02 仁王と誰かのちいさなドラマを傍観した事で、噛み砕けぬゴムボールのようなしこりがつかえた。 背に撥ねついて回る足跡が絡まり始めて数日経った午後、来客を告げるインターホンが廊下の向こうから届き、は手を洗いながら叫ぶ。 「おかーさん! 誰か来たー!」 望んだ返答はなく、あたりはしんと静まり返っている。 そういえば帰宅した時反応がなかった、買い物かどこかへ出かけているのかもしれない。 制服のまま自室へ入るのが好きではなかったは、洗面所で部屋着に着替える為、この日も玄関から直接水のにおいが溜まる場所へ籠もっていた。 ブレザーは二階へ繋がる階段、ネクタイを洗濯機の上、洗うものを入れておく容器に脱いだ靴下を放り、シャツ一枚と素足にスカートと冬場には痛々しく映える格好なのである、とてもじゃないが人様の前へ出るに値しない。 どうしようか、と蛇口を捻りながら思案する内、二度目のブザーが耳へと寄越され、はい、ちょっと待って下さい、とりあえず言い置いてドアから上半身を覗かせた。 ほぼ同時に、バタン、と玄関扉の閉まる音がする。 ぎょっと目を見張る間もなく、些か緊張していた肩が下りた。 こじんまりとしたホールに幼馴染が立っていた。 「他に誰もおらんのなら鍵をかけんしゃい」 不用心じゃ。親兄弟のような口を利く彼は制服でなく、今の今まで部屋にいて適当な上着を羽織ってきました、という出で立ちだ、何もかもが普段通りである。 数日前から延々と続く思考の迷路も忘れ、すんなり絆されたがドアの陰を抜け出した。 「雅治。どうしたの。うちに来るなんて、珍しいね」 こんな時ばかりしっかり言葉になる問いと共に玄関から見て突き当たりに位置する洗面所を出、真っ直ぐ通ずる廊下を行き、上着のポケットに両手を突っ込む仁王のそばまで辿り着けば、冷え冷えとした外気が足を襲う。 やっぱり寒い、と当たり前の感想を抱いた所で、だらけきった様相にようやっと気が回ったのだった。 袖をまくり、腹回りの裾は縒れ、剥き出しとしか言い様がない腕と足。 若干冷や汗が垂れる。 「違うよ!? トイレの後じゃないよ!?」 「わかっちょる。お前、今洗面所から出てきたじゃろ」 明後日にも程がある心配に、仁王が平然と答えた。 冷静な声色にそうだったと落ち着かされ、の理性も息を吹き返す。 妙な間や沈黙さえなければ、こうして普通に顔を合わせ、会話が出来るのだ。 我ながらわけがわからない。どっちつかずとはこの事だ、一体何がしたいとお叱りを受けたとてぐうの音も出ないだろう。 幼馴染を保つというのは存外難しいけれど、時たま良い作用をもたらすから判断がつかない。 以前ならばいの一番に悪いものじゃない、と決めていたに違いないが、今のに即決する勇気はなかった。 それで、用は何。 簡潔に問うと、プリント貸してくれ。これまた簡潔な応答が寄越される。 「プリント? プリントってなんのプリント?」 「ドイツ語の課題。お前さんと俺んとこの担当教師、一緒じゃけ」 クラスが違うというのに何故そのような事まで把握しているのか、疑問をぶつけるだけ無駄な気がした。詐欺師だなんだと恐怖の対象となるには、緻密な情報収集と労力を要するらしい。 「いいけど、なんで持ってないの。授業に出なかったの?」 「遠征やき」 「部活引退してるじゃん」 「しても引っ張りだこやからのう」 「…………ほんとはサボったんでしょ?」 「ピヨ」 夜だってまともに帰っているのかいないのかわからない上、学校でもこの有様では仕様がない、仁王さんちの雅治くんは不良だ、などと噂を立てられやしないか不安である。 しかしながら、問い詰めた所で嘘のない回答は得られないだろう、埒が明かない。 早々に諦めたはきびすを返し、万人に等しく訪れつつある冬のお陰で昼なお暗い階段へと赴き、ちょうど腕が届きやすい位置に置いてあった鞄を掴む。 わずかな光の差す玄関内で、行儀が良くないにしても大人しく待っている仁王は、うすぼんやりとした影を湛えていた。 