01



はじまりを追えないのは、どこから手繰れば良いのか見当もつかないからだ。



この頃の仁王は益々もってわけがわからない、とは思う。
機嫌が良さそうだったりはたまた悪かったり、唐突に名前を呼んでは沈黙し、一緒にいても明後日の方向を睨んでいる。
元より気まぐれが服を着たような人だと知っていたが、それにしたって昨今の浮き沈み振りは珍しい。しかしなんとなく、程度の確信しか持てず、直接尋ねるまでには至っていないのが現状だ。
否、それだけではない。
思索に耽る己へ否定する。
言い訳だと責め立て、他の理由を探し始める本能が押し留められない。
本当は仁王の変異など存在しておらず、ただ自分の中で何事か起きた故の錯覚かもわからない、問い掛けて否定されるのが恐ろしく、かといって肯定されても上手く返せる自信はなかった。
聞きたいと焦れる一方、聞いてはいけないような気がするのだ。
妙な焦燥は、眠らなければいけないのに冴えたままの夜に似ている。

呼ぶなと告げられた日以来、見えなくなってしまった瞳の色を二度と会いたくないと願う程度には避けているのに、同じくらい恋しく思い返すのはやはりおかしいのだろうか。
横顔をなぞり、頬で撥ね、胸に宿った熱が消えてくれない。

拒絶らしい拒絶に打ちのめされ切羽詰っていたは、仁王の言葉を上滑りさせたひと時を後悔し始めていた。無論、望んだわけではないが、結果辿り着いたのが今の状態なら故意であろうとなかろうと同じ事である。
異変をしっかり感じ取っていた。
よくわからないとまで口にしていたし、納得させるのが上手な彼らしからぬ物言いだったのに、雅治がそう言うならそれでいい、と蓋を閉じてしまった。手痛いミスだった。
もしかしたら転げ落ちたものを仕舞おうとしていたのは彼の方だったかもしれないけれど、可能なはずの抵抗をしなかったのはこちらの落ち度、つける文句など存在しないだろう。
ほんの一時のゆるしは心安く、何かから背いたわだかまりを薄れさせる。
仁王の底にある怒りともとれぬ、しかし切先の尖った感情がどこかへ逸れた事に息吐く浅はかさ。元の聞き慣れていた音色にあっさり騙され、大事なものを見落とした。
安堵で満たされ気付かない。
すべて問い詰めてこそ誠実とまでは言わないが、人を、それこそ十年来の幼馴染を思うのであれば、もっとやりようがあったはずなのだ。
歯噛みする他ない。
特別壊れやすい何かを包み込むように名を呼ばれ、胸が震えた。
今まで感じていたむず痒さと異なる、動揺と歓喜が綯い交ぜになった息を呑むと、体の全部が熱くなった。
どうしてか視界が僅かに潤む。自分の名前のはずなのに、とてもそれとは聞こえない。
けれど同じ唇が、一つの揺らぎも窺わせず言い切る。
わからない事をいつまでも考えなくて良い。
聞いた当初は、許しを得られたと浮かれたものだが、時が経てば経つ分、消えない染みとなって心に跡を残していく。
気にするなと気遣われたと思ったのだ。
俺が悪かった、ただ虫の居所が悪くての、八つ当たりじゃ。
そうして仁王が謝ってくれている、ひどい自惚れだと後々頭を打ちつけたくなるほど、己にだけ都合の良い解釈をし、心からほっとしてしまった。
余程他に回す思考能力が鈍っていたのか、少々考えれば幼馴染がそのような性質ではない事くらいわかるはずだというのに、ただ不安を溶かしてくれる材料として飛びついただけで、真摯と言うには程遠い。馬鹿を通り越して愚かだ。

