01




時々、いとも簡単に見失う。


幼馴染は絶対の他人だというにどこまでも幼馴染だから困った。一時は不変の関係性に安堵したものの、時を重ねていく内に段々と立ち行かなくなって来ている。筋道が初めから用意されているのだ。
釈明の余地もない。
機会さえ与えられず、校内の敷地から一歩出もすれば自宅へ近付く毎、予め整えられた型へ嵌る他なかった。
更に具合の悪い事に、両家は長年家族ぐるみの付き合いをしている。
同学年の子供がいる所為か単なるお隣さんの枠を越え意気投合し、下手をするとそれぞれの親戚よりも余程馴染み深い。
数える事も馬鹿馬鹿しいくらいに顔を合わせ、問うてもいないのにお隣はああでもないこうでもないと情報を吹き込まれ、立海生という共通点に加え接点が復活したお陰で仁王は同い年の幼馴染の名を幾度となく耳にした。
そうして親兄弟の口からと聞かされる都度、奇妙な背徳が腹をまさぐる。
が仁王の名を呼び仁王がと紡ぐ何の変哲もない行為に、あの日以降忍んだ意図は顕にならずじまいで、他意など存在していないにもかかわらずまるきり秘め事扱いなのだ。
例えば触れた時の何もかもが今までと違っているのに、たった三文字に収まる関係性でひとまとめに片付けられてしまう。
幼馴染。
並んで歩いていたとて帰る方向が一緒だからという名目が出来、陽が落ちた後にあの恐ろしくも慕わしい少女が帰宅していなければ迎えに行って来いなどとけしかけられ、隣を独占しても見咎められる事はほとんどなかった。
年頃の娘へ対する監視の目は厳しいものかと思いきや驚く程軽々しい。
改めるつもりもなく別段気にした覚えもないが、好青年として周囲に受け入れられているかといえば流石に否定せざるを得ない、自分のような男がの傍を許されている。
無論程度が甚だしければ話は変わってくるのだろうが、生憎仁王は人を欺く詐欺師とまで呼ばれているので、他者の挙動をそうとは知られずに把握するすべに長けていた。
許される距離へと迫り、不意に離れ、懐疑の眼差しを浴びぬよう取り繕う。
正確に測るでもなし、大概を勘でやってのけた。天性の才である。
だが利き過ぎる鼻は弊害を伴った。
疑いを持たれぬあまり、過ごす時間や機会が増えたとしても見過ごされる。
仁王家と家、両方併せての行楽に揃って連れ出され、幼馴染でなくば叶わなかったであろう状況へ放り込まれてしまう。
圧倒的に距離が近い。
もしがただの同級生であったのなら、娘の親はこうも軽率に異性である仁王へ預けないはずだ。雅治君、小さい頃からが面倒かけてごめんなさいね、いつもありがとうねえ。
ほんの子供だった頃、男も女もなかった時分、他愛ない遊びに耽っていたままの印象なのだろうか、本心からの感謝を述べられ、ちょっとなんで私が迷惑かけてるみたいになってるの、幼馴染の顔を無意識の産物として生み出すが横槍を入れる。

それが余計に堪えた。
ありとあらゆる機が与えられようとも、どれほど傍にいたとて、融通の利く時間が眼前で手招きしていたとしても、手を出せる理由にはならない。完全な許しを得たわけでもない。
の白い肌を間近にし、時にはそっと指も重ね、一等近くで気安く笑うのを見、児戯めいた軽い口づけを交わしたがしかし、周囲の目を通した途端幼馴染はやはりどこまでも幼馴染と化す。
数多存在する余所の男と比較しても尚、自らが頭一つ分抜きん出ている事は明白なのに、優越感を抱く所の話ではなかった。むしろ近しいだけ地獄だとすら思った。
燻る熾火めいた情動が芯を炙る。
狂暴なそれは腹の底を舐めて嬲り、時たま耐えられぬとばかりに仁王を急かしてぐちゃぐちゃと掻き混ぜた。
形なき暴力だ。故に誰も、何も責められない。
例えの爪先が優しげに腕を伝っても。
唇を塞ぐ間に雅治とささめいても。
染め上げた頬であまやかな微笑みを描いていても。


