんでおらず、ほぼいつも通りだ。すいと流れ切れた眦が美しい。
何が何だかわからないが、どうやら事なきを得たらしい。
ほっとしていた所、独り言に近いトーンの声が降る。
立ち往生か。
運行再開の目処が立っていないので、その表現は正しかった。

「うん。私、少し待ってみようかと思っていたんだけれど」
「気の長い話じゃな。夜んなるぞ」

よく見てみれば、の濡れ加減に比べ仁王の方はかなり軽度で済んでいる。
流石に足の裾辺りは色が変わっているが、以外の制服やネクタイ、ラケットバッグはどういう原理かほとんど無傷であった。
降り出す前に駅へ駆け込んだのか、それとも濡れずに走る秘訣でもあるのか。
後者なぞ人間離れした仮定であるにも関わらず、やってのけてしまいそうだと拭い切れぬ辺りが謎だ。理由なき説得力というか、底力を秘めているよう目に映る。
傍にいるのは仁王雅治その人だと知覚しているというに、重要な中身や人となり、どんな事が可能で不可能なのか、この駅にいる訳と来るにあたっての順序、一つとて予測が立てられない。
汚れたハンカチを鞄の内ポケットに仕舞いつつ、私って本当に何も知らない、仁王君の事、とは胸の内で呟いた。

「連絡して迎えに来て貰わんのか」

悲しい自覚を含んだ寂寥に身を委ねかけ、低い声音に揺り動かされる。
仁王の目線の行き先は、改札付近からの側へと戻って来ていた。

「お迎えって、私?」

無言で首を縦に振る仕草は呆気ない。

「家に誰かおれば、じゃけどな」
「……いるとは、思うけど……」
「したら電話しろ。俺はともかく、あんたの場合遅うなったらいけんよ」

簡素に言い切る口調はともすれば反論を許さぬ勢いに聞こえたが、籠められた音はそこまでの冷淡さを持ち得ておらず、そっとの心に打ち響く。
連鎖して、醜態の所為で忘れ去られていた感情が蘇る。
幾つもの聞いてみたい事、尋ねられなかった後悔、所以の定まらぬ緊張、一度ならず二度までも助けて貰った礼。
混ざり合い、優先順位すらつけられぬまま、震える舌で口腔内の空気を押した。

「でも、あの。出来ないから」
「出来ない」

綺麗なおうむ返しに相槌を打つ。

「公衆電話があれば出来たけど、この駅にはないみたいだし」

誰しもが聞き覚えのある大きな駅ならあったかもわからないが、そこまでの知名度も広さもないここでは期待するだけ無駄というものだろう。
にとっては当然の返答に、仁王の方はどうにも訝しげだ。

「なんでわざわざ公衆電話。ケータイ使えばええじゃろ」
「ええと…私、持ってないんだ」

ハ?
と疑問符の付いた一声を上げる仁王がきょとんと目を丸くした。笑顔と同じく、やはり幼い。
妙に焦ったはわたわたと付け加える。

「買って貰えてないの。中学生の内は必要ないでしょって。高校生になったら検討するって言われてて……だから、公衆電話」

自分にしてみれば常識も常識、特に異も唱えなければ疑問を抱いた事もなかったのだが、この反応から察するにそうでもないようだ。
悪事を働いているわけでないというのに、嫌に居心地が悪かった。
数拍置いて仁王が長い溜め息をつく。呆れているような、感心しているような、上手く掴み取れぬ音だった。
吐き終わったかと思えばポケットに潜り込ませていた左手を首へ遣り、血管の走る辺りを摩り撫でながら言い落す。

「俺の見立てが甘かったな。ほんまもんの箱入りじゃった」

あからさまにからかいの色が含まれていたので、思わずといった調子で否定する。

「は、箱とか、入ってないよ」
「んじゃ入れられとる」
「入れられてもない! 持ってない子は他にもいっぱいいるし、そんな特別な事じゃないと思う」
「そーかの。俺の周りじゃ持っちょらん女はなかなかおらんが」

ついさっきまでの硝子玉はどこへやら、薄明るい光に揉まれ、ほんのり揺らめくまなこの色彩がを照らし出す。
繰り返すが、怖くない。
だけど別の所で怖気づいた。
単に物珍しいだけか。
周囲に自分のようなタイプの人間がいないから。
ただ、それだけの事なのだろうか。

「……。睨みなさんな」

そがいに床ばっか見てどうする。
笑いを噛み潰した声が楽しげに転がった。
くく、と今時本やテレビでも見かけぬような悪い微笑みが聞こえてきそうだ。
止めて欲しいとは思ったが応じようもなく、二の句が継げない。
喧噪の満ちる構内は湿ったまま、ぬるい空気という空気を閉じ込めている。
水の侵入を許した靴の中が気持ち悪い。
雨は楽しいばかりではないと知ってしまったから、もう諸手を挙げての歓迎は出来そうになかった。
僅かに疼くしこりの理由が見つからず、眉を顰めて思案するの耳へ、軽々とした言葉が染み込む。
ほいじゃ、行くか。
に語りかけるのは仁王しかおらず他の誰か等考えられないが、いざないの訳は全く不明である。
睫毛と鼻先を持ち上げ、既に外へと体の向きを変えているその人を引き止めた。