ほとんど白に近い髪の一本一本が透き通り、触れる輪郭と混ざり込んで淡い陰影を描く。 前髪に隠れた双眸は這う低さでただ一点を見つめあげ、季節に似つかわしくない熱を持っていた。 そのほかは異様なほど凍えている。 バイクが家の手前、道路を横切ったらしい、エンジン音はあっけなく吹き抜けてゆく。 乾いた唇が開きかけ、しかしどんな言葉も紡がない。突っ張った皮膚や口元のほくろが震えるように撓んだ。 背後ろの情景など知る由もないがフローリングと接した足裏からぺたぺたと幼い音を鳴らして舞い戻ると、起きる寸前に見る夢かと紛うくらいの速度で焼け焦げた視線が露と消え、彼女の幼馴染は幼馴染の顔をつくった。 シューズボックス上のスペースに鞄を下ろし、教科書、ペンケース、教科ごとに分かれたファイル等々を漁る片手間、なんとか寒さをこらえようとするは無意識に両の太ももをすり合わせている。 「雅治のクラスと私のクラス、授業の進み方違うかもしれないけど、今日出たやつでいいの?」 幽し光のまとわりついた白い足が、まろやかな反映を引き起こし、冬の午後に色づく。 ぬくみのある肌を目に入れた仁王は、じっと息をしていた。 「そいでよか。コンビニ行ってコピーとったらすぐ返す」 「提出次の授業だし、べつに今日中じゃなくていーよ」 ナイロン生地の底を微細に引っかくと、さりさりと裂かれる音がし、本やファイルの角がぶつかれば鞄の表面へ浮き上がるのはでこぼこした出っ張りだ。 探せども探せどもなかなか目的のものを見い出せず、痺れを切らし引っくり返す勢いで手元の教科書群を傾けたは、弾みでぽろと上がり框に財布を落としてしまう。 二人分の視線が、下へ下へと転げ落ちた。 仁王の唇は頑として閉じられている。 こぼれた落し物を拾う為、屈んで腰を座らせてから伸ばした指の近くに、玄関マットと剥かれた己の腕、そして履き古された大きなスニーカーのつま先。仁王のものだった。 はた、と奇妙な空白が生まれ、釣られてわずか目の位置を持ち上げれば、猫のように背を曲げて立っているわりにしっかりした足が在る。 見覚えのあるデニムの裾は、靴の上にだらりと覆いかぶさっていた。 物寂しい素足と薄布一枚隔てた向こうの胸元とが折り重なり、シャツの中の体温にあたためられて、頬へと大量の血が通う。 あ。 声帯がわななくと、突如として頭上から自覚が降ってきた。 掴んだはずの財布の感触は薄れるばかりで、引き上げる事など到底叶わない。 酷い格好だという意識はあったのだが、それを見られる事について一切の考慮をしておらず、相対するのが仁王一人だという事も失念していた。 足も腕も無防備だ。 シャツのボタンの一つでも捩れば、寄る辺ない素肌が垣間見えるだろう。 急激な羞恥が体の奥から沸き出で、とどめる間もなく駆け抜ける。 見られた。 見られている。 どんな顔。 どんな目。 理性的な思考を司る部位が悉く踏み躙られ、火のような熱さに染まっていく。凄まじい速さで警鐘を鳴らす心臓が痛い。こめかみあたりで血管に締め付けられている。 動けない。動かない。 からからになった喉で死にそうな呼気を繰り返す。 ものみなすべて掻き消えるさ中、感情の足が立ち止まった。 片目が映る。 幼馴染の傾いだ眼差しだ。 刻まれた視覚の記憶は生々しいほど鮮烈にをいたぶった。 いやだ、やめて! 悲鳴をあげたのかもしれない。 しかし声にはならなかったのだろう、いつまでも立ち上がってこない様子を訝しんだ仁王が音もなくしゃがみ込むものだから、の肺は掴まれて潰れてしまう。肩も竦んだ。 わかっているのかいないのか、仁王は落ちたままの財布と繋がる細腕とを交互に見比べ、児戯めいた仕草で尋ねる。 「どーした」 かっ、と顔が朱に支配される音を、はしかと聞いた。 とっさに俯き、畳み抱え込んだ足へ両の腕を回して体育座りのような、或いは腹の中の胎児のような体勢で縮こまる。 