お陰で仁王は初めて肌を重ねた日の委細を断片的にしか覚えていない。
微かな間を置いて頷いたの、薄い光の宿る睫毛だけが何故か鮮明だった。
以外を記憶する余白は疾うに消し炭となっており、極地に陥っていたが為目が眩んで、なめらかな皮膚に容赦なく煽られる。
利き手の左で割り入った胸元がか細く震えてい、薄皮と骨と肉の下でけたたましく喚いている鼓動を肌で聞いた。
服と下着を剥いで晒した膨らみは信じ難い柔らかさだ。掌をゆるく這わせ、零れた蚊の鳴くような吐息が耳に深く、僅かに掠めるだけだった尖端を食んで舐めれば、仁王が聞いた事もない声で呼ばう。
下腹へにじり寄る重い熱に耐え、互いの体が汗でじんわり潤む頃合、多少なりとも強張りがほぐれた腿を撫で上げた。想像よりずっと他愛なく許されたので、彼女はどうやら抵抗を忘れていたらしい。
びくと反応する肢体を無視し、腰まで持っていった手で肌上を滑りながら落ちる。
腰骨の脇と太腿の付け根を順繰りになぞったのち、静かに押し込んだ薄布が湿り気を帯びて撓った。濡れている。
考え至ったが早いか、怖気と限りなく近しい感覚が背骨を駆ける。
あっという間に腹の内を蹂躙され、折り曲げた人差し指の甲の下にある肉を布上からやんわり擦った瞬間、肩口に引っ掛かっているだけのシャツを掴む小さな掌が押し留めるのも知覚出来なかった。
異常に過敏となった聴覚は荒れた息遣いと水音を悉く拾い上げ、こじ開けた唇の奥に在る舌がざらついて甘く、遮るものの失せた体はどうしたって熱い。
目だけでなく直に触れる全てが己のひと仕草で波打つ、喩えようもない快感に仁王は魘された。
歯噛みした所でおさまらない。押し殺した息が籠もって別の何かに移ると、喉が情けなく震えてしまう。悠長にじっくり味わおうなどと構えてはいられず、興奮が背の裏をしたたか打ち付けてゆく。
恐怖故か痛みによるものか、羞恥かはたまた快楽の所為か、は泣いていた気がする。
だが決して口にしなかった。
嫌だ、駄目、痛い、やめて。最中、ただの一度も。
濡れ浸された瞳で仁王を見上げ、大丈夫、とだけ囁く。
平気だよ、雅治。夢じゃないってわかるから、それでいいよ。
柔な声なき声が奥底へと優しく導いている。
――抗えない。