この解は致命的な間違いを犯している。

証拠に、いくらかましになってきた脳味噌から送られる電気信号が、胸のやわい奥を突いて痛い。
彼は平坦なる声色で、当たり前のように続けた。
俺はちいとも怒っとらんし、お前にああしろこうしろとは言わんよ。
どうでもいい。
お前には何も求めない。
わからない奴に話しても仕方がない。
今更、あれから大分経ってそう受け取る自分は、被害妄想の塊なのかもしれない。だけれど、どうしても突き放され閉め出された気持ちがなくならなかった。
仁王は変わらない、というより変わらなさ過ぎて違和感を抱くほど以前のまま、慣れ親しんだ幼馴染の顔以外を一切表に出さなくなった。
ある種の熱を帯びた眼差しも、深みに在る感情の滲んだ声も、ふとした瞬間に崩れた笑みも、嘘のよう失せて消えているのだ。
会話から気詰まりな空気が抜け、置かれた距離はひたすら気安い。
時折、一緒に帰る。
幼馴染ってだけで、彼女とかじゃないんでしょ。
知らない女子生徒に問われた日は、災難じゃったのう、からかう瞳で低く笑う。
幼い思い出を語ってみせれば、厭う素振りもなく応じてくれた。
無表情では決してなく、冷たい態度も取られていない。
しかし、仕草や声音、優しくはない目つき、彼を形作るあらゆるものから、付随してくるはずの感情が欠け落ちていた。
求められたが故に、ただ演じているだけ。
が見送ってしまった大事ななにかを隠し、綺麗な覆いを施して目の届かぬ所へやってしまっている。蓋すら見えないから、探しようもない。
コート上の詐欺師の異名で恐れられている彼を問い質した所で、ないもんはない、あるなら言ってみんしゃい、ほれどこじゃ、などと体よく追い払われる未来しか予想出来ず、思い悩んでいるのかもしれない、ぼんやり掴む瞬間はあっても彼の水底はから遠く、尋ねる切っ掛けすらこぼれていなかった。
一つの不純もない、清廉な真白。耳触りの良い響きばかりが溢れてくる。
それが寂しい。
どうしようもなく、寂しいのだ。
普通なら関わりの薄れる年頃である幼馴染といまだ付き合いがあるだけ良い、充分なはずなのに、あの日に戻ってやり直したい、などと真剣に悔いる欲の深さを振り払えないでいる。
じくじくと締め付けられる喉の下、心臓の背中が苦しくて息がし辛い。
詰まった気管では雅治と呼ぶのに苦心し、瞬間、どうしたと顔色も変えずにこちらを向く仁王と目が合えば、よすがのない色合いに絶望した。
自分では駄目なのだとひといきに切り捨てられた、行く道の端に潜む暗闇へ落ちる心地しかしない。
拒絶には見えぬ仁王の拒絶に、は時たま夢を見るのと同様逃避した。
もっと子供なら良かった。
ああ、怒ってなかったんだな、じゃあいいや、また一緒に遊べる、幼馴染でいいんだ。
素直に安心するくらい幼ければ良かった。
玉石混合たる日々をふるいにかけ、残った美しいものだけ眺めては目を細めた。
仲直りなんて概念さえない、喧嘩をして大泣きしても翌日にはすっかり忘れている、完結された小さな世界で生きていた頃が、やけに眩しく思えて仕方ない。
ところが、願うだけ虚しさが増えていくものだから、余った感情の行き場などなきに等しく、この頃のはあからさまに憔悴し物憂げなのである。
それが余計に、仁王の態度を凝り固まらせているとは、誰も知り得ない。



「……っはっくしょい!」

鉢植えを掴みかけた態勢のまま腑抜けていた所為だろう、庭中に響き渡る音量でがくしゃみをした。
口元を押さえるより早く、二度、三度。四回目が出そうになったが、鼻腔のむずむずした感触のみで終いになり、はあと大袈裟な息を吐く。
高等部への進学試験を面接と小論文、成績表の提示でとうに終えた彼女は差し迫る冬となっても身軽である、そこを咎められ、不運にも腰を悪くした祖父の代わりに、居並ぶ立派な鉢、春にはとりどりの花が咲いていたプランターの片付け及び、手入れにうるさい主の不在中好き放題に伸び切った雑草の刈り取りをする破目になったのだ。
冷温の満ちる空気は乾いており、空などこの上ない曇天だった。
幼馴染との関係が揺らいだ秋は過ぎ、体全体が冬の訪れを知らせている。立つ息は白い。
土に汚れ寒さでかじかんだ指先を見、素手で始めた事を悔やんだが、物置の底で発酵された軍手をはめる勇気はやはり持てないと未練を断ち切った。
すん、と鼻をすすったと同時、