隠しても隠しても当然ながら素足は消えず、何が触れているわけでもないのに膨大な熱を孕んでいた。 舌が震え、指など痺れたあげく凝り固まっている。 あの、プリント後でもいい。 たっぷり十数秒を費やし無言の間も挟みつつ、やっとの思いで告げると、斜めに傾いていた幼馴染の首が真っ直ぐ戻った。 「さ、探して……持って、行くから……」 「……は?」 たった一文字の内に、ありありと仁王の心境が浮かんでいる。今探せばいいだろ。ごく自然なひと声だ、例えば立場が逆だったとしても彼と同じ反応をするだろう。 空回る舌の先が怯えた。 「まさ、はるが……で、出かけるなら、家のポスト入れとく……」 癒えぬ恐れは喉を侵し、声色にまで影響を及ぼす。 顔が上げられず、かといって仁王の表情を見ずにいても不安だ、ちらと目線だけ動かせば薄く開かれた唇とほくろが映り、慌てて行く先を下ろした。 「いや、面倒じゃろ。今出せ。待つし」 「……うん……で…っも、でも、あの……」 幼馴染のまとう空気に怒気は感じないが、不審のようでいて純粋に疑問を抱いている素振りがあらゆるところで渦巻いていた。 わけがわからないと眉間に皺を刻まれたとて、責められやしない。 そう理解する自分が落ち着けと諭す片隅で、一刻も早く逃れたいあまり急いて泡を吹く。 場違いな事に、溺れそうだ、と呟く心が取り残された。 つかえた言葉が余計にを追い詰め、立つ瀬を失くしていく。 どう表現すればいいのかわからない。 湯立つ体は熱くてたまらなかった。 言いかけたきり逡巡を止めない様相はさぞかし奇異に見えたはずだ、そういった状況へ陥る様を見逃すなど仁王に限って有り得ない、無言を保ってはいるが言葉にしていないだけの、語るべき感情を数多持て余しているの正面、静寂に従う仁王が続きを待っている。 行き来するあまり掠れた思考回路が呻いた。 は渾身の力を振り絞って、くっつき通しの上唇と下唇を引き剥がし、擦れ磨耗した声で希う。 「……ごめん。今更、なんだけど…。雅治の前でこの格好、恥ずかしいって気づいた……」 語尾はほとんど消えており、喉奥から捕らえられ舌上へと引きずり出された音は、自分ですら聞いた覚えのない弱りきった調子だ。 みっともなくて情けないし、相当馬鹿馬鹿しい。 痛烈に自己批判したけれど、そうでもしないとはという形を保っていられなかった。 益々もって首は下がり、永遠に上がらないのではないかと錯覚するほどである。 皮膚と空気の境が熱で揺れるのを抑えようと必死に掻きいだくは、最早自宅の玄関に敷かれたタイルさえ目に入らない。 だから、掠れた羞恥の滲みを聞き終えた仁王が一旦、呼気を閉じた事など知る由もない。 耐える証に切り取られた鋭い響きだったにも関わらず、気付く者はいなかった。 重すぎる沈黙が日常の出入り口たる場所で、はからずも向かい合う肩同士へと降り積もっていく。 しんと静まり返る室内は無人の証だ。 互いの息の音だって容易く聞き取れそうなものだが、どういうわけか鼓膜を打たない。 空白を含んで肥えた間がそこかしこを圧迫していて、最低限の呼吸すらままならない。 どちらからでもなく始まった根比べめいた長いひと時、先に根を上げたのはの方である。 汗の噴き出す幻覚に苛まれ、誰がお前の足なんぞ見るか、といった幻聴までをも聞き、わけのわからぬ罪悪感の打消しに謝罪が駆け上がる手前、 「…………わかった」 滑る返答に挫かれた。 聞き返すより早く、曲げていた膝をさっと伸ばし立つ仁王が一歩、二歩、後退していく。 三歩目となった左足に履かれたスニーカーが翻り、音もなく視界から失せた。 がちゃん。ドアノブを掴む気配は日頃耳で覚えているものと些か異なる。家人ではない人間が掴んでいるからだ。 キイ、と蝶番が軋み、薄く白んだ冬の陽光との抱える下半身が交差して、すぐさま離れた。斜めから差し込んでいた日の灯火は仁王の影と共に、後腐れなく行方をくらます。 余韻も何も残らない。 後にはへたり込む少女と平素と変わらぬ静けさのみが在った。 