その健気な幼馴染を、実際抱くまでの間に頭の中で何度も犯した。
口が裂けても言えないような事、聞いた人間が思わず顔を顰めるであろう真似、忘我の境地に耽る愉悦さえ跳ね除け、乱れる様を堪能し尽くす。
引き倒して抑え付ける。
思うさま濡らし、湿った唇を捕らえて、噛んで、体の隅々を舌で這う。潜った中を掻き混ぜ、抵抗されても止めない。
かつてが紡いだ、狂おしい自覚をもたらした音を擦り切れるまで再生した。
雅治。
しかしどうだろう、現実は仁王の一人遊びを遙かに飛び越え生々しい。
思い知らされたのは、名もあやふやな級友の男共の下らない、取るに足りない馬鹿そのものといった話の中で交わされていた、想像以下でガッカリした、思ってたのと違って萎えた、真偽の定かでない体験談とやらから程遠い、心臓ごと掴まれ引き抜かれる恐怖の上をゆく悦びだ。
確かに罪悪や痛みを感じているにもかかわらず、者皆全て凌駕する快感が仁王を打ち据えた。
赤の他人を、血を分けた同胞でもなく、家族でもない何でもない女を、一秒だって迷わず俺のものだと思う。
加えて恐ろしい事にこの感慨は留まる所を知らない。
肌を合わせれば合わせるだけ、深い場所での意味を得る。正体の尾すら見えず、果てもない。幾度となく越える過程でひらかれる快楽が徐々に、ゆっくりと体中に染み渡っていく。
何も自分一人のみが抱いている感覚ではないのだと、仁王は度を過ぎて理解していた。
の喉から絞られ生まれる声に色が付く。触れる都度、代わる代わる応じるものだから覚えるのは容易い。分け入って自らを沈ませた場所はしとどに濡れそぼり、隙間なく吸い付いた上でひくついている。
あまりの触感に呻くのもままならず、只管に粘度のある温水を零しつつ繰り返して、ぐちゅぐちゅと籠もる音で互いを互いに追い詰めた。
肋骨を殴打しともすれば飛び出しかねない心臓は内側から存在を主張し始め、脈打つ血管が膨れ上がるかのようだ。
引き結んだ所で最早意味がない、不規則な呼吸しか出さぬの唇を甘噛みし、昂ぶる熱に浮かされながら覆い被せる事に仁王は決めた。
口蓋を舐めて擦り、舌の裏まで潜ると、息継ぎの狭間で喘ぐばかりだった少女の方から柔く濡れた舌を絡めてくるので、一も二もなく応じてやる。は、と息を付いて離した舌肉が糸を引き、すぐさま触れ返せばくぐもった吐息がの口角を滑り落ちていった。
飽かぬ熱情に唆され、今少し腰を進め探った先で押し当てる、瞬間の声が腹に焼き付く。揺すっても擦り上げてもこびり付いて剥がれない。むしろ質量を増していく一方だ。
たったのひと呼吸にさえついて回る発揚は暴力めいて狂おしい。
込み上げた悦楽に混じって得も言われぬ至福が滲んで来る。

「…ぁ、ま、…って、あ、やぁ…! まさは、」

揺らめく振動によって弾む真白い喉を吸い、名前が紡がれるより早く声を奪った。押し込んだ舌の先、口内の熱が濡れている。
最初は一切を拒まずに予兆すら見せなかっただったが、どうしてか触れて重なる毎、嫌だと譫言を零すようになった。
けれども芯からの拒絶でない事をよく知る仁王は一片たりとも手心を加えない。
虹彩を侵し、耳のふちをてらてら舐めて、ごく僅かな面積から忍んで来るそれらは脳を振るい痺れさせた。
限界が近い証に玉のような汗が噴き出る。
雅治、の四音を奏でさせはしないとしきりに呼吸を潰し、嫌と言いながらまるで逆の反応をする体に穿つ。深く浅く、弱く強く。
微かに肌と肌が離れた隙を掻い潜り、ゆるされたのを良い事にさっきまで好きなだけ弄んでいた乳房を撫で掬う。途端、細い肩が跳ねたものの仁王は絶対に訳を問わなかった。
痛い。
気持ちいい。
どちらにせよ聞けば最後だ。歯を食い縛って耐えて来た時間が水泡に帰してしまう。
あと少し、もう少しと高みを目指す途でこめかみを伝い滑る汗が滴り、組み敷く肌へ吸い込まれてゆくのを見るとはなしに見遣れば、ひどい嘲りで喉が鳴る。余裕も何もあったものではない。
クソガキ以下の猿並じゃ。
自覚が冷たい手となって腫れ上がる心に差し込まれた。ほんの片隅を凍らせた一瞬の後で、ひと際耳に残る声音を転がしたの中がきゅうと締まって、熱の行き場を失った体に釣られた仁王は己の瞳孔が開かれるのを感じ、四方へ散らばっていた呼気を引き戻す。
耐え切れぬ快楽は体の中身を追い遣り、断絶させたがっていた。法悦を内包した切なさが収縮し息苦しい。
身を以って感じた刹那、遂に喉奥が引き攣れ脳が濁る。一瞬後、熱っぽく蠢く奥で人工の膜越しに欲の残骸を吐き出した。
永遠に続くようでその実、数えるに値しない瞬きの間。
過ぎ去るや否やどっと虚脱に襲われ、同じく力が抜けた様子の体躯に圧し掛かる。
女子の平均身長を越すか越さないか程度の背丈であるにしてみれば重いはずだが、文句の一つも言い渡されない。
乱れた息を長く伸ばし、尾が震えた辺りで一度切って、ごくゆっくり口づけた。
掻き抱いた薄い背は汗で滑って仕方がない。張り付くシーツが鬱陶しくて不快だ。
荒々しさを取り除いた舌で声も呼気も一遍に舐め取り、閉じていた瞼をうっすら持ち上げ、いまだ前後左右も覚束無いらしいを見下ろす。
体中に根を張ったいつかの自虐がしたり顔で囁いた。
可哀相に。
幼馴染でなければ平穏無事に過ごせただろうし、自分より余程優しい男に好かれ穏やかな幸福を得ていたかもしれない。
思う一方で、可能性の芽さえ許せそうにない。