「気ィつけんしゃい」

思わず反応せざるを得ない声が降る。
振り仰ぐと、聞き間違えるはずもない、仁王だった。

「誰かがお前さんに言うとるぞ」

好かれんのも苦労するのぅ。
唇の端をいやらしく持ち上げた幼馴染は、の家と仁王家を隔てるねずみ色の塀に片肘をかけ、庭内でしゃがみこんだ少女を目に映していた。壁に触れていないもう片方の肩には、ラケットバックを引っ掛けている。
引退してもテニスか、学校でやるのかな、と判ずるそばから、その割には小奇麗な格好をしているのが不可解だ、とが独りごちる。これからスポーツに勤しむ青少年にはとても見えない。
制服はだらだらと着ているのに私服となると印象が変わるから恐ろしい、詐欺だ、苦言の含んだ賛辞をひっそりと送り、投げられた言葉の意味を工夫せず尋ねた。

「……なんの話?」
「今したろ、くしゃみ。そん話じゃき」
「ごめんなさい、わけがわかりません。誰が私に何言ってるって?」
「なんじゃあ、知らんのか」

知らないよ。
の簡素な返答に仁王がうっすら笑えば、体温の名残が濁って消える。
ただでさえ天気予報が伝える最低気温にひやっとする毎日、仁王の白い肌を目で迎え入れると余計に寒い。呼吸をし続けて熱を放散し、その内体から温度がなくなってしまうんじゃないかと戸惑いすら覚えた。

「一に褒められ、二に振られ、三に惚れられ、四に風邪」
「…………何それ?」
「お前さんのくしゃみは、三回。だから惚れられてるって話。どこの誰かは知らんがの」

ひらひらと手先を遊ばせ、揃いの瞳に人が誑かされる光をとり入れ、歪む口元は何故か整っている。
虐められているはずもないのに、居心地が悪かった。
身の置き場がなくふと目線を下にやれば、酷い格好の自分がいて憮然となるしかない。
土いじりに向いた服などクローゼットにはないし、かといって学校指定ジャージでは寒すぎる、お気に入りのコートは汚したくない、まあ庭にしか出ないからいいか、と祖父の部屋に掛かっていた年代物のウィンドブレーカーを羽織って作業していたのである。
当然サイズは大きすぎる上、なんとも言えない独特の匂いも放っており、大多数がもうちょっとなんとかしろと眉を顰めるであろう緩さだ。
そんな女子をあえて選ぶ、奇特な人はいない。
尻まで覆い隠し太ももまで裾を伸ばす皺々の上着と共に断定しつつ、口にするのはあまりにも虚しかったので捨て置く。

「ていうか雅治、そんな格言みたいな事よく知ってたね」
「いんや、知らんかったぜよ。これは真田の受け売りじゃ」
「……真田くんの」

幼馴染がテニス部だからといって、部員や活動内容に詳しいと限らない。
頼りない記憶を辿り、どうにかして照合すると、背の高い帽子を被った男子が浮かんだ。
ああ、あの人か。
小さく頷いたの耳に、まあ真田の事はどーでもええ、仁王がそっけなく投げ寄越した。

「雅治が言ったんじゃんよ」
「言うちょらん。おまんが聞くから言わされただけ」
「…結局言ってるよね?」
「プリ」

蝶を連想させる動きだった掌が翻り、今度はぷらりと指のつま先だけ器用に揺する。
黒いダウンジャケットの袖口から、なんとも重たげなリストバンドが顔を出していた。
こちら側へ侵入した片腕を持て余しているのか、仁王の視線はよそへと流れており、端がたわんでいた唇はしっかり閉じられている。快晴でないうす曇りの陽光を浴びる髪の毛は、鈍い色を反射して周囲から浮き、息ばかりが騒がしい。
ざり。
鉢植えの底と土が擦れた音で、冬の静寂が途切れた。

「四回くしゃみする前に、とっとと終わらせて家入れ」

命令とも聞こえる迅速な声を落とし、仁王は塀の向こうへ消えていく。少しすると、門の開閉音が耳まで届き、ややあって歩幅の広い足音へと変化した。
いつかは隣にあった音色が、だんだんと薄れていく。
きんと張り詰める空気に混ざって、激しく鼓膜を刺激するそれを、はただ無言のまま澄ましていた。
気配が消え、坂の下の広い道路で走る車が通り過ぎていくのを風に聞き、塀の上、仁王の顔が乗っていたあたりにぶつけていた視線をようやく外す。
手元に遣れば、乾き切った砂のついた茶色い鉢と情けない風体の掌があり、わけもなく溜め息をつきたくなった。
自然だけど、不自然だ。
今の自分たちは確かに型にはまっているが、どうもしっくりこない。
の方は気持ちの判別に苦労しているからまだ理解出来るとして、問題の半分は仁王にある。
冷たく突き放すでもない。
引かれた線を掻き消して飛び越えるでもない。
生きるにおいて彼が重要視していそうな好悪交えた感情をひた隠し、幼馴染で在り続けているのだ。
中庸などという最も似合わぬ言葉が似合ってしまうから納得に至らない。
冷えた土くれが爪に当たってばらばらと崩れ、はたった今進んできた己の思考回路にはっとした。
失せない違和感のひとつ。
仁王の言動にすんなり納得する回数が、ぐんと減っている。
自身も在り方を変えた、というのも少なからず関係しているだろうが、そこを差し引いたとて常に先手を打って来、わけのわからない発言の中に何かしら取っ掛かりを含ませていた彼は近頃後手に回り、解決の糸口すら掴めぬ事を平気で言葉にした。まるで触れてくれるなと訴えているようだった。


