02 暖房が効いていない室内は少しばかり肌寒い。 文武両道の有名私立学生らしからぬ軽さの鞄を下ろし、換気となけなしの陽光を呼び込む為に朝から数センチ開け通しだった窓へ歩を進める。 からからと素っ気無い音と共にガラスをスライドさせ、アルミ製の鍵を回した。 天は学び舎を後にした時と変わらずにどんより濁っており、今にも降り出しそうな雨粒を抱え堪えているようだ。 そう遅い時間ではなく、日の入りまでに間がある時間帯だったが、光の気配はごく淡い。 曇天が齎す陰ばかりが目立ち、冬の日暮れを思わせる。呼吸さえ凍える朝など頼もしい限りである陽射しが死に絶えている所為で、ガラス窓を挟んだ向こう側の世界には濃いも薄いも存在していなかった。等しく薄暗い。 その為、ドア前で立ち尽くしたままのがやけにくっきり映ってしまっている。 半ば鏡と化した自室の窓を通し、何かしら興味を惹かれるものでもあったのか、仁王から見て左側へと傾く瞳をじっと追い掛けた。 初めて招かれたわけでもないのに、どういうわけか幼馴染は常に物珍しげな面持ちなのである。だが、幾度か立ち入ったの部屋でまるきり自宅同然に寛げるかというと、まあまず無理だと白状する他ないのでそういう事なのだろう。 半透明の少女がにわかに体勢を変え、次いで窓際へと眼差しを震わせる手前、仁王は先んじて逸らした。 そのまま何食わぬ顔でカーテンに手を掛け、数瞬思案し、二重の内の薄白いとばりのみを引く。覆えばたちまち窓越しの隣人は掻き消えた。 自室を与えられてからこちら換えた覚えがない垂れ絹は重ねた年月の割にしっかり役目を果たし続けてい、空の低い位置に敷き詰められたぶ厚い雲の所為もあって十分目隠しと成り得る。 念を入れ遮光に特化したもう一枚もレール上を滑らせても良かったのだが、あえて触れずに放っておく。それはそれで気が削がれるからだ。事に至る以前にあまり身構えるのは好きではない。簡潔且つ手前勝手な好悪が所以だった。 「寒いか」 反射機能の失せたガラスに執着せず踵を返し尋ねると、今日初めて話し掛けられたとでも言いたげに目を丸く太らせたが跳ねた肩の上に髪を散らす。左右に目一杯首を振る様は子供じみてあどけない。 胸元辺りで抱えていた荷をそっと下ろし、お邪魔します、と呆れる程丁寧に踏み入って来る人を前に小さく首肯する。 そうやの、どうせすぐあったまる。 皮のすぐ下、肉に添って落ちる返答には色も温度もなかった。 平然と傍に寄れる心境でない事は明確だ、だというに身をひた走る気色の一片が異様に冷えている。よろしくない傾向だと仁王は他人事のよう、またしても傍観者の位置から現状を眺めた。 フローリングの床を滑る迷いが残った足先を横目にしつつ、緩んだ糸に引っ掛かっているだけだったボタンを外し、両肩から袖を抜いて、羽織り慣れたブレザーをサイドチェアの背もたれへ雑に放り投げる。 普段なら皺になるよと口喧しい注進が寄越されるはずなのだが、仁王のような男も見放さぬ当の幼馴染はただただ戸惑っているらしく何の御咎めもない。恐れ、緊張、決まりの悪さ、どれも当てはまらず、身の置き場が定まらない、といった所か。 テニスコート内にて巡らす時より数倍精度が劣っていても把握が叶う、叶ってしまう状況が今は鬱陶しかったが、かといって払い除けられるはずもない。 逃げ出しかけた深い息を殺し、ダイニングのものに比べ些か狭いラグ上、昨夜から放置され通しだったクッションに腰を下ろす。背丈の低いテーブルの下にくぐらせた腕で、仁王は胡坐をかく現在地からやや離れて転がっていたもう一つを引き寄せひょいと投げた。 