「…雅治はした事あるの? ……他の子と。彼女、いたでしょ」


泣きそうな表情のが、今更としか言い様がない問いを奏でた柔い陽射しの午後。
秋色に染まった街路樹には寂しげな葉が半分程残っており、もう半分はコンクリートへ散らばってこがねの絨毯を織り成していた。
歩を進める毎に枯れ葉が潰れるさやかな物音で鼓膜は震え、枝の間を冷たい風が吹き抜ける。剥き出しの頬が寒い。
ざわつく空気の中では後ろ手に下げた鞄の紐を握り締め、目には見えぬ重石を乗せでもしたのかと見紛うくらい肩を落としている。
気まぐれに買った紙パックのオレンジジュースを手に仁王は隣の幼馴染をはっと見遣った。
僅かばかり下向いた目線の持ち主は先程、今の季節にジュースって寒くならない? と至極当然の指摘を投げて来たはずなのだが、引き結ばれた唇の頑なな様子からは上手く連想する事が出来ない。
予想外の方向から放り込まれた質問に潜む意味を探り、しかし理解が追いつかなかった。
やっぱなんでもない、聞かなかった事にして、いつもの調子で覆されるのも待ってみたが一向に気配は表れず、腹の底が不自然に浮く奇妙な沈黙のみが間を走っていく。
どこをどう通って辿り着いた話題なのか、ついさっきの出来事だというのに跡形もなく忘れた。
隣家で育った少女の名を、有り触れた二の句を、形作ろうとして挫る。
冷えた空気を吐くも吸うも等しく腫れぼったい。半開きとなった唇のかさつきが気に障り、消し去りたい幾つかをむざむざと思い出してしまう。

人畜無害な見た目とは裏腹に面の皮の厚い、もしかすると仁王以上にしぶとく諦めを知らぬ馬の骨は高等部でも変わらず幸せな誤解を抱いている。
あれからずっと学校内での距離を急変させず過ごして来た事が災いし、にとっての仁王はただの幼馴染で、他に恋人がいるなどとはちらとも考えていないらしい。
能天気も極まれば才能だ。
平然と無知を晒す男が視界の隅に入る度、締まりのない表情でに話し掛ける都度、以前ならば蹴り飛ばしたついでに拳の一発や二発叩き込んでやろうかと本気で企てもしたのだが、この所の仁王は仄暗い優越と嗜虐を覚え始めている。
おめでたい奴じゃの。
胸の内で理性に辿らせた声色がひどくべたつく。
残念無念、二度と来んでよか。ああいや、来ても良いかもしれんのう。細かいとこまで知らんでええから思い知れ。お前の好きな女は人様には言えんような事、散々俺にされちょる。
濁って腐り落ちる本音が胸のすく爽快感と交わり、やがて区別も叶わぬ程溶け合っていった。
自分だけが知る幼馴染、自分しか知り得ない恋人。
そのどちらも、誰にも悟らせやしない。