喉に引っ掛かりを感じていながら、それでもゆるされた距離に心を預けていた少し前、重なった帰途で仁王は言ったのだ。
お前が怖い。
低い笑声を転がし、喉仏を上下させ、怖という単語が持つイメージとは真逆の軽やかな調子で、の目は見ずに。
ねえ、別にもういいんだけどさ、ああいう事いきなり言うのやめてね。ああいう事って。呼ぶなって。ああ、それか。心構えが必要だし、なんか嫌になったら前もって言ってよ。ほー、なんか、ね。

「……なんかは、なんかだよ。私にはわかんないんだから、そこで突っ掛かるのやめて」
「べつに突っ掛かっとらん」

深まる秋のさ中、その日は少々夏が戻っていて、長袖のシャツを半端に捲り上げた仁王が相変わらず猫背で歩を進めていた。
はついていくでもなく、離れるでもない、不思議と合った歩調で隣にいた。

「大体雅治は勝手だよ。すごいびびったんだから! あの時寄らば斬る、みたいな目してたくせに、今普通だし」

ふとはの間を行き来する音程の息が横でこぼれたと思ったら、悪びれもしない仁王は笑う。

「そう怒りなさんな。……俺はお前さんが怖いんじゃ」

目を瞬かせ眉をひそめるに寄越された続きは、心外すぎる一言だった。

「悪魔に見えよる」

薄い唇が更に薄く広がったおかげで、詐欺師めいた胡散臭い表情と化している。

「あ……悪魔ぁ!?」

虚を突かれ、素っ頓狂な鸚鵡返しをしたのはだ。
人からそのような評価をされて受け入れられるほどの悪事は働いていないのに、何故そこまで酷い罵りを、他人ならいざ知らず幼馴染にされねばならないのか、一寸憤った。
仁王はというとどこ吹く風、ハハ、などと遂には声を立て破顔し目尻を丸めている。

「物の怪よりましじゃろ」
「ましじゃない。どっちもイヤだ」

即答すると、今時漫画でも見かけない悪役じみた微笑がを見詰め、すぐに逸らされた。

「怖い、怖い。恐ろしゅうて敵わんぜよ」

ふざけた口調のくせして、仁王の顔色は芳しくない。
自らがこぼした声へ微かに憤怒し、それからそっと傷ついているよう、ふらふらとさ迷う眼差しに、は追及の機会を失って黙り込む。
どうしたの。
いつまで経っても簡単な一言が出てこない。
変わらない幼馴染であるはずにも関わらず、気まぐれに滑る沈黙がの舌を痺れさせた。先程までのどうという事もない応酬から、互いに言葉の初めを探り合い、しかし唇を糊で貼り付けられた何も言えぬ奇妙な空気へ移ったのはものの数秒、あっという間だ。
気詰まりとは別種の無言を味わう度、仁王の瞳を思い出してしまう。
薫る残暑、傾きつつある陽光。ふれないのに触れている。
そこに居るかどうかを、心の奥までを確かめようとする強さ。揺らがない。
人が人を、あんな風に見澄めるのは、どういった感情ゆえか。
――違う。絶対違う。
そんなはずない。
だって有り得ない。
否定すればするほど、胸は軋み、心臓が騒いだ。
とんでもなく自意識過剰だとわかってはいたので、全身を使って声にも顔にも出さぬよう努め、いくら幼馴染だって相手は詐欺師などと呼ばれる男だ、からかっているだけなのかもしれない、自制を重ねる。
そうすると今度は、浮上しを足元より突き上げる、やたらと眩む芽が萎えて窄むのだから手に負えない。
落ち窪む速さのあまり暗い穴が空き、体の芯を蝕みがらんどうにして、両膝を無惨に砕こうとするのだ。歩くどころか、立っていられない。
雅治、と口をつく弱さに愕然とした。