「ん」 「あ、うん。ありがと」 真意や目的を完全には理解出来ていないだろうに、呆気なく従ったが膝を曲げる。 制服にきっちり包まれた体が若干前へ傾くと、陰影の強い室内で在っても所々に混じる、かそけき光を舐めた髪が静かに舞った。 俯く睫毛に塵に似た灯りの粒が見える。眩しくはない。しかし目を惹くだけの威力があった。 肉付きの薄い瞼を一寸も動かさず、銀糸の前髪の奥から視線でなぞる仁王を余所に、は投げ渡されたクッションへと落ち着く寸前、人のものにまで払う注意力はなくとも流石に問題が己が事に至れば話は違ってくるのか、皺を作らぬ為だろう、尻から太腿の裏部分のスカートを撫で付けながら座る。正座ではないにしろ、無防備に足を放り出さぬ辺りが警戒心の顕れかもわからない。 今更意味があるとは思えんが、ま、好きにしんしゃい。 心の裏で回る本心がやたらと大人しい。 どうしたモンかのと元々の猫背をより曲げて、膝上へ手首を預けた仁王が問う。 「で? 何」 突き放すつもりなど毛頭なかったのだが、震わせた声は予期せぬ低温を纏ってしまった。 あ、と自失の呟きが喉に絡む。ほとんど条件反射的に取り返そうとした仁王の耳朶を、意外な程に冴え冴えとした声が打った。 「…二人で話すの久しぶりだね」 よく響いた音色は断じて氷を含んでおらず、むしろやんわりと丸みを帯びている。 不思議と拍子抜けした仁王は舌の根を唸らせ低く笑った。 「それ、今言う事なんか」 「……違うかも。けど、久しぶりなのはほんとでしょ」 馬鹿正直に応じるに釣られて振り返れば、軽い接触の一つもない期間が長かったのは事実だ。忘れていたなどと逃げてはおらず、見て見ぬ振りに努めてもいないが、指摘を受け初めてしみじみと同意するに至る。 互いの家、どちらか一方にでも家人がいれば部屋での逢瀬は許されないし、たまの機会があっても仁王は仁王で部活や遠征に忙しい。 そもそも自身が一定の距離を保とうとしていたのでは、と非難がましい女々しさへ移行していく胸の中身に嫌気が差し、自戒で揺り戻した。 過去に言及された直後、有無を言わさず封じ激しく抱き込んで、果ては多数に目撃されてもおかしくない場で口に指を突っ込んで来る、そんな男に近寄りたいと一体どこの誰が思うのか。 こいつ、よう部屋まで来たのう。 素直に感心する。 それに、仁王もこれまでの経験などたかが一秒だって思い返さないという本音を告げず、無闇に避けていたのだからを責められやしない。 あくまでも不信を抱かれぬ程度ではあったが、積極性を持って会いには行かなかった。 放課後の居場所など大体の見当がつくからこそ上手く躱す事が叶い、朝見たきり顔を合わさぬままやり過ごす方法に日々委ねる。 時折、訴えかける眼差しとすれ違いもしたけれど、両目だけで制した。 答えんぞ。 思いを籠めたわけではない、しかしは黙秘権を行使されたと取ったのだろう、微かに頷くのみ。 都合が良いようでその逆だ、悪過ぎる。特に仁王にとっては不都合だらけのとんでもない女、まさしく悪魔の称号が相応しい。 喧しいのは柳生が放つ抗議の目や柳の好奇心に溢れた視線くらいで、だがそれすら、せからしか、と気のない素振りで鬱陶しがれば幕切れだ、彼らもああ見えて深追いをする質ではないし、幼馴染の少女を如何に騙すか張り巡らせる思考の網と比較してしまうと瑣末事である。 曲芸師の如く綱渡りを続け、ただの一人にも委細を悟らせず掻い潜って、日一日と深まる季節の温度に迷う。 