雅治が幼馴染でよかったと鼻声で告げ、最悪のタイミングで風邪を引き、夢だと困る、夢じゃないってわかってよかった、幼さを感じさせぬ女の顔で微笑む。
照れている時の体温。
冬でもぬくい唇。
気丈な一面を見せたかと思いきや、必死に縋って来る。
指を滑らせただけで強張るから耳が弱いと知った。
寒さを堪える為か無意識に素足を擦り合わせ、仁王の存在さえ意識していたかわかったものではない無防備な恰好を晒し、あげくの果てに恥ずかしいと蹲っていた。

そういうの服を剥いて、身につけているものを取っ払い、裸にしていく過程で付随する最上の感覚。
俺だけだという確信を得、余す所なく触れて埋没する行為が咎められない、絶対唯一の居場所は恐ろしいまでに甘美だった。
歪んでいる。やはりどう足掻いたとて恋とは呼べぬ不純物で構成された病だ、元より焼け爛れていたから尚悪い。
これ以上落ちはしないだろうと安堵する傍から引きずり込まれてしまう。
一寸先も窺えぬような闇の内に在っても、幼馴染は応えてくれる。。口ずさめば乞うて止まないあの音が返った。
なに、雅治。


暴くだけ暴いてもまだ足りない少女が過去に胸を痛めている証の、逸れる眼差しと頼りなげな言の葉は強烈な嵐の如く仁王に襲いかかった。
まるきり同じだとは断言しないが、同類ではあるのだろう。お互いの他に恋情じみた繋がりが垣間見えるだけで身を焼かれ、衝動に飲み込まれる。
足元から脳天まで突き抜けた何かが二本の腕を自由自在に操った。
伸ばした先の丸い瞳が嫉妬に揺れている。もっと近付けば鬱陶しがられる事や嫌悪を恐れてなのか震えて慄き、一層仁王の視線の向かう行く末を縛る。
淡い唇がごめんの形を取りかけた所で乱暴に手繰り寄せ、なりふり構わずキスをした。
ここが外だとか道路の脇だとか、そんな事はもうどうでも良かった。
抱き潰してやりたい。
言葉を尽くす前に、夢うつつでは成就した無茶苦茶を今許されたい。
結局何も変わっていないのだ。幼馴染を手に入れようがあのまま突き放していようが、望む所にさしたる違いはない。叶えられず嵩を増していくだけだった。
姿なき焦燥と冷えた失望、体の奥から求め、だけれど満たされぬ渇き、境なく混ざり撹拌され一塊の欲と化していく。
幾度かの極みを迎えても、それこそ猿並に繰り返したとて焦がれたままの熟れた願望に触れろと、答えもなく問答無用で封じられたが為に、仁王の振る舞いを誤魔化しだと思い込んでいるに告げたかった。
たったの一言を放つだけで何もかもふいになる、抑え込めば込むだけ勢いを増す激情が仁王の内でうねっている事をきっと彼女は知らない。







複雑な心境が思い切り顔に出ている。
隠す、という選択肢を端から除外したようだ。

「さっきからどうした、。俺に言いたい事でもあるんかの」

物言いたげな顔つき、の手本である。
おそらく自己を奮い立たせる為にそれなりの労を要したと思われるが、人影まばらな早朝の昇降口で仁王をそのようにして見詰めていた。睨みを利かせた険しい顔と言い替えても良いかもしれない。