誰かの声や言葉、仕草のひとつ、たった数秒横たわる沈黙。
纏わるすべてがいちいち気にかかる訳を、彼女は気付き始めている。


(わけがわかんなくておかしいのは、きっと雅治だけじゃないんだ)


寒空の下のろのろと庭の手入れを終え、不幸な休日が明けた月曜日。
先生に相談してくる、と進路指導室へ向かった友人を待つの鼓膜がこわごわと反響していた。放課後の教室は静寂に包まれており、過ぎた時を難なく再生させる。
仁王君、今彼女とかいないのかなぁ。
休み時間、幼馴染の存在を知らぬらしいクラスの女子が、窓際で集まり受験も何のその、可愛らしい話題に盛り上がっていて、たまたま傍の席だったを大いに動揺させた。
隣の椅子に腰掛け、雑談を交わしていた友人がひっそりとした声音でつっつく。
だってさ、。知らないの?
曖昧に笑うしかない。
仁王とそういった類いの会話などした覚えは一度とてないし、どこの誰と一体どれくらい付き合っていたかも詳しく知らないのだ、名ばかりの幼馴染と揶揄されても甘んじて受け取るしかない体たらくである。もっとも、彼は昔から自分の事を積極的に語る質ではなかったので、一概にの無関心の所為だとは言えない。
そう、関心があったわけではなかったのだ。
いくら時間の経過があろうと、会えば気楽に話せる昔なじみ。
あなたはあなた、私は私、分類され、お互い決められた距離に立ち、気安いだろうが深い仲でもない。それを寂しいと感じる心の痣も浮かんでいなかった。
覆されたのは一瞬。
一声ですらなく、ただの視線。
あの日まで、滞りのない幼馴染だった。
単純だ、現金だ、じっと見られたくらいで大袈裟すぎる何事だ、責めても責めても消せない熱が燻っている一方で、背骨に沿って通る空の器と成り果てた芯が溶け崩れる音がした。
腹の底をぐるぐると掻き回す得体の知れない流れは、間違いなくの内を削いでなぶる。

冷たい空気で張り詰めた今日の朝、テニスコートの横で、仁王を見た。
朝錬もないのに珍しく早く来てるんだな、なんとはなしに思い呟き、呼びかけた名は宙に舞う。彼の隣には俯く女の子がいたのだ。
重量に従い下がる髪の毛で顔は隠れていたが、ほっそりとした影だけでどんな容姿か想像がつく。ついでに、どんな話をしているのかも。
二人分の白い息が辺りに薫っているけれど、当然ながら声は聞こえない。
仁王が一言、二言、しおらしく下がりきった旋毛へ向け唇を動かし、落ちたらしい響きを聞いた女の子は、ゆっくりと頷いている。ふっと眦を拭う手つきが柔らかい。泣いているのだろうと思った。
はしばらく口を半端に開けたまま動けずにいたが、猫背の彼が相対する人へ遣る目を見た途端、ごく静かにその場を離れ、逃げ出すよう駆け足で昇降口まで突っ切った。
骨から凍っていく心地は最低だ。
唇なんかがくがくとみっともなく震えて、こぼれた吐息が荒れている。
風に当たった頬が痛い。
とて幾度となく前にした事のある、何も映していない瞳が、冬の朝に息づいていた。
白む空気の中、光を反射しても輝いてはいない色は、慣れているはずでも怖かった。
あの子は多分、欲しかった返事を貰えなかったんだ。
馬鹿でも察する重い雰囲気から仮定をし、けれど可哀相だと気遣う余裕のなさに嫌気が差す。悪魔と囁かれるほど酷い人間性ではないと信じていたが、自分の事しか考えられぬようでは否定出来ない。
もし、あの子が私だったら。
雅治にあんな目で断られたら。
人様の悲しみを押し分け、くだらない思考に走る有様は恥ずかしい。小さな子供だってわかる理屈だ、叱咤しても止まらなかった。そんな事になったら死んでしまう、などと本気で恐怖するばかりで他者を思い遣る余裕が生まれてこない。
下手すると涙まで溢れてきそうになり、上履きの仕舞われたロッカーに手をついたは、慎重に深呼吸した。