そびえる扉がほのかな闇を纏っている。 の額にどっと汗が沸き出で、こわばっていた肩から力が抜けた。 密やかな息を吐けば、掌に感覚が戻って来、掴んだ財布の形や質感もきちんと伝う。 あれほど蓄えられていた熱は蒸発してしまい、溶け零れそうになっていた肌とて元通りの器を保っている。 体内外の機能が蘇る代わりに、言い訳のしようもない事態を招いたと判断する脳が悔い出した。 誰に指示を受けたでもない、自ら選び取ったに近い格好でいておきながら、恥ずかしい。 よく口に出来たものだ。初対面の人や大して仲良くもない同級生ならいざ知らず、勝手知ったる幼馴染へぶつける言葉ではなかった。 しかもついこの間、初秋の頃までは、はしたない有様を目撃されようが苦言を呈されようが気にしません、と言わんばかりの態度を取っていたのが尚悪い、今になってなんだ、いきなりどうした、等々の感想を抱かれ問われでもしたら最後、絶対に答えられない。 (……でも、雅治は) 言わなかった。 くだらないと嘲笑するでもなく、呆れたりはせず、何事かと尋ねるでもない。 張り響くかたい声だった。 何千回と耳にしてきた興味の失せた時のそれとは少々違う、しかし近頃よく聞く平坦な音程を捨て置き、あっさり去っていったのだ。 納得してくれたとは到底思えないが、かといって他の理由も見つからない。 呆れ果てるあまりからかう気すら萎えたと言われた方がまだ理解が及ぶ。 けれど、どこをどんなに探してみても、仁王の声音や素振りから解決に繋がる糸口の欠片も掴む事が出来なかった。 最早一人となった玄関に、是とも非とも言い難い空気が満ちてくる。 えづく肺が胸を押し、体の何処だろうか、ともかく奥の方から突き上げる衝動に膨れた舌で口内は一杯だ。 気持ち悪い、と似てはいるが完全に重ならない、嫌悪感と言い切るには離れぬ焦りが余分である、喉元の痛みは嗚咽に近いが渇いた瞳から涙のひと粒も溢れない。 腰が浮いた。 恐ろしいほどの静寂に、なにかが引きずり出されてしまいそうになる。 唇の内側を弄る事で顕れた唾液を飲み込めば、吸いたくない妙な空気も一緒くたになった気がして顔を顰める。 ――と、派手な音を巻き添えにして、背上に衝撃が走った。 全速力で追いかけて、やっぱりさっきの聞かなかった事にして、と縋りたくなったのを遮二無二堪えるの肩へ、半端な位置に置いたままだった所為で傾いた鞄がまるごと落ちてきたのだ。 ばらばらと一面に散らばる紙の束や雑貨類を押しのけて、目的のプリントが一番上を陣取っているものだから、は頭を抱えて呻きたくなった。 ※ 明けて翌日。 知らず知らずテニスコートを避けて登校するの鞄には、過日のプリントが挟まっている。 結局、あの後仁王を追いかける事はしなかったし、ポストに入れておくタイミングを見計らっている内に勢いが挫けたので、他意はないものの締め出したのと違わぬ対応と相成った事に意識が伸び、よく考えてみなくてもあんまりな扱いだ、睡眠という冷却期間を置き我に返りつつある少女はどうにかして深く触れずに謝れないかなどと、都合の良い結果を得るため画策しているのだった。 膝小僧を冬に晒して赤へ染め、校門の真横で巻き直したマフラーを押さえながら歩く。 本日の天気予報は快晴をうたっているといえども、日光は実に頼りない、乾燥した風が肌を刺すようだ。 さてどうやって渡すべきか。昇降口が視界の先へ現れ始めたところで吹き荒ぶ空気の渦に耐えれば、校舎と外とを分け隔てるガラス張りの扉前で軽く会釈してきた影がある。 初めは他に相手がいるのだろうと受け取っていたのだが、明らかにこちらを向いているのと輪郭に見覚えがあったので小さく手を振り返した。 あれは多分、松井くんだ。 クラスメイトを認識したが鞄の紐を握り替え、一枚のプリントに遣っていた意識をわずか逃がした途端、 「」 低い囁きに肩どころか背中全部が揺らぐ。 体の中心が脈打った。 声の源たる後方を仰ぎかけ、予期せぬ侵入を食らい硬直した首に阻まれる。 