「……雅治こそ、言う事ないの」

だが怒気は感じられないので、困惑と表するのが最も正しいだろう。

「ピヨ。ない」

数拍の間を置き取り出し放った上履きに履き替える。頬から顎にかけてぶつかる視線を感じたが、仁王は悉く黙殺した。
の反応は当然のものである。
会話の途中で口を塞がれたあげく、半ば連れ込まれる形で事に至った。
待っての一言さえ紡げず、細く狭くなるばかりの呼吸を食い荒らされ、どのようなものであっても欲しかったに違いない解はほんのひと粒も得られない。滴る体で抱き合って、語る言葉を放棄し、ただ体温に没していく。
ろくろく心を明かさぬまま帰り着いた各々の家で朝を迎え、おう、おはようさん、平然と挨拶を寄越す仁王と出くわす羽目になった。
何も知らない幼馴染へと視点を寄せればこんなにも理不尽な事はない、確かに同情を覚えるのに、醒めた胸の内はどこまでも傍観者だ。
可哀相に。
最早聞き慣れた呟きが重い暗幕のよう体へ圧し掛かり、膝が折れる一寸前で関係のない感慨が湧き出、身を固くし縮こまらせる幼馴染を無遠慮に眺めた。
薄暗がりで仁王の目を焼いた熱の在り処、お世辞にも淑やかとは言い難い乱れよう、湿潤な唇から漏れたふやけた声、どれもこれもたった一人が発した徴だが、夜が終わると色そのものが変化し、終いには難なく消えてしまう。
いつ見ても不思議だ。
昨夜はああもほぐれ潤んでいたのに、今や模範生徒然とした佇まいで年がら年中制服を着崩す仁王と相対しており、ともすれば楚々として清廉ですらある。それが女という生き物が隠し持つ武器なのか、自体の性質なのかはわからなかった。
雅治、と尚も詰め寄る無謀に苦笑を禁じ得ない。
こうも勝手気ままに振る舞い、素知らぬ顔で居続ける仁王に添おうとする女はの他にいないだろう。もういいと見切りをつけられるか、もしくは最低の一言と共に張り手を食らうか。どんな扱いを受けたとて反論する権利などなく、甘んじて身を差し出すまでだ。好きにしろと許しも乞わずにこうべを垂れ、益々相手の怒りを買う。
そうして幾つかを通り過ぎた不誠実な仁王が、今、笑っている。
薄情な瞼を細め、唇の隅をふてぶてしく歪めた結果、目立つ黒子がやんわり撓んだ。
怪訝に縒れたの眉間は、背の高いロッカーが作る影と近くの窓から差し込む陽光によって彩られている。
場所も時刻も鑑みぬ奇妙な感覚が足裏から這い寄って来、いつぞやの再現を望んだ訳ではないが、除ける為にそっくりそのまま辿る事と相成った。

「む、う!?」

雅治のまの字が零れる前に掬い上げる。

「ちょ…ちょっと、何」

己が顎を掴む右手に両の指を這わせて抗議するかんばせには、以前と同等の羞恥や憤慨の類は浮かんでおらずただ戸惑いのみが乗っていた。
仁王は親指と人差し指、中指の先端で小さな下頬を支えるに留まり、唇にまでは伸ばさない。その所為で幾何か呼吸や会話がし易いのだ、あまりの事態に目を回していますといった様子のが慌てふためく。

「何してんの!?」
「おまんの顎を掴んどる」
「そ、そういう事聞いてるんじゃ…な、いっ、」

身長が生む差で自然と反れる首を何とかしようと試みる、真白い喉と声が波打った。

「もう、やめてよ、意味わかんない……ていうかこういうの、テレビでやってた! お兄ちゃんが見てたプロレスの」
「アイアンクロー」
「あ、それっ…、それ、に、似てる」
「そがいに力入れちょらん。大体利き腕と逆じゃし、痛くなかろ」
「痛くな…い、けど、じゃ、なっく、て、あの、ここ」

昇降口、と懸命に言い連ねる顎骨の線を掴み、上下に軽く揺する。
どこからどう見ても女子相手にカツアゲや乱暴狼藉を働く外道の行いである、わかっていても一度触れた掌を引き戻す意気地は失せている。

「聞こえんのぅ?」

遂にぎょっと目を剥いた少女が、ほんとにヤクザみたいなんだけど、振動に翻弄されつつはっきり言うので仁王の方も枷を一つ外した。

「そーか。んじゃ口開けんしゃい」
「なっ、なんで、そんな」
「今言うたじゃろ。よう聞こえんぜよ」
「雅治が離して、くれた…らっ、いいだけの、話じゃ…」

ばらつく音を掻き鳴らす唇に指で触れる。決して爪を立てず、あたかも細心の注意を払うよう静々と、重ねて丁寧になぞって、自由が利く人差し指で口内へと割り入った。
濡れた頬肉を擦ったのち並ぶ歯の側面を奥から手前の順で撫ぜ、力を籠めれば砕けそうな顎に置いた二本の指を軸とし、ぐいと無理矢理こじ開ける。