「あれ? どうしたの、一人?」

ぼんやりと響く過去のこだまに抗い、辿り着きたくない答えを抑えつけていたから、予想だにしない誰かの声にびくりと肩が反応してしまう。
音のした方角へ視線をあてれば、ドアのあたりに立っているクラスメイトが苦笑している所だった。悪い、驚かせた。人の好い笑顔で室内に入ってくる。

「いや、私こそごめん。ぼーっとしてたから」
「帰んないの?」
「友達待ってる」

うわヒーター消えてんじゃん、寒ぃ。大仰な悲鳴をあげる彼は、二年の頃から同じクラスである、何度か席も隣になった人だ。友達というほど親しくないが、時折雑談を交わす程度には顔見知りだった。

「松井くんこそ帰らないの?」
「俺、この後面談なんだよ。担任と」
「進路相談?」
「みたいなもん。さんは、もう決まってるんだよな」
「うん。気楽でいいねってたまに恨まれるよ」

そら恨まれるわ、羨ましい、という素直なぼやきに自然笑みが生まれた。
なんでもない会話が有り難い。
昨日といい今日といい、仁王ばかりが頭を過ぎっていたから、気の緩むひと時が味わいたかった。
と、隙だらけの油断をしていたのが悪かったのかもしれない。

「そういえばちょっと聞いたんだけど、さん、仁王と幼馴染なんだって?」

人目を引く幼馴染に興味がある女子ですら知らない様子の事実を、関係がなさそうなクラスメイトから回り回って問われ、普段以上のダメージを受けた。
詰まった呼吸のおかげで返答がすぐに出てこず、二度頷いて肯定する。

「へえ、ほんとだったんだ! 意外だなあ」
「……意外?」

どこから聞いたのか、発信源は誰なのか、問い詰めたくはあったが、その後に続いた言葉の方に気が向く。

「だって、ほら、仁王だよ。あんま話した事ない俺ですら知ってるっていうか……。なんつーか、目立つじゃん」

はっきりとは口にしないものの、言わんとしている事は理解出来たので、特に追及しない。

「なんか謎だし。何回かテニス部と外周かぶった事あんだけど、あ、こいつって汗かくんだって二度見したわ」
「あはは、でも確かに、汗かかなそうな顔してるよね」
「だろ」

あけ透けな物言いである。明確なものに飢えていたは級友の言葉を受け、そういえば松井くんも運動系の部活だったな、と小さく回想しつつ笑った。

「だからさんと結び付かないっつーか、仲良いイメージなくてさ。すげえ勝手な事言って悪いけど、女子と楽しげに話してる時なさそー、みたいな」

休まりほどけていた気持ちに棘が刺さる。
必要以上に暗くならぬよう、声帯を懸命にふるわせた。

「……仲良くは、ないかな」
「あ、そうなん? まあ幼馴染ったって、そんなもんだよな。俺も小学生ん時の友達とずっと仲良いわけじゃないし」

食道を上りそうで上ってこない、形は掴めなくとも嫌な気分になるのは間違いないと断定出来る何かを堪え、閉じそうになる唇で再び答えかけたその時、廊下に面する窓から松井、参考書貸せ、と野太い声がした。
何故か慌てた様子のクラスメイトに別れを告げられ、も同じように返す。
ふざけ合う男子二人の声が遠ざかっていくにつれ、元の静寂が戻る教室は広く感じられる。入り込んだ一拍の間を持て余し窓の外へと視線を投げた。
のクラスとテニスコートは離れている。
仁王がいてもいなくても困っただろうに、探してしまう自分が嫌だと誰とはなしに懺悔したくなった。
幼馴染という関係はとかく楽だ。
努力をして築いたものではないし、他人より気遣わなくても構わない、取り繕う必要だってない。軽くもなく、かといって重くもなかった。
けれど、それだけだ。
寂しいと悲しんだり、変わらない態度に訳を求めたり、しかし変化の窺える内へ問い掛けたりする多くは叶えられず、細かな制約がついて回る。
一緒にいる事を満場一致で許されるほど近くない。
隣を歩く為の理由にはならない。
だからといって、幼馴染でなければ今ほど親しくは出来ないのだろう。
(生まれた時からやり直したい)
そうではない。
そんなはずがない、思うが、ではどうやって現状を打ち破るのか、どうすれば境の滲んだ感情に区切りがつけられるのか、は答えを見つけられずにいた。

人知れず溜め息をつくと、ぽっかりと空いた穴へ吸い込まれる心地がする。
雅治。
呟こうとして、やはり形にならなかった。





×  top  →