掌は上向きに開かれているのだろう、髪へと差し込まれた指の甲が後頭部を掠め喉が詰まった、かと思えば重力に捕らわれずするすると逆流していく感触に項が毛羽立ってしまう。 髪の毛を梳かれているのだ。 手つきは静かに優しく、とても丁寧だった。 無意識に右手を触られている部分へ持ち上げ、しかし寸前でふっと引き抜かれたので確認には至らない。 ぎこちない動きで半分捻られた首筋の上、耳朶に言葉が降る。 どっから乗っけてきたんじゃ。 「枯れ葉がついとうよ」 ぞんざいに宙へ払われた左手の持ち主は、仁王だ。 制服ではなく、テニス部のレギュラージャージにラケットバッグを背負っている。 引退したのにどうしたの、と普段のならば真っ先に尋ねていた事だろう。 「あ、ありがとう……」 だが昨日の今日では動揺するしかなく、歪にたわんだ唇はただ礼を紡ぐのみで、後が続かない。 すべてを両の目で視認し、耳で聞いているはずの仁王は曖昧に頷いてみせるだけだった。 自らのものとはつくりの違う指があった場所、朝の気温に冷えた髪を掴もうとしたの掌が空振って力なく肩からぶら下がる。 感覚がいまだ残っている気がして、むやみに触れられなかった。離れた今尚、首筋の裏は敏感に粟立っている。 弱々しくとも風は風、吹き飛ばされたのだろうか、頭に付いていたらしい葉は周囲に視線を向けても見当たらなかった。 「……隙だらけじゃな」 「え……」 「お前さんはすかすかしちょる」 やや抽象的なものの、とりあえず酷い言われようだとは理解出来た、だけれどやはり追求する声は浮かんで来ない、仁王が投げる呟きはなにかを包み慈しんでいる。 それは深みを奏でる音の連鎖だった。 え、の形に成ったきり変わらぬ唇で、背後ろから隣へと歩んできた幼馴染をただただ見上げた。 なけなしの陽光を遮った白髪が陰る。 頬はうっすら暗く、目のふちに一筋の線が灯っていた。 見下ろしてくる睫毛は光を浴びていない所為でいつもより黒々と落ちる。 幼い頃に比べ鋭利になった顎が頑なに構えており、時折端の滲んでいた唇は無表情に絞られ閉ざされたままだ。 空へ溶ける呼吸の跡が流れていく狭間、まばたきをする目蓋の薄さに怖気が走った。 数秒の邂逅に、まじわる視線は確かだった。 しどけなく緩んだ口元が引き攣るように震えて生み出しかけたのは、以前なら真っ先に転がしていたかの名ではないまるで別の衝動で、説明が追いつかない。何より、それを抑えんと心掛ける自分が存在していない事に衝撃を受けてしまう。 溢れこぼれる眼差しに気安い色など含まれておらず、幼馴染もいなかった。 仁王雅治と名付けられた一個人が息をひそめてを視野に捕らえている。 は、と切り吸い込んだ空気は冷たく澄んで、籠もる体の内へと浸透していく。 瞳孔の動かし方を忘れでもしたのかというほど逸れないの瞳の上で、仁王の掌が横切った。 一瞬の影が降り、すぐさま流れ消える。 コンクリートを反射して打ち鳴らされた足音はひっそりと遠ざかり、ひらりひらりと舞う左手が間近でいとまを告げていた。 猫背と、尾のような白い髪の毛。 掴めない幻に似た名残に、息の根を止められそうだ。 仁王にというより、自らが抱いた感情を手繰り呆然とするの髪が風に揺れる。 驚いていたらしい心臓がようやくまともに働き始めて、重症だと思った。 丸まった背中がどんどんと小さくなっていくにつれ、体温を奪われた皮膚の下、血管が通る肉の中を掻き分ける感情が質量を増していき、あたかも激しい殴打を浴びているようである。吐露しようにも喉や声帯まで達してくれないから何の形にも出来ず、ただ闇雲に体内を巡り染み渡っていった。 息が詰まる。 苦しい。 耐えられそうにない。 今まで幾度と喩えた事だが、それらの一つとも重ならぬ、熱量をたずさえた芽生えだった。 自分の気持ちを上手く表へ出せない憤りに胸を焼かれ、立ち竦む無力の彼方で冬の太陽ばかりが眩しく輝いている。 ← × top → |