そうこうしている内に期末考査期間へ突入し、エスカレーター式にもかかわらず高等部進学の際、真面目に受験勉強とやらに励んだはこれまた真面目に試験勉強に取り組み、テストが終わるまで諸々を自粛する傾向があった為、面と向かって話をするのは約一ヶ月ぶりかもしれない。 気付くが早いか、実感が質量を咥えにじり寄って来た。 イコールで繋がる先は、声を耳にするのも久方ぶり、の一点だ。 右の人差し指がぴくと勝手に震え出す。 目の前の女の舌がどのように柔らかかったのか、再生される過日に背筋はみっともなく張り詰めた。 ともすれば呼吸の根まで掴みかねない鮮烈な体感が骨を軋ませ、したくもない慰めの滑る熱、ほんの一瞬で冷えていく心に対する失望、だというに尚も乞う浅ましさ、ありとあらゆる情動の全てを仁王に突き付けて来る。 自然と項垂れる姿勢になった仁王は左膝に肘をついて、頬と顎にかけてを肉刺が出来た掌へと預けた。 首元からぶら下がっていたネクタイが準じて傾き、垂直となった生地の先が胡坐をかいた足裾に当たって縒れる。視野外での出来事なのに感覚で察知してしまう程、鋭敏になっているのだ。 重力に逆らえず下向く目先で、座ったの触り心地もすべらかな膝小僧を捕らえる。 校内でいくらでも行き来している制服の端。 スカートの折り目毎に極限まで薄い影が纏わり付き、仄かに淡く浮かぶ腿のライン上にはほっそりとした手の甲が置かれてい、爪はつやつやとして綺麗だ。握る度ぞっとする細さの手首が、ブレザーの袖口の下に隠されている。 不意に息が詰まった。 遅々とした瞬きを二度三度繰り返したのち、落ちて沈む一方だった目線を剥がしてみると、室内の暗に包まれながらも見知った形を保つ幼馴染と目が合う。 余程仁王のそれが強くまたたいていたのか、気圧された風の口元が慌ただしく動いた。 「な、なに?」 「……いや」 ままごとを楽しむいとけない仲でもあるまいし、ただ向かい合っているだけの今が不自然に思えて仕方ないのだと、言葉にした所で正しく通じる気がしない。 語るより数段雄弁な沈黙が、冬枯れめいた室内を徐々に支配する。 微細な塵のささめきすら表皮に刺さって疎ましい。 元から遠かった陽の光が刻一刻と失せていき、やがて行き着くであろう先は人知及ばぬ暗然たる空洞だ。 世界の全部が死んだみたいに音が絶えていると仁王は独りごちた。 であれば、今、座して見詰めるや自分は何処にいるのだろう。死んでいるのか生きているのか、夢か幻か現実か。 馬鹿馬鹿しい夢想が脳を乱しては欲望ごと理性の柱へ埋め込もうとし、許されたいと欲した激情も鎌首をもたげ滴り始める。 ちゃんと話がしたい。 あるようでない極小の光を反射する少女のまなこは、愚直なまでに一筋を訴えていた。 物言わずして語り、仁王のどろついた部分を引き摺り出そうとする。 熱いとも冷たいとも感じぬ自らの肌を撫でた末、左手をうなじへと持っていった仁王は、そこで再び視線を外した。 答えを差し出すのは簡単だ。 二択しかないのだし、いとも容易く仁王の言を信じるであろう幼馴染の、望む回答を用意してやったって良い。 詐欺師の手腕を発揮すれば、絡んだ糸とて楽に解けるのかもしれない。 無駄に時間を費やしたからといって解決する問題でもない、いたく理解しているのにどうしても声が出なかった。 NOと首を振ればたちまち鮮やかな偽言の出来上がり、しかしかといって肯定が呼び込むのは色好いものでなく、尋ねておいて顔をひしゃげるに違いないの涙だ。 こちらが打ち出すいらえに彼女がどうするか、どうなるか、何にしろ仁王は耐えられる気が全くしない。 