「行くって、あの、どこへ?」

すっきりとして無駄な肉の付いていない顎が、笑んで囁く。

「どこでも。とりあえず、ここ出んか。突っ立って待ってても仕方なかろ。なんなら歩いて帰ってもええ」

どういうわけか、本当にどういうわけか、仁王の台詞は仁王自身ばかりでなくにもかかっている。
うんだのすんだの答える前に当然の如く数に入れられてしまっているのだ、唐突極まりない事態に即対応出来る程、は要領が良くない。

「え、え……でも、わ、私一緒でいいの?」
「よくない理由があるんか?」
「……わ、わかりません」
「ああそうじゃのう、お前さん俺をよう知らんからな」

いつぞや投げてみせたの言葉を逆手に取った仁王が笑い、悪けりゃ初めから声掛けとらんよ、実に手早く疑問の一つを断ち切った。
けど仁王君、濡れちゃうよ。
元から濡れちょるし、雨もおさまってきとるから平気じゃろ。
出入り口の方角を顎でしゃくる人に釣られて見ると、確かに雨脚は弱まっている様子だった。いつの間に、と気づかなかった己自身に驚く。
ひと度溢れると打ち止めるべきちょうどの所が曖昧になって、口はするすると滑るばかりだ。
仁王君の家は遠いんじゃないの。
早く帰らんといけん理由なんぞ、思い浮かばんのう。
ここから歩いたら、疲れちゃうかもしれないし。
現役テニス部の俺がくたばるんなら、その前にまずおまんが倒れるじゃろな。
雨に濡れて風邪でも引いたりしたら。
そこまで軟弱に見えよるか、俺。
丁寧に、一つずつ、厭いも飽きもせず、の些末な肯定の為の否定に答える彼の表情は、むしろ次の問いを待ち構え、早く聞いて来いと急かすようだった。
眩く面映い、雨模様には相応しからぬ胸の奥がささめいている。
唇を引き結ぼうとし、喜色に寄った感情の細やかな欠片達が零れるからどうにも上手くいかず、見る人に柔い印象を与えてしまうであろうへ仁王が首筋を傾けた。

「たまには寄り道してみんか」

これ以上ないくらい抗い難いお誘いに、元より崩れかけていた頬が尚緩みそうになる。それを黙視し、続ける声は穏やかだ。

「せんでも家まで送る」
「ええっ!  い、いいよ、そんな。仁王君の家の方向と絶対違うし、遠いと思う。というか私の家がどこにあるか知らないでしょう?」
「なら教えて」

思わぬ申し出に焦って散らかった回答をあっという間にまとめた仁王が、じっとを見澄ます。
雑踏の中。
遠くで降る雨の音を払い除け、揺れゆく光に染まる瞳で、恐れはないが怖いくらい静かに。
息が詰まった。

「俺に、お前の事」

耳と言わず鼓膜と言わず、胸と言わず心と言わず、体のあらゆる内を巡る声音は近くに在っても夢のようである。
芯に確かなものを据えた響きなのに、滲む柔らかさも孕んでいた。
硝子玉。幼さが残る。優しく緩む。
抜け落ちた色の深さ。
逸らされず、底にある煌めき。
とりどりの印象を持つあの目元が、微笑む一瞬前の形にやんわり曲がって、淡くなる。
それから、和らいだ呼気がふと漏れた。
喉を閉じた自分には覚えがない。
仁王のものだった。

「のう、優等生? 質問に答えるんは得意じゃろ」

細められた二つの目が大層甘く笑んでいた。
今度は自分の番だと暗に伝える一声と眼差しは、他の誰でもなくだけを穿つ。



お互いに、等と都合の良い夢想を語るつもりはない。
彼と自分とが同じ気持ちだったなんて、天地が入れ代わったとしても言えない。
けれどおそらく、一人きりで願っていた事ではなかった。



蒸発し切れぬ水気を含んだ髪と服が重たげにしなり、肩へ食い込む鞄の紐もやはり微かだが濡れている。
急激に速さを増していく鼓動が皮膚の下でがなってうるさい。暑い。
駅員が拡声器を使い運休の旨を知らせ、人々の行き来が激しくなり、一方では聞き耳を立てる為か停止し落ち着く。
晴れた日よりも重力を増したかのような空気に背中を押され、唇が震えてしまう。

――私。
私も、聞きたい事、教えて欲しい事、いっぱいあったんだよ、仁王君。

思いの強さに反して、何も言葉にならなかった。
解決策なきもどかしさには途方に暮れたが、眉の上、頬、鼻や唇、隙間なくあてられる仁王の視線が離れていかないので、ろくろく迷う事も出来ない。

「……あの、あのね」
「ん」

雨の気配は変わらぬまま色濃く、暗い雲にまみれる空が遠雷に轟き泣く。
うっすらとあたたかな火の灯るようなの頬を、雄弁な瞳の持ち主たる仁王が見つめていた。
車両から眺めている一方であった濡れゆく街へ、二人並んで踏み入る事が決まるまで、あと二秒もかからないだろう。





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