「ほれ、あーん」

とんでもない暴挙だ、流石にここまでとは予想していなかったと思しき双眸が限界まで見開かれた。

「ば…ばか!?」

人は信じられない現実を目の当たりにすると却って冷静になるらしい。
莫迦も莫迦、大莫迦モンやきと仁王自身も理解している事実を真っ向からぶつけて来る。
日頃より器用さに欠ける右腕に取り付く一指一指が温かい。
何考えてんの、やめて、雅治、と幼馴染が喚く都度、ぬるい涎と弾力のある舌が仁王の指に絡んだ。それでも噛み千切ろうとしない辺りが、たる所以である。
澄んだ水が張って潤むまなこ、時間の経過と共に紅の差す頬、震えながらも離れていかない細い指先、人差し指の腹で習う、雅治、という響きの形。
全てが仁王を踏み躙っていく。
常ならば息を潜める所を微塵も抑えず放ってみせ、突っ込んだ指一つで唇の内側をいたぶった。は反射的に両目を瞑り、端から涙じみた雫が零れ落ちる。しかしすぐさま瞼の幕を持ち上げ、笑む余裕さえ残しているよう映るのだろう、無体を働く男に向かって抗議の炎を燃やした。
彼女が何事かを口にすればくちゅと独特の水音が鼓膜を抜けて、一度脳を掻き乱しそれから重力に従って下へと降りてゆく。
背中の肌が粟立った。
咽喉は異様に渇きを訴えている。
時に不愉快なくらい、思い通り、が叶うの隙は健在だ。その甘さが腹立たしく、だが喉から手が出る程に恋しい。どうしようもない。
気を抜いた途端にラケットを振るう時以上の力で掴んでしまいかねない、底の底より沸き立つ熱情を抑え奥歯で砕いた。
ひどく労力を必要とする苦行だ、耐え忍んでいるといえばそうだと応じる他ない状況にもかかわらず、仁王の口の端は本人の意志など知った事かとばかりに笑みを佩く。
驚愕一色に染まったの表情を網膜に焼き付けた所で、身の内には何の情緒も生まれない。低く、だけれど一面を焦がす熱が腸に留まっている。
見境なく求め、失う前から追い、一挙手一投足に激しく満たされ、喉を潤す。
誰しもに存在しているはずの境が煙り、わからなくなってしまう。滲んだ境界を恐れるばかりか却って心地よいとさえ感じた。良し悪しについて巡らせるべき思案を捨て、曖昧となった分別ごと抱き込み浸る。
それは純度の高い高揚だった。
(……変態の汚名返上は遠ーいのう)
かつて柳生を絶句させた自己認識をどこか遠くで掴み取る。
例えばに聞いてみたとて、同じ反応は返って来ない。少なくとも紳士を自負する男のように細部にまで渡るしつこい叱責を続けはしないだろう。

と、思い浮かべたと同時、何と連想した張本人が通り掛かった。
部室の戸締りを終え教室へ向かう途だったのだろう。
辺りはあたかも時が停止した空気に包まれる。
拘束を解こうともがくを除く、二人の男が顔を見合わせていた。
相対する柳生の、眼鏡の奥に住む紳士的な瞳とやらは窺えない。窺えないがしかし、開いた口が塞がらないといった様子から察するに、仁王にとって良い方向へ転がらぬ事は明白だ。
アーこりゃまずい奴に見つかっちまったぜよ、よりにもよってこいつとは、独りごちた仁王の耳に、

「…っ手をどけて、雅治!」

いつの間にやら力の緩んだ人差し指を舌で押し返し、顎を反らせたの反撃が飛び込んで来た。
破裂音じみた一声によって似た再び場が動き始めた刹那、血相を変えた規律正しいチームメイトに類を見ぬ勢いで咎められる。詰られもした。あなたは最低の男だ我がテニス部の恥ですとまで罵られた気もする。
誰より思い知っていた仁王は非人間扱いをされても刃向かわず、この上なく尤もな説教を大人しく聞き入れていた。





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