心やすく安堵の笑みを向けられても、昏い感情に揺らぐまなこで見詰められても、常と変わらず不熱心を装えるか否か。想像すら叶わなかった。一歩手前で無惨に躓いて軸がふらつく。 取り返しのつかない過日を理由に離れられでもしたら、今度こそ手酷い方法を取ってしまいそうで怖い。 さりとて無邪気に心を預けられた上で寄せられるであろう信頼が快いか、喜べるかというとおそらく違うのだろう。 簡単な一言をこそ言葉にしない。 ――お互いに、である。 言わず通しで来、言わぬままでも成り立った。 無関心に似ているようでその実、一番近い他人だった。 口に出さず長くを過ごしたお陰で、試せばどうという事もないものと思われるシンプルなやり方が選べない。 そんな事は心を通わせる前に散々惑うた回り道で知っていたはずなのに、同じ筋道を異なる気持ちで通ってしまっている。 が幼馴染であってもなくても、ひとまず一段踏むべきだったのだ。速度や踏み締める力の強さ、時期、互いのタイミング、ばらついていようと何だろうと構わない、飛び越えて戻れなくなるよりはずっとましだった。面白くはないかもしれないが、本来あるべき形とはそういうものだ。 だけれど幼馴染という付加価値が難を許し、甘えを甘えとして捉えずに受諾する。 自ずと得たわけでもない、強烈に望んだりはしなかった、しらずしらず気を許していた相手。 それが良くなかった。 後悔はしていないが絶対に良くなかった、と思考の枠へひびが入る。 「…………あの、怒ってる? だったらごめん」 どこかで聞いた、いつぞやを彷彿とさせる台詞に応じる気力がなかった。 また、その気もない。 流れる感情は目まぐるしい変化を遂げているのに、どうしてか飽きもせず延々繰り返してしまう。 仁王は緩く首を横に振り、両の指先をしきりに組んでは落ち着かせようとしている様子の、可哀相で可愛くて仕様がない幼馴染へと目を遣る。 すかさず左腕を伸ばし、白皙の頬を撫ぜ、ひやりと冷たい髪に触れたのち、小さな耳を掌で包んだ。 驚く暇もなかったらしい頼りない肩が跳ねる。 は仁王に触れられた側の右目だけを瞑り、僅かの間にか細い息を吸った。 静寂へ染みる響きである。ものの数にも入らぬさやかな音だというに存在感は凄まじく、だけれど決して喧しくはない。 些細な仕草の一つも見落とせぬ仁王は意志を含ませた親指に耳殻をなぞらせ、肌と髪の境からうなじの辺りまでを後の四指で軽く押し、殊更優しくひと撫でした。 だらりと腑抜けていた右腕で記憶と違わずほっそりとした手首を掴み、思うまま肘を後ろへ引けばぬくい体温が実にあっけなく凭れ掛かって来る。 衣擦れの短い音に気付いたのは行動を起こした一瞬後だ。 己が肉体の仕業のはずが自覚は追いついてこず、訳さえ考えられない。考えたくもなかった。どれもこれもこの期に及べば些々たる違和感である。 よろけたの硬さの見当たらぬ掌が腿に触れ、たったそれだけの事なのに全身がざわめきやまない。 体の奥からせり上がる予感が背に甘く重く、案の定魘されてしまい、指先の芯は冷えていても外側から燃え溶けていくようだった。 慣れ親しんだいつかに似て、されども思い出とは重ならぬ、時としてひどく胸を刺す香りを心持ち遠ざける。 見えない心臓の在り処すらここだと互いに指し示せる距離で視線が絡んだ。 薄闇に抱かれる女は仁王が作り出した影によって一層より濃く匂い立つ。 光を遮られた双眸がうろたえ、それでも尚此方を真っ直ぐ見詰め、一途に呼び澄ます。 雅治。 押し留める手立てなど最早存在していない。 ← × top → |